2000年3月10日         労働者の力                 第120号

【速報】最高裁、JR東日本の上告を棄却(二月十八日)
鉄産労、仙台駅強制配転攻撃に勝利


【宮城支局】鉄産労組合員の運転士を仙台駅の売店、飲食店等に強制配転させ、一方的に賃金を減額したのは不当労働行為であるとした仙台高裁の判決をめぐって、最高裁第二小法廷は二月十八日、JR東日本の上告を棄却した。
 十年間にわたる鉄産労の裁判闘争は、最高裁の今回の決定によって大きな区切りを迎えている。JRの論理、つまり国鉄民営化という「国策」にあらがった鉄産労に対する政治的、差別的な人事制裁は当然であるという論理は、最高裁の棄却によって否定された。仮にそのような政治的な意図をもってしても、不当配転を法的に容認することはできないということである。最高裁は「JR東日本の主張は上告の事由に該当しない」として、裁判官の全員一致で上告棄却を決定したのであった。

仙台地裁の反動判決(97/1)

 簡単に経過を振り返っておこう。原告の八名は国鉄解体直前の一九八七年三月十日、動力車乗務員と仙台駅営業係の「兼務」を発令された(八名はそれまで仙台機関区と原町電車区で運転士として勤務していた)。三週間後の三月三十一日に国鉄は解体され、翌四月一日、八名はJR東日本に「兼務」の状態で雇用された。一年後、八名は「兼務」を解かれて営業係の各職務を発令され(「兼務解職発令」)、さらにそれから二年後、JRの賃金規定に基づいて基本給の二―三号俸をカットされた。
 鉄産労と原告八名は一九九〇年、「兼務解職発令」と賃金カットがJRの配転命令権の濫用であり、不利益扱いであるとして仙台地裁に提訴した。裁判は、配転に関わる個々の具体的な検証とあわせて、この問題の背景が分割・民営化問題にあったことを全面的に論争するものとなった。仙台地裁は一九九七年一月、JRの主張にくみする政治的な反動判決を下した。その論調はきわめて粗暴で、そこには少数反対派に対するむきだしの敵意があったといってよい。
 
仙台高裁での逆転判決(99
 
 原告団と組合はただちに仙台高裁に控訴、@基本給の減額を伴う配転命令(兼務解職発令)は違法、A減給は就業規則の不利益変更であり、労働者が同意しないかぎり拘束されない、B八名を九年以上にわたり動力車乗務員に復帰させなかったことは明白な不当労働行為であると主張した。
 仙台高裁は一九九九年四月、この配転には「人事配置上の合理的な理由」を見出すことはできず、「違法性を帯びるに至っている」と断定して、JRの不当労働行為であることを結論づけたのである。
 高裁は、組合主張を全面的に認めたわけではない。「配転命令権の濫用」、「組合に対する支配介入」という主張に同意したわけではないし、分割・民営化問題による「国家的不当労働行為」であるとの組合主張を受け入れてもいない。しかし不当労働行為を事実上認めるものであり、画期的な逆転勝利であった。高裁判決は次のように記述している。
 JRは、鉄産労組合員を、東労組組合員より不利益に取り扱うという「差別的な意思を有していたことがかなり強く疑われるといわざるを得ない」「その後(動力車乗務員が極端に不足しはじめた平成四年ころ以降)も、長期にわたり動力車乗務員への復帰をさせずに〈注〉営業係等の配置を続けた点において、違法性を帯びるに至ったというべきである」。

注目集まるJR東日本の対応

 こうして仙台高裁の逆転判決(一九九九年四月)は、鉄産労組合員八名の仙台駅営業係への配転が、組合差別にもとづく不当労働行為であることを明らかにするものであった。最高裁はJR東日本の上告に対して、高裁判決をくつがえすにたる証拠がないことによって棄却した。これまでJRは、この配転が不当労働行為であったことを認めていない。したがって、当該の鉄産労組合員は配転に伴う損害から回復してはいない。
 JRはこの状態をどう説明しようとするのか。このまま居直りつづけるのか。JR東日本は現時点で態度を明らかにしていない。職場では、組合の枠をこえて、この問題の帰趨に注目が集まっている。JR東日本はこれまで、「人事の発令とそれに伴う基本給の減額は、就業規則に基づいたもの」としてきた。最高裁の上告棄却はこの論拠を否定するものであり、この闘いの勝利が本人の意思に反して強制配転させられた多くの労働者に影響を及ぼすことは必至である。

鉄産労、JRへのさらなる追及へ

 鉄産労は、これまでも、@謝罪、A原職復帰、B不当に減額しつづけている賃金の支払いをJR東日本に求めてきた。最高裁決定をうけて組合は、三月中旬にも「勝利報告集会」を開催し、JRへのさらなる要求・追及と、国鉄闘争の勝利に向けた闘いの継続・強化に向かおうとしている。
    (三月一日)

〈注〉JRの人事政策の矛盾を高裁判決は次のように指摘している。

 「また、動力車乗務員から他の業務への配置換えは、(JR)発足当初は、余剰人員対策という側面も確かにあったとうかがわれる。しかし、この点は、少なくとも、動力車乗務員に関しては、平成四年前後から状況が変わり、動力車乗務員の大量退職に伴い……数が極端に不足し、大量の新規採用と若年時からの動力車乗務員としての養成、車掌その他の職種からの登用、他の業務へ回されていた元動力車乗務員の復帰等、種々の方策を余儀なくされているが、その一方で、右平成四年ころ以降、少なくとも平成八年ころまでは、(原告ら)東労組以外の組合員を動力車乗務員に復帰させるという形で……不足を賄うという方策は全く採られなかった」
 この点で、原告側は次のように主張していた。
 「(JRから)不当労働行為を受けているのは、(JRに対し)協力的な東労組を除く、被控訴人組合、国労、全動労の三組合であって被控訴人組合だけではない。
 動力車乗務員から仙台駅営業係に強制配転された者のうち平成八年五月までに三二名の者が……原職に戻されているが、これはいずれも東労組組合員であって被控訴人組合、国労の組合員、全動労の組合員は一名もいない」(準備書面より)
沖縄の心を聴く東北連鎖集会を開催
        大田昌秀さん、瑞慶覧長方さんを招いて

【宮城支局】東北連鎖集会は三月四日、宮城県仙台市で、五日には福島県郡山市で開催された。宮城県集会には瑞慶覧長方さん(「公正・公平で心ゆたかな文化県政をつくる県民の会・代表、沖縄社会大衆党顧問)が、福島県集会には大田昌秀・前沖縄県知事が出席した。
 連鎖集会は一九九八年十一月、島袋宗康参議院議員を招いて開催されている。また瑞慶覧長方さんは一九九六年六月の「沖縄発全国キャラバン」で宮城県と王城寺原演習場の地元三町村を要請訪問し、地元住民と交流した経緯がある。
 連帯の挨拶のなかで、沖縄米軍による実弾砲撃演習に反対する王城寺原現地住民の会の鈴木正之さんは、演習の既成事実化によって厳しい状況にあるが、地元住民は団結して反対運動を続けていると力強くアピールした。なお、今年は王城寺原での演習はない。
 
名護市受け入れ撤回の闘い
 
 瑞慶覧長方さんの演題は「私の沖縄―過去・現在・未来」――過去の歴史をふりかえり、現状を報告したうえで瑞慶覧長方さんは、特に普天間移設に伴う北部振興策を強く批判した。一九七八年以降、規模と範囲を拡大して膨れ上がってきた在日米軍への「思いやり予算」は一九九八年度で二千五百三十八億円、二〇〇〇年度予算で二千六百三十億円にのぼる。
 一方、普天間受け入れとの交換条件で予算化された北部振興策は、十年間で百億円、単年度十億円である。「これがいかに不当であり、まやかしであるかを訴え、理解してもらう。そういう粘り強い運動を展開して、露骨な利益誘導による賛成派の切り崩しを阻止し、名護市の受け入れを撤回させていく」と瑞慶覧長方さんは強調した。

沖縄と未来

 「未来」に関して、大田県政が打ち出した「基地返還二〇一五年アクションプログラム」と自由貿易圏構想の経緯と内容を説明し、その具体化として次の諸点を取り上げた。
 一、日本の南の玄関口としての沖縄(地理的条件の活用)
 一、世界一の長寿県としての沖縄、長期滞在型観光地の形成
 一、国際都市形成構想の実現
 一、基地返還アクションプログラムの実現
 一、新しい産業の育成と開発(例えば月桃=サンニン、薬草、熱帯果樹、花、情報関連)
 一、海洋深層水の活用と新エネルギーの利活用
 一、人材育成による発展
 一、自由貿易地域の拡大と特別県構造の活用
 瑞慶覧長方さんは、特に東北地方との関連で「温からんど構想」の実現を訴えた。沖縄の温暖な冬と東北の厳しい冬を地域交流の契機として利用しようというもので、すでに山形県との間で実験的に始まっている。高齢者が冬の暖かい沖縄で長期滞在し、様々な交流を行う試みである。逆に沖縄から見れば、雪の冬は沖縄では絶対に経験のできないもので、瑞慶覧長方さんも今回、仙台で雪に触れ、非常に興奮したそうだ。
 集会は最後に、「基地のたらい回し、普天間基地の名護市移設に反対する」「軍事基地と失業のない、平和な沖縄をめざして」「沖縄サミットを世界の民衆とともに包囲しよう」の三点を決議して閉会した。

寄稿 的場 良生                                  
郵政合同労働組合十周年をむかえて
拓こう、地球と労働者の未来!

