1999年10月10日         労働者の力               第115号

自民党と民主党の党首選
深まる政治の右傾化
保守政治の尻尾となる道を拒否する闘いを

                                       川端 康夫

 九月、「二大政党」の自民、民主両党の総裁、代表選が行われた。両党ともに予想通りの結果となり、前者は小渕再選、後者は鳩山由紀夫が逃げ切った。小渕は自自公路線推進を掲げ、これを批判する構えで総裁選を闘った加藤、山崎に対する人事面での締め付けを露骨にしている。亀井の党三役(政調会長)就任に象徴されるように、小渕は自自公体制の実態である中曽根―小沢流の「改革」路線に傾斜することをもって自らの体制固めとする姿勢を明らかにしている。他方の民主党代表選は、明確な「改憲」を掲げた鳩山が第一回投票の優位を決選投票でも保ち、菅を振り切った。菅と横路の二三位連合という具合には進まず、横路票は鳩山と菅に分解したと見える票の配分であった。鳩山は挙党体制を言い、改憲論を後景に引き込ませるという姿勢を示している。これには当然、連合サイドの要望があろう。すなわち鳩山を支持しつつ、同時に「慎重に」とささやいているのである。


改憲派鳩山民主党の誕生
 
 鳩山の選択は、仮に小渕の自自公路線が小沢流改革論の流れになるのであれば、それに抗する(であろう)加藤との政界再編ブロックを視野に入れたものである。それゆえに改憲は最大公約数の位置を占める。慎重な加藤は別にして、山崎は公然と改憲論の立場であると表明してきたからだ。
 鳩山は祖父一郎の系譜を引くものとして党名を「民主党」にした立て役者である。祖父一郎の第一次民主党は「自主憲法」制定を党是として、なし崩し改憲論にあった吉田の自由党に抗する立場を採った。そして今、鳩山由紀夫は自らの改憲論の論拠を「なし崩し改憲に歯止めをかける」ためのものとして展開するのである。
 まさに歴史は繰り返す。
 しかし、これは詐術である。吉田時代やそれを継ぐ保守本流の路線の背景には、相対的に強力な戦後革新の存在があった。もちろんそれは、一九六〇年安保を頂点にしてどことなく自社両党の棲み分けと相互の妥協や黙認というものが蓄積されてくるという過程をたどった。にもかかわらず一九七〇年安保における飛鳥田横浜市長の米軍戦車移動阻止(村雨橋通過拒否)という事件を引き起こし、安保破棄(廃棄)と改憲阻止とが社会党の二大政治軸となっていたことは、表面上は揺るがなかった。
 だが一九九〇年代の過程では、安保体制承認へと政治の軸心は動いた。民主党がそれに巻き込まれた歴史的瞬間は、あの悪法、沖縄特措法賛成に踏み切った時である。その安保体制、すなわち対米関係こそを軸とする枠組みという基礎のうえに、鳩山は改憲論を密かに党是とすべく行動を開始した。そして鳩山はその財産をもって保守政治の奪権闘争へと参入する展望を提示したのである。
 同時に、これは明らかにアメリカ型民主党のイメージを意識した展望であろう。労組を引き連れ、民主主義派を引き連れたアメリカ民主党の政権政党としての位置というイメージなしには鳩山改憲論が党是となる道筋は描かれない。そうした鳩山由紀夫を代表に担いだ民主党は、第二の曲がり角を曲がったといわれて仕方がないであろう。
 兄、由紀夫と異なる立場を表明したのが弟、邦夫である。邦夫は都知事選惨敗の後遺症から抜けていないのか、民主党内部の旧社民勢力に対する嫌悪感を隠さない。保守への公然たる回帰、これが邦夫の主張するところである。
 民主党内部には旧小沢の流れや羽田の流れがあると同時に、松下政経塾出身者を軸とするウルトラな改憲論者たちもいる。これらを政治資産として保守陣営に回帰するという路線であるように見える。一見して明らかなように、この二人の違いは戦術・術策の違いでしかない。
 
