2000年5月10日          労働者の力               第122号

総選挙をめぐる状況と政治的立場
                                        川端 康夫

森内閣登場以降、一カ月余が経過した。この間、森はロシア訪問に続きサミット参加各国首脳の協力を求めると称して、欧米をあわただしく歴訪した。最後はアメリカ大統領クリントンとの会見だった。日本首相が就任後に最初に訪問するのはアメリカと決まっていたものだが、ロシアを最初にしてしまった(これは小渕のスケジュールを継承したものだが)ことにあわてた外務当局が、サミット参加国歴訪という体裁を作り上げた経過がみえる。実際、各国首脳との会談は実質は何もなく、就任あいさつ程度のものにすぎなかった。しかし暫定や選挙管理内閣といわれる森にとって、もちろん彼なりに本格政権への意欲を示し、外交に弱いという印象を薄めることに多少は役立ったという効果はあったと自負するところはあろう。争点なき選挙といわれ、自民復調のもとでの選挙ともいわれる。だが森内閣をめぐる客観状況はそうは楽観を許さないものがある。橋本を退陣させた民意の動向を思えば、あらかじめ結果を決めつけることはできない。自公勢力に打撃を与えるために闘う必要がある。
自公の政治は破たんに瀕している
 
 不人気の坂を転げ落ちつつあった小渕が倒れたことへの同情もあってか、森内閣の支持率は小渕よりは上を示している。だが、このご祝儀相場がいつまで続くものか、自民党首脳も楽観はしていない。それで衆院解散、総選挙は時期が早まることになった。六月二日の解散、十三日告示、二十五日投票の線が確定的といわれる。
 相棒の公明党も含めて、自公連合は選挙戦の帰趨を「景気回復」に求めてきた。そのために政府は懸命に景気回復軌道に乗りつつあるとの宣伝を繰り広げてきた。企業の設備投資が回復基調にあるという宣伝は経企庁の売り込み材料であるが、日銀短観もまたその線に沿って「上向き」の数字を強調する。
 だが連休終了直後に株式相場は急落した。ニューヨーク株式相場の乱高下、とりわけ情報関連のベンチャー企業が集中するナスダック店頭市場の総合指数が暴落同然に値崩れし、それが東京市場に跳ね返り、ネット株バブルの一挙的崩壊を加速した。
 ネット株バブルを中心的に演出したのは光通信とソフトバンクであるが、光通信はすでに崩壊してしまった。社長は数兆円の資産を有する世界有数の資産家としてもてはやされたが、株価暴落を前に個人的な売り抜けを行った疑いがあり、司直の事情聴取を受けている。光通信バブルの崩壊は、株式市場に数兆円規模の巨額損失を与えたとされている。まさにバブル崩壊である。
 ソフトバンクもすでにアメリカ市場からは相手にされなくなりつつある。IT(情報技術)革命と喧伝され、一挙的な右肩上がりの高値更新を続けてきたネット株の崩壊は、ニューヨーク相場にバブル崩壊の不安感がただよい、積極材料に乏しい株式市場の唯一の好材料が消えつつあることを示したのである。
 そして日経平均は、七カ月ぶりに一万七千円台を割り込む(五月十一日)に至っている。政府は平静を装うものの内心は顔色を失ったとみていい。
 政府・自民党、そして公明党が頼みにしている景気回復基調をそれなりにみえる形で示しているものは、ただ株式相場の上昇だけにあるからである。他の各種指数は軒並みに悪化を続けている。失業率は史上最悪の水準に張りつき、可処分所得は減少し、消費支出も減少を続けている。とりわけ高校新卒者の就職率は驚くべき低さであり、政府財界をあげての大リストラ政策の「効果」を如実に示したのである。
 宮沢蔵相が幾度も繰り返すように、財政は確かに限界水準に到達している。政府と自治体をあわせた借金の総額が六百兆円を越すという事態が示すものは、例え政府が赤字国債をさらに乱発し公共事業につぎ込もうとしても、その一方を担う自治体の財政がついていかない事態となったということである。
 政府資金だけで公共事業投資をまかなっているわけではない。この間の多くの公共事業は、政府の補助金――多くは自治体事業への補助金の形をとる――支出で、自治体に事業を強要する状態となっている。地方自治体はしたくもない事業をなんとしてもひねり出すことを政府から求められてきているのである。それが自治体財政を極度に圧迫する最大の要因となっていることは、一般にはそうは意識されていないが、重大な問題なのである。
 こうして宮沢財政はゼネコン救済資金を大量に銀行への資金注入としてつぎ込みつつ、財政を破たんの瀬戸際にまで連れていったのだが、それが景気の回復につながらないという最悪のシナリオが現実となってしまうのではないかとおそれ、株式相場に一喜一憂している。いずれにせよ、自公連立政権は大増税への舵を切ることになる。
 大リストラ強行、賃上げストップ、切り下げを進める自公連立政府に民衆の支持が集まるはずはない。その上に景気回復の望みがないとすれば、森内閣初の選挙の行方はそうは楽観できるものとはならないはずだ。
 そこで起こりうる地滑り的な危機を押しとどめているのが、一つは小選挙区制度であり、二つは自公の選挙バーターである。
 
進行する自公バーター選挙
 
 自自公に続く自公保の連立政権の実質は自公連立である。つまり自由党から分立した野田新党である保守党は、現職だけで闘うということで、比例区議員の獲得を展望していない。小選挙区での彼らの当選は、ほとんどは公明党票の援助を受けたものだから、今回も自公連立に一枚加わることをもって公明票の援助を期待したわけである。
 その可能性はどの程度あるのか、水面下でのやりとりがなされているはずだ。公明票が全然期待できないとすれば、海部や二階を除いては危ういとも予測されている。いずれにせよ、保守党の来るべき総選挙での可能性は小選挙区で半減以下(現有二十議席)とみられ、選挙後早々に自民党に復帰することになる。
 他方の小沢自由党は、前回公明票の支持を受けて小選挙区で当選したほとんどの現職議員は当選を期待できない。小沢の牙城である岩手の選挙区以外は難しい。比例区ではそれなりの票が出るが、現有十九の半減は避けられないとみられる。小沢は小選挙区制度の推進者であり、このほどの比例区削減の張本人でもあった。その政党が比例区頼みの選挙となっている。まさに歴史の皮肉である。
 この一例だけでも明らかなように、公明票の行方が小選挙区での当落を左右する可能性をもったところが多い。自公協力の流れは選挙区情勢に微妙に響く。例えば沖縄は前回は自民党完敗の結果となった。自民議員は九州ブロックでの重複立候補で救済されただけである。もちろんこれは、沖縄処分であった特措法強行の結果である。だが今回は微妙な形勢といわれる。
 自公の選挙バーターが成立し、自民党が一議席回復し、その結果、民主党現職の上原が追い落とされかねない状況という。前回の愛知は民主党の圧勝となったが、今回は自公バーターが民主党追い落としを狙う。そして焦点は京都の自共対決と大阪の公共対決といわれる。この両ブロックで自公バーターが共産党阻止にどの程度の効果を発揮するのか。
 結局、自公の選挙協力がそれなりに功を奏し、自民、公明両党の議席を押し上げると同時に、自公(保)による過半数確保を安定的にする作用を狙っているのである。
 しかし公明票の動きはさらに複雑ともいわれる。すなわち自民党内の反公明派議員への狙い打ちが仕掛けられているとささやかれている。新潟六区の白川元自治相(加藤派)が代表である自民党内の反公明陣営には、東京四区の森田健作(山崎派)、十六区の島村宜伸(江藤・亀井派)、十七区の平沢勝栄(小渕派)らがいるが、彼らを標的とした民主党との密約がある可能性が高いといわれている。
 自民党幹事長の野中が出した通達、つまり「自公協力を批判してはならない」に対して森派代表となった小泉が批判し問題となったが、公明票の「威力」を見せつけ自民党内部の反創価学会系列議員の追い落としを狙っているということである。
 自民党は現有小選挙区百九十六、比例区七十三、計二百六十九議席を有している。前回獲得議席は二百三十九だから三十ほどが他党、他会派から流入したわけだ。
 比例区定数が二十削減されていることを勘定に入れての勝敗線問題が自民主流、非主流から数字が上げられている。野中は最低勝敗ラインを二百二十九と設定した。理屈は、比例区議席二十削減のうち半分は自民党がかぶるということである。また同じく執行部筋は、自公保三党の総計が安定過半数の二百五十四議席を確保すれば勝利とも述べる。
 衆院過半数は全議席四百八十であるから二百四十一である。安定過半数というと、議長や各委員会の委員長を確保できる数字となるから二百五十四議席が必要ということである。現有議席から見ればあまりにも低い数字ではあるが、執行部としては保険をかけたいわけだ。
 しかし自民党は、自由党ちょう落の最大受益者となるはずで、十九議席の半分以上(十議席以上とみられる)が転がり込むと予測されている。自民党は小沢との決別で最大に得する計算である。単独過半数も可能な現有議席数であり、自由党分裂の「効用」である。
 しかし自民党が仮に単独過半数の二百四十一ないしはそれ以上を獲得しても、参議院がある以上連立は解消できない。現在反主流派である山崎が、勝敗の目途を単独過半数の確保と主張しているのは、ハードルを高くしようという魂胆があると同時に、公明党との連立解消のための衆議院的な場での前提を作ることを要求しているのであろう。しかし小選挙区制度が持続されるかぎり、選挙協力のバーターの必要性は高まるだけで低くなることはない。
 公明票の「威力」が、結局は小沢の破たんを導いた。小沢が十年前に公明党という「禁じ手」を使ったと批判されたが、しかしその「威力」は自民党にも相当程度、民主党にも幾分かは作用している。それが小選挙区制度導入という「政治改革」が導いた惨状である。自公ブロックそのものに痛打を当てないかぎり、こうした選挙区事情を利した政治取引の堕落はさらに深まる。
 しかし自公連立に対する反感は依然として根強い、と支持率調査は明らかにしている。森内閣発足時のご祝儀相場を掘り崩す要因は先述したように相当に明らかだ。そして何よりも森個人の政治的資質に不安感がつきまとっている。ぼろが出ない内に総選挙という判断がサミット前の解散をうながした要素といわれる。まして小渕の不人気を覆す森路線というものはない。自公ブロックが叩かれる可能性は決して少なくはない。
 
