1990年6月10日         労働者の力               第10号

現代の社会主義とプロレタリアート
織田 進

東ドイツ・プロレタリアートの選択

 東ドイツで三月に行われたはじめての自由選挙の結果は、衝撃的なものであった。投票の過半数が、西ドイツへの併合によるドイツ統一に投じられだ。漸進的な統一が選択されるだろうとの事前の予測は大きくはずれ、この国の半世紀つづいた「社会主義」の歴史の終わりを、一日も早く見たいと願う東ドイツ人民の熱望が、見まちがいないようのない明白さで示された。
 東ドイツのプロレタリアートは、自由を奪われることとひきかえに管理されながら生活する保障が国家から与えられている「社会主義」体制を、自由な意志表示の最初の機会に、未練なくなげすてた。彼らが、「冷酷な市場のおきて」に支配された西の経済にいますぐのみこまれることをためらい、「既得権」の防壁をたとえば社会民主党にたくすだろうとした「期待」は、裏切られた。彼らは、スターリニスト官僚専制から、いちばん早く、いちばん遠くに行けると思われた道をえらんだのである。
 彼らは、「自由」に最大の価値を与えた。いま手にしつつある「自由」が、二度と奪われないこと、虚偽と貧困と暴力に支配された昨日の圧制が、絶対に再びよみがえらないことの確実な保証を手にいれること、選択の基準はここにおかれた。そして、この単純ではげしい動機こそが、東ヨーロッパとソ連のすべての国、すべての民族の行動の根底に共通にある。独裁が打倒され、「革命」は勝利したにもかかわらず、人民は未だ不信のなかから国家を凝視している。自らの勝利が万全であるとも思わず、敵が滅び去ったとも確信していない。
 西への併合によるドイツ統一は、社会主義からの東ドイツの離脱を意味するため、社会主義連動のなかに深い失望を生んだ。それは、帝国主義と労働者国家の対抗としての戦後世界の階級闘争関係において、重大な失地であるようにうけとられている。怒涛のような東ヨーロッパ官僚専制の解体過程に、社会主義の民主主義的再生の大きな希望をいだいた人々は、この選挙結果に冷水をあびせられることとなった。さらにこの統一への急速な動きと、右翼勢力の伸張は、ヨーロッパの中心部に反動的な帝国を誕生させて、世界をかつてない惨禍にまきこんだ第二次世界大戦前のヨーロッパ史の記憶とむすびつき、強大なドイツ国家の出現にたいする根拠のある警戒をよびおこしている。
 だが、「社会主義」からの離脱となったこの統一は、果たして反動的なものであろうか。
 ドイツの人民にとって、民族の分断は悲劇であり、その克服は悲願であった。統一はどんな犠牲にもあたいした。それゆえ、どのような立場からであろうと、この統一に背をむけることは、ドイツ人民に背をむけるのと同じである。
 分断されたドイツのままで、社会主義にむかってたたかうことを、ドイツのプロレタリアートは拒否している。彼らがこれから社会主義を求めるとすれば、一つの国民的階級としてである。統一は、望ましい形であろうとなかろうと、歴史の宿題を解決したのである。東西プロレタリアートの経験の共有がはじまり、新しい出発点が与えられる。虚偽のうえに成立した社会主義のかわりに、真実の前進が開始されるとするなら、それを悲しむべき理由はない。もし統一したドイツ・プロレタリアートひきよせる力を社会主義が失っているとすれば、その原因はこの統一にではなく、社会主義自体の衰退にあるといわなければならない。

ソ連邦解体の危機

 ゴルバチョフを中心に結束しているソ連共産党の中央改革派指導部は、これまで、ソ連国家の枠組みを守りながら、全体としての改革を推進しようとしてきた。
 だが、危機はソ連邦国家の枠をのりこえはじめている。ゴルバチョフ派の指導力は、現実をトータルに掌握する強さを失い、個々の破綻に対処することに追われている。
 状況は、単にゴルバチョフの政策が不十分であったり、遅すぎたりしたために生じたといいうる段階をこえている。ベレストロイカは、新しい歴史的局面に入った。それは、次のような局面である。
 上からの再編として開始された労働者国家ソ連の「民主主義革命」の進展は、現在の官僚専制の全面的な批判にその歴史的形成過程の問い直しを必然的に重ね、ついにソ連邦としての国家の枠組み自体の再検討の要求を、おしとどめることのできない奔流として出現させるにいたった。この奔流を構成する諸民族、その内部の諸階級の主張や要求は、かならずしも一致していないし、対立すらしている。改革にたいしては頑強に抵抗する保守的官僚機構と人民の利害の本質的な非和解性が、
民族共同体としてのモスクワとの対抗のなかに、未だ埋没している現実もある。逆に、いっそう徹底して改革を推進しようとする急進的潮流が、保守派との妥協の枠組みを打破するために、連邦の統制を脱し、民族共和国の自己決定能力を高めようとたたかう現実もある。そして、それらさまざまの目的や経過に発する遠心的傾向が、相互に促進しあって、大統領政府である連邦中央権力の事態掌握能力を低下させ、ソ連邦はいまや解体にむかって急速に進行している。
 これは、ベレストロイカの新たな、予断を許さない危機の段階である。
 この状況の行く先を見定めることは、困難である。だが、ゴルバチョフ政府が一刻も早く、民族共和国の独立の権利を無条件に承認し、その上で、諸民族の自由な意志にもとづく平等な協調の機構としての新しい連邦のあり方を、諸共和国の共同の努力でつくりだそうこする立場に立たなけれ
ば、連邦の解体に帰結する重大な破局に直面することは、もはや避けがたいと思われる。
 もし、ソ連邦の枠組みを維持しながら改革を推進し、現実のソ連邦を民主的に改革された労働者国家に変えることが社会主義の未来にとってきわめて大きな利益になるとするならば、社会主義のためにたたかう全世界の人々は、ゴルバチョフがこのような立場に移行するように要求しなければならない。だが、こうした展望はほとんど幻想に近いものであり、むしろ現実のソ連の不可避的な解体は、二十世紀の社会主義にとって最大の障害の一つであったスターリニズムの壊滅の物質的な
前提となるのであるから、いっそう重要な歴史の進歩であると考える場合には、また別の観点がありうるだろう。そして、ソ連邦の諸民族と東ヨーロッパの人民は、後の立場にいるように思われる。

