2000年6月10日           労働者の力             第123号
南北朝鮮首脳会談と日本政治
  「神の国」発言の森、「三国人」発言の石原との対決を
                                           川端康夫
歴史的な南北首脳会談
 
 韓国大統領、金大中と朝鮮民主主義人民共和国、金正日総書記の首脳会談(六月十三―十五日)は、劇的とは言い過ぎかもしれないが、東アジア情勢を何らかの形で大きく転換させる可能性を提示した。金大中大統領が平壌に乗り込み、そこで金正日総書記は熱烈に歓迎した。三日間にわたった首脳会談は金正日総書記の韓国訪問という、昨日まででは「考えられない」約束で締めくくられた。
 具体的な詰めは今後の折衝にかかることになる。北部朝鮮指導部が南北首脳会談の開催を受け入れた後に、金正日が北京に飛び、江沢民以下の指導部と会談を持った。さらにロシア・プーチン大統領との公式折衝も報道され、金正日指導部が中国およびロシア指導部との「冷ややかな関係」を修復するとともに、新たな外交姿勢を説明し、理解を取り付ける努力をしたという「準備」の経過を見れば、首脳会談と南北交流への前向きの姿勢が、単なる外交的術策やトリックの類に属するとは到底受け取れない。
 南北首脳会談実現の背景は、金大中大統領サイドからの北部朝鮮への社会資本支援提案(三月九日の「ベルリン宣言」)であり、その受け入れというのが金正日側の立場である以上は、この歴史的な南北首脳会談を外交的術策として扱うことに意味があるわけはない。南北交流は深まることこそあれ後退することはないだろう。
 もちろんそれが南北の「平和的統一」に直結するなどという話にならないことは、明らかである。単一政党である朝鮮労働党の独裁者である金正日総書記が、その独裁の基盤を自ら放棄するとは想定できることではない。中国・江沢民の立場もそうである以上、相対的な経済的「自由化」に踏み切ることと党独裁の支配体制を堅持することとの間の「区別と連関」を厳密にしていくという決意での、南北交流深化への決断であるだろう。
 だがそうだとしても、北部朝鮮の外交政策「転換」が東アジア情勢に与える影響は相当なものであろう。アメリカ民主党外交が一方では軽水炉提供などの融和策に立ちつつも、他方では前方展開戦略や戦域核ミサイル防衛構想などの封じ込め路線を推進している。沖縄基地の保持・強化はもっぱら北部朝鮮「暴発」への布陣とされ、日本政府への情報の、おそらくは意図的操作も含む外交圧力を加えてきていた。
 韓国・金大中政権の「太陽外交」への一貫したこだわりが、北部朝鮮への強硬路線に傾斜する日本政府やアメリカの議会多数派である共和党的傾向を押しとどめていた。そして金大中の執念が三月九日のベルリン宣言となり、そこから急速な南北間の交渉へと発展したのである。
 東アジア、あるいは北東アジアにおける軍事的緊張のアジテーションこそ、自自公連立政権の右傾化路線の基礎にあるものだった。自自公の、日本「周辺」事態法強行や有事法制化への強い主張は、「北」が暴発したときにどうするのだというどう喝として野党サイドに投げかけられたものである。このどう喝は、アメリカによる日本政府へのどう喝がそのまま野党に投げかけられているものである。沖縄特措法に対する民主党の対応を想起すればいい。民主党は結局、沖縄におけるアメリカの軍事的プレゼンスを支持する票を投じたのである。
 自自公政府は、韓国の太陽政策やクリントン政権のKED枠組みへの執念に対し、表向きはともかく、実質は棚上げ路線を走ってきた。北部朝鮮との外交関係樹立にもほとんど熱意を示してはこなかった。日本政府は、一方はアメリカ軍事情報操作に煽られつつも、同時により致命的には自らの外交的展望を樹立するというのではなく、もっぱら日本国家の軍事化への踏み石として利用するだけであった。
 こうした態度は、その基本のところで打撃を受けざるを得ない。自自公、そして自公保が体現する有事法制から改憲へのうねりが材料としてきた朝鮮半島「問題」は、今その南北の当事者によって大きな転換の可能性を突き出されたのである。
 軍事対応のみを念頭に置いてきた自自公、自公保の立場は、この大きな情勢の枠組みからすれば、まさにピエロ的なものにすぎない。その短絡的思考は、戦前の日本外交を牛耳った陸軍的思考の焼き直しといっていいような代物である。
 米軍事戦略の基軸に大きな変化が現れることはないにしても(アメリカの前方展開戦略の主要対象は中国である)、最近韓国内に高まっている在韓米軍の撤退や縮小を求める世論は、南北交流の展開とともにさらに強まることが十分に予測できることである。
 南に核武装部隊を常駐させておきながら、北部の「核開発疑惑」に対して制裁をちらつかせるという方法が常軌を逸していることは言うまでもない。こうした便宜的な二元手法への批判は、外交レベルはどうあれ民衆レベルでは高まっていかざるを得ない。
 
