1999年11月10日         労働者の力               No116号

普天間基地の名護市移設を許すな
基地県内移設反対
基地強要の二〇〇〇年サミットを包囲しよう

                                         川端 康夫

 
稲嶺県政、普天間基地県内移設を受け入れ
 
 十一月十九日、沖縄県知事稲嶺は首相官邸を訪れ、普天間基地の県内移設受け入れを「苦渋の決断」として表明した。稲嶺知事は、県民の総意は基地縮小であるが、国際情勢などに鑑み県内移設を受け入れざるを得ないと述べ、自ら県民意思に反した決定であることを認めた。
 他方、青木官房長官はぬくぬくと「今後の円満解決」に道が開けたと述べるとともに、使用期限十五年という県知事の選挙公約は実現は難しいという見方をあからさまに述べた。
 稲嶺個人にとっては苦渋の決断であったかもしれないが、稲嶺とその支持勢力の立場はすでに反大田を掲げた知事選挙に踏み切った時点で明らかであった。
 それは「県政不況」というインチキな論理を用いた日本政府との全面協力の必要性を説く立場である。つまり稲嶺陣営は、高失業率に象徴される不況の原因が大田県政の反中央政府的な立場による政府支援の停滞にある、と大田陣営を攻撃したのである。
 経済不況は全国現象であるが、とりわけ北海道や沖縄はより手痛い打撃を受けてきた。失業率も全国平均よりはるかに高い。もちろんこれらは、北海道は重厚長大型産業の失墜や観光投資バブルの崩壊などの影響があり、そして沖縄もバブル崩壊による観光収入の減少という影響をもろに受けたという事情による。そうした現実を稲嶺派は「県政不況」と強引にこじつけたのである。
 知事に就任して以降、稲嶺の政治生命はしたがって、いかに政府資金を沖縄県に引き寄せるかという一点にかかることになった。表面的にはその第一弾が二〇〇〇年サミットの沖縄開催申し入れである。その沖縄サミット決定に対してアメリカのクリントンが一種の「困惑」を表明したことによって、普天間基地問題が明確にサミットと連関するものとなった。日本政府は諸問題の一挙解決の好機として、サミット時点にはすべてが解決しているべきものとして、年内決着を掲げ沖縄県政に全面的に圧力をかけ始めた。
 十月二十二、二十三日、第二次小渕内閣の外務大臣河野、官房長官青木、そして前官房長官であり自民党幹事長代理として権力をふるう野中が沖縄を訪問した。野中は官房長官時代に大田県政と対決し、そしてあらゆる手段を駆使して稲嶺県政実現に努力した人物である。彼はまた、二〇〇〇年サミットの沖縄開催を推進したし、その「沖縄重視」は、さらにさかのぼれば梶山元官房長官から受け継いだ一九九六年の基地撤去の県議会決議(全会一致)と一〇万人の県民大会に象徴される大田県政の「二〇一五年アクションプログラム」の全面的な破棄を完成させることにあった。
 現官房長官青木は飾りであり、沖縄政策は野中が主導していると見ていい。その野中は「沖縄を知らずして、沖縄の痛みを知らずして」と厚顔無恥にも述べ、極東米軍事力のキーストーンとしての役割を沖縄に果たさせ続けることが「沖縄重視」の内容であることを明らかにした。彼は普天間移設後の跡地利用に議員立法を検討するなどの施策をばらまいたが、これらのリップサービスは結局は稲嶺陣営の選挙公約である「軍民共用で一五年限度」という普天間県内移設の条項をとりはずすためになされたのである。
 アメリカ国防省はすでに一九七七年に「海上基地とすべての関連施設は四〇年の運用年数、二〇〇年の耐用年数で設計される」と内部報告書に明記したといわれる。米政府の意向に決して逆らわないことを至上命題にしている自民党がこうしたアメリカサイドの意向実現に全力をあげるのはあらためて強調する必要もない。
 沖縄経済界を代表する稲嶺は、こうして「苦渋の選択」を語りつつ、一歩一歩日米政府の「SACO合意」を沖縄県民に押しつける役割を果たしている。
 
