「いらっしゃいませ。」 夜のコンビニに明るい女性の声が響く。それに続いてレジでバーコードを読み取る機械音が「ピッ」っと響く。
「お弁当は温めますか?」
そう尋ねる彼女の前には、カウンター越しに若い男が立っている。眼鏡をかけ、ちょっと小太り気味。身長も現代の男性に比べれば低いほうかもしれない。肌の色は異様に白く、最近日の光を浴びていない事を物語っている。
「・・・・はい・・・・お願いします。」どうにか聞こえるくらいの小な声で彼は答えた。多分昼間の忙しい時間帯だったら今の声は聞き取れなかったわね。弁当を電子レンジの中に入れ、タイマーをセットしながら彼女はそう思った。
「498円になります。」彼女がそう声をかける前から、男は財布と格闘していた。中には小さなコインが多すぎて、なかなか目的の硬貨に辿り着かないようだ。100円玉、1円玉、50円玉、10円玉。不規則的に1枚ずつ、ゆっくりとしたペースで硬貨をカウンターに並べていく。498円、ピッタリ。彼の顔に一瞬ではあるが微笑みが浮かんだような気がした。
「はい、ちょうどお預かりします。」そう言い、彼女はレジに金を納めた。彼女が異変に気がついたのはその時だった。男は突っ立ったまま、一点を見続けているのだ。まるで魅了されたかのように、ただ食い入るように彼女の方を見つめている。この人、私の事を見つめてる? もしかして私に気があるのかな? でも、ちょっとオタクっぽくない? オタクはちょっとなー。
オタク。このキーワードが頭に浮かんだところで彼女の思考は停止した。次に忌々しいキーワードが浮かんできたのだ。ストーカー? 彼女はこの言葉に、いやと言うほど思い当たる節があるのだ。コンビニからの帰り道に誰かにつけられた事もある。家に帰ると同時に電話が鳴り、電話の向こうからは「お帰りなさい。」という声が決まって返ってくる。もしかしたら彼が? そう考えると彼女はだんだんと興奮し、今にも爆発しそうな心境になった。ちょっと冷静になろう。もしかしたら私の勘違いかもしれない。しかし、そう思ってはみるが、もはや体は緊張しきっている。でも、いや、まさかそんな。口の中もだんだんカラカラしてきた。しかし、彼の視線は彼女を食いついたまま放そうとはしない。
「ピー」静寂を破ったのは弁当の暖め終わりを知らせる音だった。この音が彼女の緊張の糸を切り落とした。ふぅ、落ち着いた。そう思うと彼女は即行動に転じた。電子レンジから弁当を取り出し、ビニール袋に入れカウンターに置く。
「ありがとうございました。」喉が渇いていたせいか、声が少し裏返ってしまった。
男はビニール袋を掴み、そのあとで彼女から目を離し店から出ていった。寂しそうな表情を浮かべて。もちろん彼女はその表情を見落とさなかった。間違いない。彼がストーカーだ。確信はしても、彼女は何一つ行動には移さなかった。こんなところでは駄目、そう考えたからだ。
ほっと一息つき時計を眺める。彼女の定時まではあと一時間。この一時間はこの店最後の一時間でもあった。思えば、この店でも色々な事があったな。そんな感情に浸りながらも、心の反面では別の事を考えていた。そう、一時間後には店を出て家に帰らなければならないという事。ほぐれた体がまた緊張してきた。
雑誌、マンガ、ゴミ。この部屋にはさまざまなものが、ところせましと散らばっている。空いているスペースは、部屋の中央に置かれた四角い机の一辺だけ。そこには、ちょうど人が一人座れるだけの空間が空いていた。しかし、今はそのスペースには人が座っており、従って部屋には空いているスペースは全く無い事になる。
この部屋唯一のスペースに座っているのは若い男だ。彼は買いたてのコンビニ弁当を口に運んでいる。部屋の中には男の他には誰もいないが、テレビから聞こえてくる音声が部屋に命を吹き込んでいた。
「…先月の28日に起きた狂気殺人事件についてですが、2週間たった今も、依然として捜査は難航している模様です。…」