小選挙区制度の極度の歪み
 
 小選挙区制度導入に動いた政党が壊滅的打撃を受けたのは、繰り返すが歴史の皮肉である。公明党を除いてという条件だが、その公明党も中選挙区制度時代の議席数には大きく及ばない。この党が自民との提携に走り、選挙区バーターを駆使している現実も、小選挙区制度時代に生き延びる必要に迫られてのことと見るのも可能だ。この党が「革新」から「保守」へと座標軸を移動させてきた原因の一つに、小選挙区という制度の影響を否定はできまい。公明党もその意味で制度推進のつけが回っている。
 新進党の空中分解、そして社会党―社民党のちょう落。自民党と共産党が反対ないし消極的であった。その両党が、一方は小選挙区制度の「恩恵」を受け、他方は闘い抜いている。小沢の比例区全廃、鳩山兄もその論理だったが、闘い抜いている共産党の議席数はもっぱら比例区に存在していることを意識してのことだったろう。共産党の現有議席は二十六だが、小選挙区はそのうちわずか二である。比例区をつぶせば共産党の議席もつぶれる、という考えがあったことは明らかだ。
 だが鳩山兄がいかに自説を主張しようとも、民主党もまた比例区頼みの政党であることに変わりがない。民主党現議席九十五のうち小選挙区四十八、比例区四十七と半々である。社民党の地盤をさらい、保革連合政党として登場した民主党だが、にもかかわらずこの選挙区制度のたてまえの「二大政党」制度からはほど遠い。
 しかも九十五議席は前回総選挙終盤の突風が押し上げたものだから、小選挙区制度の「恩恵」を受けているとはとうていいえない。「風」頼みの選挙の危うさは変わらないし、第一、中選挙区時代の長期低落に直面し危機にあえいでいた当時の社会党の議席レベルを越えているわけではない。むしろそれよりも少ない。
 小選挙区制度が自公連立を支え、そうして議席をめぐるバーター方式の成立とともに安定多数政権を「人為的に作り出す」という制度の特性が作用し始めている。
 つまり小選挙区と比例区の投票の結果がまったくかけ離れたものとなっているのであり、比例区に表現された「民意」は結果として完全に無視されている。
 現有議席で比較してみよう。
 比例区総数二百。自公保計百六。その他九十四。自公保はかろうじて過半数を制しているだけ。ところが小選挙区は総議席三百のうち自公保は二百三十という圧倒的制圧である。もっとはっきりさせるために、宮川隆義政治広報センター社長による中国ブロックの分析例を引用する。なお断っておけば、この小論では状況分析の多くを氏の分析に負っている。
 「有権者六百十五万の中国ブロック(鳥取、島根、岡山、広島、山口の五県)は、二十一の小選挙区を自民党が独占。一方民意を『反映』する定数十一の比例区は自民党が過半数に届かず、自民五(ないし四)、公明二、民主二(または三)、共産一、社民一に比例配分されると予測される。小選挙区と比例区とでは選挙結果のかい離があまりにも理不尽すぎる。その現象は、やはり自民党が小選挙区を独占する可能性がある四国、九州でも起きる。歪んだ選挙制度が自民党後退の歯止めとなっていないか。野党第一党の鳩山民主党代表は小選挙区制一本化論者だが、この選挙制度が存続する限り、民主党が政権を獲得する可能性は永遠にないのだ」
 そして宮川氏は上記の直前で次のように述べている。「こんどの総選挙は、二度目の小選挙区比例代表並立制選挙になる。今回こそ、この選挙制度の善し悪しがはっきりするだろう。比例代表区は公選法改正で一部改善された。比例区当選議員の党籍移動を禁止し、小選挙区にも重複立候補した比例区候補の当選に下限得票を設定した。しかし小選挙区制はまったく改正されず、本来の目的である民意の『集約』が、結果として『偏重』になる危険性を証明する」
 こうした「危険性」は小選挙区制度導入の時に声を大にして叫ばれたものである。「民間臨調」なる組織を作りだし、学界や大マスコミを網羅して強引に小選挙区制度の導入を図った勢力は、小沢を「改革派の旗手」と持ち上げ、二大政党制を人為的に導入することこそ、政治改革の柱と叫び立てた。とりわけ東大の佐々木毅教授の役割は記憶に新しいし、読売新聞らの右派が主導した大マスコミ横並び構造に平然と席を並べた朝日新聞の政治部長が、同じ朝日の石川真澄編集委員の悲壮なばかりの孤軍奮闘を黙殺したことも忘れられない事実だ。
 こうした民間臨調のお先棒を担いだのが、内田建三らの、宮川氏と業界をともにする政治評論家集団のほとんどだったことも指摘されるべきだ。つまりここで宮川氏が述べたことは、当初から猛烈な反対論の指摘してやまないところだったのである。記憶を新たにするためにいえば、石川真澄氏の論理の核心は「この制度は一大巨大政党を生み出すだけだ」ということにあった。人為的に操作した安定政権の創出こそが小選挙区制度導入論者の真の狙いであった。
 その意味では、小沢本人の挫折は別として、小沢「改革」は少なからず貫徹されているのであり、それ以降の政治の反動化の布石はこのときに現実に打たれたのである。

改憲阻止に必要な百六十一議席

 昨今、自由党や自民党の右派部分が音頭をとり、憲法改悪への動きが急ピッチで始まった。国会に憲法調査会を強引に設置したのも、国会内部における「歪められた」民意の人為的「偏重」が導いている。
 憲法問題でいえば、国会の三分の二による「改正」の発議が第一のハードル、そして国民投票の過半数が第二ハードルとなる。現行議席でいえば、四百八十議席の三分の一は百六十議席である。つまり「憲法改悪阻止のための必要議席数」は最低限で百六十議席が求められる。
 では現状を見てみよう。改悪反対派と確定できるのは共産党と社民党であわせて四十五しかない。民主党は内部は割れているから、おおざっぱに半分と計算してみて四十七議席。百議席に満たない。出入りがあったとしても百議席程度がいいところであろう。この現状を背景にした改憲攻勢である。議席的には「改憲派」はすでに圧倒的三分の二の心証を得て動き出している。
 だが、もちろん事態は簡単ではない。肝心の公明党の動向が不明であるだけでなく、依然として前時期の「革新的」ムードから自由とはいえないし、自民党そのものの内部も整理がついているということではない。だが最大は、やはり国会外の直接国民投票を経過しなければならない、というハードルが最大である。
 それを意識するほどに改憲推進派は、国鉄解体を実現した土光臨調やその二番煎じの民間政治臨調のような擬似的な世論統合装置を仕組み、それによって何よりもマスコミを総体として巻き込むこと、政治的には圧倒的な改憲ムードを演出するという方法を画策することとなるだろう。
 そのためには何よりも院内の議席的力関係を相当程度に有利に仕組み、公明党や民主党(党首鳩山は明確な改憲論者である)を、改憲ムードにはっきりと巻き込むように努めることが必要となる。なにしろ院内力関係を人為的に多数派に一方的に有利に仕組むことはできてはいても、それと民意は隔絶しているというリアルな現状をみれば、国民投票を意味する国会発議には相当の慎重な準備と、大規模な世論操作の仕組みを画策しなければ自信は持てないだろう。
 その意味で、最終的決戦場は当然国民投票の場となるが、そこに改憲派が持ち込み得たということは、マスコミを先頭とした大キャンペーンが吹き荒れている事態と想定してかかった方がいい。それ以前にその動きを止めてしまうことが当然ながら必要な事態だ。
 もちろん日本資本主義社会が当面しつつある社会状況は、当初に述べたように財政破たんと大増税、高失業率の定着と消費支出の大規模な減退という時代的特徴を持つであろう。経済成長率が低迷する社会に財政再建の大増税が加わった時に、現在の政治構造がそのままに延長されるとは考えにくい。
 自民党支持率の低下は不可避であろうし、自民党が現行の体制を維持できるとは必ずしも想定できない。さらにいえば、自公連立以外の組み合わせが政治日程化することも十分にあり得る。
 二十一世紀初頭の時期は、おそらくは安定的な政治環境が改憲推進派には必ずしも十分に用意されない可能性が大いにある。そしておそらくは、そうした局面を闘い抜く労働者の新しい運動が、連合に代わる新しい労働運動組織へと発展していく契機をつかみとっていくことになるのはまちがいない。総評解体・連合形成から社会党解体へと進む過程で一九九〇年代の政治構造が作られてきたが、二十一世紀最初の時期にそれが再び崩れる可能性を切り開いていくことが最も要求される闘いだ。
 だがそれは重大だが、しかしもう一つの問題である。現行議会の力関係は明らかに「改憲阻止勢力」には不利である。この関係を崩していくためにも、自公連立勢力に痛打を加える闘いを具体的に選挙戦において展開していかなければならないのである。
 自公に痛打を!
社民党、共産党、そして新社会党(兵庫三区・岡崎ひろみ候補)に投票を!
 

 なお平和市民選挙や市民運動をともに闘った複数の候補者が社民党公認として出馬する。現職の保坂展人(東京六区・世田谷)、辻元清美(大阪十区・高槻)に加えて、大阪十七区・堺には、かの西村慎悟(自由党)との対決を掲げて中北龍太郎弁護士が出馬を表明している。健闘を祈りたい。
       (五月十三日)

連載 その五                                       
環境社会主義と労働時間短縮
「持続的な成長」とは何か

                                    神谷 哲治

第六章 資本主義と労働時間短縮〈U〉(続き)

3 社会的必要労働時間?