労働者民衆の自立的闘いを
 
 自自公推進派の勝利である第二次小渕内閣は、加藤派切り崩しを正面から押し立てつつ、財政垂れ流しから超収奪路線への過程を掃き浄める役割を果たすであろう。周辺事態法を皮切りとする改憲論の公然たる浮上は、東チモール問題でもさらに加速されており、中曽根の言った「戦後政治の総決算」が差し迫る大衆収奪財政とともに公然化してくることになる。
 すでに地方自治体財政の拡大する危機は、賃金凍結やカットとならんで社会福祉やサービスを圧迫し始めている。これが国家財政の「再建」を契機として全面的に拡大されてくることになる。
 少なくとも二一世紀初頭を含むこれからの時期は、労働者民衆にとっては極めて住みづらい時期になることは明らかだ。鳩山の展望する(アメリカ)民主党路線は、労働貴族とブルジョア民主主義を引き連れた路線である。
 アメリカのクリントン路線が、社会の格差をさらに加速させる姿において進んでいることを想起するならば、現在進んでいる不完全雇用と労働者格差拡大、そして消費税大幅引き上げという、自自公路線の行き着く先が鳩山の展望、つまり労働者を引き連れてという展望をうち砕いていくことになるのは明らかだ。
 鳩山的流れに抗する労働者民衆の自立的闘いが、何よりも事態を切開する入り口となる。民主党における横路らの動きはアリバイ的行動、党内批判派以上のものではない。こうした民主党内部のうごめきに対して、何らかの期待を持つことはできない。
 まして反松下政経塾連合といった社民党サイドの一部にみる幻想に与することは、まさに道を誤ることになろう。自自公と対決することは、決して自民党内部の派閥的流動や民主党内不満派に何らかの期待を示すことではなく、改めて労働者民衆の自立的な政治的力量を蓄積し、具体的な姿に押し上げていくことを求めているのである。      (十月一日)

投稿
9・30臨界について
         東海村事故・レベル4
        問われる原子力テクノロジーの将来

                                        森下 陽一
一、「原発を内包する社会」とは避けられない事態か

 現時点(十月一日午後十時)では、未だ情報量が少なすぎる。厳密な論評にはなりえない。まず言い訳をしておく。

 制御可能な程度の量で臨界に達することが、現在利用されている核燃料物質の主要な条件である。当然、臨界事故などは、想定される最もありふれた事故の一つであって、防止方法及び起こった場合の影響を最小限にするためのシステムくらいは、すでに確定された技術であって欲しかった。
 粗雑にすぎる。このレベルの部分については最善を尽くしてくれないと、批判のしがいがない、というより批判の方向を誤りかねない。率直な感想である。
 監視が足りない、管理が弱すぎた――必然的に出てくるこれらの議論は、ある意味でまったく正しい。今回の場合に限定していうなら、「常陽」用の燃料であるという特殊性に鑑み、工業的にではなく、実験室的環境下で精密に作業を進めておけば(もちろん彼らの立場から、という意味で)何でもないことだったろう。つまり、この臨界事故自体は、簡単に避けられたはず。しかし、この種の事態、というなら話は相当違ってくる。
 中学生レベルの理科のおさらいをしておこう。核分裂生成物のなかで、人体に強いダメージを与えるものはおおむね二種類ある。一つは揮発性の高いもの、一つは生体物質と置換可能なものであって、むろん、その両者の性質をあわせもつこともある。
 セシウム、ストロンチウム、ヨウ素などの放射性同位体が典型的であって、今回事故においても、その部分はほぼ確実と思われる。外部環境にどの程度の量が放出されたか、正確な量的認識が重要だ。
 ポイントは、コントロール下にある通常の核分裂過程においても生成物は別に変わらないということ。通常過程では封じ込められ、外部には放出されない(多分)だけのことだ。一〇〇%に極めて近い信頼度がなければ産業として成立し得ないのは言うまでもないことで、事実その水準にあることは認めてよいだろう。
 同時に、過去において完璧ではなかったことも、我々は存分に知っている。すべての幸運をたのみにしたところで、十分遠くに、十分薄められているらしいドラムカンの大群とつきあわされることになるのである。
 初めの問いに答えておこう。一つひとつの事件、事故は、避けられる。こうすればよかった――そうした処方を見つけることは、確実にできる。それは意味のある作業であって、原発、及び原発のある社会システムを批判することと、原発を「存在しないこと」にしてしまうのは、まったく別である。
 当分の間、バケツで集めて臨界量を実現させようという実験はなされないに違いない、と信じたい。けれども、その種の事態の実現は確率的な現象である。少なくとも現実化の可能性を抹殺することはできない。
 
