衆議院法制局も唸った傑作なのだ!(でも長いのでDO YOU 覚悟?)
ただ反対反対と訴えるばかりでは、なんだかなあーってことで、じゃあ、どういう個人情報保護法を作るべきなのかということもアピールの会では考えてみることにしました。

まあ、いくつかの野党は対抗法案を作ると言っていましたし、そんな動きもあったのですが、全然出来てこないので、シビレを切らして取り組んでみたわけです。

1年間この問題に関わってきて問題点がよりクリアになってきたからこそ生まれたものです。えー、ちょっと長いので嫌になるかもしれませんが、現法案の問題点とともに、あるべき法案の姿が分かっていただけると思います。担当したのは吉岡忍。衆議院法制局も唸った傑作です!

以下は3月26日、衆議院第二議員会館にて発表いたしました。
(サンデー毎日2002.4.21号に全文掲載)
個人情報保護法制に関する表現者の「マニフェスト」
 小泉内閣は「個人情報保護法案」の審議・成立を今国会でこそ、と勢い込んでいる。今般あらたに「行政機関の保有する個人情報の保護に関する法律案」も追加上程した。私たちを含む各方面からの批判にさらされ、前回、前々回の国会では審議入りすらできなかった法案と、それを前提とした追加法案を持ち出してくる厚かましさに、私たちは辟易とする。その底にある魂胆に、きな臭さを感じ取る。

 個人情報それ自体の重要性とその保護の必要性について、私たちは深く認識している。一人ひとりの個人に関する情報を誰が、どう管理するのかという問題は、現在の個人のありよう、それらを収集・蓄積・活用するテクノロジーの展望、取扱事業者の態様、個人と社会と世界の関係など、多方面の洞察を含むものでなければならない。

 ところが法案は「個人情報の利用が著しく拡大していることにかんがみ」「個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護することを目的とする」(第一条)とそっけなく述べたあとに、実質的には「個人情報の取扱事業者の義務等」(第五章)を羅列するばかりで、驚くばかりの知的摩耗をあらわにしている。

 あらゆる分野、成人か未成年かも問わない老若男女すべてに網をかける法案を提出する者たちのこの怠惰と強引さが、意図せざるものだったとは私たちは考えない。個人といい、情報といい、さらには表現という、おそらくは二十一世紀の帰趨を左右するキー概念を簒奪しようとする権力的意志の蠢動を、ここであらかじめ指摘しておきたい。

 私たちはいま、良くも悪くも戦後の日本社会を駆動してきた企業社会と地域社会が崩れていくさまを目撃している。個人はむき出しとなり、その個人を同定するものが出生地、生年月日、現住所、学歴、職業歴、病歴からはじまって、所得、納税、買い物、ローン、通話通信、インターネット接続などなどの個人情報だけとなる現実に入り込んでいる。

 しかも政府が主導するインフォメーション・テクノロジー(IT)の中核をなす電子技術の開発応用は緒についたばかりであり、この間にもいささかの社会的合意を得ないままに、究極のプライバシーともいわれる遺伝子情報を集め、盛り場をゆく群衆の姿をとらえ、鉄道駅や道路への人々の出入りを記録し、走行する自動車のナンバーと運転者の顔を識別しつづけるなど、一人ひとりの個人とその自由を監視し、介入する技術的可能性を高めている。

 私たちはこのような個人を取り巻く社会環境の変容と、電子技術がそれ自体のダイナミズムにしたがって突き進んでいくテクノロジー増殖に敏感でありたい。また近代的概念としての個人とその人格、個人の自由の行使が各種データとなって外部化し、行政機関や営利事業者のもとに着々と収集・蓄積・活用されている現実を見落としたくないと思う。

 しかし、法案は、これらの個人情報が当該個人の人格権に属すことを明言しないばかりか、わざわざ「個人情報の有用性」に着目し、さながらそれらがあらたな「資源」であるかのごとく探索と採掘と収奪を鼓舞する内容となっている。

 先に私たちが、権力的意志の蠢動と呼んだのは、このような個人情報のとらえ方に、企業社会と地域社会の崩壊のあとにむき出しとなった個人個人を掌握しようとする統治手法の台頭を見るからである。またその権力を支える経済社会を個人情報という「資源」へと誘導しようとする意図を読み取るからである。

 過去も現在も、おそらくはこれからも、こうした種類も、収集・蓄積・活用の仕方も多種多様な個人情報をもっとも大量に扱っているのは行政機関である。歴史は、いかに権力が、つまり行政機関が危険人物、厄介者と見なす人物を特定し、隔離し、無害化し、消し去ってきたかを物語っている。個人情報をどのように保護するかという問題の最初の課題は、行政機関と権力のふるまいをどう制御するかにあったし、いまもある。

