「改革」が流行っている。
構造改革。財政改革。政治改革。行政改革。金融改革。産業改革。教育改革。しかし、こう朝から晩まで、カイカク、カイカクと聞かされると、なんかちがうなー、という気分に私はなる。
なにがちがうか?
ふと見わたせば、改革を叫んでいるのは、昨日まで、その改革の対象を守り、せっせと担ってきた連中ばかりではないか。たんなるスローガンとしての「改革」が人気取りになっていやしないだろうか。「雌伏(しふく)」とか「面従腹背」ということもあるから、いちがいに全部ダメ、とは言わないが、それでもどこかおかしい。
個人情報保護法案も、IT革命を追い風にした改革のひとつだろう。データの収集と活用がビジネスはもちろん、効率的な社会管理にも欠かせなくなった今日、なんらかの個人情報保護の規則が必要になった事情もわからないではない。
しかし、くり返し批判してきたように、個人にかかわる情報をもっとも保有しているのは民間の事業者ではなく、公的機関である。戸籍や住民票、収支や納税額からはじまって、学校の成績や非行歴や逮捕歴、病歴や介護の必要度まで、公権力が保有する個人情報は多岐にわたる。ところが、当の個人は学校の内申書ひとつ、自由に閲覧できないし、間違いを指摘し、修正させる権利も保障されていないのである。なによりもまず個人が、公権力のふところ深くにある自分に関する情報にアクセスし、管理する権利がなければならないのに、法案はそこには立ち入らずに、民間事業者ばかりを取り締まろうとする。
ここにある家父長的権威思想が、私は気にくわない。
いや、法案作成にたずさわった官僚たちと話していて感じるのは、彼らがその傲慢さに気づいていないばかりか、まるでよいことをやっているとすら考えていることの、気味の悪さである。この国に暮らす個人一人ひとりは、そうやって保護してやらなければならない無力な存在なのだ、と言わんばかりの態度に、私はうんざりする。
考えてみれば、あらゆる改革が、今日、同じ物腰をしている。同じように、一人ひとりの個人のため、国民のため、という顔つきをしている。
これから何年、何十年もかけて、私の国も変わっていくだろう。私の国の人間のあり方も変化していく。たしかにいまは、大きな変化のとば口にいる、と私も思う。
しかし、その過程があいかわらず社会というものを烏合の衆の集まりと見なし、管理しなければいけない、保護しないとどうなるかわからない、という思想に覆われていくさまを、私はいささか絶望的な気分で眺めている。
一人の人間を責任と権利の主体としてきちんと把握しなおさなければならない。それが原則だ、と私は思う。権利の主体としての人間の側面をそぎ落とし、責任と義務ばかりの檻に閉じこめる個人情報保護法案に、だから私は反対する。
「改革」が流行っている。
そういうものが流行ってもかまわないが、その騒々しさのなかで、原理原則が押し流され、忘れられていく様子こそ、また再びの火の玉集団主義、護送船団方式、金魚の糞状態である。私はそういうものに、背を向けたい。
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