二、定量的議論を

 以上、本紙の読者にとっては、常識に類することだろう。ただ、言わせてもらうなら、原発批判、反原発ということが、一面、過剰な共通認識、前提となってはいまいか。事実を、特に量的差異を踏まえた議論がもっと必要なのではないだろうか。
 安野光雅に「天動説の絵本」という作品がある。未見の方がいたらぜひおすすめしたい。絵本を要約する暴挙をあえてさせていただこう。はじめ、地はどこまでも平らであり、天から授かった社会の秩序はいささかもゆるぎないものだった。
 ところがそれでは説明つかないことが出てくる。軽い疑問。不動不変にみえた制度への反抗。大半の人々には曲げようのない真理だったはずの天動説が絶対性を(意識のなかで)保てなくなるにつれ、少しずつ絵のなかの大地が円みを帯びてくる。ついに反逆者があらわれ、しかし権力に弾圧され、それでも天動説への反証が、人々の心をとらえていくと、大地はついに球体として描かれるようになる、という美しい作品である。
 一つ、根本的なところを主張しておきたい。信念としての天動説に、もう一つの思い込み、つまり地動説ないし反原発論を対置するやり方は不毛であろう。物理学上の知見を真しに学習するのは最低限のことだ。生活者の実感なるものでは出発点にもならない。
     (十月一日)
 

陳独秀の復権と中国革命の未来
                                          高木 圭

 本紙一月号で、中国の現状に関する高木同志の報告を掲載した。今号ではさらに昨今明らかにされつつある陳独秀の実像と、それがもつ意味について高木同志の報告を掲載する。なお本稿は、会議での報告を編集部の責任でまとめたものである

はじめに
 
 これまでで東アジア最大のトロツキストといえば陳独秀だろう。
 この陳独秀に関して、中国ではケ小平が中国共産党の主導権を握って以降、徐々に復権がすすめられてきた。その最初の成果にもとづいて日本でも一九八三年、野村宏章氏によって『陳独秀』(朝日選書)が著された。
 われわれの運動の中では、ともすると一九三六年以降陳独秀はトロツキズムの思想から離れ、最終的には転向したとみられ、深く研究されたとはいえない。しかし上述の野村氏の著作を読んでも、転向などとはとてもいえない。
 近年明らかにされた事実は、そうした事情をますますはっきりさせている。私はむしろ、陳独秀は死ぬまでトロツキズムの思想的立場のもとにあったと考える。
 ところで陳独秀は、単に中国共産主義運動の創始者、また中国左翼反対派の卓越した指導者にとどまるわけではない。実は、辛亥革命に至る時期からの中国近代を象徴する最大の思想開拓者といってよい。野村氏は陳独秀を福沢諭吉になぞらえている。つまり毛沢東に一元化されるきらいのある中国近現代史には明らかに欠陥があった。そして中国近現代全体を見ないと、現代の中国も、また二一世紀の動向も見誤るだろう。
 中国近現代を貫いて何が問題とされてきたのか――それを考えるうえで陳独秀の位置は極めて大きい。二一世紀に向けた中国革命の展開のみならず、東アジア文化圏をともにするわれわれの運動にひきつけても、そこには興味以上のものがある。
 今年は一九八九年六月四日の天安門の弾圧から一〇年である。中国におけるプロレタリア民主主義の問題はあらためて二一世紀の中国革命の帰趨を決する問題となる。そしてここにこそ、陳独秀が死ぬまで追求した課題が込められているといってよい。現下の中国における陳独秀の復権、その実像の提示がもつ意味をわれわれは注視しなければならない。
 
