1998年9月10日         労働者の力               第103号

第一〇回国際主義労働者全国協議会総会文書
二一世紀の社会主義とその主体形成をめざして

   
 国際主義労働者全国協議会の第一〇回総会は、八月中旬、**県で開催された。今総会では、以下の四点が主要課題として意識された。第一は、資本主義論というべき分野。第二はその資本主義に対する社会主義のありかたとそれに向かう運動の性格。第三には、運動状況と広義の意味での主体形成の問題、第四には旧日本支部問題を含めた主体問題についての検討――である。労働者の力紙上では、第一と第二について高木同志が問題設定を行い、第三については坂本同志のこの間の努力がある。総会は、第四の課題を含め、それぞれの課題について検討を行い、今後の討論深化を確認した。
 以下は、これらの課題について、相互の位置関係の整理のために川端が提出した試論的文書に加筆修正したものである。
 
鍵となる現代資本主義分析
  
1、世界をどうとらえるかについて、マルクス主義陣営には理論的な混とん状況があり、今後の百家争鳴を予想させる。
 一方に新自由主義(ネオリベラリズム)の資本主義があり、他方に環境主義がある。環境主義は社会主義とイコールではない。システム論、レギュラシオン理論などの努力があるが、社会主義に新しい光を当てるというところまでは至っていない。
 高木同志は環境主義と社会主義との間に架け橋をかけるという提起を行っている。その前提となるものが現代資本主義論であり、そして科学技術論である。同時にそれを労働者階級の任務にまで貫徹するものとして行おうとしている。これは今までにない斬新な試みである。(本紙労働者の力一〇〇号記念論文参照)
 マルクス主義陣営からは、他にもレーニン型の「帝国主義論」の見直し、あるいはその「克服」への努力が見られはじめている。二〇世紀の終わりにあたってグローバリゼーション化(地球規模化)した資本主義を正面からとらえ直そうという試みは必要であり、不可避である。それを媒介としつつ社会主義の新たな生命力を捉え返す筋道がなければ、その社会主義は化石化したものとなるほかはない。

混乱を深める資本主義

2、資本主義のグローバリゼーションとの関連では、国際的なマネーの流動に対しての「規制」の必要性(月刊誌世界、坂本義和論文など)が出てきている。
 ドル危機が一九六〇年代にはじまり、そしてドルと金を切り離したニクソン・ショックが七〇年代はじめにあり、今は膨大なドル通貨が世界を循環している。一国通貨としてのドルが同時に世界通貨として流通し、アメリカ以外のどの国の中央銀行も、ドルに対する直接の制御・統制力を持たないという現状をどう理解するか。アメリカ自身もまた、ほん流するドルの動きを政府としてコントロールできているとは到底いえない。グローバル化したドルの流れが、そのグローバリゼーション化した資本主義経済の「基準」「規範」を掘り崩している。
 為替市場も株式市場、証券市場も今や主体的な判断基準をもたないといって言い過ぎではない。実態経済から遊離し、「貨幣」としてではなく、「商品」として売買されるドルが各国経済を崩壊させるに至っているのである。
 ドルの「暴力」に対する対抗策はあるのかどうか。ECのユーロはそのための努力だとされ、坂本氏は円が基軸通貨化する展望をアジア経済圏の強化として語る。ブロック経済を否定したうえで、国際的に拡大しているNGO・NPO(非政府組織・非営利組織)活動などの国民国家の枠組みを超えた市民的活動に相当に期待した論理なのだが、その展望はいまだ明確とは言えない。
 IMFに対する評価も相当にばらつきはじめた。韓国ではIMFは「私は首になった」という意味の英文からつくられたものと理解されている(写真参照)という。
 IMFの方針は新自由主義(ネオリベラリズム)理論に基づく均衡財政論だが、それは一方ではアメリカ経済の膨大な財政赤字体質との関連ではどうなのか、他方ではデフレ政策の強要が各国の国民経済に与えるマイナス要因をどう見るのか、という問題が起こる。さらに国際的な投機資金に対しての方策はあるのかどうか。
 バーツ売りに対抗したタイ政府は、その外貨準備が半年間で底をついてしまい、白旗を揚げた。韓国もそうである。日本の場合は円売りに反比例して外貨準備高が増大するという貿易黒字の現象にあり、他国とは別ではあるが。
 アジア危機との関連で、IMFは自らの政策が功を奏したと主張するが、反対論者は、ただ各国経済の底が見えただけにすぎないと反論する。後者の方が正しそうである。

3、一九八〇年代のメキシコ危機に続く九〇年代アジア危機、そして今ロシア経済の危機、金融危機がある。国際経済関係が良好になっているとはいえまい。「日本発の世界同時恐慌」という言葉が騒がれるほどに、世界の経済関係は相互依存していると同時に、相当にもろいものとなっている。
 アメリカの資本市場が世界の資金を吸い上げて成立していることも明らかで、その流れが止まればニューヨーク株式市場は暴落する(はずだ)。中国がアメリカ国債を多量に購入している事実は、以上の関係が裏を返せば「政治的」であることを意味している。日本政府も膨大なアメリカ国債の所有者であるし、日本の機関投資家がアメリカ国債を売却しはじめれば、これこそ日本発の恐慌に転化しかねないのである。アメリカ政府自身もドルの「暴力」に対して万全の防衛策をもっているとは思えない。
 現代資本主義論が問題となる理由である。
 IMF型の政策を続けるならば、世界的不均衡は幾何級数的に拡大していくことになる。一方に拡大する農業危機と飢餓、他方に集積する富。この格差は二一世紀に向けて是正される様相にはない。六〇億の世界人口の行方はどうか。破局的な予感を指し示す。
 グローバリゼーションとはアメリカン・スタンダード化を意味するが、そのアメリカが資本主義の下でどのような状況にあるのか。上層の富裕化と下層の増大、中層の疲へいである。
 イギリスの資本市場はどうか。巨大な外国(多国籍)金融資本の占拠による活性化であり、イギリス資本の力は低落する一方にある。実物経済としてのイギリス資本主義はどこにいくのか。フランス・レギュラシオン派のリピエッツ(フランス緑の党)が、「イギリスの植民地化」とまで言及したのは約一〇年前のことである(『ベルリン、リオ、バグダット』大村書店)。
 国民経済と世界経済の矛盾、距離の途方もない拡大、あるいは国民国家と世界的多国籍資本との隔絶した距離が生み出す矛盾を何が吸収できるのか。資本主義経済は海図なき航海に出ている。おそらくは、様々なナショナリティーが各所で噴出してくることになる。ドルの暴力を伴うグローバリゼーション一辺倒では進むはずがない。