外交不在―「朝鮮有事」路線への打撃
 
 森首相は南北首脳会談を受けて、大きな前進で歓迎すべきことと述べた。教育勅語を評価し、神国日本といい、「国体」を強調する森の思考の奥底は、しかしながら小渕を引き継ぐ「有事法制への努力」と述べたところにある。朝鮮半島問題への軍事的対応の基盤を整備するところに森の関心はあった。森、そして自自公、自公保の東アジアへの外交路線――そのようなものがあるとするならだが――のこのような性質は他からは極めて見えやすいものである。
 例を挙げれば、ソ連崩壊という歴史的事態に対して日本政府がとった積極的姿勢は、橋本が全力をあげた「北方四島返還」の好機というとらえ方しかなかったのであるし、これに対してロシアは経済援助を引き出す機会と見て対応してきただけである。新たな東アジア情勢に対する積極的対応、という姿勢はどこにもなかった。自国利害だけの視点である。森がプーチンを訪れ、プーチン訪日の約束を取り付けたのも、橋本と同じ心情の延長でしかない。
 今回、国会終了後、自公保三党の幹事長が中国を訪問した。その目的がよくは分からない漫然とした訪問だったが、おそらくは森の「神の国」発言などの釈明目的もあったのかもしれない。しかし、この三党幹事長揃い踏みの訪中は、直後に予定されていた金正日訪中がもった歴史的位置とは天と地ほどの違いを示しただけである。
 自公保三党幹事長には、なにか訪中によって実現したい外交目的をもっていたわけではなかったし、中国側もそのように対応しただけである。彼ら三人が直後に迫っていた金正日訪中についていくらかでも情報を伝えられたという話は聞かない。
 ようするに日本政府の対応は、ソ連邦崩壊後十年を経ても何らの新しさも創出できてはいない。森のロシア訪問や自公保三党幹事長の訪中が相次いだが、それらは東アジアの情勢を何らか打開しようとするような努力、意思、展望というものとは無縁のものにすぎなかった。
 国内的には改憲へのムード作り、軍事体制強化の政策、そして森の復古主義的言動があり、他方には石原の反共・外国人排斥路線が公然と出まわる。
 石原の写真がこの春は東京の至る所で見かけられた。つまり自民党衆院予定候補者のポスター抱き合わせの人気者が石原だった。石原の言動の派手さ、あるいはその確信犯としての反動路線、アメリカからの「独立」を言い、江沢民をヒトラー呼ばわりして外務大臣河野を激怒させたり、大銀行に独自課税を強行したりという派手さは、ポピュリズム(人気取り政治、例えば民衆の排外主義ムードに便乗したりするような政治的傾向をいう)という外国用語の正しさを想起させる。
 それとともに、あるいはそれ以上に戦前の少壮陸軍士官を踊らせた北一輝的な雰囲気も思い起こさせるものだ。彼の言う「アジア経済圏」は、それが中国を全面的に排除したアジア経済圏というところに、彼のアジア観を痛感させる。
 「円経済圏」としてのアジア経済圏という概念をもてあそぶのは日本大蔵省の専売特許だったが、それにはいささかも実体的裏づけがあったことはなかった。つまり、一方ではアメリカが許さないだろうということ、他方では巨大化しつつある中国経済を排除したアジア経済圏などは想像もできないということである。
 わかりやすく言えば、ヨーロッパはマルク経済圏として統合されたわけではない。それは新しいユーロという貨幣を創造してはじめて現実化への道を歩んだ。ところが日本政府やそれに連なる論客には「円ブロック」以外の道が「東アジア経済圏」の将来にあるという考えが浮かんだことは一度もなかろう。そして「円ブロック」以外の道が指し示されたなら、日本政府とその関係筋は即座に拒否することになるだろう。
 もちろん私は、将来の東アジアが「元経済圏」になるべきだとか、なるだろうと言っているわけではない。東アジアに単一の経済ブロックが成立する可能性がありうるとも断言できない。だが、巨大な華僑経済圏を東アジア経済の中枢部にまで及ぶものとして保持している中国経済がさらにその開放度を強め、経済的結びつきがさらに拡大していくのであるから、この「元―華僑」経済圏を排除した東アジア経済を「円ブロック」として前提してしまう、その短絡的、一国的思考が私には信じがたいのである。
 その信じがたい論理を石原は正面から持ち出す。アメリカから「独立」し、中国を排除した東アジアの「円ブロック」形成の論理は何か――まさに「日本ブロック」そのものである。そのようなものは東アジア民衆は腹の底から願い下げであろう。
 そのような扇動政治家石原が東京自民党の多くから引っ張りだこなのだ。
 
「普通の国家」路線では東アジアの安定はない
 

 確かに現在の日本には独立的な外交路線はない。あるのは日米安保体制依存の枠組みにすぎない。そうして右派陣営は「自主外交」を唱える。だが、その自主外交の中身は定かではない。鳩山、岸の旧民主党の系列が戦後の保守党政治における「自主外交」路線派の源流となるが、この傾向は同時に帝国主義復活論者、積極改憲論者という側面を持っていた。そして、いわゆる保守本流である吉田自由党の流れは日米体制を基軸としてきた。
 二〇世紀の終わりにあたって、こうした戦後保守政治の分岐は入り乱れ定かなものとはいえなくなってきてはいる。しかし「自主外交」論の中身が定式化されるには至らなかった。日米関係を無視する政治の展望が、アメリカ経済に依存する日本経済のあり方や東西冷戦関係のなかで、そもそも成り立ちえなかったのである。
 戦後政治は従って、対米関係を基軸とする保守政治と対中、対ソ関係に期待する革新陣営に大別されたのである。その枠組みが一九九〇年代に入って崩れた。そこに保守陣営における「自主外交」論が、小沢的な帝国主義的「離陸」論の登場を契機にして浮かび上がる。
 森が引き継いだ派閥は、鳩山・岸・福田と続いた系統である。石原も代議士時代はこの系統に属していた。
 石原の論理は、そうした自主外交論がはらんでいる帝国主義日本の自立的「離陸」の方向性を明示しようとする試みの一つである。そしてその努力は、大筋として右派論理の方向性を体現しようとすることに向けられている。早速、右派論壇は石原による様々な現状打破の「断行」を期待する論文の掲載を始めている。しかし石原の論理には、最低必要とされるような「体系」らしきものは少しもない。
 台湾に飛び、江沢民を非難するにおいても、石原は日本が台湾を軍事併合した事実を忘れているのである。まして中国への全面侵略を行った歴史を見据えることもあるわけがない。「釣魚台」領有をめぐる日・中・台湾の利害衝突に際して石原が、かの西村真吾を行動隊長にして領有権主張の「突撃隊」を送り出したことも有名な話である(ちなみに西村真吾に対抗して中北龍太郎弁護士が社民党から立候補している)。
 日本の保守政治家のほとんどは、帝国主義的離陸、つまり「普通の国家」に突き進む論理以外のものをもってはいない。この傾向は野党である民主党にも相当に浸透している傾向であり、自民党の保守本流以上の改憲論者や「普通の国家」論者が横行しているほどである。だがこの「普通の国家」は、「何をする国家」なのであろうか。繰り返すが、その定式化はいままでなされたことはなかった。その答えの一つを石原が出そうとしているのである。石原の試みは当然なことだが、歴代の保守政治が極力回避しようとしてきた「自主外交の論理」の行く末を明らかにすることになった。
 つまり小沢的な「普通の国家」は、東アジアにおいて真っ先に中国に突き当たるのである。中国との関係を抜きにして東アジアにおける外交政策が成り立たないことは自明である。
 ヨーロッパの例を引けば、東西分裂時代の西ドイツにおいて当時のドイツ社民党のブラントは東西関係の和解に向けたイニシアティブをとった。「東方外交」と呼ばれたブラントの政策は、キリスト教民主同盟の反共・軍事主義とは鋭い対立を形成しつつ、結局はソ連の基本政策の転換、すなわちブレジネフ時代からゴルバチョフの時代への転換を導き出す大きな水路となっていったのである。
 東アジアにおいてその関係は、日本と中国との関係にあてはまる。小沢の主張する「普通の国家」として日本は中国を排除するのか、対立するのか、対抗するのか――おそらくは対抗し、東アジアにおける日本の影響力の優越性を築くために政治的・経済的のみならず軍事的に努力するということになる。「円経済圏」などの構想をもてあそぶことは、すなわち日本のヘゲモニーが自動的に前提されているからである。
 しかし前世紀末期から今世紀前半にかけての中国と現在の中国は全く違う。旧日本帝国主義は中国東北部(旧満州)から華北の勢力圏化、そして対中全面戦争へと突き進んだが、にもかかわらず日本軍部は「支那問題の処理」を実現できなかった。圧倒的な軍事力の相違を背景にしてさえできなかった中国大陸との「対決」を、その時代とは全く違う単一の強力な国家体制をもつ現在の中国を相手に再度試みるなどということは、まさに常軌を逸した発想という他はない。
 東アジアにおける日本は、東アジア民衆の一部として振る舞い、行動すること以外にその将来展望を見出すことはできないのである。そうした場合、日本が「普通の国家」として軍事的に突出する意味はどこにもないばかりか、はっきりと有害である。日本における自主外交というものが成立するとすれば、それは「円経済圏」とか「普通の国家」とかの軍事的突出の論理をもてあそぶことではなく、中国大陸を含んだ東アジアの将来展望を描くときに生まれてくることになる。
 その時はもちろん東アジアにおける前方展開戦略を対中国を意識して展開するアメリカ帝国主義の観点からの離脱が伴う。つまり日米安保体制の消滅が起こることとなるのだ。破棄、あるいは廃棄であれ、日米安保体制という半世紀も続いている軍事的、政治的関係の清算が不可避な政治選択となるのである。
 