 ところで1では、価値は正確には「社会的必要労働時間」であるとした。それは、ある商品が社会的に平均的な労働生産性の下で生産されているときに充用された労働時間だとされる。この場合、実際に充用された「生」の労働時間がそのまま価値になるわけではない。生産性の差に応じて割り引かれたり、割り増しされたりした後にはじめて価値となる。
 それが「正統」的な価値規定である。しかし、この規定は、現実の生産過程では実際のところまったく抽象的であり不分明である。少なくとも交換以前にはその価値を誰もとらえることはできない。その限りでそれは、実際の生産がそれに従って遂行される個々の生身のブルジョアの主観的価値尺度、量的尺度と対応する保証は何もない。生身のブルジョアはもちろんマルクス主義者ではないのだから、そのような不分明なものに従って生産を具体的に律することなどとうていできない。
 従って「正統」的な価値規定は、実際の資本主義的生産を律するものとしては不適当であり、相対的に別個なものというべきである。
 マルクス主義が、資本主義的生産の実際の展開メカニズムに迫ろとするならば、資本が実際に依拠しているものから出発しなければならない。資本が主観的に依拠しているものの基底にある客観的な事物の関係をこそつかみとらなければならない。
 この点で私は、現実の生産に充用されている、「社会的必要」という形容詞のつかない裸の労働時間こそが価値の量的基底を与える実体だとするマンデルの立場に賛同したい。
 その理由は、第一に四章の2で述べた「労働時間の社会的労働としての等質性」である。
 社会的労働はどのようなものであれ、まさに社会的な意味で機能している。その総体が社会的に必要なのであり、各々の労働時間はその一部を等質に体現するという以外にないであろう。そして等質であるならば、量は実際に費やされた時間に比例する他ない。
 だから、この場合の本質的な含意は、価値はまず社会総体の次元で、社会が生産した総価値と、社会で充用された総労働時間との対応として規定されているという点にある。各々の具体的な労働時間は、その社会的総価値を時間に比例して表現するのである。
 そして第二の理由は、資本主義的生産における労働時間取り扱いの現実である。一人の労働者が働くべき労働時間は基本的に社会的に規範化されている。そして、それに対する支払い、すなわち賃金も基本的にはその水準が社会的に規定されている。現実の賃金水準は、確かに職種やその他の社会的に序列化されたものに対応したある種の格づけをもっている。しかしそうであってもそれは、社会総体における労働力市場の下部的構造であって、格づけ水準それ自体には強い社会的規定力が働いている。それはある一定の範囲に安定的に収れんせざるを得ない(図―7)。この水準を離れて、個々の資本家が好き勝手に賃金を決めることは通常はできない。
 社会的に普遍化された労働時間と賃金水準、これが大枠化された資本主義的生産の実際の土台である。この上で実際の生産がなされる。
 そして個々の生産性がどうであれ、生産物が売れようが売れまいが、あるいはどれだけの価格で売れようが、資本は実際に充用した裸の労働時間に対して、先の大枠に従って支払う以外にない。そこから逃れようとする資本家は確かにいる。しかし、それは脱法行為、あるいは社会的に指弾される行為でしかない。
 このようにして先の社会的な大枠的関係が現実の資本を規定するのであって、またその関係を尺度とすることによってはじめて資本は自己の生産計画を作ることができるのである。
 一方、社会的に基準化された賃金の全社会的総計は、全社会で労働者の生計用資材の生産に充用された総労働時間に価値として対応する。それ故、社会的に普遍的な基準的労働時間と同じく普遍的な基準的賃金という関係は、結局、社会の総生産として充用された総労働時間と労働者の生計用資材生産に全社会で充用された総労働時間の数量的関係に他ならない。
 こうして(V+M)とVの関係、(V+M)/V=(1+M/V)、結局(M/V)は全社会的に規定されたものとして社会的な意味をもつものとなるのである。そうであればこそ、賃労働関係は現実社会において普遍的全般的に機能できるといってよい。それは現実には、付加価値が少なくとも賃金のX倍でなければならないという形で、すなわち(1+M/V)の貨幣化された尺度として現実の資本、経営者の主観に刻印され、彼らの活動を方向づけることになる。
 普遍的な、社会的に規定された賃金水準と労働時間という姿を介して、当該の生産過程において実際に充用された労働時間こそが、そこで生産された価値となる。
 それでは「社会的必要労働時間」とは何を意味しているのであろうか。それは社会のすべての生産が同一の平均的労働生産性の下で機能していると仮定したとき、総労働時間から各々の商品生産に割り当てられるべき労働時間という以外にない。その意味で社会の平均的労働生産性の下で実際に活動している企業があるとすれば、そこで充用された労働時間はまさしく「社会的必要労働時間」である。
 しかし現実の資本主義社会は、多数の諸資本が少しでも高い労働生産性を求めて激しく競争し相争う社会である。その結果として、その社会は労働生産性の格差が発展し、かつ構造的にそれが固定化されうる社会である。
 労働生産性が、社会的平均に向かって平準化していく原理を、この社会が無条件に備えているわけではない。例えば資本移動の自由は上記の平準化を実現する最も重要なテコである。しかし自由な資本移動の必然的結果である資本の独占が、今度は自由な資本移動を阻止する。資本移動の障壁は、この他にも歴史的、文化的、社会的、政治的、さらに自然的諸背景をもって多様に形成されてくる。
 資本の現実の存在形態は多数の相争う諸資本以外ではないのであって、それ故、これらの障壁は各個別資本ごとの「合理性」に従って「利用」され、また変形される。資本主義的生産はまさしく中空で展開されるわけではないのである。それ故、現実の資本主義の全発展史はその中に、労働生産性格差の発展とその「単一の市場の下での独特の統合」、まさしく「複合的不均等発展」を必然的に内在させている、とマンデルはとらえる。
 そうであれば、「社会的に平均的な労働生産性」も、また「社会的必要労働時間」も現実には事後的にしかとらえ得ない一つの抽象でしかない。それは、資本主義的生産を構成している基本的要素とその関係を、総括的に全体としてとらえるための概念装置というべきものと私は考える。
 
4 市場交換と価値移転

 ところが一方、われわれは、現実経済では労働生産性の高さによりその企業が「実現する」付加価値に大きな差があることを知っている。
 等価値の生の労働時間、従って労働生産性の相異にこだわらない等しい生産価値と上記の落差は何なのか。それこそ価値の生産と「実現」、すなわち市場交換の落差に他ならない。
 生産された商品価値はそのままでは社会的意味をまったくもたない。それは流通過程、一般的交換過程に投げ入れられ、他の商品と交換されることにより、本質的には他の商品の形態で自己の担う価値を「実現」しなければならない。この一般的な交換について従来われわれが慣れ親しんできた枠組みは基本的に「等価交換」であり、そこに基礎づけて「搾取」を学んできたのであった。
 ところが実際の資本主義市場における個々の交換が「等価交換」であるとする根拠は何もない。等価交換であるためにはそもそも少なくとも交換対象である商品についての正確な価値認識が必要である。しかし発展した商品生産社会――多数の商品が無差別に、不特定多数の間で一般に交換され合う――である資本主義社会、しかもそこでは個々の労働生産性が日々不規則に激しく発展している、そのような社会では、正確な価値認識などまったく不可能である。事実、この社会では、個々の企業における実際の労働生産性、生の総工数は最も重要な「企業秘密」となる。このような状況においては一般的にいって、資本主義市場の現実の交換は「不等価交換」という以外にない。それ故にこそ、「不等価」なものを見掛け上「等価」へと移し替える装置が不可欠なのであり、貨幣はまさにそのようなものとして機能し発展する。
 ただし、ただ一つだけ、その生産費、生産価値があまねく知れ渡っている、「秘密」のない商品がこの世の中にある。それこそが労働力商品である。それ故にこそ、「労働力商品」の価値、すなわち規範化された労働時間に対する基準化された賃金が社会的に形成され、それが社会全般を普遍的におおう。つまり労働力商品に関する限りは唯一「等価交換」が成立するのであり、従ってまた「搾取」概念の本質は何ら傷つくことはない。
 さて「不等価」交換は、異なる労働生産性の下で生産された、異なる生産価値、すなわち実際に充用された異なる労働時間を担う商品が市場において同一の価格、同一の貨幣表現をもつことによって成立する。つまり市場交換は、各々の商品価値が市場においてその生産価値からかい離した市場価格に転化することによってはじめて現実のものとなる。この「転化」は、需要―供給関係に基づく価格変動、すなわち価格の生産価値からの全般的騰貴、あるいは下落のような価値からのかい離とはまったく別の事柄である。
 この関係を最も単純化すれば図―5のようになる。ここでは、T、Uを、同一商品が異なる労働生産性の下で生産された場合の各々の生産価値と考えればよい。もちろんUの企業の方の労働生産性が高い。しかしこの商品はTであれUであれ、市場ではまったく同一の価格で交換される。すなわち「同一の価値」として「実現」される以外にない。
 その結果として、図に従えば企業Tは生産した価値の一部を失い(奪われ)、企業Uは追加の価値、凾lAを得る(奪う)。企業Uの資本にとっては、(M+凾lA)総体が実現できた利潤であり、労働生産性上昇によりこの資本は競合資本の犠牲、凾l@によって、平均的利潤率より高い利潤率を実現したのである。この関係は第五章の4で述べたことの、マルクス主義的把握に他ならない。その意味でUの資本は市場交換を通じて超過利潤凾lAを獲得したということができる。
 マルクス主義は、価値の源泉があくまで社会的労働にあり、交換そのものは何ら新しい価値を付け加えないという立場に立脚している。従って個別生産過程において生産された価値(V+M)の全社会的総計、煤iV+M)だけが、この社会全体が新しく生み出した総価値、すなわち社会全体が充用した総労働時間である。この総労働時間に対して総賃金、すなわちVの全社会的総計、狽uが支払われる。
 煤iV+M)から狽uを差し引いたものは、この社会が生産した剰余価値の総計なのだが、それはMの全社会的総計、狽lに他ならない。
 一方、交換により「実現」された剰余価値(M+凾l)の全社会的総計も、交換が新しく価値を生み出すわけではない以上、狽lに一致しなければならない。つまり這凾l=0(凾lには当然正負の符号がある)である。このことは、高い労働生産性から得られた超過利潤が、全社会的には低い労働生産性ゆえに価値を喪失した資本の剰余価値低下によって相殺されているということを示している。
 不等価交換とはすなわち価値移転を内包した交換を意味するが、その移転とは上にみるように、結局剰余価値の移転である。つまり資本主義市場では、労働生産性格差に基づいた剰余価値の移転が、あるいは剰余価値の再配分が行われる。社会が充用した労働時間の総量が確定し、支払い賃金の総量も確定している以上、資本総体が手にできる剰余価値総量も生産終了時点で確定してしまっている。
 だから、その内のどれだけを実際に自己のものとできるのかをめぐって、個別資本の間で激烈な闘争が展開されている場が資本主義市場だといってもよい。その闘争の具体的焦点が、まさしく労働生産性をめぐる競争なのである。
 資本主義市場のある種の無慈悲さ、個々の資本家が個人的にはどのような思いを抱いていようが、結局は生き残りをかけて巻き込まれざるを得ない「競争」の残酷さの意味がここにある。「奪う」ことも、「奪われる」こともないはずの「平均的労働生産性」などは実際上誰も知ることができない。そうであれば、奪われないためには奪う以外にない。
 
