1998年12月10日        労働者の力                第106号
沖縄知事選の意味したもの
大田県政の挫折を越え、基地返還アクションプログラムの再生を
                                       川端康夫

大田陣営の分裂

 今回の選挙戦の特徴をいくつかあげれば、先ず第一には、対抗馬となった稲嶺氏自身がつい先日までは大田陣営の有力なけん引車的存在であった事実が示す大田陣営の分解、分裂が進行したということである。稲嶺氏は県経済団体のリーダー役であると同時に大田県政を押し上げ、ここにいわば県民党的な求心力が築かれていく過程を表現する存在でもあった。その稲嶺氏は、いまだ記憶に新しいであろう一九九五年秋の十万人県民集会のリーダーでもあったのである。さらには女性副知事登用として話題を集めた旧王朝の系譜を引く尚さんも稲嶺陣営に加わった。また稲嶺陣営の後援会長である中山沖縄電力会長は第一期大田県政の副知事であった。
 第二には、公明党の自主投票決定や、一時取りざたされた前社民党代議士上原康助氏の対抗出馬の動き、あるいは友愛会など一部労組を巻き込んだ「県民党」色の押し出しなど、沖縄革新の内的分解が相当程度、動きはじめたことがあげられる。こうした分解はすでに九七年春の沖縄特措法導入時点で明らかになっていたことであるが、その再構築が結局はできなかったことを物語る。
 第三には、全国的にも北海道と並んで深刻な景気低迷が求人数の低下、失業率上昇として現れてきたことの影響である。とりわけ若年労働力を直撃し始めた失業の増大は、これは決して沖縄県政の問題ではありえなず、全国問題の波及に過ぎないのだが、これを「県政不況」とキャンペーンした稲嶺陣営の戦術、すなわち「中央直結型」の「国から金を引き出す」というキャンペーンがある程度の功を奏したことがあげられる。
 そして第四には、大田陣営自体の求心力低下がある。
 これは別項目で詳述しなければならない問題だが、少なくとも大田県政が橋本政府とのやりとりのなかで路線的に透明性を欠き、ぐらついた様相があったことは明らかであり、その影響は民衆レベルでの支持、市民運動的支持の盛り上がりに少なからぬ水を浴びせる効果を導いた。とりわけ一連の過程を切り盛りし右腕的存在でもあった県労連出身の副知事がその後の県議会で再任を拒まれた事実は、民衆サイドや革新諸政党サイドに大田県政の行動に対する不信感が蓄積されていたことを明らかにした。

大田県政の軌跡――決意と逡巡

 以上に要約した特徴を通じて注目しておくべきことは、大田県政八年間における性格変化である。大田県政が誕生した一九九〇年は県財界を含んだ県民党的登場であり、言いかえれば、自民党西銘県政に対する反発の高まりを背景にしたものだった。全国的にも、土井ブーム、それに続く日本新党ブーム、そして自民分裂・新生党成立への動きが連続し、自民党政府体制への反発が高まる過程が進行していた。
 この超党派的な県民党的性格は、米兵による女子生徒レイプ事件を契機とする九五年秋の県民集会を頂点として、革新派的な県民党的なものへと動き始める。九六年秋の県民投票まで大田県政は民衆運動の広がりに沿い、あるいはけん引しつつ行動する。
 沖縄の闘いが全国の注目を浴び、連帯運動が急速に拡大し始めた時期でもあった。
 そして県民投票の結果が出て、橋本内閣との交渉が始まる。ここで大田県政は、いわば「ぐらつき」を示す。普天間基地返還という切り札を切った橋本と、同基地の県内移設という問題に直面して去就に迷う大田県政――この図式が直接には九五年秋の県民集会構造を解体し、同時にその間に生まれた革新的な民衆基盤の困惑を生み出していく。
 県経済連や島北部保守層は北部地域振興策の好機として、名護市辺野古地区への移設支持へと動き出していく。先にあげた上原康助氏の場合にもそうした構図は透けて見えていた。
 九八年二月の名護市長選挙を直前にした大田知事の海上ヘリ基地受け入れ反対声明は、こうしたぐらつき、迷いを断ち切るという意味をもったのだが、しかし市長選はなんともあいまいな詐術的立場に終始した「保守陣営」の勝利に帰した。
 そうして今回の知事選を迎えるわけである。
 結論的に言えば、今回の知事選の構図の原点は名護市長選にあったといっていい。自民党政府の全面応援を受けながらも、これらの保守陣営は正面から基地問題を取り上げることを回避する戦術を採用した。争点外しという常套手段が功を奏した形である。出口調査が示したのは、投票の基準を経済においた人の割合が基地においたそれの二倍であった、ということだった。自民党政府の大田県政に対する絶縁的態度の露骨な表明と履行の効用があったと言いかえてもいい。

