1998年5月10日         労働者の力              第100号

労働者の力百号にあたって
私たちの思いと御挨拶

 労働者の力は本号で第百号を迎えました。創刊は一九八九年の九月ですから、ほぼ九年の年月を重ねてきたことになります。当時の発行者名は「第四インターナショナル日本支部全国協議会」でした。体裁は、月刊四ページ、定価二百円、これは今と変わりません。

分裂の考え方

 九年経たわけですから、皆さんの記憶も薄れているでしょうし、また、創刊の事情が全然わからないという読者もいることかと思います。創刊の事情を簡単に述べておきます。
 当時の第四インターナショナル日本支部は、長期の分派闘争のなかにありましたが、私たちは日本支部第十三回大会開催問題をめぐって、その強行開催に反対し、組織的自立を決意しました。もちろん、ここでいう組織的自立とは、あくまでも分派関係をより広い領域に移すという趣旨のもので、通常に理解される組織分裂とは必ずしも同じとはいえません。
 少しややこしいのですが、要するに、第四インターナショナルの日本における運動が複数の組織の形で進められるということ、それがあらためて一本化されるときもいつかはあるかもしれない、という風にとらえていただければいいと思います。この考え方は今も変わりません。
 旧日本支部は、結果としてほぼ五つの傾向(テンデンシー)あるいは分派に分かれました。厳密にはもっとあげるべきでしょうが、とりあえずは五つにしておきます。論争のなかで政治的路線にも組織論的にも、それぞれの理解はかなり違うものとなりました。ですから、上記の組織論的な考え方は、私たち(当時のプロレタリア派)の理解です。私たちは、分派闘争というカテゴリーをできるだけ広くとらえるという考えでした。他の傾向には、狭くとらえるという考え方に従って行動した人たちもおります。狭い理解の分派闘争は、いわゆる分裂に直結してしまいがちです。内在していた組織論的な考え方、感覚の違いが露わになったということでしょう。

旧日本支部のマルクス主義の問題性

 当時の第四インターナショナル統一書記局は、旧日本支部の五つの傾向(分派)、あるいは「分裂組織」を平等に見て、旧日本支部の解体過程の力学、そのなかで発生した政治傾向を最大限理解しようとしました。分派あるいは組織的分立にもかかわらず、最大限に日本支部の枠組みを、総体として維持しようという考え方だったと思います。
 ですが組織分立の原因は錯綜しますが、結果としてなによりも根源的なものとなったのは、「組織内女性差別問題」への対応でした。旧日本支部は、はっきりと「男性優位型組織」でしたから、「男たち」の対応には、試行錯誤、ジグザグが繰り返されました。突きつめていく内に、なによりもフェミニズムに対する思想的、組織的受容の基盤がない、準備がないというところに突き当たっていったわけです。いわば反フェミニズムが組織的な骨格にあったこと、そこに先鋭的なフェミニズムが提起されてきたとき、いま思えば、男組織の反応は限界に達していったということでしたでしょう。
 フェミニズムだけの問題ではありませんでした。エコロジカルな視点も、いわばグレーゾーンだったと思われます。フェミニズムもエコロジーも、七〇年代前半期に組織的問題として提起されたことがありましたが、結局それは埋もれてしまい、組織の共通経験としては生かされるには至らなかったのでした。
 五つの分派(傾向)のうち、一つはフェミニズム、もう一つはエコロジーを代表しました。インターナショナルの統一書記局は、組織分立のなかに、フェミニズムとエコロジーを表現する傾向が独立分派として登場した事実にも注目しました。フェミニズムとエコロジーが組織的に受容されないとすれば、それは旧日本支部の綱領的基盤の性格に関わってくる――そう考えたと思われます。もちろん、マルクス主義がフェミニズム、エコロジーを簡単に受容できるのならば、話は簡単になります。しかし、そのためにはマルクス主義の方が「変わらなければならない」。
 インターナショナル自身も、あえていえば試行錯誤を繰り返してきているわけですが、ただしそれは、拒否や否定ではなく、受容の方向での苦闘です。
 私たちは、旧プロレタリア派が分解していくなかで、とりわけ組織論的な感覚を、いわゆる「レーニン主義」から距離をとる形で考えはじめました。当然、旧レーニン派との感覚の相違も全面化していくわけです。

私たちの九年間の問題意識

 当時の私たちにははっきりいって、フェミニズム、エコロジーを受容する政治的、イデオロギー的基盤はほとんどなかったといえます。その手探りを、いわゆるレーニン主義からの距離、そしてトロツキーの思想の再評価という組織論的なところを手がかりにしてはじめたということでした。その作業はもちろん、スムーズに進んだということではありませんし、すでに結論をもったということでもありません。
 ただそれらの検討が、本号の高木論文に少なからず出されているということに留意していただきたいわけです。少々長大ですが、是非「熟読玩味」を願います。
 さて、私たちを含む旧日本支部の綱領的問題性は、第四インターナショナルの第十三回世界大会での旧日本支部の「男性分派の組織的失格」の確認につながりました。そこで私たちは、独自に旧日本支部問題の総括、および旧日本支部のマルクス主義の総括を継続する立場から、組織名を国際主義労働者全国協議会へ変更しました。
 これが今の名称です。インターナショナルとの関係では、シンパサイザー組織ということで、いわば「更正努力を見守る」ということでしょうか。

決意と御挨拶

 百号記念は、私たちにとっては、決して「祝」という気分ではありません。苦い思いも出てこないわけではありません。
 が、最近の労働運動における「迷路からの脱却気分」を表している坂本同志のインタビューと、九年間の私たちの「行ったり来たり」の討論も反映している高木論文をお届けすることができることで、百号記念にできるとは思います。
 坂本、高木の論旨はそれぞれ、必ず一つのものとして重なるでしょう。今年の夏、私たちは全国総会を開きますが、その場で何らかの統一的見地をもてればいいと思っています。
 それが、私たちの旧日本支部問題への本格的な総括の視点となると考えます。
 読者の皆さん、私たちの作業に、今後とも短気を起こさずにおつきあいを、よろしくお願いいたします。
 
一九九八年五月二十四日
 編集委員会を代表して       川端康男
見え始めた労働運動再生の息吹
                      坂本同志に聞く労基法改悪反対闘争
     労働者の社会と文化の構築を求めて
 三月三十日から日本列島の南北両端から始まった「労働基準法改悪NO!全国キャラバン」は四月二十二日、東京・日比谷野音で行われた熱気あふれる四千名の労働者集会に結実した。この運動は、全国各地で展開されていた多様な労働者の闘いを、「労基法改悪反対」という具体的目標という一点でつなぎつつ、日本労働者運動の新たな連帯のあり方を追求する重要な取り組みとなった。日本労働者運動の新しい可能性が姿を現しつつある。
 時あたかも「労基法改悪案」は国会での本格審議に入った。この全国キャラバンの成果の上にたって、労働者運動の総力をあげた廃案に向けた行動が精力的に展開されなければならない。そしてこの中で、生まれつつある可能性をより確かなものに育て上げなければならない。
 以下、今回の全国キャラバンと「労基法改悪反対闘争」をめぐる状況について、坂本同志に聞いた。(文責・編集部/聞き手・神谷哲治)
新しい胎動が始まった

――まず、「全国キャラバン」についての全体的な評価を。
 結論的には大成功。そこにはいろいろな意味がある。第一は、「四ネット」が呼びかけて全国がつながったという点の積極的な意味。「四ネット」というのは、パート、派遣、有期、女性など、旧来の労働運動の常識でいえば元々マイナーな非力な存在とされてきた人たちの問題を粘り強く追求してきた四つの運動体のネットワークである。今回の労基法改悪では、ここが一番犠牲をこうむる。今までは、労組運動でもこの層をしっかり組合に入れてます、といっても、やはり付録的な感じだった。しかしそこが声をあげた。これらの労働者が労働現場で増えている中で、そしてその声が力を持ち始めた――それが第一点。
 その上で、この声を全国組織が下支えしたことの意味。全国組織を持っている大きな労働組合が主催して、中央から指令して作るとなれば、運動はその労組が所属するナショナルセンターの範囲にとどまってしまう。それが下支えにまわって「四ネット」が動く。この「四ネット」にはいろいろな人たちが入っているという形の中で、連合から、全労連から全労協から、と非常にバラエティに富んだ各地方の取り組み、大衆的に広がった所と少人数でもつないだ所も含め多様な取り組みが全国展開できた。呼びかけと運動の組み立てが作り出した多様性――これが第二点。
 今回の改悪で一番被害をこうむる人たちが前面に出て呼びかけ、具体的にこれはNOだ、廃案にしなければならないという呼びかけで、ナショナルセンター、労働組合の壁を越えた。地域共闘の新しい可能性を作り出した――これが第三点。
 各地に意外と地区労が残っていたり、交運共闘が残っていたりする。もちろん、いくつかの組合が抜けていたりするが、そこが呼びかけていろいろ集まってくる。港湾とか私鉄とか。各地でそれぞれ苦闘しながら頑張っている。それが今度のように具体的テーマで呼びかけられて、呼応できるところは大きく呼応して、各地区、当初予想よりも一割、二割増し、ところによっては一・五倍とか、非常に大衆的な動きになった。各地にいろいろな可能性がある――これが見えた。
 それから第四に、運動に元気がある。今度のショッキングピンクのボード、あれは光輪モーターズの組合員がつくった。あんな色で、蛍光塗料は夜に目立つわけで、あれはバイクに乗る服の感覚なんだ。私なんかがデザインしたらあんなものは絶対にできない。それだけに目立って、なおかつユニーク。それに担い手も非常に若い層が出てきた。この人たちがまた非常に主体的に動いている。そういう意味で内容的に元気になっている。
 攻勢的に反撃しなければならないというだけでなくて、この運動を担っている年齢層も含めて元気の出るような形になりつつある、と感じている。
 
――われわれの中では運動の広がりについて若干の議論がある。われわれの側の問題として、広げ方に不十分さがあったという点。また一番打撃を受ける層への声が届いていない可能性との関連で、反失業キャラバンというアイディアも出ている。これらについての意見は。
 今度の改悪で打撃を受ける層に広がっていないのでは、という点に関しては、今度の呼びかけが「四ネット」から行われたということを積極的にとらえるべきだと思う。この問題を本気で追いかけて取り組んでいるところが大きな組合を巻き込んでいる――このことが大事だ。
 また前段で、反失業大行進みたいな組み立て、反失業闘争としてこのキャラバンをもっと膨らませるべきだという議論はあった。その問題意識自体には賛成。今後の発展として考えなければならない。ただ今回は、シンプルに労基法改悪NO!というところにしぼりこんで、連合、全労連をひっくるめた共同闘争を地域からつくり出すという意識があった。戦術的にはそういう路線を意識的に採用した。
 目標を限定して、連合も引き出し、特に国会の審議の中で全労働団体が反対なんだ、という構造を押し上げるという点にしぼった。短期的、直接的目標に関してはその方が良かったし、その面では成功したと思う。
 今後の発展方向として考えていかなければならない要素はいろいろとある。例えば大阪の三月二十日の集会。新ガイドライン、組織犯罪対策法を含め規制緩和戦略を全面的に取り上げる集会あいさつから始まり、韓国の民主労総を呼んだりしている。地域的に先行して積み上げてきた所では、そういう取り組みが出始めている。
 運動を大胆に広げるという点では、われわれの側に問題はいくつか残った。中央では、電機・自動車がブレーキをかけている中で頑張っている連合系産別があるわけだが、各地区の現場では「何だアイツらは」という経験に根ざした評価がある。その上でも、もっと大きく、全体を揺さぶるんだ、という意識が必要だったが、必ずしも全体化はしなかった、というところはある。

