2000年2月10日         労働者の力                 第199号
2000年春季闘争のポイント
               中小ネットの闘い

                                         坂本 二郎
 電機連合大会での春闘方針案提起の特徴は、一つには「春闘は今年限り」という宣言であり、二つには雇用を守るために賃下げを容認した「ワークシェアリング」を進めるというものであった。
 ここ数年同じことだからいまさらという感がするが、電機連合などの提起のポイントは、年金の六十五歳支給という事態を射程に入れた、現行六十歳から六十五歳への定年延長、雇用継続を労働協約として獲得するということである。電機の方針に自動車なども続く構えにある。
 これは考え方から言えばきわめて微妙なところである。ようするに電機連合に結集する主要な大手企業の本工が六十五歳まで定年延長する、そこの雇用を守るために雇用総体であれば失業者ははじかれ、新規採用をひかえるなどの話になる。
 より総合的な雇用政策のなかで、高齢者社会のなかでの高齢者雇用をどうするかということなら分かるのだが、しかし日本の場合は企業別、企業連の中だけで実行方針が考えられ、史上最悪の年間平均四・七%の失業率についてはどう手を打つのかなどの方向性は、日経連の土俵に入ってしまっている。日経連は「一人分の賃金を二人で分かち合う」ことをワークシェアリングと称しているのだが、連合の方は六十から六十五歳の間はこのワークシェアリング方式にのり、例えば四日間働く、賃金もそれに対応するというような話に懸命である。
 総合的な対応策が春闘であればポイントでなければならないのだが、現実はますます狭い枠にはめられ、企業内だけの、労働組合だけの春闘になってしまっている。
 賃金はまず無理だから定年延長でなんとかする、ここが今年の主要な関心事であるということが、一月の日経連総会と連合中央委員会を特集した「今年の対決の構造、雇用の確保、六五歳延長」という某紙の記事である。
 賃上げについてはほとんど無理という見方はほぼ一致の状況にある。むしろ賃下げについての提案が今年はさらに増えてくることになるだろう。大手企業はさすがに賃下げとまでは言わずに、定昇どまりや定昇プラス千円などという言い方になるが、中小の場合には自治体の賃下げの影響が極めて大きい。地場産業はみなそれでやられる。これは悪循環で、自治体賃金は人事院勧告で民間準拠という建前だから、民間が下がれば自治体もさらに引き下げられる。
 賃下げの逆提案は、昨年は賃金交渉で三割強の逆提案が出たが、今年はさらに増えるだろう。ある例では、会社側の二割賃金カット要求があり、交渉決裂の結果、会社は一割のカットを強行してきた。受け取り拒否ということでは生活できないから、支給日ごとに「未払い賃金請求証明書」を送りつけているという。
 年収ダウンは軒並みである。一時金の大幅カット、賃金そのものに手をつける、労働時間も延長の傾向にある。退職金の見直し、定員見直し、福利厚生に手をつけるなど労働条件の総合的な引き下げにどう対応するのかを考えないとどうしようもない。
 全国一般全国協などは、今年は「どこでもだれでも二万円」という要求スローガンに決めた――昨年までは三万五千円以上であったのが。
 一つは「取られた分は取り返せ」ということで、税金、社会保険、年金、そして介護保険など公租公課で取られる分を取り返すこと、二つは賃金引き下げ攻撃、労働条件切り下げ攻撃は許さないというという主張を前面に立てざるを得ない状況である。
 
