反対声明文

反対声明文

昨年5/29に、神保町の教育会館で集会を行ったときに配布した
「アピールの会」のメンバーによる反対声明文です。

青木雄二
(漫画家)
朝倉喬司
(ノンフィクション作家)
有田芳生
(ジャーナリスト)
井上ひさし
(作家)
魚住昭
(ジャーナリスト)
大谷昭宏
(ジャーナリスト)
桂 敬一
(東京情報大学総合情報学部・教授)
乙骨正生
(ジャーナリスト)
最相葉月
(作家)
齋藤貴男
(ジャーナリスト)
崔洋一
(映画監督)
佐野眞一
(ノンフィクション作家)
澤地久枝
(作家)
芹沢俊介
(評論家)
田島泰彦
(上智大学教授)
武田徹
(ジャーナリスト・評論家)
田中康夫
(長野県知事)
田原総一朗
(評論家)
永江朗
(フリーライター)
久田恵
(ノンフィクション作家)
日名子暁
(ルポライター)
福田文昭
(カメラマン)
宮崎哲弥
(評論家)
宮崎 学
(作家)
宮台真司
(社会学者)
森永卓郎
(経済アナリスト)
安田好弘
(弁護士)
吉岡 忍
(ノンフィクション作家)
吉田司
(ノンフィクション作家)

■青木雄二(漫画家)

「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」「いやいや……」学生は手を振った。余程のショックを受けたらしく、唇を震わせている。言葉が吃(ども)った。「国民の味方だって? ……いやいや……馬鹿な!――国民の味方でない帝国の軍艦、そんな理窟なんてある筈があるか!?」これは小説「蟹工船」の中のほぼラストの乗組員達の会話であります。ソヴェト領カムチャッカの領海に侵入して、蟹を取り、そして罐詰にするための蟹工船は、老朽化したボロ船。そこに季節労働者として雇われてゆく、百姓、抗夫、漁師、建設労働者、学生、貧民街の少年等が過酷な労働にたえかねついにストライキにまで発展。しかし蟹工船を護衛していた駆逐艦から銃剣を擬した水兵が乗り込んできて、自分達の味方だとばかり信じていた乗組員が逮捕され、駆逐艦に護送されてゆくまでの物語であります。このプロレタリア作家、小林多喜二は、昭和八年、東京築地で特高に検挙され、その日の内に拷問のすえ虐殺されました。「個人情報保護法案」は過去の暗い歴史に逆戻りする危険性を多分に含んでおり断乎反対しなければなりません。

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■朝倉喬司(ノンフィクション作家)

個人の情報を保護するのだという。しかしいったい何から、どのような攻勢、侵犯から「保護」しようというのか。法がそこで標的とみなしているのは何なのか。そこのところがきわめてあいまいである。あいまいであることは恣意的な運用の余地が大きいということである。その点と、もうひとつ、法のいう「保護」の名のもとに、肥大化した権利主張が横行する“光景”なども遠望される。この法律はよろしくない。反対する。

つけ加えておくと、私は、基本的にはやはり法の「保護」を前提にしている「言論の自由」という概念より、書くという立場に純一に立脚した「自由な言論」という言葉の方が好きである。今は亡き竹中労のレトリックであるが。

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■有田芳生(ジャーナリスト)

「あなたの個人情報を保護しましょう」と言われて「いや結構です」などという者は、そうはいないだろう。そこに落とし穴がある。「個人情報保護」という美名を梃子(てこ)に強権的に取材を押さえ込むことが可能となれば、一般的な「個人」の知る権利は実体として失われ、「巨悪」から「小悪」までが高笑いする社会が到来する。

私が危惧するのは、政治家との癒着がさらに深まることだ。都合の悪い事情を書かれそうになったとき、政治家を動かして取材者に規制をかけることが可能になるからだ。いまでもそんな事態はままあるが、それが常態化する社会は異常だ。

