2000年4月10日         労働者の力               第121号

森新内閣成立と自由党分裂
来るべき総選挙で自公保連立政権に痛打を


                     (1)
 
 四月二日未明の小渕首相(当時)緊急入院と病状の悪化を受け、森喜朗新内閣が成立した。新内閣は前人事をそのまま引き継ぎ、明らかな選挙管理内閣の性格で発足した。                                       
 他方、自由党の連立離脱、それに伴う党分裂、保守党の成立と連立残留の事態が進行した。小渕自自公連立政権が森自公保連立政権へと変わった。また自民党は新幹事長に野中を昇格させ、内閣官房を青木、党を野中という旧竹下派―小渕派が実権を掌握した。総選挙は六月から七月早々の投票と予測されている。                                              

                     (2) 
 
 森新内閣誕生のイニシアティブは、旧池田―宮沢系(加藤派)を除いた派閥談合と公明党の意向が合体したもの。何よりも公明党の意向が連立政権維持という前提のうえに作用したことは間違いない。森新内閣は明らかに小渕内閣の路線を継承する。                                          
 公明党の手助けを借りて圧倒的多数派を築いた小渕内閣は、その一年八カ月の軌跡を日本周辺事態法から国旗・国歌法制化、盗聴法、あるいは一連の労働法制改悪、独禁法の骨抜き、さらには大企業・ゼネコン救済の「借金王」財政と、数の横暴の限りを尽くした。                               
 数の横暴は国会操作を容易にしたが、しかし失業の急激な増加、賃金水準の抑制、中小企業の相次ぐ倒産や露骨な大企業優先の財政運用運用、加えて次々と露呈する官僚機構の不祥事などが重なり、小渕内閣の支持率は今年に入って急速に低落し始めていた。再選を焦る小渕は、その鍵を「景気回復」とし、大蔵、経企庁、そして日銀も史上最高の失業率や可処分所得の減退を側に置いて、設備投資の回復基調や株価の上昇をのみ宣伝し、懸命の総選挙対策を続けていた。
 公明党の立場はより露骨であった。この党は何千億円獲得などの露骨な利益獲得のポスターを貼りまくり、世間のいかなる「ひんしゅく」を買おうとも、連立路線の「効用」を支持者、創価学会会員に訴え続けた。支持者や創価学会会員が連立路線に少なからず疑問を呈している事実を感じるほどに、この党の指導部は選挙を最大限に遅らせ、体制固めの時間稼ぎを必要としてきていたのだ。       
 しかし秋の任期切れを控え、いずれ解散は避けられない。自公保連立は数カ月の時間稼ぎよりは、「同情票」狙いの早期解散を選択したのである。        
 
                    (3) 
 
 自由党の連立離脱騒動が小渕の脳梗塞の引き金となったともいわれる。小沢自由党は連立の維持ということで自民党の鼻面をひきまわして来ていた。路線的には多国籍軍参加を可能とする安保・防衛政策や選挙制度の改悪、介護保険制度の国庫負担化などの政策実現を要求。そして選挙協力あるいは新保守合同新党などの要求を突きつけてきた。自由党の、特に比例区選出の若手議員には、選挙協力が進まない以上は連立埋没に対する危機意識が渦巻いてもいた。
 しかし自民党内部には、集団的自衛権を違憲としてきた歴代政権の立場を守るべきという見解も存続しているし、また最大には、議席を譲る選挙協力こそは自民党議員にとっては到底受け入れられないものである。「無策」の小渕が小沢の圧力を拒否しなければならなかったのには、相当の心労を要しただろう。
 野田らが連立に残留(将来における自民復帰)する感触が明確になるにつれて、小沢はずしの新連立が浮上してきた。旧新生党以来の大物議員らの大多数が保守党へ移行した。分裂の結果、多数派は保守党となり、小沢の賭は裏目に出た。小沢の幹事長藤井は早速、民主党鳩山に野党共闘を打診した。どうにもならない支離滅裂さである。
 小沢改革とは何であったのか。二大政党政治のための小選挙区制導入に始まり、「普通の国家」論で公然たる海外派兵を押し出すに至るという一連の事態は、小沢が自民党との合流を図るという最後の手段に出たことで、そのインチキさを暴露した。
 
                    (4) 
 
 森は小渕路線継承を言い、そこには新味はないが、同時に旧福田派系の体質をすぐにさらけ出して、「有事法制」の実現などを政策課題として忘れずに掲げるなど、小渕政権の右傾路線をさらに強める傾向を明らかにしてもいる。外交日程を相次いで入れるなど、森は、個人あるいは森派としての本格政権への意欲を突き出したいのであろう。しかし森の本格政権など、小渕以上に危険な代物となることは明らかだ。
 石原東京都知事の自衛隊における発言が露骨な排外主義と治安出動の示唆として問題になっているが、森の発言録もそれに引けを取らない。沖縄タイムズや琉球新報までを共産党呼ばわりしたり(本音は「非国民」と言いたいのだろう)、日教組が倫理観の乏しい人間を大量に生み出してきた、とかの発言はまさに右翼と紙一重の伝統的な自民党右派そのものの論理である。
 自公(保)は、次の選挙で「同情票」を期待している。しかしそれを許してはならない。自由党の分裂はあれ、自自公路線の延長である自公(保)連立に痛打を与えることこそが来るべき総選挙の民衆的課題である。
    (川端 康夫)

