急性心筋梗塞からの生還記録

内藤明亜が「急性心筋梗塞」で倒れました。 東京医科大学病院の武田先生(執刀医)と第二内科の佐々木先生(主治医)の監修を得て、以下にその記録を公開します。その心配のある方は、熟読下さい。

【 全体構成 】

1999年11月6日 1999年11月7日 1999年11月8〜9日 1999年11月9〜10日 1999年11月11〜30日
  • 一般病室(リハビリ)【未】
1999年12月1日
  • 退院検査(心室細動と電気ショック)【未】
1999年12月2〜8日
  • 一般病室(退院まで)【未】
2000年7月31〜8月4日 2001年4月16〜20日

 発端(発作) 

1/6(土)1:00p.m.からテレビ朝日の取材があり、わたしはわたしの事務所で依頼人と共にTVカメラの前にいました。
数日前から左の胸の奥に痛みを感じていたのですが、この日はどうにも我慢ができないほどの痛みになっていました。発作というほどのものではありませんでした。発作という言葉が当てはまるのは夕べの痛みで、この日はその発作に較べればやや落ち着いているようでしたが、痛みは強いものがありました。
秘書の中川由美香に「救心」を買ってきてもらい(初めての経験でした)、数粒口に含んでみましたが、胸の奥の痛みに全く変化はありませんでした。
中川にわたしの痛みを伝え、どこか近くの病院を確保するように頼みました。中川はいくつかの病院に電話して、わたしの症状を伝えてくれました。その結果がメモでもたらされたのですが、「当事者から電話をするように」「早く病院に来るように」と記されていました。
取材をそそくさと済ませ中川のメモに従って病院に電話をかけました。 「胸の奥が痛いのです」
「いつからですか?」
「夕べの深夜相当痛かったのですが、何とか眠ることができ、今朝起きてもその痛みが続いているのです」
「痛み以外の症状はありますか?」
「食欲が全くありません。それから冷や汗のようなものも出ています」
「それでは、大至急病院に来て下さい。『救命救急』の窓口に来て下さい」
わたしは事務所を出てタクシーを掴まえ(とうてい自分のクルマで病院に行く気にはなりませんでしたので)病院に向かいました。
タクシーの窓から見える景色にいつもと違うフィルターを感じたので、もしかしたら「この病気は重いかもしれない」と予感のようなものが芽生えました。
▲全体構成に戻る
 病院(緊急入院) 

11/6(土)5:00p.m.病院に着きました。
西新宿の東京医科大学病院。比較的近くにあり土曜日でも受け付けてくれたからと、中川が見つけてくれた病院でした。
救急外来の窓口に着くと、先ほど電話でお話しした先生が、怒ったような顔でわたしを診察室に迎え入れてくれました。適当な診察室がなく、眼科の診察室だったことは記憶しています。
直ちに上半身を裸にされ、ベッドに寝かされ、ポータブルの心電図を取る装置を運び入れ、わたしの手足胸にさまざまなな電極が取り付けられました。わたしの心電図を取っている先生の顔がだんだん険しくなり、「心電図に大きな乱れがあります。恐らく『急性心筋梗塞』だと思われますので、緊急に『入院』『検査及び治療』が必要になります」と告げられました。
この段階で、その病気に関するのわたしの知識はひどくプアで、「たしか、心臓を動かす血管が詰まる病気で、死ぬことが多かったんじゃなかったっけ」という程度のもの(それもうろ覚え)でした。わたしの知識が貧しい分、危機意識も浅く、この段階では『死』に対する恐怖はそれほど強いものではありませんでした。
わたしは下半身も裸にされ、手術用のベッド(ストレッチャー)に乗せられ家族の連絡先を聞かれ、家族が来る前に治療が始まるかもしれないということで、治療の承諾書にサインさせられました。
また、何人もの先生が入れ替わり立ち替わり現れて、わたしの既往症や家族の病歴や生活習慣をしゃべらされ、また、これから始まる検査治療のことを聞かされるにつけ、手術に際しての当事者の心構えが形成されてくるように思いました。
▲全体構成に戻る

■ 手術(緊急手術) 