労働者国家プロレタリアートの資本主義への傾斜

 従来の体制の改革・修正にとどまらず、体制の抜本的で歴史的な再換討に進む傾向は、ソ連のみではなく、東ヨーロッパ諸国全体をとらえている。しかもこの傾向は、労働者国家の改革という枠にはとどまらず、国家の労働者国家としてのあり方そのものを問題にしている。具体的な政策をめぐる議論のなかに、きわめて本質的な政治的選択が、直接に織り込まれている。
 東ドイツを先端とする東ヨーロッパ諸国の人民が、スターリニスムからの決別ののちにつかみとろうとしている新しい方向が、西側への傾斜であり、資本主議制度への政治的・経済的接近であることは、すでに十分に明らかである。これにたいし、民主化された労働者国家への道を模索しようとする努力は、ますます深刻になっている経済危機と生活の困難を打開する処方せんを示すことができないままで、残念ながら説得力をもたないでいる。人々は西ヨーロッパにひきつけられ、その市場と資本と技術にむすびつくことを求めている。
東ヨーロッパの振り子は、資本主義の復活の方向に揺れている。
 こうした現状を、社会主義のためにたたかう人々は、どのようにとらえるべきであろうか。はたしてこれは、単にスターリニズムの敗北にすぎないのではなく、われわれ自身の敗北でもあるのだろうか。
 第四インターナショナル自身もふくめて、マルクス主義者の多くがおちいりがちな独善のなかで、護教論がはばをきかせてきた。その方法は、現実を説明するのに、絶対に正しいテーゼからの逸脱を理由にあげる。あることが起こらないのは、あることが欠けているためだ、というのである。こうした方法から、東ヨーロッパの現実を否定的にとらえれば、進行している事態ば「反革命」に他ならない。
 だが、たとえ西ヨーロッパのマルクス主義者に「反革命」ときめつけられても、この変化は圧倒的に多数の人民が積極的にえらびとったものであることにかわりはない。もし、圧制から解放されるためにたたかい、自由のために命をかけた人民が、「革命」をみすてるのなら、その名にあたいしないのは「革命」のほうであると、自省すべきであろう。
しかもこの変化が、一国の例外的な事情がもたらしているのではなく、全東ヨーロッパからソ連にいたるひとつの巨大な潮流である以上、マルクス主議こそが自らを問わねはならないのであって、進行している事態を「反革命」と呼んで切り捨てるようなごう慢は、自らと現実の歴史の距離を絶望的に遠くする結果しかもたらしはしないであるう。
 とはいえ、この現実が資本主義の正当性を証明しているということは、決してできない。
 アメリカ、西ヨーロッパ、日本の資本主義権力は、一致してコルバチョフのベレストロイカ政策を支援している。帝国主義の反動的一翼には、ゴルバチョフを助けることが西側の利益を損ねると主張しているものもあるが、全体としての資本主義陣営の足なみは、「社会主義の改革」を促進し、世界的な軍縮を結実させようとする点でそろっている。
 ソ連の破局を回避することに帝国主義の側が利益を見出だしているのは、地球規模の危機を解決する能力を資本主義が喪失しているためである。環境破壊として進行している地球規模の危機は、「低開発・後発工業諸国」の危機の深化と一体である。ソ連の国内危機の激化は、反改革の保守的官僚派による新たな国際緊張路線を台頭させるかもしれない。それは中南米やアラブ・アフリカ、アジアにおける革命的動揺を拡大する戦略の復活にむすびつくだろう。それは帝国主義諸国の世界コントロールの衰退に、致命的な一撃をくわえるかもしれない。すなわち、ソ連改革政権の敗北が、そのまま西側のジレンマの深化としてはねかえる力学がはたらいているのである。
 したがって、現在の世界が、社会主義にたいする資本主義の勝利の時代であるとする主張が、皮相な見方にすぎないことは、明らかである。資本主義もまた自らの危機をかかえる。現代世界の諸部分は、それぞれ全体としての「文明の危機・ゆきづまり」の構成要素に他ならない。
 ソ連・東ヨーロッパでは、体制の存立そのものが、いま直接に問われている。この危機は、資本主義の勝利を意味しなくても、「社会主義の失敗」を宣言している。「社会主義の失敗」は、国際的なマルクス主義の共通の危機である。「社会主義の失敗」の歴史的根拠を解明し、新しい未来を提示することは、その共通の責任である。それは実践的な政策的課題であるばかりでなく、思想上の課題でもある。この責任をはたさなければ、マルクス主義は、思想として現実に生きていく資格を失う。ソ連・東ヨーロッパの危機の深まりに、「反革命」として背をむけるか、自らの社会主義の問題として正面から立ち向かおうとするかは、はとんど原則的といってよいほどちがっている。