失業時代と非正規雇用の問題

 パート、臨時、派遣労働の課題も、以前にまして重要なものとなってきている。春季行動計画でも前面に出てくることになっている。
 雇用構造が変化してきているなかで、先ほどの電機連合のように自分のところは「賃金は低くてもいいから定年延長を」ということをやるだけでいいのかという問題になる。パート、臨時、派遣などの様々な非正規雇用労働者がいて、ここでは継続雇用が保障されておらず、有期で次々に切られる。これも一つの例だが、ある航空会社の受付などのフロアホステスたちが、企業業績が良くないので全員退職、一年契約社員として再雇用するということになり、そしてその翌年には有期雇用切れとして解雇となった例が出てきている。
 雇用保障と均等待遇をどうするのかということである。
 雇用保障については、労基法が改悪された時に、いわゆる「雇い止め」ということだが「有期雇用労働者の契約の更新に関する実態を調査してしかるべき措置をとるべきである」ということで研究会がおかれた。ここでは実態調査と判例研究、いわゆる「雇い止め裁判」の判例研究はやられている。今年の夏から秋にかけて答申されることになっているが、まず期待はできない。
 均等待遇については、パート、例えば昨年高裁で和解となった「丸子警報機訴訟」の例がある。この和解の内容は非常にいい。地裁判決よりも上を行っている先駆的な例だ。しかし均等待遇に関する問題が判例的に解決したということではなく、複雑である。いわゆるパート労働法が通った時に、女性たちの要求の最大は均等待遇にあったが、その複雑さとは、「均等待遇はどこと、何と均等なのか」という基準の論議が出てくるところにある。
 物差しが必要だとなり、「物差し研」というのがつくられた。女性・少年審議会のもとにつくられ、二年間研究してきた。三月までには結果が出ることになっているが、これも結局は難しいということになりそうである。
 確かに問題は難しい。こちら側の賃金論を作り直さなければならない、というところまで問題は深いのである。
 つまりはこういうことである。賃金体系としては戦後に年功序列型が定着した。本工の年功序列賃金とパートの時間給賃金との均等待遇関係は、どこを基準としたら均等待遇になるのだ、という問題である。年功序列型賃金は、同じ仕事やっていても入社して三〇年たった人と新入社員とでは相当の格差がある賃金体系である。パートの時間給の基準は何になるのか、その人の年齢なのか、勤続年数なのか。
 同一価値労働・同一賃金の制度が広がっていかないと、均等待遇の目安は難しい。われわれは年功序列型の一挙的解体には反対してはいるのだが、賃金論の再構築とあわせないと均等待遇の目安は非常に難しいままになる。
 「丸子警報機」の場合は特殊で分かりやすい例である。「フルタイムパート労働者」という分けの分からない制度があり、同じように勤続していながら一方は男性の正社員給与体系、他方はパート給与という八割以下の女性の賃金体系という区別がされていた。これには非常に鮮明な比較のしようがあったわけである。
 このような議論まで含めてかなり本質的なところにまできている。その意味で、今までのようなパート、臨時、派遣は大変だし、かわいそうだからなんとかしなければ、ということを越えて、非正規雇用労働者の雇用保障・継続と本工との均等待遇を要求していくことと本工それ自身が自らの賃金のあり方を見直すということが一緒のものになってきているという感じがしている。そういうところを進めていければいいと思う。ここが大事なところだ。
 連合春闘は三月十六、十七日で終わってしまう。それも形で見えるものとしては、定年延長を六十五歳まで、その条件として週四日労働程度の労働、時給を下げるということになる。日経連方式のワークシェアリングというものになるだろうが、これが成立したら高齢者の生活は大変なものになる。大企業の労働者は連合春闘によって部分的には下支えされる要素もあるかもしれないが、その「恩恵」がおよばない圧倒的な、とりわけ中小の高齢退職者はどうなるか。
 年金は払われない。退職一年目は雇用保険で暮らすと考えているわけだが、その雇用保険が改悪され高齢者は半額に減額される。最高三百日もらえていたものが、改悪によって百五十日しかもらえないという事態となる。
 
国労ILO勧告とリストラとの闘い

 今年の課題で忘れてならないものは、企業分割や営業権譲渡、あるいは会社そのものの譲渡などの組織変更に伴う雇用関係、労働条件関係をどのように保障させていくかという問題である。そこでの労働者保護立法、保護法の制定が問題になるが、このことと、予定されているILOの国労に対する中間勧告は同じことになる。
 国鉄改革法の条項を論拠にして地裁は、組織が変わったのであるから雇用関係は継続しないし、労働組合も存在しないし権利も継続しないとして、解雇、不採用を正当化した。それに対してILOは国際基準はNOですよ、そんなことは行われてはいけないのだと示す内容を最終的なものとして準備している。この観点は欧州連合(EU)の(組織変更にかかわる労使関係についての)「指令」でも明らかになっている。
 連合も全労連も、そして労働省も、労働者保護法は必要だとしている。では連合はどの面さげて労働者保護法をいうのだろうか。一方で国労を切り捨てておいて、今度は自分たちが大変になって、大規模なリストラが進みはじめてきたから労働者保護法だ、といっても何の整合性もない。
 その意味では、国労へのILO勧告を中間勧告が示している、その本来の趣旨で出させ、その国内における完全実施を要求する闘いは、すなわち民間労働者が直面している会社組織変更に伴う労働条件切り捨てや雇用継続拒否との闘いそのものなのである。国労の闘いを本格的に組織していくことは非常に大きな意味を持っているのである。この闘いが労働者の共通の闘いとして展開されていけば、相当の闘いになるはずだ。
 ILO勧告をめぐって、日本政府は様々な駆け引きを仕掛けているようである。また国内での政府と国労との駆け引きも複雑なところがある。
 ILO勧告の内容は「労働者側の満足のいく解決」という文言と伝えられている。もともとはより明確に不採用労働者の原職復帰と明記されていたらしい。それを日本政府が必死になって柔らかくさせた。しかし「労働者側の満足のいく解決」というレベルまで含めていることは、内容は変わらないということだ。
 国内的にはしかし勧告の扱われ方は微妙だ。勧告が出てしまえば困ったことになるということなのかどうか、「勧告前の政治決着を」というムードがどこかしら漂っている。事実、国会では中間勧告にふれた質疑は共産党をふくめて一切ない。通例であれば国会の場で中間勧告の線で政府を追い込んでいく、あるいは闘争団を先頭に「われわれの満足のいく解決はこれだ」とのキャンペーンが始まるはずである。
 そこがもやもやしているわけだが、この春の全国キャンペーンの企画内容には、国労闘争団も参加できるような企画が必要だと考えている。闘争団の方の事情があり、彼らが先頭をきって全国キャンペーンを企画するということにならないとしても、闘争団がわれわれのキャンペーン計画に参加してくることは可能ではないかと。うまくいけばかなりのことができるだろう。
 労働者保護法の あと一つのポイントであるが、連合も全労連も、そしてもちろん労働省は当然だが「正規社員の継続雇用と労働条件の保護」をいう。ところが会社分割などの以前に多様な雇用形態の問題がある。それについてどうするか、全労協は「正規・不正規を問わない労働者保護の確立」というスローガンを提出している。言葉だけで終わるなら、相当に安易な言い方ということになるが、しかし課題の枠組みは出ているはずだ。議論を深めていくことの始まりと思っている。
 
