1999年12月10日        労働者の力                第117号

日程に上り始めた大増税                         消費税大幅引き上げへの布陣が始まった
                                        川端 康夫

OECDの消費税引き上げ勧告

 前者に関して亀井は、約六千億円の増収が見込まれるとし、目的税ではなく一般会計に組み入れるものと言う。突然の亀井発言にJTの翌日株価は早速、大幅に下落した。この発言は明らかに、ようやくにして政調会長の座を射止めた亀井が自らの「実力者への道」を切り開こうとする個人的な政治パフォーマンスであり、大蔵や自民税調と見解を調整しての上になされたものではない。
 宮沢は記者団に問われて「三年続きの税引き上げということもあり、いかがなものか。来年度予算編成の財源としてはあてにしない」と言い切り、大蔵を飛び越えた亀井の独走に不快感を示したともみえる意思を表示した。ここでいう「三年続きのたばこ増税」とは、旧国鉄清算事業団会計の赤字穴埋めにたばこ税引き上げが当てられた事実などをいっている。
 さらに自民党のたばこ関係議員は即座に亀井へ抗議を申し入れたが、それに対して亀井は「たばこ生産者への手当を行う」という旧来然たる回答を行ったというおまけがつく。
 亀井の増税打ち上げにはある程度の数字的な根拠がなくもない。つまり就任して最初のパフォーマンスである「介護保険料徴収延期」が生み出した財政負担分に見合う新財源としてたばこ税を引き上げ、これによって数字合わせをしようとしたのである。
 介護保険料徴収延期に結びついた自由党の「全額公費負担」論に対しては、自民党内部で批判は激しかった。自民党における自由党の代貸し的な役割でもって亀井は政調会長へとたどり着いたわけだが、危機的状態にある国家財政にさらに負担を押しつける政策でもあり、党内や大蔵筋の冷ややかな目線を意識しないわけにはいかなかったということもあろう。
 亀井はあいまいながら目的税であるかのようなニュアンスをもにじませた。だが今のところ所属派閥を除いては反応は冷たい。
 OECD勧告も実にうさん臭い。OECDが日本財政危機について警鐘を鳴らすのは、幾分かは理解できることではある。しかし、なぜこの時期に、そして異例にも政策内容に踏み込んだ勧告を出すということには、誰しもが注目せざるを得ないであろう。
 日本の大蔵省が密かに手を回して「外圧」としての消費税率引き上げキャンペーンを始めたと見ておかしくはない事態である。
 日本の国家財政に課せられてきた「国際的責務」は、いまさら言うまでもなく国家資金のなりふり構わぬ投入によって、日本経済を浮上させ、それでもってアジア経済の浮揚とそれによって欧米商品の輸出市場の拡大に寄与する、ということにある。
 また同時に、超超低金利政策を持続することを通じて、バブル崩壊の瀬戸際にあるとみられるアメリカ(株式市場)への資金流入を支え続けることも要求されている。
 しかし、そうした宮沢財政によって日本財政は、未曾有の金額にのぼる赤字国債の乱発、その結果としての買オペ(日銀が国債を引き受けるという財政上の絶対的な禁じ手)を真剣に検討せざるを得ない事態へと追い込まれてきた。もはや乱発される赤字国債を債券市場は消化しきれなくなってきている。買オペは直接にインフレに結びつく。
 しばらくの間、一部報道機関を通じて「調整インフレ」が叫ばれたことがある。読売が音頭をとったこのキャンペーンは、政策的・人為的にインフレーションを導くことによって、ゼネコンや不動産業界などの「借財」を目減りさせるという、まさに卑劣な手法を臆面もなく主張するものであった。
 赤字国債の無制限ともいうべき乱発は、金融機関とゼネコンの救済のためになされてきたのであるが、それらの大資本を、なお人為的インフレによって救済しようというのである。しかしあまりの露骨さに、政府・大蔵もともにそうした調整インフレ政策の採用を否定してきてはいた。

宮沢の開き直り

 しかしながら宮沢財政の到達点は、そのようなレベルへと達しつつある。
 宮沢にはもはや投げやりとも思える姿勢が漂っている。介護保険料をめぐる自自公のごたごたの結果、保険料徴収半年猶予が与党三党確認として決定されたが、その際宮沢は、数千億円程度はどうにでもなると言明したのであった。五〇〇兆円を超える未曾有の財政赤字の累積をみれば、まさに数千億円程度はどうでもいい、という心境のように写った。
 ケインズ主義者を自称する宮沢は、新自由主義経済論者からは時代遅れ、もうろくと酷評され大いに腐った時期もあったが、いまや時代遅れのケインズ主義者であることに開き直っている。つまり単純にいえば、景気低迷の時期に国家財政出動、景気回復の時に税収入増で回収するという方式をその通りに実践しているといいたいわけなのだ。
 しかし未曾有の額となった財政赤字の重圧におののき、そして経済回復の結果が出ないという事実が、八〇歳の宮沢を空虚な開き直りに至らせていると理解した方がいい。
 OECDが指摘するまでもなく、日本財政は買オペ論の登場に見るように明らかに限界に至っている。景気浮揚時の増収政策どころか景気低迷下の増税に追い込まれかねない瀬戸際にある。冒頭に紹介した宮沢発言には、景気回復が早急になければ財政政策は破局に至るという切迫感を読みとれるのだ。
 そうした切迫した事態に対しては、相当の「慎重かつ大胆」な財政再建策が準備されなければならない――そうした時期に亀井の自分を売り出すためのパフォーマンスが飛び出した。それもたかだか数千億円の規模という「小手先」の増税案である。
 前述したように、宮沢にすれば数千億はどうでもいい――数百兆の財政赤字をどうするかが問題なのだから。財政再建のための増税には、消費税率の大幅な引き上げが想定されている。それも日本とは税構造が違う欧州での付加価値税(スウェーデンなどでは数十%に達した場合もあった)を例に引いての大々的な引き上げとなろう。
 自由党が主張する社会保障の全額国庫負担などは、もちろんこうした消費税率の大幅な引き上げを背後から要求していることなのだが、にもかかわらず大蔵の立場からみれば、余計な支出増は避けたいということになるのであろう。
 天下の愚策といわれた地域振興券発行などで浮かれた公明党への感情を含めて、大蔵には苦々しい気分があるはずだ。
 日本経済の浮揚は、経済企画庁の焦りにも関わらず依然として何らの見通しもないままである。拙速な財政再建策でつまずいた橋本の轍を踏むことになるのか、宮沢にもそして当然小渕にも、何らの判断根拠はない。