軍事突出の自公保路線との対決を
 

 南北対話の進展、交流の提携の深化は一九九〇年代の政治傾向、それは今は自公保と民主党の組み合わせで表現されているが、そうした政治傾向への正面からの打撃である。
 「朝鮮有事」こそが小沢流政治の切り札であり、右翼論壇の論拠であった。北部朝鮮の「瀬戸際外交」がそれを助長させたことも事実である。北部朝鮮の経済破たんと政治的孤立、にもかかわらず体制維持だけを突出させてきた路線の限界は明瞭であった。
 いずれにせよKEDを含む米韓朝折衝の持続は、自滅を回避するとすれば避けられない政策転換の可能性をめぐる折衝であった。そうしたところに、前述したように自自公を典型とする歴代日本政府の視野が届いていたとは到底いえない。自公保連立政権が持続する限り、こうした視野の落差を埋めることは不可能といえるのである。
 「朝鮮有事」キャンペーンに対して、日朝間の相互折衝を深めるべきという対応が出されたのは、社民党の村山元首相らの「超党派」議員団派遣の動きにとどまった。この動きも、当の社民党内部ではスムーズに動いたわけではない。社民党は今でも日米安保体制を受認した村山内閣の後遺症を引きずっている。北部朝鮮の朝鮮労働党政権を支持するか否か――社民党は未だに結論をもてずにいるようにもみえる。
 われわれは社会主義的民主主義というレベルにおいて朝鮮労働党の一党独裁が果たしている役割を支持することはできない。その一党独裁が持続される限り、朝鮮半島の自主的・平和的統一という将来展望に期待を託すこともできないと考える。北部朝鮮には何らかの形で「政治革命」が必要なのだし、その可能性は高まることさえあれ、低まることはないであろう。それは中国においても当てはまることだ。
 しかし、その「政治革命」がいかなる性格で、いかなる水路で進展するかをあらかじめ規定することはできない。ソ連においてはゴルバチョフ改革の姿をとった。その「破たん」を見た中国指導部は、「和平演編」に対して「天安門事件」で応えた。北部朝鮮指導部がいかなる将来展望を見ているか、今それを知ることはできない。
 にもかかわらず今回の南北対話と交流・提携深化の首脳会談合意によって、変化への流れが促進されることは間違いない。
 東アジア、とりわけ東北アジアの自立的な相互交流の深化のために自公保連立、それが体現する軍事主義的突出への動きとの闘いがさらに要求されるのである。
 (六月十七日)
 
連載 その六
            環境社会主義と労働時間短縮
         「持続可能な成長」とは何か

                                        神谷 哲治
第七章 市場の階級性

1 不変な市場?

 一九七〇年代後半以降、市場機能の変わることのない有効性が疑う余地のないものであるかのようにみなされている。もちろん極端な「経済至上主義者」を別にすれば、市場の万能視に対するバランスのとれた懐疑、いわば常識的な感覚は広く存在している。しかし市場の働き方に対する、ある種普遍化された観念、歴史を越えて生き続ける不変のメカニズムという漠とした見方は広く流布しているのではないだろうか。
 私は、本稿では市場を少なくとも見通し得る将来、人間にとって極めて重要で不可欠な社会機構として活用すべきであるとしてきた。
 しかしそうであっても、市場に対する上述したような「普遍」化は非現実的だと考える。
 市場も、いわば人間の歴史的所産であり、各社会に有機的に組み込まれた固有に性格づけられた機能をもつ存在としてとらえるべきだろう。
 われわれは極く一般的に、生産物が交換される場として市場を了解している。そこにおいては何らかの強制が作用せず、いわゆる需要と供給が適合する限りにおいて交換が成立する。
 それ故、社会の需要に見合って、特別の強制なしに再生産が展開するとされる。ここにみる限りは、確かに市場は時代を越え、普遍的に同じように機能するようにみえる。
 しかしそれは、人間は時代を越え普遍的に生産し消費する、という程度とさして変わらない。交換とはいうものの、実は何が交換されているのか、その交換になぜ「強制」が作用しないのか、それ故、交換に際して双方が何を共通に了解しているのか。その交換が継続して推進されるとするならば、そこに双方のどのような目的が働くのか。さらに「交換の発展」あるいは「市場の発展」は、社会のどのような状態に整合的な基礎をおくことになるのか。このような問題は各々の市場を具体的にとらえなければ何もみえてこないと思われる。
 われわれの生活する資本主義社会は、交換が高度に発展し、それこそほとんどすべてのものが一般的に交換され合う社会である。われわれは、市場あるいは交換に特に意識することなく自明なものとして、それこそ空気のようになじんでいる。しかし、そのような市場観が、すべての市場に共通である根拠はどこにもない。
 個々の時代、個々の社会には、各々に固有の働き方の異なる市場があるはずである。そのような観点に立つとき私は、われわれの眼前にある市場がまず何よりも資本主義市場であることを自覚的に確認すべきだと考える。
 われわれの前に現実にあるものは、市場経済一般ではなく資本主義市場経済なのであり、そこに作用しているものは市場法則一般ではなく、資本主義市場に特殊に働く固有の作用なのである。このことの確認なしに、一般的に市場にアプローチすることは非現実的であると私は考える。
 