春季全国キャンペーンからサミット闘争へ

 春季キャンペーンは、具体的には三月はじめに全国活動家交流会で意思統一をし、共同アピール運動を組織していく。三月二十一日に共同アピール集会、そこから全国各ブロック運動、四月十三日の大阪集会から東海道リレー行動、四月二十日の東京集会を集約にする計画である。
 そのあとにサミットへの対応を何らか考えていきたい。ジュビリー二〇〇〇という組織が国際会議を準備している。これは第三世界債務の放棄を援助国に求める運動である。日本代表が連合の鷲尾であるからいろいろ制約はあるが、その南の側(ジュビリーサウス)の要求に与しながら、日本労働運動のサイドからの主体的参加を追求していくべきと中小ネットは考えている。
 ジュビリーサウスからいえば、例えばインドネシアのスハルト一族が食い物にした国際援助に対する返済を、なぜインドネシアの貧しい民衆が負担しなければならないのか、という主張である。サミット当日、ジュビリー二〇〇〇として各国代表に申し入れを行う予定となっている。そのあとに「人間の鎖」行動に参加するつもりだ。
 また「民衆の安全保障シンポジウム」の準備がされているが、グローバリゼーションに抵抗する組織が様々にアジアで生まれてきているが、そのなかから軍事問題を取り上げるグループも生まれてきている。ハードな軍事問題だけでなくソフトな面からの安全保障という側面も取り上げられている。
 その一連の構想のなかに「労働からの切り口」というセクションが内容未定で提出されている。これを何らかの形でAPWSLなどとも協調してかかわることができないだろうかと検討している。やるとすれば相当にかかりきりになるので、そのための人材の目途をつけなければならないなど大変だが、なんとか追求していきたい。

【コラム】雇用保険法改悪の趣旨

 失業時代の到来とともに、雇用保険財政が悪化し始め、現行では赤字となった。そこで収支均衡を目指した改訂を使用者側が出してきた。現行を半分にすることと非自発失業者には上乗せするというのが骨子である。坂本同志が述べているように、現行では最大三百日であるのが、半分の一五〇日に削減される。
 また非自発失業者への上乗せは、経済再建法で大企業の大リストラ推進を進めよとのゴーサインが出たことに対応する感がある。「首切り奨励」だけでは不公平だから、切られる側にも少しは「切られやすさ」を与えるということか。
  本来の失業保険から雇用保険に変わり、そしてそれの収支均衡を旨とするという流れには、労働者保護という観点からだけではなく、大失業時代に対する政府・行政の責務、対応という観点からも、そしてブルジョア経済学それ自身の観点からも、いささか逆行というべきだろう。銀行に巨額をつぎ込むよりは、現実の消費活動の積極化のために資金を投入するという方が「内需拡大」の効用は大きいはずだから。(か)
 

沖縄関連資料

岸本市長の基地受け入れを糾弾・市長解職請求(リコール)宣言

 本日岸本建男名護市長は、普天間基地の名護市辺野古沿岸域への移設受け入れを表明した。
 この受け入れ表明は、年内決着の政府のシナリオ通りに市自らが基地を受け入れた、市民と歴史への背信行為に他ならず、断じて容認できるものではない。
 工法・期限・環境アセスメント等、全く示されていない上での受け入れは、政府に対する白紙委任に他ならない。受け入れの前提条件も空手形に等しい。
 さらに前提条件が明らかにされなければ移設容認を撤回するという手法は、市民に幻想を与え、移設を強要するものの何ものでもない。
 記者会見の席上で岸本市長は、「市民投票で示された民意は総体的に変わっていない。状況も変わっていない」と言いながらの受け入れ表明は、民主主義を破壊する暴挙であり、地方自治の自殺行為である。
 私たちは、岸本市長の受け入れ表明を断固拒否する。
 これまでは政府のシナリオ通りに進められてきた。しかしそれは、壮大な虚構劇の終わりの始まりでしかない。
 私たちは本日を機に、政府のシナリオを崩していく出発点に立った。
 本日私たちは全市民に対し、市長解職請求(リコール)に着手することを宣言する。
 名護市の将来は、市民みんなで決めよう。そして私たちの手で私たちの新生名護市の街づくりをしよう。
 一九九九年十二月二十七日
海上ヘリ基地反対・平和と名護市政民主化を求める協議会 

辺野古区長が自殺未遂 (琉球新報)

