ワールド コンフリクト

〜世界の紛争〜終わらない冷戦 〜朝鮮半島情勢〜
文・城口千純

□大戦の終結と新たな支配

 1945年8月15日、日本の全面降伏とともに第二次世界大戦は終わり、
1905年の日韓保護条約、そして1910年の日韓併合から続いた日本の朝
鮮支配も幕を閉じた。その間、朝鮮では様々な独立・抗日活動が行われたが、
終戦前の1943年11月、ルーズベルト大統領、チャーチル首相、蒋介石総
統はカイロで首脳会談を開き、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮
を自由独立のものとする」と宣言した。

 終戦より1年ほど前に呂運亨(ヨウニョン)を中心に結成された建国同盟は、
日本降伏直後から右派・左派も含めた建国準備委員会を組織した。植民地時代
から積極的に独立・抗日運動を展開してきた共産主義者を中心としたこの委員
会は、宋鎮禹(ソンジヌ)ら一部の右派などには協力を得られなかったものの、
9月6日には全国人民代表大会を開催し、朝鮮人民共和国の樹立を宣言した。
共和国の主席には李承晩(イスンマン)、副主席には呂運亨が就任し、委員に
は金日成(キムイルソン)も含まれていた。

 しかし、2日後の9月8日に上陸した米軍は、共和国政府を認めず軍政を敷
いた。11月20日には全国人民委員会代表者大会も開催されたが、米軍政と
の関係は悪化し、逆に反抗勢力と見なされ弾圧されるようになった。
 また、米国は中国の重慶にあった大韓民国臨時政府についても否認し、直前
にソ連との間で取り決められた38度線以南を統治し、一方、北部を統治した
ソ連は、共和国政府の中の共産主義者らを中心に、北朝鮮の社会主義化を図っ
た。

 12月27日には、米英ソがモスクワ協定を締結、中国を含めた4カ国が朝
鮮を信託統治、その後に独立させることが取り決められた。これに対して、朝
鮮国内では信託統治賛成派と反対派が激しく対立し、韓国民主党党首・宋鎮禹
が統治を支持したという理由で暗殺された。


□信託統治賛成派と反対派の対立

 当初、共産党は信託統治に反対していたが、1月に入ると突然に方向転換し
賛成派に回った。そのため、支持基盤の薄かった右派は、信託反対派の支持を
急速に集めて力をつけた。2月8日、ソ連統治下の北朝鮮では北朝鮮臨時人民
委員会が設置され、金日成が委員長に据えられた。

 南朝鮮でも2月14日に韓国民主党を中心とする南朝鮮民主議院が創設され、
李承晩が議長となった。しかし、呂運亨らは南朝鮮民主議院には参加せず、2
月15日、左派を中心に朝鮮民主主義民族戦線を結成し、左派・右派合同(左
右合作)による朝鮮独立を目指して民主議院と戦っていくことになる。

 モスクワ協定に基づけば、米国とソ連は協力して朝鮮を信託統治すべきであ
ったが、両者は共に自らに都合のいい勢力による朝鮮独立を望んでいた。その
ため、朝鮮を巡るその後の米ソ共同委員会では意見が常に対立した。そういっ
た動きを受け、李承晩は南朝鮮だけでの単独政府樹立を示唆したが、主要な政
党は反対の姿勢を示した。米国は、呂運亨を中心に左右合作を模索したが、1
947年3月12日に米国・トルーマン大統領が、いわば冷戦の開始宣言とい
えるトルーマン・ドクトリンを発表したことで、決裂は決定的となった。

 1947年5月21日から始まった第2次米ソ共同委員会で、米国はソ連に
対して朝鮮南部及び北部での選挙実施を提案したが、ソ連側は朝鮮の状況を鑑
みて朝鮮の分断を決定的なものにすると拒否した。また、左右合作に向けて活
動していた呂運亨が、李承晩が放ったとされる刺客に暗殺され、米国は194
7年9月17日、朝鮮問題を国連に提訴した。