組織する側の立ち遅れ

――われわれの側でいえば、宮城からそういう報告があった。
 それでもいくつか、系列を越えた参加があった。機関参加ではない例を含めて。こちら側の構え方によっては、そういう広がりをもっと大きくする可能性はあった。他にもいくつか手ぬかり的な要素もあって、組織的にはもっと広げられる可能性はありながらも未だ不十分というところがある。
 自責の念もこめていえば、組織する側にちょっととまどっている感じがある。

――労基法問題では、共産党機関紙の赤旗も相当キャンペーンをしている。その中で「全国キャラバン実行委員会」も参加した京都の集会の記事が載った。そういう形の集会は他にもあったのだろうか。
 鹿児島がそうだった。連合、国労闘争団、県労連合流の集会、労働弁護団の代表が議長で集会とデモ。
 京都はおもしろくて、キャラバン実行委員会は独立して作っていて、そこと京都総評、全労連系の労基法改悪反対京都連絡会、それに自由法曹団、この四者が共催で決起集会をやった。これが円山公園で千五百人。
 そこにキャラバンが合流し、代表して東京ユニオンの高井さんがあいさつした。札幌でも全労連まるごとではないが、全労働と連合系列、独立系列が合流した。地域によってはそういうことが可能だった。
 
――共産党は今回の労基法改悪案に対して、地方議会で反対決議を上げさせる運動を行っている。また全労連を中心に大衆運動も展開している。国会闘争を考えても共産党は重要だと思う。そういう意味では二十二日の集会に共産党議員がいなかったのは残念だ。集会では全労連代表のあいさつにつまらぬヤジが飛ぶこともなく、むしろ好意的な拍手が目立った。集まってきた人たちの変化、新しさ、健康な感性が感じられた。様々な運動の場面での状況もあわせて見た場合、今の情勢においては、旧来の活動家の意識の方が立ち遅れているようにも思う。今後の見通しとの関連でどう考えるか。
 これだけの問題だから、ありとあらゆることをやらなければならない。その意味で、自治体決議も重要。率直に言って、キャラバンの今度のつながりというところだけではそこまでは行けていない。もう一回りも二回りも大きな広がりが必要だと思う。
 本来は、二十二日の集会で連合の吉宮氏が言っていた、労働弁護団を中心とした「連合の応援団」、そこが呼びかけての「国民会議構想」というのが一時あった。そこに全労連も全労協も中立も、ナショナルセンターという形では入れなくても、実質的に全部一緒に合流してさらに攻め上がる。こういう構想を、労働弁護団も積極的に働きかけたんだけれど、結局もう一歩、連合自身が踏み込めなかった。
 運動全体として、そういう、もう一歩のところがある。
 共産党の問題については、自省的に考えて、指摘される点はあると思う。国会の力関係を考えれば、共産党への働きかけは積極的にやるべきだろう。たしかに共産党は、あいかわらず「唯一の革新」的独善主義という問題はある。いくつかの問題で現実的な対立もある。
 しかしそれをいいつのっても始まらない。例えば二十二日集会での全労連・寺間氏の発言などは一番具体的だったし、労基法改悪ノーだと思っている人たちに対しては一番すっきりする話だった。それへの共感が率直に出ていた。
 
――沖縄の問題を含めて、いろいろな戦線で変化は始まった。このような動きの中でわれわれの側もつくりかえられなければならないし、共産党をも変えることにつながる。もっとも共産党の官僚にとっては巨大な矛盾を抱え込むことになるが、しかしこの動きは人々全体にとっては建設的だ。

微妙な社民党

――労基法改悪阻止に向けた今後の展開だが、集会での社民党・濱田議員の発言からは社民党の方針は「修正」と聞こえた。これはどういうことになるなのか。

 与党だから難しいところだ。労働省は、労働組合の意見は社民党を通してしか聞かない、という態度だ。その分だけ反面、「人質」にとられている。また特に労働時間の男女共通規制なんかは大脇参議院議員のところからいろいろな意見を出して、今の経営側の反発をなだめられる範囲で最大限取り入れるみたいな動きもある。そういう意味で与党、与党プロジェクトというルートの中で結論的に「修正」となる。ただ、もう一方、二十二日の集会に集まったような、グループで頑張っている人たちの声をしっかり聞きながら、その人たちと連携して最終結論を出すという言い方をもしている。
 以前、濱田議員に深夜の弁当屋の労働実態の調査に出向いてもらたことがあったが、そのようなことを積み重ねながら社民党を最後まで反対の陣営に引き留めていく。それをどうやるのかがこちら側のもう一つのポイントになる。
 民主党は、大民主党になってしまって、その結果民主党の中の労組関係議員がものすごい自主規制なんだ。羽田とか何だとかの動きを気にしていて、工作はすごくやりにくい。みっともない話で、民主党もそこまでの体たらくだ。
 はっきり言って、与党の中をどれだけ揺さぶれるか、そして民主党を含めた野党工作をどれだけやれるか、ということだろう。
 
連合の変化は何を示すか
 
――連合の動きは。
 去年の十一月二十七日の集会で、連合、全労協、全労連から発言をもらった。その時は「何で今頃、急に連合なんだ」と、集まった方にも、とまどいを含んだ気分があった。集会参加者の方にも今回は、「連合もそれなりに頑張っている」という意識もある程度はあって、ヤジもそれほどではなかった。
 連合自身が踏ん張っていることは事実だ。四月三十日に連合の意見広告が出るが、読売新聞と日経新聞。読売は値引きで正規料金の半額。ダンピングの条件は朝日新聞には出さないという話だ。
 それからメーデー。八時間労働制防衛、労基法改悪反対メーデーにする。「闘うメーデー」を復活させる。さらには五月十五日に、国会包囲の一万人集会。
 これらが、自動車と電機が裁量労働制について明確に推進派と態度表明している中でも決められている。従来だったら、自動車と電機なんだから、連合の方針を変えろ、ということになるわけだが、今回彼らは後ろに引っ込んで、産別内部での裁量労働制推進という以上には出ていない。つまり、連合が強く主張しているのは、時間外男女共通規制と裁量労働制の問題で、有期雇用問題については弱々しい。
 その裁量労働制で方針が違うとなれば、本来だったら電機や自動車は連合方針そのものを変えろというはずなのだが。ところが今回は、単産として別方針を持つことに了解を求めたい、という対応だ。これはおもしろい。それほど連合の中でも今回の労基法改悪についてはノーと言わざるをえないという部分が強い。連合が最後まできっちりと反対を押し通すとも思えないけれど、ここまで来て、なおかつあの対案を引き下げないで頑張るという事実には注目したい。
 対案というのは、「男女共通の罰則付き時間外労働規制」「裁量労働制を削除して新しく考えよ」「一年間の変形労働時間の要件緩和については休日増を前提にしろ」「有期雇用に関しては現在ある雇い止め、均等処遇などの問題などを改善せよ」というもの。
 最後の点にはちょっと弱いけど、その他の点で言えばかなりのものだ。それで、この四つの対案で最後まで押すということならば、連合の質の変化とまでいえるかどうか、あまり言い過ぎてはいけないが、変化はある。
 逆に言えば、労働省が労働組合を馬鹿にしすぎて、資本側の「新時代の経営戦略」に沿った労基法改悪を連合がすんなり抵抗なくのむと見て、行き過ぎたというところはある。それに対して、いくらなんでも、という反発が今回出てきた。おそらくこの五月、六月の国会の攻防までは、連合はその線で行くと思う。メーデーをそれでやっておいて連休明けにサーッと態度を変えるというわけにはいかないだろう。
 
――そういう連合の変化を作りだしている主力の層はどの辺だろうか。
 単産的にいえば、ゼンセン、金属機械、全国一般、それと総評出身の連合の政策スタッフ。でも実際のところ、だいたいのところ去年は危なかった。それに対して、先に言った「応援団」、その中に労働弁護団が入ったりして働きかけるとか、去年の十一・一〇から労働省前で期せずして全部が合流した雰囲気、積み重ね、十一・二七集会で提携するとか、そういうのがかなり効いていると思う。
 ただ、結成して十年ほど経って、連合自身がジリ貧だ。その上で、進んでいる経済の失速とその中での製造業のリストラ、正規社員絶対数の減少。要するに今回の改悪の主要対象の「専門能力活用型」と「柔軟雇用型」の労働者が圧倒的に増えていくところで、そこの問題を取り上げないのでは、ますます全労働者階級の中に自分たちの位置がなくなっていくということについて、事実で知らされつつある。
 組織内圧力だけではない、そうした大きな意味での圧力が働いているから、ビッグユニオンの声だけで事を決めるということができなくなりつつある。言いかえれば、連合の戦略的な自信のなさのあらわれだ。つまり、何か連合が積極的にそういうところに新たにシフトして、本気になってやろうというよりは、従来のままでいったらジリ貧だと、いうことが基本にあると思う。そういう意味での変化が始まった。決して幹部が悔い改めて変化が始まったということではない。
 だからますますチャンス。下から具体的問題で共闘を働きかけ、やればやるほど、運動の広がりの方の力が強くなる。
 
――連合の運動の作り方は大衆動員は極力抑えてもっぱら幹部動員。それで組合員大衆への統制を効かしている。五・一五もその形か。
 必ずしもそうではない。今年の連合白書が少し変わった。従来は「力と政策」――力とは数ということだった。今度のは、白書の最初、基調的なところが事務局長インタビューで、そこでは、今までの「力と政策」から「行動と政策」というふうに言い方を変え、今までは行動が足りなかった、と。これまたおもしろい。今度の事務局長の笹森は電力出身だが、鷲尾のような東大卒、新日鐵のエリートで、ニュー労組のニューリーダーみたいな顔をしたタイプとはちょっと違うらしい。
 十一・二七集会の時はちょっとごまかして連れてきたところがあった。ところが今回(四・二二集会)には、連合は事務局長決裁で来た。連合にとって十一・二七は不意を突かれたところがあったのだが、今回は「誰も行くべきではない」という意見と「行っていい」という意見とがつばぜり合いになったらしいが、最後は事務局長の決断。もう少し具体的に行動しようということになってきた。労働省前の座り込みなんかもそうだ。
 今まであんなことはやらなかった。
 
――あれは幹部動員ではないのか。
 そうでもない。ゼンセンと全国一般は全国動員している――当番制で。こちら側も労働省前に詰めていて、そこで「エール交換」する度に「あー、また会ったな」「昔の名前で出ています」というような具合だ。だからそのように動員すればするほど、引っ込みがつかなくなる。しかし本当のところ、連合の「数」からすれば一万人集会ではなく、十万人集会の規模で集会を企画するのが普通だとは思うが。
 しかし、メーデーを「闘うメーデー」にしてデモをやり、労基法改悪反対をメインスローガンにするというのはおもしろい。今度の改悪では八時間労働制が骨抜きになる。メーデーの歴史を考えれば、そこを譲っておいて他方で「お祭り」というわけには、いくらなんでもいかない。