NTT大リストラを労使合意               
大人員削減とベア・ゼロなど              

 
電通労組全国協議会
3・16本社抗議を闘い抜く


 ベアゼロ、労働条件大改悪、大リストラ攻撃に対して電通労組全国協は三月十日午後、本社(東京・大手町)抗議行動を闘った。全国各地から集まった鉢巻きとゼッケンをつけた全国協組合員六十人は「経営協議会の労働条件切り下げは絶対に許さない」と、雨をついて本社前抗議行動、包囲デモを二時間にわたって貫徹し、午後二時に本社へ交渉団を派遣した。
 全国協交渉団は、「合理化の白紙撤回」「労働条件の改悪を行わないこと」を申し入れ、本社の対応に誠意がみられない場合、闘争を強化し本社行動を波状的に闘い抜くと通告した。
 この本社行動は電通労組として久々の全国動員であった。北は弘前、西は徳島に至る各地の組合員は、二万一千人の人員削減と大幅な賃金引き下げ攻撃への全面的な闘いの皮切りとして本社行動を組織した。あわせてNTT労使協議会合意内容を明確に暴露したチラシを全国のNTT組合員に向けて大量に配布する活動をも展開している。
 巨大な官僚機構であるNTT労組(津田委員長)の内部にも、不満は相当に渦巻いているとも聞かれる。だがこの巨大労組は、過去ほぼ四十年にわたってあらゆる反対派や批判派をしらみつぶしに弾圧し、あるいは排除してきた。内部から批判の声をあげ、それを組織の方針に反映させていく試みは、まさに抑圧装置の多大な圧力にさらされることになる。かつては全国的な連携と広がりをもっていた批判的傾向の多くも、今は分断と圧力のもとで昔日の勢いをみることはできない。
 二十年の歴史を積んだ電通労組全国協、そしてそれ以前から存在する通信労組(共産党系)が少数とはいえ、今や経営協議会の一翼として大合理化を推進する立場へと移行したNTTの労組官僚機構と対抗する目に見える勢力となっている。二〇〇一年度から二年間の人員削減策は、すでに会社分割、民営化の中で配置転換を強要され、結果として職場を追われた数多くの組合員たちをはるかに上回る規模の攻撃になる。そして「賃下げ」が同時に強行されるのだ。
 電通労組全国協の全国行動は、大リストラ合理化にしん吟し、闘う手段を奪われているNTT組合員に連帯と団結の道筋を示すことになるだろう。
 福島県郡山市のNTT職場で極めて注目すべき闘いがあるという。NTT組合員である一人の職員が、民営化の過程で広域配転、つまり単身赴任の強要に対して、綿密な交渉のやりとりをテープに収録し、それらを証拠として個人として法廷闘争に打って出たというものだ。NTT労組はなんらの手助けにもなっていない。
 この個人の決起は、NTT労組という巨大機構の中ではまさに微細な決起かもしれない。だが堤防も小さな穴から、という。労組を信じず、自力で闘うという一人の労働者の登場は、今後のすさまじい配転強要と、それを拒否すれば事実上の退職強要という合理化に抵抗する闘いの登場、拡大を予感させるものだ。

電通労組全国協の呼びかけ

 
 労働者のための労働組合を、大きく創ろう!
 電通労組全国協議会はすべての労働者の加入を歓迎します!
 
 「猫がネズミを取らなくとも猫は猫だが、労働組合が組合員のために闘わなくなったらそれはもはや労働組合ではない。たんなる経営とのなかよしサロンだ。そんな組合に高い組合費を払わされている組合員は気の毒という他はない」(『季刊・労働者の権利』二〇〇〇年一月号より引用)
 NTT労組をはじめ、大民間労働者の現状が端的に述べられています。労働組合は経営者の方ばかりを見ているのではないでしょうか。組合の主人公は労働者のはずです。 
 正規雇用労働者(正社員)が職を追われ、非正規雇用労働者(パート、臨時、派遣など)は劣悪な条件で使い捨てにされています。中高年労働者にやり場のない絶望感が拡がり、若年失業者が社会にあふれています。失業率も自殺者も過去最高に達しています。
 このような時代に、労働組合はいったい何をやっているのでしょうか。闘いの旗すら捨て去り、急速に支持を失っているのが現状です。労働組合が妥協すれば、企業はますます横暴になります。闘わなければ賃金も労働条件も獲得できないし、政治や官僚をただすこともできません。
 働く仲間のみなさん!
 電通労組全国協議会に結集し、ともに闘いましょう! 
 電通労組全国協議会
◆電通労組 
◆大阪電通合同労組
◆四国電通合同労組
 ホームページ http://www2.osk.3web.ne.jp/~dguosaka/
 電子メール  dguosaka@osk4.3web.ne.jp
 
国策としてのリストラ攻撃
 
 昨年秋以降、政府と財界が結託した「産業競争力強化」のかけ声による人員削減合理化の解禁を受けて大企業は相次いでリストラ計画を発表している。日産資本の大合理化計画はすでに有名だが、「産業競争力強化会議」は巨大企業の大リストラ合理化を容易にすすめさせるための政治的、財政的バックアップを保証したものであり、企業収益率を大幅にアップさせ、もって国際競争力を向上させるというふれ込みだ。企業収益率アップの方策とは、端的には賃金総量の削減というものに他ならない。
 この方策は、膨大な国家と自治体の資金(それは税金だ!)を、景気浮揚策として大企業につぎ込みつつ、リストラを強行させて、他方に失業と倒産を蓄積するというだけのものである。
 先日、デパートの「そごう」が各関係金融機関に七千億円にのぼる借金棒引きを申し入れ問題になっている。だが昨年いっぱいを通じて、政府資金の注入を受けた各銀行が主にやってきていたことはゼネコンの救済、つまり借金棒引きと中小企業への「貸し渋り」以外の何物でもなかった。
 簡略化していえば、自自公政府のやってきたことの多くはマッチポンプ策である。つまり大企業を救済して中小企業を淘汰する。資本を強化して労働者を切り捨てる。これらは、「景気対策」というマッチを擦るような顔をみせつつ、実は消費冷却というポンプを作動させているのである。
 その理念は、そのようなものがあるとすればだが、企業を支えておけば、いつの日かはその波及効果が労働者にも及ぶであろう、その間は苦難を甘んじてくれ、というものにすぎない。この論理は格好をつければ「予定調和理論」ともいわれるが、それは理論でも何でもない。ただ「資本主義だから企業を救うのだ」というだけのことだ。それが官民あげての総意の認識だというのである。巨大企業の巨大労組もまさしくその立場にはまりこんでしまった。
 ゼネコンなどへの借金棒引き政策が進み始めたことに意を強くした産業界は、その次に国際競争力強化が課題だとして産業競争力強化策を、まさにどさくさに実現させた。では、この産業競争力強化の政策とはどこから必要なものとして認識されるようになったのだろうか。それはアメリカが強要するグローバリゼーションのもと、金融や産業の国際的巨大合併の進行、言い換えれば世界的規模の多国籍独占資本の全面的育成政策の結果である。日本政府はアメリカのいいなりになって開放経済と「規制緩和」という国際的大資本のさらなる独占化へ道を開いた。
 その道に沿って流れ込む巨大資本の圧力は、例えばイギリスではサッチャー「改革」の結果、イギリスの金融資本は撲滅されてしまった。そこで日本政府は、日本大資本がこの自由化された国際競争に生き残るための、大リストラつまり労働賃金総量切り下げによる企業収益率の向上という政策が必要だと「認識」するに至ったのである。
 これは二重の意味でおかしい。一つは、資本主義経済は労働者の「苦難」のうえに存在することを自ら認めている。二つは、自由な企業活動こそが経済活力の源であるといいつつ、政府資金や政策を自己利害のためにし意的に利用することである。
 日本の官民は、サッチャー「改革」の大筋を取り入れつつ、ただ自国資本を生き延びさせるという修正条項を持ち込んでいるのである。つまりサッチャーがやった労働組合弾圧をはじめとし、ロンドン金融市場からの自国資本の一掃という結果に至る全過程の、その最後のところを公的資金を駆使して免れようとするものだ。
 まことにこ息な話である。グローバリズムというアメリカの国家政策によりかかりつつ、それが自国大資本に加える国際的圧力を「国民国家」を利用して逃れようとする。労働者民衆の生活を犠牲にするリストラにとどまらず、なおも税金という収奪手段を自らのために利用するというのだ。
 国と自治体の借金残高(国・地方債)は六百兆円をこえている。その解消が高額消費税などの形であらわれるのは間近である。
 これが日本の官民が進めている「国際化」の正体なのだ。
 