稲嶺陣営の政治的詐術

 だが別の数字がある。知事選前に実施した沖縄タイムス社のアンケート調査によると「基地の海外移設五二%、本土移設一三%」計六五%が県外移設支持という結果が出された。基地問題を正面から問うのであれば、県民の多数派は基地撤去の方向を崩していないのである。
 稲嶺陣営は普天間基地の北部陸上部移設を明言し、ここで県内土木・建設業の利害を代表した。海上基地では、ノウハウをもつ本土大企業の請負以外にはありえないからである。そして「民に主体を置いた」軍民共用、十五年間の期限設定をし、その後には「北部の財産」にすると基地の性格づけ行い、地元利害に迎合する公約を示した。これは基地反対の県民感情を正面からは刺激せず、同時に具体的な形で落としどころの方向性を示す巧みな演出であったといってもいい。しかし、ここから以降はすでに政治的詐欺の領域に入っていく。
 日本政府(防衛庁)筋は十一月十五日の投票日当日、取りあえず事態を乗り切ればどうにでもなるとの認識を示したと報じられた。つまり、稲嶺陣営の公約ではあるが、その稲嶺県政が十五年も続くことはありえない。したがってその県政が公約の責任をとらされることもありえない、ということである。
 すでに投票の翌日には北部移設候補地としてキャンプシュワブが出てきた。だが日本政府は稲嶺新知事との話し合いを急いで進めようとも思っていないようにみえる。「民主体の共用」や「十五年期限」などを引き受けてアメリカ政府と交渉する気はさらさらない、というのが本音であろう。時間をかけ引き延ばしつつ、経済振興策で世論の流れが変わるのを待つという態度であることは間違いない。

時代を画した基地返還プログラム

 つまり稲嶺陣営、稲嶺県政もまた、大田県政が掲げた「二〇一五年アクションプログラム」をすぐに、正面からは否定できないという出発点にある。当の稲嶺氏が大田陣営に属していたという事実、その県政の最大の盛り上がりとなった九五年秋の県民集会を代表する人物であったという事実、その政治的運動的背景が基地返還のアクションプログラムであったという事実――こうした事実に加えるに基地反対の多数的県民感情を考慮しないわけにはいかない。
 だが日本政府はそうした立場にはない。アメリカとの安保体制を弱体化させることにつながる一切は、現在の日本政府の選択にはない。クリントン政権はナイ提言にもとづく極東一〇万人兵力展開を維持し、かなめ石としての沖縄基地群の維持を再検討するというそぶりさえも示していない。さらに安保体制はそもそもの日本防衛から極東地域の安定(六〇年安保)、東アジア全域への拡大(ベトナム・インドシナ戦争)、そして中東への拡大(湾岸戦争)、現在は地域限定なき日本周辺(全地球や宇宙空間も含むのか?)へと拡大されようとしている。アメリカ政府は自らは最小限度の費用と日本政府の大盤振る舞いの思いやり予算によって、かなめ石沖縄を絶対的に維持し続けるつもりのようである。
 基地返還アクションプログラムと安保堅持の日米両政府との間に妥協点はありうるだろうか。否というほかはない。
 おそらくは稲嶺県政は、アクションプログラム的志向の実質的解体を進めることにならざるをえない。「軍民共用」という立場はすでに「基地と共存した振興策」という使い古された沖縄保守派のスローガンに踏み込んだことを意味するからである。
 ここに繰り返し形成されてくる保守派県政と県民意識とのかい離、矛盾が改めて民衆的革新運動再生の土壌になりつづける。基地の島でない、平和の島。軍事のかなめ石ではない、平和のかなめ石としての沖縄。
 東シナ海の中軸に存在する沖縄の位置は、またアクションプログラムの政治的位置を改めて押し出していくことにならざるをえないのである。