ことは政治や経済界だけの話ではない。芸能問題しかり。芸能タブーに犯されているマスコミの現状。大手芸能プロと政治家との関係も深い。ここに法的規制が動きはじめれば、さらにコントロールされた情報ばかりが流通する。大衆文化の世界にまで政治が介入するならば、社会の腐敗はさらに進行するだろう。ジョージ・オーエルが書いた『1984年』の世界は、いま私たちの眼前に訪れつつあるのではないか。

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井上ひさし(作家)

 去年(注2000年)、イギリスの、最高裁のような高等法院である判決が出た。『アンネの日記』は後世の偽作で、アウシュヴィッツはポーランドが戦後作った虚構の遺跡だ。そういうことが延々書いてある本を巡っての裁判の判決です。その判決文が傑作なんです。「あったことをなかったことにしてはいけない。なかったことをあったことにしてはいけない」と。
 最近、この国に、あったことをなかったことにする、なかったことをあったことにするという、大きな黒い意思が流れている。それに対抗するには、あったことはあった、なかったことはなかったと、僕や澤地さんの世代が若い人にわかる表現で、しかし程度を落とさずに世の中に提出していくことが一番大事だろうと思っています。

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■魚住昭(ジャーナリスト)

各分野の提携を

改めて言うまでもないことだろうが、今の日本は「鵺(ぬえ)のような全体主義」(辺見庸氏の言葉)に覆われようとしている。私は最近、司法の取材をしていて、それを痛感させられた。何とかしなくちゃ、この国の自由は窒息させられてしまう。

そう思うのだが、有効な手段がなかなか見つからない。何しろ撃つべき相手が「鵺」のようでとらえどころがないためだ。この際、いろんな分野の人が連携し「鵺」の正体について話し合ったり、情報交換したりしたらどうだろうか。メディアだけでなく司法や政治、教育、文化、各種の労働現場……。

実は知り合いの弁護士やライター仲間とそんなゆるやかな絆の抵抗運動の話を少しずつ進めている。主な通信手段はインターネットである。たぶん今回の「言論封殺法案」に象徴されるファシズムの潮流に危機感を持っている人は相当たくさんいるはずだ。案外大きな力になるのではないか。

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■大谷昭宏(ジャーナリスト)

社会部記者時代、あちこちの国々に取材に入った。そんな中、一部の共産圏の国々、極端な独裁国家、軍事政権下の国では必ず現地の特派員から「本社に電話送稿はまず盗聴されていると思って下さい。それから、許可のない取材をした場合は拘束されたり、取材メモやフィルムの提出を求められることがあります」と、定番のように注意を受けたものである。

そして、帰国してついた社会部の席、ここでは盗聴されている恐れもない。官憲がいきなり踏み込んでくる心配もない。思い切って伸びをしたものである。

その後、私たちが訪れた国々では、日本のような自由さと、民主主義を求めて、どれほどの人々の血が流れ、命が奪われたことか。

なのにいま、なぜ、私たちはそんな不自由な国に逆戻りする道を選ぶのか。なにゆえに、子供たちに、孫にそんな息苦しい社会を残すのか。いま、この先、子供たちに誇れる国を残せるのか否か、そのことが問われている。

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■乙骨正生(ジャーナリスト)

ドイツのプロテスタント牧師、マルティン・ニーメラーの詩に次のようなものがあります。

ナチスがコミュニストを弾圧した時 私は不安に駆られた
が、自分はコミュニストではなかったので 何の行動も起こさなかった
その次、ナチスはソーシャリストを弾圧した 私はさらに不安を感じたが
自分はソーシャリストではないので 何の抗議もしなかった
それからナチスは学生、新聞人、ユダヤ人と 順次弾圧の輪を広げていき
そのたびに私の不安は増大した が、それでも私は行動に出なかった
ある日ついにナチスは教会を弾圧してきた そして私は牧師だった
だから行動に立ち上がった が、その時はすべてが あまりに遅過ぎた

独善的で排他的な体質を持つ特定の宗教団体が政治権力と結び付き、批判者、対立者を激しく攻撃している今日の日本。私は、個人情報保護基本法案の提出を受けて、いま、この詩を噛みしめています。