中国近代のリーダー

 陳独秀が中国の知識人、学生のいわば代表として前面に登場するのは一九一九年の有名な五・四運動だ。しかしすでに辛亥革命以前から彼は中国近代をリードする知識人として活躍を始めている。中国では清朝末期、アヘン戦争以来、近代化に向けた様々な動きが出てきた。洋務運動や変法運動などがそれだ。洋務とは軍事などに西洋技術を取り入れる、また変法とは社会制度を近代化するという動きである。
 それに対して政治体制、つまり清朝体制そのものを打倒しようとする運動も起こってくる。陳独秀は、孫中山(孫文)とは別個にこの革命的運動に参加する(陳は孫文の反清・反満州民族意識の強調を好まなかったといわれている)。これらが辛亥革命(一九一一年)に発展し、中華民国共和体制の成立となった。
 しかしそれはたちどころに袁世凱などの軍事政治に転化し、民主主義に発展しない。その中で陳独秀はそこからの思想的突破口を見つけようとし、口語表現による雑誌発行を始める。いわゆる新文化運動の展開である。一九一五年、陳独秀が編集長となった『青年雑誌』は翌年『新青年』と改題され、この運動を代表するものとなる。ここで陳独秀は魯迅を見いだし、「狂人日記」「阿Q正伝」などが『新青年』を舞台に発表される。このため日本にも『新青年』という雑誌名を知っている人がいることになる。
 もちろん陳独秀自身もこの中で主張を展開し、徹底した西欧化思想運動を呼びかける。その柱はデモクラシーとサイエンスだ。この二つを価値として広めたのが陳独秀ということになる。
 この場合、この二つをどのような価値として主張したのかを特に強調しておきたい。まずデモクラシーという場合、それは例えばブルジョア民主主義の制度ではない、人権、フランス革命以降の人権思想を意味している。またサイエンスは、一般的な科学、物質文明ではなく、西欧の徹底した批判精神を意味している。これを陳独秀は呼びかけた。
 この呼びかけが青年に浸透していく。そのなかから五・四運動が出てくる。中国の植民地的従属を求めるような日本帝国主義の突きつけに、青年の広範な決起が巻き起こり、その先頭に当時北京大学文学部長であった陳独秀も立った。そして逮捕される。ここにおいて陳独秀は一躍、中国民衆、特に知識人、学生のヒーロー的存在となった。
 しかし毛沢東時代には、『新青年』や五・四運動を引き受けた代表的思想家として李大サや魯迅があげられても陳独秀の名は消されていた。これではこの時代の運動の持つ意味が本当にはとらえられない。
 
陳独秀の敗北
 
 この陳独秀が一九二〇年、マルクス主義者になり、翌一九二一年中国共産党の建党者となる。そして生まれたばかりの中国共産党の最高指導者、書記長(総書記)として二七年までのいわゆる第二次中国革命を引き受けることになる。(第一次は一九一一年辛亥革命、第三次は一九四九年の中華人民共和国の樹立に至る闘争)
 この時代、五・四運動を土台とし、中国共産党も急速に成長するが、それ以上に大衆的基盤において一九二〇年代半ばから第二次中国革命が急速に盛り上がる。この大衆的な高揚を、真実の革命へと発展させる任務が中国共産党に課せられていた。
 しかしこのとき、中国共産党の活動はコミンテルンの一般方針に大きく制約されるシステムのもとにあった。一九二三年秋、レーニンが実質的に活動できなくなると同時に、レーニン主義、ボルシェビキ化のかけ声が強調され、いわゆる「レーニン主義組織論」がクローズアップされる。それはコミンテルンにも貫徹する。
 実際はソ連共産党において反トロツキー闘争が始まったのである。従って中国革命についても、トロツキーの永続革命論に対抗してレーニンの旧テーゼ「労農民主独裁」論を機械的に適用した「国共合作」がコミンテルン方針となる。ここでの「国共合作」とは、中国共産党員は全員国民党に加入し、中国共産党としての自己主張は一切行わないという従属的な方針だった。
 陳独秀はこの方針に納得していなかったが、コミンテルンの意向を体現せざるを得ない立場に立つことになった。しかし陳独秀は一九二〇年代半ば頃から、独立活動の必要性を強く意識し、何度もコミンテルンに要求する。国民党内における蒋介石ら軍勢力の台頭を警戒せざるをえなかったのである。しかしこの要求は承認されない。陳独秀はコミンテルンとのあつれきも経験しはじめる。
 このようななかで中国共産党は一九二七年四月一二日、上海における蒋介石のクーデターを迎えることになる。上海においては一九二七年三月、労働者の蜂起により上海軍閥・孫伝芳軍が駆逐され、上海臨時特別市政府が樹立されていた。中国共産党員はこの闘争を指導したが、それは国民党員の形でであり、その意味で、その後に上海に入ってきた蒋介石軍は政府軍であった。しかしこの軍は、国民党員である共産党員や、ともに闘っていた労働者を虐殺した。その悲惨さは、アンドレ・マルローの小説『人間の条件』に詳しく描かれている。
 コミンテルンが中国共産党に押しつけ続けた国共合作はあまりにも痛切な結果をもたらした。だがここに至ってもなお、コミンテルンは漢口にあった武漢国民政府左派政府を軸にする国共合作方針を維持し続ける。陳独秀は文字通り「進退窮まり」、七月中旬、総書記辞任を表明することになる。結局、国共合作はブルジョア的覇権に確信をもった武漢国民党政府側から一九二七年七月、陳独秀の辞任の旬日を経ないうちに最終的に断ち切られた。
 一九二七年八月八日、いわゆる八・八臨時会議は、第二次中国革命(国民革命といわれた)における中国共産党の敗北の全責任を前執行部路線に負わせ、臨時執行部を瞿秋白を中心に発足させる。この日以降、陳独秀は敗北の総責任者、右翼投降主義者というレッテルを貼られ、中国共産党は「路線を正常に戻すために陳独秀を解任した」と称することになる。しかしこのレッテルがコミンテルンの、実際はスターリン・ブハーリンの犯罪的誤りを隠すものであることはあまりにも明白だ。
 野村氏の著作によれば、この当時陳独秀は「悔い改めよといわれるが、スターリンが悔い改めないのに何を悔い改めるのか」と言い、コミンテルンのポスト提供の誘い(実際はソ連内部で直接監視するためのもの)を断固として拒絶している。
 王凡西(現在イギリス在住の老トロツキスト)が回想録に述べるように、陳独秀は「背骨の柔らかい人間ではなかった」のである。
 