私たちは「柔軟に、かつ大胆に」闘う

 仙台市に本部をおく郵政合同労働組合の十周年記念集会が二月に行われた。郵政合同労組は当時の全逓信労働組合(全逓)を脱退した労働者によって一九八九年十二月に結成された「独立組合」であり、宮城県では電通労組(電通産業労働組合)、鉄産労(鉄道産業労働組合)に続く三つ目の独立労働組合として誕生した。この三独立組合と従来からある宮城合同労組とが中心となって宮城全労協が組織されている。
 十周年記念集会を機に、郵政合同労組の中心メンバーの一人である的場良生氏から、集会状況と組合の現状、今後の決意について寄稿をうけた(編集部)。
記念集会、佐々木力氏の講演

 去る二月二十六日、仙台市において郵政合同労組の結成十周年記念集会が開催された。
 二十一世紀を目前にして開かれたこの集会のテーマは「拓こう、地球と労働者の未来!」。
 宮城、山形の郵政労働者が結集するこの組合は、二十世紀最後の十年を全労協とともに闘い抜いた。そして記念集会は二十一世紀最初の十年をどう闘うのかを展望する節目として開催された。
 記念集会は、講演とレセプションの二部構成で行われたが、地域の労働者も激励にかけつけ、四十名を越す参加で成功裡に勝ち取られた。
 第一部は、集会のテーマにふさわしく、東京大学の佐々木力氏による「二十一世紀資本主義と環境社会主義」と題する講演がメインであった。
 佐々木氏は、十年前の結成大会において「反原発を闘う」特別決議がなされたことに、その先駆的な意義と役割を評価するとの激励から講演を始め、一時間半にわたって熱く語られた。とりわけ今日の「規制緩和」の攻撃の思想的柱である新自由主義がすでに破たんし、世界的には労働者の攻勢が開始されていること。二十一世紀に新自由主義に代わる思想は「環境社会主義」であり、社会的・政治的なあらゆる問題に組織された労働者の闘いが必要であることが強調された。
 「柔軟に、かつ大胆に、資本への反撃を!」という言葉で講演を締めくくられたが、参加した仲間たちは、大いに感銘を受け、新たな闘いの確信を深めたところである。
 第二部は、交流とレセプション。
 地域の多くの仲間から激励の言葉が寄せられ、会場は笑いと拍手で埋まった。やがて組合員からの発言に入る。十年間の様々な思い出と、民営化を目前にした不安を正直に述べつつも郵政合同とともに歩むといった各々の言葉には、熱い想いを抑えた中にも深い満足感と誇りに満ちていた。
 
郵政合同、十年の歩み
 
 さて、宮城と山形のわずか三十名の郵政労働者の小さな組合が、なぜ大胆にも「地球と労働者の未来」といったテーマで集会を持ったのだろうか。それは生きてきた時代の反映であり、生きようとする未来への想いである。
 一九八九年十二月二日、郵政合同労働組合は「労働者が主人公の労働組合」を目指し、全労協建設に参加すべく結成された。折しもその夏にはベルリンの壁が崩壊し、翌年にはソ連邦が解体するという歴史的な出来事が進行している真っ最中であった。日本においては、総評が解散し、翼賛的労働運動、連合が結成されようとしている時であった。
 郵政職場においても、全逓が連合に加盟することに反対する様々な闘いが展開されたが、官僚の統制によって抑え込まれていった。
 そうした中で私たちは、労働者の生活と権利のために自らの旗を立て闘おうと決意したのだった。
 結成以降、ただちに郵政省との団体交渉を求め闘いに突入するが、郵政合同の諸支部のなかで唯一、三六締結権を握った某支部は当局の団交拒否に対し、十カ月間の三六拒否を闘った。三六協定の締結権を現場労働者が行使するという闘いは、「労働者が主人公」という労働組合を体現するものであった。
(注 労働基準法第三十六条は、法定基準労働時間を超えた超勤や残業は、労働組合あるいは労働者の過半数を代表する者との間で書面による協定を結ばなければならない、と規定している。労組あるいは過半数を代表する者が三六締結権を握るわけで、ここでは郵政合同の一支部が、当該職場で全逓、全郵政などを圧倒して職場の過半数の労働者の支持を受けたことを意味する。三六拒否とは超勤拒否の意味。全逓などの大組織は官僚化が進み、交渉権の「上部移譲」が常で、現場労働者が当該職場で交渉権を独自に発揮できるということはない。郵政合同はここで交渉権の現場行使、あるいは「下部移譲」を実現している。「労働者が主人公の労働組合」の体現というゆえんである。編集部)
 また結成大会は、三つの大きな闘いを決定した。
 一つは、前述したが、反原発の闘いである。そして今日まで東北電力女川原発反対の闘い、脱原発の運動を担い続けてきた。
 二つは、名札(ネームプレート)の強制着用に反対する闘いである。名札を単に労務管理の強化、労使間の問題としてではなく、氏名はプライバシーに関わる基本的人権という社会問題としてとらえ、闘ってきた。
 三つは、こうした課題を、地域の労働者や市民の共同の闘いとして展開しながら、新しい労働運動を「社会的労働運動」と位置づけたことである。組合名の合同という二文字は、それを組織方針として貫くことを表明したのである。
 現在、少数ながらパート、女性労働者も組織することに成功したが、それは本工主義に根ざした企業内組合を脱することだ。そして職場と地域に団結の基礎をおく、個人加盟の地域合同労組を目指すことを方針として持たなければならないだろう。
 こうして一言で言うなら、郵政合同労組の十年の歩みは、「環境と人権、地域共闘」だった。もちろん地域共闘に貢献したなどといっているのではない。地域の仲間に学び、支えられた十年であった。
 
どのような運動を目指すのか
 
 郵政合同労組が、次の十年をどのように闘おうとするのか、それは十周年記念集会そのものが示していた。それを夢ではなく、現実へ一歩でも近づけるためにどう闘うのかの輪郭だけでも、佐々木氏の講演から学ぶことができたのだと思う。
 フランスを中心としたヨーロッパ労働者との国際的連帯を、反失業、反基地の七月沖縄労働者サミットの実現を微力ではあれ全力で取り組むことから始めたい。
 次に私たち自身の問題である。行政改革に名を借りた規制緩和、郵政民営化が目前に迫っている。すでに省庁再編という形でレールが敷かれているが、まず二〇〇一年一月六日郵政事業庁へ、さらに二〇〇三年には国営の「郵政公社」というスケジュールである。公務員を削減し、公共サービスや福祉を営利目的化するところに狙いがあるわけだが、その犠牲は国民と働く労働者に転嫁される。
 詳細は省くが、すでに「民営化」に備えた様々な施策が郵政職場では展開されている。
 郵政合同労組は、国民のための郵政事業の確立、すなわち郵政事業の公共性の防衛のために民営化(公社化)に断固反対する。
 しかし三十名の組合で「民営化阻止」などと大言壮語は言わない。彼我の力関係からすれば、受け入れる覚悟もしなければならない。しかし私たちは、パート労働者や下請け労働者も含む郵政現場の労働者とともにあり、苦楽をともにしていく。
 十の攻撃には、十の反撃を組織する。
 まさしく、「柔軟に、かつ大胆に!」
 最後に記す。レセプションの中で、一人の組合員がこう述べた。
 「真理は我にあり。これからも自信をもって郵政合同でやっていきたい」と。
  (二〇〇〇年三月九日)

連載 その三                                        
環境社会主義と労働時間短縮
「持続可能な成長」とは何か

                                  神谷 哲治


第3章 生産力主義
1 マルクス主義の「欠陥」
 これまでマルクス主義は、環境問題に熱心に取り組んできた人々からは一般に不信の目で見られてきた。そこには何よりも、ソ連をはじめとするこれまでの労働者国家の悲惨な状況という現実の根拠があった。民主主義の欠落のみならず、そしてそれをも重要な理由とした環境破壊のすさまじさがそこにはあった。しかし問題はそこにはとどまらない。
 マルクス主義の歴史把握の基礎にある「生産力の発展」という考え方が、「生産力主義」として思想それ自体が問題とされる。労働者諸国家の環境破壊も、社会主義の基礎としての「高い生産力」を追求するマルクス主義の思想それ自体が生み出したものと把えられる。生産拡大を至上のものとして追求するという点で、マルクス主義は資本主義と同類であるとみなされるのである。
 このような批判についてわれわれは真剣に受け止めなければならない。労働者諸国家において現実に起きたことには、多くの点でスターリニズムに責任がある。しかし思想としてのマルクス主義、あるいはそのわれわれの理解の仕方にそれを助長するものがあったことを否定できない、と私は考える。
 私は一人の労働者活動家であり、マルクス主義思想発展の歴史を詳細に跡づけて上記の問題に応えることはまさしく手に余る。従って本稿では、われわれの理解の仕方の問題に限って、あえて問題を提起してみたい。