グローバリゼーションと解体する日本型社会

4、国民経済的に見た場合、新自由主義理論の特色は価値破壊にある。とりわけ労働力価格の切り下げを人為的に進めることを通じて、資本主義の再浮揚を図るという単純明快な理論である。(もちろん恐慌作用の人為的な代替策ともいうべき価値破壊であるから、資本自身の再構成も推進される。その頂点が今、グローバリゼーション、アメリカン・スタンダードの全面化の中での国際的な企業競争と吸収・合併の大規模な動きとして表現されてきている)
 労働力価格の切り下げのために推進されている不完全雇用の拡大、不定期労働の拡大などは、長期的な視野で見た場合、アメリカ型の社会的不均衡の拡大を進める。拡大する社会的不均衡の社会的コストはここでは計算されないのである。
 日本の場合、全員雇用社会(岩波新書『雇用不安』野村正實著)の加速度的、人為的な解体として現れる。
 全員雇用社会の仮説は、農山漁村に依存し、家族賃金体系を軸とし、産業の二重構造、家族労働に依存してきた戦前・戦後の日本資本主義の社会体系を説明する理論であるが、この理論は同時に、福祉社会日本の実態もそれなりに説明する。すなわち膨大な農村人口が都市の失業を吸収するクッションの役割を果たし、見せかけの失業率を低く抑え、そのような社会総体としての仕組みが、日本の社会的な福祉を支えてきた。反面、家族賃金体系が象徴するように、ジェンダー・フリー(とりわけ性差賃金概念の打破)やワーク・シェアリング(労働時間短縮による仕事の分かちあい)という側面では遅れをとる。
 高度成長経済と自由化は帰るべき農村を解体した。そうしたうえに土建屋政治が利益誘導型の農村部に対する福祉政策的なものとして重なってきたのである。その意味では、全員雇用社会は歴史的には解体されていく構造である。
 しかし同時に日本型の財政構造では、欧米型の福祉体制は実現できない。家族扶養、介護の実態を見れば明らかだ。労働体系もそうである。家族賃金体系を基準にした雇用体系の解体が、ただ賃金の切り下げだけの面で推進されていることが続くならば、労働力を吸収する農山漁村を失ってしまっている今の日本社会では、都市における貧困の蓄積・拡大の拡大にしかならない。
 そして家族労働の衰退にほかならない中小地場産業、小規模商店の疲へいがさらに拡大するならば、都市中枢部そのものの衰退が進みスプロール化は加速する。すでに地方都市での商店街の空洞化は少なからず社会問題化しはじめている。
 少なくとも「全員雇用社会の崩壊」の進行は不可逆的なものだとしても、それが単なる資本による価値破壊として推進されるならば、日本社会が直面するであろう社会的不均衡は加速する。それを是正しようとするとき、その社会的コストは膨大なものとなるであろう。

5、日本の産業資本は相当にグローバル化を完了してしまっている。そして、そのうえにさらなる社会的なグローバル化を今、世界的に要求されている。すなわち内需拡大型経済である。この内需拡大型こそがアジア経済を浮揚させる鍵といわれる。
 一昔前に「エビと日本人」という岩波新書が出された。今はそれにとどまらない。「うなぎと日本人」であり、「カボチャと日本人」である。フィリピンのラワン材はすでにない。日本の内需拡大は、同時にアジア資源の収奪であり、労働力収奪である。また南太平洋では「マグロと日本人」とも言わなくてはならない事態もある。
 同時に日本農業の自給度は極度に低下し、山村は荒廃している。エコロジカル(生態系)なコストは国際的にも国内的にもはね上がっているのである。いわば資本主義は、地球環境という面からとらえた場合、マイナスの作用を果たしてきただけである。そしてその生産力の発展が、人類総体に対して膨大な飢餓を一方で作りだしているのであるから、そのシステムの総体が疑問視されるのは当然と言うべきである。
 資源収奪、環境破壊型の内需拡大論(例えば宮沢が首相当時に打ち出した生活大国論など)は当然にも否定されなければならない。化石燃料の寿命は長くはない。原子力テクノロジーの神話もすでに先は見えている。循環型、共生型の経済サイクルへの軟着陸は相当に困難な過程であろうが、そのいずれも「市場万能型」経済理論から生まれないことも明らかである。
 「日本の福祉社会構造」(野村・前掲書)の典型的なあり方は、同時に長期にわたる自民党政治が体現し、かつ推進し支えてきたものでもある。土建屋政治は国際水準に比してはるかに高い比率の公共事業と建設・土木業の存在を可能にしてきた。官僚は、その互助システムを天下りと公益法人拡大の姿で築いてきた。
 関税障壁や非関税障壁によって保護されてきた日本経済は、洪水型輸出が可能な間はその高度成長を維持することもできた。バブル経済は貿易黒字が生み出した過剰資本が投機資金へと流れた結果であり、今それは、まさに泡ぶくのごとく消え失せてしまった。
 農村の急速な解体、自営業の衰退、小家族タイプの増大――「日本型福祉社会」構造の余裕は日々失われていく一方、旧態然とした政官財癒着の相互依存システムが肥大化して残されている。これが自民党政治である。巨大土木事業、箱もの政治の自治体に象徴される土建屋的自民党政治のちょう落は不可避であるといわなければならない。