ソ連共産党内闘争と中国革命
 
 陳独秀「解任」当時、ソ連においては左翼反対派への大弾圧が始まっていた。左翼反対派、特にトロツキーは強い危機感をもって中国共産党の独立活動を強く主張し、スターリン・ブハーリン派と中国革命路線でも論争を展開していた。スターリン・ブハーリンは、中国においては陳独秀に責任をかぶせ、ソ連においてはトロツキー派を排除、弾圧することによって、ソ連党・コミンテルンに対し中国革命における自己の誤りを覆い隠したことになる。
 中国共産党はこの後、瞿秋白、李立三、王明(陳紹禹)の下で、いわゆる「左傾もう動路線」に入り、各地での暴動闘争を実行する。その結果は都市における労働者基盤の完全解体であり、農村地区ソビエトの軍事的敗北であった。そしてついには共産党軍の「大長征」へと追い込まれる。しかしこの暴動路線にしてもコミンテルン、すなわちブハーリンを切り捨てたスターリンの第三期論という極左冒険主義への転換に強く規定されたものである。
 一方トロツキーは、この時期には第二次中国革命の敗北という現実を前提に、共産党の独立活動は当然として、労働者の力量を温存し、新たな好機に備える活動、すなわち民主主義的要求を重視した、国民会議のスローガンを中心にした路線を提起している。
 ソ連における党内闘争は、実に中国革命の動向と並行的に展開されていた。それゆえ、この論争は当時大量にモスクワに送られていた中国人留学生を引きつけざるをえなかった。
 当時モスクワ・中山大学にいた王凡西によれば、最終的に留学生の半数がトロツキストになったという。もちろん非公然活動ではあった。まさに中国トロツキズムはモスクワで始まった。しかしこのトロツキスト留学生の大多数は王明一派のスパイ潜入工作によって摘発され、ソ連秘密警察に逮捕される。彼らは帰国を許されず、そのまま行方不明となる。彼らの運命が苛酷なものであることをわれわれは推測しうる。
 