 政府が普天間飛行場の移設先に決定している名護市辺野古の嘉陽宗健区長(46)が自宅で服毒自殺を図り、県立北部病院に入院していたことが三十一日、分かった。病院の措置で一命を取り留めたが、同区長は「ヘリポート問題で悩み死のうと思った」と話しており、同移設問題が背景にあるものとみられる。名護署は、自殺未遂として処理する方針。 
 関係者によると、嘉陽区長は二十九日午後二時ごろ、自宅で薬物を服用、苦しんでいるところを家族が見つけ、名護市消防本部に通報、救急車で県立北部病院へ搬送された。容体回復後、病院側が事情を聴いたところ、「ヘリポート問題で悩んでいた。周囲の圧力に耐えられず、自殺しようと思った」などと答えたという。 
 名護署は三十一日午前、嘉陽区長の容体について病院側に確認。その結果、自殺未遂と断定して捜査を打ち切った。薬物は特定されておらず、動機についても「プライバシーの問題」として明らかにしていない。 
 嘉陽区長は、昨年四月に就任。同区の行政委員会は昨年九月、ヘリポート移設問題について協議、埋め立て、陸上両案について賛成多数で反対決議を行った。しかし、同年暮れの岸本建男市長の受け入れ表明を受けて開かれた一月二十五日の同委員会では、移設に向けた「条件整備を行う必要がある」と決議、事実上、受け入れ容認に転換していた。 

稲嶺知事「心痛む思い」

 名護市辺野古区の嘉陽宗健区長が自殺を図ったことを受け、県首脳、幹部は三十一日夕、一様に重苦しい表情を浮かべた。幹部を介して報告を受けた稲嶺恵一知事は「プライバシーの関係もあるので、コメントは差し控えたい」とした上で、「心痛む思いがする。いずれにしても早い回復を願っています」と硬い表情で語った。 
 県は、区長に関する地元の事情について情報収集することは現段階では差し控える考えだが、今後の移設作業への影響を計りあぐねている。

地域に重苦しい空気/「気の毒に」と気遣い/反対集会は延期 

【名護】名護市辺野古区の嘉陽宗健区長の自殺未遂が明らかになった三十一日午後、地元辺野古区は重苦しい空気に包まれていたが、区民の中では反応の違いも見られた。嘉陽区長の家族や移設推進派の住民らは「病院に運ばれたが、ただの風邪。本人は元気にしている」などと言葉少な。反対派の区民らで組織する命を守る会や名護市のヘリ基地反対協議会のメンバーは「あまりの重圧に耐え切れなくなったのでは」と同情を寄せる一方、「なぜ、県や国の問題が辺野古区に押し付けられ、区長が苦しまなければならないのか」と怒りの声を上げた。同反対協は事態の重大さを考慮して、一日に予定していた集会の延期を決めた。 
 区長の身内は最近の嘉陽区長の様子について「気苦労が多いから、疲れがたまっていた」と気遣ったが、病院に運ばれた件については「風邪」と説明した。 
 命を守る会のメンバーは「本当に人間らしい人柄で、まじめで責任感の強い人だ。気の毒だ」と沈痛な表情。「なぜ区長にこんな重荷を背負わせることになったのか。住民にけんかさせないでほしい」と訴えた。 
 一方、推進派の住民は「風邪をひいたという話を聞いているが詳しくは何も聞いていない。彼は豪胆な性格なので報道自体が間違っているのでは」と驚いていた。 
 ヘリ基地反対協は三十一日夜、緊急役員会を開き、集まったメンバーは終始硬い表情で今後の対応を検討。「事態を重く受け止め、精神的に追いつめられた区長の心身を配慮したい」として、一日に予定されていた集会「新春の集い―リコール運動を成功させよう」の延期を決めた。 
 集まったメンバーは戸惑いを隠せない様子で「水面下での区長に対する圧力がひどかったのでは」「弱い者に基地を押し付けるいじめの構造が根底にある」など県、市当局に対する批判が相次いだ。同反対協の仲村善幸事務局長は「あってはならない悲しいことが起きてしまった。一日も早く元気になってほしい」と沈痛な表情でコメントした。 