自民党政治の落日と政治の転換

6、日本社会の構造は長期にわたる変化の時代を迎えている。洪水的輸出の再現による高度成長は望めないであろうし、従来型の自民党政治のままの高負担社会の継続も不可能となるであろう。
 保守陣営、すなわち新進党や自民党の打ち出してきた「改革」はすべて「国民の負担を求める」ものであった(世界九月号、内橋克人論文)。 
 ますますの高負担を求め、同時に社会的なリストラを推進する――右肩上がり社会の展望が崩れていくなかで、失業率の上昇をカバーする全員雇用社会構造の衰退はさらに顕在化する。
 経済社会のグローバリゼーションがさらに進行するであろうし、新自由主義的経営手法もさらに強化されていくであろうから、ここに社会的な流動(動揺、不安)の増大はますます避けられないものとなる。相当程度に行き着くところまで突き進むであろう。
 ここに政治の問題が出てくる。
 社会構造の変化は、政治の変化を必然的に伴う。自民党政治が九〇年代に入って不安定化を深めてきていること、そしてそれが相当程度に回復不可能な線にまで入り込みはじめていることは、一方では連立の時代を形成しはじめていると同時に、他方では新たな政治的変動が準備されはじめていることを意味するであろう。あるいは準備されなければならないのである。
 旧時代の対抗政党であった社会党が東西対立時代の産物であり、かつ全員雇用社会時代の存在であったとすれば、これからの対抗政党はどのような資質を持つものとして現れるであろうか。エコロジーとジェンダー・フリーを支え、アジアとの共存、共生関係を表現する政治潮流が生まれなければならないはずである。それは、資源収奪、労働収奪型の経済からは生まれない。一部の金融資本が牛耳る市場経済万能論から決して生まれてくるはずもない。

自民党政治への社会的対案の徴候

7、一九七〇年代のローマクラブ報告の影響が大であり、環境主義の論理構築の歴史は四半世紀におよぶ。とりわけ西ヨーロッパにおいて、六八年フランス革命世代以降の資本主義批判としての運動が緑の運動や緑の政党運動に結びつく傾向を深めたことも事実であり、それは決して軽視されるべきものではない。
 だが、今のところ環境主義そのものは、資本主義、社会主義との関係では中立的である。「環境資本主義」「環境社会主義」という名称はまだ一般的なものではない。
 環境(資本主義)論が、現在の市民運動の基軸的なものである。環境(資本主義)を社会民主主義の行き方として評価する見方もある。新自由主義的な資本主義への対置としての環境資本主義的な考え方、あるいは「良い資本主義」ということになるのであろう。この文脈でヨーロッパ型(北欧、ドイツ型)の環境主義的(社会民主主義的)運動が評価される。日本の都市型自治体無所属議員の多くも、このタイプをモデルにしようとする傾向は強い。
 行き詰まった日本の社会状況に対しても、この視点がなんらかの対案的なものを形成しはじめていくと思われる。今夏の参院選で民主党や中村敦夫に投じられた票は、浅野宮城県知事の選挙が示した住民民主主義、自治体民主主義、官僚批判、自民党批判という流れの中にあるであろうが、同時にある種の期待感、すなわち公共事業中心、生産至上主義からの脱却や循環型社会への期待、さらにはワーク・シェアリング型労働(労働時間短縮による仕事の分かちあい)への展望を含むものにつながる質のものをも一定程度吸収したであろう。反失業運動における社民党支持への流れは、とりわけ後者の視点に比重が置かれたものであろう。
 日本社会、とりわけ都市型社会に沈潜している不安感と将来展望の意識が、経済成長の終わりという認識を通じて、これまで展開されてきた政治(自民党政治)への幻滅を加速させはじめたといえる。