トロツキストへ
 
 総書記「解任」の後、陳独秀は党から一切の対外活動を禁止され、上海の一隅に引きこもった。しかし十一月には瞿秋白の暴動路線を批判する意見書を提出している。その内容は前述したトロツキーの路線と相当に重なっている。しかし陳独秀はこの当時までソ連で展開されていた中国革命をめぐる論争についてはまったく知らなかった。従って第二次中国革命の敗北を総括する視点をなかなかもてずにいたと思われる。この状況は一九二九年夏に変わる。
 モスクワから帰国(初期のうちは追放処分)した留学生たちから、中国革命に関するトロツキーの主張をはじめて知らされたのである。マルクスの観点を現実に創造的に適用するトロツキーの立論は、陳独秀の痛苦な経験にまさに応えるものであった。
 ここにトロツキスト陳独秀が誕生する。しかしそれは同時に、自らが創始した党から除名されることでもあった。陳独秀は、彼の時代の指導的活動家であった彭述之、鄭超麟らとともに「無産者」というトロツキー派組織で活動を開始する。
 ちなみに陳独秀とトロツキーは同年齢である。しかし、モスクワ留学生グループは別の組織(三派)で活動する。この青年たちにしてみれば、陳独秀たちはスターリンの指導を受け入れたのであり、今さらトロツキー派になるといわれても迷惑な話だ、とみていたようである。王凡西はこの留学生グループにいた。しかし一九三一年五月、トロツキーの勧告を受け入れ、これら四派のトロツキストは中国共産主義者同盟という統一組織に合流し、陳独秀がその書記長に任命された。
 日本のトロツキズム運動は、一九五〇年代後半以降、日本共産党の右転換への反対派として出発している。その意味で戦術左派としてイメージされている。しかし中国では、その歴史ははるかに古く、しかも中国共産党の極左冒険主義路線に対するプロレタリア民主主義派として出発している。中国トロツキズム運動のこの事実は、今後の中国革命におけるトロツキズム運動の可能性を考えるうえで、軽くはない意味を持つと考える。
 一九三〇年代前半は、中国でマルクス主義的に社会科学が探究され、日本でいえば宇野弘蔵氏のような知識人が多数生まれた時期だった。それを理論的に指導したのはトロツキー派である。そうした状況についての研究も中国内部では始まっているようだ。
 このように始まったトロツキズム運動だが、その数的勢力は弱体なままにとどまった。ある程度の勢力になる度に繰り返し国民党の弾圧を受けたからだ。都市を活動基盤に定めたトロツキストにとって逃げ場はなかった。このような状況に対し、トロツキストも武装闘争をやるべきだったと無責任にいう人もいる。実際、そのように挑戦した人々もいる。しかしその場合は、今度は毛沢東の軍隊に殺された。いわば二重の迫害にあっていた。
 この新しい活動環境の中で陳独秀は、一九三二年五月に逮捕される。陳独秀は当時の知識人最大のヒーローであり、逮捕の際は内外から広範な救援の運動が巻き起こった。ジョン・デューイ、アインシュタイン、バートランド・ラッセルなども参加している。国内では宋慶齢などが中心となり、『中国革命の悲劇』で有名なH・アイザックスもいる。
 蒋介石は当初陳独秀を殺すつもりだったが、この内外の強いキャンペーンにより実行できなかったようだ。ただし釈放(一九三七年八月一五日・南京監獄、日本軍の南京攻撃が迫っていた。すでに第二次国共合作はできていた)後も、死ぬまで監視されていた。それだけの「大物」だったといえる。
 
転向?
 