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■桂 敬一(東京情報大学総合情報学部・教授)

多くの市民的な先進国と同様、日本でも市民社会の発展を目指して、情報公開法、個人情報保護法、データベース規制法、政府から独立した人権救済機関、性・暴力等の表現に関する倫理維持システムを、国民的合意のうえに急いで確立していく必要がある。それらは本来、行政に授権するのではなく責務を負わせる法制度として、あるいは市民の自律的な運営に委ねられる社会的規制システムとして、実現されるべきものである。ところが、いま日本では、これらの法制度や規制の仕組みが、名前こそ先進国のそれらと同じ表現をとるものの、実質は、学者の無節操、マスコミの不勉強、国民の市民性の欠如に乗じた狡猾な行政によって、政府の権限の無際限な肥大化を許す法制度として、なにごとも政府の有権解釈に委ねられる国家規制システム―「良民」をお上にすがらせるシステムとして、実現されようとしている。このままの事態の進行を許すことは、日本国民の名折れであり、恥辱である。私たちはとりあえず、政府が実現を画策する個人情報保護法なるものをうち砕き、その勢いをもって、情報公開法の大改革、真の人権救済機関や自律的メディア倫理制度の確立、さらには「電子政府」政策に対応した、情報・コミュニケーションの市民的な自由と安全を確保する法制度の構築へと、前進していく必要がある。

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■最相葉月(作家)

法案の目的には「高度情報通信社会の進展に伴い個人情報の利用が著しく拡大していることにかんがみ」、個人情報を適切に取り扱い、個人の権利を保護するためだとある。もっともである。ここ数年の電子商取引における個人情報の漏洩・濫用は多分に問題を引き起こしてきた。また、ヒトゲノムが解読されたことによって、個人だけではなくその血縁にも影響を及ぼす究極のプライバシーともいえる遺伝情報が医療現場で有用な価値をもつ時代にもなり、私は主にその角度から法案を見守っていた。個人情報が濫用された場合の被害は甚大であり、それを防ぐためには厳格な規制が必要なのは確かなのだ。

ところが、蓋をあけてみると、いつのまにか言論封殺の手段にもなりかねない悪法へと変貌している。目的と結果がこれほど乖離した法案があるだろうか。まずこのねじれの背景を明らかにすべきだ。憲法二十一条で保障された「表現の自由」の深刻な危機である。

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■齋藤貴男(ジャーナリスト)

この法案の内容が審(つまび)らかになってからというもの、ふと立ちつくしてしまうことが幾度もあった。仕事をしている時。家族や友人と談笑している時。こんな自由な時間は、もう永遠に失われるのではないかという恐怖に囚われるのである。

だってそうだろう。要するに、権力に刃向かうジャーナリストは投獄するという法案なのだ。成立して施行されれば、政治家や官僚、大企業の経営者らに関する取材は大幅に制約される。メディアはやがて、一切の抵抗も諦めるようになっていく。

チェック機能が封殺されれば、権力は暴走する。この国に住む人々は、彼らに奉仕するためだけに生存を許される生き物に貶(おとし)められよう。国民総背番号化への計画や盗聴法など、ハイテク監視技術が伴う分だけ、戦前の治安維持法の下でよりも、表現や言論への介入が強まる危険なしとしない。

絶対に潰さなければならない。

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■崔洋一(映画監督)

 だいたい法律なんていうのは「未来を見つめて作った」なんてものはほとんどない。現状固定、それが基準! とするならば現状がグラついたら新しい法律を作って(権力にとって)余分なもの、つまり、決して味方でないもの、もしくはそういう方向にやがて変質するであろうものに網をかけてくる……それがこの法案だろ?
 都合が悪くなると表現、これを彼らは叩く。それに対しては……まったく個人的なことだけど本当は戦いなんかしたくないんだよ。実は野音のこのステージに立つとだいたい恐怖感に陥るんだ。客席にいたときも、こっちに上がったときも、もうロクなことがなかった……。でも、ちょっとロクなことに今日はなるかなと。

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■佐野眞一(ノンフィクション作家)