11/6(土)7:00p.m.ごろ、手術は始まりました。
診察室から検査室(と思われる部屋、たぶん心臓カテーテル室であろう)にストレッチャーが運び込まれ、検査用のベッドに移されました。
わたしの左右の腕には動脈と静脈から輸液がつながれ、さらに胸部には心電図用の電極が付けられ、尿は膀胱からダイレクトに出るように管でつながれてしまいました(これは大変に不愉快な装置です=これを尿道カテーテルといいます)。左の上膊部には血圧を測る帯が巻かれ、右手の中指には脈拍と血中酸素濃度を測るセンサーがつけられ、鼻には酸素を送り込むパイプがつながれました。
あらかじめ聞かされていたのですが、これから始まる治療は「PTCA=経皮的冠動脈形成術=バルーン療法」といい、心臓の切開手術ではなく、鼠けい部(足の付け根。わたしの場合は右の付け根でした)からカテーテルと呼ばれる細い管を入れ、鼠けい部の動脈から心臓の動脈につながる動脈をたどってカテーテルを差し入れ、そのカテーテルでバルーンを膨らませたりコントロールしながら詰まってしまった心臓の動脈を広げるものです。外科的開胸手術と較べ「準手術」と位置づけられるものだそうです。
急な手術だったので、この段階で剃毛されました。左と右を剃毛されたので、中央部分は残っていました。きっとかなり間抜けな姿だろうな、と思ったことを記憶しています。
まず右の鼠けい部に麻酔を注射します(これがちょっと痛い)。麻酔は部分麻酔なので、手術の一部始終がわかります。そこを穿刺してカテーテルを挿入します。
麻酔が効いているせいでしょうか、穿刺部の痛みはありませんが、押しつけられるような圧迫される痛みはあり、尻に回る生暖かい液体の流れを感じました。
わたしの胸の前にはレントゲン(と思われる)装置がのし掛かるように設置され、その先(わたしから見ると左斜め前)のモニタにはわたしの心臓(と思われるもの)の拍動の画像が見えます。
その画面には、カテーテルから造影剤が注入され、それが血管を通る様子がずっと映し出されていました。
執刀していただいた先生のお名前は武田先生(フルネームを控えるのを忘れてしまいました)といい、執刀直前に自己紹介されました。
武田先生は技師の方や看護婦と声をかけあいながら、さらにわたしに説明しながら、執刀を進めてくれました。その言葉と声のトーンは、手術中のわたしに大きな安心感を与えてくれました。その安心感の基がなにに起因するのかは今に至るまで謎なのですが、わたしにとっては大いに安心することができたのは事実なのです。
武田先生は途中で「カテーテルが心臓に到達。ただいま八時ジャスト」とおっしゃったように記憶しています。
武田先生のご説明の通り、モニタに写っているわたしの心臓の血管はかなり狭く狭窄している部分があり、バルーンを駆使しながらその狭窄している部分を拡張し、流れをつくっているように見えます。
その間、バルーンを拡張させるとその瞬間は血流が止まるので大変に痛いのです。その痛みは、心筋梗塞の発作の痛みによく似ています。心臓が文字通り掴まれるような痛みです。
先生に「痛い」と泣き言を漏らすと、先生には「よくなるためだから、がんばって」と励まされてしまいます。「はい」とはいうものの、また痛みが増してくるので、「先生、痛い」とまた泣き言です。そうすると大きなかけ声と共にバルーンを収縮させるのでしょうか、血流が生まれ、痛みが嘘のようになくなります。その繰り返しが延々と続くのです。
おおよそ一時間ほどが経過したころ、武田先生から「狭窄して詰まった血管は流れをつくることができたけれど、血管の拡張が充分とは思えないので、狭窄した部分に金属のメッシュのパイプ(ステント)を入れたいのだが、了解してもらえるだろうか」という質問がありました。さらに、ステントは一度留置すると開心術以外にとりだす方法がないことも説明を受けました。わたしには選択肢はないと思い見なしたので、「OKです。お願いします」と答えました。武田先生は「それではステントを挿入します」と宣言され、通常のバルーンを抜きステントの乗ったバルーンを慎重に狭窄部位にすすめ、ステント留置術を行いました。
この手術全体の間、わたしの意識はずっと鮮明であった訳ではありませんでした。
モニタも常に見えていたわけではなかったので、意識が集中できなくなることもあり、時々とても眠くなることもあるのです。その睡魔に引きずられようとするときには、このまま死んでしまうのかなぁ、という思いにとらわれたこともありました。もしかしたら臨死体験といえるものかな、と思えるような瞬間も経験しました。
ともあれ、「これで手術は完了です。手術には成功しましたよ」と武田先生に声をかけていただいて、わたしの冠動脈形成術は完了したのです。
鼠けい部から心臓へ挿入されていたカテーテルは体外へ抜去されましたが、シースと呼ばれる管は鼠径部に留置したまま、その上を清潔なガーゼで覆い絆創膏固定をして検査用のベッドからストレッチャーに移されたのでした。
シースを残しておく理由は、ステント留置などの血管治療をした場合、24時間以内に再び血管が閉塞してしまう場合があり、その場合再び緊急にPTCAを行う必要があるため、その入口を確保しておくためです(入口確保により早急に検査治療が行えるために翌日まで確保しておくことが多いそうです。特にわたしのように急患の場合は)。