□南北政府対立

 ソ連は、国連への提訴はモスクワ協定違反だとしたが、米国は数の論理で半
ば強引に決議を進め、1948年3月末に南部のみでの代議員選挙が実施され
ることが決議された。同決議は事実上、南朝鮮の単独政府樹立へ向けたもので
あったことは明白で、朝鮮国内でも反対闘争が繰り広げられた。二・七救国闘
争に端を発した闘争は、1948年4月の済州島四・三蜂起に至り、後に李承
晩によって暗殺される金九(キムグ)ら右派も単独選挙に反対し、北朝鮮の政
治指導者にも呼びかけ、平壌で朝鮮政党社会団体代表連席会議(南北連席会議)
を開催した。

 そうした混乱の中、5月10日に選挙が実施され、198名の議員が選出さ
れた。この選挙では、2月7日から5月14日までの混乱で合計334名が死
亡したとされている。その結果を受け、5月31日には大韓民国制憲国会を開
設、7月10日には国号が大韓民国と決定され、20日に初代大統領として李
承晩が選出された。米国政府は8月15日、大韓民国政府を正式に承認し、そ
の3日前の12日には中国も同政府を承認した。それでも、金九らはあくまで
も南北統一による独立を目指して南北連席会議に参加した。

 一方、北朝鮮では9月2日、朝鮮最高人民会議が開催され、8日には朝鮮民
主主義人民共和国憲法が採択された。同憲法では、朝鮮民主主義人民共和国の
首都をソウルと定め、全朝鮮をその領土と規定した。9日には、朝鮮民主主義
人民共和国政府が樹立され、内閣首相に金日成が選出された。これにより、お
互いの存在を認めない政府が南北に並存することになった。


□南北戦争への国連軍参戦

 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。38度線を越えた北朝鮮軍は、
わずか3日間でソウルを制圧し、9月には釜山にまで進撃していた。しかし、
9月25日には国連軍が参戦し、韓国側は28日に再びソウルを奪還、10月
1日には北朝鮮に降伏を迫った。しかし、北朝鮮側は応じず、国連軍は38度
線を越えて中国国境まで迫った。
 国連軍には、英国、フランスを始めとする西側諸国に加えて、タイ、フィリ
ピン、あるいはトルコ、エチオピア、南アフリカ、さらにはコロンビア、ニュ
ージーランドなども軍を派遣した。国連軍は北朝鮮軍を追い詰め、中国国境に
まで侵攻した。毛沢東らによって成立したばかりの中国は、北朝鮮を助ける為
に参戦し国連軍と戦った。これに対し、米国・トルーマン大統領は北朝鮮での
核兵器使用の可能性を示唆した。

 1951年1月には、再び北朝鮮側がソウルを奪還したが、その後は38度
線附近で戦況は膠着した。そして、1953年7月27日、板門店で朝鮮休戦
協定が調印され、双方に多くの犠牲者を出した朝鮮戦争は終結した。朝鮮戦争
のきっかけとして、どちらが先に仕掛けたのかという点が問題にされるが、朝
鮮国内にあった左派と右派の対立、あるいは大韓民国及び朝鮮民主主義人民共
和国がともに武力による南北統一を考えていたことなどが根本的な原因であろ
う。また、国連が南北分断に大きく加担していることも、決して見逃すことの
できない事実であろう。


□おわりに

 朝鮮戦争は、南北双方の不審感を強めただけでなく、米国とソ連にとっても
その溝を深める決定的な要素となった。以来、現在に至るまで朝鮮半島は分断
されたままである。しかし、多くの朝鮮人は南北の統一がいつか達成されるこ
とを望んでいる。韓国は現在、民間レベルでの交流も積極的に進めつつあり、
統一に向けて着々と歩を進めている感がある。

 ソ連崩壊後の北朝鮮は、我が国では「共産主義」で「怖い国」というイメー
ジばかりが先行しているように思われる。しかし、南北分断のいきさつについ
ては、あまり報道されていないのが実情であろう。本文ではごく当たり前のこ
としか書かなかったが、近くて遠い国「朝鮮」について興味を持つきっかけと
なれば幸いである。