新自由主義の矛盾

 そして、いわゆる新自由主義論者たちも、こうした巨額の財政赤字には口をつぐんでいる。まさに論理の矛盾であり、無責任さの典型といわざるを得ない。規制緩和、弱肉強食論者である新自由主義者たちは、当然にも「小さな政府」論を唱道する人々でもある。
 ケインズ主義的資本主義を「大きな政府論」として否定し、市場原理に規制を持ち込むべからず、と彼らはいう。規制緩和とは各種の保護規定の撤廃であり、政策的保護が市場原理をゆがめ、ひいては経済の自由な活性化を妨げる――戦後の日本経済は「一種の社会主義」であった、とまで彼らは言葉の限りを尽くしている。
 こうしたアメリカ直輸入論理の核心は、巨大資本に思う存分の行動を許し、その障害となる労働者保護規定や中小企業保護などを撤廃することにある。政府が大資本のために国家資金を支出するのは当然であって、それがために「大きな政府」と非難することはない。
 日本型付け焼き刃の新自由主義論者は、大々的な増税の時機が到来するとなれば、すぐさま国家に頼らない「自助努力」のキャンペーンにかり出されるだろうし、その際には法人税や高額所得者減税を「資本の自由な活動のため」に擁護することであろう。そして、さらに消費税への財政依存に諸手をあげて賛同することになる。
 こうした論理をつづめていえば大衆課税の強化に他ならない。
 経済再建のための膨大な国家支出は、景気回復時の増税で回収・穴埋めされなければならない――宮沢のケインズ主義をこう要約したが、その理論の是非はさておき、問題はその内容、すなわち財政支出はどこへ向けられ、増税はどこを対象にするのか、である。
 もはやいうまでもないことだ。財政支出は金融資本とゼネコン、そして大資本に向けられ、増税は一般大衆からの収奪、すなわち消費税に相当部分を当て込む、という図式である。
 これは、ケインズ主義の発案者であるケインズ自身の考えに明らかに反する。ケインズは今更ながらに要約すれば、一九二〇年代におけるイギリス、ヨーロッパ資本主義の危機を克服する方策としての修正資本主義を提唱した。その理論の基礎には、労働者階級の攻勢、社会主義運動の高揚に対応する方策としての経済政策という発想があった。
 資本の野放図な活動を抑え、完全雇用や労働賃金を一定程度保証することによって社会主義陣営の攻勢をそらし、その上に資本主義経済のサイクルをできる限り滑らかなものとするための財政政策を実行する、ということである。大衆の消費活動が資本の回転を支える一つの大きな柱でもある、という考え方もここから導かれる。
 こうした考え方は、資本主義の延命に一時期大きな力をもった。にもかかわらず、資本主義経済は本質的にその歴史的衰退を克服しきれない――これはマルクス主義理論の示すところであるが――ことへの苛立ちが新自由主義理論の台頭を招いた。何よりもソ連・東欧圏の崩壊とそれに伴う「社会主義」への幻滅とが、資本活動の「自由な展開」の道を再び開いたということでもある。
 一九八〇年代に始まる世界的な新自由主義の政策展開は、イコール労働運動の抑圧、弾圧の展開でもあった。イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン、日本の中曽根と並べるまでもなく、ケインズ主義的な労働政策に慣れてきた世界の労働界は、むき出しの資本攻勢に直面し、その多くは屈服し、屈しない少数部分は孤立した闘いへと追いやられた。
 宮沢がケインジアンを自称し、景気底割れ阻止のための財政出動をケインズ主義理論の展開として強調する(開き直る)にしても、こうした現段階の資本主義経済理論の多数派である新自由主義(一時的なものにせよアメリカ経済の好調が支えとなっている)論の影響を消し去ることはできない。
 またケインズ主義の衰退を導く大きな要因である世界的な社会主義勢力の後退という現象の影響も免れない。つまり資本サイドによる「自由な活動」への圧力を減退させるような条件に乏しい。
 こうして宮沢財政は、大資本救済のために無制限ともいうべき財政支出とそれを穴埋めするための大衆収奪という、資本主義にとっては「本来的」な政策へと奥深くはまりこんだのである。
 金の行方は大資本、穴埋めの対象は大衆、という端的な枠組みが二一世紀最初の時期、日本財政の構造を特徴づけるものとなるのである。