社会主義への新しい挑戦

 労働者国家の人民、とりわけプロレタリアートは、一般的に制度としての資本主義に魅力を感じているのではなく、資本主義諸国におけるプロレタリアートのあり方にひきつけられているのである。たしかに、資本主義諸国におけるプロレタリアートのあり方、その階級的利害の実現の方法は、労働者国家におけるプロレタリアートのあり方とは大きく異なっている。どのような要素が彼らをひきつけるのか。
 二十世紀は、二度の世界戦争と、ロシア革命にはじまるプロレタリア革命を通過して、帝国主義中枢部に、プロレタリア階級の国家への統合の政治制度としての「現代民主主義」を成立させた。この政治制度と、その物質的な基礎であり、産物でもある現代の資本主義工業経済は、プロレタリアートを深くつつみこみ、プロレタリアート自身によって深く規定された資本主義体制として、十九世紀的、また第二次世界大戦以前的資本主義とは、決定的に異なっている。すなわち、現実に存在する「西側」資本主義中心部は、今世紀のフロレタリアートの階級闘争を主要な歴史的要因として成立している、「プロレタリア化」された資本主義である。そこでは、階級闘争が国民国家に体制内的に統合されているのである。
 これにたいして労働者国家は、その名に反して一部のエリートを除くプロレタリア大衆を沈黙と無権利のなかにとじこめ、いかなる自主的な行動を展開する余地も奪ってきた。国家がプロレタリアートの名において全権を発動するかわりに、現実のプロレタリアートはすべてを放棄させられてきた。
 現在、労働者国家のプロレタリアートが「西側」にひきつけられている根拠は、二十世紀後半の世界のこうしたあり方のなかに存在している。すなわちそれは、プロレタリアート自身のあり万の問題であり、歴史的なプロレタリアートの階級闘争と社会主義の問題である。
 社会主義の理論が、十九世紀的あるいは第二次世界大戦以前的資本主義における階級闘争の理論としてしか存在せず、マルクス以後ほとんど見るべき発展をとげず、二〇世紀後半における資本主義の巨大な伸張と変貌に対抗すべき新しい方法を開発できないでいるうちに、資本主義へのプロレタリアートの統合は深く進展した。この意味において、資本主義の中心部におけるプロレタリア革命の運動は孤立し、敗北した。そして今、その結果として、労働者国家プロレタリアートの西への傾斜かもたらされているのである。
 資本充主義諸国において社会主義を退求するたたかいの前進がなければ、社会主義の力の復活はあり見ないだるう。このことは、たしかにこれまでも真実であっただろうが、今日では、現存する労働者国家の存在に社会主義の正当化の物質的証明を代行させる虚構が生き延びる余地は、もはやまったくなくなっているのである。
 ソ連・東ヨーロッパのプロレタリアートの当面の選択が、社会主義から遠ざかろうとする方向に下されるとしても、われわれは驚くべきでも、嘆くべきでもない。それは必然であり、社会主義とプロレタリア革命が、その負債の支払いを歴史から要求されているにすぎないのであるから。結局、真実の前進は虚構の上には成立しえないのであり、社会主義の真実の前進のために、新たな挑戦を開始することが、いま求められているのである。

トロツキー没後五〇周年国際シンポジウム

「現代史の激動とトロツキー」開催へ実行委員会結成

第四インターナショナルの創設者トロツキーがメキシコでスターリンの手先に虐殺されてから五〇年を迎える。
 スターリニズムに対して最も仮借なき批判を加え、「労働者国家」防衛のために決定的にスターリニズム官僚体制打倒こそが必要だと定式化したトロツキーは、具体的に第四インターナショナルを創設し、その強固な建設をもって「ファシズムと戦争」の時代への対決を呼びかけた。世界革命か人類の破局かのぎりぎりの選択に立たされているというトロツキーの根底的な危機意識こそ、「近代」のいきづまりからの飛躍・転換を世界社会主義革命の実現に求めたのである。
歴史を切り開くこと一般でなくファシズムに象徴される人類史の野蛮状態への逆転と主体的に闘い抜く意志こそ、一九一七年ロシア革命をなしとげ、コミンテルンを建設した最良の共産主義者たちの闘いを最も鋭く継承し、発展させた、主体的意志としてこの上ない発現であった。
 人類が飛躍するための最大の武器としての労働者国家ソ連邦を世界最大の牢獄に変質させたスターリニズム・ボナパルチスト官僚体制はいま、どうにもならない政治経済矛盾を露呈し民衆の敵意の海のなかで自己解体の道を歩んでいる。労働者国家無条件防衛、スターリニスト官僚打倒のトロツキーの意志と決意は、世界革命の根拠地の防衛・強化のためにこそなされたのであるが、彼が展望した政治革命の基本構想の土台となる民衆自身のスターリニズム体制への敵意、打倒の意志が現在はっきりと表現されているのである。トロツキーによって直接に政治革命として展望された構想とは位相を変えたものではあれ、ボナパルチスト官僚体制にひそむ鋭い矛盾が民衆の決起の土壌であるという構想の基本はいささかもゆるがない。
 トロツキーの思想は、スターリニズム崩壊の不可逆的進行がつくりだしている政治的混迷、混とんをつらぬいて未来を指し示す最も重要な指針にほかならない。
死後五〇年。トロツキーが体現したものをあらためて捉えかえし、その継承と現代的な新たな視覚のもとでの発展、あるいは歴史的再評価の努力の必要性は世界的な共通の認識となりつつある。
 今年三月に西ドイツで開催された国際シンポに続き、ラテンアメリカでは九月にメキシコ国際シンポが予定されている。アジアにおける国際シンポを東京開催として準備されている実行委員会の努力に最大の敬意を表しつつ、ともにシンポジウム成功をかちとっていく決意である。