労働運動と社会運動の接近

8、環境型、ワーク・シェアリング(労働時間短縮による仕事の分かちあい)型、ジェンダー・フリー(とりわけ性差賃金概念の打破)型の社会構造への転換を進める政治運動が今後の主体的あり方の主要な概念となるだろう。
 前掲の野村氏の用語を借用し、かつ氏の見解(「全員雇用型社会」の解体は慎重に行われるべきだ)に抗して言えば、次のようになる。「全員雇用型」から「完全雇用型」への移行、「福祉社会」から「福祉国家」的なものへの移行をめざす、と。
 その資本主義論との関連、社会主義との関連、国際的な展望を課題としつつ、自民党的な政治、高度成長時代の政治から離脱した政治的構想と勢力の形成をめざす必要がある。
 すでに週三十五時間以下労働の社会がある。労働形態の多様化はあってもいいが、その間の差別関係は除去されなければならない。ここで留意されるべきは、「過渡的綱領」も強調した「賃下げなき時間短縮」であるが、同時に全員雇用社会ではさほどの位置を占めなかった欧米型の同一労働・同一賃金原則が、全員雇用社会の解体においては切迫した要求となっていく。
 財界を背景とした自民党政府も、企業連型組合としての連合主流も裁量労働制の全面導入によって労働時間原則をバイパスしようとし、同時にアウト・ソーシング、すなわち資源の外部化、翻訳すれば外部労働――パート、派遣型労働への移行を強行しようとしている現状では、同一労働・同一賃金の原則が法的にも保障されたものとして追求されていかなければならないのである。
 したがって、ここでは従来型の「男子・本工型・労働組合運動」とは別種の労働組合運動、労働運動が必然的に登場してくることになるであろう。
 どのようなものが生まれてくるのか、確かなことを今言えるような段階ではないが、少なくとも企業連型とはおよそかけ離れたタイプの運動と組織が生まれてくることになるだろう。パート労働における年収百万円の壁、本社員と派遣社員との間の絶望的なまでの賃金格差、地域最賃の時代錯誤というべき低水準の現状がある。
 そして、それらのしわよせの多くが女性労働に集中され、それがさらに拡大する現状においてこそ、同一労働・同一賃金原則に立脚する労働運動は、「労働の分かちあい」と「性差賃金打破」を推進する運動から生み出されてくるに違いない。
 他方、土地と株を中心的な資産として展開してきた日本資本が、その双方の底割れに直面している。土地価格の下落がゼネコンと金融機関を蝕み、銀行資金はゼネコンを維持・救済するために氷漬けになってしまっている。そのうえに、その銀行を支えるために膨大な国家資金が投入されはじめている。
 仮に株式の日経平均が一万円を割るとすれば、現在の日本資本主義社会の骨格が解体の危機に直面することになろう。そして、その可能性は少なくはないのである。
 その危機を背景に、ミクロ経済的にはリストラがさらに進み、実質的な賃下げと失業がさらに拡大していく。新自由主義の論理はそういうものとしてしか進まない。おそらくはデフレのスパイラル(悪循環)に行き着く。
 誤解を恐れずに言えば、日本資本主義においても「ニューディール」が必要になっているのである。
 政府はゼネコンと銀行救済にそそぎ込む三〇兆円を、雇用の新規創出と循環型産業構造への転換、社会的福祉の整備、そして中小企業への低利融資に振り向けるべきである。行き詰まった銀行は国有化し、整理してしまえばいい。
 大失業時代において、ゼネコン倒産の対策としても国家的失対事業の再構築を採用するべきだ。鉄筋で固められた堤防を緑と土の護岸設備に変え、スーパー林道を埋めもどし、山林を回復させればいい。
 持ち家政策をやめ、ウサギ小屋でない、段差型でない公共の住宅政策を採用する。そうすればローン漬け社会解消への道が開けるはずだ。高齢化社会のためにはまずは定年の大幅延長を進めよ。はびこる官僚の天下りに対する方策にもなるはずだ。
 以上はスケッチ的な羅列だが、これらが労働運動の綱領的視点にならなければならないと考える。

東アジアにおける共生と安保破棄

9、自民党的な政治は、対アメリカとの政治経済関係に支えられている。歴代の自民党政府はアメリカの反応をうかがいつつ対アジア政策を進めてきた。もちろん戦後型の自民党政治が東西対立を利用して戦争責任を形ばかりにし、旧勢力を国内的に温存し続けることもできたが、その反面、東アジアにおける独自的な政治経済政策を立案し展開するような地位をもたなかったことも事実である。
 最後の自民党政府を体現するような行動をとっているのが、今の官房長官の野中である。彼の沖縄問題に対する反応は沖縄民衆の感情を逆なでするやり方である。対米関係の重視から逆落ちする沖縄への対応――これは周辺事態法などの一切に関連してくるものだろう。東アジアにおいて日本が「名誉ある位置」(憲法前文)を築くことは、自民党的なあり方では不可能である。
 だが、こうした国な位置感覚は、自由党は当然としても民主党にも貫徹していっているようである。社民党自身も「村山内閣」を経由していることを整理しているわけではない。共産党もまた、彼らなりの「新しい踏みだし」のために「安保体制問題の後景化」あるいは棚上げも政策的視野に入れつつあるようである。
 しかし前出の坂本義和氏が指摘するように、「アジア経済の独自的位置」の必要性が指摘されるなかで安保体制の堅持とは何を意味していくことなのだろうか。
 来世紀は、太平洋をはさむ「二大大国」、アメリカと中国との間に日本を含む東アジアが存在することになる。
 日本を含む東アジアの経済は、対米関係を中軸として組み立てられてきている。なかでも日本は東アジアを収奪しつつアメリカ市場への輸出に大きく依存する関係にあった。韓国もまた、日本経済の国際的な構造に「追いつき追い越せ」の経済成長を進めてきた。これは言い方を変えれば、それぞれの経済がアメリカ経済の状況に大きく左右される関係の中にいることにほかならない。「アメリカがくしゃみをすれば日本は風邪をひく」関係は依然として不変である。こうした関係は、アジアからの収奪とともに日本の内外格差、例えば対米仕様車と国内向け自動車の仕様が大きく違うなど、国内を犠牲にした輸出攻勢をも生み出してきた。
 換言すれば、日本を含む東アジアの経済はアメリカンスタンダード、グローバリゼーションの要求に、根本のところで抵抗できるような関係にはないということである。日米安保条約の位置は、また経済関係の表現でもある。そして、それは中国の比重が高まるほどに、日本(そして東アジア)がアメリカの対中国(軍事的、経済的)政策の一部にますます組み入れられていくことを意味するであろう。
 ここには東アジアの独自性が浮上する余地はない。
 現在の経済的混乱は持続するであろうし、東アジア経済のありようもまた変化せざるをえないであろう。それがいかなる姿をとるかは不透明だが、長期的に見て少なくとも東アジア経済がアメリカ経済にぶら下がっている、というNIES(新工業地域)の時期をそっくりそのまま繰り返すことにはならないであろう。
 いずれにせよ東アジアの経済的共生が本格的に問題となる時代に入っていくことは確実だ。安保破棄の立場は、東西対立時代におけるそれとは様相を異なるにせよ、新たな東アジアの経済的共生関係を、意識的に模索し追求していく入り口である。