実質は基地の再編・強化・ハイテク化
 
 こうして稲嶺の変身は、予定されたコースをたどりつつ最終局面に到達した。まもなく正式に、稲嶺は選挙公約である「軍民共用、一五年期限」の撤回を言明することになる。
 アメリカ政府は東アジア軍事体制の要・沖縄の放棄を考えたことはない。米政府やその関連の一部には海兵隊をグアムなどに移転させてもかまわないという見解があるが、それは圧倒的な少数派にすぎない。まして米空軍の巨大戦力を撤退させりことは論外とされる。
 沖縄問題の根本は、「平和の島・沖縄」か「軍事基地の島・沖縄」かの両極の選択しかないことである。稲嶺は九〇年代前半の大田県政が掲げた「平和の島・沖縄」に賛同し大田県政を支える一翼を担ってきた。そして一〇万人県民大会の主催者団に加わり、かつ大田県政の二〇一五年プロジェクトという展望を支持した人物だった。
 彼の言う「苦渋の選択」とは、大田県政が日本政府との関係でにっちもさっちも行かなくなり、大田知事がぐらついた、その右の立場を推し進めるという「決断」の過程を表してもいるであろう。「軍民共用・一五年期限」ということも、二〇一五年を目途とするアクションプログラムを意識してのことであったろう。だが中間の灰色の道は存在してはいない。
 十月十五日深夜、沖縄県議会の本会議において普天間基地県内移設決議が僅差で強行可決された。これには公明党所属議員の「苦渋の選択」としての欠席が援護射撃となったのである。従来革新県政派であった沖縄公明党も本土における自自公連立の圧力があり、公明党内部でも独自的立場が許容される余地が少なくなってきたことを意味している。
 一九九六年の全会一致決議から三年、県議会は正反対の決議をまさに強行したのである。
 読谷飛行場パラシュート降下訓練の伊江島補助飛行場への移転合意、那覇軍港の浦添移転など、県内移設の動きは急ピッチとなっている。大田県政時代の成果が稲嶺によって換骨奪胎されているのであるが、同時にこれらの移転、移設には日本政府の費用負担による基地機能の最新化、ハイテク化が盛り込まれていることも見逃せない事実である。
 十月二十三日の県民大会は、別掲資料のように、再度の島ぐるみ闘争を発信した。沖縄基地の再編・統合・強化を許さないという強い意思が表明されたのである。
 
「基地の島・沖縄」拒否の論理
 
 だが以上の過程で、改めて確認しておかなければならないことがある。それは大田県政の掲げた「二〇一五年アクションプログラム」が稲嶺陣営あるいは県民大会のいずれにも登場してきていないことである。稲嶺陣営がそうであることはわかる。彼らは実質破棄を目指しているから、そのことにはふれない。しかし県民大会の方はどうなのだろうか。
 前にも述べたことだが、アクションプログラムに関して革新サイドに見解の一致がない、というのが最大の理由だろう。全体をまとめるとすれば一致しない課題ははずされていくことになるからである。
 詳細は繰り返しになるから省くが、しかし「沖縄振興策と取引の基地押しつけ反対」ということにとどまっていては稲嶺路線に対抗する展望を形成しているとは言い難いと考えざるを得ない。「平和の島・沖縄」はいかにして経済的に可能になるか、あるいはさらに「平和の島・沖縄」とは東アジアにおいて「何を役割とするか」などの展望について、二〇一五年アクションプログラムは少なからず語っていたはずである。
 アクションプログラムの内容受け入れに不一致があるとしても、それが目指したレベルから後退し忘れてしまうことでは、運動のダイナミズムを生み出すことにはつながらない。反対に、アクションプログラムの精神をさらに研ぎすまし、より明確なものとしていくことが、今後の沖縄民衆の闘う方向性をうち固めていくことになるはずなのだ。
 「島ぐるみ闘争」は一種の民主主義要求である本土復帰のスローガンのもとに革新県政を実現させていった。そして九〇年代に改めてアクションプログラムが革新陣営を軸に醸成され、それが久しく続いた保守県政にとどめを刺す大田県政登場の骨組みとなったのである。
 では次は何か。
 大田県政の「中間性」の限界は、より新たな沖縄民衆の闘う「綱領」をうち鍛えることによって突破されるべきものと考えるのである。アクションプログラムが、その一方を沖縄経済界の代表人物でもある稲嶺が担ったことを考えれば、現時点ではまったく解体してしまった。しかし明治政府によって強制された「沖縄処分」が沖縄に強いてきたもののほとんどは何らの解決を見てはいない。
 何よりも東シナ海の自由な海洋貿易国としての琉球が明治政府によって、がちがちの「辺境」にされてしまった歴史を忘れることはできない。その「辺境」が太平洋戦争における「本土」防衛の捨て石とされたことも同じである。ここに生み出された甚大な被害と悲劇とが今も米軍基地の島として持続され続けているのである。
 姿は変わっても、現在も「辺境」の島である沖縄は本土防衛の捨て石とされていることは変わらない。
 公明党や民主党を含めた国会多数派が(沖縄)基地特別措置法を通過させたのはほんの数年前のことである。本土の多数派は、日米安保体制の維持・強化のために、つまり「本土防衛」のために沖縄への三度目の処分を強行した。「辺境性」の打破がアクションプログラムの一つの柱であった。それが本土によって拒否されたのである。
 沖縄の矛盾は、軍事基地の島としては東アジアの要にあり、それ以外はすべて日本の「辺境」におかれているということにある。より正確に言えば、軍事基地の島であることが、その辺境性をあらゆる方面から強要しているのである。基地依存経済の強要こそがその典型なのだ。
 基地の島を拒否することは、基地依存の経済を拒否することに他ならない。その展望は、沖縄が東シナ海の文字通りのキーストーンをめざして、がんじがらめの国境線を食い破ることにあることは変わらない。沖縄民衆のエネルギーが「第二の島ぐるみ」へと発展していく鍵は「基地と共存の振興策」を拒否し、沖縄処分の枷を解き放つことに向けたエネルギーの結集にある。全島自由貿易ゾーンの要求は改めて検討し直されるべきと考える。
 