 あしかけ五年間の獄中生活の後に釈放された陳独秀は、「トロツキー派の組織に関わらず、陳独秀は陳独秀以外を代表せず」との立場に立つ。このことにより陳独秀はトロツキズムを離れたといわれる。しかし事実は異なる。現実には彼はトロツキーの暗殺の日に至るまでトロツキーと手紙で交信している。例えばトロツキーは、彼への返書で「陳独秀が自分たちの思想に留まっていることが非常にうれしい」と書いている。
 実は獄中で彭述之と厳しく対立することになった。組織論や戦争に対する立場などで相当の違いが出てきたと考えられる。その事情が今まではよく知られていなかったのである。
 陳独秀は日中戦争がぼっ発した以上、最大の軍を持つ中国共産党、また国民党とも統一戦線を組んで日帝と闘うべきであり、武装闘争もやるべきだと考える。トロツキストの小さな組織で屋根裏部屋で機関紙をつくったりしている時期ではないということである。
 もう一つはプロレタリア独裁論。当時は『裏切られた革命』が出ていたうえに、スターリンの大テロルも明らかになっていた。労働者国家としてソ連をどうとらえるか、再定義が必要だと、彼は考える。レーニン主義は再考されるべきであり、ソ連の状況にはスターリンの責任のみならず、レーニン自身にも責任があると考えていたようだ。
 ただし、この最後の点では発表された論文はない。ともかく民主主義的価値は相当に重要視すべきだという。これは現代的観点からみて正論だ。要するにプロレタリア独裁論を再考しようとしている。これらの立場から彭述之とは決定的に相容れない。彭述之は例のボルシェビキ化の中でつくられた「レーニン主義組織論」の信奉者であり、その意味で教条的かつセクト的であった。
 この彭述之が、残ったトロツキスト組織を指導している以上、ともに活動するということにはならない。しかし個々のトロツキストとは交流している。そしてトロツキーへの敬愛は生涯失わなかった。王凡西も彼自身の出獄後に陳独秀に会っているが、その時、陳独秀のところに唯一あった外国語書物はトロツキーの『ロシア革命史』だったと記している。
 プロレタリア独裁論の見直しとか、抗日統一戦線論だとかの陳独秀の主張を全体としてみれば、トロツキーの一九三〇年代、日中戦争ぼっ発後の主張、例えばトロツキー著作集の「中日戦争について」で展開している内容と相当に重なっている。つまりトロツキーも小さなセクト的新聞を出して手工業的に活動するような時代は終わったと認識していた。だから最晩年の陳独秀の思想は、トロツキーと極めて近かった。
 病身ということもあり、組織活動は行わなかった。だが、少なくとも王凡西や鄭超麟とは近しく接点をもちつつ、トロツキーの立場を支持していたことは間違いない。
  
中国共産党への復帰?
 
 野村氏によれば、陳独秀出獄の当時、第二次国共合作下にあった国民党も共産党も、あるいは共産党除名の一九二八年以降「第三党」路線にあった譚平山、毛沢東と争い敗れて延安を脱出した張国Zも「新共産党」の組織化構想を携えるなど、それぞれに自己の利害の観点から陳独秀を引き入れようとして接触を試みたらしい。
 国民党にとっても、その政権を構成していた人々のうちの多くは、胡適のように、辛亥革命から五・四運動の歴史のなかで行動をともにした経歴を持つ人々が多かった。そのなかには周仏海のような中国共産党創立大会の数少ない代表メンバーの一人だったものもいた。事実、陳独秀救援運動の際には、これら国民党内部の有力者たちも一部ではあるが名を連ねたのだ。
 陳独秀にとって国民党はもとより問題外であった。陳独秀の二人の息子、長男の延年、次男の喬年の二人ともそれぞれ一九二七年と二八年に蒋介石に殺されている。二人はともに中国共産党の中心的活動家であった。
 譚平山も張国Zも、そしてもちろん毛沢東も共産党創立期の陳独秀の影響下にあった人々だ。当時の共産党は全国民的な名士をいまだ持ってはいなかった。毛沢東や朱徳などが名声をはせるのは今少したってから、スノーやスメドレーの著書が世に出て以降である。国民的広がりでは、孫文に続くのは陳独秀であり、そのあとはまだいなかった。その名声を利用しようとする人々は多々いたのである。
 中国共産党との交渉、復帰という動きの実際は、南京にあった共産党の連絡事務所(第二次国共合作の結果である)を窓口にして進められ、その結果、毛沢東との交渉のため延安に向かった(黄河の氾濫のため到達しなかった)人もいた。
 葉剣英や董必武、博古(秦邦憲)などが南京にはいた。しかし、これらの人々のレベルでは陳独秀との交渉などの大事を判断することはできず、南京事務所は延安との直接交渉を示唆し、羅漢(奔走した人、トロツキスト)に旅費を工面し、通行許可証を交付した。羅漢は延安の手前、西安で林伯渠(祖涵)と会い、そこで毛沢東と洛甫(長聞天)からの電報を受けた。
 毛沢東は「トロツキズムの信条を捨てれば受け入れにやぶさかではない」などと生意気なことを伝えてきた。もっともそのようなことを陳独秀が承諾するわけがない。したがって博古は、羅漢にむかって、自分は面識もないし党員経歴も短いので具体的成果は生まれない。潤之(毛沢東)では個性が強すぎ、両者が衝突しかねない。一番いいのは(周)恩来が間に立つことだ、と語ったという話も野村氏は紹介している。
 しかし、これらの動きを最終的に壊すのは、文字通りのスターリン直系、王明である。第二次国共合作成立後の中国共産党ヘゲモニーをとるためにモスクワから飛来した王明は、陳独秀との交渉の話を聞くや否や逆上する。彼は絶対に陳独秀を許さず、共産党政治局会議では、スターリンの報復の恐ろしさを持ち出してどう喝した。そのうえで王明にくっついてきた康生(中国のベリヤといわれた)に、誰もが信じない「漢奸」とのでっち上げまで行わせた。
 国民党内部を含めた有識者たちは、こぞってこの「漢奸」レッテルに抗議するが、しかし、これ以降中国共産党では「陳独秀は漢奸」なるレッテルが動かし難い「事実」となる。
 最近になって、そのレッテルは密かにはずされた。残るは右傾投降分子のレッテルである。これはなかなか公式にははずされない。これをはずすとすれば、毛沢東の権威でもってつくられた中国共産党第七回大会策定以来生き続ける現在の党史の柱を、根本的に書き改めることになるからである。
 