▲全体構成に戻る
 集中治療室 その1

11/6(土)9:30p.m.ごろ、わたしは集中治療室(冠動脈の場合の集中治療室はCCU−Coronary Care Unitと呼ばれるようです)に入れられました。
病院に着いてから四時間半あまりしか経っていません。
わたしにとっては、あれよあれよという展開でした。強い自覚もないまま病院に来て、思いもしない手術が施され、ストレッチャーに乗せられた自分がいるという現実(それは、まるで交通事故にあったような受け身の印象に近いものでした)を受け入れることが精一杯で、心理的動揺が先に立ち、冷静に考えることもできないでいました。
少し落ち着いたら家族と面会できると聞かされていた通り、CCUでストレッチャーに横たわった状態で家族と面会しました。
わたしはといえば、手術前からつけられている左の腕の静脈からの輸液(手術が終わってからはさらにいくつかの輸液が増え、右の腕の動脈からは血圧を常時モニターするラインが、わたしの腕につながれているパイプに加えられています)、心臓に相当する胸部には電極が。さらに、尿は膀胱から尿道カテーテルが、左の上腕部には血圧を測る帯が、左手の中指には血液中の酸素飽和度を測定する装置が、鼻には酸素を送り込むパイプがつながれたままでした。もっとあったのかどうか、今になってははっきりした記憶はありません。後で聞いたところこの状態を「スパゲッティ状態」というのだそうです。
家族から見れば、そこに横たわっているのは「生身のおとうさん」ではなく、「瀕死の病人」にしか見えないだろうな、と思ってしまいました。
わたしを見る家族の視線は、強く驚いているようでした。それもそのはずで、これまでわたしは手術はおろか、入院も経験がなかったので、このような有様を見せることがなかったからです。
面会の時間も限られていたため、少ない言葉を交わすだけで、わたしは勇気づけられた思いで、また一人に戻りました。 医師と看護婦が入れ替わり立ち替わり現れて、いろいろな質問をします。主に今回の急性心筋梗塞の「原因(直接的原因と間接的遠因)」を探ろうとしているような質問です。