基地強化反対、サミット包囲の闘いへ
 
 本土民衆にとっては、沖縄の闘いに呼応することは、その沖縄に辺境性を強要し、犠牲を押しつけてきた論理そのものとの闘い、その解体のための闘いになる。米軍基地特別措置法成立に加担した民主党がその革新性を根本的に問われたことは、記憶に新たにされなければならない。本土は沖縄の要求に対峙するのか、それとも連帯するのかが問われている。
 沖縄基地の再編・強化を許さず、サミット口実の県内移設政策の強行に反対しよう。二〇〇〇年サミットを基地強要のアメリカ帝国主義と闘う、沖縄・本土民衆の連帯した闘いの場として闘い抜こう。
 サミットを民衆の鎖で包囲しよう。
    (十一月二十日)
▲資料▲  
10・23沖縄県民大会(宜野湾市・一万二千人)
      普天間基地と那覇軍港の県内移設に反対し、移設計画の撤回を         求める決議
 
 沖縄県議会の与党会派は九月定例議会で、県民の怒りの声を無視し、普天間基地の県内移設を求める決議を強行採決した。これは一九九六年の県議会で全会一致の県内移設反対決議をみずからくつがえし、新たな軍事基地建設の受け入れを県民に押しつける暴挙である。また、稲嶺知事は去る十月十八日に軍民共用空港の「一五年使用期限」を見直すことを発表し、選挙公約を公然と破棄した。
 しかし、県民の目と耳はごまかせない。県議会でも、普天間基地が危険だから移すのではなく、最新のハイテク基地に更新され、沖縄基地がますます強化される実態が明らかとなった。今や、日本政府の意向に沿って基地建設を県民に押しつける与党と稲嶺知事に対する県民の不信感は広がり、怒りの声が全県下で渦巻いている。「地元の頭越しにはしない」とか「サミットと基地問題はリンクしない」といくら弁明しようが、日本政府と稲嶺県政とが一体となって県民に新たな基地建設を押しつけようと企んでいることはもはや明白である。
 また、那覇軍港の浦添移設をめぐって、稲嶺知事は沖縄県、那覇市、浦添市の三者による一部事務組合の設立を進めようとしている。しかし、設立の覚え書きにSACO合意の実現を盛り込もうとしたり、日米両政府が「専用軍港」として合意していることからして、一部事務組合がSACO合意に基づく軍港移設を推進する目的のために設立されようとしていることが明白となった。
 このように、日米政府と稲嶺県政が進めようとしている「SACO合意」は、県民が求めた基地の整理、縮小ではなく、実はアメリカの軍事戦略に基づく基地の再編・統合・新設であり、沖縄基地の新たな強化となるものであり、県民の意思とは全く無縁なものでしかない。
 私たち県民は、敗戦後五〇年余にわたって基地の重圧のもとで、事件・事故・差別など筆舌に尽くしがたい犠牲にさらされてきた。ここからの脱却を願って立ち上がったのが、あの一九九五年の悲しい事件を契機にした「10・21県民総決起大会」であり、「二度と悲しい事件を起こさせてはいけない」と「基地の整理・縮小」の県民要求の実現を誓い合った。
 しかし、日本政府と稲嶺県政は「SACO実施」の大義名分を振りかざし、二一世紀にわたって県民に基地の重圧を押しつけようとしている。稲嶺知事による基地押しつけは、基地のない平和な沖縄建設を願う県民の意思に反し、歴史の歯車を逆転させる反県民的行為であり、県民の支持はまったく得られない。県民の意思は一九九六年の県民投票と、九七年の名護市民投票で示された「基地の整理・縮小」であり、「基地の県内移設反対」であることは自明の理であり、最近でもキャンプシュワーブ周辺の行政区が反対決議をあげるなど、その意思はますます広がっている。日本政府と稲嶺知事はこのような民意を尊重し、普天間基地と那覇軍港の県内移設計画をただちに撤回せよ。
 私たちは、全県民に対し日本政府と稲嶺知事の理不尽な基地押しつけと、県民を無視し差別する沖縄施策に毅然として立ち向かい、基地の県内移設反対のための運動に立ち上がるよう訴える。そして、基地の整理・縮小と返還後の自治体や地主、基地従業員の保障と跡地施策など政府の責任で解決することを求め、基地のない平和な二一世紀の沖縄を創造する県民運動に立ち上がることを県民大会の名において決議する。
 一九九九年一〇月二三日
三里塚】
 暫定滑走路着工反対・東峰現地行動の呼びかけ