壮大なプランの未成熟性、分解

 基地返還の二〇一五年アクションプログラムの位置を再確認しておく必要がある。歴史的に本土復帰運動として展開された運動の主軸(主軸というのは当然、独立志向もあったし、今でもあるからである)は、復帰後の長い幻滅の時期を経て大田県政とアクションプログラムとして再登場した。
 平和の島、沖縄をキー・ワードにしたこのプログラムは、要約すれば基地撤去と基地に依存しない沖縄経済の振興という二つの要素を統合しようとした壮大なプランである。
 端的に言えば、アクションプランには日本政府体制をバイパスする意識がこめられている。いわゆる自治体外交としてのアメリカ民衆や政府に対する直接の基地撤去要求運動がその一方とすれば、他方には自由貿易ゾーン体制への移行を掲げた東アジア経済圏へ直接に結びつこうとする展望がある。
 東アジアにおける平和の構造ができれば、軍事の島としての沖縄は必要なくなる。こうした政治運動が、日本全体の進路を根底的に規定するものであることを大前提として潜在化しつつ、そのうえにアクションプログラムは「中枢と周辺」の打破を意識したものととらえることができる。つまり沖縄県のすぐそこに台湾が視認される地域状況にもかかわらず国境線が横たわり、そして沖縄と東アジアとの関係は成田や関空などを通じたう回された関係を強要される。東京を通じた関係の強要が、この至近距離にある二つの位置関係を断ちきり、そして沖縄を「周辺」として位置づけてしまうのである。
 薩摩藩の侵略以降五百年、自由な海洋往来の要にあった沖縄は、明治政府成立によってさらに身動きできないものとされた。沖縄の辺境性は、まさに日本政府の強要してきた政治構造そのものにほかならない。
 東シナ海におけるかなめ石としての沖縄の位置は剥ぎ取られてきたのであるが、しかしその位置は軍事的にのみ評価され、米日両政府によって駆使されている。嘉手納の巨大空軍基地を象徴とする米軍基地群はまさに東アジアをにらんだ東シナ海の中枢という地理的条件を最大限に駆使するものだ。
 こうした国境線の分断、そして軍事的な蹂躙を根本的に疑う民衆意識こそ、今日のアクションプログラムが基礎にするものであり、そしてその展開は、米日両政府への先鋭な対抗の政治プランにほかならない。
 それゆえ自民党政府は、あらゆる意味でこのアクションプランの存在を承認することはできない。基地撤去という概念は政府総体としてありえず、また外務省は絶対に国境線の突破――島全体の自由貿易ゾーン化であれ、一国二制度であれ――を容認する構えにはない。だが沖縄県政は大田県政のプランとしてアクションプログラムをつきだしたのである。
 しかし当然ではあるが、ここに論点、論争、そして分解と分裂が出てくる。
 一つ。自民党政府としての日本政府は「基地と共存の沖縄振興策」として、この国境線問題に対処する。
 二つ。自由貿易地帯としての沖縄が直面するむき出しの国際的経済関係、競争関係が生み出す諸問題。
 大田陣営は要約すればこの二つの問題に突き当たった。総論は各論で分岐し始める。
 「沖縄独立革命」ではない以上、県政は中央政府との交渉を通じ妥協を重ね、それを経過して国境線問題をクリアすることを追求しなければならない。当然、自民党政府は基地の代償としての自由貿易地域構想を打ち返すことになる。アクションプログラムは、同時にこうした中央(自民党)政府とのやりとり、締め付け、押さえ込みなどの様々な障壁の存在を予期し、くぐり抜ける意志と展望、そして目的達成への持続性がはじめから求められる。
 橋本内閣の最初の官房長官であった梶山は、一方に沖縄特措法を準備すると同時に、他方では県内の自由貿易ゾーンの設定と推進という露骨な分断策を進め、そして大田知事の普天間の県内移設反対声明以降は、完全な凍結策がとられていく。
 稲嶺恵一氏の経済団体のトップとしての位置が、この政府の露骨な態度によって揺さぶられる要因になったのは疑うには及ぶまい。だがアクションプログラムそもそもが持つ性格からすれば、稲嶺氏の変節は彼の抱いた当初の政治展望が本質的にぜい弱なものだったという事実も明らかにしてしまう。
 また経済基盤のぜい弱な県内企業にとって「開放経済」とは何か、という問題も提示された。革新陣営は統一性を維持できなかった。国境によって保護された地場産業防衛の要求はそれとして切実なものであるが、他方東シナ海に「たゆたう」、平和な観光拠点としての沖縄という展望にも、今ひとつ、未来への迫力に欠けるものがあった。
 革新陣営にとって、アクションプログラムのもう一つの軸心である「中枢・周辺」問題、国境線の突破の問題は、内部に分解をもたらしつつ、まったく未解決のままに残され続けた。
 こうした革新サイドの内的な不整合性、不統一性がアクションプログラム全体の力を弱め、その分解を拡大してきた。その再構築こそが沖縄革新再起の必要条件であるといわざるをえない。