 だが、このたびの「行政機関の保有する個人情報保護に関する法律案」には当の機関の行動を監察する第三者機関の設置はおろか、罰則規定すら明記されていない。「民にきびしく、官に甘く」「行政は無謬」と言わんばかりの時代錯誤と夜郎自大に、私たちは唖然とする。

 他方、戦後日本がモデルとしてきたアメリカは9・11とその報復戦争以降、国家および国民の結束を政治的に作り出し、国際秩序の統合に乗り出している。経済のグローバリズムを権力のグローバリズムへと拡大深化させようとする動きはEUやアジア諸国の反発を生んでいるが、にもかかわらず日本政府はいち早く同調した。

 こうした国際的緊張を背景に、強力な国家を形成し、その国家が強い権限を振りかざして社会一般を取り締まり、もって弱々しい国民を保護してやろう、という父権温情主義的権力像が再び頭をもたげている。思えば、歴史に一度も寄与したことのないこの権力像のデマゴギーは、個人情報保護法案を貫く露骨なイデオロギーでもあった。

 私たちはもうこの種の甘言にまどわされない。9・11以後のアメリカの主要なメディアが国家のプロパガンダ機関に成り下がっているあいだ、少数とはいえ個々の市民がインターネットや手紙や電話を通じて真実を語っていたことを知る私たちは、こちらの情景にこそ個人と情報と表現にかかわる未来を見たいと思う。

 同じことは日本も経験した。治安維持法や国家総動員法を通じて政府の統制下にあったマスメディアが何をしたか。これらによって作り出された社会的風圧がどれほど多くの日本人を狂わせ、正気の少数者を苦しめ、それに何倍する人々を殺傷したか。過去の悪夢と思われた惨状が、二一世紀最初の年のアメリカ社会に再現された事実を、私たちは見逃さない。

 法案が、もろもろの義務規定を「適用除外」すると恩着せがましく言うような「放送機関、新聞社、通信社その他の報道機関」の「報道の用に供する目的」(第五十五条)の仕事だけが表現ではない。仮にここに出版活動や、作家とフリーライターの仕事が含まれるとしても、これらだけに表現の自由を閉じこめてはならない。

 一人ひとりの個人がアイデンティティーと自己の個人情報との密接さに気づく一方で、電子技術が個々人の表現の可能性を急速に拡大していく今日、表現一般を「報道」のみに切り縮め、表現者を「報道機関」の枠内に矮小化する法案の持つ統制色はいっそうあらわになる。

 個人こそが表現の主体なのだ。近代の基本理念であり、日本国憲法にも謳われる思想・信条の自由、報道・表現の自由、学術・研究の自由、結社・信教の自由を支えるのは、何よりもまず個人が他者に向かって何ごとかを表現し、働きかける主体であり、いかなる強権も表現主体としてのこの個人を侵犯してはならない、という原則である。

 だが、個人情報保護法案は何と言っているか。

「この法律において『個人情報取扱事業者』とは、個人情報データベース等を事業の用に供している者をいう」

と法案は言い、のちに政令で定める一定数以上の個人情報を収集・蓄積・活用している者すべてが、年齢にかかわりなく当てはまるとし、その「事業の用」が営利目的であるかどうかも関係がないと説明されている。

 言い換えればこれは、あらゆる個人がこの法の網にかかるということに他ならない。ノンフィクション作家やフリーライター、実録ものを得意とする小説家は、ほぼ自動的に個人情報取扱事業者になる。個人が千件単位の名簿を活用したり、メールマガジンを発行すればもちろん、一定数以上のホームページ閲覧リストをパソコンに蓄えることも、この法案の適用範囲に入ることになる。これでは多少おおがかりな結婚式や葬儀を執り行うとして、おちおち記帳をしてもらうことも危なくなるという心配も、あながち杞憂と笑い飛ばすこともできなくなる。 

 あらゆる個人を事業者と定義する、そのことによって法律が関与できる口実を作ってしまう。しかも、ことは、人間のアイデンティティーや思想・信条・研究・信教などの、生きるということそのものの表現にますますかかわる個人情報である。そのもっとも繊細な分野に、法律が入り込んでくる。法律が、法律を執行する権力が、踏み込んでいくことを可能にする。

 私たちは悪い夢を見ているのではない。個人情報保護法案がそのような危険なものだと指摘しているにすぎない。

 なぜこのような無謀なことが起きてしまうのか。個人情報を保護しなければならない、と考えて法案作成にあたった者たちの善意を精一杯信じるとするなら、問題は、法の作り方そのものにある、と私たちは考える。