【 原因(経緯) 】

この急性心筋梗塞は、いつ、どのように起こったのか。
実は、今年の夏頃から心臓が締め付けられるような予兆はあったのです。散歩していて少し負荷をかけると胸がギュッと痛くなることが何回かありました。
それは負荷を少なくしたり散歩をやめるとおさまるので、それほど気にはしなかったのですが、どうやらそれが「心筋梗塞」の前段階症状である「狭心症(心臓の動脈が狭くなって症状が出ることで、まだ詰まってはいない状態)」の発作だったようです。
強い痛みを伴う発作は、11/3(祭)と、11/5(金)にあり、最終的に11/6(土)の発作で病院に駆け込んだのです。
11/3(祭)は、1:00p.m.から麹町の弁護士のところで打ち合わせをしているときに、スゥーッと意識が遠のくような胸の痛みがあったのです。時間にして一時間弱でしょうか、胸の奥の心臓を手のひらで握りしめられるような痛みが、強く弱く、波のように押し寄せたり引いたりを繰り返していました。
その痛みが強くなったり弱くなったり。額には脂汗がにじみ、打ち合わせには集中できなくなり、なにが打ち合わされているのかの内容もよく理解できないような胸の痛みにおそわれていたのです。
その打ち合わせが終わるころには痛みも引き、胸の奥の不快感は残ったものの、痛みからは解放されていたのです。
わたしの感想としては、どうやら胸の奥(心臓という明確な意識はありません)が悪いようだから、近いうちに病院に行こうかな、という程度のものでした。
この日も、翌日も、翌々日も深夜まではごく普通に過ごしました。胸の奥の不快感はあったような気がしますが、普通の生活は支障がなかったのです。
11/5(金)は、深夜に痛みが襲いました。寝ようかなとおもった3:00a.m.ごろ、11/3の痛みをはるかに勝る痛みが胸を締め付けました。ベッドに寝ても、ソファに座っても、机に向かってもその痛みは弱まることなく、うねるような波を見せながら胸の奥(明らかに心臓)を締め付けてきます。
その痛みは尋常ではないものを感じさせました。わたしは受話器を握りしめて「119番」に電話をしようと、なぜかずっと受話器をにらみつけていました。
結局、痛みはおさまって寝ることができたので「119番」はしなかったのですが、この判断の誤りは痛恨の判断ミスだったようです。
痛みがおさまるまでは一時間ほどだったでしょうか。痛みに疲れ果てて眠ってしまったのかもしれませんが、眠ることができたので「119番」には電話しなかったのですが、後で聞くときわめて危なかったのだそうです。つまり、そのまま逝ってしまってもおかしくはなかった、ということだったようです。
なぜ電話をしなかったのか、問われても次の日に仕事があったから、としか答えられないのですが、その仕事は自分の命と同価のものか、と考えれば決してそんなことはなく、自分の命より価の高い仕事なんてどこにもないことは明らかなことです。
そして、11/6(土)は朝から痛みが引かず、5:00p.m.ごろ、病院に飛び込んだという次第です。

【 原因(医師の話) 】

今年の夏頃からの予兆は、「狭心症」の軽い発作だろうといわれました。
この手の病気は、その前段階のことは類推するしかないのだそうです。
夏頃の胸の痛みは、心臓の冠動脈が詰まって血流がチョロチョロとわずかにしか流れていなかっため、心臓を動かす心筋に痛みが走ったのだろう、ということでした。その狭窄率はたぶん、95%〜99%というひどい状態(つまり5%〜1%しか流れていなかった)だったのだろうということです。
原因は、血管が著しく詰まっていたためで、「食生活」や「生活習慣」によって個人差はあるものの、「自己管理のできない人」は冠動脈が詰まる傾向にあるのだそうです。大きく狭まったら「狭心症」、完全に詰まったら「心筋梗塞」になるのだそうです。
もちろん、この夏の段階で病院に来るべきでした。そうすれば、「狭心症の治療」(大きく塞がりはじめた冠動脈を広げる)でいいわけで、完全に詰まってしまうと(わたしのように「心筋梗塞」になると)壊死がおこってしまうからで、治療も社会復帰も困難になるからです。
それが第一の判断ミスだったのでしょう。
そして11/3の段階での発作は、強度の「狭心症」か軽度の「心筋梗塞」か、微妙なところのようです(この状態を「不安定狭心症」と呼ぶそうです)。つまり狭窄率が99%というひどい状態では、詰まったり流れたり、というようなことも起こるのだそうです。
もちろん、この段階で病院に来るべきでした。
さらに11/5の段階での発作は、明らかな「急性心筋梗塞」だろうということでした。心臓が止まらなかった(心臓の壊死に陥っているはずの部分の動きが低下していなかった)のは、わたしの心筋が肥厚傾向にあり、拍動が強かったというきわめて特殊な心臓だった(後述)ということに理由があったのではないか、ということでした。
もちろん、この段階で救急車を呼ぶべきでした。
にもかかわらず眠ってしまったために病院に行くまでの時間がおおよそ13〜15時間経ってしまったのです。その間に壊死が起きたのだろうと医師は苦々しげにつぶやきます。
すなわち、11/6の入院は遅きに失しすぎたのです。痛恨の判断ミスなのです。