新たな沖縄の闘争への視点

 九五年秋以降の沖縄における民衆的盛り上がりは、「本土」との関係にも新たな光を照射した。
 本土政治の大多数は民主党を含めて沖縄特措法強行という無慈悲な政策で沖縄民衆に応えた。沖縄アクションプログラムは本質的に本土政治への根本的対案の性格を秘めている。その対案的性格を本土サイドの政治は正面からつぶしにかかったのである。本土に広く燃え上がった沖縄民衆の闘いへの共感にもかかわらず、社民党、新社会党、共産党、そして一部無所属議員を除いた大多数が沖縄特措法、つまり沖縄処分を支持したのである。これは歴史的な、まさに痛切に本土政治の実態をさらけ出したのである。
 沖縄サイドにも「ぶれ」が生まれた。基地撤去要求が本土によって阻害されるのであれば本土は基地を負担すべきである、と。基地県外移設、本土移設の意見が先に見たアンケート調査で一三%を占めているという事実に、この間の沖縄民衆の本土に対する苦渋を感じ取ることができる。だが、こうした一見したところ正論に見える見解は、実は沖縄のアクションプログラムの道筋とは異なるものといわなければならない。アクションプログラムは、多分に国境を踏み越える自治体外交であり、自治体からの中央政府に対する提案である。その実現は中央政府や中央政治に抗する民衆レベル、自治体レベルでの協調、協同の作業の蓄積と拡大によって自らの主張と要求の力、基盤を作りだしていかなければならない。
 沖縄県は今秋、本土各地でのキャンペーンを組織した。運動的に迫力に欠ける面はあったものの、県政そのものが、おずおずとではあれ民衆レベルにおける結合の必要性を認めたことの証左であったろう。また地域政党としての社会大衆党も積極的な地域的連携への動きをみせた。
 その目的意識と「米軍基地の本土移設」論は決して調和しない。沖縄の伝統的革新性はこうした本土移設論には絶対的抵抗線を引いてきたし、今も引いているのであるが、九七年春の通常国会がみせた沖縄特措法という対応が、沖縄サイドにおける本土への幻滅を倍加させたことを、この事実に見ることができる。
 しかし、にもかかわらず改めて確認しておくべきは、先に引用したアンケート調査の海外移設五二%の数字である。基地との共存を強要した本土の中央政治、政界の圧倒的多数への真っ向からの対置がここに厳然として存在している。これが沖縄民衆の再度の闘いに向けた基盤であり、そしてその行く末は、基地を拒否した沖縄の将来における生きる道筋が、いかに改めて具体性を持った展望として獲得されてくるかにかかっている。
 国境線の壁を突破し、東アジアにおける自由往来のかなめ石としての沖縄の展望が見いだせるのであるならば、それは強いられた「辺境性」を打破することに他ならず、基地依存経済ではない、新たな自立的なものが生み出されてくるにちがいない。
 そうした視点によってこそ沖縄は、改めて本土を組織する根拠と力を獲得できる。中央政治と対じしうる民衆的力を、沖縄と本土を貫徹して作りあげていく闘いの展望――大田県政の分解と敗北は、次の新たな闘いの始まりとなるし、必然的にそうなるであろう。
   (十二月十五日)
欧州議会選挙へ
       LCRとLOが共同候補者名簿作成
                                   ラファエル・デュフルー