5 平均利潤と超過利潤

 個々のブルジョアの主観においては、資本主義的生産を展開させていく利潤動機とは必ずしも最高の利潤、すなわち他の誰よりも高い利潤の追求とはいえないかもしれない。
 「適正利潤」という考え方も現実に確かにあるからである。しかし同時にまた、ブルジョアの主観の中にはどんなに少なくとも最低限は達成しなければならない利潤(率)というものも確固としてある。その水準に継続して達しない企業は、銀行からであれ、資本市場からであれ資金調達に行き詰まり、いずれは退場する以外にない。それ以前に経営者は更迭されるはずである。従って資本主義市場での前節にみた闘争を前提にする限り、個々の資本家、経営者は結局のところできる限り高い利潤を目指さざるを得ないのである。
 ところが全社会的に規定された剰余価値率が等しく全資本を規定している以上、個々の資本が「生産」しうる剰余価値Mは、社会的に、つまり階級闘争の関係として決定されてしまっている。Mを仮に平均利潤と呼ぶとすれば、この平均利潤を個別資本のレベルで動かすことはできない。ただ超過利潤凾lだけが、個別資本のレベルで、その「才覚」次第で動かすことができるものである。それは基本的に、その資本家が実現する労働生産性次第である。
 個々の資本にとって、できる限り高い利潤とはこうして、できる限り多くの超過利潤であり、具体的にはできる限り高い労働生産性の実現となる。
 もちろん平均利潤の水準は、すべての資本にとって重大な問題であるに違いない。それは資本活動全体の水準を確かに方向づけることになるはずである。あまりにも低い水準であれば、超過利潤を奪われる資本はほとんど活動を続けることができず、従って全体としての生産活動は極めて低調になるだろう。一方逆の場合は、ますます多くの貨幣を生産活動の場に呼び込むはずである。
 しかしMの水準の問題は、まさに全社会的な労働と資本の関係がつくる問題であり、それには個別資本はあくまで間接的にのみ関与できるにすぎない。この水準を変革するために、強制されることのない自由な活動を自己のアイデンティティとしている各個別資本が主体的に続々と結集し、直接的にあるいは意識的に一定の方向に活動をそろえる、ということはそう度々は起こらない。そのような時機は、資本主義的生産全般についてある種の「危機」が普遍的に認識され、さらにそれが一層高められていく特殊な時機なのだといわなければならない。
 その時機にはまさに、剰余価値率水準の画然とした変革が公然と問題になる。従来的な「調整」のレベルは双方から越えられざるを得ない。階級闘争は文字どうり、総力をあげた先鋭なものとなるだろう。
 一九七〇年代後半以降現在まで続くこの時期こそ、客観的には剰余価値率そのものが問題として提起され、その決着が引き延ばされている時期と考えられる。この中でヨーロッパの労働者は大幅な時短を要求して立ち上がり始めた。それが、労働者の側から従来の「調整」レベルを越えようとするものか否かは未だ断言はできない。しかし労働時間の短縮を、しかも停滞期に要求することが客観的に意味するものは、結局剰余価値率の引き下げなのである(この点については後に再論したい)。従来的「調整」レベルはまぎれもなく危機にある。
 現在に至るまでのヨーロッパにおいて、トロツキストとレギュラシオン派には一貫した対立がある。すでにみてきたマンデルの理論枠組みから考えて、「調整」形成の可能性、あるいはそれが果たす資本主義的生産での機能そのものを、ヨーロッパの同志たちが否定しているとは思わない。問題はそれが機能する条件、あるいは客観的な限界の有無であろう。実践的には、剰余価値率の画然とした変革が「調整」の枠内なのか否かが問われるだろう。
 これは理論の問題というよりは、闘争の現場が決着をつける問題である。われわれには少なくとも、「調整」がある種無前提的に、期間を特定できない相当の長期間続き得る、あるいは「調整様式」のある種「整合的」な変更が可能であるとする立場を非現実的と考えざるを得ないのである。
 いずれにしろ平均利潤は「危機」の時代に問題となる。あるいはむしろ、平均利潤が公然と問題になるほどに低下した時代を、資本主義的生産にとっての危機の時代というべきなのだろう。逆に、資本主義的生産の安定した時期を支配する一般的な特徴が、超過利潤をめぐる「多数の諸資本」の闘争なのである。
 
6 資本主義の安定と加速度的生産拡大
 

 前節までに、基本的にはマンデルの理論枠組みによって、資本主義的生産が展開していく内的メカニズムを確認してきた。本節ではそのメカニズムが、「安定した資本主義社会」を維持しようとする限りは不可避的に加速度的な生産拡大に導いていく論理をみる。
 ここでは、階級闘争、資本の価値増殖、超過利潤という三つの要素から上記の論理に迫ってみたい。

A、階級闘争と剰余価値率
 最初に剰余価値率に関してこれまで通例的に述べられてきた点を確認しておこう。
 まず賃金を変えずに労働時間を延長することで平均利潤を増大させることが、絶対的剰余価値生産と呼ばれてきた。しかし通常の状況下では、個別資本レベルではもちろん、社会全体としても、このようなことは不可能である。
 次に相対的剰余価値生産と呼ばれるものがある。消費財の顕著な生産性上昇とそれによる価格低落を背景にすれば、労働者の実質生活水準を変えずに、賃金の相対的低下、剰余価値率の切り上げが可能とされる。この場合、商品総量増大に対応した貨幣供給があれば賃金は額面上低落するわけでないし、また一定の実質賃金上昇すらあり得る。ただ増大した貨幣量、本質的には商品の増大分の大部分を資本が得ることになる。
 戦後の世界資本主義の状況、すなわち資本の高利潤と、労働者の持続的生活改善との平行的進展に関しては、一般的にこの相対的剰余価値生産とみられることが多いようである。確かに戦後拡張期の高利潤率に相対的剰余価値生産が寄与したことは事実と考えられる。しかし相対的剰余価値生産が持続的に拡大したとはいえない。
 図―6に示すように、戦後直後から十年ほどの間に形成された剰余価値率水準はその後、現在に至るまでおよそ四〇年近く基本的には変化していない。その間、様々な消費財商品の実質価格低下が示すように、消費財部門での労働生産性が一貫して、しかも急速に上昇してきたにもかかわらずである。このような剰余価値率のおおよその推移が示すことは、以下のこと以外ではない。
 つまり労働者は、確立され定着した力関係をテコに、消費財部門での労働生産性上昇を自己の生活の充実、すなわち新たに発展する生活スタイルを社会標準化させ、いわば賃金の「拡張」に取り込んだのである。双方が互いに自己の取り分を拡大しようとしながらも、最終的には新しく生産された価値の労働者と資本への分割の大枠的比率を変えない形で妥協が成立する。
 資本主義社会は、確かに資本が社会全般に対してヘゲモニーを行使する社会といってよいだろう。しかしそのヘゲモニーは、階級闘争によって規定された範囲でしか行使され得ないのである。資本が自由に決定し、実行しうる選択の幅はそれほど大きいわけではないという点に、われわれは十分自覚的であるべきだと私は考える。
 ところで先にみた剰余価値率水準の安定性は同時に、剰余価値率の「引き下げ」に対する資本の側からする頑強な抵抗の存在をも示唆している。
 戦後拡張期、労働者は精力的に生活の改善を要求し、戦闘的にさえ闘ってきた。しかしそれでも、剰余価値率を顕著に引き下げる点まで進むことはなかったというしかない。
 しかし、これはある意味で当然ともいえる。
 普通の労働者の要求は、あくまで生活の具体的改善なのであって、利潤の取り上げではない。
 利潤に手をつけることなしにある程度の生活改善が可能であるとすれば、頑強な抵抗をおして、その抵抗が必然的に引き起こす労働者側の犠牲を引き受けてまで利潤取り上げに踏み込む必要性はないのである。
 戦後の剰余価値率の安定と持続的な(実質)賃上げはまさにこのようにして実現されてきたといってよい。しかしそれは、商品総量の持続的増大があってこそ支えられている。
 従って、労働者の消費水準向上要求が続き、その上での資本主義が全般的安定を得ようとするならば、商品総量はさらに拡大を続ける以外にはない。
 現実の社会は格差に満ちた社会であり、消費水準の改善が絶対的に必要な人々が大量に存在する。そうであれば、労働者全体の消費水準向上は現在でも欠くことのできない要求である。しかしもはやその要求は、環境的要請を真剣に追求するならば、商品総量の急速な拡大に頼ることはできない。資本主義の安定を前提としてきた階級闘争の旧来的枠組みは、もはや有効ではない。
  