「個人情報保護法」の“適用除外項目”にフリージャーナリストや雑誌を加えろという運動は、国家に土下座して「鑑札」を貰うに等しい奴隷行為なのでこれには組しない。私は次の三つの理由から「個人情報保護法」の廃案を求める。杜撰で悪辣で時代に逆行する法案の成立は、言論の危機にとどまらず、日本と日本人が国際的笑い物になることに等しい。

  1. 個人の言論を最も多く管理しているのは、いうまでもなく国家や行政機関である。これらに対する当然の開示請求権が明示されておらず、むしろ免責されている。
  2. 情報取り扱い業者についての明確な規程がなされていない。本格的なIT時代を迎え、この法案が一番の問題とする「情報取り扱い業者」になる可能性が誰にもある。
  3. 俗耳に入りやすい「報道被害」の問題を故意にないまぜにして、明らかにメディア規制を図ろうとしている。これは砂糖をまぶした巧妙な言論封殺法である。
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澤地久枝(作家)

 忘れてはいけないことはたくさんあると思います。でも、今の日本のありかたを見ていると忘れさせよう、忘れさせようとしている。忘れるということは白くなることみたいですが、逆にそこへ違うものを持ち込まれつつある嫌な世の中だなと思います。先に生きてきた私たちの世代から、若い人たちに経験や記憶がきちんと伝わっていくといいなと思います。
 今の日本の社会はびくびくして発言しなくてもいいはずだし、昔のように捕まって拷問されたり死ぬこともない。ただ、この言論の自由は天から降ってきたわけではない。守らなければ奪われる。それを知っておく必要があると思うのです。

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■芹沢俊介(評論家)

個人情報保護法案に反対する

「個人情報保護法案」のようなものが出されることに気持ちの悪さを感じます。そしてこういう法案が提出される背景に何があるのかが気になります。私には強い被害者意識があるように思えます。それを実感したのが先頃の少年法「改正」問題においてです。「改正」する根拠が薄弱であるのに、九〇%の「改正」賛成の世論があった。国家はこの草の根まで浸透した被害者意識を背に強引に「改正」にもっていったのです。被害者意識の意味するのは、民主主義社会に不可避的に存在するリスクを引き受けたくないという責任回避の姿勢であり、国家が自分を守ってくれることへの期待です。しかもマスメディアは被害者意識が草の根まで浸透するのを煽ったのです。このたびの「個人情報保護法案」に関して私は一個の書き手として反対します。それと同時に、草の根の被害者意識を背にして行うマスコミの「正義」の論調にも警戒感をゆるめていません。

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■ 田島泰彦(上智大学教授)

こんな悪法を作らせてはならない!

今回の法案はいんちきな代物以外の何ものでもない。私たちに関する膨大な個人情報を扱っている肝心な権力に対して規制を加えず、逆に規制を加えてはならない自由であるべき表現活動やメディアに広く厳しい網をかけ、官の監督下に置こうとしているからだ。

義務規定の除外が認められて満足しているメディア関係者たちも少なくない。しかし、免除されるのは「報道機関」が「報道の用に供する目的」で取り扱う個人情報だけで、これ以外の広範な情報について主務大臣の命令や罰則に裏打ちされた厳格な規制にメディアは服することになる。それに、本人情報の開示や訂正、適正な取得などを内容とする基本原則はジャーナリスト、メディアはもちろん、すべての市民に適用される。取材現場に萎縮をもたらし、悪い権力者たちに格好の武器を与えることは必定である。

「自分たちも免除の仲間に入れろ」などと権力におこぼれを求めるのは止めて、こんな悪法を断じてつくらせないために全力を注ぐことが求められていると思う。

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■武田徹(ジャーナリスト・評論家)

あらかじめ悪かったものが更に悪い方向に変わる――、そう感じる。個人情報漏洩で社会に被害を与える可能性が最も高いのは警察や自治体だ。が、法案はそれらを相手取らずむしろ報道を縛ろうとした。それでは権力に対する報道のチェック能力が殺がれ、警察や自治体が個人情報を流用・漏洩する動きに歯止めが効かなくなる。しかも報道の中でも新聞・放送をさっさと適用外にした。記者クラブや許認可権で制御できる報道機関のみ取材を認めるのは、報道が権力にすり寄る悪しき構図を今以上に強める結果にもなろう。