内部留保七兆円の行方
 
 では、その構想はNTTの場合、どのように提示されているだろうか。
 NTT民営化以降、企業資産(内部留保金)は増加の一途で一九九九年三月期では六兆千四百二十四億円にのぼる。本年度経常利益は七千三百億円の見通し(いずれも電通労組全国協のチラシ)。
 膨大な内部留保の蓄積にさらに拍車をかけることが二〇〇〇年度から二年間「経営改善計画」の狙いである。この膨大な内部留保を支えてきたものは、当然、民営化以降の過酷な人員削減や労働条件の切り下げ、賃金抑制と独占的市場支配による「割高」な利用料にあることは明白である。アメリカがNTTの接続料引き下げを執ように迫っているが、その背景には巨大な収益の蓄積という現実がある。
 さてNTTはこの膨大な内部留保をどのように利用するつもりなのだろうか。
 国際的にも接続料の引き下げは避けられないことは事実であろう。日本の公共料金の高さは国際的には周知の事実であり、それは過去二十年以上に及ぶ自民党政府の収奪的政策の結果だからである。かつては労組側は公共料金引き上げに相当の抵抗をもって対応していた。だが、総評体制の解体が進行する中でその意思は失われていった。反対に、当該公共企業の労組自らが料金引き上げに加担する立場に移行したといっていい。企業主義浸透の一つの結果である。
 しかしこれらは膨大な留保金を取り崩さず、しかもそれを増加させる狙いをもって「経営改善計画」が吸収する予定のはずだ。
 そしておそらく、NTT(そして郵政省)は、インターネット時代の通信事業における多国籍型の巨大資本として事業展開を展望していると思われる。それが日本大資本のグローバリズム化への対応策の典型として試みられるのだが、その展望の可能性についてはただただ不確かというしかない。アメリカという基軸通貨国家とそうでない日本国家の客観条件が違いすぎるのであるから、リングで足を止めて打ち合っても展望は暗いというべきであろう。
 こうしてNTTの大リストラ合理化をさせる諸理論、理屈は、総体としての日本政府による対応が支離滅裂であることの象徴的、典型的な性質を持たされてしまっているのである。繰り返すが、現在のグローバリゼーション、アメリカ標準化はアメリカに一方的に有利なシステム、アメリカ一人勝ちのシステムに他ならないことを忘れてはならない。
 結論的にいえば、NTT(他の大資本も)型の事業展望は、将来における波及効果を前提として現在の労働条件と労働賃金の切り下げ、人員削減を労働者に受け入れさせ、その将来展望が巨大な内部資金を駆使してアメリカ型多国籍資本と対抗することを、あと一つの前提としている。だが、その双方ともに現実の基盤はないのだ。
 そしてNTT個別企業としては、マクロ的ブルジョア経済学の特性である「予定調和」の楽観論はもちろんはじめから通用されない。マクロ経済では語れない個別資本NTTの大リストラは、現在のNTT労働者の犠牲の上に成り立つわけであり、その犠牲は決して後になって取り戻せるということはないからだ。
 会社や労組指導部サイドが、いかにもマクロ経済的な姿勢でリストラの意義を語ろうとも、労働者個々人は犠牲を一方的に受けるだけである。ここには「見返り」は一切ない。しかもそのマクロ経済理論はすでにみたように、理論以前の「そのうちに何とかなるだろう」という「予定調和」論に過ぎない。
 現在の苦難を受け入れるのか、それとも枠組み総体の入れ替えを求めるのか、労働者には正反対の道が提示されている。
 われわれは、現状の苦難を拒否していくこと、端的にいえば労働時間の大幅削減の方向が現在資本主義のたどりつつある破局への道から逃れる展望であると提起している。NTT労組の賃下げ容認論とは正反対の方向を電通労組全国協の闘いが示していくことを強く確信している。
 電通労組全国協の闘いを支援し、連帯しよう。
 
 
■資料■日本経済新聞二月十七日付
NTT労組、賃下げなどを容認


 NTT労組(津田淳二郎委員長)は十七日、東京都内で中央委員会を開いた。津田委員長は「これまでの労働条件の水準や体系の維持に何が何でも固執することなく、互いが痛みを分かち合うことで局面を乗り越えていく」と強調、雇用維持のためには人件費抑制もやむを得ないとの考えを明らかにした。日本電信電話(NTT)は東西両地域会社の人員削減・配置転換などを柱とする二〇〇〇年度から二年間の経営改善計画を打ち出している。同委員長の発言は、合理化策を受け入れるとともに実施に伴う賃下げなどを容認する姿勢を示したものとみられる。
 NTTの人員削減計画策は二〇〇一年度から二年間、新規採用を凍結することに加えNTTドコモなど他のグループ会社への転籍や出向などによって四千人を配置転換し、会社員の約一六%にあたる二万一千人を減らす内容。
 津田委員長は「組合員が仕事の変化や居住場所の変更など困難な新たな勤務条件を克服し、挑戦してもらうことを雇用確保の基本とする」と述べ、削減策の受け入れを表明。具体的な雇用対策として@年功序列型賃金制度の見直しA退職金のあり方の検討B既に実施している六十歳時の再雇用制度の年齢前倒し――などを挙げた。今年六月の定期大会までに会社側と協議、今秋からの実施を目指す。
 同時に会社側から提案されている「成果や貢献度を一層重視した人事・賃金制度」についても津田委員長は「導入することを目標としたい」とした。この場合、グループ内で統一した制度とすることや最低賃金水準の設定などを条件とする。委員長は会見で「成果賃金は副次的に雇用確保につながる。中高年層の賃金引き下げもある」と述べた。巨大企業グループNTTの労組委員長の賃下げ容認発言は労働界に波紋を広げそうだ。

連載 その四                                        
環境社会主義と労働時間短縮
「持続的な成長」とは何か

                                        神谷 哲治


第5章 資本主義と労働時間短縮〈T〉(続)