――これ以降、五、六月の闘いのイメージは。
 いろいろと戦術的な話は出ている。しかし連合、全労連、全労協の全体でエール交換やその他を含めて攻め上がるというのが一番肝心。議面(国会議員面会所)での行動、議員への要請行動などい含めて連休明けに、連合、全労連、全労協それぞれが切れ目なく波状的に行動を組むことが必要。それから、社民党を逃がさず、最後まで踏みとどめさせたい。
 はっきりいって議会の力関係ではどうにもならない。敵に動揺を引き起こすほどの、労働者の怒りを感じさせるような盛り上がりが必要だ。その意味でも共産党ともしっかり連携できる、こちら側の心構えは必要だ。

新しい社会観が求められている

――この春の運動を、労働運動全体の再生といういう、より大きなテーマから考えた場合、経済情勢も踏まえてどう位置づけるか。
 春闘の時期だったが、まず経済の状況が非常に厳しい。反失業闘争というか、今の社会状況にどう対決するかという問題に直面している。労基法改悪に続いて派遣労働法改悪が報じられている。結局、アメリカ型の「派遣でもパートでも、職がないよりはいい」という形で、そのような働き方を強制する、それが法的に許されるという社会体制作りだ。この間、労基法で問題にしたのは、社会の作り変えという視点。「新時代の日本的経営」という戦略との、いわば喧嘩。戦略的、全体的対決、ある意味で「総労働と総資本」という闘い方に向けた労働運動の作り変えが迫られ、それが地域から若い層をも含めて、可能性が垣間見えたという感じがしている。キャラバンで歩いていて、楽しい、いろいろな出会いがあったことを含めて。
 連合が中央から分解して、全労連が組織拡大するとか、全労協がそれを喰って伸びていくとか、そういうことではなく、地域ごとの具体的問題を通じて相互の組織的な壁を突き破り、それが全国的にネットワークを作って、全体を作り変えていく。「右翼労線解体、連合打倒」というような方向とは違う、連合も含めた反失業闘争などの闘争が要求されているように思う。
 ユーロ・マーチの時に、一部の左翼グループの「もっと鋭いスローガンと組織的な峻別を」という声に対して、柔軟に具体的に「時短と雇用の拡大」に引きつけて地区ごとに運動化して全体をつなげていった。われわれもそれと同じ発想が必要だ。
 
――新聞の求人欄にも派遣会社の求人広告がたくさん載っている。現実に雇用の形態が多様化し、条件的に今までと様変わりした生活のあり方が生まれている。他方職安には人が溢れている。職の問題と働き方の労働者側からの規制の仕方が問われている。運動のあり方はいろいろあるとして、全体としての「ものの考え方、方針の全体性」が最終的に問われる。例えば、われわれには「過渡的綱領」という考え方がある。その現代的な練り上げなど、意識されなければならないのではないか。
 その前段があるように思う。
 一九八〇年代にサッチャーを見習った中曽根の分割・民営化があったが、日本では今、規制緩和が本格化。イギリスは八〇年代から。ニュージーランド、オーストラリアはそれにならってやった。アメリカも八〇年代から。
 それぞれ経済が活況を取り戻したということになっている。だが、それに対する反転攻勢、フザケルなという動きが始まっている。その結果がどういう悲惨な社会状態を作りだしてしまうのかということがヨーロッパ、アメリカ、イギリスで理解されはじめている。歴史の不均等発展、複合的発展のおもしろさを考えさせられる――資本がやろうとしていること、それではいけないと労働者が考えはじめていることとが、日本では同時に見られる。
 ドイツのIGメタルが来日して連合幹部と話し合ったとき、規制緩和問題について全然かみ合わなかったという話が報道されていた。連合は「規制緩和イコール全面推進」、IGメタルサイドは「規制緩和イコール要注意」という正反対の立場だったから、そもそもかみ合わない。連合側はあぜんとしていた、という笑い話みたいな話だった。
 朝日新聞のコラムに載っていた話だが、英語でいうと規制緩和はアメリカ(語)はディレギュレーション(規制撤廃)だが、OECDの公式用語はレギュレイトリー・リフォーム(規制の再構築)だ、と。この二つの用語はまるっきり感覚が違う。ヨーロッパの大陸側での感覚は「新しい時代に合う規制にしよう」と意味で、「規制の再構築」の用語を使っている。ところがイギリスが典型だが、サッチャーの路線は文字通りの「完全撤廃」。イギリス最強の「規制」は労働組合、これを潰せ、と。それをやったわけだ。日本ではその尻馬に乗って、知識人、マスメディア含めて騒ぎ立て、政府もそれに乗っている。しかし、今はこのコラム記事のように、英米流の「規制撤廃」とヨーロッパ大陸流の「規制の再構築」の区別が報道されるようになっている。
 また、アメリカのユナイテッド・パーセル・サービス労組(UPS)のスウィーニー。日本に来て、「決してアメリカは成功していない。むしろ社会が分裂し、文化が崩壊している。それを作り直すのがわれわれの任務。労働組合を組織し、労働者が尊厳を取り戻し、社会的影響力を持っていく。アメリカの文化的破産を再建し、もう一度文化を作っていく闘いだ。」と言った。
 その主張でUPSを組織し、あのストライキ闘争も生まれた。こういう社会総体に対する一定の理念、どういう社会を作るのかという像が背景にある。
 「アルバイト・スチュワーデスでどうか、賃金は半分になるが、それでいやなら辞めろ」――そういうことが平気でまかり通る社会。効率が良くて資本は活況を呈するが、労働者は悲惨。そういうあり方そのものについて、どのような社会像、暮らしのあり方も含めたものを対置するのか。そこがバックボーンとして必要なんだと思う。
 経済が失速している。そこに橋本のようなものが居座り、どこからも倒閣運動もかわるべきビジョンも出されない。考えてみれば、新民主党の幹事長が羽田で、自由党の党首が小沢、自民党総裁が橋本、梶山が主催して旧田中派の同窓会を料亭でやって、互いに苦労だけど頑張ろう――これはいったい何だ。これ以外にどこかから、何か対置されているのか、そこが深刻だ。
 倒す側の力のなさとビジョンのなさに辛うじて救われている。結果、腐れるにまかせている状況。
 労働者側がせめてスウィーニー程度には、労働者の闘いが文化を作り直す、それがわれわれの役目だくらいは言い切らないといけない。
 
――ブルジョあ側の危機は深い。労働者の闘いが弱い分、好き勝手にやっているように見えるだけで、自信はなにもない。十数年くらい前は「政治三流、経済一流」とか言って、一部のブルジョアジーは自信満々だったようだったが、ここまで来ればとてもそんなことは言えない。官僚もあの体たらく、日本の支配層は能力的に全部潰れた。裾野的な支持層もすでに崩れはじめている。客観的には対抗勢力が望まれている。また、四・二二集会での中野麻美弁護士の「まとめ」には、労働者側の主張する文化、社会像というものにふれるものを感じたが。

 この間でいえば、昨年五月のスィーニーの話が今年の連合白書に載っている。「文化」の箇所は省かれているが、「決して日本はアメリカのまねはするな、闘わなければだめだ」と明瞭に述べているところはわざわざ載せた。
 また、今年の全労連の国民春闘白書の後半は、各国の労働運動の紹介になっている。二十数ページを使って、アメリカの項ではUPS、ヨーロッパの項で反失業闘争、韓国では労働法改悪反対の大ストライキ。
 だからそういう形で世界を見て、我が身を振り返っているという要素がある。日本は、今から本格的に攻撃を加えられる。しかし同時に、そうした事態を見抜いて闘いはじめているというところがあるのだ。そのことを、どのようにこちらの側がテコにできるかということじゃないのかな。 

――今日はどうもありがとうございました。
 

聞き手独白

 日本の場合、とりわけて英米圏と大きく違うことがある。英米圏の場合、曲がりなりにも民主主義というか、個の自立をベースにした競争のルールが文化を含めてある。その意味では、まったくゼロではないにしても、公然と組み込まれた「利権の分配構造」が支配者層、ブルジョア内部にあるわけではない。例えば、大企業と中小企業が系列的に固められ、系列内取引として他の参入を許さないというようなことはない。一応はあくまでも「対等、公正」な取引相手だ。
 日本の多くの大独占は、指定取引口座を取引業者に与える。この口座を持っていない業者は、大独占とは直接取り引きができない。取り引きしたい業者は、その口座をもつ会社を経由しなければならなくなる。当然そこにマージンが落ちる。そしてその口座を持つ会社に、大独占の役員などが天下る。場合によってはペーパーカンパニーに近いものもある。
 このような非市場的結びつきが大から小まで、業界団体から農協や商店街という末端まで、利益の分かちあいの「総談合社会」的にできあがっている。規制という場合、この構造の方が根強い。官僚による規制とは、この全体構造の「管理」だ。だから労働者を叩きつぶせばこの構造が変わるというものでない。「総談合社会」のところを潰さないと実効はない。
 向こうもそれはわかってはいる。しかし、壊せば自分たちの足元が揺らぐという矛盾があるし、また基盤そのものからの抵抗が噴き上がって、立ち往生しているというのが今の状況ではないのか。
 ゼネコン、金融が目立っているが、やむなくなのか、巧みなのか、結局はこうした構造の根幹はなるべく温存するという動きを抑えられない。その結果、経済的実効性も伴わず全体として沈む。しかも、その結果としての打撃を、彼らは一方的に労働者側に転嫁する。
 これが見えはじめたのでは、向こう側にあまりにも「大義」がない。
 逆に言えば、そういうものを横目で見ながら、われわれなりの「労働者の大義」が血肉化したものとして育てば、これが力を持ち、広がりを持つ。その土壌は客観的には作られはじめた。そこに労働者運動の新しい芽が顔を出しはじめた。これを強くのばすという重大なテーマが、今日のインタビューで提起されたと思う。
      (神谷哲治)
  (四月二十三日収録)

社会主義の新たな政綱のために


現代資本主義から環境社会主義へ


                                       高木 圭

 まもなく二十一世紀を迎える現在は、一九九一年のソ連邦解体という大事件を受けた新しい時代となっている。二〇世紀はある意味で「社会主義の世紀」ともいわれるが、九一年事態の後は「社会主義の時代はもう終わった」という意見も聞かれる。
 それらの見解に一貫して抵抗してきたということが、私たちの政治思想、運動を特徴づける一つの性格であろうと思う。抵抗した理由は、私たちが一九世紀後半以降、労働者運動の思想的力として大きな働きを果たしてきたマルクス主義をあらためてどうとらえるか、また私たちのインターナショナル、国際主義の旗には創設者トロツキーの名前が掲げられているが、その思想はどうであったのかを再検証してきたことのなかにある。
 九一年のソ連崩壊とともに歴史的使命を終わったとされる社会主義、マルクス主義とは、私たちが理解してきたそれらとは相当に違ったものだった。それゆえ、より正しい方の旗を守るということで、歴史的なソ連崩壊に際しても、私たちは長年の志を守ろうとしていると思う。だが同時にその場合、「昔の旗」「正しい旗」を守るということだけですむのか――そうではないだろうと思う。
 九〇年代に入って特に、私たちの国際主義的な運動はヨーロッパ労働者階級やラテンアメリカでの大衆的な広がりをもつようになっている。アジアでも、中国の政治形態を社会主義と呼ぶかどうかは別にしても、社会主義のインパクトを与えられて成立してきている体制であり、それが香港返還という新しい時代を迎えた。そういう時代に新しい方向づけをどのようにすべきか、綱領的に問われている時期である。
マルクス・エンゲルスと社会主義