2 生産「量」への偏向

 生産力を字義通りに把えれば、生産の「能力」であり、結果としての出力、産出量そのものではない。しかしマルクス主義の名において主張されたものの歴史的現実においては、実際上生産力は上記双方の意味において機能してきたように私は考える。「能力」とは把え難いものであり、多くの場合、現実には「結果」から事後的に把えられる。従って生産力も実際に即して考えようとすれば、結果としての「生産量」が直接の対象となることはある意味でやむを得ない。そして概念としては別個のものであるとしても、現実化したものを区分けすることは必ずしも容易ではない。
 しかしこのことにわれわれは十分自覚的であったわけではない。こうしてわれわれは、労働力や資源、原材料の投入をむやみやたらに拡大することによって嵩上げされた旧ソ連や中国の生産量を、安易に「生産力の高さ」と同一視する誤りを多く犯した。もちろん、労働力を含む経済的諸資源の存在そのものを生産能力の構成要素と考える見方もあろう。しかしそれはあくまで、結果としての生産量の高さを重要視した観点である。後にみるように生産の「能力」とは、結局人間の能力、社会的諸関係を介して発揮される人間の社会総体としての能力である。
 その点からみれば、「量」としての経済的諸資源はあくまで生産の素材であって「能力」とは異なるというべきである。
 われわれには確かに、結果としての生産の高さに無自覚にとらわれる傾向があったというべきである。

3 思想的根拠

 しかし、このような傾向を助長するものは、マルクス主義の歴史発展把握にも論理として内包されていると私は考える。マルクス主義では歴史の革命的発展の必然性を〈生産様式が生産力発展の桎梏となる〉という関係に集約する。これは論理として、革命の課題を「生産関係の止揚による生産力発展の解放」とすることである。
 もちろんここでも問題は「生産力の発展」であり、「生産」の発展ではない。しかしこの区分けに無自覚であれば、上記の論理のもとで、われわれは容易に生産拡大至上主義者になり得るだろう。
 しかも悪いことにわれわれは「搾取の廃絶」‖「商品生産の廃絶」という「夢」をあまりにも容易に、あるいは単純に「極めて高い生産が分配問題を実質的に解決する」という論理に結び付けてきたきらいはないだろうか。これは理論というよりは、われわれ活動家の急進的なある種の心性、漠とした未来観には違いなく、それは確かにあったと私は考える。そして、そのような夢を確かにトロツキーも共有していたのである。
 「共産主義の物質的前提は、人間の経済力の高度な発展――すなわち、生産労働が重荷や苦痛であることをやめ、いかなる鞭も必要としなくなり、一方生活用品は常に豊富にあるため分配にあたっては(今どこの富裕な家庭や『上品』な寄宿舎でもそうであるように)教育、習慣、世論による統制以外の統制を必要としないというほどの高度な発展でなければならない」(藤井一行訳「ソ連はどこに〈裏切られた革命〉」48頁。窓社)
 われわれの、そしてマルクス主義の「生産力主義」には、われわれの心性と共鳴し合う形で無限大的生産へとひきつけていくある種の思想的根拠があったと考えるべきである。

4 市場との対話

 上述したわれわれの「心性」の基底にあるものは、マルクス主義の伝統における市場の「軽視」と一体なのではないだろうか。資本主義の下で生活しているわれわれは、現実の生活財の分配を基本的には市場以外で実現できない。われわれはそれ以外の分配を直接的経験としてはほとんど知らない。希少な経済資源の分配と再生産を組織するうえで、われわれが経験的に手にしている現実の素材はいかに欠陥があるとしても今のところ「市場」以外にはないといってよい。
 しかしマルクス主義は、この市場の供給と分配を規定する機能の作動についてこれまでどれだけ踏み込んで把えてきたのだろうか。市場社会主義学派を除けば十分に研究されてきたとは思えないのである。そしてわれわれトロツキストにとって、市場社会主義学派は遠い存在であった。
 剰余価値の奪い合いを通じて資本活動にダイナミズムを与える場として、その側面の市場をリアルに把えたマンデルも、資源分配との関わり合いでは抽象的、概括的な把握にとどまっている。
 少なくともわれわれが知っているマルクス主義理論は今のところ、分配問題に現実的に接近する手掛りをわれわれに与えてきたとはいえない。しかし先人たちがその問題と真剣に格闘しなかったわけではないのである。
 それこそ旧ソ連のネップ期の取り組み、そこでの激烈な経済論争であり、旧ユーゴ、また現在の中国である。しかしこれらの取り組みにおいて、具体的に何が問題となり、どのような解決が模索され、また理論としてどう整理されようとしたのか、これらの多くはスターリニズムによって隠された。
 中国の現在についても、本当のところをわれわれはほとんど知ることができない。
 しかしわれわれは、もはやそのようなところにとどまっているわけにはいかない。環境と調和する限りでの生産という全人類的なさし迫った課題は、少なくとも見通し得る将来にわたって、マルクス主義者に「極度に高い生産」という展望を放棄させるものだからである。そのことはすなわち、当面する時期における経済的諸資源の相対的希少性の承認であり、分配問題が第一級の課題となるということである。その課題に向かうためには今のところ、経験的には市場から出発する以外にない。トロツキーは、先に引用した箇所のすぐ前で次のような、彼独特のある種予言的な限定条件をつけていた。
 「マルクス主義は進歩の具体的原動力としての技術の発展というものから出発し、生産諸力の動力学の上に共産主義の綱領を構築する。もし多少とも近い将来に宇宙でのなんらかの異変によってわれわれの惑星が破壊されることになっていると仮定するならば、もちろん、他の多くの事物と同様に共産主義の展望をも放棄するほかないであろう。そうした危険性は今のところ疑わしいので、それを無視するとすれば、われわれの技術、生産、文化上のもろもろの可能性にたいして、いかなるものであれまえもって限界を設けるいささかの科学的根拠もない」(同上)
 われわれは確かに今、トロツキーが無視するとした、ある種の深い危機の前に立っているのである。しかしそれは人類の運命が定まっているということではもちろんない。まさに可能性に対して「前もって限界を設ける」根拠はない。しかしトロツキーが予見できなかった現実の、環境的危機という要請に対して、われわれの展望――あまりに楽観的であった――も必要な修正をすべきである。
 市場についての、具体的でしかし批判的視点を失わない探求の深化は、ヨーロッパの同志たちが先行しているようである。
 以下はカトリーヌ・サマリ(第四インターナショナルフランス支部)の『マンデルと社会主義への過渡期論』(トロツキー研究所『エルネスト・マンデル―その人と思想』所収)からの引用である。
 
 「社会主義の事業の目的は、たとえそれが未確定の事業であろうと、今日でもラディカルで明確なものにすることは可能である。その手段(組織化のモデル、これらの目的の実現方法、国有化の度合い、計画の役割と形態、通貨と市場の役割)は、その目的、経験、諸関係と関連づけて論じることができるし、論じなければならない。問題は、人間の要求をいかにして満たすことができるかでなければならない。その答えは、マルクス主義者が予測したものよりももう少し複雑なものだった」
 「市場の利用が、市場の背後で進行しているものに関するマルクス主義的アプローチを放棄したり、市場を中立的手段と見なす無邪気な見解を抱いたりすることを意味してはならない。そのような無邪気な見解は、市場の独裁を受け入れることにつながる。そのことは、私的所有がなお存在する資本主義的状況及び過渡期社会との関連においては、よりいっそう当てはまる。効率の異なるさまざまな基準が、市場及び価格を通じて相互に対立しあっている」
 
 われわれは、多分トロツキーをすら逸脱していた「市場機能をバイパスした社会主義」という漠とした「期待」を明確に転換しなければならない。マルクス主義には、真剣な市場との対話が要求されている。

第4章 労働生産性
1 労働生産性と生産力

 マルクス主義理論において生産力概念は極めて重要な位置をもっている。現実に度々言及され、また思考の重要な道具でもある。その概念に疑問が示されるのであれば正面から応えなければならない。その際の出発点は先にみたように生産の「能力」という観点と思われる。
 マルクス主義理論は、あらゆる生産物を労働生産物として把える。従って生産力、生産の能力という場合、それは人間労働の能力、結論的には労働生産性の問題に帰着するはずである。すなわちある労働量がどれだけの物量を生産できるのか、あるいはまたある生産物量を生産するためにどれだけの投入労働量が必要となるのかが中心的内容と理解すべきだろう。
 ただしマルクス主義が中心的に考えている労働はあくまでも社会的労働である。それは抽象的な個人、孤立した個人の行う行為ではない。また、生産力も社会総体に対応した概念である。従って生産力の中心内容を労働生産性と考えるとした場合でも、それはあくまで社会総体の次元であらわれるものであろう。生産物量なり、労働量なりは、社会総体において、その全体を通して機能している社会的役割に着目して把えられたものでなければならない。
 多種多様に存在する生産物と、そのための労働のあるがままの現実が即座に生産力を表現するわけではないと私は考える。例えば個々の生産物に関する労働生産性は比較的単純に指標化できるとしても(もっともこの場合でも生産物の品質的差異というやっかいな問題があってそれほど単純ではない)、それと生産力概念との間には、埋めるべき距離がある。
 そこに介在しているものは支配的社会関係の働きだと思われるが、そこにこれ以上立ち入ることは本稿の目的ではないし、また私にそのための素養はない。
 しかし少なくとも、労働生産性をその中心内容とした場合、生産力概念はその発展の中に人間の社会的労働量の削減、節約という歴史的展望を含意している。またそれが重要であると私は考える。そして人間の全的解放を展望しようとするマルクス主義にとっては、生産力概念のこの含意こそが本質的なのである。