ラテンアメリカ
ネオリベラリズムが生み出した無秩序、混乱
                                  ルネスト・エレエーラ

情勢の特徴

 ラテンアメリカにおける力関係は変化しつつある。政治的、経済的、社会的な諸要素が、各政権の危機を一般化している。ネオリベラリズムが支配的であった数年間を経て、状況が再び変化しているのである。アメリカ合衆国は再び、「世界で唯一の超大国」というその役割を確立した。だが「合衆国の裏庭」といわれるラテンアメリカにおいては、ズビグニュー・K・ブレジンスキーが言うところの「地政学的な中心軸」――すなわち世界の大国の利益にそう形で地域を経済的、政治的、軍事的に支配する力があるイスラエルのような国家――を欠いている
 コロンビア、ベネズエラ、エクアドルには、「無秩序」の明白な徴候がすでに存在している。これからの十二カ月間に、事態を一層不安定にする一連の事件が発生するだろう。そのうちのいくつかとしては、次のようなものがある。
★パナマ運河からアメリカが部分的に撤退し、この地域に軍事的に介入し支配するための新たな信頼できる「プラットホーム」を帝国主義は見出さなければならない。
★キューバのハバナでイベロアメリカサミット(中南米諸国と旧宗主国のスペイン、ポルトガルの首脳が毎年一回集まる会議)が開催され、ラテンアメリカ統合機構(ALADI)へのキューバ統合が約束される。
★メルコスール(南米共同市場、欧州にならい南米でも共同市場を形成しようと一九九一年、ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイの四カ国で調印、結成した)は、地域の経済交渉と、米州自由貿易協定の下にある問題とをつのらせている。
★メルコスールが欧州連合(EU)と結んだ協定と、世界貿易機関(WTO)の二〇〇〇年ラウンドにおいて、第三世界諸国はその従属的な関係の諸問題を交渉することになる。
★メルスコール参加国のうち三カ国で一九九九年末までに選挙が行われ、アルゼンチンではペロン派の敗北が確実で、ウルグアイでは広範な左翼戦線(FA)の勝利が確実視されている。チリの選挙結果(社会党のラゴスが大統領に選出された)は依然として不明である。
 ラテンアメリカにおけるブルジョア支配体制の危機は、主として国際経済危機のすざまじい影響がもたらしたものである。
 ラテンアメリカにおいても、それぞれの個別課題に関して大規模な人民抵抗運動が起こっており、これがほとんどの左翼の政治戦略や綱領、路線を変えさせている。この数カ月間、一連の社会的な爆発的行動やストライキ、土地占拠、抗議デモ、暴力的な衝突事件が起きている。

大衆闘争の発展

 コロンビアは前革命的な情勢にある。コロンビア国家は深刻な危機のうちにある。一方には力強いゲリラ運動や強力な労働組合と農民の闘いがあり、他方には、極右の準軍隊組織と麻薬組織が存在している。これらの事態はもちろん、この数十年間におよぶ深刻な経済危機の中で生起している。
 ベネズエラでは、旧来の政治体制に伴う機構のすべてが破局を迎えており、熱烈な大衆的支持を得ている新しい体制に置き換えられつつある。チャベス大統領のポピュリズムには両面がある。一面では彼は、従来の諸政党がとってきた政治的、経済的、軍事的にアメリカ合衆国に依存する国のあり方を解体し、米国との関係を転換している。他面、同国の石油産業やその他の戦略的な部に対する外資導入を促進するような緊縮経済路線を採用している。
 その他の国でもあまり報道されていないが、相当に大きな衝突が起きている。ブラジルでは数万人の農民や労働者がデモを行って、フェルナンド・エンリケ・カルドーソ大統領の退陣を要求した。
 エクアドルもまた、反乱のような暴動に揺さぶられている。そしてエクアドル政府は、ラテンアメリカで最初に対外債務すべての返済を余儀なく中止した。その結果、国際通貨基金(IMF)は、戦術的に微妙な対応を迫られている。債務問題は、ラテンアメリカではエクアドル以外の国でも、その重大性が増していく。
 メキシコの中心的な大学、メキシコ国立自治大学(UNAM)における大きなストライキ闘争は弱まる徴候はない。チャパス州の先住民とサパチスタの抗議闘争も持続している。チリの支配者たちは「国民和解」を自慢しているが、マプーチェの農民や多くの労働組合は、人権グループと連帯してかつての独裁者ピノチェットを裁判にかけるよう要求して闘っている。
 ペルーでは、フジモリ大統領が自分の任期を延長しようとする策動に大衆的な反対運動が展開されている。この国でもまた、労働組合や農民による抗議闘争が盛んになっている。
 これらすべての国において、いくつか共通の闘争対象が存在している。すなわちIMFの「構造調整計画」、IMFと世界銀行、そして米州開発銀行(IDB)が押しつける民営化、労働条件を無制限に柔軟化したり失業や職の不安定さが増加することによって拡大している人権侵害、低賃金などが共通の闘争対象となっている。これらは、アルゼンチン、ボリビア、パナマ、ニカラグア、ウルグアイにおいてネオリベラルに反対する、しかも反資本主義の性格を伴った闘いとなっている。
 現在のラテンアメリカでは、階級としての自己確認のあり方(アイデンティティ)が従来とは違ってきている。今日の闘いは、広範囲な「社会的主体」によってになわれている。しかし詳細に事態を検討すると、やはり都市と農村との勤労大衆が鍵となっており、彼らが新しい形態となっている闘いの中心的な担い手なのである。
 だが、これらの新しい闘いには従来見られなかった社会グループが参加しており、この集団はネオリベラリズムによる既存の権利や闘いの成果を覆そうとする攻撃の犠牲者である。中小企業関係者、小店主、小農民、没落した「中産階級」などのグループが、これまでにない規模で抗議行動に参加している。