 まずマルクス主義、社会主義、共産主義とはどういうことであったのかを考えなければならない。
 マルクス主義といっても、当初は労働運動のなかでも多数派ではなかった。マルクス・エンゲルスの弟子格の人たちが、第二インターナショナルのなかで頑張り、学説を新たに彫琢し直したりしながら支持者を集めていく。だがマルクス・エンゲルスの「正統派」を継承した人たちが時代の潮流にのって行けたかといえば、必ずしもそうではなかった。すでに資本主義がマルクス・エンゲルスの時代のものとは違っていた。したがって彼らの構想した資本主義へのオルタナティブ自体が時代遅れになっていた。マルクス主義は大転換期に入らざるをえなかったのである。
 マルクス主義の教義はいろいろある。哲学、経済学、社会主義の政治的骨格など様々あるが、マルクス・エンゲルス自身が時代的に変化している。革命性は決して捨てなかったが、教条性を捨ててできるだけ脱皮しようとし、同時に学問的なブランド名「科学的社会主義」も名乗る。この科学的社会主義という名称について、私は「学問的社会主義」あるいは「批判的社会主義」が妥当と思う。その理由は、一九世紀ではいまだ自然科学は圧倒的な大きな意味をもってはいなかったからである。
 彼らは極めて謙虚に学説を打ち出していったのだが、全然誤りを犯さなかったということでもなければ、正統派や修正派という、彼らの継承者たちのなかにもかなりの相違が生まれた。
 マルクス主義とはなんぞやというとき、例えば、私たちの頭のなかには「市場経済に対する計画経済」や「貨幣の消滅」「国家の消滅」などが浮かぶ。確かにそのようなことを彼らが言わなかったわけではないが、具体的な政策としてどのような方向性をとるかについて確たる考えをもっていたわけではなかった。例えば貨幣の消滅だが、現実の貨幣物神化に対するアンチテーゼとしての提出であって、実際にどう消滅していくのかは考えたことはなかった。
 他方、市場経済などについて、彼らは、国家があらゆる生産手段などをコントロールしていくということを考えたことはなかった。むしろ彼らは当時の「国家社会主義」――ナポレオン三世やビスマルクなどが採用した国家統制、国有化を通じて資本主義の新たな形態を模索する――に対してかなり否定的見解をとっていた。『エルフルト綱領批判』でははっきり「国家社会主義は敵だ」と一項を立てているのである。

トロツキズムの検証――その一
『総括と展望』と「永続革命論」

 
 私たちの物の考え方の基本は、第一、第二、第三、第四の四つのインターナショナルを道筋にし、とりわけ一九三八年夏のトロツキーによる第四インターナショナル設立宣言――これを教条的にとらえることの否定の上で――の思想的筋にとどまってやってきていた。
 トロツキズムという思想をどのようにとらえるのか。
 資本主義の「第二の波」がヨーロッパに登場した時に、修正主義論争が一九世紀末に始まった。西ヨーロッパの労働者階級が政治方針をどのように掲げるべきかということに関して、学問的にもかなり程度の高いエンゲルスの「高弟」であったベルンシュタインは、当時のイギリスの運動を展開する際、議会政策などを中心に考えた。
 マルクス・エンゲルスは、一八四八年の街頭闘争やパリコンミューンの経験からプロレタリア独裁論を打ち出した。ベルンシュタインは、この路線を清算し、議会主義路線を打ち出す。ベルンシュタイン自身は決して毛嫌いされるべき人物ではなく、まじめに読まれるべき人である。彼は第一次世界大戦に対して反戦派を貫いた。ベルンシュタインのイメージを作ったのは、多くはロシアのマルクス主義者、非合法的に活動しなければならない人たちだった。当時のロシアの社会主義運動は国内的には壊滅状態にあり、レーニンもトロツキーも国外で活動していた。それほどロシアのツアーリズムは残酷だった。
 ベルンシュタインが主張した「議会主義的なものをはっきりととらえるべきだ」ということは正しいが、それ一本にしぼるべきだとなると誤りになる。当時のカウツキーら正統派もこうした見解だった。
 だが、ベルンシュタインがみることのできなかったものの最大は、新しい世界史的流れ、帝国主義現象だった。社会民主主義も国内的には、議会を通じた改良でも戦闘的態度をとることもあることはある。だが国際的な関係、帝国主義と植民地などの問題が弱い。
 当時のヨーロッパ世界で、資本主義発展が弱く、強圧的な工業化を進めざるをえなかったロシアなどで最も階級性をもつ労働者が出てくる。この事実をみることができなかったのがベルンシュタインの最大の弱点だった。この点からは修正主義といわれても仕方がないところがある。
 トロツキーはパルブスという、ある意味ではベルンシュタインの最も痛いところをついた思想家の弟子である。パルブスはロシア生まれのユダヤ人であるが、すでに一九〇五年革命以前に、資本主義の新たな矛盾を指摘していた。ロシアの過酷な条件のもとで戦闘的労働者が生まれ、ストライキも決行されていた。まともに食わしてもくれないし、生きさせてもくれないというのが、ロシアの過酷な資本主義化、工業化の実態だった。
 ナロードニキ以来の伝統もあり、インテリも急進化する。学生の場合、一時的な経験ということでは収まらなかった。ロシアの体制のなかで生きていくことは許されなかったのである。レーニンもトロツキーそうである。
 一九〇五年革命は、パルブス的な視野、つまり労働者・農民の戦闘性がロシアで生まれてくるという主張の一大イベントとなった。トロツキーはパルブスの影響で、すでに一九〇五年以前にそうした視点に立っていたが、その事実を二〇歳台半ばで経験することになる。彼は革命後、裁判闘争を闘いつつ『総括と展望』を執筆し、そのなかで「永続革命論」を展開する。われわれ、そして第四インターナショナルが最も依拠してきた政治的文書は、一九三八年の綱領文書、『過渡的綱領』であり、歴史的展望としては『総括と展望』だった。
 第二インターナショナル後半のベルンシュタイン的な社民的路線を否定し、世界的な規模での新たな帝国主義世界のなかで、戦闘的労働者を階級的な基礎とし、「低開発国」の人々とも連帯しながら反戦、反帝国主義、反資本主義の党をつくり、新たな社会を展望していこう――抽象化すればこういう主張である。その視点が『総括と展望』のなかで心憎いまでに展開されている。若書きの文書であるから、多少ナイーブなところはある。
 この論文をとらえて、当時のロシア立憲民衆党のミリューコフは「トロツキズム」というブランド名を与えた。それを後にスターリン派が「悪のブランド名」として流布することになる。
 ロシアの革命は、歴史的展望(トロツキーの展望がレーニンのそれよりは正しかった)に加えて、レーニンをはじめとするロシアのインテリゲンツィアの党の力、自らを省みない英雄的な労働者階級の力によって成し遂げられた。
 ここで留意すべきことは、レーニンもトロツキーも社会主義革命をめざし、それを闘いとったが、できた体制を社会主義体制とは決して思わなかったという事実である。「社会主義をめざす政権」という、ある意味では難しい表現で通し、その規定はスターリン体制も容易には覆せず、三〇年代半ばまでは持続した。
 戦時共産主義というのも、彼らのめざした経済政策というよりは内戦を乗り切る政策であり、かつ赤軍・労働者部隊を鼓舞するスローガンでもあった。その後に即座に、市場経済を持ち込んだネップ体制というかなり柔軟な政策に切り替えられる。これらを貫いていた考え方は、「社会主義を政体として建設していくためには、西欧の資本主義を上回るような安定した労働生産性をもつ政体がなければだめであり、ロシアでは結局は歪んだものにならざるをえないだろう。結局は西ヨーロッパへの革命の波及を展望していかなければならない」ということだった。こうした考え方は、トロツキーの『総括と展望』の一つの大きなメッセージそのものである。
 トロツキーは一貫してこうした視点に立ち続けた。二九年に始まるスターリンの過酷な体制、農業集団化、第一次五カ年計画、文化革命などに抵抗しながら新たなものを模索していくことになる。

トロツキーとレーニン

 一九二〇年代、試行錯誤の印象が強いロシアの経済政策だったが、そのなかでの論争、ブハーリン派とトロツキー派の論争など、トロツキー路線が正しかったとは思うが、双方の主張や論争それ自身は極めて面白い内容を持っていた。また民族政策などレーニン生前時代の政策も極めて面白い。
 ソ連の民族政策が今悪評にさらされているが、それらはすべてスターリン時代のものであり、レーニンに責任を帰することは、はっきりした誤りである。確かにスターリン時代、朝鮮・ロシア国境付近にいた朝鮮民族を何十万人と中央アジアに強制移住させ、多数を死亡させたような過酷な政策がなされた。農業集団化に続く三〇年代のことである。
 レーニンについて書かれたものにふれれば、レーニン自身のオリジナルを除けばトロツキーの『レーニン』であろう。この著作はレーニンの死後に、以前に書かれたものをあわせて発表されたものだが、レーニンの神格化とは無縁な人間レーニンを描いている。
 トロツキーは、当初はレーニンとの関係は良かったが、ロシア社会民主党第二回大会以降はレーニンに対する強烈な批判者となる。一九〇四年には『われわれの政治的課題』という、マルクス主義からするレーニン批判としては最も手厳しい著書を発表し、かなり冷たい関係に陥ったこともあった。
 そのような関係もあってか、すでにスターリン派によって始められていたレーニン神格化とは無縁な人間『レーニン』は非常に面白い。行間を読めば、各所にレーニンに対する批判的表現がある。例えばレーニンの哲学について揶揄しているところがあり、それはプロが読めばわかるように書かれている。また組織論についても、その時はレーニン組織論を受け入れていたが、それもプロレタリア民主主義に解釈され直した組織論だった。レーニンも、もちろんプロレタリア民主主義の立場だったが。
 丸山真男門下の最左派である藤田省三氏の論文『プロレタリア民主主義』というものがある。これは極めて優れた労作だ。そのなかで彼は、レーニンの主著とされる『唯物論と経験批判論』や『国家と革命』などをさほど評価せず、保留的にしており、むしろレーニンの良いところは時局的な演説や小論文に出ているとする。私もまったく同じような印象をもっている。二〇年代に入ってから没するまでの数年間の著作はすばらしく柔軟で、例えば自分が社会主義建設の先頭に立っていて、「ひょっとするとこの政権は潰れるかもしれないが、ともかく歴史に残ることをやっているぞ」という意識がまざまざと見えるような演説を行っている。見事なもので、極めて印象に残るものだ。ここらがレーニンの最大の遺産だと思う。
 このようにレーニンが「一枚岩」であったということはない。また党組織論については相対的にトロツキーの方が正しかったところがあると思う。またトロツキーができなかったところをレーニンが持っていたところもある。だが、この問題は「学問的」に、スターリン主義と区別された視野で評価をはっきりとしていかないと、われわれの遺産としては今一つ生きてこない。解明すべき大きな課題である。
 レーニン主義という用語を盛んに使いはじめたのはスターリン派である。確かに一九〇二年の『何をなすべきか』以降にレーニン主義という言葉は使われはじめたが、一般には流布してはいなかった。レーニンが病床にあり死期をむかえていた時期に、スターリン、そしてジノビエフがトロツキー排除の意味を込めて使用しはじめた。当時のトロツキーは『ニューコース』を公表し、プロレタリア民主主義の全面展開に基づくソ連邦の新たな路線を提起していた。これに対して、トロツキー=トロツキズム、レーニン=レーニン主義という図式をスターリンらは意識的に使うようになっていく。
 そして二〇年代末期に、スターリンが覇権を握ろうとする時期に「マルクス・レーニン主義」なる用語が持ち出される。そしてそれがスターリン体制下で定着しポピュラリティを持つに至る。