2 労働量
 さてその場合、労働量とは何かが問題となる。そこでのポイントはわれわれが考える労働とは社会的労働だという点にある。それは社会的諸関係を通して相互に結びつき、そのような形で社会に組み込まれ、そして総体として社会を全般的に支え、総体として有用なものとなる。その意味ですべての社会的労働はその具体的形態を問わず社会的に不可欠なのであって、まさにその不可欠性という本質的意味において等質なのだと私は考える。
 だからこそ社会的に測定されるその量は、それが実際に費やされた時間という普遍的で客観的な量的指標に還元し得る。どのような労働であれ一時間の労働量は、それが社会を機能させる不可欠の要素として現実に組み込まれている限りで、社会的労働量としては等量と考えるべきなのである。
 ところで資本の労働量把握はこれと異なるであろうか。彼らが「理念」として語る場合は確かに異なっている。労働量は個々にその「価値」が異なる、従って時間は等質ではないと彼らは語る。その立場に立って彼らはわれわれに賃金の「格付け」を押し付けようとし、「労働の価値」に見合った合理性として正当化しようとする。しかし彼らが社会との関係で、すなわち市場で実際に振る舞うとき、その現実の立場は事実上、私が述べた「等質労働時間」に限りなく近くなっている。
 市場価格をめぐる彼らの闘争は最終的に生産原価の問題なのだが、それは総工数、すなわち商品生産に要した総労働時間の問題に尽きるといってよい。市場価格は結論的に社会的平均の相場化された総工数水準、そしてこれまた相場化されている平均賃金水準を基準に決定されるからである。その場合、そこに実際に投入された労働の、彼らのいう差異などは事実上消しとんでしまっている。個々の資本家、あるいは経営者が主観的にどのように考えようとも、実際には労働が社会において機能し、従って社会的に評価され、それ故結局は区別しようのない等質的な時間として尺度化されるという現実は変えようがないのである。
 ところで私が先に述べた「等質労働時間」という立場は、多分マルクス主義理論の正統的把握とは異なるものである。その場合には社会的平均的労働生産性が価値基準であり、実際の生の労働時間の価値をそこからある比率で乖離したものと把えるからである。しかしこれは労働者にとってあまりありがたくない。先に述べた資本の理念的立場と闘争する際、われわれの立場を観念の迷路の中で混乱させかねないからである。何よりも私は、集団的に相互に結合して労働し、その集団的成果として生産物が誕生し、また社会的結合の中でそれらが最終的に消費されていくという社会的労働の現実に立つ限り、その一部を担う者として、先の立場に立つ。そしてこの立場は現実の資本主義にアプローチする場合、マンデルの理論枠組みにおいては十分に機能していることを後にみることになる。
 いずれにしろ、マルクス主義理論において労働量は、終極的に労働時間に還元される。それは資本の実際の取り扱い方でもあり、マルクス主義の勝手な主観ではない。
 それ故、前節で述べた生産力の発展の含意は、最終的に労働時間の削減、節約以外ではない。そしてこのような展望に立つ限り、マルクス主義者と、いわゆる環境派の人々を分けへだつ、生産力概念に発する垣根は相当に低くなると私は考える。

3 トロツキーの議論
 トロツキーにおいては、生産力を労働生産性から把える観点が相当に明瞭である。彼にとってこの問題は、抽象的な理論の問題ではなく、現実の経済建設をめぐる文字通り旧ソ連の死活をかけた問題であった。最初にネップへの転換の必要性を認識したトロツキーにとっては、資本主義後の過渡期の経済的諸問題の中心に労働生産性の問題があった。
 一九二〇年代初頭以降トロツキーは一貫して労働生産性を上昇させることの重大性を訴えている。彼にとって、世界資本主義に包囲され孤立した労働者国家ソ連邦という現実が意味するものは、ソ連邦の命運が結局のところ世界資本主義の安い商品(すなわち世界資本主義の相対的に高い労働生産性)によって決せられること以外ではなかったのである。
 「現在の力関係は成長の動力学によって規定されるのではない。それは物質的蓄積、技術、文化、そしてなによりも人間労働の生産性に表現される両陣営の全力量の対比によって規定される。……軍事干渉は危険である。しかし資本主義という軍隊の輜重で運ばれる低廉な商品の干渉はそれとは比較にならないほど危険であるだろう。……ソヴェト体制の力は究極的には、労働の生産性――それは商品経済にあっては原価と価格に表現される――によって測られることになる」(同上)
 残念ながら、ほぼ五〇年後にこのトロツキーの警告は現実のものになってしまった。
 このような切迫した現実問題に即して議論を展開したトロツキーにおいては、ある種抽象化された理論枠組みの形で生産力を論じる機会はむしろ少なかったかもしれない(ある同志から「文化革命論」で論じていると教示されたが、時間の関係でまだ確認していない)。しかし次に示すトロツキーの言明は極めて明瞭である。
 「だが社会体制の生命力を決定するために本質的に重要で基本的な問題がある。われわれはそれにまだ今まで全くふれてこなかった。これは、その経済の生産性、つまり、たんに個人の労働の生産性ではなく、全体としての経済体制の生産性の問題である。人類の歴史的な上昇の核心は、まさにより高い労働生産性を保証する体制がより低い生産性をもつ体制と交代するということにある。資本主義が古い封建社会と交代したのは、人間の労働が資本の支配のもとでは一層生産的だからにすぎない。そして社会主義が資本主義を完全かつ最終的に征服するだろうという理由は、社会主義が資本主義よりも人間労働力一単位あたりではるかに大量の生産物を保証するだろうということにほかならない」(藤井一行/志田昇訳『社会主義と市場経済』所収の「コミンテルン第四回大会報告」47頁。大村書店)
 上記引用中でトロツキーが「労働の生産性」と表現している部分を、従来われわれは多く、ほとんど生産力、あるいは生産諸力と言い慣わしていたように思われる。
 さてトロツキーは、現実の生きた経済との格闘、すなわち現実の市場との格闘の中で彼の観点を練り上げている。その事実に立つならば、彼の労働生産性認識が深いところで市場の問題と関係し合っている可能性を考えないわけにはいかない。私は先にわれわれにとって市場は極めて現実的で重大な課題となったと主張した。トロツキーの議論は、それが労働生産性の問題にとっても意味をもつことを示唆していると私は考える。スターリニズムが隠してきた二〇年代の経済論争はわれわれが真剣に学ぶべき素材ではないだろうか。

4 マンデルの場合
 戦後の第四インターナショナルを実質的に指導してきたマンデルはどう考えていたのだろう。膨大な彼の著作の内、ここでは「後期資本主義」の中で言及している部分をいくつか紹介する。
 「このことに関連して、マルクスが資本主義的生産様式の課題を生産諸力の量的に無限の発展の中でではなく、この発展の一定の質的な諸結果の中でみたということが想起されねばならない。……これらの質的な結果が達成され実現されれば、資本主義はその歴史的課題を充足し、社会主義に対してその関係は充足する。すなわちブルジョア社会の敗北が始まる。それにもかかわらず生産諸力がさらに発展するとしても、そのこと自体、完成された歴史的使命の事実を少しも変えるものではない。たしかに事情によっては、生産諸力の量的発展の継続は質的成果さえも危険にさらすかもしれない」(『後期資本主義T』241―242頁、柘植書房)
 ここでマンデルは、生産力概念を、量と質の二側面で表現している。しかしその分別については明瞭に認識され、かつ生産力概念の本質的意義を質の問題であるとみていることは明白だろう。
 ところで質とは何かは、この引用の限りではわからない。しかし「後期資本主義」での議論全体をみれば、それが労働者の文化的、精神的発展、最終的に「疎外」からの解放に収斂されるものであることは明白である。そして「疎外」からの解放における基礎的条件としてマンデルは、労働時間の抜本的短縮に重要な位置を与えている。そうであれば上にみた質の問題は、労働生産性の問題を抜きに考えることはできない。次の引用がその関係を示している。
 「人間の合理的な欲求充足と個体の最適な自己発展とを考えてみた場合、労働生産性という基準こそが、さまざまな社会体制を比較考察する手段を提供してくれるのである。この基準がなければ、人間の進歩という概念も、唯物論的基盤を失ってしまうであろう」
(後期資本主義V」125頁)

 マンデルの考える「質」は内容的に広がりがある。それは現代のわれわれが求めるものが込められたものであり、それ故正当である。しかしそれは労働生産性の上昇という基礎を必要とするのである。
 なおマンデルは、先の引用のすぐ前の部分の「注」で次のマルクスの言明を示している。「現実的経済――節約――とは、労働時間の節約にある。最低限の生産費への切り詰め。しかし、この節約は、生産力の発展と同じである。」(『経済学批判要綱』(草案))
 マルクス主義における生産力概念の本質をなすものをどのようなものと考えるべきかは、明瞭である。少なくとも結果としての生産「量」に偏向した認識は明確に改めなければならない。

