01.06.20 第二声明(議員会館)

個人情報保護法案拒否!
共同アピールの会
【第二声明】

私たちは今国会で審議・採決されると見られてきた「個人情報保護法案」に反対し、廃案を求めてきた。

きょう(6月20日)現在、伝えられるところでは、政府与党は今国会における審議入りを断念し、秋の臨時国会での成立を目指すことにしたという。

一時的とはいえ、私たちとその他の機関・個人の掲げた反対主張が一定の社会的な力を得て、この法案成立のブレーキとなったことを誇りとしたい。

しかし、次の国会で審議される本法案が、その骨格も条文もそのままである以上、なお私たちが強く廃案を求めつづけることは言うまでもない。

率直に語りたい。

当初、私たちは「個人情報保護法案」の問題点を、おもに出版ジャーナリズムや組織に属さない表現者の活動を極度に制限するものとしてとらえてきた。

この批判は、むろんいまも当てはまる。

そもそも近代民主主義社会の基本的理念であり、憲法にも明記されている言論・表現、報道・出版の自由をその活動の根拠とする表現活動と、各種名簿やデータベースを利潤追求の道具とする商業活動とをいっしょくたに「個人情報取扱事業者」として一括し、法的な規制を課すことには本質的な無理がある。

その無理を承知で、法案を作成し、法制化しようとしてきた政府与党の意図のうちに、私たちは、政財官界の癒着、職務怠慢、汚職、スキャンダルの報道を抑え込み、報道それ自体をコントロールしたいという政治的願望を読みとってきた。

こんにち、もっとも多くの個人情報を保有しているのは公権力である。

個人情報保護をうたうのであれば、なによりもまず、個人がこれら公権力の保有する自己情報にアクセスし、その範囲と正確さに関与できる権利と仕組みが確立されなければならない。

ところが、そのような権利や仕組みなどどこにもないままに、「個人情報保護法案」は民間の表現活動と商業活動の「基本原則」を一律に示し、それに沿うような努力を強い、こまごまとした規則を掲げ、主務大臣らが違反と認定した場合には刑罰を科すという。

私たちがこの法案を、表現の制限・封殺、表現の危機としてとらえたのは、このような理解からだった。

くり返すが、この理解と批判は、いまも有効である。

だが、この法案の法制化に反対する運動のなかで、私たちの思考はさらに深まった。

なぜ政府与党、法案作成に当たった官僚らは「個人情報保護法」の成立に向けて異様に躍起になるのか。

組織メディアからであれ、個人の表現者からであれ、このような法案が強い反発を受けるだろうことがわからなかったはずがない。

事実、私たちばかりではなく、報道・表現にかかわる団体やグループがいっせいに反対と批判の声明を発し、世論に訴えた。

にもかかわらず、強引に法制化しようとする意図はなんなのか。

私たちの社会はいま、大きな転換期を迎えている。

構造改革、IT革命などのスローガンが共通に示しているのは、この社会がなにかからなにかへと向かって変わらなければやっていけない、という危機意識である。

ここに「個人」と「情報」がかかわってくる。

これまでの日本に色濃くあった集団主義、組織重視、横並び主義、護送船団方式が破綻しはじめたこと、むしろその非能率や停滞が足かせとなっていることは、だれしもが指摘する。

ある集団、ある組織は改編しながら、生き残るだろう。

また別の集団、別の組織は解体されるだろう。

このような遠心力の働く社会にあって、一人ひとりの個人はこれまでの帰属先を失い、これまであった紐帯をなくしていく。

だが、別の見方をすれば、この一人ひとりの個人は、情報のかたまりでもある。

戸籍や住民票からはじまって、学歴、病歴、所得、銀行の入金出金記録、通行記録、電話の通話記録、インターネットの接続先履歴まで、あらゆるデータを引きずっている。

これらのデータの集積が、その人物の個性、アイデンティティー、存在証明となる。

こうした時代と社会の到来は、いまだれの目にも見えている。

ばらばらな、しかし、無数の情報のかたまりでもある個人と、このような個人の集まりである社会との関係を、どう築いていくか。

法案推進の事務方の一人が口にした言葉が、私たちの耳に残っている。

「産業界からは『個人情報の取り扱いのルールを早く決めてくれなければ、マーケティングやビジネスに使えない。早く法制化してくれ』という声がたくさんきています」

ここでは、「個人」と「情報」と「公権力」と「産業」との関係をどうするのかが問われている。

私たちが迎えている転換期とは、この課題を解くことと同義である。

私たちは私たち自身にかかわる情報を自分で管理する権利と仕組みを早急に実体化し、作り上げることが大切だ、と考える。

本来あるべき個人情報保護法とは、まさに個人が権利と責任の主体として生き、暮らすことを可能にするものでなければならない。

それこそが日本の民主主義と市民社会を発展させ、充実させるというのが、私たちの考えである。

しかし、今秋の国会で審議され、採決されようとしている「個人情報保護法案」にはそのような視点はいっさいない。

そこにあるのは、報道・表現の規制を通じて公権力全体の安寧と安泰をはかり、無数の個人情報を公権力が一元的、一方的に保有し、管理し、支配するという構図である。

私たちはここに、「個人情報保護法案」の字面を超えた、権力というものの本能的危機意識と野心を読む。

ふたたび言う。

私たちは「個人情報保護法案」に反対する。

私たちは「個人情報保護法案」の廃案を求める。

  2001年6月20日