トロツキーとスターリン 

 一九二七年にトロツキーは「国内追放」になる。翌二八年、追放地アルマアタでトロツキーはまだ仮説の形だが、「スターリンの暴虐性」について触れはじめる。「反対派への回状」で述べたものだが、おそらくはスターリンがブハーリンとの闘いを始めたことに気づいたからだではないかと思われる。右派ブハーリンと中間派スターリンのブロックが、トロツキーの左翼反対派やトロツキー・ジノビエフ・カーメネフの合同左翼反対派との闘争をやってきていたのだが、トロツキーは「回状」で、「中間派は、右派を追い出して単独で自らの政権を確立したなら、政治機構的に大変な暴虐性を発揮する可能性がある」ということを、ここで初めて述べている。
 スターリン派の支配的影響力は、マルクス主義の正統派として、コミンテルンを通じてたちまちのうちに広まる。コミンテルンや各国の共産党への組織的基盤を与えたのはソ連邦の政権であり、特に財政的基盤が大きな役割を果たした。そうした政権に対するトロツキーの「相当に辛らつな批判」は、ソ連邦の恩恵を受ける側からすれば、敵を利するもの、「利敵行為」に映る。一方では良心的・まともな主張と聞こえ、他方では絶対に擁護できないものという印象を持たせる――トロツキーの主張や方針に対する、こうした真っ向から衝突する評価が与えられる状況が九〇年代まで続いた。
 トロツキーは、労働者国家ソ連におけるスターリン体制の政策を見ながら自己の方向性を展開していく。労働者国家ソ連について、トロツキーは、何がロシア革命とともに勝ちとられたものなのか、何が擁護されるべきなのか、そして、さらにソビエト・ボナパルティズムの行く末が結論として資本主義の復活につながるのではないか、を中心的主題として追求する。とりわけ後者の論点は、トロツキーにすれば二〇年代からの一貫した懸念であり、その力関係はもちろん『永続革命論』でとらえられている。
 社会主義をめざす政権は、西ヨーロッパの資本主義諸国に社会主義をめざす政権が樹立されない限り、いつでも崩壊の可能性を持つ、ということが彼の危機意識の基礎であった。労働生産性、テクノロジーを産業体制に活かし、労働時間短縮などの力をもってやっていける地域と労働生産性が低く工業化の遅れた圧倒的な農業国であるロシアとの現実的な落差をよく知っていたからである。
 左翼反対派はフランスを中心にドイツなど各地で活躍しはじめる。そして第四インターナショナルの活動実態は、いろいろな人々が取り組んできてはいるが、まだ「学問的編纂」はこれからのものだ。例えば昨年亡くなった菊池昌典氏などは「まあ、いろいろ大きなことをいっても結局は一握りの運動だ」などと、「冷たい」ことを書いたりもしている。主観的、客観的にみて、どのような過酷な現実のなかで、どういう闘いがなされていったのかを、歴史的にロマン主義的にではなく、現実を総括する必要がある。
 一九四〇年にトロツキーはスターリンのエージェントに殺害され、四五年に第二次世界大戦が終了する。

狭義の永続革命の時代

 結論すれば、永続革命論の時代は狭義にはこの時代のことだった。二〇年代から三〇年代にかけて、ドイツ革命から西ヨーロッパ革命が軍事的、政治的、歴史的に、ともかくも可能性があった。
 勝てるかどうか。トロツキーは勝つために、左翼反対派から第四インターナショナルを結成し、コミンテルンから決別する。その契機はドイツにおけるヒトラー政権の確立、そこにおけるコミンテルンとドイツ共産党の無力性、そしてソ連における第二次五カ年計画の過酷な体制と労働者民主主義圧殺の進行が複合したものである。三三年暮れ、コミンテルンをあきらめて新しいインターナショナルを築くことを決意する。
 彼は、新たな大戦は不可避と見た。戦争のなかで新たな反戦の労働者階級がヨーロッパ、東洋諸国でぼっ興し、第四インターナショナルは大衆性を獲得するだろうという展望をずっともっていた。
 第四インターナショナルは大衆性を持たなかったという「伝説」は、果たして正しいのだろうか。伝説と事実は相当に違っているのである。東洋諸国でいえば、例えば中国共産党と陳独秀。晩年に彼は社会民主主義的になったと言われきたが、最近彼の著作をいろいろ読んでみると、彼は「民主主義的な社会主義」とは言っているが、社会民主主義になったかどうかは疑問である。彼には、毛沢東とは違った路線というイメージがあり、毛沢東のつくった神話にもかかわらず、極めて尊敬されている。
 また上海を中心にしたトロツキスト運動。イギリス在住の王凡西の回想録はすでに出ているが、今度新たに鄭超麟(上海在住)の本の翻訳も出版される。少数派であってもかなり面白い運動を展開していた(党の分裂にもかかわらず、彼らと周恩来や葉剣英などの中国共産党要人との精神的つながりは残っていた。晩年の周恩来によって彼らは中国共産党による長期の拘留から解放される)。
 さらにはベトナムのサイゴン、メコンデルタを中心に活動したタ・トゥ・タゥらのグループ(三九年のコーチシナ植民地評議会では投票総数の八〇%を獲得という空前の大勝利を収めた)、インドネシアのタン・マラカ(二七年にトロツキストとしてコミンテルンから排除、インドネシア共産党最高幹部の一人。バンコクを拠点にインドネシア革命運動を指導)らの闘いなど、学問的にしっかりしたものが書かれる必要がある。
 戦後においても私たちは、ソ連労働者国家圏の左からの、プロレタリア民主主義、社会主義の方向への軌道修正を政治革命という言葉で表現し、闘ってきた。ベトナム反戦やキューバ革命擁護の闘い――その指導部たちはスターリニズムに色濃く染まってはいても、正しい要素の萌芽はあったし、階級的立場から闘ってきたことは間違いない――。
 このようにトロツキーの『永続革命』は、広い意味では現代でも正しい意味を持っている。
 だが締めくくりとして述べれば、トロツキーがロシア革命に際してとらえていた「帝国主義段階の資本主義」の時代は、はっきり三〇年代から変わろうとしていた。このことを抑えておかないと、戦後の資本主義の把握ではあまりにもステレオタイプ化された教条主義的な理解になり、労働者階級の多数を領導できるような資本主義論にはならず、また脱資本主義の展望を掲げる上でも間違ってくる。
 ロシア革命時代のレーニン、トロツキーの、少なくとも政権時代の闘いは思想的にも遺産として残さなければならない。そして、その時代の歴史的展望が、『総括と展望』なのである。

トロツキズムの検証――その二
永続革命主義としてのパブロ主義

 第二次大戦後、アメリカを中心にする「生き残りトロツキスト」は、新たな社会主義運動の高揚期が訪れると思ったし、実際にもそれは起こった。
 しかし、その中心は中国の軍事的な路線にあり、その最も大きなインパクトは現在にまで続いている。中国は今でも毛沢東を「克服的に捨てる」ことはしていない。かなり良心的な人たちでも、「彼はいろいろ誤りを犯したが、彼を尊敬しないわけにはいかない」ということがある。彼についての評価は、第四インターナショナルとしても、いわばペンディングの状況でもある。
 しかし毛沢東の数々の誤りはスターリニズムの故だということは抑えておく必要がある。ソ連の農業集団化に習った人民公社化――これは全体主義化であり、ポルポト政権の起源はここにある。また、プロレタリア民主主義とはほど遠い一党独裁体制――どの程度まで民主主義をオープンにするかはブルジョア民主主義ではないから論点であろうが、民主主義を取り入れないというのは、スターリンに習った毛沢東の今でもはっきりしている誤りである。香港の政治形態も、今後よりはっきりしていくことになるだろう。
 戦後の私たちの運動にとって、日本を含めてパブロ主義の影響は圧倒的である。中国革命の圧倒的なインパクトの前に、実際に第四インターナショナルは中国革命の勝利とともに、その歴史的存在価値を終えたと思われた時期もあるかとも思う。それほど労働者階級の圧倒的多数が中国革命に引き寄せられた。それにははっきりした根拠があった。
 中国革命は「ひいき目で見れば」トロツキーの『永続革命』の延長上にとらえられることでもあった。植民地革命との連帯を掲げたパブロの路線は、やはり「永続革命主義」であった。
 ただし、この路線についていろいろ考えるべき側面がある。一つは、政治形態として毛沢東なりスターリン主義に対してプロレタリア民主主義の立場を掲げつつも、パブロ路線が有効な方向性を取りえていたのかどうかについては、疑問である。
 二つは、新たな先進資本主義の胎動の始まりと関連するジャンルである。修正資本主義体制が三〇年代から始まっていた。ソ連の計画経済が(それをどう評価するかは別にして)ルーズベルトの政策やケインズ政策に大きな影響を与えた。戦前の日本においても、軍事経済体制に移行していくにあたってソ連の計画経済が相当に研究され、活かされた。
 古典的な帝国主義、地理的に無尽蔵のマーケットと資源があるという時代とは違い始めていた。植民地解放闘争が爆発しはじめたのである。
 帝国主義の新段階において社会民主主義が資本主義の枠組みにとりこまれていくのに対して、コミンテルン左派の系統の人々や第四インターナショナルが中国革命を支持する。
 西ヨーロッパ内部での労働者階級は、二〇年代、三〇年代に政権を獲得する機会があったにもかかわらず、戦後に戦闘性をある程度は失っていく過程にあったことは間違いない。議会制民主主義の枠で取りあえずは政権を許しても、ケインズ主義であれ、より右の路線であれ、ブルジョア民主主義的・自由主義が政権を維持することには変わりないということになる。