【 原因(遠因) 】

「自己管理のできない人」は冠動脈が詰まる傾向にあるといえそうです。
それでは、わたしの「食生活」「日常生活」はどうだったのでしょうか。
経営(危機)コンサルタントとしての活動をはじめてからの四年間は、単身赴任のようなシングル生活で、仕事は「原稿を書く」(これは椅子に座ってコンピュータに向かってキーボードを叩く仕事です)、「相談に乗る」(これも座って依頼人の話を聞きしかるべき解決を与える仕事です)、「取材を受ける」(これも聞かれたことに答える仕事です)、「講演する」(乞われれば全国どこにでもしゃべりに行きます)の繰り返しでした。
食事は自炊と外食、仕事場にいるときの生活時間はきわめて不規則で仕事に疲れれば仕事場のベッドルームに寝て、起きれば直ちに仕事ができるという究極の「職住近接」を、仕事ができる環境と喜んではいたのですが、実は自己管理の難しい環境に身を置いていたのです。
朝食は食べない、食事時間は定まらない、夜食はする、深夜でもおなかがすけばコンビニに行く、外食は好きなものに傾斜する、という具合でした。
食事の好みは、江戸風の味の濃いものが好きで、かつ脂っこいものも決して嫌いではありませんでした。
食事以外の生活習慣も、寝るのは深夜の三時〜五時頃、起きるのは九時〜十時ごろ。運動をしない、休息もしない。
たばこが40〜50本/一日、それも「Peace」というきわめてヘビーな銘柄で、タールが「24mg」でニコチンが「2.4mg」というもの。それをおおよそ三十四年間一日も欠かさず吸っていたのです。
そうした結果、わたしは「コレステロール値が高い」(以前から300以上あり、わたしの主治医に注意され続けていました)、「中性脂肪が高い」(これも以前から主治医に指摘され続けていました)、そして「肥満」(今回の入院時はたぶん80kgくらいあったと思います、身長は167cmです)、「運動不足」(若いころにスポーツをしっかりやった<テニスと水泳>ので、ヤワなスポーツ<ゴルフやジョギングなど>をやる気にならなかったのです)と、主治医に指摘され続けたにもかかわらず、なまじその主治医が幼なじみだったためにいうことを聞かず、ずっと改善せずに過ごしてきたのです。
これらは全て冠動脈が詰まる「虚血疾患(狭心症や心筋梗塞)」のリスクファクターなのです。
弁解としては、「血圧は決して高くない」「糖尿の傾向は致命的にはなっていない」というファクターに頼って、ネガティブなファクターに目をつぶっていたのだと思います。
だからこそ、「自己管理のできない人」と自らを位置づけるのです。
さらにわたしには遺伝的要因あったのです。
それは「脳卒中」です。わたしの両親は二人とも54歳で脳卒中で逝っているのです。もちろんこの遺伝的傾向は、わたしも留意していました。しかし、わたしは53歳だったのです。54歳は来年だったのです。
わたしは、年が明けたら主治医のところに行って厳密な健康診断を受けるつもりでいました。そのつもりがあったからこそ、今年いっぱいはいいや、という甘い気持ちがあったことをここで告白します。痛恨の告白です。
そういう意味で、わたしはこの入院中に医師や看護婦から問われる度に「甘く見ていたことが悔やまれる」と言い続けていました。
▲全体構成に戻る
集中治療室 その2 

11/7(日)12:30p.m.ごろ(その日の深夜)東京医科大学病院のCCUで迎える夜は不安でいっぱいでした。
麻酔も切れてきたのだろうとおもえるのだけれど、不思議と痛みは全くありませんでした。
ただ右の足が固定されていて、寝返りもうてない状態だったのと、尿道カテーテルのために排尿に不愉快さがつきまとったのが難点だったのです。
この尿道カテーテルってやつは、看護婦さんの説明によると自動的に膀胱に貯まった尿は排出されるので一切気にしなければいいのだということですが、わたしの場合は、なぜか「排尿気配」がおそってくるのです。それでそのまま力を入れて排尿すると、えもいわれぬ不快感が膀胱から排尿の先端部にまで及ぶのです。それはおもらしをしてしまったような、あるいは洋服を着たまま排尿をするような、とても情けないような脱力感とでも言うしかない感覚です。なぜかうっすらと汗まで出てきます。
いつのことだったか正確には思い出せないのですが、途中で「T字帯」と「紙おむつ」をしたようにも記憶しています。これも不愉快なものです。できることなら思い出したくもない出来事ですが、ここに記しておきます。