B、利潤の追加的価値増殖
 利潤は基本的に二つの部分に分かれる。一つは資本家とその家族、また彼らの特別な用役のために彼らが雇用している人々の消費部分Maであり、他は再び生産の場に投入される追加的な投資部分Mbである。当然(Ma+Mb)=Mとなる。この中で一般にはMaに比べMbの方がはるかに大きい。そしてMb>Maというこの事実がある意味で資本主義的生産様式を特徴づけるものでもある。利潤の社会的意味は、社会的余剰というべきなのであるが、それが私的に分割され再び生産の場に戻ること、この循環が繰り返されることにより、資本主義的生産は加速度的な拡大再生産を実現する。資本主義以前の社会的余剰は、特権的階層の私的蕩尽か、宗教的、王権的権威の飾り物、あるいは権力手段への転化であり、ほんのわずかだけが生産の場に還流するだけだったといってよい。
 従って資本主義社会では、利潤は過半を占めるMbという形で、次の生産でまた必ず利潤を獲得することを課せられた存在というべきであろう。
 それは資本総体においては、必ず追加的な労働時間を必要とするということを意味する。利潤は労働以外からは生まれないからである。その関係は次のように示される。
 社会総体の充用した労働時間総量は煤iV+M)=(狽l)・(1+狽u/狽l)と示すことができる。一方、資本が基準としている利潤率をαとしたとき、次の生産サイクルで生産すべき総利潤は、(狽l+α狽lb)である。従って資本主義的生産が安定的に展開されている状況、すなわち剰余価値率に大きな変動がない状況においては、その社会で充用されるべき労働時間総量は、(狽l+α狽lb)・(1+狽u/狽l)でなければならない。つまり労働時間総量は、α狽lb・(1+狽u/狽l)だけ必ず増大しなければならないのである。
 増大率は(α狽lb/狽l)となるが、これが示す増大ペースの水準はとても低いとはいえないものである。従ってこのことは、労働生産性の継続的上昇と重ね合わせたとき、生産総量の極めて高い拡大ペースを示すものとなる。
 戦後日本は確かに、農漁村人口を急減させ、ひたすら労働者人口を増加させつつ、労働時間総量の増大を成しとげた(図―8参照)。
 そしてそのうえで、生産量はそれこそ爆発的に増大した。
 そして国内労働力に天井が見えてきたとすればその時、資本の矛先は国外へと向かうのである。
 もちろん上に示した狽lbに帰因する労働時間総量の増大率はあくまで一つの目安にすぎない。不変資本Cの価値破壊とそのMbによる補填、すなわち資本の集中と集積、利潤率の傾向的低落など、労働時間総量増大を低下させる要因はいくつか生まれてくる。しかしそれはそれで、実は資本の価値増殖が困難に直面していくということなのである。
 
C、労働時間短縮と資本の価値増殖
 上述した資本の価値増殖の困難には、労働時間の短縮も加わることになる。
 まず第一に、規範化された労働時間短縮は、社会が全体として用意できる供給可能な労働時間の総量を減少させる。ところが、全体の増産基調が続く限り、労働生産性上昇にもかかわらず、既存の不変資本Cの必要とする総労働時間はほとんど減少しないだろう(従って雇用は増大しなければならない)。その結果、Mbが逐次必要とする労働時間の源泉は急速に枯渇していく以外にない。
 第二に、その結果として資本は、もはやその社会内部では価値増殖困難な「蓄積」を抱え込むことになる。生産に充用される資本に関する限りは、利潤率を大きく低落させない方策はあり得るだろう。しかし自己の手の内に蓄積した総資本に対する利潤率はいずれ確実に顕著に低落していく。
 一方、生産総量が抑制された状況の下ではどうなるだろうか。この状況の下でも一般には労働生産性は継続して上昇する。従ってCの必要とする労働時間総量は傾向的に縮小する。それ故、社会の供給可能労働時間が減少しても、労働時間資源はそれほどひっ迫することはない。従ってその限りでは、労働時間短縮が引き起こす困難は緩和されるようにみえる。生産される商品量の水準が低下するわけではないから、労働者総体の取り分を変える必要はない。その限りで、全体として集計された労働者の生活水準は維持される。つまりマクロ的にみれば、確かに剰余価値率を維持したまま労働時間総量は削減できるのである。
 しかしここでは増産が抑制されているから、狽lbはまったく価値増殖のチャンスはない。労働生産性上昇の持続は、さらに価値としてのCの縮小をも必然化する。例えばCの圧倒的部分を占めるCzの縮小として。しかしこれは、増産抑制下では、既存C部分からの遊離貨幣の発生、つまり価値増殖が不可能となった部分の発生を意味する。結局「蓄積」された総資本に対する利潤率はより一層急速に低下するだろう。
 つまり資本にとっては、増産抑制という全体状況そのものが、実は剰余価値率維持ではまったく満足できない生産条件となっているのである。「雇用のための時短」、すなわち労働生産性上昇を大幅に上回る労働時間短縮は剰余価値率の切り下げである。これが生産に実際に使用されている資本の利潤率までをも引き下げてしまうことはあまりに明白である。増産抑制下での労働時間短縮は、資本の価値増殖にとって深刻な困難を作り出す。
 いずれにおいても、労働時間の短縮は資本の価値増殖に確実に打撃を与える。しかしこの関係から資本の逃げ道はないというわけではない。彼らには、当該社会の外に活動の場を求める可能性があるからである。
 資本は多国籍化し、世界のあらゆるところで労働時間を手に入れる。剰余価値率のより高い地域で生産し、なおかつ世界規模での生産性格差を利用した価値移転により超過利潤を手に入れる。資本の価値増殖に制限が加えられない限り、資本は全世界的規模で労働時間を限りなく要求していくだろう。それは結局、剰余価値が人間の労働からしか生まれないことのいわば必然的ななりゆきである。
 ところで、個別資本に残されたかにみえるもう一つの追加的価値増殖の可能性がある。
 それが金融化、投機化である。それは、当該資本にとってはまったく生産に基づかない価値増殖であり、従って本来は他で生産された剰余価値の丸々の移転、収奪である。ところが現代の金融化は、投機化と深く一体化する他ない。
 生産に基づく価値増殖の困難が根底にある限り、得るべき、従って移転されるべき「価値」は、人為的に「幻」として生み出される以外十分確保できないのである。資産の「値上がり益」を源泉とする投機化は、まさにこのようなものとして展開する。客観的にそれは、将来生産される「はず」の剰余価値をあてにしたものというしかない。いってみれば「とらぬ狸の皮算用」なのである。それはうまくいったとして、将来における商品爆発を予定したものなのだが、しかし現在の投機収益として剰余価値が先取りされてしまっている以上、極度に高い利潤率が実現されない限りは、先の生産展開はまったく保証の限りではないだろう。いずれにしろ金融化と投機化は、現在の、さらに加えて将来の「生産からの収奪」である。個別資本にとっては「合理的」な価値増殖が、現代の歴史的条件においては、「生産総体」をまさに弱体化し、不安定化する。古典的帝国主義の時代とは抜本的に異なる力関係が根底の横たわっている。
 それ故、この二つの方向で展開される資本活動の「グローバリズム」も、うまくいったとしても結局は全世界的規模のせつな的な商品爆発以外を生み出さないだろう。商品生産増大の適正な抑制と、しかし全世界的レベルでの抜本的な職の増大とを結びつけるためには、労働時間の抜本的短縮と同時に、利潤の管理、すなわち資本の価値増殖の社会的管理が不可欠なのである。
 
D、生産性上昇と超過利潤
 前章においては、生産総量拡大の抑制下での個別資本の「合理化」が総賃金の圧縮となることをみてきた。
 マルクス主義的にそれは、超過利潤獲得のための、生産に充用される総労働時間の縮小である(図―5参照。T→U、生産量一定)。
 これは労働時間の短縮か、あるいは解雇かの二者択一である。しかし労働時間が短縮される場合、それに応じて賃金も切り下げられることになる。そうでなければ剰余価値率がブルジョアジーからみれば、社会的基準から「不当」に切り下がり、結局超過利潤の意義を減殺してしまうからである。
 しかし賃金切り下げであれ、解雇であれ、労働者にとっては到底受け入れられない不当な方策である。労働者からすれば当然の激しい抵抗は必至となる。そしてこの労働者の抵抗をうち破ることは、資本に必ず保証されているわけではない。それは資本にとってまさにリスクをはらんだ方策に違いない。
 従って資本は、条件が許す限りこのような危険を回避する。その条件は結局、生産の増大なのである。労働生産性上昇に応じて生産を増大できる限り、個別資本は自己の生産に充用する総労働時間を削減する必要はない。その限りで個別資本は、ある種の「平和で安定」した枠組みの下で、超過利潤を確実に実現できることになる。
 このような個々の資本の行動選択は、彼らにとっては極めて「合理的」なものである。しかし個々のレベルで「合理的」になされるこのような方向選定は、すべての資本が継続的に労働生産性上昇に駆り立てられている以上、社会総体としての生産を不可避的に増大させていくだろう。
 生産総量のこのような全般的拡大が継続できるならば、社会総体も基本的に平和的、安定的に維持され得る。ただし資本主義的生産は、その内部に循環性の律動を不可欠に抱えている。
 全般的拡大とはいっても、その中に停滞の幕間を必ず含まなければならない。しかしその場合でも労働者の抵抗を緩和しうるある種の制度が組み込まれるならば、全体的安定をそこなうことはない。
 そのようなものとして、例えば日本ではいわゆる残業の「制度」化があった。日本の労働法制では時間規制が緩い。そのため資本は労働者の強い生活改善要求に対して、基本賃金の上昇をできる限り抑え、残業支払いという形で賃金の総額水準を確保しようとしてきたといってよい。そしてこれは、生産停滞期には実質上、賃金切り下げと時短の組み合わせに等しいものに自動的に転化する。「協定された賃金」の切り下げではないから即座の闘争にはなりにくい。残業カットに対する抵抗が皆無ではないが、それはやはり限定される。
 一方、欧米では一般に解雇――レイオフ――が行われる。ただしこの場合でも先任権協約またはその慣行の下で行われる。解雇と再雇用の順番が厳密にルール化されているのである。そして失業保険その他の制度がバックアップする。
 しかし、これらの「制度」的枠組みの有効性も、生産停滞があくまで短期の循環性のものであることが前提である。激しい競争の下での労働生産性の連続的上昇が、社会的安定を傷つけないためには、まさに生産拡大の全般的持続が必要なのである。超過利潤獲得を基本的駆動力とする資本主義的生産と「安定した社会」との組み合わせは、急速な生産増大によってしか支えられない。
 もっともこの中でも、資本主義的生産の固有の矛盾が発展し、また労働者も質的に新しい要求を発展させていく。従ってある期間の後に、これらが「危機」を現実化させることになるのだが、それは本稿の直接の対象ではない。しかし労働者の新しい要求の内で極めて大きな位置を普遍的にもつことになったものの一つが「環境」であること、それが「平和な資本主義的生産」を支える礎石であった「生産拡大」と鋭く対立的であること、従って資本主義にとっては本質的に深刻な問題が突きつけられていることを、ここで改めて強調しておきたい。
 