問題は財政の内容と方向

 日本経済の浮揚は見通しが立たない、財政政策の限度が近い――こうした悲鳴はある意味では当然である。つまり、「景気回復」と「景気の底割れを防ぐ」ということの間には相当の開きがある。政府は「景気回復のための財政出動」といい、経済企画庁は一貫してそうした用法で通してきている。
 だがケインズ主義理論からすれば、景気循環をできる限り円滑にする、つまり恐慌という破局を回避するために国家財政の意味がある、ということにすぎない。アメリカのニューディール政策が景気回復の作用を果たしたわけではない。本格的な景気回復は、第二次世界大戦を通じてなされた。ニューディールは破局的な一九三〇年代恐慌の作用を軽減するという効用は果たしたが、それでもってアメリカ経済、ひいては世界経済を本質的に回復させたわけでは決してない。
 それと同じことが一九九〇年代日本経済にもあてはまる。国家財政出動はあくまで景気後退期の底割れ、恐慌(日本発の世界恐慌という言葉も一時期騒がれたことがある)を防ぐためになされているだけにすぎない。経済企画庁の用語使用は一種の詐術である。
 否、むしろ日本財政政策はニューディールにはるかに及ばず、その政策の反対を行っているというべきであろう。ニューディールは大々的な雇用創出の国家事業を展開し、同時に雇用者保護の諸規制を企業に向けて推進した。共和党はニューディーラーたちを「赤」と呼んで憎悪した。
 われわれはもちろん、国家財政出動の必要性を否定するものではない。雇用確保や賃金・労働条件切り下げを防ぐための諸方策は全面的に展開されるべきである。問題は、再度繰り返すが、財政出動の政策方向であり、財政均衡回復の方向性にこそある。
 われわれは、第一に自民党主導の財政政策が全くの大資本擁護、大衆収奪の方向にあることを拒否する。第二に、そうした諸方策を駆使しても資本主義の歴史的衰退をくい止めることはできない、と強調する。
 他方、資本は恐慌が「価値破壊」作用をもたらすこと、そこでの更新が新たな景気循環サイクルを起動させるという歴史事実を知らないわけではない。バブル崩壊以降の相次ぐ「リストラ」は現在も加速されて進行している。
 これは、膨れ上がった固定費用を削減し、資本収益率を再上昇させるために意図されている。こうした収益率回復のための過程こそが資本主義の循環サイクルを構成するものなのだが、政府支出はそれを手助けするために投入されている。
 金融資本とゼネコン救済の後は、産業の構造改革と称する政府によるリストラ資金の投入がなされている。この夏以降、NTTをはじめとする巨大企業の巨大なリストラ方針が相次いで打ち出されたことに、その「成果」をみることができる。
 スリム化やアウトソーシング(生産の外部委託)、分社化、持ち株会社の承認などの一連の施策がいまや頂点に達しつつある。これが日本政府と経済界の連携した「国家的リストラ」発動の実態である。国際的な巨大資本の競争が進められ、巨大企業同士の吸収・合併の動きも激しい。それに対応する日本政府と経済界の協調が、政府資金投入による大々的なリストラ政策の展開なのだ。
 失業率の高位張り付けが持続し、新卒者の求職環境は超氷河期といわれ、実質賃金の目減りも激しい。不況産業にとどまらず、自治体も賃金カットや切り下げに走り始めている事情に景気後退の深刻度が表現されている。大衆消費社会である現代資本主義がその大衆消費を支えない、支えきれないという現象が持続することは、以上の構図からはっきりしている。ここにも大衆の犠牲による大資本へのテコ入れがある。
 経済企画庁は、住宅投資の減退、消費の低迷が持続していると述べ、他方で企業の設備投資意欲が後退しているとも指摘している。公共事業も息切れになり、ただアジア経済の回復基調によって輸出が伸び、これがGDP(国内総生産)を支えているとの分析(月例報告)を発表した。それでも景気の底入れは終わり緩やかな回復基調にある、という総合評価は変えていない。
 しかし、これは景気がまさに後退しつつあるという指標に他ならないのではないか。これを後退でないとすれば、後退とはいったい何を指すのであろうか。
 景気低迷・後退下の財政危機――この局面が登場し始めているのである。
 