トロツキー没後五〇周年記念
国際シンポジウムへの賛同を呼びかけます

 一九四〇年八月、トロツキーがメキシコでスターリンの手先によって暗殺されてから今年で五〇年になります。半世紀のこの歳月は、世界の社会的・政治的構造に多くの変化をもたらし、人々の意識にも根本的変化をもたらしました。
 とくに、一九八九年のソ連・東欧をおそった激動は、自由と人権を圧殺したスターリン型の「現存社会主義」の最終的破産を明らかにしました。一党独裁から民主主義へ、官僚主義的な指令型計画経済から市場経済の導入へ、ソ連による東欧の支配からブロックの解体へと事態は急速に進んでいます。
 しかし、ソ連・東欧の激動によって、民族問題など、これまで強権的に押え付けられていた諸矛盾も表面化しています。とりわけ東欧諸国では、ソ連の占領下で共産党の独裁政権が誕生したという歴史的経過をたどったため、「現存社会主義」の否定は、社会主義思想総体の否定へと流れているかに見えます。また、ソ連の経済的・軍事的弱体化と米国に対する協調主義路線によって、第三世界への米国の干渉・介入への抑制力が著しく弱まっています。ヤルタからマルタへの緊張緩和の動きと同時に、世界的な政治状況の不安定化・流動化も深まっているといえましょう。
 そして、「社会主義」に対して生産力において優位を誇示しているかに見える「先進」資本主義も、世界的なマネーゲームへの傾斜、地球的規模での環境破壊、失業やホームレスの増大に見られるように腐朽化の様相を深めています。また、第三世界の貧困と飢餓を市場経済によって解決するのは不可能であることも明らかになりつつあります。
 グローバルな視野と、現代史総体を対象化しうる歴史的視点を持って、「現存社会主義」と同時に資本主義をも超克しうる新しい社会システムのヴィジョンの探求と構築が課題とならざるをえない状況が生まれているといえましょう。
 このような時期に、私達は、ロシア革命の卓越した指導者の一人であるとともに、全体主義的官僚化への道を歩むスターリンに対して、もっとも仮借ない批判者・敵対者であったレフ・トロツキーの没後五〇周年に際して、記念シンポジウムを開催したいと考えています。スターリンの歴史の偽造によって、闇に葬られてきた、トロツキー、ブハーリンなどの反対派・異論派を正当に位置づけ、公正かつ批判的な検討を加えることなしには、「現存社会主義」のトータルかつ根本的な批判も、「現存社会主義」の崩壊から教訓をくみとり、新たな変革への展望と理論を構築することも不可能だといえるからです。
 また、トロツキーは、フランス・シュールレアリストたちとの周知の交流のみならず、ロシア、ドイツの思想・文化にも影響を与えていたという意味で、二〇世紀前半のひとつの大きな「文化現象」でもあったと思います。二〇世紀文化を再考するにあたって、各国への「文化現象としてのトロツキー」の衝撃も、これから発掘していかなければならない仕事のはずです。彼の思想の再検討と復活は、野蛮で狭隘なイメージと結びついた「社会主義」の理念を一新させるかもしれません。
 レーニンとともにロシア革命を指導し、後進国ソ連は先進国革命との結合なしに、社会主義を建設できないことを主張し、スターリンの「一国社会主義論」および党と国家の官僚化に非妥協的批判を浴びせ続け、ナチズムの台頭した時代に、スターリンの社会民主主義主要打撃論を批判して、反ファシズム統一戦線を唱えたトロツキーの原則的立場は、今日のソ連・東欧の事態と照らしあわせるとき、多くの貴重な示唆を与えうるものだと思います。トロツキーほど、実際に歴史で果たした役割や著作と無関係に、悪罵と誹謗の対象にされ続けた人物は稀であるといえるでしょう。しかし、ソ連のペレストロイカのもとで、学者・研究者のトロツキー再評価が進められており、すでに、発禁になっていた著作の一部が公表されています。今年は、ドイツでトロツキーに関する国際シンポジウムが開かれ、メキシコでも今夏シンポジウムが計画されています。これまで日本では、西欧と比べても、進歩派知識人の中にトロツキーをタブーとする言論状況が存在していましたが、私達はトロツキーの名誉回復はもとより、こうした言論におけるタブーを二度と繰り返さないことが必要だと考えています。
 以上のような問題関心にたって、専門も考え方も様々な私達呼びかけ人は、
 一一月二、三、四日に、ソ連を含む外国研究者の参加を得て、
 国際シンポジウム「現代史の激動とトロツキー」を開催します。
 多くの研究者、理論家、活動家、そして新しい社会システムの追求が必要だと考えるすべての方々が私達の試みに賛同され、本シンポジウムとその準備に積極的に参加してくださり、また財政面での協力をしてくださるよう、広く呼びかけたいと思います。
 一九九〇年五月二〇日
 トロツキー五〇周年実行委員会
いいだもも(作家)
伊藤 成彦(社会思想史)
伊藤 誠(経済学)
片桐 薫
上島 武(社会主義経済論)
菊池 昌典(社会主義論)
黒滝 正昭(社会思想史)
嵯峨 一郎(経済学)
左近 毅(ロシア思想史)
佐々木 力(科学史)
雀部 幸隆(社会主義論)
塩川 喜信(農業経済学)
志田 昇(美学)
清水 多吉(社会思想史史)
杉村 昌昭(フランス文学)
中野 徹三(社会思想史)
針生 一郎(美術評論)
平田 清明(経済学)
広松 渉(哲学)
藤井 一行(ロシア思想史)
藤本和貴夫(ソヴィエト史)
降旗 節雄(経済学)
前野 良(政治学) 
水田 洋(社会思想史)
水谷 驍(ポーランド現代史)
矢吹 晋(現代中国論)

東京立川市議選
島田清作さんの勝利を
 立川市議選が六月十七日投票に向け闘われている。定数三十六に対して、最終的には三十九名が立候補するという完全な少数激戦である。
 一九六〇年代三多摩社青同と統一労組運動以来の私たちの友人である島田清作さんはこの少数激戦の市議選に、唯一の革新無所属候補として砂川闘争以来の反戦・反基地の市民運動と二十四年間の議員活動の蓄積をひっさげて立候補し闘っている。市民運動に徹し、非妥協的な反基地・反戦の闘いの先頭の立ち続け、立川反戦市民連合を組織してきた島田清作さんの市会議員としての活動歴は、労組依存型に陥ってきた社会党に比較しても際だったものだ。
 だが今回の選挙情勢は楽観できない。社会党はブームに乗り候補者を増やし、都議選以降勢いに乗る社民連は議席なしのところに一挙に二名を立候補させた。旧来の立川の社会党・総評構造の政治的停滞に抗し、唯一の革新無所属候補として明確な政治的位置を占めてきた島田清作さんに対する競合が生み出されている。
 今年はじめ、スペース九〇の高見圭司さんや目黒区議の宮本なおみさんらを中心にして「島田清作さんを落とすわけにはいかない会」が首都圏を中心にしてつくられるなど、島田清作さん支援の輪は広がっている。
 前回に比べ大幅な得票増が必要とされている。いままで以上の努力によって島田清作さんを有権者に浸透させることが必要になっている。
 立川反戦市民連合は、立川在住の知人、友人を一人でも二人でも大至急紹介することを広く要請している。この要請にこたえ、島田清作さんの当選をかちとろう。
連絡先
 立川反戦市民連合
 立川市錦町二 ―二―二二
・〇四二五―二四―三八四一
天安門弾圧一周年で
学生らがハンスト
 先週末、約八十人の学生がモスクワ大学の外で一日のハンストを行った。一年前のの中国天安門広場での民主化を求める学生たちに対する弾圧を祈念するものであった。ハンストを組織したのは、モスクワ学生組合とモスクワコムソモール委員会である。モスクワソビエト執行評議会は、この行動を許可していた。ハンストを行った人々は中国の学生たちがかぶっていたバンドをつけていた。また、北京のデモ隊への射撃に関するソ連当局の対応に抗議する集会も開かれた。これらの行動で抗議者と民兵との間の衝突はなかった。
モスクワニュース紙六月三日号