トロツキズムの検証――その三
戦後資本主義とマンデル

 資本主義の最大の変容を科学技術の面にみることができる。マルクスの時代に産業資本主義が訪れたわけだが、その時代は、技術や生産性向上のための機械装置などは採用、導入にとどまっていた。企業のなかに科学技術的ファクターを持ち込むのは、一九世紀末のアメリカであり、オーストリア学派の高名なシュムペーターの出世作である経済学的著作、『経済発展論』が一九一二年に出される。ここでは「新しい需要をうみだすものとしての科学技術」が念頭におかれている。
 第二次大戦後、資本主義の延命は植民地に依存した古典的帝国主義ではやれなくなり、他の資本主義国との競争に勝つためには科学技術を開発しなければならなくなる。労働者にも、それを通じて高い労働生産性を勝ち得るなかで、ある程度の余暇、労働時間短縮などが可能になる。
 古典的帝国主義に対する国家独占資本主義論がいわれ、戦後の新しい資本主義に対する「構造改革論」などのグラムシ派からのオルタナティブも提起されてくる。
 トロツキストは部分的にそれらを取り入れながらも、植民地解放闘争連帯、新たな社会主義論への模索をはじめる。
 ロマン・ロスドルスキー(『経済学批判要綱』を研究し、『資本論成立史』を執筆する。リャザノフ時代のモスクワ「マルクス・エンゲルス研究所所員」)の弟子でもあるエルネスト・マンデルは、パリ大学に学び経済学を修める。彼は『現代マルクス経済学』全四巻を執筆し、さらに一九七〇年代初頭に、最高傑作であろう『後期資本主義』を公刊する。ここでマンデルはトロツキー、レーニンの時代とは違う資本主義を解明しようとした。
 基本的には彼は、景気循環論、とりわけ長期波動論に力を入れた。スターリン時代に異端とされ弾圧されたロシアの経済学者コンドラチェフの長期波動論、トロツキー自身の景気循環論を学びながら自身の景気循環論、長期波動論を展開していく。
 コンドラチェフは商品生産のための機械装置の要素を、景気の長期的循環の大きな要因と考えた。マンデルの主張は、ようするに「植民地体制が崩れるなかで、古典帝国主義から新たな帝国主義が出てきた」ということである。「科学技術力を使いながら労働者階級にその分け前を与え、買収する」という新しいシステムに対して、マンデルはその循環サイクルのメカニズムを解明すると同時に、労働者階級の要求と運動の根拠、基盤を経済学的に正当なものとして規定しようと努めた。
 ちょうどマルクスが、彼の『ゴータ綱領批判』において、経済学的基盤とタイアップさせながら「労働者階級はこういうものを要求できる基盤がある」と展開したのと同じ方法である。マンデルは、労働時間や賃金形態分析の新しい装置をつくろうとしたのである。
 六〇年代に入ると、植民地革命はキューバ、アルジェリアと続き、ベトナムは中途にあった。他方、先進資本主義国においては一般に急進的運動の可能性はなく、議会内的改良がせいぜいとみられていた。それが一九六八年にフランスの五月革命、青年、学生の急進化が爆発する。マンデルはその急進化する青年層の意味をたちどころにつかんだ。彼は、現代資本主義論的にそうした状況が到来するであろうと見ていたかどうかは別にして、少なくとも、そうした急進化に歴史的説明を与える準備はできていた。
 新しく出てきた急進化した青年層と自らの資本主義分析という経済学的道具を結びつける形で戦後資本主義論、すなわち『後期資本主義論』を展開する。
 ここでマンデルは、古典的・教条主義な的帝国主義論に依拠する他の急進主義的諸傾向(ヨーロッパではその多くは毛沢東主義者として現れた)と区別された、後期資本主義のメカニズムそのものに青年の急進化の基盤があるということを明らかにしようとした。毛派やドイツの赤軍派などの勢いは、植民地革命の盛衰に左右された。中国が「革命を鼓舞しなくなる」とともに、それらの勢力は衰退していく。だがマンデルはそうした状況に抵抗力をもっていた。
 他方で、先進国マルクス主義のうちで特に理論的には、西ドイツのフランクフルト学派を批判的に意識する。この学派は青年の急進化に相当の影響力を与えたが、本質的にペシミズム的な哲学的マルクス主義派であり、労働者階級との連携は拒否はしないまでも射程には入れない。その代表者の一人アドルノ(『否定的弁証法』で有名)は、「階級闘争は勝利しないであろう」と言う。マンデルはアドルノを相当に意識していて、しきりに言及する。例えば「原爆の時代に革命は不可能だ、とアドルノは言っているが、それは違う」などと。
 マンデルには、植民地革命万能論と、アドルノ的な先進国の「思想だけでマルクス主義の存在意義はあるのであって階級闘争などに意味があるのではない」というような二つの傾向を否定する必要があった。
 六八年は大きな転機となった。フランスの五月、プラハの春、そしてベトナムでのテト攻勢――これらはそれぞれを通して世界を一つのものととらえることができるという感じを与えた。新しい戦後資本主義論と植民地革命との連帯を結合するなかで、別の社会主義の展望を引き出す――これがいわゆる六八年世代の歴史意識、レーゾン・デートルとなった。

九〇年代の意味

 マンデルはその晩年、ペレストロイカ下のソ連・東欧に対する活動に比重を傾けた。八八年の春、マンデルはソ連の公的席上で講演する。この講演は実に六〇年を経て初めてのトロツキストのソ連における演説であった。一九二七年、盟友ヨッフェの自殺に際して、その葬儀をトロツキーらが強行して以来の演説であり、マンデルにとっても感銘深いものがあったようだ。
 マンデル、そして第四インターナショナルは、ペレストロイカの進行に期待するところがあったのだが、残念ながらその後の展開は、ロシア、東欧諸国ともに民主化の主要な流れが資本主義のグローバリゼーションにのみこまれる方向へと向いてしまった。トロツキーは『過渡的綱領』において、「西ヨーロッパ労働者と連帯し、官僚指導部を打倒しながらプロレタリア民主主義と社会主義を復興するであろう」と予測したが、現実の事態はそうはならなかった。
 現在、私たちが迎えている時代は、結論的に言えば、「トロツキーはわれわれの旗である」というだけにとどまっていてはセクト的な組織を越え、運動をつくることができない時代である。
 九〇年代とはそのような意味をもっている。新たな百年後の修正主義論争というべきか、マルクス主義の再建を図る人々は、新たな現実の下での資本主義とはどのような段階にあるのかを見極めなければならない。その資本主義は、ソ連、東欧をのみこんだグローバリゼーションを特徴にする資本主義である。
 現在の資本主義は、アメリカ、ヨーロッパ、日本という三極の間でかなり激烈な競争関係ができている。古典的資本主義、帝国主義の競争は、植民地争奪戦と戦争で解決されたが、それは非現実的となった。今は、G7、G8といわれる先進資本主義の間の政策協調が図られる。競争・共存の流れのなかで、規制緩和や市場開放なりのグローバルな自由主義的政策が相互に展開される。国際的協調を管理し規制するために、一、二年ごとに点検しないとやっていけない体制ともなっている。
 この帝国主義にどう答えるのか、九〇年代のマルクス主義側の努力、模索が求められている。古典的帝国主義時代の「戦争を内乱へ」あるいは「植民地戦争から戦闘的武装闘争が起こる」という図式から新たな社会体制をつくろうとしても、今ではつくれない。帝国主義が違うのである。
 新自由主義(ネオリベラリズム)という言葉がよく使用されている。競争を至上原理とし、統制、規制主義としてケインズ主義を排するが、はたしてここには国家の介入がないのだろうか。
 ケインズは、有効需要をつくりだし、失業をなくすための国家統制を部分的に持ち込み、それでもって資本主義の枠組みを守り抜くという考え方である。確かに現在の新自由主義はそうではない。唯一の公正な原理は、人為的規制を排した市場原理であるという。
 現代帝国主義時代における新自由主義は、当然にもアダム・スミスの楽観的予定調和の理論には立てない。この理論は、現代の帝国主義が、国際的な競争と協調および国家の介入をベースにした、常時の危機管理システムであるという現実の上に成り立っている。
 アメリカ経済はまさに軍事偏重である。システム論のウォラーシュテインは「アメリカの経済は軍事ケインズ主義だ」と言っている。失業をなくすために軍事体制が維持されてもいる。巨額の軍事予算が組まれており、科学技術予算も軍事予算から回されているといっても言い過ぎではない。
 先進資本主義諸国と「発展途上」「低開発」諸国との間の労働生産性の格差は歴然たるものだから、経済格差に結びつく。ここから生まれるゆがみに対して、アメリカは軍事的介入を不断に準備しなければならない。
 自らの資本主義を脅かす要因への備えなのであるが、現在起こっているのは革命闘争ではなく、むしろイラクやイスラム原理主義の傾向のような「全体主義的な勢力」の登場である。これらはブルジョア民主主義の視点からは叩きやすい――今のアメリカは、「民主主義」「人権」を騒ぎ、「輸出」しつつ、叩いている。
 日本では労働側の力が弱いためであろうが、社会的閉塞感が覆いつつあるように見える。
 労働運動は労働者側の共同体の運動である。それが活性化すれば、そこに社会的、共同体的開放感、価値観が生まれてくる。大人たちの運動が生き生きしている沖縄で、ナイフをもてあそび、教師を刺すような子どもたちがはたして出てくるだろうか。
 子どもたちの世界は明らかだ。自分が全体の共同体のなかでいい人材になろう、というような開放感がない。一番出来の良い人が東大を出て大蔵省に入り、そこで酒の接待を受ける。エリートとしてエスタブリッシュメントに乗っていくのも地獄、落ちこぼれるのも地獄。それを言語的にも表現できないという抑圧された人間関係しかない。仲間を追い落としていくことしかないのか――。
 しかし尾崎豊的な歌のなかに社会的な連帯感を見つけだそうというような動きが再度出てきている。社会的なスローガンをもつまでは至らないが、しかしある種の社会的な連帯感を求めていると思えるのである。
 ヨーロッパは日本に比べてはるかに階級的緊迫感が高く、資本の労働者への対応も進んでいる。労働者階級の階級性が強く、移民労働者の比重が高いこともある。
 特徴的なものとしては、ヨーロッパの新右翼、なかでもフランスの国民戦線は十数%を得票する無視できない存在である。とりわけイスラム圏からの大量の労働力流入が「本国労働者」の失業を生み出していると宣伝する。またドイツの新ナチス――これらは移民労働者を排斥する運動であると同時に、再度のユダヤ人排斥運動でもある。
 人種主義と失業がからんでおり、最大の問題となっている。失業者は新右翼に引きつけられる傾向がある。新自由主義下の先進資本主義国家の競争のなかで、フランスのジョスパン政権などは、確かに大変なジレンマのなかにある。競争力をつけるためには失業者を出さざるをえない――しかし新自由主義の枠組みのもとに政権にある社会党は、この矛盾を解き明かせない。

二一世紀の資本主義

 ここで、「環境資本主義」が問題になる。
 古典的帝国主義はある意味では、植民地という地域的に人間を抑圧する以前に動物を殺害していった。アフリカでのハンティング(狩猟)――特に十九世紀のイギリス帝国主義は残忍な「生物学的帝国主義」であった。種として絶滅したものも多い。現在は生物保護ということになるが、当時はそうではなかった。その後に「人間的帝国主義」が来る。「種として優越する」という人種主義が、生物に対しても現地住民に対しても貫かれていた。
 古典的帝国主義とは、植民地という、ある意味で無尽蔵の自然を征服していくことであった。そうした帝国主義の展開のなかで、科学技術の時代として新しい生産物を生み出す技術開発も至上課題となってきた。「資源の無尽蔵性、科学技術の無限性」が、資本主義の「自由な市場競争」による延命の前提であった。
 しかし現在、資源は無尽蔵ではなく、科学技術の限界が広く認識されている時代である。(トロツキーにしても、その時代の科学技術論の「プリミティブ」性による過ちをまぬがれることはできなかった。)
 原子力テクノロジーが危なくなっていることは、今はだれでも知っている。農薬に起源する焼却ゴミから出てくるダイオキシン、合成化学産業が出すもろもろ、塗料、アルミニウムなども含まれる様々な人間に対する汚染物質。
 かつては公害は地域的な限定された性質のものであったが、今は地域に限定されない。何が汚染物質になるのかもわからない。合成化学工業がつくりだす文明の利器、例えば給食で使うトレーが危ないと言われ、青年男性の精子を激減させている環境ホルモンの作用も騒がれはじめている。
 十九世紀以来、資本主義は野放図に科学技術力の発展に依拠し、その生産物は害はないと思われ、利用されてきた。資本主義は、ある程度高い成長率を実現しないと、労働者に対する思想的、物質的力を持てない。だが、その科学技術に依拠した成長にはっきりといきづまり現象が生まれている。
 科学技術に依拠する資本主義は、「環境と資源」を認識したうえでの「健全な体制」なのかどうか――そうした全体性が見渡されなければならない。
 資本主義自身も、環境問題への対応の必要性を感じ対応しはじめているところもある。ドイツなど西欧の「環境資本主義」的な動き――デンマークの風車にみる原子力以外の自然構成エネルギーへの科学技術投資、「環境に優しい」商品開発投資などにみることができる。資本主義と社会主義が棲み分けする必要はないのであるから、資本主義がこうした方向に向かうことは悪いことではない。また労働組合が積極的に求める必要のある問題である。
 環境資本主義は、現代資本主義、帝国主義が突き当たりはじめている袋小路をくぐり抜ける動き、長期的なプラスの方向をめざした動きである。
 日本資本主義をとれば、エネルギーと資源、労働力を大量に濫費し、大量生産、大量消費を構造化したのが高度成長経済――その時代の終わりである、今の不況、デフレから抜け出す長期的な方向も、環境資本主義への産業構造の転換を意識的に進めていくことにある。