しかし出版社やライター主導の現状の法案反対運動には違和感を感じないでもない。出版系ジャーナリズムやフリーの仕事にも、いかなる社会性を持たない、単なる暴露趣味の報道が含まれていた。ただしこれも、振り返って自らの姿勢を正すことなく反対行動に走らせるほど、今回の法案に対する深い危機感があったということだろう。

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田中康夫(長野県知事)

 個人情報保護法の運動には佐高信から櫻井よし子まで名前を連ねているわけだから、これはもうイデオロギーを超えた運動。人間の運動だということです。大体個人情報保護法という名前が、役人がつけたのか政治家がつけたのか知らないけど、羊頭狗肉という言葉にすら値しないくらいに卑劣な用法だねえ。はっきり言えばいいじゃないですか。「記者クラブ制度保護法」って。
 そうすると「『脱・記者クラブ』宣言」をだした長野県としては、個人情報保護法改め「記者クラブ保護法」というのができたときにはどうすればいいんですか?「『脱・記者クラブ』宣言」をだしたから個人情報保護法をもってきたか!という感じで闘志が湧いてまいります。

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■田原総一朗(評論家)

プライバシーが保護されるべきは当然だが、この法案には隠された狙いがある。

政治家や官僚、特殊法人や企業の不正、スキャンダルを追及するには、内部告発など、明らかに出来ない取材源が必要であることがきわめて多い。それを明らかにしなければならない、となれば事実上追及は不可能になる。新聞社や放送局は、例外扱いされるようだが、雑誌、そしてフリージャーナリストの取材は完全に縛られる。逆にいえば新聞や放送は大したことはやらないと、随分とみくびられたものだ。新聞よ、テレビよ、本気で怒れ。それにしても、法律をつくる側、つまり“権力”にからむ連中たちを、雑誌ジャーナリズムから遮断して守る。こんな意図みえみえの法律をつくらせるわけにはいかない。断固として!

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■永江朗(フリーライター)

気をつけよう、甘い言葉と暗い夜道。「個人情報保護法案」のなにがいやかって、それがとことん甘い言葉でできていることである。個人の情報を悪い人から保護してあげましょうっていうんだから、こんなけっこうなことはない。でも、その個人って誰なのか、情報ってなんなのかは、この法案のどこにも書いてない。少なくともホントのところは隠されている。素直に「雑誌取締法案」とか「報道禁止法」とか「政治家保護法」とか「汚職隠蔽法」とかって名乗ればいいじゃねえか。それを、面と向かっては反対しにくい「個人」だの「保護」だのって言葉をまぶしたところが気に入らない。適用除外の対象について、曖昧な線引きをしているのも気に入らない。ようするに反対しそうなヤツらを分断してやろう、という意図が透けて見える。言論弾圧だ! と反発すると、「何を大げさな」と思う人もいるだろう。でも、法律をつくれば必ず拡大解釈したがるやつらが出てくるんだから。

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■久田恵(ノンフィクション作家)

この法案を耳にした時、自分の人生を否定されたようないいようもない怒りを覚えた。今まで、書くという「自由」を胸に抱え、大切にして仕事をしてきた。私は主に市井の人々の生きる姿をルポしてきたが、そんな作品でもこの法律を遵守すれば、書けないことばかりになる。フリーランスのライターの存在を無視したなめきった法案だ。権力が、憲法で保障された表現の自由に干渉するということは、個々の価値観、思想信条にまでも国家が介在してくることにつながる。表現活動における国民相互の評価、批評、批判の自由は民主主義の根幹であり、それを安易に公的権力にゆだねるようなことは、決して許してはいけない。自己表現を抑圧された世界で、果たして人々は希望を感じることができるだろうか? 未来を思うことができるだろうか? そんな日本を私は後世に残したくない。