赤の広場のメーデー 何が起きたのか
モスクワニュース紙五月二十七日号

 労働者連帯の日、メーデーに赤の広場で起きた事態についてソビエトの新聞のほぼすべてがなんらかの解説を加えてきた。今はモスクワニュース紙が発言するときである。赤の広場の事件に対する感情が落ちついた現在、われわれは偏見なしに事件を分析する。

演壇から眺めた事態

 まずモスクワ市ソビエト執行委員会議長のユーリ・ルズーホフの発言。
 私は政治家ではなく、単なるメーデーの組織者だった。この立場からメーデーのデモの準備にあたった。第一と第二のデモ隊の組織者は、民兵、交通監視隊、小売人や屋台におおいに感謝する事態だった。
−−−ずっと演壇に立っていたのですか。
 レーニン廟の一番高いところではないが、演壇の下の方で副首相や大臣たちと一緒に並んでいた。招待客用のメインスタンドの隣につくられた木製のスタンドだった。
−−−指導者たちがレーニン廟を立ち去った後もそこに残っていたのですか。
 立ち去らなければとは思わなかった。まわり全体の雰囲気にしたがう理由はなかった。
−−−そこの雰囲気はどうでしたか。
 最高指導者たちが上段から立ち去った後、下の方にいたほとんどすべての人はいなくなった。残ったのは、おそらく一人か二人だろう。残るか、それとも立ち去るべきか選択しなくてはならないことに気づいて、気まずい思いになった。それでも私は動かなかった。
−−−第二の普通ではないデモ隊は驚きでしたか。
 最初のデモ隊が流れるように、あるいは通常のように通ったかいえない。私は初めて、赤の広場で政府やモスクワ市ソビエトが痛烈に批判されるのを聞いた。そうした批判以上に、第二デモ隊はまったく特異だった。様々な要素が入り交じった非常に多様な隊列だった。先ずまったく異なった、政党と呼んでもかまわない政治勢力が実在した。自由民主主義者、アナルコサンジカリスト、キリスト教民主同盟がそれぞれの隊列を組んで行進した。十字架上のキリストを描いた旗も掲げられていた。これらのデモ隊は、政党結社の自由のスローガンを叫んでいた。私は、こうしたことのすべてに何も悪い感情や怒りをもたなかった。
 特に不愉快におもったのは、先ず第一に大統領への尊敬の欠如だった。わが国の複数主義や表現と政治活動の自由は行き過ぎている。私は、共産主義者ではないが、同様に反共スローガンも不愉快だった。党の指導部はペレストロイカのイニシアチブをとったが、政治状況は誰にとっても複雑で嵐のようである。どんな決定も誰かには正しく、それ以外の人には正しくないものになる。だが、全体の傾向は、わが国社会のより深い民主化に向かって進んでいる。これは否定するのは間違いであろう。そして、旧来の、あるいは新興の政治勢力も、わが国に存在する政治構造を悪い方法で使わずに互いに影響力の点で競争しなければならない。この政治構造は依然として存在しているのだから。そして、改革は平穏に行われなければならない。
 どんな政治活動も、それが非人間的かファシスト的でなければ、許される。すべての活動家は互いに寛容でなければならない。わが社会に長きにわたって存在してきたような生活様式のはっきりした否認の上にしか、しっかりした新しい政治構造の基礎は築かれない。われわれの生活がどれほど不完全であれ、少しでも前進する方向に努力すべきであろう。だが、人々は市民社会では絶対に許されないような方法で自己主張している。これが私をがっくりさせたものである。

 立ち去らなかった理由

 あそこで起きた事件というものは、モスクワで、そしておそらく全国で生まれている客観的な過程を増幅して歪めた形で反映していると思っている。全体像を理解するように努めなければならない。これが、立ち去らなかった理由だ。モスクワのメーデーデモを教訓にしなければならない。もちろん、デモが終わったとき、私には少しもお祭り気分がなかったといっておきたい。

 デモ隊からの発言

語るのは、アナルコサンジカリスト連合の指導者、アンドレイ・アサーイエフ。 アナルコサンジカリストの隊列は全部で一三〇人くらいであった。われわれは、ちょうど民主派の隊列の先頭がレーニン廟の前に到着したとき、黒旗を掲げて赤の広場に入っていった。音楽が盛んに演奏されており、それがやんだときになって人々が叫んでいるスローガンが聞こえた。レーニン廟の最高段にいた人々が突然いなくなった。われわれの隊列の中のいくぶんせっかちな人は、指導者たちがいなくなったのはわれわれの黒旗にあわてふためいたためだといった。周囲の人々は「リトアニア万歳」「リトアニア封鎖をやめよ」「ソ連共産党打倒」「マルクス・レーニン主義粉砕」とか叫んでいた。
 しかし特定の政治家の悪口は聞かなかった。いま思うと、指導者たちは驚いていたようだ。デモ隊の中に憤慨した人々が登場することや、民主派の隊列が政府への不満を当然示すことを期待した人もいるだろう。現在の人々の態度がいかに興奮しやすく、率直であるかを理解した。