 運輸省は十月十八日、工事着工のための手続きとしての「公聴会」を成田市内で開催し、続いて事業実施の「認可」を十一月中に空港公団に出そうとしています。公団はこれをもとに年内の工事着工をもくろんでいます。運輸省・公団は二〇〇一年十一月三〇日完成、二〇〇二年五月二〇日供用開始というスケジュールをたて、それから逆算して年内着工は不可欠としているのです。
 工事は滑走路予定地の南側を横切る小見川県道の地下トンネル化から始め、それと並行して着陸帯を平坦にするため谷津の埋め立てを行うといわれています。
 運輸省・公団は、並行滑走路に断固反対する用地内農民、地権者の闘いによって用地買収の見込みがたたないという現状の中で、すでに買収済みの土地を使っての「暫定滑走路案」なるものを出してきました。
 この「暫定案」なるものは、東峰住民の頭上すれすれに旅客機を飛ばして、騒音・排ガスなどによって人が住めない状況を作り出し、住民を追い出すことが最大の目的です。これは三十四年前に一方的に空港用地を決定し、国家権力の暴力をもって空港建設を押し進めてきた運輸省・公団の一貫したやり方となんら変わりません。
 工事開始のための手続きとしての「公聴会」では建設賛成の声が多数を占めたとして、運輸省・公団はこれをもって「地元の理解は得られた」と、少数であれ正しい反対意見があったことを無視して一方的な工事強行を正当化しています。「公聴会」当日は現地支援連の呼びかけにより、六団体、約二〇名の仲間が首都圏・関西より結集して「公聴会」反対のデモを成田市内で行いました。
 千葉県、地元、および周辺自治体、企業などが「経済効果」から賛成を唱えましたが、労働組合の千葉県連合や連合・成田地協の代表までもが、「雇用の拡大」という理由で賛成意見を述べ、翼賛体制の中で農民の追い出しに加担していったことは、自らの首を絞める行為であるといえましょう。
 私たちは三里塚農民と連帯し、あくまでも「暫定滑走路」の建設を許さない運動を作り出さなければならないと考えます。目前に迫る工事着工と対決する農民に連帯し、共に反対する仲間がいるということが重要です。その一歩として、この行動の意味ははかりしれない大きさを持っていると思います。
 
■日時■ 十一月二十八日(日)午後一時半
■集会場所■ 東峰出荷場前(成田市東峰六四)
■行動内容■ 出発前の集会または交流会、東峰地区の工事着工反対を訴えるデモ、デモ終了後交流集会(デモの趣向、行動の内容は、アイディアや提案によって豊かになっていくことを期待しています)
■呼びかけ■ 現地支援連絡会議・三里塚の土地収用を許さない首都圏行動
■協力■ 三里塚・暫定滑走路に反対する連絡会
 
■現地までの行き方■ 京成線東成田駅から千葉交通バス12時55分(和田化学行き新田(しんでん)下車)徒歩一〇分
 バスに乗り遅れた方はタクシーで「大栄町方向、東峰十字路手前、バス停の新田」と言ってください。「ワンパック野菜」の看板を右折してまっすぐ行ったところです。
東ティモール
四インターナショナル国際執行委員会(IEC)声明

                    一九九九年九月二十七日(アムステルダム)