消費税大幅引き上げと大々的リストラに備えよ
 

 ではOECD報告は、どのように受け止められるべきなのか。国家財政の膨大な赤字が危機水準に到達しつつあるとの認識によるものであろう。
 前述したように、日本経済の国際的な任務は、第一にアメリカ経済を支えること、第二に東アジア経済を回復する牽引力を発揮することにあった。前者はとりわけアメリカ資本とアメリカ経済、後者はそれに加えるユーロ経済の圧力である。政策的な超低金利は日本の金融資本が要求するだけでなく、より大きくはアメリカ株式市場を支える資金を供給するためにもなされている。
 アジア経済の回復過程は、日本の牽引車としての役割がさほど見られないなかで進行してきた。国際通貨基金(IMFの介入が功を奏したということではなく、国際的な投機資金に翻弄された各国経済が相対的な落ち着きを取り戻しつつあるとみるべきであろう。IMFが厳しい介入を行っている韓国は、日本と同様の厳しいリストラ政策のもとにあり、経済格差の拡大と国内需要の低迷が続いているという事情も日本と同じである。
 その日本財政の「回復」を、低金利政策の放棄など債券市場における国債消化の努力へと向かうならば、アメリカのバブルを支えている資金は日本に還流してくることになる。インフレーションを回避するという目的からすれば買オペなどの政策を大々的に進めるわけには行かない。
 景気低迷下のインフレをスタグフレーションと呼んだのは一九七〇年代のことであり、そう古い話ではない。OECDは、そういうことではなく、大衆課税を強めよと勧告するのである。
 日本政府は、否応なく消費税率大幅引き上げの政策に転ずることになる。以前、自社さきがけ連立時代に大蔵大臣を務めた武村は「消費税率は一三%程度が必要」と大蔵省の本音を述べたことがある。
 小沢は一貫して消費税引き上げ論者であるし、「小さな政府」を述べる傾向は相当程度は新自由主義の信奉者であり、したがって消費税引き上げという論理に至ることになる。つまりは「小さな政府」論は大衆への犠牲転嫁の別名称に他ならない。
 もちろん小渕内閣は迫る総選挙対策のために、前任者の橋本――財政再建を最優先させた――を踏襲するわけにはいかない。自民党三役もYKK連合の失敗を教訓にし、何としても選挙目当てといわれようとも、国家資金のばらまきを行うことになる。自自公連立を組む公明党が、さらにばらまきの実績をほしがるのはみえみえだ。
 総選挙は比例区の定数削減という、まさに小沢路線でもある巨大政党化に道を開く制度改悪をごり押しすることを視野に入れて準備されている。こうして上部構造である国会議席を圧倒的に手中にし、かつ選挙制度的にもそれを保証することを通じて、彼らは「政治の安定」を図り、その基盤の上に全面的な大衆課税強化による財政再建へと着手することになる。
 単純小選挙区制度を理想とする民主党鳩山党首の感覚は、まさに理解に苦しむ。野党を抑え込む秘策としての制度改悪にほかならないにもかかわらず、鳩山は小沢以上の積極性を公表している。いずれ野党つぶしの論功行賞でもって政権党へ華々しく返り咲く図式が裏でできているのではないか、とも思いたくもなる。
 だが以上の見通しは同時に、中流意識に呑み込まれ、右肩上がりに生活水準が上昇する幻想に浸ってきた日本の労働者大衆に、目覚めの冷水をかけることともなる。総評の解体から連合への移行は、資本とともに進めば何事もうまくいく、という労働貴族集団の意識に労働者大衆が異議申し立てを行わなかったことを意味する。
 連合の一九九〇年代は労働運動解体の一九九〇年代であった。そうして連合は今後とも日本資本主義との運命共同体意識を持続するであろう。彼らはそうするしか道はない。彼らはまた本音のところで新自由主義の信奉者でもある。彼らが役に立たないだけでなく、本質的に反労働者的なのだという正体が日に日を追って明らかになる時代が始まるということなのだ。
 一九〇〇年代最後の年は労働者階級の新たな奮起を求めている。
     (十二月十日)

   インド                         
右傾化した議会
                               クナール・チャトパドハイアイ