 大衆的デモがこれほど大胆に行動したことは一度もない

 わが国では、メーデーの日に自分が表明したいと思っているスローガンを好きなように表現して何も起こらないなんてありえなかった。人々は長きにわたって否定されてきたこの機会をしっかりつかんだ。
 だが、大きな理由は次の点である。民主派の隊列は、反対派勢力としてできるだけ慎重に行動しようとしていた。われわれは「労働者の集会」が終わるまで赤の広場の隅で待たされた。その後、行進を許可されたが、論争をする機会がなかった。というのは、われわれの見解を聞くことができる人がいなかったからである。兵士の列がわれわれをレーニン廟からさえぎった。音楽はひどく大きな音で演奏されており、人々の叫び声をかき消すためだという印象をもったほどだ。
 赤の広場の行進を許可されたが、われわれは聞くべき相手とみなされていなかったようだ。われわれは、沈黙劇に参加したかったわけではない。誓願デモをしたかったのではない。独自の立場、見解を表現したかったのだ。どのようにしてか。あの状況の中では、唯一の方法は叫ぶことしかなかった。
 だが、表現することと、われわれの見解を人々に理解させることは別であった。われわれのスローガン、叫びは次第に大きくなり、攻勢的になっていった。レーニン廟の正面で「ソ連共産党打倒」「KGB打倒」「レーニン主義粉砕」と叫んだ。
−−−指導者が立ち去ってデモ隊は静かになりましたか。
 彼らが退場して状況はさらに悪化した。指導者たちの態度が、諸君が叫び続けるなら、われわれは一切聞かないといっているかに思えた。赤の広場のメーデーでは、二つの時代は対決し、衝突した。一方には、レーニン廟の赤旗の後ろにこれまでの官僚的な勇壮華美があった。他方には、手製のプラカードやスローガンをもった様々な色の旗を掲げた群衆がいた。大きな寛容が発揮されたと思う。
―−−−政府が発揮したというのですか。
 私はアナーキストであり、あえて政治家に忠告する気はない。だが、奥のでも参加者はうまくゴルバチョフをレーニン廟から追い払ったというので、一種の奇妙な意気揚々たる気分になっていた。立憲民主派がデモに参加せず、デモに参加した勢力を特権を悪用し、休暇を無駄にするものとして非難したいうのは本当である。
 どちらの側も生じた事態から学ぶべきだと思う。また、大統領あるいは大統領会議のメンバーは事件についてはっきり語るべきだと思う。彼らの発言が事件に批判的であっても人々はしっかり聞くだろう。しばらくは「われわれ対彼ら」の対立感情が残るだろう。
ナターリヤ・ダビドーヴァ(聞き手)

過去に別れを告げよう

 中央の諸新聞は、メーデーにモスクワの下町で発生した事件を一斉に非難していた。実際に何が起きたのか正確な事実に適切に触れること無くそうした。テレビはもちろん新聞よりも早く、同じように非難したが、生じた光景を放映せずに、それを隠してである。テレビは、メーデー取材をカットして放映した。
 すべての人間は、自分が好きでないものに反対する権利を有し、また、違った意見をもつ人を説得する権利をもっている。しかし、ある人物に対して隠されている事柄があると、それが何であれよいことに違いないと考えるものである。そして、これが悲しいことにわれわれが生まれ育ってきた状況である。
 だから、何か判断を下す前にいわなければならないことがある。
 モスクワ労働組合が主催したデモが終わった後、レーニン廟の前をポスターやプラカードを掲げ、あらんかぎりの声を張り上げて叫ぶ人々が埋めた。赤の広場では、これ前で一度として聞かれなかった言葉が。もっと正確にいうと、たった一つの言葉であった。「打倒」である。世界帝国主義に対してではなく、政治局、大統領、ソ連共産党、KGBなどに対してであった。これらすべてを見て聞いた壇上の人々は、しばらくのあいだ、互いに相談しあって、そして退出した。デモが終わったとき、すでに彼らの彼らの姿はなかった。もちろん、赤の広場で一度も起きたことのない光景だった。彼らが退出したとき、「面汚し」という言葉が彼らの後を追った。人民代議員のテレマン・グディリヤンは、軍服を着た人物からメガホンを取り上げ、この事態を「民主主義の勝利」と呼んだ。
 これがすべてである。当日、赤の広場には、わが国の豊かな政治的過去に精通している人々がかつての皇帝、ニコライ二世やスターリンの肖像を掲げて参加していた。また、今日安楽椅子で眠っている人は明日には監獄に入れられるようにすべきだという声もあった。だが、あえていうが、演壇上の人々を立ち去らせたのは、こうした光景やスローガンではなかった。
 注目すべき事態が起こったと信じている人々がいる。他方には、恥ずべき事態だったと思う人々がいる。私は、まず第一に事態にすべてがテレビで放映されるべきだったのであり、そうであったなら第二に、何百万もの市民が赤の広場で起きた事態を過ぎ去った時代とのぶっきらぼうな、まことに友好的ではない別れであったことを理解したと考える。すでに、この時代にさようならをいったとわれわれは思っているが、その時代を復活させたいと考えている人々がまだいる。
 勤労人民のメーデー行進は本来、党と政府、人民の一枚岩の揺るぎない団結を誇示するものと考えられていた。かつては、メーデーの隊列に参加できることは名誉とみなされ、デモ参加者はレーニン廟の最高段から挨拶する指導者たちとの一体感に圧倒されたものであった。この一体感は、この感情をもちたくないと思っている人々(あるいは、この感情が欠如していると思われた人々)が彼らの意思に反してモスクワから遠くに追い払われた事実によって達成されていた。また、モスクワに残った人々が運よく赤の広場にいければ、少なくとも年に一回あるいは彼らの人生で一度であれ生きた神様をながめることができたという事実に由来していた。
 後に、その神様が死んで、その実態が暴露されてからは、神様の後がまをねらった競争者たちはもはや本気で信じられなくなり、新しい世代のデモ行進参加者にとってはデモは揺るぎない団結を誇示するものから、祭日を無駄にさせる不愉快な義務に転じていった。人民にとってなんら価値のない象徴をいつまでも維持することは不可能である。また、過去の象徴を未来への象徴に転換させることはそれ以上に不可能である。ここに、今回のメーデーの最大の教訓があると私は思う。
 われわれは次のような理解に達していると思う。つまり、権威と社会というものは、市民社会が存在しない、もっとはっきりいえばすべてを見抜く唯一の権威者がいる全体主義体制の下の「一枚岩の団結」という拘束に結びつけられており、民主化の本当の意味はこれを取り除くことだということを理解している。だが、この過程が実際にはじまり、社会が非公認のグループやクラブ、運動、政党、経済やその他の関係の組織として権威から自立しはじめ、集会を呼びかけたり、ストライキを訴えたりして不満の表明が可能になると、レーニン廟の頂点にいる指導者たちとの団結の誇示が政治的な意味を失うことを意味する。
 もちろん確かに、団結の誇示を新しい時代をその精神に合わせて変えていこうとすることや、われわれの政治状況全体を赤の広場に反映させること、演壇の頂点に立つ人物に当局者だけでなく、社会の代表も加えること、リガチョフがよしとするなら、彼の隣にポポフを立たせることも、これらすべてを古きよき時代の快活な行進曲に調和させることも可能である。だが、今回のメーデーで起きた事態こそ、これらすべての結果に他ならない。
 私は、この事態をまず第一に社会の権威に対する不満の増大、第二にきわめて印象的な過去へのさようならの言葉だとみる。この別れは、ペレストロイカ共通のドラマから排除されてはならない。われわれが過去に別れを告げていることを、そしてわれわれが過去の産物であることを広く理解させなければならない。