帝国主義の支配

 この地域における一九九〇年以降の経済的な開放によって、生産性水準の違いや外国資本の投資状況の違いによって、国ごとの不均衡があらゆる面で拡大していった。外国資本の関心は、民営化の進捗状況に集中している。
 民営化によって得られる売却金は、対外債務の支払いに使われる。アルゼンチンは、一九八九年から九八年にかけて民営化によって獲得した三百九十六億ドルの五七%を、債務返済に充当した。
 こうした条件下にあってラテンアメリカの各国政権は、行動の自由がほとんどないに等しい。このような帝国主義の支配に直面している状況にあって、各国政権が国家主権を発揮し拡大していく方策があろうはずもない。
 債務の支払延期のような帝国主義に対するこうした対応が少しでも成果をあげるためには、組織的、持続的かつ力強い大衆的な支持が必要である。しかしながら各国の支配者や既成野党には、そうした大衆の支持を組織する運動を展開できない。
 ラテンアメリカ労働者から帝国主義諸国の銀行に富が移転されるが、それは実に苛酷な形態で実行される。労働者から銀行への富の移転という同じメカニズムが、各国ごとに再生産されているのは驚くにあたらない。米州開発銀行の最新報告によると、「ラテンアメリカとカリブ海は、所得配分が最も不平等な地域であり、最富裕な社会層が生み出される富のほとんどを手にしており……国民所得の四〇%が人口の一%でしかない最富裕層のものとなっている」という。
 米州開発銀行は、それが望むものに関して技術的な説明をすることができる。しかしラテンアメリカ大陸で行われている「開発」システムの社会的な結果を隠すことはできない。この大陸では、人口の三分の一――約一億五千万人――が一日当たり二米ドル以下で生活をしているのだ。ラテンアメリカにおける平均最低賃金の購買力は、一九八〇年に比べてひどく低下している。そのうえ多くの人は、法定最低賃金よりはるかに低い収入しか得ていないのである。
 「ラテンアメリカ人口の三分の一以上が貧困が原因で市場から排除されているとすれば、ここで語られている市場とは一体いかなるものだろうか」――メキシコのエコノミスト、ディアーナ・アラルコンは、アルゼンチンのトレス・プントス誌によるインタビュー(一九九九年七月)の中で、このように問うている。
 「政治的に大きな挑戦は、こうした貧しい人々を市場に統合することで、この数年間における二流程度の経済成長率を改善したいと考えるなら、所得再配分という次の方策を実行する必要がある」とアラルコンは言う。彼女は米州開発銀行の優秀な働き手だが、これと同じ言葉がIMFあるいは世界銀行からも聞こえてくる。
 国際金融機関は、彼らの政治的な行動の結果として発生する可能性があると考えている大衆的な闘いを減らすための予防的な措置を積極的に実行するようになっている。しかしIMFや世界銀行などの国際金融機関の中心活動は、依然としてラテンアメリカの「構造調整」である。

効率性追求の意味

 米州開発銀行総裁のエンリケ・イグレシアスは、ブラジル紙フォルア・デ・サンパウロに対して「州および国家レベル(ブラジルは連邦制共和国)の民営化は、行政、諸機構、金融業の改革を促進し完全なものとする。この民営化は、民間活力を開放し、新しい資源や技術・経営のノウハウを呼び込むことになる。同様に公共機関と社会との関係をもっと均衡あるものとするだろう」と述べて、さらに次のように発言している。
 「効率的な政府は、資源を有効に使って財政的な自立を達成でき、健康や教育といった基本要求に集中できる。民営化は国と地方の経済を強める。民営化は、経済開発とマクロの経済安定に必要な長期的な手段である。経済開発の進展やマクロ経済の安定などは、われわれが考える以上に予測困難であり不合理な面がある国際市場におけるわれわれの弱さを克服するために不可欠な条件である」
 「民営化に継ぐ第二の改革」は、「民間と協力して」政府のイニシアティブによって実行される。政府とその民間パートナーは、社会の最貧困層に焦点を当てた社会保障計画を通じて介入していく。もちろん両者は、法律で定めた制度を根づかせようと協力する。この制度が、民営化と相まって競争を確立することになる。政府はまた、「企業の技術的な必要に見合った教育計画」を開発するために産業界と協力する。
 以上のように考えるなら、ジョセフ・スティグリッツが世界銀行のために宣伝している新しい計画の経済的社会的な内容に幻想をもつべきではない。人々を動員することが決定的である。だが闘われる新しい路線に関する大陸的な議論こそが重要である。そうした新しい闘争綱領の「章の見出し」は、構造調整計画に反対してすでに展開されている様々な社会運動から頂くことができる。IMFや世銀の経済統制、高利な対外債務に反対する闘いや、健康や住宅、教育、労働、賃金、職、人権やその他の権利、民主主義、政治的な権利を守ろうとする闘いにも「章の見出し」となるものがある。
 市場と民主主義、そして国家の役割に関する規定――この三者の関係について見直し、地球的な圧力にさらされる国民経済という新しい状況に対応していく必要がある。左翼や左派のそれぞれの勢力は独自の要求をもっており、経済成長や様々な開発モデル、資本主義のグローバリゼーション化の意味、われわれの側が採用すべき「新しい」社会プロジェクトなどに関する真剣な議論において、これらの要求を共通のものとしていく必要がある。
 これらのプロジェクトの多くは、グローバル経済からの相対的な「分離」をある水準で要求し、グローバル資本の計画をそのまま実行するのではなく、国民的かつ地域的な自立を追求して、当該の要求を満たしていこうとする。
(電子版インターナショナルビューポイント誌99年11月号)