 九月末に行われたインド下院選挙の結果、その政治はヒンズー教至上主義を掲げるインド人民党(BJP)のバジパイが首相となる連立政権によって展開され、右傾化することになった。
 インド内外の大資本は、バジパイを代表とするBJPが主導する連立政府が議会において圧倒的な多数ではないにしても、それなりに多数を占めたことに大いに満足を表明した。株式市場は、象徴的だった五〇〇〇ポイントの壁を突破し、これまで強い通貨ではなかったルピーが為替相場で急上昇した。
 こうした支持を受けてバジパイ首相の政権は、攻勢に出た。石油と軽油の価格が急激に値上げされた。バジパイは、国民は強硬な決定に備えなければならないと警告した。しかし、国民の中でも太った猫は、強硬な決定による犠牲が誰に向けられるのか明確に知っているので、あわてることはない。
 バジパイの石油製品値上げに継ぐ攻撃は、保険市場を外国の保険会社に開放する立法である。インド保険業界は理想的とはとても言い難く、腐敗した官僚機構と化し、あらゆるたぐいの細目でもって既成業界が保護されている。しかし保険の掛け金は、依然として組織労働者の間では余裕があるものとなっている――ただし、この層はわずかしかいない。それでも余裕ある保険は、一九四七年の独立以降、労働者が獲得した成果の一つであり続けている。
 国有保険企業における経営者と労働者は、「保険市場の開放」に抗議してストライキを行うと決定した。だが、こうした対応は部分的であり、しばしば腰砕けとなる。左翼がしっかりしていないからである。
 九月選挙の結果として生まれたインド下院は、最も右翼的である。BJPを中心とする極右政党と、マハシュトラ州の地域政党であるシブ・セナ(シバ軍団)のような小政党を合わせるとほぼ一九〇議席となる。BJP中心の国民民主同盟は三〇〇議席に近い。
 国民会議派は、インドブルジョアジーの政党であるが、ラジブ・ガンジーが党首となってからは、「社会主義」的な言辞とポピュリスト的な方針を完全に排した。インド経済を「グローバル化した資本主義」に組み込もうとする現在の路線が開始したのは、ナラシマ・ラオが首相で、マンモハン・シンが蔵相の期間、つまり国民会議派政府の時代だったのである。
 インド資本家が労働陣営を沈黙させたいと願っていることは今、明らかである。BJPが統治するグジャラート州のような事態を彼らがどれほど待ち望んでいるか、明白である。グジャラート州では、州政府が一〇カ月の組合攻撃を行っており、その対象となっているのは、バドダラ・カムダール労組(VKU)である。バローダを基盤とする「階級闘争派」労働組合である。この労組は、ブルジョアの犠牲と改良主義が支配する組合を犠牲にして発展してきた。化学産業労働者の最低賃金制度を獲得する重要な闘いの先端を切ったことがある。VKUは、多くのインド労組とは違って農民の権利のためや、ナルマダダム計画の犠牲となる人々のためなどでも闘っている。この労組はまた、環境問題やジェンダーの問題を取りあげている。
 二つの主要左翼政党、インド共産党(CPI)とインド共産党毛沢東派(CPI(M))派、二〇年間にわたってヒンズー教至上主義政党と国民会議派とは別の第三政党を確立しようとしてきた。左翼―民主的あるいは左翼―世俗的な統一が誕生する機会が二度あった。一つは、一九八九年にビスワナト・プラタプ・シンが首相となった時、もう一度は一九九六年でCPIの指導者が内務大臣として入閣した統一戦線内閣が成立した時である。しかし、これら二つの政府は不安定で、内部的に分裂し、外部からも強い圧力を受けた。
 左翼諸政党は、信頼や信任の程度を拡大したが、しかし戦線の中心だったジャナタ党が右傾化し、破局を迎えた。戦線を構成していた諸勢力の大部分は現在、BJPにくっついている。
 その中心的なパートナーが破産した事実は、左翼が二五年間で初めて単独で選挙を闘ったことを意味した。その結果は破滅的だった。CPI(M)は、拠点である西ベンガル、トリプラ、ケララ以外の選挙区を含めて三二議席を獲得。CPIは、わずか四議席、そのうちの三議席は西ベンガルからだ。
 左翼の旧来戦略は現在、粉々になっている。その結果、CPI(M)は、従来の反議会主義を過剰修正し、巨大な数の候補者を立ててを戦闘的な左翼の中心に位置しようとしているが、期待しているよりもはるかに少ない成果しか上がっていない。
 左翼陣営は四二議席を有し、それにインド共産党マルクス・レーニン主義解放派(CPI(ML)解放派)の一議席が加わる。
 下院における左翼勢力が弱まった事実は、彼らが進歩勢力を吸引する中心軸となる力がさらに弱体化し、右翼的な立法、ことに経済分野での反動立法に対する抵抗力が弱くなったことを意味している。
 すべての左翼勢力は現在、その政治方針と戦術とを再考することが求められている。地域行動と結びついた議会主義、つまり地域政党による活動は、BJPを止めることはできない。バジパイの初期の発言や蔵相の言明、インドブルジョアジーの代表的なスポークスパーソンの発言などは、強硬な、もし必要であるなら暴力を伴った攻勢さえもが、準備されていることを明らかにしている。
 全国規模の抵抗を構築することは、物価値上げや社会保障削減、健康や安全の面での攻撃、失業、民主的権利に対する攻撃などとの闘いを激励し支援することである。すべてのブルジョア政党が右傾化している中で、ブルジョアと結託する左翼とは、これまでのように労働者の闘いの中止を呼びかけるだけでなく、実際にブルジョアを助けて労働者の闘いを粉砕することをも意味している。
 過去二〇年以上にもわたって左翼が政権を掌握していた西ベンガルを見てみよう。州政府は、権力に責任ある存在として行動しようとしている。つまり「不必要な」ストライキの中止、道路上での呼び売り行為排除、都市貧民を犠牲にしたカルカッタの美化、投資誘致のための特別措置などを行っている。
 驚くにあたらないが、西ベンガル工業地帯の議席は一つを除いてすべてがブルジョア政党のものとなった。左翼ブロックは、四二の定員中二九議席を獲得、一九九八年の三二、一九九六年の三七議席から大きく後退している。左翼の得票率は四七%前後でほぼ一定しているが、投票総数は減少し、棄権率が高くなってきた。全国各地で有権者は勝利する可能性が強い候補に投票する傾向を見せており、左翼がブルジョア政党候補に敗退しがちである。
 インド左翼は、一九三〇年代のスペインにおける、そして一九七〇年代はじめのチリにおける「進歩的」ブルジョア潮流との連合がもたらした破滅的な結果から何も学んでいない。ヒンズー教至上主義の民族主義版ファシズムと闘う必要があり、人々を組織して行動を起こし、闘争を展開しなければならない。時間は多くない。
(電子版インターナショナルビューポイント誌99年11月号)
ドイツ
赤と緑連合政府――一年間のバランスシート

 ドイツに「赤と緑の連合」政府が成立してから一年が経った。ビンフリート・ボルフ(旧共産党のPDS議員)が、この一年間を綿密に分析した。

歴史的な政権交代

 一九九八年九月二日の政権交代は、国内的にも国際的にも「歴史的な交代」と判断された。ドイツにおいて最も長期間首相を務めたヘルムート・コールの保守党政府を倒したのであった。だがドイツ連邦共和国の歴史にあって、政権交代が失敗であったことがかくも短期間のうちに明らかになったことはない。「赤と緑の連合」は政権獲得から一年間で有権者の支持を三〇―四〇%も失った。選挙が行われると、前回に敗北したキリスト教民主党・キリスト教社会同盟(CDU/CSU)が圧倒的な勝利を記録するだろう。
 また二〇世紀に(労働者階級ではなく)「人民の党」としての社会民主党(SPD)は、最近のザクセン州議会選挙で記録した低い支持率をこれまで経験したことはなかった。
 「赤と緑の連合」政府が成立してから一年、連立政府の小パートナーである90年連合・緑の党は、議席を完全に失う脅威に直面している。旧東ドイツである新しい連邦州議会にあっては、この政党は一議席も有していない。連邦選挙が行われるなら、この党は議席獲得に必要な得票率五%の壁を突破できず、議席ゼロになってしまうだろう。
 この連立政府は、有権者の政治的な不満足を克服すべく闘うと公約した。だが、その政策が現実にもたらしたのは、ドイツ史上最低の五〇%という破滅的な投票率だった。