欧州選挙での可能性

 フランスの主要な革命派組織、労働者の闘い(LO)と革命的共産主義者同盟(LCR)とが来年に予定されている欧州議会選挙で統一候補を立てる可能性が強まった。新しい候補者名簿が五%の壁を突破する可能性は十分あり、その場合、両組織のメンバーが欧州議会に登場する。
 両組織間の関係は、これまでずっと適正であった。しかしLOは、統一に向けた組織構造の展開――ことに「改良主義者」を含むそれ――には一貫して反対してきた。LOは通常、失業者が自らを組織して闘うような新しい社会運動に対しては外部観察者の態度をとっている。時々、言葉上の支持を与えるか、あるいは社会運動が呼びかけたデモに自らの支持者を動員して評判を得ようとしたりする。
 LOは、こうした立場、態度を「労働者階級の外部」に位置する個人や潮流を含む運動構築の拒絶を理由にして正当化している。これには、LOの組織戦略もまた関係している。すなわち彼らは、その全力を職場フラクションに傾注し、彼らが言うところの「補助的な」活動に力を分散することをきらっている。
 この立場にもかかわらずLOは、一九九五年の大統領選挙ではそのスポークスウーマンを候補者として闘い、五・三%の得票を記録した。この事実は、女性候補者の知名度が高かったこともあるが、同時にフランス社会において反乱の潮流が確かに存在しており、候補者がこの存在を具体化できたことをも示している。
 LOのこうした傾向は、LCRも闘った今年はじめの地方議会選挙で強められた。LCRとLOの得票を併せると五%を記録した選挙区がいくつかあった。その大部分は、共産党が伝統的に強い地盤としていた工業地帯であった。ツールーズの南西都市ではLCRとLOで一〇%以上の得票を達成した。LCRの二人の候補者がこの地方議会の議員となった。
 LCRはこれまでの数年間、一連のイニシアティブを発揮してより戦闘的な勢力や反資本主義の勢力、フェミニスト、左翼エコロジストの再結集を図り、左翼内部の力関係を変更しようとしてきた。

LCRの基本方針

 LCRは今年はじめ、共産党や緑の党、LOに対して欧州議会選挙での共同候補名簿作成を提案した。それは、マーストリヒト条約とアムステルダム協定に示されている「資本家のヨーロッパ」への反対を基調とする共同名簿であった。
 そしてLCRは、労働者階級に役立つヨーロッパ方針を実行することはフランス連立政権批判を必ず伴うのだと述べた。社会民主主義者のジョスパンに率いられる連立政権に、共産党と緑の党とが入閣している。
 緑の党はLDCRの提案に関心を示さなかった。そして独自候補者名簿を発表した。その筆頭は、六八歳のラジカルで、現在は湾岸戦争やマーストリヒト統合基準を支持するに至っている人物である。
 共産党の反応は遅れた。彼らは、LCRとの会合スケジュールを何度も変更し、他方、同党委員長は、資本家のヨーロッパとは異なるもう一つのヨーロッパをめざすすべての人々に開かれているが、しかし「共産党色が強い」名簿を提案した。委員長は、LCRとの合意を歓迎すると述べたが、そのための交渉の機会を設定しようとはしなかった。
 共産党指導部は実際には、LCRが他の革命派組織と共同候補を立てるのではないかと怖れたのだ。委員長の顧問たちは、同党が連立政府に入閣する立場の候補者名簿に左翼を引き寄せられないと、従来からの同党支持者がより戦闘的な左翼名簿支持に移行することを理解していた。
 その後しばらく、共産党からLCRに対していくつかの申し出があった。ジョスパン政権の社会政策に対する批判も表明された。こうした矛盾の中で共産党機関紙は、「現在の方針は正しい方向に向かっている」と何度も主張せざるを得なかったのである。彼らには道がない。例えば、政府の予算案に反対票を投じざるを得ない。精々のところ、多くの場合、棄権することになるだろう。
 共産党のこうした態度のため、共同名簿が不可能となった。LCRは、共産党が綱渡り的な政策を支持したり正当化するために利用されるわけにはいかない。
 LOとの関係は異なっていた。率直な論争が展開された。LCRはその中で、LOがマーストリヒト条約とアムステルダム協定に対する闘いの重要性を完全に過小評価している点を明確に批判した。LOは、一九九七年のマーストリヒト条約に関する国民投票では立場を鮮明にしなかった。その理由は「条約があろうともなかろうとも労働者は搾取され続ける」ことだった。反マーストリヒト条約の個別闘争は、「真実の闘いからの逸脱」であり、一部の右翼勢力も反対しているのだから、労働者階級に混乱をもたらすことになるとも主張した。

広範な合意

 両組織は過去の相違にもかかわらず、来る欧州議会選挙に関して基本的な合意に到達した。すなわち資本家のヨーロッパへの抵抗、われわれが必要としている「労働者階級のヨーロッパ」の基本軸、現在の左翼連立政権への批判的な評価――などが基本的な合意点である。
 共同名簿の細部については現在、交渉中である。基本的には対等の名簿となり、平等な宣伝活動を実施し、議席を獲得した場合、同数の議席数となる。選挙戦では、宣伝活動と一連の集会を共同で実行すると同時に、それぞれが独自の活動を展開することになる。
 LO指導部は、以上の点に原則的に合意している。LCRは、来年の一月に大会を開き、共同候補名簿を正式に決定する。
 共同候補者名簿の考えは、マスメディアの関心を集めており、また左翼内部での議論を活発にしている。一九七三年の欧州選挙におけるLCRとLOとの共同名簿と異なって今回の共同名簿は、単にトロツキスト世界に限定されたものではないとみられている。五%以上の得票率は不可能でなく、その場合、少なくとも四議席(LCRが二、LOが二)を獲得することになる。一九七三年の欧州選挙では、三%を越える得票率だった。
 この名簿が五%の壁を突破すると、共産党や緑の党の得票率に匹敵する。これが実現すると、フランス左翼の政治地図が大幅に書き換えられ、そして社会運動にとってはヨーロッパ全体に通用する積極的、肯定的なてこが誕生することになる。
(電子版インターナショナルビューポイント誌12月号)
来年も同じ時期に集まろう
第一五回青年キャンプをデンマークで開催