 個人情報保護法案は、個人情報を包括的・一元的に保護しようとする包括法の考えに基づいている。万民に当てはまる基本原則を建て、そこから導き出されるこまごまとした義務規定をあらゆる分野のすべての機関と個人に課す、というものである。法史学的には、これはローマ法を継受した大陸法の流れを汲んでいる。

 だが、強固な中央集権国家を早急に作り上げるという時代的要請から生まれた包括法の考えが、今日の個人情報保護の法制作りにふさわしいかどうかの検討は、公開されている関係委員会の議事録を見るかぎり、十分になされていない。まして日本の国家主義がもたらした惨禍の分析と教訓の抽出、昨今のナショナリズムの台頭、グローバリズムの変質、電子技術の急激な展開と個人情報の活用をビジネスチャンスとうかがう産業の動向、公職にある者らの広範な腐敗等々が、法の執行にいかなる影響をおよぼすかが議論された形跡は皆無である。

 法律は動いている現実のなかで機能するものである。権力や権力に近い者の恣意を全面的に排除することがむずかしい法律の立案・立法・執行にあたっては、その捕捉する範囲を合理的に、かつできるだけ限定することが望ましい。事実、大陸法のその後の歩みは個別法を基本とした英米法との折衷に向かい、双方の「法の支配」の一般化に寄与してきた。

 個人、アイデンティティー、その外部データ化としての個人情報の氾濫、そして、それらを収集・蓄積・活用する電子技術のめまぐるしい発展という事態はたしかに新しい現実ではあるが、これに浮き足だってはならない。性急に全体を、万民を捕捉し、義務規定を課そうとすれば、それは民主主義を萎縮させ、破壊することにしかならない。個人情報保護法案はその危険性をはらんでいる。

 個人は自己に関する情報をコントロールする権利を有すると同時に、多様な表現を通じて、他者の個人情報に関与する存在でもある。あらゆる人間が、個人情報の保護を訴える者でもあれば、他者のそれの収集・蓄積・活用を求める者でもあるという両義性を抱え込んでいる。一方で個人がますますむき出しになり、他方で電子技術が表現の手段や形態を飛躍的に増幅していくとき、この矛盾は社会的諸集団のあいだでばかりではなく、一人ひとりの内部においても鋭くせめぎ合うものとなる。

 私たちはここで生じる葛藤を怖れない。ここから生まれてくるものが、やがて個人と社会と世界とを結ぶあらたな関係を作り出していくと信じるからである。ただし、ここから実りあるものを生みだすためには、この葛藤の場が、誤解を恐れずにあえて言えば、無法の地帯にあるのでなければならない。個々人のさまざまな表現を縛り、規制する法や制度のあるところでは、活気ある活動も、ひいては活力ある民主主義も育たない。

 だが、父権温情主義的権力を装う法案は、ここで奇妙な自家撞着に陥っている。いったんは万民を個人情報取扱事業者と定義しておきながら、「その取り扱う個人情報の量及び利用方法からみて個人の権利利益を害するおそれが少ないものとして政令で定める者」を「除く」(第二条3の五)とある。

 この「量」についての政府関係者の説明は「千件単位」「二、三千件」「五千件程度」と、何の合理的根拠も示せないまま二転三転しているが、彼らが力説する個人情報保護の重要性からいえば、問題は「量」ではなく「質」のはずである。たとえば個人情報を不正不当な手段で取得してはならないと謳うのであれば、問うているのは保有個人情報の多寡ではなく、不正不当の中身でなければ筋が通らない。

 私たちは、だからこの条項をはずせ、と言っているのではない。そうではなくて、ここにこの法案が、万民に網をかぶせたあとで「除外」「例外」とかさねていく包括法として作成されたことの無理矛盾が集約的に露呈していることを指摘しているのである。

 私たちの理解が間違っていないのだとすれば、小泉政権がめざす「構造改革」は単に社会制度を変えるだけではなく、個々人が自己の判断においてのびのびと活動し、失敗は失敗としていさぎよく引き受け、みずから責任をとる社会的気風を作り出すことをも目指しているはずである。むしろこのような風通しのよい個人主義と、一人ひとりの個人に対する信頼感と楽観が広まらなければ、真の構造改革には至らないと言うべきである。 はたしていま上程されている個人情報保護法案は、この政権がめざしているものと合致するだろうか。万民にいちように網をかけ、万民を疑わしき者と見なす法案の姑息さと陰険さに、私たちは構造改革をその内部からむしばんでいく者の正体を見る。政権の度量もまた、ここでは試されているのだと言っておきたい。