各種選挙の結果

 連合政府を登場させた連邦選挙から現在までに六回以上の各種選挙が行われた。ヘッセンとザールラントの州議会選挙、メクレンブルク―ウエストポメラニアでの自治体選挙、ブランデンブルクとテューリンゲンの州議会選挙、ノルトライン―ウエストファーレンの自治体選挙、ザクセンの州議会選挙――これらの選挙を通じてドイツ有権者の半数以上が投票したことになる。また一九九九年六月には欧州議会選挙が行われ、ドイツの有権者はこれにも投票する機会があった。
 これらの選挙の論点やその論争形態はそれぞれに異なっていたが、結局のところ、議論の基軸には「赤と緑の連合」政府の政策が据えられていた。
 これらの選挙の結果を「地方の独自性」による違いを別にして考えると、五つの特徴的な共通点がある。
 第一。新連邦政府の中心政党であるSPDは、至るところで有権者から拒絶された。SPDの州政府が中央政府と政策的に近ければ近いほど、選挙結果は悪くなった(ブランデンブルクとザクセン)。当該のSPDがシュレーダー首相と距離を置いているザールラントのようなところでは、落ち込みは少なかった。社会民主党が伝統的に強いザクセン州議会選挙では、ブルジョア民主主義が確立された以降の今世紀にあって、初めてSPDが第二党となった。
 ザクセン州のSPDは、シュレーダー首相が演じる「ロードショー」、すなわち、その政策に奴隷のように忠実である。シュレーダー首相の緊縮政策体系に無批判である。そして、この州組織は、旧共産党である民主社会党(PDS)との協調は完全に拒絶している。
 第二。90年連合・緑の党の敗北は、SPDの選挙敗北とまったく同等である。この小さな連合パートナーは、従来の支持者の二五―五〇%を失った。
 第三。上述した選挙における主要な勝利者は、保守のCDUと極右ファシスト諸党――DVUや共和党、国家民主党(NPD)――である。ほぼ全国の至るところで極右の得票は、戦闘的な左翼であるPDSの得票増加をはるかに上回った。
 第四。PDSの得票は、メクレンブルク―ウエストポメラニアを例外として、すべてで増加した。得票の増加は、選挙を重ねるごとに大きくなっていき、「赤と緑の連合」による連邦政府のパブリックディスクロージャーと平行した。この傾向は、旧東ドイツのブランデンブルクやテューリンゲン、ザクセンでとりわけ強かった。しかし旧西ドイツの一部――ノルトライン―ウエストファーレン州の自治体選挙でも、この傾向は明確に認められた。
 旧西ドイツにおけるPDSの新しい力とその傾向は、旧西ドイツで初めての自治体議席獲得に結実した。現在では二〇の自治体で議席を有し、デュースブルク(人口八〇万)における最初の選挙で四・二%の得票率を記録した。
 第五。政治状況は、それぞれの地域でそれぞれの仕方で安定に向かっている。旧東ドイツ地域では、CDU、SPD、PDSからなる新たな三党システムが確立されたように思われる。中道リベラルの自由民主党(FDP)と90年連合・緑の党はもはや、州議会に議席をもっておらず、次の選挙で両党が議席獲得に必要な得票率五%の壁を越える可能性はほとんどない。
 旧西ドイツ地域と連邦の新首都ベルリンでは、自由民主党(FDP)はすべてのレベルにおける立法府から姿を消した。緑の党でさえ、最近の選挙における得票率の後退から判断すると、これからの各種議会選挙で五%の壁を突破できない危険性が強まっている。
 ザールラントの州議会選挙では、極めて低い投票率だったが、アメリカ政治システムを想起させる地域規模での二大政党制を明らかにした。
 来る選挙(連邦参議院ベルリン選挙区とバーデン・ビュルテンブルク州の自治体選挙)に関する世論調査も、以上の傾向を支持している。もしSPDが、シュレスビヒ・ホルシュタインとノルトライン・ウエストファーレンで二〇〇〇年に行われる選挙で敗北するなら、「赤と緑の連合」の破滅が完成することになる。
 これらすべての点は、シュレーダー首相の連合政権が破局を迎えることを示している。