環境資本主義から環境社会主義へ

 しかし新自由主義の資本主義が、そのような領域に本当に踏み込んで行けるのだろうか。
 第一の問題。健全な経済体制をつくろうとすれば、購買者層、労働者階級の購買力を維持していかなければならない。
 今の日本でいえば、新しい需要を生み出すためには、まず失業をなくさなければならない。金持ち優遇は、かつての日本や今のアメリカのようなバブル経済を導き、実経済への投資ではなく、金融利益追求の投資に向かう。株、土地バブルが日本だったとすれば、アメリカは株と金融商品のバブルである。アメリカのバブルがはじけないということはない。必ず、いつかははじける。そのとき、今はサービス産業に低賃金で吸収されている膨大な労働者群の失業がなだれをうつ。労働者階級の購買力を無視する政策は、今の日本のようなデフレの悪循環を導いてしまう。
 第二の問題。「土建業」を支えるためだけの公共事業や、銀行救済のためだけの公的資金導入が弱者切り捨て、弱者からの収奪と併存して行われる橋本首相の政策。自民党は、自らの支持基盤への手厚い対策に走るだけであり、旧態然とした産業構造から抜け出していくことはできない。
 「環境資本主義への産業構造への転換なしには長期的展望は出てこないぞ」――資本主義延命の方向として環境資本主義へと意識的に誘導することまで含めての、積極的な労働者階級としての主張が必要である。
 第三の問題をあげれば、有限な自然と資源を意識した産業構造への転換は、結果としてある程度の生産力の低下を避けられない、ということがある。ただし、生産力の低下を自己目的化するのは誤りで、生産力の上昇はあくまでも追求されるべきものである。
 資本サイドも労働サイドも、生産力の低下に対しては強く抵抗するだろう。日本経済の活力が低下し、景気はさらに後退する、と。そうすれば、企業は倒産し、労働者は路頭に迷う、と。
 しかし今の問題は、もはや日本経済の活力回復の方策が閉ざされつつあり、デフレーションの悪循環が生産力を低下させ、購買力を低下させていっている――それからの脱却の道が見えないということである。ゼロ成長からマイナス成長の可能性をもって日本経済のいきづまりが進んでいる。生産力の低下は、日本の現実では現在進行形である。産業構造転換は好むと好まないとにかかわらず、進まざるをえない。
 避けられないであろう生産力の低下を踏まえれば、そして資本側がその犠牲を労働側にしわ寄せするであろうことを認識すれば、労働組合にとってエコロジー的価値の産業への導入、つまり環境ファクターをはっきりさせた上での産業構造の転換の要求と、そこにおける剰余価値の行き場、賃金体系における強搾取をなくし、長時間労働、失業の増大を回避していくような労働側の明確なイニシアティブと要求が、同時に必要となってくる。
 そして生産力の低下が労働者階級の犠牲に直結していくような経済体制からの転換を図ろうとするとき、それを労働者階級として要求していくとき、そこに環境資本主義を抜けて、社会主義、環境社会主義が浮かび上がってくる。
ここに、社会主義の政綱、枠組みが、個別企業、一国の企業の利益を守りながらの労働組合ではなく、階級全体として連帯する労働組合の枠組みから出てくるのである。

新しい社会主義のグランド・デザイン

 新しい社会主義のグランド・デザインは、二十世紀初頭の政治体制とは違ういろいろなファクターを入れながら描かれる。資本主義は他方では、民主主義や個の自立、市民をつくってきた。それを引き継ぐ社会主義は、個を圧殺する全体主義の体制ではない。個人を活かすために、多様性をもった共同体をつくるのが社会主義である。個を活かす健全な共同体――コミューンをつくるのがコミュニズムなのだから。
 戦後資本主義は特に、第三次産業の比重を高め、同時に様々な商品を販売するうえでテレビメディアなどのメディアの力に頼る。それは資本主義にとってはジレンマの一つでもあるが、購買者層、労働者層が「知的に高く」なければならない。ここに形成される市民層のなかから、危機意識からエコロジー運動を始めたり、女性たちからは「男たちに抑圧されるのはいやだ」とフェミニズム運動を始める人々が出てくる。
 マンデルは、戦後資本主義論には技術的ファクターが極めて重要だという視点を押し出した。資本主義分析としても階級闘争の観点からも重要だという視点である。
 同時に彼は、現代資本主義論の立場からエコロジー的価値、フェミニズム的価値が登場してくるときに、それを最初から評価し、積極的に社会主義のプログラムにとりいれようとしてきた。
 (この点、日本は相当に遅れた。エコロジーとフェミニズムの価値は、われわれ日本支部の自己破産が明らかになる過程ではじめて全体的に認識された)
 環境資本主義には、市民が最も敏感に危機意識をもって対応している。そこでは市民と科学者・科学技術者の運動が結びつく。その製品をつくる工場で働く労働者、さらに産業中心の体制で抑圧されている農民の新しい統一戦線が生まれる可能性がある。そうした統一戦線の闘いが、二十一世紀の社会主義政綱を生きたものとして、生み出していくと考える。
 二十世紀資本主義、帝国主義分析の発想を変えながら、新しい主体とともに成長する社会主義綱領をめざしていかなければならない。
 (五月一日収録。文責は編集部)  
自己責任の前提は
             若葉マークの自動車社会論B
                                    高山 徹

市民社会の形成

 前回は、自動車を運転する場合の基本論理は自己責任であり、その自己責任が正しく理解されていないために違法な運転がまかり通っていると述べて終わった。
 自動車の運転と例えば鉄道車両との運転を比較すれば、自己責任の意味がはっきり理解される。
 自動車の運転では、始業点検というのがあり、実際にやっている人は極めて少ないが、走行の前に安全に直結するブレーキやエンジン・オイルの量、タイヤの状態などを点検することになっている。営業用車両でも同じだと思うが、こうした点検を行うのは運転者である。鉄道(以下の鉄道に関する記述は私の推測を交えたもので正確度は保証しかねる)の場合、点検や整備を行うのは別の人間である。
 道路でも線路でも同じだが、非常に多くの標識がある。指示標識や案内の標識である。鉄道と道路でどちらが多いのかは一概には言えないが、少なくとも旧国鉄の線路に関していえば、道路よりもはるかに多いと思う。とりわけ案内標識的なもの(線路ではすべての踏切、架線を支持する柱などに名前か番号がついている)を含めると、線路に分がある。ところが実際に走る場合、指示的な標識(例えば最高速度)に対する態度の取り方が違ってくる。鉄道の方が強制的であり、標識に対する運転者の個人的な判断が入り込む余地がはるかに少ない。そもそも鉄道では、十五秒ごとであったか、線路のどの地点にいるのかが決められているのだから、最初から運転上の自由度が非常に少なく、従って自己の判断で運転するケースも少ない。
 車の場合は、どの経路をとるのか、出発する時間や目的地(あるいは途中の通過点)に到着する時間、指示標識に対する判断と実際の対応など、すべての点で個人の考え、判断、責任で運転することになる。つまり車の運転は自由度が圧倒的に大きい。
 自動車の運転におけるこうした大きな自由度は「自立した個人」の存在に対応している。これは市場経済が自立した個人の存在を前提としているのと同じ意味においてのことである。自立した個人とは同時に、自立した個人からなる市民社会の形成を意味する。自立した個人なるものは、市民社会を抜きにしては考えられない。逆に市民社会は、自立した個人なしには形成されない。
 そして市民社会とは、自立した個人が一定の決まり(法律や道徳、倫理観など)にそって活動する社会である。そこでの最低の決まり、守るべき原則とは、互いの人権を認め合うこと――お互いが人間と人間との関係として向かい合おうとすることだ。
 ところが実際の社会は、最初から市民社会として形成されて存在しているのではなく、家父長制の制約や資本主義的な階級関係を反映した構造をもち、「自由・平等・博愛」などと表現される市民社会の理想像は絶えず浸食されている。市民社会の理想的なあり方に向かって不断に努力することなしには、互いを人間と人間との関係として認め合う社会は存在できない。