2 市場の偏向

 市場の有効性は何よりも、需要と供給の社会的均衡を最も低いコストで「最適」に実現することにあるとされる。ただしここでいう「最適」とは、社会の人々の生活充足全般とは異なる。その「最適」は第二章にみた「パレート最適」であり、結局はより高い成長率、最も高い拡大再生産を指すものである。従って先ず市場を考える際、普通の人々が素朴に抱いている観点と、資本、あるいはブルジョア経済理論家の意識している観点が最初からずれているという点を確認しておきたい。
 そのうえで資本主義市場の中で実現されている需給均衡の意味を考えてみたい。
 「最適」には、社会的需要に見合った供給という点で、「合理的な分配」という意味もまた付加されているからである。
 生産者は市場に現れる需要に応えることによってしか利益を得られない。従って生産は市場における需要を通して規定され、社会の必要に最も適合した生産が実現される。普通の人々は、誰に強制されることもない自由な消費者、商品購買者として市場に参加し、自分の必要に合わせて商品購入を決めればよい。それは商品に対するいわば一種の自由投票であり、市場はもう一つの民主主義だとまでされている。
 しかし資本主義市場の根源的問題の一つは、実はここのところに逃れ難く貼り付いている。
 すなわち需要が購入という行為によってしか市場に現れ得ないということである。つまり買うことのできる貨幣を持つ者のみが、またより多く持つ者がより多くの「需要」を実現するということである。もし需要を投票というならば、これは完全な、しかも極めて不平等な「制限投票」でしかない。
 従ってマンデルは『後期資本主義』において、「支払い能力のある需要」という表現を極めて意識的に使用している。市場を通じた生産規定は、「支払い能力のある需要」によってのみ実効的である。第二章で取り上げた社会の所得分布曲線を思い起こしてみたい。資本主義は現実に、極度の富の偏在をその変わることのない特質としている。それはすさまじい偏在であり、そのため下位の比較的なだらかなところに位置している労働者には実感的にとらえがたいほどのものである。
 市場を動かす需要は、まさしくその偏在した貨幣量によって規定される。貨幣をもたない人々の必要は、それが例え深刻に切実なものであれ、市場には何の痕跡も残さない。市場に現れる需要は結局、富裕な人々の欲求に著しく片寄ったものにならざるを得ないのである。
 すなわち需要が購入という行為によってしか市場に現れ得ないということである。つまり買うことのできる貨幣を持つ者のみが、またより多く持つ者がより多くの「需要」を実現するということである。もし需要を投票というならば、これは完全な、しかも極めて不平等な「制限投票」でしかない。
 従ってマンデルは『後期資本主義』において、「支払い能力のある需要」という表現を極めて意識的に使用している。市場を通じた生産規定は、「支払い能力のある需要」によってのみ実効的である。第二章で取り上げた社会の所得分布曲線を思い起こしてみたい。資本主義は現実に、極度の富の偏在をその変わることのない特質としている。それはすさまじい偏在であり、そのため下位の比較的なだらかなところに位置している労働者には実感的にとらえがたいほどのものである。
 市場を動かす需要は、まさしくその偏在した貨幣量によって規定される。貨幣をもたない人々の必要は、それが例え深刻に切実なものであれ、市場には何の痕跡も残さない。市場に現れる需要は結局、富裕な人々の欲求に著しく片寄ったものにならざるを得ないのである。
 こうして例えば、一方に大量に捨てられる食料があり、他方に餓死の危機、あるいは極度の栄養不足に苦しむ大量の人々が生まれる。そしてこのような資本主義市場の「偏向性」を典型的に示すものが、いわゆる資本市場、なかんずく株式市場に他ならない。貯蓄の偏在は所得の比ではない。その貯蓄の内、有価証券保有の片寄りはさらにすさまじい。株式市場とは要するに「金持ち市場」以外ではないのである。それ故、大量首切りを行い利益を確保しようとする企業は拍手喝采をもって迎えられ、株価は値上がりすることになる。
 日本のマスメディアはこのところ、「市場の声を聞け」と唱和することが常となった。
 しかしそれは実のところ、「資本の声を聞け」「金持ちに耳を傾けろ」と正直にいうべきことなのである。
 こうして資本主義市場の「最適」は、結局のところ資本の需要に適合し、最終的に最も高い拡大再生産へと不断に導いていく。
 
3 市場による資本配分

 ところで資本主義市場は、商品の生産と分配を規定するだけではない。資本主義にとってより重要で本質的な機能は利潤の実現である。それは前章でみたように、生産された価値を移転させ、そのことによって社会が生み出した剰余価値総量を再配分する機能である。個々の資本の「合理性」はこの再配分を最も有利に実現することに集中されるのであって、生産と分配に対する市場の作用は、この剰余価値再配分機能によって支配されているというべきであろう。
 まさにそうであるから、社会に存在する資本は市場に表現された需要に一般的に適合するのではなく、より労働生産性の高い生産に集約的に適合していく。需要の大きさが必ずしも資本を引き寄せるわけではない。超過利潤獲得の可能性、つまりより急速な労働生産性上昇の可能性が資本を呼び込むのである。
 この側面がある意味で資本主義市場を特徴づけるものであろう。この働きによって資本主義的生産の労働生産性は、社会的平均として急速に上昇してきた。この点で資本主義市場はまさしく進歩的役割を歴史的に果たしてきたのである。
 しかし同時に資本主義社会は、その内部に複合的不均等発展を不可避的に抱え込んだ社会である。資本主義市場は、複合的不均等発展を平準化に向けて破壊することはない。それが資本主義発展史の示す事実である。それは、資本主義市場が超過利潤の実現を基軸にその機能を展開していくことの必然的結果というべきである。
 共通の統合された市場の下で、構造化され固定化された生産性格差の存在は、超過利潤の実現にとっては「合理的」なのである。それは、超過利潤を源泉に大量の貨幣を集積し、市場に対する支配力を圧倒的に高めた高生産性部門の資本にとっての「合理性」に他ならない。
 従ってこれらの巨大独占資本は、あらゆる市場の開放、単一の市場への統合を執拗に要求する。しかしそこに実現される市場は決して均質な市場なのではない。より大規模な生産性格差を内包し、広大な低生産性部門からの自由な価値移転を巨大独占資本に開放する市場というべきである。
 それ故、資本主義市場の下での労働生産性上昇は、全社会的に平行的に進むわけではない。恒常的価値移転により、低生産性部門はそこからの脱却が一層困難となる。一方、高生産性部門は急速に資本集積を進めるだけではなく、さらに労働生産性を高める。そして条件が許す限り必然的に多国籍化し、国家の干渉さえすり抜けて全世界で超過利潤の実現に邁進する。グローバリゼーション、世界単一市場化とは、まさしくこのようなメカニズムの働く市場に他ならない。
 もちろんこの下でも、低生産性部門の労働生産性上昇がないのではない。当然社会全体としての労働生産性上昇も引き続くだろう。しかし、資本主義市場で意味をもつものは、労働生産性の絶対水準ではない。あくまでも相対格差なのである。この格差が資本移動を引き起こし、資本の社会的配分を規定する。また、この格差序列の固定化と格差自体の拡大こそが超過利潤の継続的実現、取得を可能にする。
 資本の独占的集積は、その格差序列固定化のための最も確実で重要な手段となった。それ故にこそ、巨大独占資本間での、全世界的規模での再編が激化しているといえよう。
 しかし、このようにして実現される労働生産性上昇の差別的進展と、資本の社会的配分(経済的諸資源の社会的配分)は、人間的必要とはますます合致しなくなる。原理的に労働集約的な、それ故相対的低生産性を宿命づけられた、しかし社会的には不可欠な産業、あるいは事業は数え切れないほどある。例えば介護を含む公共医療サービス、公教育、公共交通、また自然対話型の農林水産業などがすぐ思い浮かぶ。また一般にはそう思われていないが、機械製造業なども実はこのタイプといってよい。
 これらは結局は、人間の本来的な、経験をも含めた総合的能力を不可欠に必要とする事業であり、二十一世紀の人間社会を真に豊かなものとするためにはますます重要性を高める事業といってよい。
 しかし資本主義市場の「合理性」は、その相対的低生産性故に、これらの部門には資本を配分しない。従ってこれらの部門は、労働生産性の社会的上昇により、社会的に節約されるはずの労働力を十分に活用することはできない。結局このような部門の産業は、自由な資本主義市場の下では常に社会的必要に立ち遅れ、その活動の水準をますます低下させる以外にない。それは社会的必要からは相当にかけ離れた水準の供給、すなわち高価格の、それ故社会の一部の人間のみが入手可能な供給となろう。このような資本主義市場の資本配分と対照的な事例を例えばキューバにみることができる。
 キューバにおける文化水準、教育水準は、少なくともアメリカ、カナダを除く南北アメリカ地域では突出している。医療水準もまた同様である。キューバは経済全体の停滞的実状にも関わらずチェルノブイリの子どもたち多数の長期医療を引き受け、さらにラテンアメリカを中心とする医学留学生をも受け入れている。キューバでは医療技術水準自体が高いのである。ここでは、例えその経済運営に重大な欠陥が指摘されるとしても、資本主義市場とは明らかに異なる資本配分が実現されているというべきだろう。
 上述したような資本主義市場のもつ資本配分の偏向性を逆転させるためには、まさに社会政策的な「保護」、少なくとも「自由な価値移転」の阻止、自由市場主義者からみれば言語道断の「規制」が絶対的に必要なのである。環境目的のための「市場利用」の例として例えば太陽光発電や風力発電の事業化があげられたりする。しかしこの場合には、公的補助と大独占電力事業者の買収義務が不可欠に組み込まれている。だからこれは、自由な資本主義市場への参入ではない。
 客観的には、「自由な価値移転」の部分的「規制」あるいは「補填」、つまり市場の「規制」なのである。
 一方、逆に資本主義市場の「合理性」は、社会的観点からみれば資本の著しい浪費を発展させる。投機資本の肥大化と一層の膨張は今や誰の目にも明らかである。それは生産をある種「合理的」に組織するどころか、生産を破壊しさえするまでに至った。しかしそれは超過利潤(いまやその実体が問題となるが)の実現という観点にとっては「合理的」なのである。
 