この事件は、ちょうど2週間前に起こった。会社帰りのOLが、何者かに食べられたという事件だ。殺されたのではなく、食べられたのだ。事実、彼女の遺体は、体中のあちらこちらの肉が噛み切られていた。犬科の動物に襲われた、というのが現在の警察の見解だったが、依然として狂気の殺人犯は捕らえられていない。
そんなニュースを見ながら、弁当の最後の一口を食べ終えた。5分。これが弁当を食べるのに要した時間だ。食べたと言うよりは胃の中に流し込んだという方が正解かもしれない。
男は弁当のガラをその辺に放り投げ、床においてあった冊子を手に取った。その冊子の背表紙には≪如月かおり≫と書かれている。どうやら愛蔵のアルバムのようだ。
アルバムを開くと、その中は予想以上の写真で埋め尽くされていた。どの写真も同じ人物を撮影したものらしい。コンビニでバイトしている姿、私服で町中を歩く姿、友達と一緒に食事している姿など、あらゆる姿の美麗な女性が写っている。そこに写っていた女性とは、先程彼が弁当を購入したコンビニの店員だった。
アルバムを見つめる彼の目は、最愛の人を見つめる時の目そのものであった。
「かおり。遅くなってゴメンね。」テレビの声音が響く中、彼はポツリとつぶやいた。そして、アルバムのページを一枚一枚とめくっていく。このアルバムの厚さからすると、もうすでに300枚以上は綴じられているようだ。
彼は彼女の輪郭を指でなぞり、次にその指を唇の上へと移動させる。「ああ、僕のかおり。僕だけのかおり。」彼の顔に快楽の表情が浮かび、口からはうめき声がもれた。
「ピピピピピッ。ピピピピピッ。」その時不意に時計のアラームがなった。男はゆっくりとかおりの唇から指を離し「時間か。」とつぶやいた。そしてゆっくりと立ち上がり、テレビの主電源と部屋の電気を切り、その部屋を後にした。
玄関の鍵がかかる音、遠くなる足音。これから彼の仕事が始まる。彼女を無事に家まで送り届けるという最高の仕事が。
ふぅ。今日も疲れたわ。両手を広げ少し仰け反り大きく息を吸い込む。目には満面の満月が飛び込んできた。そうか、今日は満月だったんだ。そんな事を思いながら、彼女は家に向かって歩き始めた。
ふと頭に先程の事がよみがえる。“ストーカー”。彼を感じ始めたのはいつからだったのだろう。確か1週間位前からだったような気がする。電話は、そう確か4日程前からだ。
でも、どうして電話番号が分かったのかしら。あの日は仕事が休みで、友達と遊びに行った日。確かその友達に電話番号を教えた記憶はある。もしかして、その場に彼もいたのかしら。電話番号を聞き取れるくらいのごく近い範囲に。
そうこう考えながら歩いていると、街灯の無い真っ暗な道にさしかかった。ここから先の道は分譲住宅用の空き地ばかりで、家に辿り着くまでには特にこれといった建物も無い。しかし家に帰り着くためには、この暗がりの道を通り、途中の交差点を曲がる必要がある。
その時、ふと背後に人の気配を感じた。彼“ストーカー”だわ。彼女は直感でそう感じ取った。しかし、もうここまで来たら引き返す事は出来ない。体中が緊張しているが、彼女は意を決して暗闇の中を歩き始めた。後ろの気配も同様に後をついてくる。
しかし、交差点にさしかかった頃、彼女は急に走り出した。もうダメ。そう思いながら道を左に全速力で駆けていった。
後ろにいた男の顔に驚きの表情が浮かぶ。どうしてだ? 俺が家まで送り届けてあげるって言ったじゃないか。途中でか誰かに襲われたりしたらどうするつもりだ。彼女を助けられるのは俺だけだ。早く後を追わないと。彼もまた意を決し、彼女の影を小走りで追いかけた。
確かこの交差点を左に曲がったな。そう思いながら、彼も交差点を左に曲がる。しかし、そこには彼女の姿が見えない。「あれ?」思わず声を出し、道を間違えたのかもしれないと反対側の道を見た。しかし彼女の姿はそこにも無い。