連載 その二                                        
環境社会主義と労働時間短縮 
「持続可能な成長」とは何か

                                         神谷 哲治

第二章 持続可能な成長(続)


3 「効率性」=極大生産
 ところで経済諸資源の分配に関しては、「自由競争市場」による分配が最も「効率的」だとする主張が今花盛りである。この論理の下で全世界的に「規制緩和」が推進され、「自由貿易」の深化が目指されてきた。諸地域内市場、世界市場全体を自由競争市場に近づけようというわけである。
 この主張や上述の動きに対しては効率への一元化を批判することは可能であり、また正当でもある。しかしそれだけではまた、観念的な価値観論争にとどめられる、つまり資本にとって無害なものにとどめられる性格をもつと思われる。効率それだけを取り出せば、有限な資源の有効活用、省資源など、環境的観点からも無視できない現代の重要な価値だからである。従って、「効率的」という表現で資本が、自由競争市場主義者たちが実際には何を追求しようとしているのかを吟味してみる必要がある。
 ブルジョア経済理論において「効率性」は「パレート最適」という概念と結びついているようである(私は全くの非専門家だから断定はできない)。パレートという人が、所与の投入量に対して完全自由競争市場において均衡する産出分配となる生産が極大の生産であることを数学的に証明した、のだという。
 つまりこの意味での効率とは、投入量に対する産出量の比が極大、結局「極大の生産」を意味しているだけである。その関係を図―1に示してみたい。図―1の縦軸pは、例えば各世帯の年間所得とする。横軸nは、ある社会の全世帯を所得の低い順から等間隔に並べたものである。世帯全数をNとすれば、横軸のNはその社会の最高所得世帯に該当する。ただし図―1で示したP(n)の曲線はあくまで説明の便のための概念曲線であり、実態とはまるでかけ離れていることに留意していただきたい。
 今世界全体を対象としたとき、P(N)は少なくとも数億ドル〜十数億ドルのオーダーと思われる。
 一方P(1)はどうだろう。十三億人もの人が一日一ドル以下で生活しているという(「地球環境報告U」)。だからどんなに多く見積もってもP(1)は数百ドル以下である。従ってどんなに低くみてもP(N)はP(1)の百万倍、実際は一千万倍以上であろう(99年11月19日、ナショナル・プレスクラブでの演説でAFL―CIOのスウィニー会長は、世界の大富豪二百人の複合した収入は世界の貧しい層二十億人のものより多いと述べた)。また日本の勤労者世帯の中位水準の年間所得は五百六十万円(総務庁「家計調査」97年)、これにしてもP(N)の一万分の一程度となる。日本は世界有数の「富裕国」であり、図―1の横軸上では先の五百六十万円は、0.8N〜0.9Nの位置になるはずである。つまりP(n)を実態どうり一枚の図にしようと思えば、P(1)からP(0.9N)近辺までは事実上0に表示するしかないのである。これをあえて図にしてみたものが図―2である。富の偏在のすさまじさを示しているが、取扱いには不便な図であり、従って図―1のように極端に変形せざるを得ない。
 さてその上でP1を自由競争市場による分配、P2、P3を非自由競争市場による分配、つまり何らかの非市場的規制がある場合とする。どの場合であっても生産総量はであり、各曲線と横軸で挟まれた部分の面積Sに対応する。P1、P2、P3に対応する総生産をS1、S2、S3とすれば、パレート最適とは、S1が極大であって、S1>S3、つまりS3A>S3Bになる以外になく、またP2は存在し得ないといっているのである。
 非市場的規制があるということは、自由競争市場に比べ、その規制のための特別の資源(労働力を含め)が必要になるということである。従って投入量が決まっていれば、直接生産に使用できる資源はその分だけ必ず少なくなる。だから素人の常識からいえば、技術水準が同じであればパレート最適の結論は当然ではないか、だからどうだというのだと思ってしまうのだが、そんな単純な話ではないのだろう。
 いずれにしてもパレート最適は、ただ生産総量が、図ではSが極大であるということだけを主張しているのであって、多くの人にとって最大の切実な問題である配分状態については何も語らない。
 このパレート最適の定義においては、P1と比較し得る異なる曲線は「P1との比較で誰一人として不利になってはならない」曲線だとされている。つまりP3は元々あってはならない曲線なのである。だからパレートは実際は、自由競争市場以外の何らかのシステムで、1≦n≦Nの全領域でP1より上になる曲線、例えばP2があり得るのか否かを確かめたということになる。しかしこの定義は、現実の不平等な社会で特権的に有利な位置にある層の配分には決して手を着けないというおよそ非現実的でかつ不公正な(図―2をみよ)観点としかいいようがない。従ってパレート最適に立つ主張は本来受け入れ難いのである。
 この点はひとまず除外するとしてここで取り上げたいのは、効率性が結局は「産出極大」の内容をもつという点である。その社会的内容を全く問わず、ともかく生産総量が最大であることを最優先におくこと、これが彼らの効率性の真髄だといってよい。
 しかしみてきたように今全人類的に問われているものは「持続可能な成長」なのである。
 生産総量が最大であること、その意味での効率性はもはや最優先の価値ではない。
 「持続可能な成長」を真剣に望むのであれば、自由競争市場を最善とする根拠は全くないといわなければならない。