4 市場の利用、それとも改変?

 今、地球的環境破壊の進行を、市場的方法によって解決あるいは抑制しようとする議論がある。例えばCO2排出権取引などが主張される。市場外からの規制はコストが高く、「し意」的であり、市場取引きは「効率的」であり透明かつ公正だと主張されるのだろうか。このような主張もあり得るのだろうが、また実際にもなされているが、これではあまりにも原理主義的、観念的であり、とても真剣なものとはいえない。資本主義市場が環境的要請に応えてこなかったことは事実の問題だからである。
 この市場の失敗には、知識や情報の不足は基本的に関わっていない。環境問題の最も端緒的な現れであった労働者の健康や安全衛生の問題、また公害と呼ばれてきた諸問題は、資本主義の初発から知られていた問題である。つまり一定の知識は常にあったのである。しかしそれらの問題への全社会的告発からそれらの問題への社会的対処に至るまで、市場外の社会運動なしには何一つ進まなかったといってよい。知識自体、知ろうとする意欲、関心なしに得ることはできない。歴史的現実はむしろ、資本主義市場が環境的関心をそれ自身の中から引き起こす力を欠いていたことを示している。
 環境的諸問題を市場の枠組みの中で考えるという場合は、少なくとも上述した歴史的事実について真しに向き合わねばならない。しかし一方、環境的諸問題は今や、多方面から現実的、実践的に、やれることから取り組まれなければならない段階に至っている。その観点からは、市場利用の可能性も十分検討に値すると考えられる。
 資本主義社会で生産活動を実際に方向づけている主体はブルジョアジーである。彼らがなじんできた行動準則、彼らの「合理性」に沿った問題提出によって、彼ら全体がいわば自然に「目的適合」的に行動するのであれば、確かに一定の実効性は期待できるかもしれない。
 また多数とはいえないにしろ環境的諸問題を憂慮している「良心的ブルジョアジー」も確かに存在している。彼らを競争者に対して不利にしない可能性も「市場利用」は作り出すかもしれない。実際にはこの後者の側面に現実的意味がありそうである。それ故特に環境対応技術、あるいは生産と消費の代替システム、なおかつ労働生産性の高い低廉なシステムへの移行という領域において、市場のもつ「選択」機能が期待されているように思われる。
 その可能性を頭から否定することは現実的とは思われない。市場利用の観点から研究されている諸方策には積極的要素も多々あると考えられるからである。特に環境被害の指標化や、それを社会経済的施策に関連づける手法などの技術的側面は、実践の土台となりうる貴重な蓄積だと考えられる。
 しかしそれらが実効的であるためには、市場もそれにふさわしい条件を備えなければならない。現実にわれわれの前にある資本主義市場が果たしてそのようなものか否かを現実に則して直視しなければならない。市場を観念の中で「理想化」することから出発してはならないのである。
 前述した市場の失敗を踏まえるならば、この点で少なくとも現在、資本主義市場にそのまま参入するわけにいかないという点については広汎な了解が可能だろう(前節の例えば発電事業)。つまり市場利用というとき、そこには明白な緊張がはらまれている。客観的には異なる性格の価値が対じするといってもよい。
 前節までにみてきたように、現実の市場メカニズムを具体的に形づくるものはまさに人間の諸利害であり、その諸利害を体現した社会的諸関係とその構造、またそこに通底する闘争関係である。それらと隔絶し、自立的に展開する抽象的な「市場法則」があるわけではない。
 その意味で、環境的目標のために市場を利用するというとき、それは客観的には、「利潤」とは異なる新たな価値を織り込んだ新しい社会関係を生み出す運動を一体的に内包しているのである。逆にいえば、そのような社会的関係、社会的仕組みによって支えられなければ市場は環境的目標に適合しない。
 われわれは市場を利用する。しかしそれは、同時に既存の資本主義市場、それに体現される「合理性」との闘争関係をその内部に不断に作り出すもの以外ではない。資本主義市場の側からみればそれは、「不合理」なものが持ち込まれてくることを意味する。だがそれは例えば、資本主義市場に労働力市場という「合理的」要因以外に、階級闘争関係という非市場的で「非合理」なものが不断に持ち込まれてくることと本質的には変わらない。
 環境目的のための市場利用とは実のところ資本主義市場との闘争である。市場そのものを否定する闘争ではなく、市場を変革し、変質させるための闘争である。そのことに無自覚であれば、市場利用はほとんど実効性をもたない、と私は考える。
 私はすでに、社会主義をめざす闘いにおいて当面市場は不可欠だと述べた。それは資本主義市場と市場の内外で闘うことの必要性、その変質のための闘いの必要性を意味している。
 その観点に立つとき、環境目的のための市場利用が提起する具体的諸問題は貴重な位置をもつ、と私は考える。
 