 インドネシア軍の庇護のもとにテロリスト民兵が恐るべき虐殺と破壊行為をやった後になって、国連は、やっと軍隊を東ティモールに派遣し、そしてインドネシア政府は後退する以外に選択はなくなった。国連軍の派遣とインドネシア政府の後退は、東ティモール人民の英雄的な抵抗闘争と、彼らの数十年におよぶ自決権と独立を求めた長期の闘いによってのみ可能となったのである。非常に多数の人々がこれに参加した八月三十日の住民投票とその結果は――仮にそれまでは明白でなかったとしても――東ティモールの人々が独立を選択したことを徹底的に明らかにした。
 最後の数週間において非常に多くの国で展開された、東ティモールの人々を支援し国連軍の派遣とインドネシア政府の後退とを求める国際的な運動と圧力とが、これを可能としたもう一つの要素である。数万の人々が国際連帯の精神をもって虐殺をやめさせるべく具体的な行動を展開し、憤りをもって街頭に出た。このことが、世界で有数の強国帝国主義諸国、ことにアメリカ――国連もまた――が、長年にわたって支援してきたインドネシアの将軍たちと距離を取り始めさせることになった。
 連帯運動は、それが国際世論を動員することによって事態の流れを変えうる力であることを再度示したのであった。そして東ティモールの事態は、次のような最も大切な教訓を与えてくれた。すなわち不正義に対する地球規模の闘いにおいて、連帯運動や大衆行動、形式ではない実際の民主主義の新しい方針を追求し創出しなければならないことである。だからこそ東ティモールの自由のための闘いを継続しなければならない責任が、われわれにはある。この地域における国連軍の存在をもって、ここで述べた意味での連帯行動に置き換えるべきではないし、また、そうすることはできるはずもない。
 東ティモールの人々は、物資の欠乏や医療不足、人道援助の少なさなどに苦しんでいる。殺人者たちは依然として居続け、焦土戦術を実行し、多数のティモール人に退去を強制しており、こうした状況にもかかわらず反撃を続けている抵抗闘争――ティモール民族抵抗評議会(CNRT)と東ティモール武装勢力(東ティモール独立革命戦線、FALINTILのゲリラ)――の指導者や戦士の抹殺を行っている。虐殺は事実上、インドネシア軍の管理下で帝国主義諸国とインドネシア支配階級との「良好」な関係を維持しようとして住民投票を組織したことの結果なのである。
 第四インターナショナルは、すべてのインドネシア勢力の即時撤退を要求する。国連の委託を受けた軍は、東ティモールの山岳地帯や西ティモールなど他のインドネシア地域に避難した人々や、シャナナ・グスマオをはじめとするティモール抵抗闘争の指導者や代表などの安全な帰還を保証しなければならない。
 国連の委任を受けた軍はまた、インドネシア軍が組織し後援している民兵の即時武装解除とその指導者たちの逮捕――この逮捕によって彼らに責任がある大量虐殺や殺人、追放などに関して彼らを裁くことが可能となる――とを保証しなければならない。同時に、これまでインドネシア政府を支援してきた諸国は、東ティモールの人々に与えた苦痛や損害を償うべく、その再建を経済的に援助する義務がある。
 第四インターナショナルは、FALINTILの武装解除を意味するような多国籍軍の立場を承認することはできない。問題が住民の意思を尊重することであるなら、インターフェットはティモール民族抵抗評議会の主張する内容であるべきであり、そしてFALINTILを東ティモール地域の治安を確立する唯一の正統な武装力として承認すべきである。われわれは、ティモール住民の多数に課せられるような分割の考えは絶対的に拒否する。
 第四インターナショナルはまた、国連指揮下の軍事力を東ティモールにおける資本主義的権益――例えばティモール海の石油がそうであり、これは現在、インドネシアとオーストラリアとの恥ずべき協定によって両国が採掘をしている――の確保を保証する力として利用しようとする考えに反対する。
 第四インターナショナルは、その約束とは正反対にインドネシアの将軍たちに依然として武器を売り続けている死の商人、例えばイギリスのブレア政権のような死の商人を非難し続ける。同時にわれわれは、インドネシアの解放と民主化のために闘うすべての進歩勢力、インドネシア内部でティモール以外のすべての抑圧されている地域で闘う進歩的な勢力と連帯していく。
 第四インターナショナルは、以上の事柄がこの新しい国家の建設を始めていく過程の開始にとって必要最低条件であると考え、東ティモール抵抗党争と連帯する立場を取り続け、東ティモール住民の独立実現に向けて一国あるいは国際レベルでも行動を展開していく。第四インターナショナルは、民族抵抗評議会がこの新国家を全世界に宣言する諸条件が整ったと決定すれば、すべての国家が東ティモールの独立とその臨時政府を即時承認するように求める。
(電子版インターナショナルビューポイント誌11月号)

ポルトガル
東ティモール連帯運動


 十万人以上の人々が首都リスボンの街頭を埋め尽くした。一九七五年のポルトガル革命以来最大のデモンストレーションである。
 このデモへのアピールを発したのは、ポルトガルのマスメディア、政府、各種国家機関であったが、デモ自体への結集は極めて巨大で、しかも自然発生的だった。そのため、デモ行動の中心軸となる政治的な方向性は存在しなかった。既成政党は、このデモの動きに完全に立ち後れた。
 人々の要求の中心は、東ティモールで実施された住民投票結果の尊重と、虐殺行為をすぐに止めさせる唯一の方法としての国連介入である。インドネシア政府が最終的に国連の介入を受け入れることになった九月十二日まで、一連のデモには反米感情が濃厚だった。東ティモールとコソボとに対するアメリカの非常に対照的な立場は、すべての人にとって明らかだった。