 死を想う 

CCUに身を置きながら、武田先生をはじめ間中先生という女医の方や、看護婦さんたちからも、「極めて危なかったのだ」「助かったのだ」と、何回も聞かされました。
そうした説明を受ける度に、「わたしは助かったのだ」「もしかしたら死んでいたのだ」と思うようになりました。
その想像は、最初リアリティをほとんど持ってはいなかったのですが、深夜に至るに従って、だんだんリアリティを持ってきました。
わたしは極めてザッハリッヒ(即物的)な思想に支えられているので、死後の世界などへの関心は毛ほどもありませんが、わたしの存在がなくなってしまうという想念は、恐怖をもってわたしを捉えました。
わたしを介在して続いている事柄の全てが止まってしまうということは、わたしに必要以上の罪悪感をもたらせました。
本来他動的に止められることのあり得ないことでも、「死」は平気で止めてしまうのだ、という認識です。
わたしを核とする「線的」「面的」「時間的」「空間的」連続性は、「死」によっていとも簡単に絶たれてしまうのである、という認識です。 この認識は、わたしにとって恐怖です。 しかし一方で、こうした考え方を「若いな」と思って見ている自分もありました。
もっと大人にならなければ、と励ます自分もいたのです。
このテーマは重いので、以下は割愛します。もし聞きたい方がいらっしゃったら、わたしに直接アクセスして下さい。

 インターミッション 

この「内藤明亜通信」をお送りしたところ(この報告は最初「内藤明亜通信」というわたしのメールマガジンのようなもので配信されていました)、いくつかの「無理からぬ誤解」のメールをいただきましたので、それにお答えしておきます。
<その1>
退院後のたばこの味はいかがでしたか?一ヶ月以上吸わないとクラクラするっていわれていますが、感想を聞かせて下さい。
<お答え>
◆ 入院の日(11/6)以来、たばこは吸っていません。
<その2>
退院後は、当然酒もたばこも戻ってしまったのですか?
<お答え>
◆ わたしは飲酒の習慣は元々なく、喫煙についてはきっぱりと断つことができました。
<その3> 塩分控えめの食生活に耐えられる貴君とは思えませんが………
<お答え>
◆ 今までの生活と比べると、塩分は1/3以下に減ったと思われます。 減塩醤油はもとより、無塩の食生活を指向しており、酢を多用することで低塩が実現できるようになっています。
<その4>
以前「コレステロール願望症」という言葉をあなたから聞いたように思いますが、低脂質、低コレステロール、低塩なんて、絶対できない方に私は賭けます。
<お答え>
◆ 退院後十日が経ちましたが、肉はほとんど口にせず、揚げ物も生揚げと海老の天ぷらを一尾だけですし、フライに至っては全く口にしていません。
◆ まぁ、正直なところ、今食べたいもののベスト5は以下です。
1> すき焼き=できれば自家製
2> 穴子とかき揚げ(芝海老と小柱)の天丼=できれば新橋の橋善
3> 濃いめの味のカツ丼=できれば銀座の梅林
4> 寿司、それも中トロと穴子とヒラメと小肌=できれば新橋の弥助
5> 石焼きビビンバと焼き肉(骨付きカルビと上ロース)=できれば大久保のオムニ食堂
※ 食べさせてあげるというお申し出は「月に一件」に限り受け付けます。
<その5>
院後の生活の変化は苦しいですか?
<お答え>
実は、それほど苦しくはありません。 いつかリバウンドがあるのかな、という不安はありますが、現在のところそれほどのストレスにはなっていません。 コーヒーは、少なくなりました。その分、「お茶(お茶をうまいと感じています)」「ウーロン茶(自分でいれた熱いやつ、これも結構うまい)」「紅茶(やはり濃いめになりますが、おいしい)」などが増えましたが。 たばこは、未だに「手持ちぶさた」で手が探していることがありますが、タールもニコチンも欲しいとは感じません。
食生活は、薬の影響ではないかと思うのですが、なにを食べても「塩分(ナトリウム)」を感じて困ります。 たとえばドーナツを食べると甘さよりも塩味を感じてしまいます。牛乳からもキムチからも塩分のキックを感じます。
いつの間には片方の耳(たぶん左の耳)が心臓を伺う習慣が身に付いてしまいました。ちゃんと動いているか、痛みはないか、苦しくはないか、拍動が強くないか、乱れていないか、といつも伺っています。 急に心拍数が上がるような運動は押さえる習慣も身に付いてきました。電話が鳴ってもゆっくりと電話を取りに行きます。決して走ったりはしなくなりました。
いつか、いつの日にかスキューバダイビングができるようになれば、という願望があるために、今はストイックな生活ができます。
やはりリバウンドはあるのでしょうか? わたしは、あと20年生きたいので、リバウンドはないだろうと思っているのですが。 まぁ、しばらくは手探りの生活が続くことでしょう………。
▲全体構成に戻る
 集中治療室 その3 