5 環境的価値の価格化

 それでは環境目的は、資本主義市場の内外で具体的にどのような闘争関係を引き起こすことになるだろうか。以下では主に、代替的生産、技術への移行の問題を念頭に考えてみたい。
 さて問題を市場選択の場にのせるためには最低限「価値」を貨幣量の形態、すなわち価格へと一元化しなければならない。その場合環境の「価値」は、それを破壊した場合の損害の額――自然的、人間的――として、マイナスの価値、すなわちある経済的行為に対するコストとして計上されるはずである。そうでなければ環境に損傷を与える可能性の小さい、すなわち環境的リスクの小さい技術を市場的に選択する可能性はなくなる。
 このようなコスト化の、いわば価格算出の手法は種々研究されていると思われる。私にその具体的知識はないが、大枠の考え方は以下のようになると推測される。前提はまず、環境破壊のもたらす被害の実態評価とその価格換算、また将来予測である。そのうえでこの被害は補償されるべきものだから、コストの第一の要素はこの被害補償となる。
 一方、環境破壊は将来にわたって被害を累積する。従って破壊は本来復元されなければならない。復元の技術的可能性という根本問題は残るとしても、考え方としてはコストには第二にこの復元費用が上乗せされると思われる。コストの総額は、この両者の合算でほぼ確定される。
 一方、その負担は、環境破壊に関わる責任比率に応じたものになる。将来現実化するかもしれない危険――環境的リスクに対しても、ある種の確率論的手法を援用すれば、上記の考え方は拡張できるはずである。この他にも人々が環境的価値保護のためにどの程度負担するつもりがあるかのアンケートを基準にする方法などもあるようである。
 さてこのようなコスト化手法は、考え方という抽象的レベルでは一定の整合性を保つことができる。しかしそれを現実の場に引き寄せたとき、たちどころに諸価値の闘争を引き起こすことは明らかである。
 資本主義市場の一般論でいえば、コストは経済行為に必要な諸商品の対価である。公租公課というものにしても、それはその見返りとしての社会サービス給付の価格とみなされる。それ故、「規制緩和」、「民活」という形で、公租公課の「完全独占」から、社会サービス価格の「自由競争価格」への転換が執拗に要求されることにもなる。
 従って資本主義市場の側は、「環境的リスクの価格」をも、ある種の疑似的な商品の価格とみなすはずである。あるいはその価格が市場内で規定されることが少なくとも潜在的には要求されると思われる。CO2排出権取引きに関するアメリカの主張には、このような論理が明らかに内包されている。
 しかし環境的リスクは商品だろうか。自然環境は生態系として複雑に全体が相関し合う不可分の一体であり、私的に分割所有され、個別に売買され得るものではない。すなわちそれは誰も「売る」権利をもたないものである。
 一方、人間生活に生じるリスク、特に健康のリスクは確かに個々人に属するとはいえるにしても、それは人間の尊厳、生きる権利に属するものであって、誰も売ることを強制されてはならないものである。それを買う権利は誰にもない。双方ともまさに「かけがえのないもの」であり、本来売買の対象にはできないものである。環境的リスクを例え商品化するとしても、それはいわば「売り手」のいない商品といってよい。その場合この商品価格は原理的には「無限大」なのであって、市場的には無意味なものという他ない。
 従ってこれまで、環境的リスクへの対処はある限度を定めた無条件的禁圧を基本としている。それは資本の側の激しい抵抗を排して実現されてきたものであるが、人間的合理性が必然的に生み出した対処というべきだろう。
 それ故、環境目的への市場活用においては、まず環境的リスクの価格の意味、その実際上の取り扱い方が根底的に闘争され続ける。その意味では、環境目的への市場活用を原理的に否定する立場には十分正当な根拠があるといってよい。
 
6 商品化と社会的強制

 しかし一方、資本主義市場には、環境的リスクと類似の「かけがえのない」諸価値に次々と価格をつけてきたという現実がある。例えば自動車保険というものがある。これは実際上、まさしく「かけがえのない」人間の生命をも、価格のある一個の商品とすると変わらない。客観的には、人間の生命を傷つける行為へのある種の「免責権」が売買されるのである。この場合、保険購入者は、人間の生命を「自由に傷つける権利」を得たわけではもちろんない。運転者には、自分の生命とひき換えにしても守るべきものとして、事故の回避義務が最大に課せられていることが前提である。
 この義務は行政罰や刑事罰によって強制されてもいる。しかしそうであっても、ミスを犯す存在として人間はある確率で必ず事故を起こす。そのようなことに対して「禁圧」は無力である。それ故「禁圧」だけではまた被害者をも救済できない。自動車を廃絶しないとした場合のこの矛盾に対する資本主義市場の回答が自動車保険といえる。本来あってはならないという原則を下敷きとしつつ、しかし起きてしまったことへの「現実的」対処が市場的枠組みの中に取り込まれているのである。
 資本主義市場は、このようなある種の便宜的で疑似的な諸手段を多数開発してきた。その限りで本来商品とすべきでないものが、現実にはほとんど疑似的商品とされてきた。
 従って環境的リスクの商品化も、このような資本主義の現実的対処技術で構想されるかもしれない。
 しかしこれらの商品化は、矛盾したものの「解消」ではない。矛盾は根底にそのまま潜んでいる。例えば自動車保険も一種の「モラルハザード」を生み出しているのであり、高山同志が本紙で論じた『若葉マークの自動車社会論』の一つの趣旨もそこにあったように思う。そこにあるものは社会的諸価値の闘争のある種の均衡である。
 その均衡が資本主義市場の枠組みに取り込まれるのである。
 ではその場合「均衡」とは何だろうか。例えば自動車保険は、被害者となる諸個人の了解なしに保険会社がいわば勝手に売る「免責権」である。その売買にも、従ってその価格にも被害者はまったく関与していない。被害者は事故に遭遇してはじめて保険と対面し、その解決方式をいわば「強制」される。被害者にとって自動車保険とは、一方的に社会から強制される枠組みという他ない。
 だからそれは、結局のところ被害者が大挙して反乱しないという条件でのみ維持しうるにすぎない。すなわち、この場合「均衡」は、ある人々に対して社会的強制を維持しうる関係として現実のものとなっている。それは、公害裁判等でお馴染みの「社会的受忍限度」という法理、その陰にある社会的強制の論理が占めている関係と同様である。
 資本主義が現実化してきた「商品の拡張」には、まず事実として売らせる結果にするための「社会的強制」が内包されている。この「社会的強制」は、実は市場における商品交換に大なり小なり隠されているといってもよい。労働力の商品化もその一つである。イギリスの「囲い込み」をあげるまでもなく、地域共同体の破壊と賃金労働者の狩り出しは、資本主義発展史に普遍的に随伴する。
 「商品化」の陰にあるこの「社会的強制」が、従って社会的闘争関係が、「かけがえのないもの」を通して先鋭に現れる。それが終局的に商品として定着するためには、その特有の社会的闘争関係の均衡、社会的強制維持のためのある種の社会的妥協とそれを支える社会的基盤が生み出されなければならないのである。
   (この章つづく)
イタリア左翼民主党大会
                   新たな転換点
                                       リビオ・マイタン
対話者を求めて