書籍紹介
窓社選書「共産党組織のペレストロイカ」
藤井一行著

         新たな組織原理の追求−−−

なぜ「民主集中制」にこだわるのか

 東欧の改革、ソ連のペレストロイカについていま多くの論文が書かれているが、党の組織問題に絞ったものは少ない。それはなぜだろうか。
 東欧においてもはやレーニン主義を指導原理に掲げる党は残っていないし、社会民主主義への転進を宣言して生き残りを図っても政権党を維持できる旧共産党はない。レーニン主義はスターリン主義の放棄、ソ連からの離脱とともに捨てられたのである。東欧各国共産党はレーニン主義の党組織原理である「民主主義的中央集権制」を放棄しており、そこでは「民主集中制」のあり方の論議自身がそもそも成立しようもない。プロレタリア独裁による共産主義革命とそれを指導する前衛党の否定の中では、前衛党の組織論を論じる意味はないからである。これは、東欧だけの思想状況ではなく、日本にもあてはまることである。いまさら党組織についていちいち検証することは時間の無駄にしかならないというわけである。
 それならばプロレタリア独裁の立場を放棄していないわれわれを含めた人々が積極的にこの問題を論議しているかといえば、そうにはなっていない。自らのスターリン主義的なレーニン主義組織論の理解にはふれないで、共産党のマルクス・レーニン主義からの逃亡について論難することですましていることが多するぎるからである。
 「プロレタリア独裁が現実にスターリン主義的な変質をこおむってきたがゆえに、あるいは人々の無用な誤解を招くがゆえにこれを廃棄するという立場に立つなら、同じ論理で民主主義的中央集権制も廃棄されてしかるべきであろう。しかし問題はやはり実質である」(一八四ページ、あとがき)として安易に廃棄するのではなく、その実質を問うていくべきだとする著者はペレストロイカにおけるレーニン主義組織論としての「民主集中制」問題にこだわらざるを得ない。著者のこれまでのまじめな研究姿勢が共産党組織のペレストロイカについて論究させているといえよう。
 本書は、ソ連共産党の組織改革問題とこの間のトロツキーに対する再評価を中心にした党史の見直しと著者が十年前に発表したトロツキー追放劇の実際の三つの部分から成り立っている。そのうち最も興味をそそられるのは最初の組織改革とレーニン主義組織論たる「民主集中制」との関連についての論述である。

本書一,二,三章の内容

 第一章、「民主集中制のペレストロイカ」ではソ連共産党における民主集中制の復活について述べられている。ゴルバチョフは一九八八年の十九回党協議会で民主集中制のレーニン的理解を復活させることを提起した。これまでの民主集中制は官僚主義的な集中制に他ならなかったとゴルバチョフは述べているが、著者はこれを「革命的な自己批判ではなかろうか」と評価する。しかし、この段階でのゴルバチョフのレーニン主義的民主集中制の理解は「あらゆる問題の自由な討議と決定採択後の行動の統一」というものであって、これでは決定後の批判の自由が入っていないから不十分だったと批判する。しかし「ゴルバチョフ自身もペレストロイカの中で自己変革をとげつつある」ので一九八九年七月の地方の第一書記たちを集めた党会議では「党内で討論の自由、選択可能性を基礎として党の政策の諸問題の審議に自由が保障され、多数者によって下された決定についても・・・・・||・ただし多数者への少数者の必須の服従のもとで・・・・・||・少数者が観点を表明する権利が保障されるというばあいだけである」と述べており、著者は「これこそレーニン的な理解である」と賞賛している。
 第二章の「一枚岩主義との訣別」では、一九二一年第十回党大会において採択されたいわゆる「分派の禁止」としてこれまで理解されてきた「党の統一について」という決議がスターリンによって悪用されて、「フラクションの存在と両立しない、意志の統一としての党」「一枚岩の全一体としての党」というスターリン流の民主集中制の根拠にされてしまったことが党の機関紙でも指摘されるようになり、レーニンが党の規律とは独自の行動規律をもったフラクション主義的グループは禁止したが、フラクション一般を否定したわけではないという主張が一枚岩主義的党組織観に代わるものとして出されてきていることが述べられている。
 第三章の「社会主義的複数主義へ」の項では党内複数主義、複数政党主義について述べられている。ゴルバチョフは十九回党協議会の報告の中で社会主義的複数主義という言葉を公式に用い、「意見の社会主義的複数主義・論争・討論・諸見解の比較対照は、よりよい、オプチマム(最適な)な解決策の探究への道である」と述べた。
 著者は、「ゴルバチョフはいわば集団的認識の次元で複数主義に積極的な意味づけをあたえている」と評価するが、さらに前述の一九八九年七月の党会議で「民主主義的な社会では党そのものが民主主義のもっとも高度で徹底した形態の表現であって、社会全体の民主主義的な発展の模範とならなければならない」と述べたことに対して、これは十年前に「将来のわれわれの社会が、多元的で分岐に富んだ社会、真に自由で民主主義的な社会になりうるがためには、『党』はいかなる具体的イメージにおいて構想され、その組織はいかなる特性をもたなければならないであろうか」という問題を提起した田口富久治氏とほとんど同じ思想を説いている」と指摘している。
 党内の複数主義を唱えるゴルバチョフも昨年秋の時点では、複数政党制のソ連における存在意味については否定的かのような言動がなされていた。しかし、その時点においてすでにほとんどの党員からなる「人民代議員地域間グループ」が結成されて党の多数はブロックに対する「議会内会派」としての活動を開始していたのであり、これに対してゴルバチョフは「党にたいしてと選挙民にたいしての二重責任体制」の論理の対処策を出していた。この「地域間グループ」結成と「党の統一意志(決定)」との関係がどうなっているのか、「地域間グループ代表のエリツィンの主張も含めて紹介されている。