CCU(冠動脈疾患集中治療室)にいれられていた三日間は次のように推移しました。
11/6(土)
緊急手術の後ここにいれられる。
眠れない夜を過ごす。
7(日)
さまざまな輸液やパイプにつながれていてる。
中川(秘書)が来てくれる。わたしを見る顔色が変わっている。進行中の仕事の関係者や依頼人への連絡を依頼する。
この日「シース」と呼ばれる管(鼠径部に留置したままの)が取り除かれた。
脇腹が痛い(これは今回の疾患とは関係がないだろう)。
夕食が出たがほとんど食べられない。
8(月)
前日と変わらない。
トイレに行きたい。何か目標物におしっこをかけたいという衝動に駆られる。
食欲はない。看護婦さんが食べさせてくれるが、おいしくない。
大便もしたいが、寝たままでは到底無理なので諦める。
9(火)
尿道カテーテルが取れる。でも溲瓶になっただけ。
ようやく一般病室に移る。 退院後本を読んだところ、CCUとは冠動脈疾患(狭心症、心筋梗塞)を主に取り扱う特殊なICU(集中治療室)で、心臓専門医と特別に訓練された看護婦を配置し、心電図のモニター、除細動器(って何だ?)などを常備、とある。
わたしが入院した「東京医科大学病院・第二内科」は『全国病院番付(アスペクト刊)』によると「狭心症・心筋梗塞」では最高級の評価(最優良病院)が与えられた病院でした(入院しているときはそれを知らなかった)。

 インターミッション 

いくつかの「無理からぬ誤解」のメールに対するお答えです。
<そのひとつ>
「急性心筋梗塞の恐さが非常に伝わるドキュメントでしたが、その描写があまりにも生々しいものだったので、内藤さんが明らかに手術を受けてる間にもこれも記事にしてやる、という意思が伝わってきて、なんとなく笑っちゃいました。すんません」 <或るTV制作会社のディレクターNさん>
<お答え>
◆最初から書こうと思っていたわけではないのです。むしろ、退院間際になってからそういう思いが募ってきたのです。 だから、というわけではないのですが、実は今(緊急手術から一ヶ月以上、退院からでも三週間以上)、記憶が不鮮明になっているのです。
まぁ、言い訳ですけど。
そのCCUですが、わたしの記憶では看護婦が特別に訓練されたという印象はありませんでした。それは看護婦の働きをを否定しているのではなく、「これはすごい」と思わせるような印象がなかったということです。でも、考えてみれば「これはまずい」と思わせることがなかったということは、それこそがすごい訓練のたまものなのでしょう。
それはまた、わたしが相当消耗していたことと、ストレッチャーにがんじがらめだったことと、ちょうど脇腹が痛くて(時々そうなるのです)動くのも大儀であったことと、記憶が明確でないことなどが相まっての印象になっているのかもしれませんが。
ただ、いろいろなことを話しかけていただいたことが記憶に残っています。それはわたしの趣味のことや生活のことなど、実にたくさんのことが話しかけられました。それはもしかするとわたしの手術のあとの精神的な動揺を軽減するような心理的効果があったのかもしれませんが、当事者のわたしにはそこまでの忖度はできませんでした。
たしかに、退屈はしなかったのかな、と思い返すと訓練されていたのかもしれません。もちろん、看護婦としてなすべきことはしっかりできていたのだろうとは思いますが、そこはわたしにはわからなかい領域だったのです。 
▲全体構成に戻る
 一般病室 