6 ブルジョア的合理性の限界

 資本主義社会においては労働力も商品であって、その価格、すなわち賃金水準、労働時間も基本的には市場――労働力市場――によって規定される。それらの水準は社会的なものなのであって、個々の企業毎に好きなように決められるわけではない。労働者の闘争力が弱体化されていないならば、それら労働条件への社会的規定性はより一層強いものとなっている。
 それはVの場合であっても変わるわけではない。従って総体として生産拡大が抑制された場合であっても、賃金を動かせない以上個別資本は労働生産性上昇を利益の拡大に結びつけるためには、まず増産を追求する。この場合、その結論が、労働生産性上昇に遅れをとった、また弱体な資本の急速な衰弱と、結局は市場からの退場であることは前章でも触れた。増産の成功は、競争者から市場を奪う以外の方法では成し得ない。
 それはしかし、敗退する資本の下に雇用されていた労働者の大多数が失業に追い込まれることに他ならない。
 前節においては、Vの場合、総賃金の縮小が結局資本の「合理的」選択となることをみてきた。しかしそこでは、総賃金圧縮がどのようなものとして具体化されるのかには触れなかった。 
 しかし資本主義市場を介して展開する個別資本の「合理的」行動は、上にみたような形で総賃金の圧縮を否応なく「失業」へと転化していく。現在、失業率の低さを誇示している英米にしろ、それ以前には大失業が先行していたこと、また現在のアメリカでも基幹的産業部門では依然として大規模な解雇が繰り返されていることに、その論理は歴然と示されているといってよい。
 そして、この失業が労働力市場を介して、社会的賃金水準を引き下げていくこともまた明らかである。米英の場合は、この過程に国家権力による労働組合破壊という要素が付け加わっている。
 しかし生き残った資本間で労働生産性上昇は、休むことのない競争の中で続いていく。
 生産全体の抑制が続く限り、Vの場合に働く論理は繰り返し展開する他はない。それはさらに失業が拡大し、賃金低下が進行すると共に、弱体な資本の「整理」が進むことを意味する。
 一九九九年末、日本では中小企業に関する基本法制が根本的に転換した。一言でいえば、中小企業の「切り捨て御免」が体制の基本方針となったといってよいだろう。
 最初に労働者から始まった生活破壊がより一層規模を広げ、さらに社会全体に広がっていく。ブルジョア的合理性が生み出すこのような状況に「社会」はどこまで耐えられるだろうか、あるいは耐えるべきなのだろうか。ブルジョア的合理性は明らかに、「社会」の、人間の合理性との鋭い対立に向かっていく。
 しかし困難は勝ち残った「優良な」資本の側にも発生してくるだろう。自己の手元に確保できた利益の投資先が問題になる。高い収益性を実現している資本にとって、それより低い収益部門に投資することは、明らかに「不合理」である。自己と同程度かそれ以上の利益率の投資先が必要である。資本の選別と淘汰が進めば進むほど、少なくともその社会内部では、自由に投資できる収益性の高い分野は限られていく。蓄積された資本全体に対する利益率は、必然的に低下するだろう。生産を自由に拡大できる条件が生まれない限りは、この困難は打開できない。
 生産拡大の抑制とブルジョア的合理性との共存は結局、維持できない。どちらかが変更されざるを得ない。

7 労働時間短縮とブルジョア的合理性

 地球環境は今、生産の自由な拡大をもはや人類に許容できない。そうであればブルジョア的合理性はいずれにしろ、社会的、人間的合理性によって規制されざるを得ない。「持続可能な成長」が要求するものの本質的な性格を私はそのように考えている。
 さて、労働生産性の持続的上昇を前提とする限り、「持続可能な成長」は労働時間の社会的規制、社会規範化された労働時間の抜本的短縮以外によっては現実のものとはならない。あるいは、そのような労働時間の社会的規制が最も直接に確実に生産の自由な拡大を抑制する。
 そうであれば労働時間の短縮要求は、ブルジョア的合理性と鋭く対立するはずである。その対立性は、直接には時間賃金の上昇、あるいは労働力市場の資本にとって窮屈な需給関係――これも結局は賃金上昇に結びつく――を通して認識されるのかもしれない。それらは確かに利益の圧迫であり、利益からの富の移転である。しかしその限りでは必ずしも賃金引き上げの場合と変わるものではない。しかし労働者階級と資本の闘争の歴史は、労働時間の問題がもっと根深い対立をはらんでいることを示している。
 図―4は、戦後日本における実質賃上げ率と時短率を示したものである。労働者の要求が戦後一貫して賃上げに傾いていたという事情は割り引かなければならない。しかしそれにしても、資本の時短回避が顕著に表れていると私は考える。また表―1の示す一人当たり平均年間労働時間の国際比較も示唆的である。
 特に米英と仏独間の顕著な落差は注目に値する。
 フランスは、大革命以来数十年に一度の「革命」をくぐってきた。一方、戦後の西ドイツは、ナチスに負い目をもつブルジョアジーが、東独というライバルとの対比で、その体制の優越性を常に労働者に示威し続ける必要に迫られた国家であった。いわば体制の存続にかかわるような労働者の強力な圧力の存在と、この労働時間の現実には明確な関連があると考えるべきだろう。
 私は、労働時間に対する資本の態度は、結局のところ生産拡大の可能性、すなわち利益の継続的取得の問題に対する彼らの本質的警戒であると考える。この点については次章でより明らかにできるはずである。
 いずれにしろ、労働時間の抜本的短縮とブルジョア的合理性との根深い対立は、労働者の時短要求が「持続可能な成長」の真剣な追求と結びつくとき、より赤裸々に表に現れてくることになるだろう。そしてその双方共が、人間的合理性の優越という枠組みの下でのみ、はじめて一体的に現実のものとなることができるのである。