4 極大生産論の階級性

 しかし上述した効率性、すなわち「極大産出」最優先の思想には、実に現実的な根拠がある。もう一度図―1を見ていただきたい。非市場的規制を含んだ市場から自由競争市場に移行する場合、生産の分配曲線はP3→P1へと移行する。
 すでにみたように生産総量は確かに増大するかもしれない(S3→S1)。しかしその増加は社会の圧倒的多数の人々には何の恩恵ももたらさない。それどころか分配はむしろ減少する。生産増大分は一部の富裕層にのみ環流し、さらに貧困な多数からの「価値移転」まで起こる。パレート最適と結びついた「効率」とは、特権的富裕層にとっては実に有意義な現実的意味をもっているのである。逆に貧困な圧倒的多数にとっては何の意味もない。
 「規制緩和」で先進した英、米、ニュージーランドで実際に起きたことこそこのようなものだった。例えばかつてない繁栄を賞賛されている米国でさえ、「米国の繁栄は残念ながら多くの米国人には届いていない」と結論する米国市長会の調査結果が報道されている(99年12月22日付、朝日新聞)。
 多分、自由競争市場なのだから図―1でT、Uの間で世帯の入れ替えが起こり、貧困世帯の固定化はないという反論があるのだろう。
 しかしそのような机上の空論を信じる人はよほどの世間知らず以外誰もいないだろう。
 大体T、Uの構成世帯数に格段の差があることは図―2から一目瞭然である。Tの人々全員がUに転落したとしても圧倒的多数が貧困のまま残ることに変わりはない。しかもTの人々がほとんど「永遠に」Tにとどまり続ける確かな保証があるのである。図―1でU1をP1の内、実際に消費してしまう額(資源量)とする。(P1―U1)が貯蓄となるが、この貯蓄がP1に輪をかけて偏在することは一目瞭然であり、その偏在性はあらゆる家計調査統計が示すものでもある。
 資本主義社会での所得の最大源泉が、有産階層の場合この貯蓄にあるのであれば、Tの人々が「永遠」にTにとどまることは約束されたも同然というべきだろう。逆にいえばUの人々も「永遠」にUにとどまる。せいぜいUの中で移動するだけなのであり、「階級」という概念が社会的に堅固な基礎を持っていることもまた明白というべきである。
 ブルジョアジーが口にして止まない効率性とそのための自由競争市場は、まさしく彼らのためのものである。

5 環境的要請と富の平準化

 「持続可能な成長」が求められるほどに人間の生産活動が地球環境との間に重大な緊張を生み出している現在、生産を、しかもその総量というおよそ抽象的カテゴリーを極大にすべきだとする立場にはほとんど意味がない。図が明瞭に示すようにむしろ、総量という指標においては劣る可能性があるとしても、従ってその意味では「非効率」であったとしても、より平準的な分配をめざす非市場的機能を組込んだシステムの方が社会の圧倒的多数の成員にとってははるかに意味がある(P3)。
 同時にこのようなシステムの方が、それこそ総量抑制に適合的だという意味において、本質的には環境適合的だともいい得るはずである。環境との調和をめざすという観点にとって、富の平準化は道義の問題にとどまらない、経済的意義をも持つといわなければならない。この問題はさらに「市場機能」の発現のしかたにも関わるものであり、実に重要な意味を内包する問題である。
 この点については後に取上げたい。
 富の平準化は、「持続的成長」を現実化させるための一つの鍵であると私は考える。
 非市場的平準化は非民主主義につながるとの批判は当然予想される。しかし自由市場=民主主義、非市場的規制=非民主主義という区分けは、およそ粗雑な観念論という以外ない。
 非市場的規制は、超越的権力による一元的統制という形態から、多様な民主主義的諸集団、諸組織、また制度化された諸機関を介した多元的で多層的な、それ故ある種競争的、闘争的統制に至るまで多様な形態があり得るのである。われわれトロツキストは、もちろん後者の方向をこそ発展させるべきだと主張し、またそれによって初めてより豊かな民主主義が発展できると主張し闘ってきたのである。
 民主主義を、究極的についに発見された、それ故基本的に変わることのない首尾一貫した整合的制度だとみなすような観点こそ非民主主義的であるといわなければならない。自由市場を神聖視する者の姿勢こそ、むしろこのような観点に近いといってよいだろう。
 真実の問題は、どのような非市場的規制が現実的であるのか、というところにある。本稿では最後にその点についても考えてみたい。
 しかしその問題は結局、空想をたくましくすることでなく、具体的問題に即して、具体的闘争の中からしか回答が出てこない問題なのだと私は考えている。