コソボと緊縮政策の責めを負う

 もちろん、選挙における「赤と緑の連合」の敗北は、地域的な問題をも反映している。ブランデンブルクでSPDが一五%も得票率を低下させたのは、マンフレット・シュトルプ州首相とその政府(非連合)の具体的な政策によっている。
 全体の政治傾向に反してCDUがザクセンで得票率を一・二%低下させた事実は、クルツ・ビーデンコフのCDU単独政府に対する批判の強まりを表現している。全体的な傾向と違ってザールラントでSPDの敗退が小さなもの(四%減)だった理由は、クリムトを指導者とする州SPDがベルリン政府(連邦政府)の緊縮政策と、シュレーダー首相とイギリスのトニー・ブレア首相とが宣言した「第三の道、新中道」とからは距離を置いている事実にある。
 これらの選挙を分析した人はすべて、連邦レベルの政治問題が決定的な役割を果たしたとしている。有権者は、投票あるいは棄権という行動を通じて「赤と緑の連合」連邦政府に対する自らの判断を表現した。その判断の中心的な対象が、緊縮政策とユーゴスラビアに対する戦争であった。
 ほとんどの選挙解説者は、「戦争」問題に十分な注意を向けていない。「赤と緑の連合」が選挙に勝利した一九九八年九月二十七日、連邦SPDと連邦緑の党に対する支持者の一部は、シュレーダー首相候補がコール政権の緊縮政策を持続するのかどうかいぶかった。
 しかしシュレーダー首相の政府が侵略的な戦争を行うだろうことについては、誰も疑問を抱かなかった。このショックが今もなお継続している。そして、これが「赤と緑の連合」が選挙において、潜在的に有しているその力を発揮できないでいる理由である。
 SPDよりもはるかに「平和の党」であると自認している緑の党についていえば、「新しい路線」は、新しい党のアイデンティティを必要とさせている。ヨーゼフ・フィッシャーは、ビルト紙において、このことを極めて明白に語っている。「多くの分野で一九七〇年代、八〇年代の概念が依然として残っている。新しい概念が未だに緑の党のアイデンティティに入っていないので、立場の変更が必要だ」と。彼は、完全にスターリニスト的な思考の転換やり方で、洗脳を提起する以上のことを考えつかない。「本当に教育の問題である。内部再教育プログラムを制度化して、教育のやり方、内容を変更しなければならない」と。

緊縮政策の影響

 「赤と緑の連合」の選挙敗北をもたらした連邦レベルの政治問題の中で最重要なのは、緊縮政策である。少なくとも一九九九年春以降、連邦政府は、下層から上層への所得再配分を行っており、SPDの支持基盤である「恵まれない人々」から奪い、それを富裕層に与えるという政策を実行してきた。
 この緊縮路線は、内的な転換を体現している。それまで一連の法令が制定されたが、それらはコール時代の社会政策を修正しようとするものだった。PDS委員長のグレゴール・ギシは、二〇〇〇年度予算案に対する議会発言の中で、この転換について述べている。「一九九八年十二月に、われわれが賛成して一連の法律が採択されました。それらが大きな社会的不正をただすものだったから、われわれは支持をしたのです。そのような法律として例えば、医薬品への補助支出の削減、解雇に対する保護の拡大、病休の場合の一〇〇%賃金保証、年金支給額削減の停止、育児支援措置の拡大などがありました」
 「連邦首相、私は当初から、これらの法律があなた好みではないと感じていました。少なくとも、選挙運動期間中、例えばヘッセンであなたがこれらの法律に言及しなかったことを知っています。一九九九年三月、連邦政府の政策に突然の変化がありました。これがオスカー・ラフォンテーヌの辞任と時期的に一致しているのは偶然ではありません」
 この事実は、オスカーが辞任しなかったなら、政権の路線が現在とは違ったものとなっただろうとか、あるいは「赤と緑の連合」政府が最初の三カ月間に実行した肯定できる路線を持続しただろうとかを意味してはいない。こうしたことを意味していると考えるのは、ラフォンテーヌ個人を理想化し、ザールラント州で緊縮政策がすでに始まっていた事実や反民主的な措置がとられた事実を忘れることである。こうした見方は、現在社会の本質を見失い、個人が果たしうる役割の限界――政府内の個人であっても――を見逃すことになる。
 決定するのは、個人ではなく制度の様々な要素、経済制度と政治制度の基本的な性質である。SPDと連邦緑の党のそれぞれの指導者たちは、自らの路線をもって両党が「制度の党」であることを証明した。両党の役割は資本主義制度の利害に完全に合致しており、この制度の中で本当の権力を行使している企業や銀行、保険会社、経営者団体などの利害を反映している。
 そして両党は、支持者の大部分が反対であっても、必要であるなら資本主義制度の利益を守るための政策を遂行することを実証してきた。そうした政策の実行が党やその支持基盤を破壊することになるとしてもである。シュレーダー首相の言葉「綱領は変更できない」は、緊縮路線が事実上綱領となっていることを意味している。
 しかし明白なことだが、この綱領はどこか他の場所で決定されたものであった。実際、全国経営者団体(BDA)は一九九九年春に、「連邦政府は信頼に値する意義ある路線に復帰すべきである」と要求し、コール政権の政策を継続すべきだと主張したのであった。

