Movie walker

映画・フィルム・ムービー

あてのない映画の旅に出て、あてなく書き綴るとか・・・そんなヤワなトークにはならないだろーな。
というのもオイラはガキの頃から両親に連れられて映画を観つづけて、日に五、六本も観た日があったほど。
かなーり異様な幼少期です。
ロバート・カーライルは、浮浪者の父に連れられて映画館をねぐらに渡り歩いたとか。
しかし、オイラはボンビーだったわけでなく、親はリッチマンのグウタラ息子(三代目というやつ)で、
映画趣味のおこぼれにあずかったわけ。
今はリッチどころか、お金よりクリスティナ・リッチーを思い浮かべてしまうという
アーティスト・タイプ(嘘)です。
そんなわけで流れ作業的に映画を際限もなく吸収し消化する習慣があって、
いわゆるコレクト趣味はない。

客船で大海を旅するように、映画の一作一作は遠のいていく波間の板切れか、煌く陽射し
のようなものとして脳にすりこまれてしまう。(カッコいいな・・・)
そんにゃわけで・・・単体としての映画作品を分析したり批評したりするのは得意じゃないし、
オイラの生理に反する出来事です。
むしろなんちゅーか、映画というアートの「オアシス」に憩い、
その外に広がる無辺の砂漠に思いを馳せるといった感じ。
とでもいいますか。

純然たるフィルムの輝き、映像の鼓動、そしてキャメラと役者たちの呼吸に身をゆだね、
分析などは放棄する。
恋をしてしまう瞬間、人生でバイオリズムがあがっていく瞬間って、分析とは無縁だよな。
映画も同じじゃなかろうかと、最近思うこの頃です(文法変だな・・・)


そして映画に恋をする?
オイラの場合、映画に恋されるという指摘が正しい。(ほんとかよ・・・)
それが filmania の正体。そしてあなた方を、永遠のfilmaniaに招待しよう。
オイラの考えじゃ、ほんとうのフィルム・マニアは、批評を徹底して退けるもの。
なぜって客観的、冷静になれないその部分に、愛の真骨頂があるから。
ラブラブってさ、妄想じゃないか? 冷静な愛なんて嘘だ。


ネットや本巡りをして、愛のない映画作品の陳列作業をみることがあるけど、
そんな化石化した作業にどんな意味があるのか。
愛があれば、作品を陳列棚にのせるなんてことはしないで、唯一絶対の祭壇にまつりあげる。
「この映画を馬鹿にするな。馬鹿ヤロウ」でいいと思う。
たとえば自分の恋人が馬鹿にされた時、コブシをふりあげないヤツなんて、ただの弱虫。
どんな作品も愛にしかこたえないし、愛にしかイメージを伝えない。
それでなにかを獲得して、さらに大きな愛を作品にこめることができれば最高なわけ。
だからといって、ネットで喧嘩するのがいいわけではない。人格無視の喧嘩は不毛だし、醜悪ですね。
要は主体的な自覚ということか。

ネットでの個人映画批評の場で、「これは批評でなく感想」という言葉をよく目にする。
いつも疑問だけど、この言葉にどんな意味が?
批評でなく感想だから許される、逃げきれるという「甘え」しか感じない。
プロの批評家は、いつでも「許される」。なぜって反則そのものが存在しない。
どんなにネタばらししようと、嘘を書こうと、頭の悪さをさらけだそうと、プロなんだから。
あまりにもヒドければ干しあげられるだけ。
それだけ厳しい世界だから、自己防衛とメディア奉仕のためにしか書けなくなる。
一方でネットのアマチュア映画「感想」家は、顔がみえないから、「批評でなく感想だから」
どんなこと書いても許されると思いこみがちだ。
それは違うと思う。
自分の言葉には責任をもつ。それなしには、言葉は、地中をのたくるミミズのようなものだ。
誰のどんな言葉にも影響力がある。ネットは、意外とそれが強烈に感じとれる場だ。

まだお粗末なHPですが、映画への愛、それをテーマにしたいです。
愛があるからこその鞭も用意してます(笑)こきおろさないとすまない作品は確かに多いから。
とりあえずなにをやればいいのかわからないんですが、なんとかなるでしょう(爆)




 

 

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