左翼ブロックの声明

 ポルトガルの戦闘的な左翼ブロックが発行したリーフレットは、次のように述べている。
 「ハビビ大統領が、国連平和軍が東ティモールに介入することを受け入れた事実は、この地域をアメリカ合衆国ならびに「国際世論」の支援を受けて占領してきたインドネシア独裁政権にとって重大な敗北を意味している」
 この敗北は、一方では東ティモール人民の果敢な占領反対の抵抗闘争と、自決権と独立のための数十年にわたる闘いとによってもたらされたのである。圧倒的多数の行動への動員や八月三十日に実施された住民投票の結果は、東ティモールの人々が何を要求しているのかを非常に鮮明に示した。
 他方では、最後の段階における国際的な連帯運動の高揚がインドネシア独裁側の敗北を導いた大きな要因となった。新しい表現形態をとった様々な運動や街頭での行動が、世界の大国の視線を東ティモールに向けさせ、インドネシアの占領、併合を黙認していた状態を終わらせたのである。
 ポルトガルでのこうした大衆動員が、東ティモールにおける虐殺行為を終わらせ、住民の意思を尊重せよという外交圧力を強めることに貢献した。今回の成功は、大衆動員というものが過去そうであったように、現在でも依然として歴史の方向性を決定できる極めて大きな力であることを証明した。国連の平和軍が配備されたからといって、東ティモール連帯闘争をやめることはできないし、また、やめるべきでもない。
 虐殺者たちが依然としてこの地域におり、焦土作戦を展開し、何千ものティモールの人々が避難を余儀なくされ、CNRTやFALINTIL(東ティモール独立革命戦線)の指導者、戦士が殺され続けている。
 こうした虐殺に責任ある人物たちは依然として自由に歩き回っており、国際政治の裏道を通じて、その皆殺し作戦を遂行する時間を獲得しつつある。時間の余裕がない。ただちに行動しなければならない。
 人道的な援助は、必要な手段さえ確保されれば、この地域や東ティモールと西ティモールの難民キャンプにすぐにでも届けることが可能である。軍隊や警察、民兵による殺人を終わらせる手段を講じなければならない。国際世論は、いかなる条件下であれ、二万人以上の殺人者を維持することを受け入れるわけにはいかない。同じ過ちを二度と繰り返してはならない。
 国連軍の配備と同時に、東ティモールを占領しているインドネシア軍はただちに、かつ全面的に撤退しなければならない。国連軍は、多数の難民や抵抗闘争の指導者、シャナナ・グスマオ司令官などの即時かつ安全な復帰、併合支持派民兵の即時武装解除を実行しなければならない。
 虐殺や難民発生に責任ある人物たちは、東ティモール住民に対するジェノサイドの罪で国際法廷にかけられなければならない。
(リスボンにて、左翼ブロックの一九九九年九月十三日付声明から。左翼ブロックには第四インターナショナルポルトガル支部であるPSRも参加している。電子版インターナショナルビューポイント誌10月号)
欧州連合(EU)
永続化するヨーロッパ反失業行進

 失業、人種差別、戦争に反対するヨーロッパデモンストレーションがドイツのケルンで五月二十九日に闘われ、三万人以上の人が結集した。これは、ケルンで行われたヨーロッパサミットに対応した行動である。
 ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー、スペイン、ポルトガル、スイス、オーストリア、フィンランド、スウェーデン、トルコ、クルジスタン、イギリス、デンマーク、チェコ共和国、ロシアから活動家が結集し、スペインとアイルランドを除くすべてのヨーロッパ国家を社会民主主義潮流が統治しているにもかかわらず、EUが失業問題を解決できなかったと抗議した。デモ参加者はまた、実質最低賃金を引き下げ、社会保障制度を切りつめようとするEUの計画にも抗議をした。
 デモ行進の旗やポスター、様々な演説は、戦争と失業、社会的な権利の剥奪との相互の多様な関係に言及した。
 参加者の数は、ネットワーク一九九七によるアムステルダムのデモ行進に匹敵するものだった。
 デモ行進後の数日間、ドイツ、フランス、スペイン、ベルギー、イギリス、オランダ、スカンジナビア諸国、イタリア、スイスからの反失業運動活動家百人以上は、反失業ヨーロッパ行進が組織した三つのサミット「対抗議会」を開催した。この議会に結集した活動家たちは、非常に変化に富んだ長大な提案文章を作成した。これには、金融投機に対する「トービン税」から週四日間労働制に至るまで、本当に多様な要求や主張が盛り込まれていた。これらの提案や要求は各国で討議された後、これまでのヨーロッパ行進ネットワーク集会(一九九八年のブリュッセル、一九九九年一月のケルン)で採択された文章に付加されることになる。
 「対抗議会」は二つの集団行動を提案した。一つは、一九九九年十二月に行う所得保証を要求し、労働を奨励する労働福祉政策に反対するヨーロッパ行動デーである。もう一つは、二〇〇〇年の終わりまでにフランスで行われることになる国際的な大規模デモである。
 次回の欧州連合(EU)サミットはヘルシンキで開催されることになっており、十二月十六日から始まる。その日、反失業の様々な運動や組織は、ヨーロッパで失業給付金を扱っているすべての担当機関に対して抗議行動を展開すべきある。これが実現すれば、まさに初めて国境を越えてヨーロッパ各地で同時的に様々な行動や占拠行為が展開され、メディアを通じて目撃できることになる。
 共通の基本要求には、一切の強制労働措置(いわゆる労働福祉)反対がある。ヨーロッパ全体を貫く反失業運動は、「年齢、性別、出身、その他一切の差別なしにすべての人に適切な生活水準を保証する所得」を要求している。反失業運動対抗議会は、この「適切な水準」に関して断続的であるが討議を続けている。そこでは月額七百五十から千ユーロが検討されている。しかしスペインやギリシャなど、所得水準が低い南ヨーロッパからの活動家たちは、高い水準は非現実的だと考えている。
 様々な経済制度に適用できる「適切な水準に関する共通の定義」を見出すべく、試行錯誤が行われている。そうした議論としては、最低賃金をベースとする(EU諸国すべてに最賃制があるわけではないが)考えや、貧困線あるいはGDP(国内総生産)をベースとする考えなどがある。この問題に関する議論は、今なお継続中である。
 五月二十五日、ヨーロッパ反失業行進の一団は、ブリュッセルでドイツの労働社会問題担当大臣、バルター・リーシュテル――EU社会問題担当責任者の資格において――に迎えられた。反失業行進の代表団は、ブリュッセルとケルンで開かれたヨーロッパ会議で作成された要求を提出した。一九九七年ではなく一九九九年に、こうした人物と会見をし要求書を手渡すことが実現したのは、多くのヨーロッパ諸国で失業者が展開している重要な闘争の結果である。
 国際的なデモンストレーションを、二〇〇〇年にフランスで行う計画になっている。その目標は、アムステルダムやケルンと同様に少なくとも三万五千人を結集することにある。フランスでは、ヨーロッパにおいて最も想像力に富んだ社会運動のいくつかが展開されており、階級闘争の水準も極めて高い。このデモの組織者たちは、実際に行われる行動は参加者の期待に十二分に応えるものになると述べている。