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■日名子暁(ルポライター)

「ちょっと話を訊かせていただきたいのですが……」とソフトな口調で所轄署から連絡がある。警察体験がないと半ば恐れながら出向く。そこで用件を告げられる。たとえば、名誉毀損としよう。さり気なく「まあ、こういうことは当事者どうしで話し合っていただければ済むことなんですが、訴えがなされた以上、私どもも仕事ですのでお話をうかがわないわけにはいかないものですから」と切り出し、あたかも参考意見を訊くように、事情をすべて聴取する。終ると「ありがとうございました」と丁寧に送り出す。これにて一件落着かと安心していると、本庁から呼び出しがかかる。こんどは一変して身柄を拘束される。事情は全て所轄署で述べているのでいいわけはきかない。これは最新の事例である。とにかく、いかがわしい匂いのするものを管理し、排除しようというのが国だ。「個人情報保護法案」が成立すれば、まず、このケースのような弱い組織、個人が“見せしめ”のために逮捕される。それは私でもあり、あなたである。

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■福田文昭(カメラマン)

「個人情報保護法案をぶっつぶせ!」というFAXが来た。「あんたが一番につかまるよ」と。こりゃ名誉なこと。久しぶりに私の出番が来たか、血が騒ぐ。

「取材相手の許可なしには情報収集もできなければ、書くことも許されない」と法案には高らかに。一切の一切の批判は許さないぞとすごんでいる。権力者から満面の笑みがもれる。完璧だ。ぱちぱち。

すぐピンと来た。
「女房には全く頭が上がんないしなあー」
「愛人はちっとも黙っててくんないしなあー」
 本当にひどい目に会ったよなあー」
“ノーパンしゃぶしゃぶ”ゴッコで憂さをはらしながらかなわぬ夢を得意気に練り上げた数人の官僚や政治家の本音が見えてしまう。

いくら法律で助けてもらおうと画策しても、女房のお尻は重くなるし、愛人の復讐も鋭くなるばかり。法律も過ぎたるはなお及ばざるが如し。ゴーマン、フリンなエリート官僚にブレーキはきかない。

内閣官房内政審議室個人情報保護担当室長の藤井昭夫氏。'48年、神奈川県生まれ。金沢大学院法学部卒。
'73年行管庁入省。

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■宮崎哲弥(評論家)

雑誌ジャーナリズムが存亡の危機に瀕している。個人情報保護法なる「汚職醜聞情報保護法」が成立しつつあるのだ。

IT化の進展に伴って個人情報の大量収集可能性や利用価値が高まり、それにつれて、自分に関する情報の保護やコントロールについての不安や危機感が募ってきているのは事実である。確かに、この国のプライバシー関連法制の整備が非常に立ち遅れている。悪知恵だけはよく回り、国民の「良識」を信じない一部の為政者、法吏はこいつに目をつけた。奴等は「個人情報保護」を謳う法律の中に、マスコミ報道を縛る内容を密かに滑り込ませたのだ。

同法において規制の対象とされる「個人情報取扱事業者」には新聞、テレビといった大手の報道機関から個人のジャーナリスト、作家、マンガ家、研究者、カメラマン、評論家まで含まれてしまう。

もしもこの法律が成立し、厳格に適用されるようなことになれば、取材活動、調査報道に厳しい枠が嵌められることになる。

あー、要するに『週刊ポスト』も『週刊現代』も『文藝春秋』も『FRIDAY』も『FOCUS』も『噂の眞相』もその他その他も、お上に楯突いたり、悪徳権力者に唾のひとつも引っ掛けてやろうとすればお縄ちょうだいを覚悟しなければならんってわけですね。こりゃ、ホント戦前に逆戻りだな。

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■宮崎 学(作家)

この法案の直接的な問題性については、多くの方々が発言、指摘しているので私は、官僚がこの法案を考える際に拠った思想について思うところを記す。

根底に流れるのは、どうしょうもない差別思想である。

週刊誌,月刊誌などの雑誌は、「あってはいけないもの」と言う思想である。

それでは、何故「あってはいけない」と考えるのか?