複数主義とフラクション問題

 著者は、ゴルバチョフ指導部のもとで、政治的複数主義と党内フラクション活動の肯定がペレストロイカの論理の当然の帰結として進んでいくだろうと見通している。
 昨年秋での著者の見通しがほぼ正しいものであったことは、今年の二月の拡大中央委員会総会で採択された「政治綱領案」によって示されているだろう。「政治綱領案」では「民主集中制の原則を再考すべき時がきている」と書かれているが、これまで「民主集中制」と呼ばれたものの放棄に等しいものである。また憲法第六条の党の指導性の規定の改定と複数政党制の創設が書かれている。
 フラクション問題については「民主集中制の原則の刷新は党の民主的統一を堅固なものとし、党内派閥の形成を阻止するものである」と書かれており、党内複数主義が現実はともあれ論理的には集団的認識論の次元にとどまっていることを示している。
 「共産党組織のペレストロイカ」は八年前に出版された「民主集中制と党内民主主義」の続編ともいえる著作であるとあとがきの中で著者が述べているように、党の組織論の問題点をレーニン時代のあり方を検証することによって明らかにしていくという方法論は共通のものである。真のレーニン主義の民主集中制を規定しなおし、これに戻ることによって党の民主的改革を展望するということである。その点ではレーニン主義の解釈では一致していないが、ゴルバチョフも同じ方法論に立っているといえよう。
 著者は、レーニンの組織論の民主的側面を強調することによってレーニン組織論の再構成を試みてきた。それは、私からみれば事実上一つの新しいレーニン主義の解釈であると思われた。「民主集中制と党内民主主義」をはじめとして著者の論文からは、レーニンの組織論の民主的側面について教えられるものがたいへん多かった。これまでの共産党の民主集中制がいかにスターリンによって歪曲されたものになっていたか批判してきたトロツキストであるわれわれのレーニン主義組織論がいかに俗物主義的規律・集中制概念による影響を受けていたか、ないしはレーニンの一時期、とりわけ経済主義、自然発生主義を批判して中央集権性を強調した初期の主張を誇大化してレーニン主義の心髄としていたかなど、著者のレーニン主義組織論の新解釈を媒介にして反省させられた。
 著者が問題にしていることは単にソ連共産党に限られたことではなく、自らの組織のこれまでの原則の再考に生かさなくては読書の意味は半減するだろう。われわれはこれまで、スターリンの官僚主義的歪曲に抗してボルシェビキ・レーニン主義を継承するのはトロツキズムだと考えてきた。このことに現在でも間違いはない。だが、継承しているから正しいか否かの問題ではなく結局、継承しているものの中身がどうかということが現在問われているのだと思う。

われわれはどうだったのか

 第四インターナショナルは規約で民主集中制を次のように規定している。「民主集中制とは、国際的にであれ一つの政治路線を決定するにさいして内部討論における最大限の民主主義が実現され、他方、一度多数決によって決定された路線を適用するにさいしてもっとも強固な規律である。これは単に、よい方法といったものではなく、組織原則である」。また、過渡的綱領では「民主的中央集権主義・・・・・||・すなわち討論の完全なる自由、行動の完全なる統一」と定式化している。
 これだけに関してみれば、著者の主張するレーニン主義の民主集中制と異なっており、ゴルバチョフが十九回党協議回で述べた民主集中制と同じものである。
 なぜ第四インターナショナルはそうなっているのか。それは、スターリン主義による歪曲の結果なのではなく、レーニン主義組織論の集大成といわれるレーニン存命中のコミンテルン初期の共産党組織に関するテーゼで定式化されている立場をそのまま引き継いでいるからである。
 著者は、三四年規約以来、民主集中制の原則として定式化されている「四項目」を取り上げ、「第一は、『四項目』そのものはレーニン時代の党に重要な組織原理として生きていたものであることはたしかであるが、民主主義的中央集権制というものははたしてその『四項目』(ないし多少のプラスアルファを含めて)につきるものかという問題である。第二は『4項目』そのものが民主主義的中央集権制の内実を構成することはたしかであるとしても、それらの項目は実践的にはいかに現実化されるべきものかという問題である」(一〇ページ)と評価している。
 つまり「四項目」だけでは不十分という立場であるが、「四項目」がレーニンの「民主集中制」の構成要素の一部であるかどうかの是非はともかく後半の二項目が正しいかどうかはたいへん疑問である。
 スターリンの歪曲以前のレーニンに戻ることの有効性を承認しつつも、スターリニズムによる歪曲を指摘してもレーニン組織論の正しさを立証したことになるわけではないということは依然として残るだろう。つまり「レーニン的な民主主義中央集権制にかんするかぎり、それが社会と党の民主化を阻害するものではないことは理論的に明らか」(二五ページ)には自動的にならないということである。いかに歪曲されたかだけでなく、歪曲されながらも「レーニン主義組織論」であるとして「通用してきた」根拠についてもわれわれは明らかにしていかなければならないだろう。これに関連することとして著者は「民主集中制」に「とらわれないでペレストロイカ綱領に適合するような新たな組織原理を定式化することも検討されていいであろう」(二五ページ)と述べているが、その観点に賛成するものである。
        (外山)