新たな左派の政治潮流と労働運動

10、主体について。中長期的に新しい政治潮流の歴史的登場は不可避であろう。社民党も旧社会党の遺産を食いつぶしつつある。新社会党が新たな左派勢力のための何らかの求心力をもつという展望も薄いと思われる。
 だが民主党が新しさを代表するか、大いに疑問である。参院選の結果、党としての当面の位置は確立したとはいえ、一定程度の市民運動的な新しさは取り込むとしても、全体として自民党体制に対するオルタナティブ、左派性は感じられない。
 他方、ポスト宮本の共産党の行方は興味がもてる。共産党も一定の位置は確保した。これは当面は持続するだろうし、いずれ共産党自身が何らかの変化をはじめると思われるが、何か見えてくるためにはしばらくかかるだろう。
 この党が左翼版「オリーブの木」や左翼民主党のような行動に出た場合、いわゆる「反共左翼」も抗しがたい牽引力を生み出すかもしれない。だが、しばらくはそうした事態はありそうもない。
 中村敦夫の環境新党論には、もし彼が踏み切ればそれなりの支持は集まるだろう。しかしそれが政党を構成しうる力を持ちえるだろうか。今は判断するべき内容はない。
 自民党の分解は進むと見るべきだ。自由党との関連や、旧さきがけ勢力、民主党内部の保守勢力などの相互関係はしばらくは落ち着かないし予測できないが、単独の政権政党というあり方は当面の間はないのではなかろうか。特に参議院の選挙制度が衆院における小選挙区制の「足を引っ張る」関係にあるからである。
 連立関係が公然、非公然に複雑に組み合わされていき、それを通じて再編が進むということになろう。
 左派的な積極的要素はおそらくは労働運動が動き出さないと、全国規模としてははっきりとは見えてこないと思われる。例えば環境主義は民主党にもさきがけにも中村敦夫にもつながるし、民主主義的意識は青島的にも浅野的、橋本大二郎的にも動く。極めて分散的なのであるし、どこか観客民主主義的、従属的な要素もつきまとう。
 他方、労働力の自由化めぐる攻防は、世界的にも大きな比重を持ちはじめている。リストラの圧力は、厳しい労働力格差の温存の中で生活そのものと密接に関わるものとなり、ここに明白な闘争主体がつくられる。ワーク・シェアリングとジェンダー・フリーとの関係はストレートではいかないにしても、ますます密着した領域での問題となる。社会的運動としての直接性、密度が他よりもはるかに高い。
 労働運動が社会運動を新しい形で切り開くことに到達していけば、これははっきりとした独立的政治潮流となる。
 もちろん、これはすぐにできるというものではあるまい。だが全員雇用社会解体の進行は、こうした新しい労働運動の土台を拡大していく。今は誤解を恐れずに言えば「縁辺的」な「市民運動」的労働運動から始まっている。従来型大労組の官僚構造が対応感覚を欠くのは必然的だ。しかしそれは逆に言えば、そうした官僚構造の土台を掘り崩されているということに他ならないのである。
 以上の既成政党との関係でいえば、当面それなりに考慮に値するのは社民党ということにはなろう。
 社民党が小さくなったということもあるし、市民派的要素の比重も上がってきている。とりわけ大都市部での組織解体状況は、さらに市民派的、独立左派的要素への接近を強めさせている。しかし、ある程度の連携は社民党が「寄ってくる」気がなければできない。運動側の新しさと求心力が引力を生み出すものだろう。
 政権与党を離れた社民党がどのような方向性を求めるか、まだ判然とはしていないが、そう簡単に明快な方向性が出てくるとも思えない。とりわけ地方組織は民主党との関係が限りなく不透明であるところもあり、また旧感覚の党組織官僚が従来通りに行動していることも多い。連合や民主党との接点を求める動きも拡大すると見ておく必要もあろう。おそらくはこの党も、さらなる分解にさらされることになるのではないか。
 少なくとも言えることは、旧社会党の分解過程が終了してしまったということはないという事実である。社民党のさらなる分解を通じて、さらにカオス(混とん)的状況が進行すると思われる。新社会党においても議席を失った状況で「捲土重来を期して」同心円的な組織拡大路線を継続できるとも思われない。さらに共産党の将来の可能性が加われば、左派的陣営の将来像は全然違ったものともなろう。
 ここまで先走ることはできないにしても、新しい「綱領性」と運動が、新しい左派性とその求心力を形成していくことは間違いない。

以下 略

改悪労基法の参院通過を許すな!
追い詰められた連合指導部のクーデター

 
 九月四日の衆院本会議は労基法改悪案を賛成多数で可決し、参院へ送付した。八月二十八日に自民党が改悪案を九月二日の委員会採択にかけるという提案を理事懇談会で行ってからわずか一週間での成立である。本会議では共産党が反対したほかには社民党の三名が反対、退場しただけという、まさにスムーズ、スピーディーな成立であった。
 大方の虚をついたこの成立劇は、委員会採決が行われた九月三日が、臨時国会最初の労働委員会であったということが示すように、事前に各政党間の「根回し」ができあがっていたことを意味している。
 経過をたどれば、八月二十八日の自民党の提案、九月一日の与野党共同修正案(自民、民主、平和、自由、社民)の成立、三日の委員会成立、そして翌日の本会議採択である。
 連合が積極的に自民党との取引に動いたことは間違いない。それも、運動団体や各政党内部での動きに先手を打って、審議に入らないうちに採択を強行するという奇襲に出たのである。これは連合主流である企業連型組合の意向を受けたクーデターであろう。