5 自由時間の抜本的拡大か、商品の爆発的増大か
 マルクス主義における生産力概念をこのようにみてきたとき、それは環境的要請と何ら矛盾するものではない。それどころかそれはわれわれに、歴史展望としてより積極的な道筋を指し示している。人間の合理的欲求充足の観点から商品のあるいは生産物の無制約的増大に不安をもち、「生活の質の改善」を求める現代の次第に高まる新たな要求に、労働時間の抜本的短縮とその継続的進展という基盤を与えるのである。
 労働生産性の発展が何をもたらし得るかは、ある意味で単純である。それはマルクス主義であるか、それともブルジョア的思想であるかで変わるわけではない。
 第一は、投入労働量水準が維持、あるいは上昇する場合、生産物量は爆発的に増大する。
 第二は、投入労働量水準を抜本的に切り下げる場合、生産物量は抑制された増大の水準にとどまる。
 われわれは今、上記二方向のどちらを選択するのかを迫られているといってよい。歴史的必然として片方しか開かれていないというような根拠は何もない。そして「持続可能な成長」の意味するものが第二の方向にあることは、あまりにも明らかであろう。資本主義的生産は第一の方向を全力で駆け抜けてきたのであるが、それは方向転換できるだろうか。
 私は次章以下でそれが絶望的に困難であること、可能であるとすれば、失業という形態の総投入労働量削減でしかないことを示すつもりである。しかしそれでもブルジョア的翼の一部は、「人間の欲望」を理由に第一の方向以外は結局は「ユートピア」でしかないと主張するだろう。しかしそれは、資本主義が世界体制となったという現在から、過去や資本主義とは異なる文化を、資本主義社会で生きている支配的な価値観、すなわち商品量の多さを善とする価値観で一元的に塗りつぶし、再構成した歴史認識にもとづくものでしかない。それは結局のところ資本主義システムの歴史的正当化、ついに到達した究極の体制として考えたいとする願望以外ではない。
 事実の問題として、資本主義以前の人間の歴史、地球上に数多く存在してきたさまざまな人間社会すべてを、第一の方向での発展として一括して把えることはできないはずである。
 わずかずつでも進展した労働生産性上昇の成果が、休息時間の拡大や、楽しみのための時間、また「神」のための時間創出として、つまりは時間の創出として「選好」されたふしは多分にあると私には思える。いずれにしろ商品に対する尽きることのない「欲望」というある種の決まり文句に堅固な根拠があるわけではない。
 一方、マルクス主義は明らかに、先にみた基本的方向選択において、社会的労働時間の抜本的短縮という具体的目標を掲げて、第二の方向への首尾一貫した推進力を与えることができる。そして社会的労働時間の抜本的短縮が、今では社会の圧倒的多数を占めることになった労働者の自由時間を大幅に増大させることと同意義であることも自明である。それはまさしく社会を現実に大きく変えていくであろう。この点については本稿の最後で考えてみるつもりである。しかしこのような展望が、人類進歩の普遍的内容に沿うものであることは誰も否定できないと思われる。

第5章 資本主義と労働時間短縮〈T〉
1 資本主義の拡大再生産
 資本主義的生産は利潤を目的に展開する。
 また、その利潤の大半がさらに次の生産に追加的に投入される。これらのことはすべての人が了解していることであろう。
 しかしそうである限り、生産額は必ず資本額より大きくなければならない。それ故上記の了解は、資本額も生産額も資本主義下では「永遠」に増大していくであろうということを示唆するはずである。あるいは、資本主義的生産はその内部に拡大再生産を永遠の自己目的化させた論理を内在させているといってもよい。そうであるならば、資本主義的生産と「持続可能な成長」との間には本質的な不調和がひそんでいることになる。
 マルクス主義者はそのことを全く確信しているが、しかし上記の範囲ではあまりに抽象的、形式的な立論であろう。従って本章と次章で、資本主義的生産の実際の展開に即して上記に示した論理の働きをみてみたい。
 本章では先ずブルジョア的理念の展開に即して考えてみる。
 そして次章では、本章でみるブルジョア的価値判断の展開をマルクス主義的に把えた場合、すなわちブルジョアジョーの主観的行為の客観的意味を示してみたい。
 
2 生産の停滞と大失業
 生産の総体的抑制が資本主義という土台の上で行われる場合、何が起こるのかを考えるとき、先ず実際に起こったこと、起きていることから出発するべきだろう。
 さて一九七〇年代後半以降の世界資本主義全般が長期の低成長を経過していることは誰もが認める事実であるが、この「低成長」こそ、理由はどうであれ生産が総体として抑制された状態を示すもの以外ではない。そしてここで起きていること、今われわれが目撃あるいは日々体験しているものが、冒頭でみてきた大失業なのである。大失業という形で、社会の総投入労働時間が削減されている状態といってもよい。
 この事実はまた、生産にしろ、労働時間にしろ、いわゆるマクロといわれる総計的数字のみを基準に物事を考えることの、普通の人々にとっての無意味さを示している。逆に特権的に富裕な人々にとって、それがまことに有意義であることはすでに第二章でみてきた。
 さて、このような生産の停滞と大失業の結びつきは何も特殊な事例でない。資本主義の歴史の中で繰り返されたある種「法則的」結びつきであることは常識の類いである。
 この事実は、労働者にとって不吉である。環境的要請であるとはいえ、「持続可能な成長」すなわち、ある種の生産の総量的抑制は失業を予感させる。まして「持続可能な成長」がマクロのレベルでのみ議論されるのであれば、労働者の警戒の念は一層高まるだろう。
 いわゆる赤と緑、労働者運動と環境保護の運動の間に長い間横わたっている相互不信、ある種の越え難い溝には客観的根拠があるというべきである。この溝に対して労働者の環境意識の低さのみを責めるのであれば、それは労働者に対して不当である。環境のための殉教者になることを労働者に強制する権利は誰にもない。地球環境保全と大失業の組合せという不吉な予感をこそ、根底的に払拭すべきでなのである。
 それは今まさに、赤、緑双方で具体的に追求されなければならない。私はその鍵が、資本の利潤を部分的にでも犠牲にした、労働時間の抜本的短縮を双方で共に追求する運動にあると強調したい。

3 ブルジョア的価値と商品量増大
 資本主義社会における価値あるいは富観念の実体をなすものは、端的にいって諸商品の量である。各商品には価格がつき、極めて高額な商品もある。しかし「高額」であり得るのは、その商品が他の数多くの商品と多様に潤沢に交換できるからに他ならない。「高額」さは、それに見合う大量の商品によって支えられている。現代においては、例えば「金融商品」あるいは「情報」など物的実体をもたない「価値」が登場している。それを理由に、環境的負荷を心配することなく「価値」生産の拡大が可能であるとする議論も、ままみられる。
 しかしその「価値」が現実的意味をもつためには、いずれかの時点で他の商品と交換されなければならないことは、先にみた「高額」な商品の場合と何ら変わることはない。
 ブルジョア的価値の増大とは、結局は物理的実体をもつ大量の商品によって支えられる以外にないのである。
 この価値が理論として抽象されたものが「効用」という概念であろう。この概念は極めてあいまいな「ぬえ」のようなものというしかないが、実際に機能する場合は結局諸商品の量、さらにその一般化された形態としての貨幣量でしかない。
 ところでこの諸商品は、画然と個人間に分割、領有され、誰の干渉も受けることなく自由に処分できる私的に所有された商品である。この私的に所有された商品を各人が自由に交換し、最大の効用を、すなわち以前より多い最大の商品量を得ることが人間の最も「合理的」な行動基準だとされている。
 このブルジョア的価値理念とブルジョア的「合理性」が、その内に商品総量を不断に増大させようとする論理と衝動をはらんでいることは容易にみてとれる。そしてこの衝動は、すでにみた「パレート最適」という形の産出極大選好理論として、ブルジョア経済理論を支える基礎的理念に洗練され、それがまたその衝動に社会的認知を与えることになる。

4 供給増大を現実化する論理
 さて前節にみた商品量増大へ向かう衝動は、どのような具体的連関の中で現実化することになるのか。
 図―3は一般的な商品の価格構成を大枠的に示したものである。ここではあくまでブルジョア的論理の展開を考えているから、図が示すものはすべて価格である。ここでCfは生産設備等の固定資本減価償却費、Czは原材料、エネルギーあるいは通信、輸送等に振り向けられた購入費用、Vは労働者の人件費、そしてMが利益である。これらすべては、ある企業が生産する商品一個あたりのものとする。
 ブルジョア経済学的には(V+M)が付加価値であり、これをある地域のすべての商品(金融、サービス、また労働者を雇用しない自営業者の分まで含めて)について合算すれば、その地域の総生産となる。
 さてTを労働生産性上昇以前の状態、U、Vはその企業が何らかの方法で労働生産性上昇に成功した状態である。ただしUは労働生産性上昇に応じて生産を増大する場合、Vは何らかの理由で生産を増大できない場合である。
 Uの場合、競合他社の分も合わせたこの商品供給総量は一般に増大し、価格は低下する。
 しかしその価格の低下度合いは、当該企業の増産率に比べれば一般に相当に小さい。その理由は第一に、総供給量増大率は当該企業の増産率よりもほぼ確実に低く、しかも競合他社が多ければ相当に低い。第二に価格低下がこの商品に対する新たな購買者の市場算入を生み出す、つまりこの商品に向けられる貨幣総量が増大する。
 他の理由も含め当該企業は、自己の増産にもかかわらず比較的高い価格で売ることができる。
 逆にその見込みがなければ増産はできない。
 一方この企業では、増産により、労働条件を変更していない限り、増産率に反比例してVが低下する。一方(Cf+Cz)はどうなるか。普通、生産設備は高額化するから総減価償却費も高くなる。しかし増産によりCfの上昇は相対的に抑制される。Czの変化は論理的にはないはずである。しかし経験法則的には増産と共にスケールメリットが働き、設備、原材料等の使用効率は格段に上がる。また購入効率も上がる。従って一般には増産により(Cf+Cz)はかなり低下する場合の方が圧倒的に多い。これがUで示した図である。
 つまり利益Mが顕著に増大するのである。競合他社に先駆け労働生産性上昇に成功した個別資本は、それに見合った増産により顕著に利益を膨らますことができる。しかしその裏側では、競合他社が従来得ていた利益は価格下落分確実に減少する(凾l)。この関係の存在こそ、労働生産性上昇に向けた果てしない競争、激しい技術革新を生み出す資本主義市場の働きに他ならない。いわば市場が利益の奪い合いの場になっているといってもよい。
 しずれにしろ、TからUへの移行が連続的に、また全資本に広がって展開し得るならば、資本総体として利益を増大させ、またその一部が賃上げや雇用増大へと回り、同時に一般的な物価低下(実質)、すなわち生活水準の全般的上昇という好循環が生まれるだろう。ただし、この循環が商品総量の急速な増大によって支えられていることは、上にみたメカニズムが明らかに示している。この循環はいわば資本主義の黄金期であり、先進資本主義諸国の戦後拡大期に共通してみられたものである。