7 環境と資本主義的生産の危機

 環境的要請と商品生産の制限のない自由な発展との間には、素直に常識的にみる限り明らかな対立がある。だからこそ一九九九年のWTO(世界貿易機関)閣僚会議が多くの人々の怒りで包囲され、失敗に追い込まれたのである。
 この根源的な溝を否定するためには、テクノロジーの可能性に対する無邪気な信仰に頼る以外ないであろう。テクノロジーによって環境を破壊するが、しかしテクノロジーによって環境を修復、保全しうるとするこの立場は、マッチポンプ的発想という以外ない。それは、遺伝子的に改変され、しかも一世代だけで死滅するように設計された農作物を、環境に対する「救世主」として売り出そうとする世界的独占農薬資本の行動にあまりに明らかに示されている。彼らはまさに、環境破壊においても、環境保全(?)においても利潤を獲得するのである。この発想の下では、環境破壊産業と環境保全(?)産業が手を携えて二一世紀の繁栄(?)を支える!
 しかし二〇世紀後半に急速に悪化した地球環境は、実はそのようなテクノロジーが根源的に依拠している「部分合理性」の問題、あるいは「部分的合理性」の総和が無条件に「総体的合理性」であるとする発想(重ね合わせの原理)、それが人間の総合的、歴史的経験と英知によって検証されることなく大規模に暴走的に自己回転していくことの問題だったはずである。自然はあまりにも複雑であり、しかも多くのものの多元的な相互作用を介した発展と展開というある種の「歴史性」あるいは「有機性」をも示唆していた。自然に対するこのような「科学的知見」自体、至近の二〇―三〇年間に人間がようやく獲得しつつあるものにすぎない。人間の自然認識の部分性と未熟性にようやく人間は気づき始めたといってよい。
 しかしテクノロジー礼賛者は、そのことに気づこうともしない。彼らの「科学観」は、基本的に一九世紀的な機械的唯物論をさして越えてはいないようにみえる。そのことによって状況は一層悪化する。テクノロジーが最も有望な利潤源とみなされることにより、特許その他の手段を動員した「自然科学」領域にまでわたる知識の秘匿が進行し、検証なき実用化がますますスピードアップされようとしている、といってよい。「奪わなければ奪われる」資本主義市場の「合理性」が、「自然科学」までを締め上げる。
 しかし現在、このようなテクノロジー信仰は、普通の人々にとうてい受け入れられるものではない。テクノロジーの有用性は認めるとしても、それは少なくとも厳密に人々の管理下におかれなければならない。情報は公開されるべきであり、検証なき実用化など認められない。このような事柄はもはや人々の常識的な類の要求であろう。
 このような要求は必然的に、生産の加速度的拡大にブレーキをかけるだろう。しかもこのような要求は、今や必ずしも先進工業国内だけのものではない。環境運動は確実に国境の壁を越えている。資本主義のグローバリズムとは、同時に資本の価値増殖活動が全世界の民衆のそれこそ多様な価値によって規定されざるを得ないということである。資本もまた人々の要求と、それに基づく資本活動への干渉から逃れることはできない。今回のWTO閣僚会議の顛末は、そのことを象徴的に示しているのである。
 資本主義の商品生産はその拡大のテンポを確実に抑制される。それは不可避的に資本の価値増殖を抑制する。しかし今度はそのことが資本主義的生産活動を抑制するだろう。金融や情報ソフトなどによる別の回路の可能性について私は否定的に考えているが(金融化については例えば前節)、ここでは立ち入らない。いずれにしろ、世界の人々の活動能力が短期間に極度に低下するという条件がない限り、二一世紀前半を商品生産の新たな繁栄の時代と「期待」する合理的根拠はどこにもないと私は考える。資本主義にとっては、その基底に深い「危機」をはらんだ時期が続く。それがどのような形で表出してくるかは別として、経済的、政治的、社会的な枠組みの動揺と不安定性は収束しない。

8 労働時間短縮と「パイの論理」

 一九六〇年代以降の日本の労働運動で、「パイの論理」なるものが右派から喧伝された。生産をまず膨らませなければ、つまり「パイ」が大きくならなければ労働者の取り分も大きくはできないとする論理である。それに対して左派は、利潤に手をつければいいのだ、と応じたのであった。この中で多くの労働者は、どちらでもかまわないからとにかく生活改善を、ということだったのではないだろうか。
 いずれにしろ前掲した現実の剰余価値率からみる限り、われわれ労働者は事実上、基本的に「パイの論理」の下で生活改善を実現してきたという以外にない。しかし本稿で既に何度も確認してきたように、それはもはや不可能である。
 ところで「パイの論理」の本当の意味は、階級闘争の非和解的発展を抑止する点にある。
 そうであるならば、その論理の変形は今後も右派ならびに資本の側から執ように提供されるに違いない。そして生産拡大の抑制と、労働者の生活改善要求を具体的につなぐ「労働時間の短縮」についても、「パイの論理」の変形は可能だという点をわれわれは自覚すべきだろう。
 それが、生産性上昇に見合った、しかし剰余価値率を変えることのない時短である。この場合「パイ」はもはや商品量ではなく時間である。労働生産性の上昇が「自由時間」という「パイ」を膨らませ、労働者がそれを手にする。剰余価値率の少々の上昇、つまり商品の方は少々資本に渡すことも含まれるかもしれない。しかし商品総量の拡大は抑制され、環境への負荷も抑制される。
 一見何の問題も引き起こさないかにみえるこの論理の落とし穴については、前々節まででみてきた。
 確認のために整理すると以下のようになる。
 その第一は、それが社会の基幹的労働者――安定的に雇用され、基準的生活を維持できている――以外の労働者、社会層を置き去りにするものであることである。
 第二は、資本の価値増殖の危機を解決しないということである。そしてこの第二の問題は、剰余価値率に対する資本の側からの挑戦を不断に引き起こすのみならず、第三に、資本の国外での価値増殖活動――グローバリズム!――への傾倒を不可避的に高めるはずである。
 国内での環境負荷は抑制されるにしても、特に低開発地域でのそれは倍加される。これこそ今現実に起きていることなのである。そして第一と第三は統合され、相乗的に、いわば基準的な、「保証された」労働者の闘争能力を確実に掘り崩すだろう。それが結局何をもたらすことになるのかは自明といってよい。
 「パイの論理」はもはや役に立たない。
 しかも実のところ、上述したような「パイの論理」は右派の観念の中でしか生命力を持たないのではないかと私には思える。労働時間の規範的短縮が労働者の真の要求となり、真剣に実現すべき目標とされるときとは、第一に労働者の要求の質にある種の転換が起きていると考えられるからである。時間を求めることの中には、私的な空間の中で私的に商品を消費することとは別の何かがあるはずである。
 第二は資本の強い抵抗が不可避的なことである。彼らは資本の価値増殖という急所の問題に対して鋭敏に反応すると思われる。第三に、今後の当面する時期において、労働時間短縮要求が客観的に帯びざるを得ない性質の問題である。それは大失業の下では、真剣に闘われる限りは職を求める闘いと一体にならざるを得ないのである。その時それは資本にとってますます脅威となるだろう。資本の抵抗は倍加する。
 フランスでは一九九九年の秋、三十五時間法制の審議に向け、資本家、経営者が大集会をもち、彼ら数万人がパリでデモを敢行したと報じられた。ブルジョアジーが大挙して街頭に出る、これはまさに度々起こることではない。対立は否応なく深まり先鋭化するのである。
 この中では労働者の要求自身もその質を深め、社会性を広げるなどの発展に向けて推力を得るだろう。われわれ自身、活力ある大衆運動が必ずそのような形で人々の意識を解放していくことを経験してきている。同時に、支配的エリートが大衆運動を恐れる理由こそ、もはや彼らでは制御できない、この人々の意識の発展なのである。「パイの論理」は結局無力である。労働時間短縮のためには、労働者は従来の枠を越えた闘争を必要としている、と私は考える。