自分勝手論の横行

 四月七日の朝日新聞に丸山真男著「自己内対話」からの引用があった。この本は丸山真男の「断想を書きとめてきたノートを復刻した」もので、一九四五年十一月四日の項に次のように書き記されているという。
 「デモクラシーの精神的構造 まず人間一人一人が独立の人間になること」
 「官僚と庶民だけで構成されて市民のいない社会、それが日本だ。ジャーナリズムの批判性はここでは庶民的シニシズムのそれだ」
 日本市民社会の未成熟についてはつとに知られていることである。最近では、ボランティア活動が活発化する風潮や様々な社会運動の展開のなかに市民社会形成の進展を認める議論もある。それはその通りだろうが、依然として部分的である。こうした市民社会の未成熟さ、丸山流にいうと「人間一人一人が独立の人間になること」ができていない日本社会では、自己責任の論理が「自分の勝手」論に不断に転化されていく。
 私が交通事故で入院していた当時、その外科病院でよく聞いた話だが、交通事故の加害者(車の運転者)が被害者側(例えば歩行者)に対して直接に謝罪に来るケースが減り、一切を保険会社に委ねてしまう例が増えているそうだ。こんな場合、金銭面では一定の責任が果たされているのかもしれない。そして車の運転者は、被害者に対する以外にも、道路交通法上の責任や保険金が高くなるなどの「責任」をとっているとする論理を展開するかもしれない。
 だが、そんな論理は人間的でない。加害者と被害者がお互いに人間同士として直接に向かい合える場合、まず、そこで「独立の人間」として何ができるのか、何をすべきなのかが一番の問題であるはずだ。一番重要な問題が欠落するケースが増えているというのだから、自己責任の論理が宙に浮いているとしか考えられない。
 日本市民社会の未成熟さが自己責任の論理を「自分勝手」論に不断に転化させているのだから、日本の自動車社会は車の普及率や免許証の取得率に反比例して未成熟だといわなければならない。歩行者が「歩行者優先」の権利を放棄して、左右をよく見て、さらにもう一度見てから横断歩道を渡るというのは、こんな未成熟な日本自動車社会における歩行者のギリギリの防衛策なのであろう。
 ところが、こうした日本市民社会の未成熟さに端を発する自分勝手論の横行を指摘したとしても、問題は何も解決の方向に向かわない。ただ、指摘しておきたいのは、この自分勝手論が今日の車優先の社会状況と表裏一体の関係にあるということである。人よりも車、鉄道よりも車、線路を廃止し道路建設を率先して推進する、自動車産業を経済の中軸とする、税収でかなりの比重を占める自動車関連の税金――こうした社会経済状況を放置していることと、運転者の自分勝手論を許していることとが同根なのである。
 自治体を中心に車の横行に端を発する各種の公害、環境汚染に対して様々な方策を考案し実行している。車優先の状況に歯止めをかけようとするのだが、それがうまくいかない。自治体の水準では解決できない、非常に根が深い問題だと考えざるをえない。
 結局、車を軸とする社会構造(経済、社会、政治、文化など)のあり方そのものについて根元的かつ総合的に問い直す以外にないと思う。これは考えただけでも相当にやっかいな作業だが、既得権にとらわれない人々による協同作業として実行していかなければならない課題である。
フランス
        地方選後の政治地図とLCRの課題
                                   クリスチアン・ピケー
 フランスの政治や政治家たちは危機に陥っている。三月に行われた地方自治体選挙には、有権者のわずか五八%しか投票しなかった。しかも、そのうちの三分の二だけが、与党(社会党、共産党、緑の党)か、あるいは野党の二つの保守党――中道寄りのフランス民主連合(UDF、総裁はジスカールデスタン前大統領)と旧ドゴール派の共和国連合(RPR、シラク大統領の党)に投票したにすぎなかった。つまり、共産党や緑の党を含むフランス政界の「主流」は、登録有権者の三人に一人をしか代表していないのだ。

政府の辛勝

 棄権した有権者やあるいは小政党の一つに投票した有権者の動機には、もちろん実に様々なものがある。しかし一つはっきりしているのは、政治制度に対する明確な不信、公然たる果敢な抵抗の存在である。二十年間に及ぶ経済危機と失業の結果は、左翼と右翼が政権として実行してきた、それぞれの政策に対する人々の無関心である。
 この間のそれぞれの選挙で問われていた課題は明確であった。すなわち左翼にとっては、切迫した社会状況に対応し、ネオリベラリズムの犠牲者に対して政治への希望を与えることだった。それが実現できなければ、人々の政治参加はさらに後退し、既存政治制度への失望、抵抗を強めるだけだった。そして実際の政治運営の結果は、もちろん極右を利することになった。
 三月の地方選では、左翼と革命派とを合わせると四〇・七%の得票率で、一九九二年の地方選よりは高かった。だが連立与党(社会党、共産党、緑の党)は、期待していた得票率に届かず、三六・五%であった。
 この事実は、勤労大衆が社会党のジョスパン首相に批判的な態度をとっていることだけでなく、「複数左翼政府」に対して不信を強めていることをも示している。それは、政府が失業者運動の要求を無視したり、あるいはその他の公約を守らなかった結果である。
 リオネル・ジョスパン首相の社会党、共産党、緑の党三党連立政権は現在、その首尾一貫性の欠如に対する代償を支払い始めている。多くの地方で、共産党の左に位置するラジカルな候補者の得票が増大した事実は、共産党支持の安定した有権者層が党指導者のマヌーバーに次第に失望し、かなり衰退した結果である。
 三月十七日付共産党機関紙ユマニテは次のように述べた。
 「極左は、左翼陣営、すなわち共産党に対する抗議票に大いに助けられた。有権者は、ジョスパン政権の改革――国民のうちで最も不利な状態にある人々を支援するもの――実行が遅く、しかもその改革が不十分だと感じている」
 緑の党は、地方選で様々なエコロジー派のライバルやその分派の崩壊によって助けられた。しかし緑の党が、社会党から独立して立候補した選挙区では、その支持者たちは党の同盟者へ投票したようである。

与党の共産主義者とは

 共産党指導者は、政権に参加してきたこの九カ月間、党員に対して民営化や若者への労働奨励計画、移民問題での反動的な改革、市民権に関する立法などを受け入れさせようとしてきた。その度ごとに党の全国書記ロベール・ユーは、党の役割の重要性やその責任、「社会運動と政権との架け橋」という自党の使命を強調してきた。
 これまでの選挙は、党の指導者にとっては共産党、共産主義者としてのアイデンティティを確認し確立していく非常に大切な機会の一つであった。唯一の例外は、左翼連合政権の時代に政権パートナーと共同の候補者名簿を提出したときだった。多くの党活動家は、これを拒否した――ことに共同候補が社会党の著名なメンバーの場合。北部リールの大多数の党員やノールパドカレーの四〇%の党員は、「彼ら」の候補者とは別の候補に投票した。
 当然のことだが、これは気の抜けた選挙運動を意味し、選挙活動の大部分を担ったのは一般党員というよりもむしろ中堅幹部であった。
 逆説的ではあるが、ユーがその立場を強めて登場したのは、この選挙後であった。つまり無慈悲な候補者選択のおかげである。だがユー全国書記には、革命派に対して言葉のうえで一定の譲歩をせよという一般党員の圧力がかかっている。この事実は、ジョスパン首相を心配させることはない。彼は、左翼側における迷える声を吸い上げる点で、共産党に依存している。
 保守党のRPR―UDF野党は、今回の選挙を終わりの開始と総括することになるだろう。昨年の総選挙(国民議会選挙)で彼らは三四・二%を得票した。今回の地方選で獲得したのは、わずかに二八・一%だった。UDFのエドアール・バラデュールやシャルル・パスカといった鍵となる人物が間違った選択をし、そのため多くの選挙区で右翼が勝利する唯一の機会は、極右かそれとも社会党とある種の合意に達することしかなかった。
 極右国民戦線(FN)は現在、二つの右翼政党のそれぞれとほぼ同じ規模であり、イデオロギー的により一貫しており、よく組織されている。ファシストの指導者、ジャン・マリー・ルペンらは、自らを重々しく売り出している。「古典的」な保守諸党は、単一のリベラル・保守・共和派政党へ合併する――これは指導部人事と議会外構造とを少なからず犠牲にすることを意味するが――か、それとも右翼総体の再編に関して一定の交渉をするしか道がない。
 多くの地方保守派政治家は、全国指導部がFNとの共同行動を拒否している点を苦々しく思っている。しかし「民主的」右翼をファシストから区別する「共和国路線」をとる勢力全体で一種の再編が起こるなら、ルペンの党がそこにおいて中心的な要素となる。
 FNは、昨年の国民議会選挙(総選挙)と同じ一五・三%の得票率を維持した。大パリとその他いくつかの地域で、ファシストの得票は停滞したが、工業化が進んでいない北部、東部、南西部では、これまでにない得票率を達成した。プロバンス―アルプ―コートダジュール地域では、保守諸党を合わせたのと同じ大量票を獲得した。ブーシュデュローヌ、ボクリューズ、バールでは、それ以上の成績を収めた。
 こうした結果としてFNは、フランス本国二十一県中十三県で裁決者の地位についている。これらの地域では、左翼連合勢力は相対多数を獲得できなかったのである。RPRとUDFの指導部は、そのために権力をとれないにしても、FNとの選挙協力を拒否しているが、右翼に同盟を申し入れるファシストの戦略は、次第に保守諸党の集中性を弱めていくことになる。PRPとUDFがある地方において決裂しても、それはFNが権力に向かう道を一歩前進することを意味する。

ラジカル左翼

 ラジカルと革命派候補は、ほぼ百万票(四・二%の得票率)を獲得し、フランス政治地図における新たな基本勢力としての地歩を固めた。これは、部分的には一九九五年の冬に再び始まった大衆動員の結果であり、また部分的には、それを誰が実行したのかは別にしても、右翼あるいはネオリベラル路線に対して反対が増大した結果でもある。
 こうした「社会的なラジカリズム」は、一時期のフランスに存在していた。今回の社会的なラジカリズムにおいて新しい点は、共産党と緑の諸党がこの現象によっても得票を拡大できなかったことである。
 トロツキストのグループ、ルット・ウーブリエ(労働者の闘い、LO)は、こうした政治的なラジカル化から大きく利益を受け、彼らが候補者を立てた選挙区では四・八%の得票率を達成した。この印象的な成績は、部分的には同グループの選挙参加における伝統の賜物であり、そして選挙活動に注ぎ込んだエネルギーの結果でもある。LOはまた、アルレラギオールで有名かつ大衆的な人物を当選させた。
 今回の選挙では、LOはこれまでとは違って、社会党と保守諸党とを同じコインの表と裏というような幼稚な性格規定を行わなかった。
 新地方議会に十九人を当選させたLOは、重要な進歩を達成した。確かに彼らへの支持は全国的であるが、ことに支持が強かったのは衰退している北部工業地帯だった。こうした選挙区で、極右が労働者階級の票を自動的に獲得できるという能力を証明するものはなかった。
 この選挙結果を固めていくためには――ヨーロッパのトロツキストグループとしてはユニークであるが――LOは、地域で社会運動を領導している活動家たちと結びついていかなければならない。LOは次第に増大している多元主義的な実践や団結という雰囲気に入っていき活動することができるだろうか。あるいは、彼らの当選者たちは、自らのグループだけを公的に代弁する存在と考えていくのだろうか。

LCRの新たな課題

 LCR(革命的共産主義者同盟)もまた、有権者の一部が左傾化したことによって、その恩恵を受けた。LCRに投票したのは、前の共産党シンパやその支持者、それよりは少ないが、社会党や緑の党などに失望して本物の新しい左翼を求める有権者であった。
 LCRは、LOとは違って十二の選挙区で幅広い選挙連合を築いた。これらの選挙区における平均得票率は二・七%であり、一九九七年国民議会選挙の一・二六%に比べて相当に前進した。しかも、この平均数値には、LCRが緑の党の候補者を支持して八・七六%の得票率を達成したノール地域を含んではいない。
 ブレタン地方議会に二人のLCRメンバーを送り込んだことを含む、こうした成果があるものの、LCRは自らの選挙運動に一定の欠点を認めている。LOの獲得票が安定しているのに対して、LCRへの投票者はより大きな政党に投票して自分の票を「死に票」にしたくないと考えがちである。
 またLCRが一貫しては選挙に参加していないという問題もある。さらにLCRの候補者が出馬する選挙母体が非常に種類が多いという問題もあった。今回では、それが十九もあった。
 この事実はもちろん、LCRが積極的に展開している社会運動や左翼勢力の分断状況を反映している。こうした選挙母体の種類の多さにもかかわらず、LCRを軸とする勢力の結集が進み、左翼世界の変化のために闘っており、全国勢力として認められている。数年間にわたる新しい政治を確立しようとするLCRの活動が今、最初の成果を実らせ始めている。
 これからの数カ月間のうちに、ラジカルや革命派に投票した人々が様々な社会運動に自ら投じていく可能性がある。
 右翼への脅威が増大し、ラジカルや革命派が前進をとげたという事実は、フランス政府に対して「左へ行け。さもなくば」という明確なメッセージである。
(インターナショナルビューポイント誌4月、299号)