5 生産停滞下のブルジョア的合理性

 ところがVの場合は事情が異ってくる。まず当該企業の生産に変化はないのであるから総供給量も変化せず、商品価格も基本的に維持されるはずである。一方、雇用と賃金が維持されているとすれば、Vも変わらない。この場合、労働生産性は上昇しているのであるから、実際に投入された総労働時間は減少している。それは就業規則上の時短であるか、または実際には労働していない「就業時間」(ブラ勤あるいは社内失業)の創出のどちらかである。
 さて新しい生産設備は、競合他社に先駆けた、その意味で社会的には流通していない当該企業向けの「特別仕様」で製作されている。
 しかし、この設備の生産は、一般には競合他社向けの設備生産と同一の技術水準でなされる以外にはない。だから全く新規の仕様、未経験の仕様という条件は、この設備生産の労働生産性を確実に低下させる。さらにその生産数量も標準仕様品に比べ相対的に少ないから、今度はスケールデメリットが働く。こうしてCfは確実に上昇する。従ってこの場合にMを大きくするためには、Czを大幅に切り下げるしかない。それが実現できなければ、利益増大どころか利益維持すら不可能である。
 Czの大幅低下は普通、原材料、エネルギーを従来とは別の低価格のものに転換できなければ不可能である。低価格であるということは、その原材料やエネルギー生産の労働生産性が平均より相当に高く、さらに他の商品分野も含め広く流通し、大量に供給され得るということに他ならない。これは相当な抜本的な技術革新を必要とする場合であり、そう度々簡単にできることではない。
 こうして増産が抑制された条件の下では、労働生産性の上昇が個々の資本に利益増大をもたらす可能性はかなり限られたものになる。
 何としても増産に打って出るか、それともVの圧縮、つまり解雇あるいは賃下げを強行するかが迫られる。
 このVの場合に働く論理は、一九七〇年代後半以降の世界資本主義における各個別資本の動きに明瞭に示されている。ここにおいては理由は別として、紛れもなく総体的増産は抑制されているのである。もちろん、そこにおいても個別資本は増産できる。その限りでその資本はUの場合の論理により、労働生産性の上昇を自己の利益増大に転化する。しかしその場合、それは競合他社への売れ残りを生み出さざるを得ない。
 その結果、競合他社のCf、Cz、Vは確実に高まり、利益は激しく低下する。販売競争が激化し価格は一層低落してゆくが、全体の供給増大が可能とならない限りは労働生産性を上昇させられない資本は致命的な状況に立ち至る以外にない。
 この局面においても、労働生産性上昇に向けた資本間の競争は、まさに生き残りをかけた闘争として激しく展開され続けられるはずである。先にみたように、遅れれば致命傷になるのである。資本の選別と淘汰、すなわち資本と生産の集中が急速に進む。しかし供給総体は抑制されたまま総体としての労働生産性上昇が続く。

 もちろん供給増大抑制そのものを打ち破ろうとする挑戦は行われる。その一つは、「パレート最適」論理の貫徹、すなわち自由市場化の追求である。この推進者たちが「サプライサイダー」と呼ばれていたことは記憶に新しい。それは、とりわけ一部の特権的な層にしか意味をもたないのだが、マクロにおける「極大生産」の条件が追求される。
 もう一つは、全くの新類型商品、今まで市場に供給されたことのない型の商品の創造である。今まで市場に存在していないのであるから、供給抑制もこれらには作動しないことが期待されるわけである。これらの現代の代表格が情報と金融であり、二十一世紀のリーディング産業として大いに喧伝されている。また、これらの部門が総体においては、他部門との比較で大いに活況を呈していることも事実である。
 しかしそれにもかかわらず、またこれらの「新商品」群が登場して相当の年月が経過したにもかかわらず、世界資本主義総体の停滞的状況、とりあけ多くの人々の生活向上という側面の停滞が変化しているわけではない。せいぜいアメリカ一国が「繁栄」を謳歌しているのだが、その社会的実情が七〇年代初頭以前とは相当に異なることもまた明らかなのである(前掲「朝日新聞」報道)。
 先にみた「新商品」群が、いわば「雁行」的に、生産全般を引き上げる構造、そのような全体的関係を作り上げることができていないということなのである。私は、ここにはこれらの商品の性格そのものに内在する客観的要因がひそんでいる、と考えている。ただその問題は、本稿の範囲から外れるのでこれ以上立入らない。
 さて、状況がそうであれば資本はより集中して、CzとVの削減に向かう以外にない。
 しかしVの削減に対する労働者の強力な抵抗が保持されている初期の局面では、Czの削減に向けた努力がより先行するだろう。省エネ、省資源努力と共に、原材料、中間材生産の産地転換が進められる。地域毎の生産性格差や、何よりも巨大な賃金格差、労働条件格差が、Cz削減の確実な手段となるのである。
 日本においてはさらに特別な条件が付け加わる。中間材生産が、完成品生産資本と下請け関係にある中小零細企業によって主要に担われているという条件である。これが日本では、「市場外強制」、要するに無理難題の押しつけによるCzの切り下げという特別の方策をも生み出した。
 しかしCzの切り下げのこれらの全体努力も、一定の規模まで進めばその有効性がなくなる。
 それが生産全般を規制する、標準化された生産条件となるからである。その結果、激しい販売競争を通じて、Czの切り下げは商品価格の低落の中に吸収されるだけである。
 従ってVの削減が結局課題となってくる。
 大失業の波、あるいは失業の恐怖を背景にした賃金切り下げの波が高まる。米英などのアングロサクソン諸国での失業率の低さが賞賛されている。しかしそこでは、賃金水準の低下と低位での停滞が続いている。要するにVの切り下げに変わりはない。資本にとっては同じことであり、失業手当支給などの「福祉経費」が削減できる分、個別資本は別にして、総資本の観点では「米英型」の方が望ましいとの見方もあるかもしれない。
 労働生産性の上昇と総生産の抑制の組合せに対するブルジョア的合理性の回答は、結局総賃金の縮小である。労働者階級の生活が脅かされるこのような展開を、労働者はいわば直観的に感得している。


総目次
第1章 はじめに
1 大失業
2 職の再配分
3 労働時間のスライディングスケールとワークシェアリング
4 再生産を撃つ闘い
第2章 持続可能な成長
1 総論賛成・各論反対?
2 やはり富の再配分が (以上連載1 118号)
3 「効率性」=極大生産
4 極大生産論の階級性
5 環境的要請と富の平準化 (以上連載2 119号)
第3章 生産力主義
1 マルクス主義の「欠陥」
2 生産「量」への偏向
3 思想的根拠
4 市場との対話
第4章 労働生産性
1 労働生産性と生産力
2 労働量
3 トロツキーの議論
4 マンデルの場合
5 自由時間の抜本的拡大か、商品の爆発的増大か
第5章 資本主義と労働時間短縮〈T〉
1 資本主義の拡大再生産
2 生産の停滞と大失業
3 ブルジョア的価値と商品量増大
4 供給増大を現実化する論理
5 生産停滞下のブルジョア的合理性(連載3 本号)
6 ブルジョア的「合理性」の限界
7 労働時間短縮とブルジョア的合理性
第6章 資本主義と労働時間短縮〈U〉
1 マルクス主義の商品価値
2 階級闘争の本質的役割
3 社会的必要労働時間?
4 市場交換と価値移転
5 平均利潤と超過利潤
6 資本主義の安定と加速度的生産拡大
 A 階級闘争と剰余価値率
 B 利潤の追加的価値増殖
 C 労働時間短縮と資本の価値増殖
 D 生産性上昇と超過利潤
7 環境と資本主義的生産の危機
8 労働時間短縮と「パイの論理」
9 新しい社会運動
第7章 市場の階級性
1 不変な市場?
2 市場の偏向
3 市場による資本配分
4 市場の、利用それとも改変?
5 環境的価値の価格化
6 商品化と社会的強制
7 環境的リスクの偏在と社会的分断
8 民主主義と「商品化」の矛盾
9 社会的規制と環境政策のコスト化
第8章 環境社会主義
1 過渡的闘争の時代
2 日本における特殊な壁
3 環境社会主義へ
4 民主主義
5 利潤への社会的統制
6 市場の諸問題
おわりにあたって
ブラジル労働者党大会報告
             社会主義をめぐる議論
                              カルロス・エンリケ・アラベ