 私たちは「個人情報保護法案」の廃案を求める。

 ここに述べたことを、私たちは、法案の全容が明らかになった昨春以来、くり返し指摘してきた。字句の修正や言い換えなどでは糊塗できない本質的なゆがみと、民主主義社会を破壊する危険性が、ここにはある。個人や個人情報のとらえ方、個人を取り巻く社会環境や電子技術の変化の見通し、民主主義社会における法の内容と形式の組み合わせ方など、どれをとっても旧態依然か、そうでなかったら身も蓋もない権力欲に満ちたものである。

 くり返し言う、私たちはこの「個人情報保護法案」の廃案を求める。

 その上で、私たちはひとつの提案をしたい。

 あくまでその上で、私たちはまったくあらたな、「個人情報保護基本法」の制定を提案する。

 その考え方の根本にあるのは、個人にこそ自己の個人情報を管理する権利があることの確認と、個人情報の保護のための法律が、今後ますます多様に展開されるであろう表現活動を制限するものであってはならないことの明言と、それを保障するために包括法ではなく、個別法の法形式を採ることの三点である。
 
 私たちの提案する「個人情報保護基本法」は、以下の各項目を内容とする。

一 この基本法は、個人と個人情報をめぐる近年の社会環境、国際環境、技術環境に激甚な変化が起きていることを認識すると同時に、個々人が個人の尊厳に由来する人格権に基づいて、自己に関する情報を管理する権利を有することを明記し、個人情報取扱事業者が個人情報を取り扱うにあたって、その旨を尊重するべきとの理念と基本原則を示すものである。

二 この基本法で言う「個人情報取扱事業者」とは、国や地方公共団体等の行政機関と、各業法に基づく事業を行なう民間事業者を指し、義務規定等は、この基本法にのっとり、国や地方公共団体等については既存の「行政機関の保有する電子計算機処理に係わる個人情報の保護に関する法律」の改正により、また民間事業者についてはそれぞれの事業内容と実情に応じたふさわしい規定を、各業法に付加するなどの改正によって定めるものとする。

三 この法律の解釈と運用については、以下の二点を明記する。
 1 個人が当該個人情報を管理する権利を有するとの理念に基づいて解釈・運用されなければならないこと。
 2 この法律を、日本国憲法の保障する基本的人権に由来する諸自由に基づいて行なわれる行為を制限するものとして解釈・運用してはならないこと。

四 個人情報保護の基本原則については、以下の七点を明記する。

 1 利用目的による制限
   個人情報は、その利用の目的が明確にされるとともに、当該目的の達成に必要な範囲内で取り扱われなければならないこと。

 2 適正な取得
   個人情報は、適法かつ適正な方法で取得されなければならないこと。

 3 正確性の確保
   個人情報は、その利用の目的の達成に必要な範囲内で正確かつ最新の内容にたもたれなければならないこと。

 4 差別の排除
   個人情報は、その内容に不当な差別的取り扱いを助長し、または助長するおそれのある事項を含んではならないこと。

 5 安全性の確保
   個人情報の取り扱いにあたっては、漏洩、滅失または毀損の防止その他の安全管理のために必要かつ適切な措置が講じられなければならないこと。

 6 透明性の確保
   個人情報の取り扱いにあたっては、本人が適切に関与し得るよう配慮されなければならないこと。

 7 国際的移転の制限
   個人情報の外国への、また外国からの移転にあたっては、当該外国においてこの法律と同一または同程度の個人情報の保護措置が講じられている場合でなければ、その移転がなされないようにしなければならないこと。

 私たちはこれまでそれぞれに一人の個人として、また広い意味での表現活動にかかわる表現者として、政府が国会に上程した個人情報保護法案の問題点を指摘し、批判し、反対の活動をくり返し、廃案を求めてきた。ここに費やした労力と時間は膨大だが、それにもかかわらずつづけてきたのは、個人情報の保護という緊急の課題が私たち自身が生き、暮らしている現実と未来に深く、全面的にかかわってくるからである。

 しかし、そのための法律を作るという作業は私たちの手を離れ、実際的には立法府にゆだねられる。

 私たちができるのは、ありうべき法律について議論し、知恵を出し、洞察した結果を明らかにするところまでである。そして、私たちはいま、ここに、私たちができることをし、なすべきことをなすものとして、私たち自身の「マニフェスト」を公表する。これが立法に携わる国会議員をはじめ多くの人々の議論を呼び、よりよい法律を作り出すために資することを、私たちは期待する。

二〇〇二年三月
(起草) 吉岡 忍