 第四インターナショナルに連帯する青年によるキャンプの第一五回は、二年間の準備期間を経てデンマークで開催された。
 デンマークの同志たちは、熱烈な活動を展開し、その熱気をもって、西ユトランドに集まったおよそ五〇〇人の青年に、デンマークが想像されていたような「北極」に近い寒々とした地域でないことを納得させた。北はモスクワから南はカナリア諸島まで、東はポーランドから西はポルトガルまで、そして多くの近隣地域から青年が集まり、一週間にわたって各種の政治行動やパーティを楽しんだ。インターナショナル・ワーカーズ・エイドにおける長年にわたる活動の結果として、参加者たちは、ことにボスニア代表団を温かく歓迎した。
 「リクレイム・フリーダム」(当然の権利としての自由を再び要求する)というスローガンのもとに様々なフォーラムやワークショップが開かれ、青年や女性、ゲイやレスビアン、移民者、第三世界の人々などが、資本主義世界や自由な市場、自由貿易、労働者と失業者や学生の集団的な権利に対抗する個人の自由への高い評価といった様々な自由を名目にして、本当の自由を制限されたり搾取されている現状を打ち崩していく道が模索され示された。
 参加青年団体が毎年準備してきたことによって、キャンプの政治的な催しでは、長年の活動経験をもつ年上の同志たちの貢献と青年同志たちの貢献とが重なり合った。そして青年の貢献というのは、自分が所属する組織にあって実行している活動や、青年世代に特有な、例えば青年のアイデンティティを形成するうえで音楽の果たす役割といった新たな課題に挑戦している事実を反映している。
 いくつかの問題に関して具体的な議論が深みをもって展開された。女性スペースにおける女性だけによる論議、ゲイとレスビアンのスペースで組織された議論、共同の行動に関してそれぞれの局面において活動する常設の委員会などが、そうした議論を展開した。学生運動・闘争に関する常設委員会が一つのパンフレットをもって今年のキャンプに参加した。このパンフレットには、スイス、ポルトガル、イタリア、フランス、ベルギーにおけるそれぞれの教育制度とその問題点、最近の学生闘争を扱っている。
 第四インターナショナル創立六〇周年を記念するため、一九三八年の創設大会代議員二二人の内で現在ただ一人生き残っているシャーリー・ヴァン・ゲルダーレンが招待され参加した。シャーリーに対して温かく感謝に溢れた歓迎の意が表明され、シャーリーは夜に行われた集会で次のように挨拶を行った。
 「皆さんの熱烈さは、この場の多くの方と同様に私が二〇代であった時に参加した歴史的な第四インターナショナル創立大会でともされた炎を再度燃え上がらせました。
 敗北や後退に意気消沈することはありません。私たちの数が少ないからといって、しょげることはありません。
 未来は皆さん方のものです。革命の精神に忠実であり続けてください。私たちの世代が失敗したことを越えて皆さんは勝利するに違いありません」
 同じ集会でブラジル労働党(PT)の執行委員であり、第四インターナショナルの指導者でもあるタタウ・ゴディーニョが一九六八年の世界的な青年の急進化状況において政治活動に参加するに至った世代を代表して話をし、広範な包括的革命運動を建設する闘いに関して述べた。
 デンマークの赤―緑連合所属の国会議員であり、第四インターナショナルデンマーク支部のメンバーでもあるソーレン・ソナーガーが参加し、青年組織の主要な闘争課題となっている反人種差別主義の闘いについて報告した。
 第一五回青年キャンプを成功裏に開催した今年の主催組織に関して、参加者たちは、日常活動による圧力から解放された経験や議論を国際的に交換する貴重な場を提供してくれたと高く評価した。
(インターナショナルビューポイント誌9月、303号)