もしかして、彼女の身に何か起こったのでは。体中に緊張の糸が張り巡らされた。ゆっくりと道を前に進んでいく。よく見ると、先の方に誰かが倒れているようだ。
「かおり?」声を出すと同時に彼は走り出していた。しかし、近寄ってみるとそれはかおりではなかった。いや、見方を変えればかおりと言ってもおかしく無いかもしれない。そこには、先ほどまで彼女が身につけていた服とカバンが脱ぎ散らされていた。
彼は現状が全く理解できず、呆然とそこに立ち尽くしていた。その時、彼の後ろで人の動く気配がした。おそるおそる後ろを振り返ると、そこにはかおりが立っていた。
「はぁ〜い。ストーカーさん。」満面の笑みを浮かべるかおり。
彼は目のやり場に困った。もちろん、女性の裸体をこんな間近で見るのは初めての事だ。
「あ!?え!?」何を話せばいいのか。彼の頭は現状を全く理解できず、既にパニック状態になっている。
「オタクはあんまり好きじゃないんだけど、今回はガマンする事にするわ。」
なに? ガマンするって言ったのか? でも何をガマンするのだろう? 彼は頭の中で自分に問いただした。しかし空しくも答えは帰ってこない。
「あぁ。満月、この日を待っていたわ。」かおりは喜びに満ちた顔で満月を見上げる。と、急に彼女は叫び始めた。
「うううぅ・・・・ああぁっー!!」ひざを突きうずくまり、両手で頭を押さえ、彼女は苦しみの声を上げだした。頭を押さえている両手に力が入る。
「そんな、馬鹿な。嘘だろう・・」彼女を見ていた彼は驚きの声を上げた。そう、かおりの艶やかで白い体から毛が生え始めたのだ。もちろん一ヶ所ではなく全身だ。見る見るうちに銀に輝く美しい毛並みは彼女の体全てを覆い尽くし、同時に彼女が発していた苦しみの声が止んだ。
男は既に腰を抜かしていた。こんな馬鹿な。アニメじゃあるまいし。
やがて、彼女はゆっくりと立ち上がり、体全体を男の方に向けた。
「!!」彼女の顔を見た瞬間、言い尽くせないほどの恐怖が彼を襲った。そこには、頭の中で描いて止まない最愛の女性かおりの面影は無かった。鼻から口にかけてが異様に飛び出し、耳は三角に頭の上に突き出している。
「い、犬?・・・いや、狼・・・人間?」彼の全身を底知れぬ恐怖が走り抜けた。
彼の本能が叫ぶ。「このままでは殺される」「逃げろ」しかし、頭の中では十分理解しているのだが、体が全く言う事を聞いてくれない。
「2週間に一度のお食事タイム。たっぷりと味わってあげるわ。」彼女の口元からはよだれが滴り落ちている。
彼は全て理解した。先月起きた狂気殺人事件の事、かおりの言った「ガマンしてあげる」という意味。そして彼の体から力が抜けた。程なくズボンの股にしみができ、やがて液体が零れ出た。
「あら、お漏らし? 悪い子ね。食べられるのが上半身だけになっちゃったじゃない。」そう言いながら彼女は彼のもとへと近づいていった。
「おぉ・・・・あぁ・・・・・・」声にならない雄叫びを上げるが、しかし他にはどうする事も出来ない。
かおりは彼の前にひざまずき、彼に抱き着いた。夢にまで見た光景。俺はかおりと抱き合っている。一瞬そんな思いが彼の中を駆け巡った。
彼の耳元で甘くささやくかおりの声。それは彼がかおりから聞いた最後の声になった。
「頂きまーす。」
「…ニュースをお伝えします。昨日深夜、狂気殺人事件に第二の犠牲者が出てしまいました。この男性は近くに住む23歳で無職、川島登さんと見られています。警察では、付近の聞き込み調査をしていますが、あたりには家も少なく、有力な情報はまだ得られていないようです。それでは現場からお伝えします…」
テレビを見ながら朝の食卓に着いている。彼女の朝は一枚のトーストと一杯のコーヒーで始まる。今日はお腹がもたれる。昨日脂っこいものを食べ過ぎたかな。そんな事を思いながらトーストを一噛りし、コーヒーを口へ運ぶ。
「あーあ、次は2週間後か。今度は誰を誘おうかな。サラリーマン、高校生、それとも…」