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里屋和彦の『エネルギー学講座』



(2003/01)

Vol.35 原子力業界の大分裂(2)
日本における原子力業界の大分裂について、その主要な論点について考察していく。

まず最初に長い間日本の原子力政策の中心であった「再処理・プルサーマル政策」について、その推進派に分類される、核燃料サイクル開発機構の河田 東海夫氏の基本論調を日本原子力学会のHPより紹介する。

(引用はじめ)
再処理・プルサーマルを推進すべきか否かの議論は、そもそも我が国の原子力が長期的にどういう方向を目指すべきかという根本的議論の一部として行われる必要がある。その根本的議論とは、我が国はいわゆる3E問題、あるいはトリレンマ問題に対しどういう最適解を見出そうとするかの議論である。

筆者は、「この問題解決ため、我が国のみならず人類は遠い将来にわたって原子力を使いつづける必要がある」と考える。化石燃料の有限性と地球環境問題(特に温暖化問題)、そして再生可能エネルギーへの現実的期待度を考え合わせると、そう結論せざるを得ない。

20年前、国民投票で2010年までに原発全廃を決めたスウェーデンは、その後の20年間で原発を廃止できるほどの大規模代替発電手段を見出せなかった。1999年末に1基を止めたものの、その穴埋めは、海外からの電力輸入に頼るしかなかった。そうした現実の中スウェーデンは、6月の議会で2010年の全廃期限を撤回し、今後産業界と協議しつつ、より現実的な停止期限を模索するという方針を承認した。

原発全廃の方向性と、再生可能エネルギーへの期待を一応堅持しているものの、実態としては脱原発は容易でないという現実を認め、国民投票で描いた夢想を一歩現実に引き戻した施策といえる。反原発派の人々が長年模範としてきた国において、こうした変化が起きている。

人類は遠い将来にわたって原子力を使いつづける必要があるとするのであれば、ウラン資源を最大限効率的に使うリサイクル技術が不可欠となる。

現在の軽水炉におけるウランの利用効率は0.6%でしかなく、この利用方法では経済的なウラン資源は数十年で枯渇してしまい、長い将来にわたり人類に貢献できるエネルギーとはならない。米国の直接処分政策に関し、フランス人は「米国人は、車の灰皿がいっぱいになると車ごと捨ててしまう」と批判する。的を得ていると思う。
(日本原子力学会HP 誌上討論「プルサーマルと再処理問題を考える」より)
(引用おわり)

河田氏は、以上の基本論調の下、推進側からみた大きな論点として以下の2つの問題をとりあげている。

(引用はじめ)
先ず第1には、先のH12原子力長期計画では、もんじゅ事故、アスファルト事故、JCO臨界事故と3つの事故後の極めて強い逆風下で改訂されたため、H6原子力長期計画までにあった、原子力の本命としての高速増殖炉サイクル技術の実現に向け、官民協力して努力し、そこに至る第1ステップとして軽水炉再処理やプルサーマルを推進するという構図が崩れ、高速増殖炉サイクル技術は、不透明な将来に備え、将来のエネルギーの有力な選択肢を確保しておくとの観点でその研究開発を続けるという位置にまで後退したことが挙げられる。

その結果として、軽水炉再処理やプルサーマル推進の意義に関しては、高速増殖炉サイクル技術への橋渡しとしての役目は色あせ、ウラン資源消費の節約のみが目立つことになり、しかもその節約量は飛躍的ではないために、長期貯蔵(究極的には直接処分)との関係での単純な市場経済論にもとづく比較論に追い込まれてしまっている。

H6原子力長期計画までは、究極の高速増殖炉サイクル技術への橋渡しとしての位置付けがしっかりしていたことから、プルサーマルは、使用済燃料直接処分よりコストは若干高くなることを認めつつ、長期的視点に立って取り組むという姿勢がより明確であった。現在はこうした長期的視点が実態として希薄になってしまった上、最近は電力自由化が追い討ちをかけているため、市場原理一色の目でしかこの問題を見ることが出来なくなっているように思える。

第2の問題は、民間事業者を取り巻く経営環境の変化である。62年長計以降民活路線が定着し、下流側の燃料サイクル事業の推進についても地元対応を含め事業者側の自主的な経営に大きく委ねる形になったが、再処理事業については海外の先行例に比べ予想以上に初期投資が膨れ上がってきたという事情や、事故・不祥事の連鎖により地元対応の敷居が益々高まり、そのことによる原子力界全体の有形無形の負担が増加したという状況が見て取れる。こうした状況に、バブル経済の崩壊による経済失速や電力自由化の荒波が覆い被さって来ていることから、燃料サイクル事業を自ら積極的に推進することへの民間事業者の意欲が後退してきている。

従来長計では、各実施機関の役割まである程度踏み込んだ議論が行われ、その中で十分でないにしてもある形での官・民役割分担議論がなされてきた。しかし最新のH12長計策定の際には、21世紀を迎える長計として理念を明確化することに重点を置き、個別の機関の役割分担議論に深く踏み込まなかった。

そのため、原子力を取り巻く状況に大きな変化があったにもかかわらず、新しい状況の中での官・民の役割分担議論をきちんとする機会は失われてしまい、事業者側に、国のセキュリティを含む政策実現の一部を担わされながら、経済的負担と地元対応責任を過大に背負わされているという不満が生じてきているように思われる。

総合エネルギー調査会で行なわれている電力自由化の議論で、最近電力業界は、自由化の範囲を家庭用を含むすべての需要家に広げる、いわゆる全面自由化を容認する意向を打ち出したが、初期投資が巨額で、その投資回収に長期間を要する原子力発電は自由化の中で生き残れるのかという問題が浮上している。

もし市場原理のみを正とし、その延長線上でのみ電力自由化を推進するのであれば、投資リスクの高い新規原発の建設は敬遠され、再処理等バックエンド側の燃料サイクル事業はお荷物としか見なされなくなるであろうことは想像に難くない。今後電力完全自由化の議論では、原子力との両立をきちんと議論していただく必要があるが、それは下流の燃料サイクル事業のあり方も視野に入れた議論である必要がある。

その議論の中で、原子力に関し、市場原理からはみ出す部分をどんな形であれ認めるのであれば、それは将来世代を含む公共の利益のために必要という理由にほかならず、したがってその負担は何らかの形で国、すなわち国民に求めることになると思われる。それは長計の場で十分議論されなかった、新たな状況下での官・民役割分担議論に等しいのかもしれない。
(同上HPより)
(引用おわり)

以上は極めて簡潔に論争の問題点がまとめられており、熟読玩味する価値がある。
(続く)


2003/01/26(Sun) No.01

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