追いつめられていた連合

 このような奇襲、詐術を弄するほどに連合は一面では追い詰められてきたのである。主要には二つの点でそうである。
 一つは、すでに本紙も繰り返し報じているように、昨年九月以降の労基法改悪反対の闘いの盛り上がりと新しい運動局面の登場である。二つ目には、先の参院選挙での自民党の「予想外の敗北」という新しい事態である。
 すでに明らかなように、企業連型の連合主力単産は労基法闘争では後景に引いていた。ゼンセンや金属、一般という直接に利害関係を反映する労働組合が、連合の方針を引っ張り、全労協や全労連との直接・間接の共闘関係も醸成される機運を見せた。
 この流れに乗り、連合は政府案に対する連合対案を、政府案と対立する方向で文案化したのである。
 だが他方では、通常国会において民主党と自民党との妥協の動きが進んでいた。与党の一角にいた社民党がこの妥協案への抵抗を崩さず、継続審議になったのであるが、この妥協案を連合主流がバックアップしていたことも間違いはないであろう。
 ようするに連合指導部は、財界や日経連などの経済団体との協調を進める企業連型大産別と、ゼンセンや金属、一般が進める「新・裁量労働時間制の削除」が示す明らかな反対運動とを使い分けつつ、国会における「数の論理」が、政府との妥協やむなしとする結果へ誘導するものと踏んでいたわけである。
 しかし事態は全然別のものとなってしまった。彼らの予想を覆して自民党は参院での過半数を大きく割り込んだ。労基法改悪の展望は少なくとも参院では相当に難しいものとなる容易に予想される事態である。自民と自由が結んでも多数ではない。そうすれば平和・改革は自民案には寄りにくい。民主党はなおさらである
 だが、みんなで渡れば怖くない――それを実現するためには、誰もが事態の進行に気づかないうちに「奇襲」すればいい。

社民党指導部は墓穴への道を選んだ

 鍵は社民党にあったであろう。社民党が先の国会での姿勢を堅持すれば、「みんなで渡る」シナリオに穴があく。外部からははっきりとはわからないが、参院選後の社民党執行部内部の「すったもんだ」を通じて、連合接近勢力の台頭があったことは明らかであり、私鉄、日教組の(いまや最後に残った)大単産のイニシアによる執行部(淵上幹事長)が成立した事態が密接に関連していると思われる。
 こうして、連合は「数の論理」で「正論」をねじ伏せる構えに出たのだが、繰り返すが、あくまでも「苦肉の策」にほかならない。こうしたことを繰り返せば自らの墓穴を掘るだけである。また、社民党は、再起の方向性を提示するための絶好の機会を失ったのである。

数の論理を揺るがす闘いを

 数の論理でいえば、参院での与野党共同修正案の成立を覆すことは、難しいかもしれない。しかし昨年秋期闘争以降の運動の流れは、ボディーブローのように連合主力を追いつめてきたのであるから、運動の広がりが、こうした旧態然たる連合運動や参院選にもかかわらず繰り返されている永田町政治にさらなる痛打を与えることも大いに可能だろう。
 九月十六日に日比谷野音で集会を予定している「労基法改悪NO!共同アピール運動」は以下のように求めている。
 1、労働基準法改定政府案を撤回すること
 2、時間外労働の男女共通規制を罰則付きで規定すること
 3、新たな裁量労働制・労使委員会制度の導入をおこなわないこと
 4、一年単位の変形労働時間制の条件緩和を行わないこと
 5、労働契約期間の上限延長を行わないこと
 6、有期契約労働者の雇用保障、権利保護のための法規制を速やかに検討し法制化すること
 7、現行法制の実効性確保のために労働基準監督官を増員すること
 
 参院での法案成立阻止へ向けた闘いはまさにこれからである。
 
付 五党修正案の骨子
 
*裁量労働制について
 1、適用にあたり、対象労働者の同意を受けなければならず、また不同意を理由にして不利益を被らないことを労使委員会で決議することを実施要件とする。
 2、労使委員会の労働者代表委員は当該事業所の過半数の信任が必要。
 3、労働大臣が対象業務や労使委員会への指針を定める。
 4、使用者は実施状況その他命令で定める事項を定期的に労働基準監督署長に報告する。
 5、施行期日は二〇〇〇年四月一日。
 6、政府は施行三年後に、必要ある時は必要な措置を講ずる。
 
 この修正案は先の国会での修正案とほとんど変わらない。政府案との目立った違いは「本人同意」項目ぐらいのものである。だがそれも「罰則」規定のないものであるから、名目的な歯止めでしかない。
 結局、裁量労働制のホワイトカラー全体への拡大、サービス残業の合法化――これは「労働時間」原則を解体することになる――には五党修正案は承認したのである。
 「労使委員会制度」は、圧倒的な職場が労働組合がないか、労使協調組合であるから、その機能には疑問符がつく。
 また時間外労働、変形労働時間制、有期雇用の上限延長なども政府案とほぼ変わらない。