入院三日後の11/9(火)に一般病室に移されました。
病院中をストレッチャーでガラガラと音を立てて移動するさまは、昔みたTVドラマの「ベンケーシー」を思わせて(わたしも古いな。たぶん35年ほど前のTVドラマだ)、ちょっとした気分でした。
行き着いた病室は[1860](18階の二人部屋)でした。
わたしの一般病棟での日々は11/9(火)から12/8(水)まで、約四週間、29日間に及びました。
9(火)
わたしのベッドは窓際にあり、左手の窓の外には大きなビルが見えました。
CCUは二階(か三階か?)だったのに比べると18階の病室の印象はずいぶん高い場所だな、というものでした。
初日は、隣に知らない人がいる病室(そもそも入院が初めての体験でした)ではどのように振る舞っていいかわからず、落ち着かないものでした。
痛みは全くなく、その点では大病に冒されているという意識は持ちにくいものです。
秘書の中川に聞くと、仕事の関係者や依頼人に連絡を取ったところ、ちょっとした衝撃が走ったようで、中にはパニックに陥っている方もいらっしゃるようでした。
10(水)
わたしのプライベートな主治医である竹口甲二(昭島市の竹口病院・院長)が見舞いに来てくれました。
かれは、高校時代の同級生で、消化器外科が専門(奇しくもこの東京医科大学卒業で、この病院にも勤務していたことがあるという)で、わたしはかれの手で何回も内視鏡をのまされている。
そこに主治医の一人である山崎先生が病室にいらっしゃり、なにやら専門的な話をし始めました。わたしにはほとんど理解できませんでしたが、その竹口の表情を見て、当面の心配はないんだな、と思ったものでした。竹口も医者のいうことを聞くように、と強くわたしに言いました。なぜか、その言葉でかなり安心することができました。
大便が病室内でできるようになりました。ポータブルと称していましたが、要するにオマルです。いきむな、といわれていましたが、四日ぶりの大便は快感でした。わたしは毎日快便を誇っていたのですが、薬のせいもあるのでしょうか、少し緩いものの大量に出ました。
しかしこのポータブルは病室内に臭いが漂うために、早くしなければ病室の方に迷惑がかかるのが辛かったです。

 わたしの症状について 

わたしは本当に危なかったのか?それが疑問でした。 「発作後四時間以内の緊急治療が生死の分かれ目となる」といわれ、心臓突然死で最も多いといわれている急性心筋梗塞にわたしはなったのです。
確かに胸の奥の心臓のあたりがものすごく痛かったのは事実です。でも、それは不用意に向こう臑を打ったときの痛さだって、今回の痛みに匹敵するくらい痛いことはあります。でもしかし、向こう臑では死ぬことはないでしょう。
わたしにとって今回のことが死につながるということが、リアリティを持てなかったのです。ましてや一般病棟に移されることはCCUの緊張感からも解放されることになるのです。
CCUにいるときは武田先生や間中先生に訊き、一般病室に来てからは主治医の佐々木先生や小林先生や山崎先生や、看護婦の金津さんたちに訊きました。 わたしは、相当危なかったようです。
どうやらわたしの心臓は6日の入院の前日の5日に急性心筋梗塞になっていたようです(これらのことは全て類推でしかないのですが)。その間13〜15時間。「四時間以内」といわれている生死を分ける時間をはるかに上まわる空白の時間がそこにはあります。
ではなぜ死ななかったのか。
その後の検査でわかったことではありますが、わたしの心臓は「肥大型心筋症」という基礎疾患があったことが今回は良い方に傾いたようです。すなわち、わたしの心筋は肥厚傾向にあり、拍動も強かった。心臓が収縮すると内腔が閉じてしまうくらいの大きな拍動がある。(by山崎先生)ので、心臓の壊死に陥っているはずの部分の動きが低下していなかった(by佐々木先生)ために生存している、と考えられるのだそうです。
この捉え方は、わたしのようなシロートには理解しやすいです。
一方、急性心筋梗塞の場合いちばん怖いのは、一度詰まった血管が偶然に自分の持つ血栓溶解作用により、自然再開通する際に起こる「心室性不整脈」による(心室細動)突然死です(by武田先生)、というご意見もいただきましたが、そうであれば、わたしの場合はそれがおこらなかったということになるのでしょう。
結局のところ、なぜ死ななかったのか、はわからないのでしょう。
わたしにとってはそれを知ることよりも、如何に危なかったにしても、死ななかったという事実が重要なのです。
そうです。わたしは、死ななかったのです。

………まだまだ続きます。
▲全体構成に戻る
内藤明亜Personalへ戻る
急性心筋梗塞からの生還記録