第6章 資本主義と労働時間短縮〈U〉

1 マルクス主義の商品価値

 本章での議論の前提として、まずマルクス主義の商品価値の把え方に関わる基礎的な概念を確認しておきたい。われわれ労働者活動家はたいてい「賃労働と資本」を通してそれらを学んできたが、以下の点は基本的にそのおさらいといってよい。
 さてマルクス主義における商品の価値構成を、商品一個当たりとして図示すれば図―5のようになるだろう。この図の形状は前章の図―3と基本的に変わらない。また各記号部分が示す価値を担っている具体的な商品類型も基本的に同一と考えてよい。ただし、マルクス主義は価値(以後、特にことわらない限り、価値とはすべて交換価値を指すものとする)の源泉をすべて人間の「社会的労働」と把える。従って価値の量は「社会的労働」の量に対応し、究極的に価値の単位は労働時間(正確には社会的必要労働時間)となる。
 そしてCを不変資本、Vを可変資本、Mを剰余価値あるいは利潤と呼ぶ。またCの構成要素であるCfは固定資本、Czは流動資本である。
 また(V+M)がその商品生産のために、当該生産過程において、当該資本家の下で充用された労働時間である。つまりこの生産過程で、価値Cに(V+M)という労働時間の「社会的労働」が作用し、この商品固有の使用価値を実現するために、Cが転形、移転することによって当該商品が生成したということになる。
 その意味で(V+M)は、当該生産過程において新たに生産された、あるいは付け加えられた価値である。ここには、ブルジョア経済学で(V+M)に相当する部分が付加価値と呼ばれることと対応する関係がある。ブルジョア経済理論との違いは、この付加価値とは結局何であるのかということになるのだが、ブルジョア経済理論ではそのことに本質的には関心がないと思われる。
 その上でV、つまり賃金部分は、それ自身が市場で交換される商品となっている(V+M)という労働時間全体の交換価値である。
 資本家は、(C+V)という手持ちの価値、すなわち資本との交換で生産財と、労働力、すなわち(V+M)という現実の労働時間を自己の所有物とする。その限りでブルジョアジーは自己の所有物となった(V+M)の労働時間を自己の目的に沿って、すなわちC部分の生産財に固有の使用価値を実現させるために自由に活用し、一個の固有の新商品を手にする。
 こうして資本家は、(C+V)という価値を用いることによって生産の終了時点では、(C+V+M)という価値をとりあえず手にしたことになる。図が表現しているものは、資本主義的生産に組み込まれているこのような関係である。
 なお、以下で使用することになるいくつかの概念と、C、V、Mとの関係を下に整理しておく。
 まず、充用された労働時間(V+M)の、いわば労働者と資本への分割比率を示す概念として剰余価値率が、(M/V)と定義される。
 また、資本が当該生産のためにこの生産過程中に使用した資本(C+V)に対する、この生産過程で生産された剰余価値Mの比率、利潤率が{M/(C+V)}={(M/V)・(1+C/V)}と定義される。 
 この利潤率は、現実のブルジョア経済統計では売上高利益率に近い。資本家にとって本質的関心は、彼らが過去に蓄積してきた全資本に対する年々の利益率、総資本利益率にある。しかし少なくとも実際に生産に充用された資本に関する限り、貨幣価値変動と資本回転率が安定していれば、上記両者の間にも安定した関係がある。従ってマルクス主義が資本主義経済の展開を考える上で、上に定義した利潤率を使用するとしても本質的な問題は起こらない。
 ただし現代の資本主義では、蓄積資本が生産に充用されない現象、つまり金融化、投機化が顕著になっている。この現象は、われわれからみれば、資本主義的生産の歴史的危機――生産による価値増殖の危機――なのであるが、ここではこれ以上立ち入らない。

2 階級闘争の本質的役割

 資本主義的生産は、ブルジョアジーの利潤動機に基づき展開する。しかしそれは、彼らの利潤動機が自由に展開できること、いわば資本主義的生産が経済内部で働く市場的あるいは経済的諸要因の「法則」的帰結としてのみ現出するということを何ら意味しない。
 現実の経済社会は、様々な次元の異なる「諸価値」を体現した人間の諸集団がおりなす複合した社会である。人々が体現している「諸価値」は、それらを追求する人間の諸活動として現実化し、それゆえ人間諸集団は「諸価値」をめぐって相互に干渉し合い、葛藤し、闘争している。
 経済あるいは市場が表現する価値はその一部にすぎず、現実の経済活動あるいは生産は、上記「諸価値」の葛藤、闘争の錯綜したただ中でしか遂行され得ない。経済活動が、その内部の「自律的法則性」にのみ支配される、いわば閉じた完結した空間にとどまることはできない。一九七〇年代後半以降一世を風靡した「新自由主義理論」は、結局のところ経済の「自己完結性」を現実化しようとする、あるいはそのような「自己完結空間」があると夢想する空しい理論というべきだろう。
 どのような立場に立つとしても、われわれが現実の経済にアプローチしようとする場合は、まずこのことを基本的前提として確認すべきである。
 さて資本主義的生産は、その生産関係の内部に不可欠なものとして賃労働関係を組み込んでいる。それゆえこの生産は、その生産そのものにおいて基底的に不断に、この賃労働関係を通して、階級闘争というまさしく「市場外」的要素に規定される。それゆえ資本主義的生産とは、「諸価値」との葛藤を、まず何よりも労働者階級からする階級闘争による本源的規定として体現した生産というべきだろう。
 資本主義社会はまさに徹底して労働者階級に依存した社会である。まず生産の主体として、現代ではその商品の最大の最終購買者として、そしてさらに社会秩序を作りあげる活力ある市民として。逆にいえば、労働者の体現する諸価値と折合いをつけることなしには、資本主義的生産は一日として円滑に進行することはできない、といってもよい。そしてその折合いは、ある一時期を通して普遍化された労働の社会的規範、社会的諸制度、賃労働関係の具体的形態、社会的賃金水準などに全体として表現されるのである。総じて「均衡した階級関係」とでもいうべきこのような社会的関係なしに、社会の安定性も、また一定の秩序をもって展開する資本主義的生産もあり得ない。
 しかしこの「均衡」した関係は、そこに階級闘争が不在であるということとはまったく異なる。この均衡的大枠の下で階級闘争は不断に、精力的にすら続行されている。しかし闘争者双方が、結局はその均衡の大枠を再確認し、生産の展開が生み出す日々の新たな変化する状況をその均衡の枠内に「調整」していく、あるいはその「調整」が可能である限りは社会総体の安定性が持続され得るというに過ぎない。
 ところでこの「均衡」した関係は、前節にみた商品を構成する諸価値の関係を、結局は規定するはずである。こうしてマンデルの理論枠組みは、階級闘争の総括的規定性を、一定の時期全体にわたる社会総体次元での「独立変数」としての剰余価値率を介して表現する。つまり階級闘争が、剰余価値率の他の要素からは独立した自立した変動という形を通して資本の手にできる剰余価値総量の水準を、いわば「市場外」から規定するのである。資本は、まして個別資本家は剰余価値率を好きなように動かすことはできない。その変化は、経済内部の何らかの自律的関係によってではなく、まさに経済外的な階級闘争が強制している。
 図―6は、日本の製造業の生産事業所における利益額と現金給与総額の比を時系列でみたものである。この比と剰余価値率が、概念として等しいわけではないが、大よその目安としては十分対応するであろう。ここにみられる剰余価値率の一定水準の全般的保持は、戦後社会の大枠的階級「均衡」がまさしく作り出したものというべきだろう(通産省工業統計表、産業編より)。
 なおマンデルの枠組みでは、資本主義的生産の発展動態を規定するものとして、数個の半ば自立した、すなわち何らかの一元的関係には決して還元できない独立変数という考え方が置かれている。剰余価値率もその一つである。
 これらの独立変数の意味も、剰余価値率がそうであるように、資本主義的生産が結局は経済外的な、歴史的、文化的、社会的、そして政治的諸背景に規定されてしか存在し得ないことの、いわば経済概念に翻訳された表現と解すべきと私は考える。このようなマンデルの枠組みを、多くの「正統的」マルクス研究者は折衷主義と批判するようである。マンデルの枠組みにはある種のプラグマチズムはあるのかもしれない。
 しかし「折衷」というのであれば、現実の資本主義経済自身が「折衷」されたもの以外ではない。どこにもありはしない、完全に一元化された「完全無欠の資本主義」を把えようとしても、それは結局、現実に背を向けることでしかない。「正統マルクス主義」とされる資本主義論には、私は裏返しにされた「新自由主義」を感じる。
 ここには多分、下部構造―上部構造の関係にまつわる諸問題があると思われる。ただ私には、そこに立ち入る素養はない上、またそれは本稿の目的でもない。ここでは経済一元的アプローチは非現実的であることのみ強調しておくにとどめる。
    (この章続く)
フィリピンRPMPの闘い
          大衆闘争を助ける和平交渉
                                      ジャン・デュポン