若葉マークの自動車社会論番外編
                                 高山 徹


第三者の介在

 一読者から「若葉マークの自動車社会論B」に対して「疑問」が寄せられた。疑問というよりは、明確な批判というべきものである。その点は別にしても、読者から疑問や批判が寄せられることは新聞にとって歓迎すべき事態である。この「疑問」に関して、執筆者として可能な範囲で応えていきたい。
 まず簡単に回答できる問題から。
 一読者は次のように指摘している。
 「五、最後に、傍論だが、氏(高山のこと)は、交通事故において当事者同士が話し合うのではなく、保険会社が介在することを問題視し、それを「市民社会の未成熟」の典型的事例として持ち出している」
 この部分を読んで、私はいささかわが目を疑った。この指摘は私の主張とは無関係だからである。
 若葉マークの自動車社会論である本論では、内容の面で十分な学習や研究なしに、自動車の運転を開始して数カ月の人間が実際に感じたこと、思ったことを素朴に表現することが目的だった。私としては、長年の問題意識として存在していた自動車社会化による人間関係の変化――この問題を考えていく糸口の一端でもつかめればと思っていた。こうした「安易」な姿勢のためか、一読者の疑問を見て自分の文章が厳密でないことを痛感させられた。
 私は次のように書いた。
 「私が交通事故で入院していた当時、その外科病院でよく聞いた話だが、交通事故の加害者(クルマの運転者)が被害者側(例えば歩行者)に対して直接に謝罪に来るケースが減り、一切を保険会社に委ねてしまう例が増えているそうだ」
 「加害者と被害者がお互いに人間同士として直接に向かい合える場合、そこで「独立の人間」として何ができるのか、何をすべきなのかが一番の問題であるはずだ。一番重要な問題が欠落するケースが増えているというのだから、自己責任の論理が宙に浮いているとしか考えられない」
 引用した前段で私が言おうとしたのは、被害者が事故に伴う交渉を保険会社に委ねるのは当然だとしても、せめて謝罪だけは被害者が直接に行うべきだ、ということだった。そして後段で「お互いに人間同士として直接に向かい合える場合、そこで「独立の人間」として何ができるのか」として、謝罪という行為が一番重要であり、それが欠落する例が増えていることを指摘しようとしたのであった。
 私の文章のどこから「保険会社が介在することを問題視し」ていると読みとったのか、私には理解しかねるが、いずれにしても私の表現に厳密さが欠けていたのだと反省している。
 現在の日本では、保険に入っていない車(二輪車も含めて)を運転することは違法なはずである。私の勝手な推測であるが、実際に道路を走っている車の九九%以上は保険に入っているに違いない。そうした車が何かの事故を起こした場合、保険会社(や警察)が介在するのは必然なのであって、これを「問題視」することがいかに社会常識をはずれているかは一読者の指摘するとおりである。
 「保険会社が介在することを問題視し、それを「市民社会の未成熟」の典型的事例として持ち出している」と一読者は指摘している。
 これに関連した私の文章を引用すると、「日本市民社会の未成熟さが自己責任の論理を「自分勝手論」に不断に転化させている」である。同様な表現として「日本市民社会の未成熟さに端を発する自分勝手論の横行」という文章もある。
 私はこれを執筆当時、被害者に対する謝罪をも保険会社に委ねてしまう行為が市民社会の未成熟の「典型的事例」かどうかは考えもしなかった。むしろそれ以前の、何か道徳的に聞こえるが、人間として許される行為なのかどうか、そうした水準の問題だと考えていた。
 「専門の第三者(弁護士や税理士や裁判所、さらには組合や政党でさえ)が介在することこそ、「市民社会の成熟」を示すものではないのか。事実、このような第三者の介在が最も発達しているのは、アメリカである」と一読者は主張する。これに関して私は当否を下すことはできない。はっきりしているのは、専門の第三者が介在することを理由に加害者が被害者に謝罪しないことこそ市民社会の成熟を示すものであるとするなら、そんな市民社会は私はお断りである――ということだ。
 以上は一読者が「傍論」としている点に関する私の反省を含めた回答である。

方法論の問題?

 一読者は次のように主張する。
 「日本における問題性を「市民社会の未成熟」に求めるのは、いわゆる市民派知識人と代々木系知識人を結びつける主要な環であるが(二段階革命論の理論的基礎!)、そのような認識はすでに時代遅れになっている。日本の問題性は、市民社会の未成熟にではなく(「市民社会」なるものを何か理想的なものと観念すること自体、問題含みだが)、むしろ労働社会の未成熟にある。労働社会における資本対抗性の弱さが、企業社会の肥大化を生み、それが結局のところ、市民運動の弱さにもつながっている」
 この主張に対してまず私は方法論的な違いを感じる。
 私はマルクス主義を含めて社会主義論の再検討の過程(遅々として進行していないが)に入っている。そのためもあって社会問題に関して一つの基本的な立場、結論から具体的な問題を検討していくという方法を採ることはできない。部分に関しては部分に即して一定の結論を得ようとし、そこからさらに発展させることができるなら、それは望外の幸せというものである。だから本論で私は、自動車社会に関して若葉マークなりに一定の結論めいたものが出れば、それはそれで結構なことだと考えていた。車社会の問題点から日本社会の問題点を引き出そうとまでは考えてもいなかった。
 そうした方法論から言って、市民社会と労働社会との対立的な把握に関して私は結論をもっていない。ただし本論を書いた時点では、市民社会の一部分としての自動車社会の問題点をそれ自身として分析していけば、そこから次の段階が見えてくるかもしれないという思いはあった。現在の日本自動車社会は、市民社会(とりあえずブルジョア民主主義社会と同じものと考えておく)の内部にある。その自動車社会の問題点を考えるのであるから、一定の結論として市民社会のどのようなあり方が問題なのか――この点が出てくるのはむしろ当然だと考える。ただし、この問題が「日本社会の問題性」(しかも綱領的な水準の)に直結するのかどうかは分からない。
 ここで一つ強調しておきたいのは、私は日本自動車社会の問題点として「市民社会の未成熟」をあげたが、それを「日本における問題性」一般として主張してはいないことである。自動車社会という部分から導き出された結論を「日本における問題性」一般に拡張できるのかどうか、私には分からない。分からない以上、「日本における問題性」が何であるか主張するつもりはない。一読者が私の文章から先に引用したように受け取ったとしたなら、私の文章が未熟であったのか、あるいは一読者の誤解であろう。
 ついでに言っておくが、「市民社会」を何か理想的なものと観念することもしていないつもりである。確かに現代における自動車社会の模範的なあり方として市民社会をあげているし、自己責任の貫徹する自動車社会を理想的なものとして観念していることは事実である。だが、こうした私の主張から「市民社会を何か理想的なものと観念する」態度、立場を読みとるのはいささか行き過ぎではないかと思う。

二段階革命論?