 イタリア左翼民主党(DS)の党大会が二月にトリノで開催された。歴史的な起源が一九二〇年代初めである、この政治組織の進化において、この大会は明確に転換点を画したのであり、この観点から大会を分析しよう。
 DSのような政治的進化は、スターリニズムとなったすべての共産党に共通する典型的なものであり、イタリアの場合、この過程は一九五六年に始まった。例えばスペインでは、一九七〇年代の終わりに始まった。一九八〇年代にDSは実質的な社会民主党化を完了していた。そしてベルリンの壁が崩壊してから、旧い党名を放棄し、PDSを名乗った。
 その時点での狙い、あるいは願望は、一九四七年以来、イタリア共産党(PCI)を政府から排除してきた政治に終止符を打つことだった。特に一九八七年の選挙で相当の成功を収めた社会党(PS)と一定の同意を形成して、これを実現しようとした。しかし、この狙いは、党を変革しようとした指導者にはまったく予見できなかった二つの出来事のために、無に帰した。
 第一の出来事は一九九二年。この年、PSがイタリア政治の危機と同党のスキャンダルを経て、解党したことである。第二は、PDSの結成に際してであり、この時、相当数の左翼が分裂して共産党再建派(PRC)を結党したのであった。
 こうした経過を経て弱体化したPDSは、中道左派あるいは中道派に対話者を求めたが、それに値する政治組織は存在しなかった。党の新しいアイデンティティという問題が早急に解決されなければならないことを自覚せざるを得なかった。党改革のイニシアティブをとった当時の指導者は、これまでの社会政治的な対立軸は時代遅れであり、進歩派と保守派との対抗関係を基盤とする二極システムを導入する必要があるとためらいなく主張した。
 それでも、かなりはっきりした対立が残った。それは、マッシモ・ダレーマのようにあくまでも社会民主党という考え方を守ろうとする勢力と、ワルター・ベルトローニのようにアメリカ流民主党を追求する勢力との違いだった。一九九四年の選挙では、進歩ブロックは敗北した。二年後の選挙でオリーブの木という新しい連立組織が相対的多数を獲得し、ロマーノ・プロディがPRC閣外協力をも得て中道左派政権を樹立した。
 一九九八年十月、PRCはプロディ政権との決裂を決定し、その結果、オリーブの木は議会少数派となった。そしてDSの幹事長ダレーマが首相となった。この政府は、プロディ政権よりもさらに右傾化した。議会内では、PRCの議席数を中道派の票で補った。

深まる混迷

 経済問題がつきまとい、高失業率が続き、コソボ戦争という大問題があり、連立政府内部には不協和音が絶えず、PCI改良派とその後継者にとって拠点地域であるボローニャの選挙で敗北し、こうした諸問題が有権者や活動家の間に混迷をもたらした。左翼や中道左派、知識人などとのつながりによって、党の新しいイメージを実現しようとした試みは、成果をあげることはできなかった。党のアイデンティティ問題が再度、浮上した。
 ダレーマが首相に選任されたため、ベルトローニが党の責任者となり、大会準備討論の文書を作成することになった。それは陳腐な文書であり、読む人によって解釈が違ってしまうようなものだった。
 大会では、ベルトローニやその他の指導者も、彼らが非難する諸悪の根源やそのメカニズムに関しては一言も発しなかった。日刊紙ウニタ(かつての共産党機関紙)は、民営化されたが、それでも党に近い立場を維持していたが、大会に関して見事な見出しをつけた。「左翼はもはや資本主義について語らず」と。
 資本主義について言及しなかったことがDS指導部唯一の思考上の粗漏というわけではなかった。ベルトローニやダレーマ、その他すべての指導者は、「市場経済」とネオリベラル思想への執着をはっきりと表明した。
 ベルトローニは、民営化に関連して、政府はこれによって「新しい市場の創出、競争の促進、イタリア経済における新しい起業家の出現」を実現したいと考えていると述べた。そして起業家に対する様々な特権を明らかにした。ダレーマは、昨年中に新しい雇用三十万が実現されたと述べた。しかしダレーマが認めているように、そのうちの八〇%がフレキシブル雇用である。だがダレーマにとってフレキシブル労働は利潤の多い形態で歓迎されるものなのだ。

NATO支持

 大会集約時の投票やダレーマとベルトローニの演説に対して送られた長い拍手などは、PCIからPDSへ、さらにはDSへと転換した、その際の考え方や政治選択をメンバーの多くが共有している事実を示した。多くのメンバーはまた、別の基本的な選択、つまりコソボにおけるNATOの戦争支持で一致していることをも示した。大会ではまた、欧州連合(EU)がヘルシンキ会議で採択した軍事計画に関して、誰一人として反対意見を表明することはなかった。
 確かに大会では、準備討論において対案を提出した現指導部に批判的な翼の存在を記録した。この潮流は、オリーブの木プロジェクトを支持しており、それからの離反に反対し、第三の道という選択を認めていない。そしてヨーロッパ社会主義の価値観復活を提唱しており、コソボ介入を非難し、公共事業の民営化に反対するものとしての「第三セクター方式」に賛成している。
 DS設立当初からのライトモチーフは、穏健政党の建設である。大会では新しい規約が採択された。そして、その目的が一層明らかとなった。すなわちDSをより根本的に選挙政党、議会政党に転換させることであり、労働組合、イタリア総同盟(CGIL)からの側面的な支持を得て、社会的な下支えをすることである。DSの働きも、それが統合されている制度的なメカニズムの要請に応える方向になっており、制度内の存在を強めている。
 大会の最後にPRC書記長は、トリノ大会において新しい政治組織体が形成されたとコメントした。「イタリアにおいてリベラル左派の新しい政党が誕生した。それは、労働者運動とそれに関する一切の運動、つまり共産主義や社会民主主義、労働組合主義と結合していた左翼の歴史的、文化的、政治的な経験からの根本的な決裂である。綱領の観点からすると、新しい政治組織体は今世紀の初めに戻るものである。すなわちマルクス主義と組織労働者運動との誕生以前におけるリベラル、イギリスのホイッグ党が出発点である」

