文学等というものに興味がないテレビ親父の私にとって
五木寛之さんの作品を一冊も読んだことはない。自慢じゃないが・・・

最近、よくテレビで見かけるので、熱心に拝聴している。
逆に言えば、「五木寛之さん」に興味を持ち始めている自分に気が付いた。
何しろ、一日に、ビデオを繰り返し見るぐらいだから・・・・・

五木さんの活動のドキュメントが放映された折り、最後に、ラーメンを忙しくすすりながら
「フランス料理なんか食べてられないよ、こっちは、忙しいんだ。」等と言いながら元気に
麺をほうばっていた姿、
「昔は、チキンライスに目玉焼きを上にのせて貰って、最後に食べていたんだが、最近は
もういつ死ぬか分からないんだ、一番最初に 目玉焼きを食べるんだ。」って言っていたところが
私の大好きな五木寛之さん。 元気なのでまだまだ死にそうにない。 03/08/14

「良き者は逝く」
この世にしぶとく生き残ってきた者達は良き者達の死によって生きながらえている罪深き者なのだと
思われてならない。 悪いって言うか、エゴの強い、人のことよりも自分のことを大事にして、そういう
心優しい人達を踏み台にして生き延びてきて、這い登ってきた人間だという・・・  生存競争って言う
けどねえ、生存競争で生き残るっていうことはやっぱり良い事じゃないんですよねえ。はっきり言うと、
心優しい人達はこの世の中で生きていくのは大変です。
この中で、胸はって生きていける人間は相当、根性の悪いとんでもない奴だと思いますね。
自分のことをそう思うと 又そこで自己矛盾が起きて、もたもたして又仕事を休むという・・・・・


「立派な善良な人も救われるけれど、悪しき心を持った人間、自分のことを悪人だと思って自分は地獄へ
行くしかないと思いこんでいる人間もちゃんと見えない世界では、光が差してくるんだよ」という思想がある
んですねえ・・・ それを他力思想と言いますけど、そういう考え方に出会って、それがGIVE−UPせずに
立ち直って来たきっかけかもしれない。 宗教と考えてないんです。

自分があるのは、自分が行動して選択しているように見えるけど、それはいろんな目に見えない力で自分
がそれを選ばされているんだという。
受け入れるということから「あきらめる」という主義なんですよ。 仏教の世界では「あきらめる」は「明らか
に極める」という意味から来ているとかんがえるんです。 物事を極めるとはきちんと正面から目をそらす
ことなく見つめるということです。 全部を明らかに見つめて受容する。そういうことが第一歩だと・・・・・

一部、正確さを欠く各箇所もあるんだけれど、コメントを抜粋してみた。
番組のアナウンサーは、「大河の一滴」から抜粋して朗読していたようだ。
終戦直後、今の北朝鮮の辺りから命からがら弟さんと引き上げてこられた。
他の弱い人達の犠牲のおかげで、今こうして無事に、帰国できたのだと言うことを
繰り返しおっしゃっていたようだ。
「いい人は、早く死ぬよねえ」よく耳にする言葉だ。
「いい人である」という条件を満たす為に早く死ななきゃいかんのかい。そんなことはない。
我々は、善人と悪人の狭間で生きているんだ。善人だって悪行をなすこともあれば、悪人だって
善行をなす。ドッチか両極端でいられることはまず無い。悪いことをしても罪悪感を持たない又は
持てないことの方が問題だ。
日常、我々は、生き物である「牛・ぶた・鶏・魚・・・・」を大量殺戮して食して生きているんだ。
ラーメンのチャーシューやすき焼き、豪華 お刺身を目の前において、幸福感こそあれ、罪悪感等
みじんもない。

一部の人々にその罪を肩代わりして貰ってなんの罪悪感も感じずに、飽食の時代を甘受しているんだ。
五木さんの食べていたラーメンのチャーシューもその一部だと思うのだけれど
五木さんの言う「良き人」ってのは一体、この世界に 何人ぐらいいるんだろうか?
五木さんが大変な想像を絶する経験をなさった事に関しては、私のような者がとやかく言うことがない。
ただ、個別論と一般論がごちゃ混ぜにお話しされているところが少し気になる。
人間が畜生になるもならないも、我々の暮らしが、比較的 平穏無事かどうかに依存する。
「他人よりも自分のことが大切に思う気持ち」を持つなって、いう方が酷だ。
自分が幸せになるためにも、周りの人も幸せになってもらわなければ安全で豊かな社会はあり得ない。
この条件を満たす気持ちで、我々、個々が、社会生活を送り、困ったときには助け合う、長屋の住人になること。
したたかで、強く生きる以外考えられない。