 一読者は先に引用したように、「日本における問題性を「市民社会の未成熟」に求めるのは、いわゆる市民派知識人と代々木系知識人を結びつける主要な環であるが(二段階革命論の理論的基礎!)」と主張する。
 「主要な環」であるかどうかに関しては、私は勉強不足もあって判断がつかない。だが、これが「二段階革命論の理論的基礎」とする説には疑問を感じる。仮に私が「日本社会における問題性を「市民社会の未成熟」に求め」たとしても、それを捉えて「二段階革命論の理論的基礎」と言われれば、結論の先取りではないかと思う。ここで私は、必要条件、十分条件の話を思い出した。つまり、すべての二段階革命論者は「日本における問題性を「市民社会の未成熟」に求める」が、「日本における問題性を「市民社会の未成熟」に求める」すべての論者が二段階革命論者であるとは限らない――ということである。
 例えばトロツキーは、ロシア社会の問題性として民主主義の未成熟を否定しただろうか。私が理解し記憶する限り(相当におぼつかなくなっているが)では、そのようなことはない。段階革命論と永久(永続)革命論とを分かつ理論的な基礎は、私の理解では主として次の二つである。
 一つは、歴史理解というべきもので、段階革命論はいわゆる下部構造の発展に規定される段階的な歴史の展開を想定し、人がそれを飛び越えることはできないと考え、客観構造に宿命論的に従おうとする。第二は、段階革命論が革命を一国的に捉える点である。これは前の点に密接に関係しているが、下部構造を中心とする社会構造が基本的に一国的な性格をもつと考え、世界的に革命を展望しようとしない理論であることだ。
 「日本における問題性を「市民社会の未成熟」に求める」こと自体は、ある意味で事実認識に関係することである。この事実認識から一意的に問題解決の方法が出てくるわけではないと思う。同じ事実認識から出発しても、革命論の違いから様々な結論が導き出されるのだと考える。だから、一読者の指摘を結論の先取りだと思う。

市民社会なる言葉

 私たちが考えてきたマルクス主義には、市民社会なる言葉は基本的に存在していなかった。私自身、市民社会という言葉を使った記憶はない――引用した文章にこの言葉が混じっていた記憶はあるが。
 市民社会なる言葉をを使うとき、何か落ち着かない感じがある。慣れ親しんだ概念ではないし、私たちの間で共通の理解があるとも考えられないからである。そうであるなら、もっと違った言葉で説明すべきだったとの指摘が当然あると思う。その指摘の正しさを認めるものの、私としてはこれ以外の言葉を思いつかなかったとしか現時点では言うより他ない。
 「自立した個人」という言葉、概念に関しても事情は同じである。
 かなり前の私なら、市民社会や自立した個人なる言葉に対しては一読者と同じような批判を加えたと思う。何が変化したのだろうか。
 一つは、市民運動の展開、発展という運動状況の変化である。ただし、これに関して二つの考え方がある。市民運動をそれ自身独立したものと認識し、新しい社会運動とする立場と、昨年の反失業欧州行進に関する認識に典型的なのであるが、第四インターナショナルはこれを労働者運動、あるいは再生する段階にある労働者運動と捉える(これは伝統的に失業者運動を労働者運動と捉えてきた)。現時点では、私は前者に近い。
 「労働社会における資本対抗性の弱さが、企業社会の肥大化を生み、それが結局のところ、市民運動の弱さにもつながっている」という一読者の主張は、逆も真なりなのだろうか。つまり市民運動が強くなるのは労働社会の資本対抗性が強くなってからのことだと理解されるのだろうか。
 この間の市民運動の展開に関して、「労働社会における資本対抗性の弱さ」は強まったが、資本の側も弱まり、相対的に「労働社会における資本対抗性」が強まったと考えるのか、それとも労働社会における資本対抗性と市民運動との関係には相互依存的な複雑な関係があると考えるべきなのか。一読者の「結局のところ」という言葉で実際には無視されてしまうことが多い様々な事情にこだわることが現実の姿に近づく道だと、現在の私は考えている。
 もう一つの変化は、労働者階級(というよりも現実の労働者)に対する見方である。
 私は最近、零細下請け企業の一員として中堅企業の工場で働くようになったが、そこで見聞する非常に限られた事態からではあるが、ここ当分の間、労働者運動には期待できないという感じ方をさらに強めた。「労働社会における資本対抗性の弱さが、企業社会の肥大化を生み」という主張を仮に認めたとしても、それが現実にはほとんど無意味に近いと考えざるをえないようは状況になっている。つまり「労働社会における資本対抗性」が強くなる展望がまったく見えない。
 労働者運動と市民運動との関係を理論的にどう構築するのか、現在的な関係のあり方をどう考えるのか、これは相互に依存しながらも、一定程度独立した問題である。これらの問題も考えていく必要がある。