ヨーロッパ反失業対抗議会(ケルン)の一九九九年六月一日付文書

 私たち――ドイツならびにその他ヨーロッパ諸国の失業者と不安定な職で働いているものは、EU各国首脳に対して、以下の社会的要求に配慮するよう訴えます。
――すべての人に最低限の個人所得を保障する制度を確立すること、この所得は、それによってすべての人が自らの尊厳を損なうことなく生活でき、年齢、性別、出身にかかわりなく、そして無条件で保証され、その代償としてどんな活動も要求されることがあってはならないし、職業が強制されることがあってはならない。
――ヨーロッパ全体での労働時間の大幅な短縮、そのために必要な財源は、利潤に対する課税によるものとし、労働時間のフレキシビリティ制度や賃金の引き下げを伴うことはない。
――すべての人に、適切な住宅や健康維持、職業訓練、一切の公共輸送機関の無料利用、全面的かつ積極的に社会生活を行うために必要なすべての公共サービス(通信手段や電気設備など)を保証すること。
 私たちは、失業者ならびに不安定な職に就いている労働者に、既存の団体や集団に参加するか、あるいは新しい組織をつくり出すよう呼びかける。私たちは今この場で、失業者ならびに不安定な職に就いている労働者に、その実行が可能な場所で、一九九九年十二月にヘルシンキで開かれるヨーロッパサミット当日に行われる労働福祉政策に反対するヨーロッパ行動デーに参加するよう呼びかける。
 私たちは、フランスがEUの議長国となる二〇〇〇年にヨーロッパ全体が参加する国際的なデモンストレーションを行う。
 ヨーロッパ失業者対抗議会、ケルン、一九九九年六月一日
(電子版インターナショナルビューポイント誌10月号)
オランダ
トマト党の圧倒的な成長