和平交渉開始を合意

 一九九九年十二月二十六日、フィリピン革命的労働者党(RPMP)とエストラーダ政権とが、和平交渉の開始に合意した。
 第四インターナショナルと連携するRPMPは、ミンダナオとビサヤ諸島の共産主義ゲリラのほぼ三分の一を掌握している。この党は、一九九〇年代に(毛沢東派)共産党(CPP)から分裂したマルクス主義者の大部分を結集した革命組織である。
 フィリピンにおける中心的な反乱組織であるモロ・イスラム解放戦線(MILF)とCPPの新人民軍(NPA)は、それぞれ和平交渉を行っている。
 MILFは、モロ民族解放戦線(MNLF)がたどったのと同じ道を行く可能性がある。MNLFは、非常に限定された自治や、警察、行政での人員採用といった条件と引き替えに武装反乱を終了したのであった。ミンダナオとコルディリェラ地域北部において、元ゲリラ戦士たちがゲリラを持続している以前の同志に対する警察の捜索活動やせん滅作戦を支援した。
 CPP―NPAにとっては、和平交渉とは宣伝活動の展開であり、「持続型人民戦争」という毛沢東主義戦略遂行の一環である。
 RPMPが和平交渉を追求するのには、CPP―NPAとはまったく異なった動機がある。同党は、現在の状況においては軍事闘争よりは公然的な大衆活動の方がはるかにフィリピン革命に役立つと確信している。
 一九九〇年代初期におけるCPP―NPAからの分裂以降、党指導者たちは、革命戦略を根本的に再検討してきた。
 RPMPに同調するジャーナリスト、フロール・シアートによると「革命勢力が最大限の成功を実現できるかどうかを決定するのは、客観的な階級間の力関係である。そして革命の方向を決定するのは、革命のそれぞれの段階における成果なのである。物質的な条件は武装闘争に有利か、社会主義革命の利益にかなっているか。現在のフィリピンでは、武装闘争を選択できない」ということになる。
 事実、和平交渉の開始は、現段階の革命戦術として評価できる。革命勢力が戦争に勝利できるような力関係でない場合、平和について交渉する方がいいこともある。交渉によって息継ぎができ、最悪の敗北を回避し、次の成功に向けて準備することができる。そして和平交渉が合意に達すると、多くのRPMP活動家が表に出て、その優れた経験を公然の大衆闘争に捧げることができるようになる。

武装闘争と大衆運動

 レーニンは一九一八年にドイツと結んだ不利な和平協定に関連して「戦争とは、善悪いずれにしろ平和を獲得する手段である。軍隊が敗走状態にあるときに和平を受け入れたり、あるいは軍が敗走しているときに何千もの兵士の命を失わないために、和平を受け入れるのは、事態のさらなる悪化を回避するためである」と書いた。
 「ホー・チー・ミン指導下のベトナムの革命家たちは、フランス帝国主義者との和平協定に達し、息継ぎの時間を稼ぎ、北ベトナム解放を準備した」
 「ベトナム解放勢力は、アメリカ帝国主義から南ベトナムを解放すべく攻勢を持続している局面にあってさえ、アメリカとの和平交渉に応じた。その狙いは、帝国主義を国際世論の中で守勢に立たせ、損害や部分的な敗北を避け、戦争を早期に終結させることにあった」
 「戦争が世界革命の利益にかなうと人々は考えるか。平和を実現することによって、帝国主義が正統化されていると人々に印象を与えることはないか。おそらく、その可能性はある。だが革命は、階級対立の先鋭化とともに発展する。資本主義国家に宣戦布告することによって、革命を「前進」させることはできない。……武装闘争というものは、いかなる条件のもとでも、そしていかなる時にでも正しい戦略というわけではない」
 「大衆自身の経験と決定なくして、主観的な欲求に戦術の基盤をおいて大衆を高揚させようとすることは、完全に非科学的であり、前衛主義の誤りである」
 「レーニンの革命基本法則によると、革命というものは、全国規模の危機(被搾取者のみならず搾取者にも影響するような)なくしては不可能であり、……革命が起きるためには先ず、労働者の大多数が革命が不可欠であることを完全に理解し、そのためには命を投げ出すことをもいとわなくなっていることが必須の条件である。第二に支配階級の統治が危機に陥り、その結果、最も遅れた大衆さえもが政治行動に参加するようになり、政治権力を弱体化させ、革命の側が権力を打倒できるようになる」
 こうした諸条件は、現在のフィリピンには明らかに存在していない。階級闘争の激しさも、前革命的なそれではない。人々がエストラーダ大統領から離れ始めているとはいえ、ブルジョア支配は依然として強力である。左派ポピュリスト的な公約で大統領に選ばれたエストラーダの支持率は、六〇%からわずか五%強へと急低下した。
 メディアや国際世論がクローニー(仲間)資本主義に注目しているのだが、エストラーダ政権は、効果的に政府を運営している。エストラーダ政権の保護を受けていないブルジョアジーの一部でさえ、労働者の力を弱め、資本家の国内および国際的な利益を改善しようとする改革路線の中心項目を支持している。
 結束したブルジョア野党勢力はいない。例外は、元大統領であるコーリー・アキノやその他の野党人士とカソリック教職者らが一緒になって、大統領独裁権力復活の可能性といった具体的な危険性を非難したときである。