9 新しい社会運動

 旧来の枠組みを越えた闘争あるいは運動のための条件はあるのだろうか。この問題については最終章で考えてみるつもりである。ただここでは、その条件は二つの方向から現実に発展していると、という点を最低限確認しておきたい。
 その第一は、資本主義が労働者に押しつけようとする「生き方」の問題である。少なくとも、ここ数十年われわれが慣れ親しんできた旧来の要求体系――私的次元での個人生活向上、あるいは私的領域での商品消費向上――の実現可能性は明らかに減少している。多くの人々の中で増大する将来への閉塞感は隠しようもない。
 それはとりわけ青年層にとって深刻であり、時として彼らの反社会的行動として噴出しているといってよい。しかし体制が提供するそこからの脱出路は今、競争における強者になること以外はない。競争を勝ち抜く「個人的能力」だけが報われると説かれている。この教説が、いまやマスメディアが全力を傾ける主題となったといってもよい。
 この中で一部の労働者は、この「個人的成功」の可能性に惹きつけられるだろう。そこには、単に成功への渇望のみならず、社会的貢献への最も確実な近道として、「誰に干渉されることもない個人的能力」に期待を寄せる、ある種の「能力信仰」も作用しているはずである。「能力」の個人的比重の過大評価、あるいはそこへの「幻想」こそ、体制の説く教説の不可欠の一部に他ならない。
 しかし多くの労働者は、そのような体制の教説を明らかに冷淡に迎えている。複雑で錯綜した分業関係の中で日々集団的に、まさしく社会的に生産と流通を担っている労働者にとって、体制の教説は現実の基礎をまったく欠いているという他はない。しかもわれわれは、「雇う者」と「雇われる者」との間にある、社会的地位の歴然とした格差の存在を、いわば肉体に刷り込んだように知っているのであって、それを言葉のうえで消し去ることなど到底できない。
 労働者にとって体制の教説は、「賃労働者である限りは一人前の「市民」ではない」と結局はそういっているものにすぎないのである。
 労働者は改めて今、自らの独自の未来を自分たちの手で生み出す、あるいは「再発見」することを求められている。
 他方、そのような体制の「挑発」を受けて立つ主体の側の条件が成熟に向かって発展している。
 その最も重要な要素は、人権や環境の問題を中心に、既に長期間発展してきた運動の蓄積である。それらの運動を実際に担う人々の過半は労働者、あるいはその家族といってよい。だからそれらの運動も実際は労働者の運動なのである。ただそれらは、伝統的な労働者運動の形態や行動様式、また思考方法と深く異なっている。そしてこの相違が、労働者運動全体の脱皮を具体的に問う重要な鍵に他ならない、と私は考える。それは民主主義の問題に深く結びつく問題であり、労働者が手にすべき未来の核心に位置している。この点について第八章で考えてみたい。
 一方、労働者自身の要求もその質を変化させつつある。例えば、お仕着せの類型化された生活パターンに対する拒絶意識の表面化がみられる。青年により強いこの傾向は、表面的に新奇な商品を次々と手当たり次第に消費する衝動にも発展しうる。しかし底深いところにひそむ本質は、個々の求める「使用価値」と商品との埋めきれない落差にあるように思われる。
 昨年、「買ってはいけない」という本が百万部も売れたといわれている。産直運動や、手作り品への志向とも重ね合わせたとき、完成された商品の大量消費を中軸に組み立てられた生活のあり方に対する懐疑は確かに高まっている。また人々の絆の問題が、いわば商品それ自体とは独立した価値として再登場しつつある。新たな共同性と連帯性が求められている。
 このようにみてきた人々の運動と要求が、客観的に反資本主義的なものであることは明らかである。資本主義は、人々によって少なくとも厳しく管理されるべき対象としてますます強く意識されると思われる。しかし、このような人々の意識の展開は、現在多くの場合、マルクス主義からの「離脱」、あるいは非階級的運動の発展として概括されている。現象としての宗教や、民族主義の「復権」が先行している限り、それは確かに一つの傾向でさえある。そしてまた、マルクス主義が現実と闘おうとしない限りは、人々は否応なく「非マルクス主義の反資本主義」へとせき立てられるだろう。
 しかしわれわれは、ファシズムが人々に「非マルクス主義の反資本主義」を呼びかけたものだったことを忘れるわけにはいかない。反資本主義を幻想の中で発展させてはならないである。マルクス主義の最終的勝利が歴史的に決定されている、わけでは決してない。人々の反資本主義的要求と現実に結合し、それを文字どうり労働者の民主的な党争の課題として積極的に把え、発展させることにマルクス主義が貢献できるとき、そのとき初めて人々の、労働者の未来が切り開かれるのである。マルクス主義に立つ労働者からみて、そのような闘いへの現実の経路は今、労働時間の抜本的短縮、その全般的実現として提起されている、と私は考える。労働者がこの二〇〇年間その旗に刻み込んできたこの要求は、今改めて新しい生命を吹き込まれなければならない。 
(第六章終わり)
ポルトガル
          新しい時代、新しい左翼
                                  フランソワ・ベルカマン

成功した結成大会

 ポルトガルの首都リスボンで一月二十九―三十日、リスボン大学講堂にほぼ千人が集まり、各種の報告を聴き、議論を交わし、そして新しい政治組織、レフトブロックを結成した。
 結成大会は、この政治行動の成功を明確に示した。大会は、規約を採択し、綱領を承認し、指導部を選出した。ブロックは非常に少数の組織ではあるが、ポルトガル共産党(PCP)がほぼ一世紀にわたって非社会民主主義左翼に対して行使してきた政治的な独占支配の状態を打破したのであった。
 これには三つの政党――人民民主主義同盟(PSR)、革命的社会主義党、ポリティクス21――が結集したのであるが、三党間の統一への動きは一九九一年から始まっていた。しかし、この動きが本格化し具体化したのはやっと昨年になってからであり、しかも欧州議会選挙と総選挙で相当の成果を収めたのをきっかけとしてのことだった。
 ブロックは個人党員が構成要素である。が、各政党はそれぞれの機関紙、会議、綱領を保持している。しかしながら新しい組織においては特別な権利を有しているわけではない。宣伝活動はブロックとして実行される。また選出された各種議員は、その議員が党に所属しているか否かを問わずブロックの議員とされる。
 レフトブロック内部では、全国指導機関であるメサは、無党派の個人と党員によって勢力に応じて選ばれる。しかしメサのメンバーは大会で選出される必要があり、各政党がそれぞれのメンバーを提案するが、大会を構成する党員が最終的な決定権を有しているのである。こうした組織構造は極めて複雑に思われるが、これには政治的な確信が背後にあり、またブロックの最初の成功によってもたらされた内的な一つの力学が働いているのである。
 現在までに三党間では一定の政治的な合意が形成され、その結果、情勢分析や観点などに関して共通の分析が深められ、二つの選挙綱領も作成された。しかし基本綱領に関しては、一致がみられていない。
 組織状況を概括すると、全国二十地域のうちの十五において約千六百の党員――ブロックとして組織的な党員募集を行う前――がいる。新組織準備委員会は、結成大会の少なくとも一週間前までにブロックに参加した党員が全国大会招集の対象となり、そのメンバーが大会において発言し、投票し、指導部を選出したり、立候補したりする権利を有することになると決定した。大会に参加しただけの人は、発言権しか持たない。大会では四つの報告――最初の一年間における活動、規約、政治決議、指導部機関の選出――があり、これらが議論された。

白熱した議論

 規約に関する論議の中心は、党の目的と性格に関する定義であった。ポリティクス21内部の少数派だった改良主義派は、基本文書に対して一連の修正案を提出した。
 大会が採択した基本文書第一項は次のように述べている。
 「われわれの運動は……搾取と抑圧に抗して人類を解放する闘いの道として社会主義の展望を擁護する」
 これに対してポリティクス21内部の少数派だった改良主義派の修正案は次のように提案している。
 「ブロックは、資本主義を、民主化し文明化してきた歴史における主要な要因とみなし」、市場の重要性を確認すると同時に、市場が本来的に有している野放図な自由については、それを放置しない――と。
 民主主義は、コミュニティが考える価値観を守ろうとすることなくしては実現できない。ブロックは「法治国家の枠組みにおいて民主的政治行動と市民参加の方法を支持し促進し、人権を尊重する。社会主義とは、こうした原則に則った社会変革に与えられた名称に他ならない」。
 もう一つの論点は、新しい運動の性格に関してであった。先の改良主義派は、規約の一部に異議を申し立てた。特にブロック党員がブロック運動の政治目的を目的にふさわしい方法で促進することを規定した条項の撤廃を提案した。
 少数派はまた、組織中心形成とその具体的な役割という考え方に反対した。この問題に関する議論は白熱した。改良主義派が特に反対したのは、「民主集中性」と「党と社会運動との関係」についてであった。
 ブロックの綱領は、戦闘的な左翼総体が検討すべきものである。綱領の言語とそのスタイルに加えられている改革には、驚くものがある。新しい政治状況においてブロックは「自らを連帯に基礎をおくあらゆる問題に対処する左翼とみなす」。ブロックはグローバリゼーションに鋭く反対しており、それを「不公正、不正義の拡大」として非難している。第三章、左翼のヨーロッパ像は「市場が支配するヨーロッパに反対し、雇用の保障と人権尊重を重視する再建ヨーロッパ戦略を追求する」としている。ここに新しい左翼の道があり、「新しい運動が生まれている状況におけるブロック」の展望がある。
 提案されたブロック最初の指導部は、八五%の賛成票で承認された。最初の全国指導部(メサ)は、その四〇%が女性で、党員の地理的な分布状況に対応もしており、あらゆる意見の表明が可能なような統一的な組織機能を形成する。