制度こそが問題

 最近、つまりコソボ戦争と二〇〇〇年予算案提出以降、資本家階級側は、シュレーダー政権に満足しているようで、国防予算の六億三千万ドイツマルク(三百二十億ドル)削減といった一部の点を批判するだけとなっている。だから、「赤と緑の連合」政府が資本家と軍需産業に「友好的な」方向に「修正した」政策を提出すると簡単に予想できる。
 「赤と緑の連合」政府が自らの選挙綱領に反して実行した、あるいは実行しているコソボ戦争と緊縮政策が中心問題となっているのは、決して偶然ではない。「資本主義制度」はまさに現在、こうした政策の遂行を必要としているのである。「緊縮政策」とは、ネオリベラリズム路線の継続を意味している。これは、一方では弱者を保護する面での国家を弱め、他方では事実上の検閲である監視を行い、ブルジョア民主主義を押しつけるという面での国家を強化する路線である。
 ネオリベラル路線の継続は、下層から上層への大規模な所得再配分をとりわけ意味している。一九九二年から一九九七年にかけて、経営者の実質所得は四四・一%も上昇したが、雇用者の所得はわずか三%の増加(物価上昇を考慮すると実質は低下)にとどまった。
 こうした枠組みにあっては、「緊縮政策体系」が社会的な弱者に大きな打撃となるのは必然であり、「赤と緑の連合」政府が選挙で公約した綱領、つまり資産税の導入を期待するのは的外れである。
 また次の点も必然であるといえば必然であり、シニカルでさえある。すなわち、環境を保護するとして積極的な評価を受けたエコ税が下層から上層への所得再配分のためのサービスの一環に組み込まれ、社会的な最弱者にとってエコ税は、さらに負担を強め、公共輸送手段をより使いにくくし、そのコストを上昇させ、他方、産業界はエコ税導入に伴う負担をほとんど免れている。
 第二の中心問題である戦争もまた、現在の段階に到達している資本主義の論理的な結果である。世界市場の獲得競争や約二〇〇社による「征服されていない世界」の分割をめぐる闘いは、一国の政策が企業や銀行に奉仕するものであることを要求している。これによって戦争は「通常」のビジネスの一部とみなされ、他の手段による政治の継続と考えられる。
 同様な奉仕が、国内的には下層から上昇への所得再配分を通じて、外交政策では他国への介入と戦争を通じて実現されている。「赤と緑の連合」政府は、成立してからわずか数カ月後、資本家階級に排他的に奉仕するものであることを証明したのであった。
 シュレーダー首相は選挙での最初の敗北後、先に引用したビルト紙とのインタビューにおいて「われわれは理解した」と述べた。彼が本当に考えている内容は、支持者が望んでいることとは少なからず違っているようだ。ヨーゼフ・フィッシャーはさらに明確に述べている。「時には非常に疲れたと感じるが、やめるわけにはいかない――骨を放そうとしない犬のように。本当に闘うブルドッグは骨にしか関心を示さないものだ」と。

展望はいかに

 こうした「赤と緑の連合」に対して有権者は「じゃ、成功を祈りますよ」と別れの言葉を告げる以外にない。そしてCDUか、あるいは大連合(CDUとSPDの連立)が政権に復帰することになる。その過程でPDSはやや大きくなっていく。そして回転木馬は回り続ける。
 だが事態が変化するだろうと考えて差し支えない立派な理由もある。この点でも「制度」が決定的である。資本主義経済という物質的な基礎は、ネオリベラル路線による緊縮政策と新市場をめぐる争奪戦が「経済テロリズム」の段階の突入したために、これまでになく不安定になっている。
 ヘッセンの選挙で敗北したアイケルは、現在でもネオリベラル派のマスメディアから緊縮政策の戦士と賞賛されているが、その拷問的な政策を比較的穏やかな状況にあってさえ社会的な弱者に適用したのであった。リセッションとなったら、事態は一体どうなるのだろうか。
 アイケルの反社会的な緊縮政策にもかかわらず、債務の増加速度を遅くし公的債務の増加にブレーキをかけることしかできなかった。同時に公的債務の金利(公債金利)は、五・四六%という記録的な低さとなった。欧州中央銀行の利子率がアメリカの動向を受けてわずかでも上昇すると、緊縮政策のすべての努力がゼロに帰する。そして債務とその利子支払いという悪夢だけが残る。
 SPDの指導者としては失敗したシャープリンクはメディア上で「ミスター戦争」と愛称され歓迎された。彼は、一九四五年以降でドイツ最初の戦争を行ったのであった。ドイツは依然として、アメリカ合衆国の対等ではない小さなパートナーである。しかしコソボ戦争は、ドイツ近辺で将来起きるであろう「自前の戦争」へのリハーサルであった。ドイツあるいはドイツが中心となった欧州連合(EU)が、西欧同盟(ECの軍事部門)を通じて組織されたEU軍として戦争を行うことになろう。
 他方では、大規模な失業、貧困化、外国人の国外追放などが、「赤と緑の連合」によるネオリベラル路線の必然的な結果として増加し続けている。数十万人規模で「赤と緑の連合」を支持した有権者が、右翼ないしは極右支持へと転換している。
 こうした事態すべての中にあって、PDSが発展するという保証はない。実際、PDSが「赤と緑の連合」政府を助ければ助けるほど、PDS自体が緊縮政策に賛成し支持していると受け取られていく。またPDSがブレア―シュレーダーを赤みを帯びた存在(社会主義に近いとして)描けば描くほど、自党を支持している有権者を失っていくことになる。
 PDSは、一九九七年に初めて欧州議会に議席を獲得した。同党にとって記録的な得票率だった。しかし、その原因は投票率が極めて低かったことにある。一九九四年の選挙と実際の得票を比較すると、旧東ドイツで十八万九千票の減、旧西ドイツで八万五千票の増となっている。最大の減少は、メクレンブルク―ウエストポメラニア(六万五千の減)とザクセン―アンハルト(四万六千の減)であった。
 大量失業が、来る社会の動向を決定していくだろう。失業者や労働者、労働組合による下からの運動なくしては、大規模失業は続き、一九三三年の歴史的な大量失業者、六百万人という規模に近づいていくだろう。
 そうなった場合、資本主義制度がブルジョア民主主義の枠内で存続できる限界について議論する可能性が出てくる。このドイツが、その限界に再度近づいていることは確かな事実である。しかし左翼の側は、一九三三年よりは小規模かもしれないが、その事態に対する備えはできていない。
(電子版インターナショナルビューポイント誌99年11月号)