労働者運動の現状

 プロレタリアートや半プロレタリア勢力は、一九八六年のマルコス独裁政権打倒以来最悪の失業率とインフレ率のもとで、都市であるか否かを問わず全国で闘っている。労働人口のわずか九%しか労働組合に組織されておらず、しかも、この数字は大量のレイオフや労組攻撃の結果として低下している。
 労働官僚が大きな労組や連合組織を牛耳っている。共産党系の労組連合組織であるKMUは、戦闘的な行動を展開するが、その主張は貧弱である。そして共産党活動家にとってKMUは、依然としてゲリラ戦士を補充し、兵たんを確保するための場でしかなく、労働運動の自律的な発展を促進し労働者の要求のために闘う組織にしようとはしていない。
 労働者階級の圧倒的多数は未組織であり、彼らの苦しみに一定の対応をする宗教諸機関を支配する反動的な勢力の影響下にある。宗教諸機関が開始した抗議行動に自然発生的に大衆が参加するという注目すべき事態もみられる。
 解放の神学は下位聖職者の間で影響力を持っており、その聖職者たちの多くは進歩的あるいは革命的な組織にさえ結集している。しかし一般大衆の間での影響力という点では、ラテンアメリカよりも弱い。マルコス独裁打倒以降、教会勢力は、進歩的な政治傾向との協調が弱まり、キリスト教の神聖概念により一層強く動かされるようになってきた。
 CPPの通俗化した毛沢東主義と「持続型人民戦争」戦略は、勤労階級の社会主義利益にとっては有害無益である。「NGO左翼」とPMPは、そのセクト的な路線を追求するだけである。
 モロ人民は、自決権を求めて闘い続けている。しかしMILFとMNLFとは、それぞれ独自の異なった方向で闘っている。MNLFは、幻的な「自治」やその指導者らが部分的に支配エリート階層に組み込まれることの代償として、解散した。
 MILFも同じ道を行く可能性がある。他方、MILFの進歩的な指導部はヘゲモニーを維持すべく闘っている――イスラム原理主義勢力が現在、組織の四〇%を掌握している。

過渡的綱領の観点から

 労働者大衆にとって必要なのは、自らの経験から学ぶことである。すなわち変革のための闘いから学び、自らの力を自覚し、意識と戦意を高揚させ、資本主義の搾取と抑圧に対するより広範な闘いを展開していかなければならない。このような展開は、公然かつ合法の大衆活動を通じてのみ実現できる。
 社会主義のための議会を通じた闘いにも、一定の役割がある。議会を通じた闘いによって、労働者を教育し、組織し、その闘いを指導することができる。
 RPMPは、CPPの一部として追求していた「持続型人民戦争」戦略を完全に否定した。分裂以降、武装力を維持していたが、国家に対する革命戦争を行ってはいない。RPA―ABBの中心的な役目は、自らを確立して労働者階級の運動を支援する役割を果たすことである。武装行動は、労働者運動の利益を守り、革命運動に対する敵の攻撃を撃退するためにのみ行使される。
 和平交渉は、社会主義革命のための過渡的綱領の観点から評価されなければならない。現在の状況にあっては、和平交渉を通じて、大衆と革命勢力にとって利益となる真の譲歩と改革とを実現することが可能である。党の新しい戦術の正しさと成功は、以上を基礎として測定される。
 RPMPは、党指導部の監督のもとで和平交渉が行えるような交渉形式を提示するだろう。現在のところ、他の左翼勢力や「市民社会」が交渉とどのように関係し、情報が提供されるのかは、不明である。
(インターナショナルビューポイント誌319号、二〇〇〇年二月)

中国
国有企業の改革
                        張開


問題と改革

 中国政府は、二十年間にわたって国有企業を改革する必要を強調してきた。しかし、そのために実際に行われた「改革」の大部分は成果をあげていない。
 一九九九年九月に行われた中国共産党中央委員会は、「国有企業改革に関連するいくつかの決定」という決議文書を承認したように、その主題は改革の失敗だった。
 承認された文書によると、「国有企業の圧倒的な多数は、市場経済の要求に適応できていない。その経営は柔軟性を欠き、創意工夫はみられず、債務や社会的な負担は重く、スタッフの数は必要をはるかに上回っている。国有企業の生産活動には困難がつきまとい、経済効率は落ちる一方であり、労働者の多くは苦しい生活を送っている」状態である。
 中国工業部門の八三%が過剰生産能力の問題を抱えている。利子支払いが収益のほぼ三八%を占めている。経済商業省の副責任者によると、過剰人員は千万人を越え、国有工業企業が保有する純資産は六兆元であるが、動産は一兆三千億元に過ぎず、多くの企業での借入金比率は七五%を越えている。
 中国人民銀行の分析部門の責任者は、国有銀行四行が抱える国有企業向け不良債権は、一兆元を越え、全債権の二五%に相当する、と述べている。この不良債権が、国有商業銀行改革にとって大きな障害になっている。
 中国共産党指導部は、国民経済における国有企業の比重を低下させたいと考えている。ただし安全保障や先端技術に関連したり、あるいは重要な公共財を提供する「鍵」となるいくつかの企業は、対象外である。上述の一九九九年九月中央委員会決議は、いかなる企業が「鍵」であるか特定していない。対象外の国有企業では、企業の再構築や民間からの投資を呼び込もうとしている。
 先の中央委員会決議は、競争力がある企業や潜在的な市場をもっているが現時点では様々な困難――長い間赤字経営を続けたり、資源を浪費したり環境汚染がひどい企業は、これまでと違って破産や倒産となる――に直面している企業などへの外国資本の導入を奨励している。
 中国南西部最大の工業都市、重慶の市政府は、今後二年間で七十七企業を破産させるか、強制的に合併させる計画であると発表した。この企業数は、中国革命によって国営部門が設立されて以降、合併ないし破産した企業数よりも多いのである。
 決議は、「すべての労働者やスタッフはその職業での優秀さを競い、労働規律は厳格に、報酬と罰とは透明性において実行されなければならない」と繰り返し述べている。企業の改革が推進され、そして経営者や管理者へ権限が集中されていく。管理者がすべての主要な問題を決定していく。企業内部の所得格差が広がっていく。
 この数年間でどのくらいの労働者が過剰となったのか、それは現在、不明である。ある国家機関の数字では、一九九九年前半期で七百四十二万人が過剰労働力となった。しかし別の国家機関の調査によると、中央政府に報告されている過剰労働力の数字は、これよりもはるかに多くなっている。
 報告対象となっている企業では、労働者を解雇した場合、その再雇用に関して責任をとる必要があるので、その責任を回避するために過剰労働力として多数の労働者の雇用を継続している。全人代への報告の中で、国有企業では五百四十万の労働者が過剰であり、その六%、約三十万の労働者は最低限の生活費を受け取っていない。法律では、過剰労働者は以前の雇用者から百七十元、国の社会保障基金から八十三元を受け取ることになっている。
 実際、中国の社会保障制度は実に貧弱である。中央部と西部では、そうした保障を受け取る資格があるとされている人の三分の一しか、実際には受け取っていないという。百六十三万世帯以上で、一人当たりの所得が地域の最低社会保障の水準よりも低い。