修正案は一つ

 ブラジル労働者党(PT)第二回党大会で採決にふされた修正案はたった一つしかなく、それはPT内第四インターナショナル派の党員を含む「ノッソ・テンポ(われわれの時代)」潮流が提出したものである。
 この修正案は、PTの「民主革命」という穏健な綱領を越え、社会主義への過渡的な展望を指し示すものである。ノッソ・テンポ潮流は、住民参加の経験、とりわけPTが政府を掌握しているリオグランデ・ド・スール州と様々な領域で展開されている直接民主主義の経験をPT全体が学ぶべきだと主張している。修正案はまた、PTが関与する地方政府、州政府はより広範囲な転換を実現するための戦略的な目的を持つべきであると主張している。
 この修正案をめぐる議論が大会を分極化することはなかった。そして大会「多数派」と、「左派」を自称するPT内諸派の大部分も、修正案に反対した。その中のあるグループは、既存の党大会決議だけで十分だと主張した。また修正案は住民参加の経験、とりわけリオグランデ・ド・スール州の「住民参加による州予算の作成」の経験、その戦略的な価値を過大評価しているとも主張した。
 その他の「左派」潮流は、ノッソ・テンポの修正案は持続的、進化的な過程を通じて社会主義を実現する考え方であり、革命的な断絶、飛躍のための闘いを放棄していると主張した。

住民参加

 住民参加問題こそが、最も重要な論点であり、地方自治体や州政府に入るPTにとって具体的な政策を決める最も大切な基準なのである。
 ノッソ・テンポは、リオグランデ・ド・スール州で行われた住民参加による予算作成のような過程を実現することは、直接民主主義の芽を出させる可能性をもっていると主張した。また、こうした行動は、代議制民主主義の限界を克服する必要性をより強く実感させ、政策決定を行うシステム、組織をより新しいものへと転換させていく。
 国家というものを私的な利益を保証するのではなく真の公共財にしていくことは、その組織を構造的に転換していくことにかかっており、とにかく州をうまく、誠実に統治していくことだけでは達成できるものではないことは、完全に明白である。リオグランデ・ド・スール州の経験は、資本主義国家構造に参加することの限界を改めて確認させた。
 しかし問題は、リオグランデ・ド・スール州政府が実行している住民参加のやり方がPTがブラジルの他の場所で実践しているものをはるかに越えていることにある。多くの場合、PTが地方自治体や州の行政において主導権を握っている場合でさえ、住民参加は非常に管理されたやり方で実行され、実際上、行政あるいは首長に従属したやり方で行われている。こうしたやり方で行われる「住民参加」は、政治を民主化するという、その本来の役割をほとんど果たすことができない。本来の住民参加は、制限を伴う代議制民主主義という権力の基本メカニズムに変更を加えることなく左翼政府を正当化する、あるいは左翼のように見せかけるためのものではない。
 PT内のほぼすべての左派潮流は口を揃えて、ノッソ・テンポ修正案は、直接民主主義活動の戦略的な役割を過大評価していると述べた。この点における左翼内部の不一致は、権力問題に関する見解の違いに由来していると思われる。一部の左翼は、PT政府が実行した住民参加を、革命的な飛躍に向けた「力の蓄積」あるいは党の政治的、社会的な強化の一形態としか考えていない。
 つまり権力奪取という「栄光の日」の後になって初めて、直接民主主義が十全に導入されるというのである。だから、こうした考え方は当然、革命的な断絶、飛躍に導く戦略的な課題、任務というものを強調することになる。しかし、こうした断絶、飛躍という考え方は大多数のPT党員には欠けているのだから、ノッソ・テンポの修正案に他の左翼が反対する本当の理由が前記のようなものだとは考えにくい。
 PT内部ではるかに広がっている考え方は、PT政府の働きとはブルジョア国家を、その打倒を主張することなく統治することである、というものである。だから、われわれはこれまでに実践されたこと――とりわけ住民参加の諸形態や、住民参加が可能であり現実的な改革であることを現実の経験を通じて学んだこと――に満足すべきである。

準備の過程と飛躍

 PT内部の左翼潮流は、社会主義へ転換するためには革命的な断絶、飛躍が必要であるという点で一致している。この考えは通常、労働者階級の政治的、社会的な運動がその力をブルジョア支配を打倒し、ブルジョア国家を倒し「弾圧装置」を解体し、直接民主主義にもとづく新しい国家を創設する闘いに集中することとして理解されている。
 しかし、こうした力学、端的にいう革命とは、決して魔法でもなく、また偶然の出来事でもない。革命とは、すべての革命的な事態の歴史が示しているように、その瞬間までに、新しい権力あるいは二重権力を建設する準備過程があり、その準備の過程と飛躍の瞬間とが結合されているのである。
 多くの場合、全世界のほとんどの左翼は、飛躍の必要という大枠を主張するだけで満足しており、「最大限(社会主義)綱領」と「最小限(基本的に階級和解の枠組み)綱領」とを分かつ伝統的な考えを克服するための綱領建設を考えない。こうして「権力の問題」が自称革命党が全面的なヘゲモニーをもっているか否かの問題に矮小化される。
 換言すれば、過去の革命とブラジルにおけるこれまでの階級闘争とを批判的に検証すれば、その結果として、PT内部左派がノッソ・テンポ修正案を「進化主義」的だとする批判が的外れだということが分かる。
 ノッソ・テンポの修正案は、民営化に反対し、市場支配に反対し、経済の戦略的な部門(銀行と独占企業など)の(再)国有化を要求し、その国有化要求と国家に対する社会的な管理のシステムとを結合している。そして、この展望を協同組合活動、自治、資本主義的でない経済組織などの経験やイニシアティブとに統合することは、十分に可能であると強調している。
 このことは、土地改革、ことに土地なし農民(MST)の闘いや、経済的な格差拡大と失業とに反対する闘いにも関係している。修正案は、こうした闘いの重要性を主張し、ブルジョア政府に反対する行動の指針とすべく、これらを党の綱領に包含させようと闘っている。

(注)カルロス・エンリケ・アラベは、PT全国指導部(DN)の一員で、社会主義民主主義潮流(DS)の指導的なメンバーである。DSは、第四インターナショナルと連携しており、ノッソ・テンポ派の中心となっており、最近のPT党大会では一〇%の支持を集めた。

組織された人民の自治(ノッソ・テンポ修正案からの抜粋)

 われわれの民主的かつ大衆的な綱領は、組織された大衆が社会の経済ならびに政治を管理することに表現される社会主義の考え方に導かれる必要がある。社会主義は、資本主義市場とブルジョア国家――共産党宣言がいうところの「ブルジョアジーの共同事業を司る委員会」――とに疎外されている状態を変革し、人民の主権を確立することができる。
 このことは、資本主義市場とブルジョア国家とが占めていた場所を埋める新たな装置をつくり出すことである。そうした新しい装置は、労働者の自由な共同体、民衆の自律した民主的、主体的な活動に基盤をおかなければならない。
 われわれは、上からの社会変革を促進するだけ、そして国家機構が管理する形での住民参加を伴うような国家統制主義を望まない。われわれはまた、資本の所有者に有利な外的論理に人々の需要を従属させる市場支配を望まない。
 われわれの綱領は、人民の自主組織と国家および市場に対する社会的な管理をあらゆる形態で展開する必要がある。
 この数年間におけるわれわれの経験は、この綱領を具体的にしていくうえで極めて有効である。多くのシティホール、とりわけリオグランデ・ド・スール州の州都であるポルトアレグレでは、住民参加の前進がみられた。住民参加の方法を採り入れて政府を処置することが民主的かつ効率的であることが、示された。
 他方、市場に対する人々の管理(当然にも、市場を短期的あるいは中期的に廃止する意図をもたずに)を前進させる必要がある。市場に対する管理は、公的な有機的組織体によってなされなければならない。現段階では、このことは人々の統制に従う国家の各組織によってのみ実行されることを意味している。
 民主主義の観点からすると、国家の果たす広範囲な役割を資本主義市場に任せようとするのは無意味である。市場にゆだねると、人々の決定能力を大きく減ずることになる。民主主義に関しては、市場にゆだねることは逆行に他ならない。
 国家は、経済諸活動を調節する能力をもつ必要がある。そうすることによって国家は、民主的で人々に有益なプロジェクトを推進でき、社会的、地域的な不平等を確実に減らしていくことができる。この目的を実現するためには、経済のすべてを国家管理する必要はなく、戦略的に重要な産業を社会(国家)所有に移すことで十分である。
(電子版インターナショナルビューポイント誌2000年2月号)

EUは世界的な権力になれるか
フランソワ・ベルカマン

通貨ユーロの成功

 EU(欧州連合)各国の首脳が今年の後半、フランス(場所未定)で政府間会議(IGC)を開催することになっている。彼らは、非常に高い目標を設定している。つまりEUを世界的な権力にするという目標である。この目標達成に向けて、現在のEU構造を大きく改造する計画が練られている。
 換言すれば、EUの大河小説は継続しているのである。EUは、ある問題や状況を突破し、ついで危機に陥り、再び元に戻るといったことを繰り返してきた。そして、こうした危機は、超国民国家政治構造をつくり出すという計画を数年、あるいは数十年にわたって遅らせてきた。欧州防衛共同体の失敗、終了(一九五三―五四年)がすぐに想起される。一九九七年六月のアムステルダムにおける大失敗は、通貨ユーロを現実のものとするために必要とされる共通の目的を不明確にしてしまった。それでもユーロはどうにか実現した――少なくともある中央銀行の一員が述べたように「非常に幸運なつきに恵まれた」結果だとしても。
 バルカン半島で戦争が行われている間、アメリカは、EUに対して屈辱の上にさらに屈辱を与え、ヨーロッパ諸国間の統一を脅かした。明らかなことだが、EUの組織的な枠組みが解体しなかったのは、一九九九年一月にユーロが成功裏に登場できたためである。
 このユーロの成功と、EUとしての最初の集団的な戦争の遂行とが相まって、EUを固め、その前進を可能にした。一九九九年六月にベルリンで行われたEUサミットでは、制度的な目的の新しい意味が初めて明らかにされた。その歴史において初めてEUは、自らがグルーバルなパワー、世界的な権力であると宣言したのであった。