それは、自分達官僚が営々と築き上げたものを守るために飼っている自民党を揺さぶるこれらの雑誌は許す事のできない存在であり、すでに記者クラブ等を通じてコントロールが完結している既成の新聞やテレビ、ラヂオは放置してもなんら問題はない。飼い犬としての自民党を批判するものに網をかけると言う全くの自己防衛的思想である。国民のプライバシーをまもることなどにかけらほどの関心はない、まもろうとするのは、飼い犬のスキャンダルである。このことによる最終的な利益を享受できるのは官僚である。社会を防衛するためには、こうした雑誌やそれに携わるフリーのジャーナリストなどという官僚とは対極にある感性の持ち主の存在そのものに刑事罰の網をかけてしまうことである。

私はこの官僚の思想に、「伝統的」なこの国の全体主義の系譜を見る。

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宮台真司(社会学者)

 これはもともと改正住民基本台帳法ができたときに公明党が出したバーター法です。「行政の持っているデータについて国民がチェックする自己情報訂正権自己情報閲覧権を保証する法律を作るならば、危ない法律も賛成する」ということで、この名称が初めてみなさんの耳に届いたはずです。ところが、内閣官房の役人の点数稼ぎで、時の権力の中枢にいる人間にとって極めて都合のいい内容の法案が、国会に上程されました。行政ではなく民間のデータベースをチェックする法律になり、なおかつ民間の個人情報取扱事業者に誰が入るか分からない、いまだに不明確な状況です。
 破防法と同じく“抜かずの宝刀”的な形で多くの人間を威嚇するために使われる可能性が高いんですが、非常に強力な法律です。「1000人以上のデータベースを持っている者を規制する法律だ」などと言われていますが、法案に明記してあるわけではありません。運用改変がありえます。
 行政の恣意によって、個人情報のデータベースを持っているウェブ管理者が、たとえば、ハッキングを抑止できなかったとして不作為犯で挙げられる可能性があります。

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■森永卓郎(経済アナリスト)

70年前の悲劇を繰り返すな

日本経済を深刻な不況が襲っている。70年ぶりのデフレ経済は、構造改革という名の経済引き締めで、今後恐慌に発展するかもしれない。経済が疲弊すると、必ず現れるのが独裁者だ。世界恐慌の1930年代、ドイツで、イタリアで、日本で、そしてアメリカでさえファシズムが台頭した。苦しいときには皆、強いリーダーを求める。しかし、その強いリーダーが必ず行うのは厳しい言論統制、思想統制なのだ。

先進国のなかで日本だけがデフレに陥ったということは、もしかすると日本がファシズムの先頭を走っているのかもしれない。個人情報保護法は、ジャーナリズムの自由を奪い、国民を愚民化する。それを未来の独裁者とその取り巻きは、陰で喜んでいる。

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安田好弘(弁護士)

これは意図的に未熟な法律です。私もいろいろと法律を見る機会があるわけですが、これほど乱暴で、杜撰で曖昧で、しかし国家意思や政策目的がはっきりしている法律はない。極めて高度かつ確信的な意図によるものだろうと私は思います。
 報道機関は確かに規制対象から排除されています。しかしその条文を読んでみると、報道機関にあっては自主規制をしなければならないという「強制」が担わされているわけです。
 率直な話をしますと、ジャーナリスト、あるいはマスメディアの少なくとも6割以上の人たちにとって、おそらくこの法律は益にも害にもならないだろう。むしろ利益になる法律かもしれないと私は思います。しかし、国家や政府、官僚を批判する者、あるいは多数にくみしないジャーナリストやメディアにとっては確実に足枷となり手枷となって統制される法律だといえるでしょう。

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■吉岡 忍(ノンフィクション作家)

「改革」が流行っている。

構造改革。財政改革。政治改革。行政改革。金融改革。産業改革。教育改革。しかし、こう朝から晩まで、カイカク、カイカクと聞かされると、なんかちがうなー、という気分に私はなる。

なにがちがうか?