労働者の抵抗

 こうした状況にあって労働者が自らの権利と生活のために抵抗を企てていることは、当然である。香港のメディアでは、次のような事例が報道されている。
 十月一日の国慶節の前夜、長春機械工場を退職あるいは失業した労働者二百人が街頭に繰り出して抗議をした。この一年間で解雇された労働者三百人は、わずか百二十元しか受け取っておらず、この金額は一月分の最低生活費でしかない。西安の自動車工場を解雇された二百人の労働者は、四日間にわたって街頭に登場して生活物資の配給が四カ月遅滞していることに抗議をした。
 シェンチェンでは、二千人の労働者が四カ月の賃金未払いに抗議してストを打った。管理者は賃金支払いを約束したが、それを守らず、労働者は再びストに出た。数度にわたって労働者は自治体政府庁舎にデモをかけ、管理者は結局、六月分賃金の半額を支払った。十日後、二カ月分の賃金が支払われ、労働者は仕事に復帰した。
 広東省では、磁器工場が競売にかけられ、数百人の労働者が一九九八年には返還されると約束された投資の返還と、六カ月分の未払い賃金の支払いを要求した。労働者は、工場内で集会を開き、スローガンを叫び、秩序維持のために警官が導入された。役人が和解交渉を行った。労働者はその席上、事態が解決されなければ、もっと激しい行動を展開すると主張した。電球工場では、一部の労働者がレイオフされたことや賃金未払い、警備員による労働者殴打などに抗議してストが打たれた。
 陜西省の国有繊維工場は、一九九八年に破産し、四千万元で売りに出された。だが労働者には何の補償もなく、破産から十カ月間、月額わずか百元が支払われただけで、その金額では生活は不可能である。十一月二日から約千人の労働者が市の目抜き通り三本を封鎖し、警察と衝突した。十人が逮捕され、三人の女性労働者が重傷を負った。
 湖南省の省都である長沙にあるゴム工場の労働者二百人は、二カ月にわたって賃金を受け取っていなかった。十一月二十六日、この労働者たちは高速道路を封鎖した。警察に解散させられたが、午後に再び集まり、市の主要道路を封鎖し、交通を停止させた。同市では多くの国有企業が赤字であるため、毎週のように道路を封鎖するデモが発生している。
 金融部門は、混乱と非能率な管理がつきまとい、預金者に多大な損害を与えている。そのため抗議の行動が数多く発生している。例えば、中央政府が金融部門の調整を命じたため、九月だけで五十回も政府機関庁舎が人々の攻撃の的となった。十月二十日には、鉄道が封鎖された。
 湖南省政府は九月、四百億元の凍結を命じ、二百万の農民預金を救済しようとした。そして政府は、農民がすぐに引き出せるのは預金の三〇%だけで、残りは三年後とする措置をとった。その結果、少なくとも五十前後の大規模な暴動が起きた。
 収入が減少しているのに、最低生活費は上昇し続けている。二〇〇〇年一月一日、北京の家賃は一五〇から六〇〇%も値上がりした。ある住人は「二一世紀に入る頃には胃袋がうんと小さくなっているよ」と話している。
 あるエコノミストは、農村では国際的に定められている貧困線(一日米一ドル以下の収入)以下で一億二千万人が生活していると計算している。この恐るべき統計数字は毎日のように増え続けている。というのは、都市部で働いている農民が経済の下降のため、農村に送り返されているからだ。中国が世界貿易機関(WTO)に加盟するならば、農産品部門で外国との競争が激化し、さらに多くの農民が貧困層に落とされ、貧しい農民はもっと貧しくなっていく。
(インターナショナルビューポイント誌二〇〇〇年二月、319号)

スリランカ大統領選                        
平和は見えず


 十二月二十一日、チャンドリカ・クマラツンガがスリランカ大統領に再選された。
 大統領選挙の主要な争点は、同国北東部における戦争と、タミル語族という未解決の民族問題であった。
 チャンドリカの得票率は五一%で、前回一九九四年の六二%からかなり低下した。その大きな原因は、平和と経済的な公正を実現するという公約を実行できなかったことである。大統領の人民同盟政権は、「タミル解放の虎」(LTTE)との戦争では強硬な方針をとっている。チャンドリカは民族排外主義的な宣伝・扇動を猛烈に展開し、それが農村部で大きな効果を発揮した。また最後の選挙集会で爆弾攻撃を受けたが、それへの同情票も相当にあった。
 タミル語族の側は、一九九四年選挙とは違って、右翼野党である統一国民党(UNP)の大統領候補を支持した。その候補は、大統領に当選したら、LTTEと交渉をすると公約した。得票率は四三%だった。
 中立の選挙暴力監視センターは、選挙は全国の三分の一以上で「満足できる状態とはかなりかけ離れていた」と述べ、投票箱に不正票が投じられたり、有権者への脅迫が行われたことを指摘している。タミル語族が多数を占める北東部では、ほとんどの有権者が投票しなかった。この地域では、二千以上の投票所が最後の瞬間に変更された。
 JVP党員で、第四インターナショナルスリランカ支部のNSSPとムスリム統一解放戦線(MULF)との支持を受けた左翼候補は、四%ちょっとの得票率だった。
 この候補を支持した各グループは、広範囲な問題に関して討議を重ね、共同行動をとってきた。タミル語族プランテーション労働者を基盤とする民主労働者会議(DWC)もまた、この共同候補を支持した。
 共同候補の選挙綱領は、独裁的な大統領制の廃止、戦争の終結と平和、左翼政権下の民主主義、世界銀行や国際通貨基金、世界貿易機関(WTO)のネオリベラリズムに対する抵抗などを訴えていた。また、これら諸党は、別の文書においてタミル語族の民族問題に関しても基本的な合意に達していた。
 JVPは、一九八〇年代にシンハラ政権の排外主義と暴力的な路線に巻き込まれていった。しかし最近では、こうした路線に抵抗し反対している。
 二万四千票(〇・三%)がPAから分裂した候補に投じられた。この候補は、一九九四年に革命的な左翼はPAに参加すべきだと主張してNSSPを離れていった人物で、戦争に反対する広範囲な左翼小政党、個人、NGO(非政府系組織)の支持を受けた。
 労働組合指導者バラ・タンポのようなその他の左翼人士は、選挙のボイコットを呼びかけた。しかし選挙での政治的な分岐は、主要候補二人のどちらに投票するかに集中し、ことに進歩的な有権者はUNPが勝利した場合の危険性を十分に認識していた。
(インターナショナルビューポイント誌319号)