その死、残されたもの
 
 こうして中国共産党とトロツキー派の統一戦線は不可能となった。このなかで彭述之は上海に拠点を置いて小さなトロツキズム運動を続け、陳独秀は独自の道を追求しつつ一九四二年、四川省で貧窮のうちに病死した。
 彼は、その経歴の結果として無収入であり、諸方面の友人たち(過去も含め)や過去の教え子たちからの送金、わずかな原稿料収入、印税によって生計を支える以外はなかったからである。トロツキストのほとんども無収入同然の状態で苦しい活動を続けていたのであり、援助の力量は限られたものだった。
 前述した胡適(『新青年』初期の著名な言語改革論者)は、その後共産党を選択する陳独秀と別れ、当時国民党に属してはいたが、彼は生活援助をしつつ陳独秀にアメリカでの療養を勧めたこともあった。トロツキーも外国療養に賛成する手紙を送っている。しかし陳独秀は戦場である中国大陸を離れることを拒否した。
 彼の最後の論文は「被抑圧民族の伝統」であり、最後まで被抑圧人民の戦争勝利のために生きたといえる。彼は最後までトロツキストであったことは間違いない。彭述之とは別組織で活動していた王凡西、鄭超麟もそのように言っている。
 彼らは最後まで陳独秀を尊敬していた。鄭超麟の陳独秀追慕の文章には感動する。彼は中国近代を代表する大知識人であった陳独秀がトロツキストになったこと、そのことの意味の大きさを強く訴えている。
 中国のこれまでの社会主義運動、マルクス主義運動の中では、歴史の政治への従属がいまだ続いている。毛沢東路線の見直しは行われ、その誤りも認識されてはいる。しかし、その根拠づけは、まだケ小平の言葉の中に求められている。従ってまだプロレタリア民主主義が正当に認識され認められている状況にはない。
 しかし陳独秀の復権は、そのような歴史認識と、また民主主義認識を揺り動かす重要な根拠となりうるものである。その中ではトロツキー派の存在意義にも新しい光が当てられることになるだろう。その際、そのような認識の発展のためには、世界で展開されているトロツキズム運動の現実の姿、それがもつ力が求められる。中国共産党の理論家たちは熱心にその様相を見ているのである。
 何十年も経てみると、他の潮流が現れては消えていくのに対し、トロツキー派は弱小といわれながら、何世代も世代を交代しつつその運動を継承してきている。香港に引き継がれた中国トロツキズム運動にしても同様である。それはやはり、綱領の首尾一貫性、われわれの人生をかけるに値する思想の力ではないか。
 鄭超麟は一九七九年の出獄の際、「自分は釈放されるが、自分のトロツキストとしての政見は保持する」と言明した。これは毛沢東派の共産党員を悔しがらせたそうだが、多くの人に感動を与えた。そういう伝統のうえに、現代資本主義、ソ連解体後の世界に十分に対応できる綱領を紡ぎ出すことがわれわれに求められている。
 そして組織論や歴史認識の問題を含め、陳独秀に体現され、現代に引き継がれている中国トロツキストの運動がわれわれに与えるものは極めて大きい。まさに陳独秀はわれわれが深く研究すべき先人である。
     (一九九九年五月)