ふと見わたせば、改革を叫んでいるのは、昨日まで、その改革の対象を守り、せっせと担ってきた連中ばかりではないか。たんなるスローガンとしての「改革」が人気取りになっていやしないだろうか。「雌伏(しふく)」とか「面従腹背」ということもあるから、いちがいに全部ダメ、とは言わないが、それでもどこかおかしい。

個人情報保護法案も、IT革命を追い風にした改革のひとつだろう。データの収集と活用がビジネスはもちろん、効率的な社会管理にも欠かせなくなった今日、なんらかの個人情報保護の規則が必要になった事情もわからないではない。

しかし、くり返し批判してきたように、個人にかかわる情報をもっとも保有しているのは民間の事業者ではなく、公的機関である。戸籍や住民票、収支や納税額からはじまって、学校の成績や非行歴や逮捕歴、病歴や介護の必要度まで、公権力が保有する個人情報は多岐にわたる。ところが、当の個人は学校の内申書ひとつ、自由に閲覧できないし、間違いを指摘し、修正させる権利も保障されていないのである。なによりもまず個人が、公権力のふところ深くにある自分に関する情報にアクセスし、管理する権利がなければならないのに、法案はそこには立ち入らずに、民間事業者ばかりを取り締まろうとする。

ここにある家父長的権威思想が、私は気にくわない。

いや、法案作成にたずさわった官僚たちと話していて感じるのは、彼らがその傲慢さに気づいていないばかりか、まるでよいことをやっているとすら考えていることの、気味の悪さである。この国に暮らす個人一人ひとりは、そうやって保護してやらなければならない無力な存在なのだ、と言わんばかりの態度に、私はうんざりする。

考えてみれば、あらゆる改革が、今日、同じ物腰をしている。同じように、一人ひとりの個人のため、国民のため、という顔つきをしている。

これから何年、何十年もかけて、私の国も変わっていくだろう。私の国の人間のあり方も変化していく。たしかにいまは、大きな変化のとば口にいる、と私も思う。

しかし、その過程があいかわらず社会というものを烏合の衆の集まりと見なし、管理しなければいけない、保護しないとどうなるかわからない、という思想に覆われていくさまを、私はいささか絶望的な気分で眺めている。

一人の人間を責任と権利の主体としてきちんと把握しなおさなければならない。それが原則だ、と私は思う。権利の主体としての人間の側面をそぎ落とし、責任と義務ばかりの檻に閉じこめる個人情報保護法案に、だから私は反対する。

「改革」が流行っている。

そういうものが流行ってもかまわないが、その騒々しさのなかで、原理原則が押し流され、忘れられていく様子こそ、また再びの火の玉集団主義、護送船団方式、金魚の糞状態である。私はそういうものに、背を向けたい。

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■吉田司(ノンフィクション作家)

ネットバブルがはじけたと思ったら、今度は<政治バブル>の時代の到来だ。田中康夫の“市民と目線を同じ”にする車座集会や脱ダム・脱記者クラブ宣言が<市民革命>的手法と最上級に格付けされて高価を呼び、小泉首相の脱派閥宣言やハンセン氏病被害者の「涙・涙・また涙……」の救出劇が、“国民と目線を同じ”にする<国家変革>のはじまりでもあるかのように政治市場を沸騰させている。

≪革命と変革≫への“期待値”だけで、株価=支持率はうなぎ昇り。軒なみ80%を突破した。それは去年の2月、<ベンチャー革命>の旗をかかげた孫正義のソフトバンクが、実体のない「虚業」と言われながら、最高値株価19万8100円をつけた頃と大差ない。

われわれは冷静になろう。小泉政権の“実体値”は、憲法違反または極めて市民抑圧的な性格をもつこの『個人情報保護法案』の中にあるのだと。この法案がもつ“治安維持法”的本質を国民の前に明らかにし、バブルをバブルとして葬り去らねばならないと思う。「失われた10年」の後に発生したその国民的≪革命と変革≫願望を、絶対に、あの大衆熱狂型「独裁」政治=首相公選制の創出につなげさせてはならないからだ。

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