                                    バレント・デボークト

 ヨーロッパの既成権威は、オランダの超柔軟な労働力と、その社会に紛争や対立がないこととをこぞって賞賛する。社会党(前毛沢東派)のエリク・マイエルは、欧州議会に獲得した自らの議席を利用して、オランダに関する真実を語る。
 六月に行われた欧州議会選挙で社会党(SP、トマト党)が五%を得票した事実は、その党員の多くを驚かせた。この党は、一九九四年欧州議会選挙で一・三%、最新の国政選挙で三・五%しか得票しなかったのである。
 社会党はこれまで一貫して、欧州連合(EU)という資本主義の統合計画に反対してきた。しかし一九九七年にアムステルダムで行われた「反失業ヨーロッパ行進」のような行動には参加する傾向があった。それでも、その間際まで共同行動よりも自己主張、単独行動にこだわっていた。同党は、一九九九年六月にのケルンで行われたEUサミット抗議行動には実質的には不参加だった。
 同党にとって「党建設」こそが、社会主義への道の中心軸である。しかし組織面でのセクト主義と「原則問題」に関するポピュリスト的なプロパガンダ、強力な地方活動によって、この党は、地方自治体選挙や国政選挙で左翼抗議票の多数を獲得することができた。
 一九七四年には五人だった地方自治体議員が現在では二二三人となっている。一九九八年には国会での議席を二から五へと拡大した。党員数も一九九四年の一万六千から現在の二万五千へと増加し、国内で五番目の大きさとなっている。
 同党のカリスマ的な指導者であるヤン・マライニーセンは「SPは権力のあらゆるレベルに存在している」と語る。
 党は本当には社会運動に関与していないから、改良主義に傾く危険性が明らかに存在している。その危険を回避するために、同党は、非党員活動家との対話を推進したり、議会活動で「無党派」との協力を強めている。
 エリク・マイエルは、SPがイタリアの共産党再建派と同じ役割を果たすことができると確信している。だがSPが共産党やその他の左翼グループに幻滅したそれらの支持者の相当数を獲得できず、その役割を果たすことができない。その理由の一端は、党内の議論不在とオランダ左翼の実際の分岐を反映する潮流あるいは傾向が存在していないために、「無党派」が追い払われていることにある。(事実、毛沢東主義時代の組織中枢に位置していた人物以外の現指導者はマイエルだけである。)また、SPを支持する可能性がある人々も、同党が社会運動に参加していないことを批判し、移民やホモセクシュアルは党の路線に失望している。

NATOの戦争に反対

 同党は、原則問題と考える点に関して不人気な方針を採択しないわけではない。大多数の支持を得たユーゴスラビアに対するNATOの戦争行為にオランダが参加することに唯一反対したのが、この党である。
 SPの選挙綱領は、EUに関しては非常に鮮明であり、資本主義的な統合に反対している。エリク・マイエルの選挙運動は、EUの諸機構、機関が集中している「ブリュッセルやストラスブールで自分のポケットを膨らませている人々」に焦点を当てている。
 残念なことであるが、この選挙綱領は、難民問題や持続可能な開発、女性の社会的な地位といった非経済的な問題についてはほとんどまったく語っていない。
 SPは「下からの活動によって現在とは違う、人々の生活と環境にとって良いヨーロッパを建設する考えである。このヨーロッパでは、すべての決定ができるだけ市民に近い場所――町や居住地域でなされることになる」。
 「欧州理事会、欧州委員会、欧州中央銀行、さらには欧州議会でさえ、ヨーロッパ全体の取り決めを決定するに際して最終的な権限をもつべきではない。各国議会がその権限を有するべきである」、つまり「欧州議会のいかなる決定も、各国で承認されるまでは効力を持たない」というのがSPの方針である。SPにとっては、ヨーロッパ統合とは「自由な主権国家間の協調を基盤として」のみありうるのである。
 SPのこうした考えは問題を解決しない。例えばSPは大きな独立性を付与された欧州中銀――その長はオランダ社会民主主義者――を批判する。だが、ここでの問題は、オランダ議会が自らの主権の一部を超国民国家機関に移譲して中銀の独立性を承認したという事実である。
 SPはヨーロッパ各国共産党――彼らは統一欧州左翼として欧州議会に議席をもっている――の共同宣言を承認している。この宣言は、賃下げなしの大幅な労働時間短縮や投機資本に対する共通課税、失業を減らすためのヨーロッパ全体で適用される「より厳格な措置」を要求している。しかしヨーロッパ全体を貫く決定が有効であるためには、いかなる国も、この決定を免れることがあってはならない。すべての各国議会が、週三十五時間労働の法制化や投機資金に対する「トービン」税の導入を決定できるだろうか。
 SAP(第四インターナショナルオランダ支部)は、SPの選挙運動を支持した。
 オランダのグリーンレフトは、一二%の得票率で四議席を獲得した。その選挙運動では、EUの進歩的な方向への改革、つまりアムステルダム協定のネオリベラル的調整条項の修正、欧州議会にもっと権限を付与するなどを強調した。
 グリーンレフトは、欧州統一通貨導入、マーストリヒト統合基準、アムステルダム安定化協定に反対する数少ない緑の党の一つである。だが議会外活動を主としていた段階から変化し、欧州議会による決定を尊重し、それへの幻想をもつようになっている。
 またグリーンレフトは、EUとしての協調した外交政策と軍事行動という考えを強く支持している。そこからNATOは、その輸送と兵たんの役割をロシアや東欧諸国をも含むOCSEに引き渡すべきだと考える。だがグリーンレフトの主張やより人道的な介入要求は、NATOが自らに設定している現在的な役割とはほとんど違っていないのである。コソボに関してグリーンレフトは、選挙綱領ではNATOの解消を主張しているにもかかわらず、NATOのユーゴスラビアに対する不法な戦争を支持したのであった。
 欧州議会では、緑の党のフラクションと同じグループである。
(電子版インターナショナルビューポイント誌10月号)