今後の活動と展望

 政治制度面の条件(ことに議会機能における比例部分の多いさ)は、大部分のヨーロッパ諸国に比較してポルトガル左翼にとって有利である。レフトブロックの指導的なカードルは、これらの条件を非常にうまく利用している。
 これは、一九七四―七五年のポルトガル革命の経験を生かしたもので、この革命においてPSRとUDPは一定の役割を果たすとともに、その敗北をも体験し、この革命経験が戦闘的な活動家のこの世代自体に大きな打撃となった。闘いを放棄しなかった人々は今回、普通選挙権と選挙制度とを通じてポルトガル社会と対決することになった。この軌道は、レフトブロックを構成する三つの政党が過去数十年間にそれぞれに体験した政治的な変化と同様に、三つの政党が一つに収れんする条件を形成し、社会に根づいていく能力を示している。
 ブロックは、信仰の自由と政教分離を規定する法案を提案しており、この事実がブロックの観点を典型的に示しており、そこでは個人の自由と私的組織としての教会の民主的な権利を主張している。そして公共の機関や制度に対して教会が行使してきた従来の各種権利は、きっぱりと否定している。
 同様な態度が堕胎に関してもとられており、家庭内における女性への暴力も違法とされる。ブロックはまた、政府の基本施策は議会で投票にかけられるべきと主張している。
 ブロックは一連の大会決議において、ポルトガルおよびヨーロッパにおける左翼の再編を目的としたイニシアティブを議会内行動および議会外行動としてとることを提案している。
 国際活動としてブロックは、新左翼、社会主義左派、共産主義、エコロジスト、民主的な運動などの潮流、組織などとの会議、集会に積極的である。ことに「二〇〇一年の最も適切な時期に……ポルトガルで欧州連合(EU)における基本的な権利に関する国際セミナーを開催」したいとしている。
 大統領選挙に関しては、レフトブロックは「既存民主主義の限界と闘い、ポルトガル政治制度の根本的な改革のために世論に訴えて闘う」としている。また民主主義の質に関する全国会議を行う予定である。
 ブロックはまた、社会活動を行う左派との円卓会議を開催しようとしている。その場合、社会運動の固有な領域の自律性を損なわないように注意しつつ、政治的な表現をどうするのかが議論となる。
 また一連の大きな運動、ことに脱税に限りなく近い節税や金融業の秘密主義などに反対する運動、堕胎の合法化を要求する運動が柱となろう。
 ブロックは今後二年間のうちに青年組織を結成する計画はないが、この問題に関する会議を行う予定はある。労働組合運動に関しては、新しい労組運動の考えに傾斜している。そしてポルトガル労働組合主義の考えと実践とを再生するのに貢献する集会や会議を行うことを計画している。
 レフトブロックの最初の大会は、左翼の再生にとって価値ある第一歩となった。
(電子版インターナショナルビューポイント誌3―4月号 フランソア・ベルカマンは第四インターナショナル統一書記局員)

核のないアジアを
バングラデシュで会議を開く


 本年二月十八―二十日にバングラデシュのダッカに十四カ国から百五十人以上の活動家、学者が集まり、一九九八年五月にインドとパキスタンが核実験を行ったのを受けて、この地域の核軍縮のための会議を開いた。南アジア、東南アジア、東アジア、北アメリカから参加者があった。会議を主催したのは、フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウス(バンコクとムンバイに組織)とコミュニティ・ディベロプメント・ライブラリー(ダッカ)である。
 会議が採択したダッカ宣言は、次のように述べている。
 「インドとパキスタンは、一九九八年に核実験を行い、核抑止力のドクトリンを採用し、核兵器運搬手段の開発に努めており、そのため自国のみならず、この地域の安全保障に深刻な不安定要因をもたらし、さらには全世界の核軍縮を大きく後退させた。両国の核武装は、その核兵器が地球の安全にとって決定的に重大な危機要因となっているヘゲモニー諸国に習ったものである。
 インドとパキスタンは、核兵器と弾道ミサイルの開発、製造、配備に関連する一切の活動をやめることが至上課題となっている。両国は、直ちに核開発計画を破棄し、包括的核実験禁止条約に署名し、核軍縮に向けた措置をとり、世界の軍縮傾向に復帰すべきである」
 会議が採択した行動計画は、インドとパキスタンの核兵器開発計画の凍結に重点を置いている。そして会議は、核を保有する五カ国に対して、核不拡散条約(NPT)が定めている措置を実現するよう要求している。そして行動計画は、南アジアの活動家たちに対して、世界核軍縮運動に貢献し、非核南アジアを実現しようと訴えている。
(インターナショナルビューポイント誌4月、320号)
サンパウロフォーラム第9回会議宣言(抜粋
                 未来を見つめて
収れん

 二十一世紀と三番目の千年間とへの夜明けに際して、サンパウロフォーラム創設からの十年間、政治的、経済的、社会的、かつ文化的な危機は悪化し続け、こうした人類の経験は「ラテンアメリカおよびカリブ海地域における左翼政党ならびに組織の会議」が一九九〇年七月にブラジルへ招集された、その動機の正しさを支持している。
 創設会議の核心であり、今回のサンパウロ会議に込められていた目的は、第二次世界大戦終了後の東西二極対立終えんがラテンアメリカとカリブ海地域の左翼政党や運動に与えた衝撃について見解を交換することであった。
 サンパウロ会議は、ラテンアメリカ史上最初のことであるが、この地域の左翼全体の政党と運動とを一つの流れに収れんさせるという結果をもたらした。
 左翼の様々な運動は、その起源は全世界の人々、ことにラテンアメリカとカリブ海地域の人々に影響を与えている劇的な諸問題に関する非常に多様な闘いであり、これらの運動は冷戦の終了によっても消滅することはなかった。これらの運動が消滅するとすれば、それは抑圧や支配、搾取、人種差別がなくなったときのことである。
 この地域の政党と運動は、多元的かつ多様であるが、二十世紀最後の二十年間にネオリベラル資本主義の形態となった帝国主義との闘いにおいて、サンパウロフォーラムを構成するメンバーとして一体となってきた。
 フォーラム創立以降の十年間というものは、フォーラムが最初に分析した内容の正しさをひたすらに証明してきた。一九九〇年七月の創立時とまったく同じく、今日においても私たちは、ネオリベラリズムが一定の調整期間をおいて経済開発を推進でき、当該住民のすべてに富をもたらすことができる、という考え方に無条件に反対する。私たちはまた、リベラルの教条が経済的、科学的、技術的な発展に関する不動の法則に対応しているという幻想に反対する。
 過去十年間の経験は、ネオリベラルモデルの限界と、これが人類の直面する問題を解決できないこととを鮮明に示した。一九九九年十二月にアメリカ・シアトルで行われた世界貿易機関(WTO)会議の失敗は、国際的な反ネオリベラルの力強さを象徴的に表現した。
 ネオリベラルのドクトリンが実際に体現しているものは、不正かつ巨大な富を蓄積するためには人類の大多数を犠牲にすることをいとわない一部の人々の経済的、政治的な利益なのである。
 世界経済は略奪の局面に突入している。今日の世界を記述する「キーワード」は、集中、分極化、植民地支配、すなわち富や財産、生産の集中、政治的、経済的、社会的な分極化、この分極化に伴う貧困、排除、周辺化の進行である。
 この分極化と不平等は、ごく少数の人々が製品や利用できるサービスから得られる利益の大部分を独占している事実として世界レベルで表現されている。
 富の集中はまた、それが三百よりも少ない数の一族に集中している事実にも表現されている。それ以外の圧倒的多数の人々は、労働、健康、食料、快適な居住空間、教育、基本的な権利、再生産、人類が数世代にわたって獲得してきた開発の成果などから疎外されている。

アメリカの好戦的な態度

 富の集中や分極化に加えて、アメリカ合衆国の一方的な好戦的態度と、戦後の国際的な法秩序を蹂躙してもかまわないとする犯罪的な決意が、人類の問題を大きくしており、このことは国連とNATOの旗の下でユーゴスラビアの人々に対して行われたジェノサイドにくっきりと示されている。
 人類を計画的な自己破壊行動から救済する唯一の方法は、将来社会が根本的に優先させるべき課題として人間の欲求を満足させる――個人としての満足や利益でなく――ことである。世界的な問題解決ということには、ことにジェンダーや民族、人種、文化、宗教、年齢などに根ざす多様な抑圧や差別、搾取と密接に結合している根本的な階級矛盾を闘いを通じて根絶することを含んでいる。

植民地支配の名残

 全世界の人々は、植民地支配の名残すべて(プエルトリコやマルティニーク、ガドループ、オランダ領アンティール、それからある意味ではマルヴィナスなどの人々を抑圧している)を一掃することなくしては、自らの自由を強め、自決権と全面的な主権とを獲得することはできない。
 二十一世紀の左翼は、変革しようと考えている社会の現実を分析した内容や新しくつくろうとするモデル建設など、多くの経験を考慮することができる。また二十一世紀の左翼は、森林破壊の過程を覆し、国際的な金融投機と闘い、富を再配分し、国家予算作成過程を民主化し公開し、社会参加を促進し、政治的経済的な分権化を促進することができる社会構造への根本的な変化の道筋を研究する必要がある。
 そして二十一世紀の左翼は、国家を転換させる課題に直面しており、国家を新しい統合的な民主主義――すなわち社会的、政治的、文化的、そしてジェンダーの面でも―の展開と深化に役立たせる必要がある。グアテマラにおける和平協定は、この種の過程になれるかもしれない。グアテマラ以外に重要な政治過程は、エクアドル、ベネズエラ、パナマ、エルサルバドル、コロンビアで進行しているか、進行する見込みである。
 われわれはまた、ネオリベラリズムと多国籍資本との攻撃に抵抗する果敢なアメリカ人民の存在に注目する必要がある。
 アメリカ人民の闘いと動員は、生物的な多様性とエコシステムを保存し、これと同様に民族的な多元性を維持し、各民族のアイデンティティや自決権などを承認することを保証するものとして、われわれの国民国家を根本的に転換させていく必要性を鋭く示している。
 サンパウロフォーラム設立からの十年間、ラテンアメリカ左翼は再度、その民主主義と抵抗との伝統を明らかにしてきたのであった。
(インターナショナルビューポイント誌4月320号)