盛り返すEU

 EUが自らが世界権力になると宣言した理由は、通貨ユーロの成功だけにあるのではない。これ以外にも経済的な理由や、ことに政治的な諸要因が拡大EUに向けた自信を強めている。
 一九九八年秋にドイツにおいて社会民主党(SPD)が勝利し、緑の党と連立したシュレーダー・フィッシャー政府が出現した結果、EU首脳陣の高いレベルにおいて政治的、制度的に新しい状況が形成された。つまり社会民主主義潮流がEU全体を管理するようになったのである。世論調査において高い支持を得て欧州の社民党は、EU十五カ国の政府の内、十一カ国で政権を握り、十三カ国で政府に参加している。
 その結果、EUの閣僚級会議では社民党員が会議を事実上独占する形となり、スペインの右派首相、ホセ・マリア・アスナールは「第二インターナショナルの会議のようだ」と不満を漏らしている。欧州委員会でも、社民党が多数派のままである。欧州中央銀行の責任者も社民党側の人物だ。そして欧州議会では、キリスト教民主党と組んで支配政党となっている。
 こうした前例のない政治的に均質な状況は、ヨーロッパの資本家階級にも役立っている。資本家階級の諸政党は、一九九六―九八年にかけた選挙で大敗北を喫し、ユーロを実現するための新しい「欧州」のチャンピオンではありえなくなった。それどころか、ユーロ実現の過程においてこそ右翼諸党は、それぞれのやり方でアイデンティティ危機に陥ったのである。ユーロ問題は、フランスのゴーリストRPR、イギリスの保守党を引き裂いた。コールが主導したキリスト教民主党の連立政府でさえ、ドイツ労働者にネオリベラル的なユーロプロジェクトを強制的に押しつけようとはしなかった。
 他方、一九九〇年代の社会民主党潮流は、その親ヨーロッパ的、ネオリベラル的な信条に忠誠な態度をとり、ついに自らの出番がやってきたと感じていた。社民諸党は、新世紀に向けた平和的かつ秩序ある移行を実行するうえで決定的な役割を果たした。そして一部の国では緑の党の支持を受けて、労働者や青年たちを大きな困難なしに動員してバルカンの戦争を遂行することができたのであった。

東方世界への拡大:拡大ヨーロッパへ

 イタリア前首相プロディは「これから二十五年間で参加国を十五から二十、二十から三十へと拡大する」(ファイナンシャルタイムズ紙99年9月15日)と宣言したが、これはEU首脳陣の間における新しい合意に基づいての宣言であり、EUの東方世界への拡大に向けた再出発の号砲でもあった。
 彼は先ず、屈辱的な「待合室」制度をなくした。これは、EU参加を熱望する国が加盟につまずくのを眺める制度である。これに代わってEUは、加盟につまずいた諸国政府と交渉し、各国内の世論を鎮めるために一定の「承認」を与えている。参加の承認は、各国が加盟基準を実現できるかどうかだけで判定される。
 第二に、二十五年間(これは現代では事実上永遠に等しい)という期間を短縮し、各国政府や政党、知識人を数年にわたって引き裂いてきたジレンマを解消した――東方世界への(経済的)拡大を優先すべきか、それとも現存EUの(政治的)深化が先かというジレンマである。
 事実、EUが一九九七年六月のアムステルダム会議後の袋小路に入り込んだままで、ユーロの実現性に疑問がある限りは、問題は一つしかなかった。イギリスがユーロを採用する強い可能性、共同の防衛実現の見通し、通貨同盟の強化などと相まって、EUは実際上、より政治的になろうとしている――現行の諸制度を強化することを余儀なくされる限り。
 東欧の十ないし二十カ国が新しく参加することは、加盟基準を満足させ、建設中の資本主義の基本ルールを整備することを意味する。EUとの交渉や加盟候補国相互の交渉によって、EUと東欧諸国とのつながりが強められ、相互間の結合も強まるだろう。プロディは、すぐに参加承認を受けられない諸国は「事実上の加盟国」とみられ、加盟国と同様な扱いが実行されると述べた。それは、EUが成功した――通貨同盟や経済協力、安全保障や防衛での共同、EU機関におけるオブザーバーとしての地位――などの分野でとりわけ実行される。
 こうした政治的な「拡大」は、西ヨーロッパ資本にとって安定かつ平和な東欧市場を実現する狙いがある。その目的は、ユーロ圏と結合した膨大な単一市場を漸進的に創出することである。この目的に向かって、すでに計画が実行中である。EU(とりわけドイツ)が旧ソ連に代わって最大の貿易相手になったので、東欧諸国の貿易は増大している。一九九二年から一九九七年までの間に先頭を走る加盟候補国(ポーランド、チェコ共和国、ハンガリー、エストニア、スロベニア)に対するEUからの直接投資額は倍増し、第二グループの候補国(ルーマニア、ブルガリア、スロバキア、ラトビア、リトアニア)に対しては、ほぼ十倍になった。
 しかし資本主義への移行が非常に複雑かつコストのかかる過程であるという事実は、依然として残っている。旧東ドイツの実状が、このことを明確に示している。EUは、そのコストを負担する用意がない。その財政は小規模なままである。財政からの補助金支出はあまり重要ではないが、必要額をはるかに下回っている。アジェンダ二〇〇〇(二〇〇〇年から二〇〇六年にかけてのEU財政割当金)は、四百五十億ユーロをこれからの七年間における加盟候補十カ国の構造改革支援金として割り当てている。同じ期間に環境保護のために必要な金額だけでも、千億ユーロから千二百億ユーロになるとみられている。
 これは、社会の水準を高めることに焦点を当てて優先させるためのやり方ではなく、むしろ帝国主義的な領土の併合であり、これによって東欧地域を市場が支配して、その論理が事態を動かし社会全体の分散化、分断がもたらされるのである。その結果、地域戦争や社会的な激変がすでに起こっている地域が、さらに持続的に不安定になっていく。
 東ヨーロッパの衝突をコントロールするという主張が、EUの軍事的な自立の強化を正当化する口実になっている。この口実はまた、「EUの防衛強化、国境の軍事的警備の強化、「移民の動きの管理」強化」や国際テロリズムや犯罪と戦うといった強硬路線を正当化するためにも使われている。
 問題となっているのは、ヨーロッパ大陸の一部としてある領域の膨大な拡大である。この地域は、地中海からNATO東南側面(ロシア、コーカサス諸国、トルコ、中東)に囲まれ、国際的な敵味方関係が常に入り乱れている。だから、EUの抑圧装置全体を制御することを優先させる必要があるのだ。

国境を越えた対立、衝突

 油断は禁物である。EUをスーパーパワーたらしめるという夢からその実現まで、克服すべき多大の課題がある――とりわけ主要参加国相互の対立と資源不足である。
 主要な衝突は、地球規模で再編成されている資本主義と国際プロレタリアートとの間にある。EU内部の労働者階級は、失敗があったり、思想的な後退や階級とその運動としての構造的な弱体化があったにしても、最高に組織され階級意識が高く、最も政治的な勢力である。EUの力と栄光への願望に対する最大の障壁である。
 ドイツの有名な官僚で欧州中央銀行の理事である人物は、社会的に公正なEU(ヨーロピアン・ソーシャル・ユニオン)という考えを真っ向から攻撃して、今日のEUを分析する中で組織された労働者階級を「主要な敵」と呼び、刃を向けた。多くの新聞や雑誌は、ドイツ資本家と鉄鋼労働者との二〇〇〇年春の労使交渉がEUの所得政策、したがってユーロにとって決定的な要因になると指摘している。プロディは、欧州労働組合連盟の会議を訪問し、そこでアメリカとの競争の名において、さらなる「フレキシブル」労働を要請した。
 だがEUは現在、新しい段階に進もうとしている。EU国家機構の正統性そのものが、一種の政治的な権威の象徴としての職杖となっている。歴史的、文化的なアイデンティティが欠落しているため、外部の敵、例えば流入する難民やアメリカというものを呼び出す必要がある。
 EUとしてのアイデンティティの必要がさらに強くなった場合、アメリカとEUとの競争・対立関係はアメリカに対してEUを強化し、様々な闘いを鎮め、ユーロの安定性や軍事支出の増加、「われわれの」企業の競争力強化、「ヨーロッパ社会モデルの防衛」、「われわれの国境地帯やその他の地域における」人道的な介入などを要求する点で、この上ない口実となる。
 EUがスーパーパワーとなるという夢を実現できるか、あるいはそれがどの程度なのか――これは分からない。しかしすべての反資本主義、反帝国主義の勢力は、闘いをより高度な水準に高める必要がある。「彼ら」の具体的な政策一つひとつに反対していかなければならない。社会主義と国際主義によるEUとは別の展望のために闘っていかなければならない。そして今年後半にフランスで行われるEUの国際会議という次の機会に大動員を成功させるために闘おう
(電子版インターナショナルビューポイント誌1―2月号、原文はフランス語、抄訳)