相対的に継続されたもの

 次の二つの事実が強調に値する。第一は、ベルトローニやダレーマを初めとする大会での主要な発言者が、DSは社会主義インターナショナルにおける不可分の一部であると主張した事実である。社会主義インターナショナルは、ヨーロッパでは相対的とはいえ社会民主主義の伝統やしきたりとの継続性を有している。現在の社会民主主義は二十世紀初めのそれとは異なっている。それでも社会的なあり方や文化的・政治的な方法、組織問題などで継続性を示している。そして労働組合組織と相互支援的な関係を有している。
 ベルトローニやダレーマに加えてCGILの書記長も、いくつかの社会的な関心を集めている問題について発言し、大会で非常に温かな拍手で歓迎された。少なくとも現在の段階では、CGILとDSとの関係がアメリカのAFL―CIOと民主党との関係と性質が似ていると主張することは、やや大胆といえよう。いずれにしても、最近のDSの変化によってPRC自体に大きな問題――質的な転換の必要性――が突きつけられている。
 共産党再建の活動は、それなりに十分な形で始まったが、次第に行き詰まりを示すようになってきた。過去から引きずっているものや否定的な伝統が、依然として大きく影響しており、非常に困難な事態に陥っている。DSが一層民主党化を進めたために、政治戦略面――労働者運動が進むべき道を発見できるような――と組織面――党や労働組合、様々な大衆組織など――との両方で基本的な再検討が必要になっている。経済の国際化や文化的・政治的なグローバリゼーションが一層進展する状況において、支配階級からの攻撃に対抗する運動の方向性としてである。
(インターナショナルビューポイント誌4月、320号抄訳)
ジンバブエ
       ムガベの真の狙いはMDCと農場労働者
                                     ノーム・ディクソン
ポピュリスト政権

 ロバート・ムガベ大統領のポピュリスト的な言辞にもかかわらず、ジンバブエの政権は、戦闘的な土地改革の運動や闘いを支援しているわけではない。ムガベ大統領のポピュリストとしてのイメージは、イギリスの労働党政権や西側マスメディア、オーストラリア的には連立政府の首脳陣と民主党などによる批判や誇張によって強められていることに注意しなければならない。
 富裕な農場主の土地に対する国家公認の占拠闘争、この本当の狙いは、野党の民主変革運動(MDC)が支援する労働組合に対する信用を失墜させ、野党側が農村部で組織化を進めるのを妨害し、あるいは西側世界、ことにイギリスに圧力をかける――ムガベの与党、ジンバブエ民族アフリカ連合―愛国戦線(ZANU―PF)を支持するジンバブエ土着資本家階級を利する限定的な土地取得計画に資金援助をせよと――ことにある。
 MDCは、ZANU―PFが進めた緊縮政策に反撃した戦闘的な都市大衆闘争の中から出現してきた。一九九七年から一九九八年にかけて再生したジンバブエ労働組合会議(ZCTU)が呼びかけた数次におよぶゼネストが闘われた。そのうちの一つでは、食品の値上げに抗議する首都ハラレでの三日間の反乱があり、また公務員労働者や医師、看護婦、農場労働者のストライキもあった。一九九八年三―四月には、奨学金の増額を要求し、授業料の値上げに反対する学生のデモがあり、「ジンバブエのスハルトは去れ」と叫んだ。
 これらの闘いに対して、ムガベ政府の機動隊は、警棒で押し返したり、あるいは発砲をした。そして抗議集会は、禁止された。
 一九九七年十二月にジンバブエで最大のゼネストが闘われた後、ZCTU書記長がZANU―PFの暴漢に襲われ、意識不明となった。一九九八年三月には、ZCTU本部が放火され、徹底的に破壊された。一九九八年後半には、ムガベ政府がストライキを非合法化しようとしたが、裁判所がこれを認めなかった。
 こうした時期に、全国憲法会議(NCA)――百五十以上におよぶ市民組織の連合体で、その中心にZCTUとジンバブエ教会評議会が位置している――は、ジンバブエ憲法を民主的に改正する運動を先導した。NCAは、公聴会を開催し、一般人のこれに関する意見を広く聴取した。
 ムガベは一九九九年、ZANU―PFの雇われ専門家四百人でこり固めた委員会を組織し、憲法改正過程を完全に操ろうとした。NCAとムガベとの二つの公聴会でジンバブエの人々は、ムガベ大統領の専断的な権力が制限されるべきであり、そして言論や結社、ストライキ権などが根本的に強化されるべきだと要求した。
 ムガベの委員会は、十二月になって憲法改正案を作成した。それは、ムガベの権力を抑えるのではなく、むしろ強化するものだった。

民主変革運動

 ZANU―PFが一貫して抑圧を行い、あるいは反対派の組織や運動を吸収してきたため、ZCTU指導者たちや中心的な人権活動家らは、ZANU―PFに取って代わることができる新しい政治組織が必要だと確信するようになった。こうして民主変革運動(MDC)が九月に結成された。首都ハラレで開かれた結成集会には、二万人の勤労大衆が結集した。一月二十九日に行われた創立大会には、ほぼ六千人の代議員が参加した。新党MDCは、人口千二百五十万のジンバブエで党員が百十万人だと主張している、
 六月に予定されている次回総選挙や二〇〇二年に行われる大統領選挙で、MDCの結成はムガベ与党にとって大いに脅威となっている。というのは、二月十二―十三日に行われた憲法改正案の国民投票では、ムガベ政権が賛成票を投じるように広範な脅迫行為を行い、不正投票を行い、さらには国営メディアがMDCの運動を完全に黙殺したのであるが、それにもかかわらず、改正案は簡単に否定されたからである。
 西側メディアやイギリス政権がつくり出している印象とは正反対に、ジンバブエでは、土地改革が中心問題となっているのではない。そうではなく、ジンバブエ人にとって国民投票とは、ムガベ大統領とZANU―PFに反対なのか、賛成なのかを明らかにすることだったのである。
 私有農地を補償することなく政府が接収することができるようにした憲法改正案の条項は、ムガベが農村部で支持を受け、そしてMDCを白人農場主とイギリス政府との操り人形であるかのように描き出すための先手をとろうとする策だった。だが、改正案が否決されてムガベのもくろみは惨めな失敗に終わった。
 農民有権者の多くが棄権したという事実は、ムガベが繰り返し約束した土地再配分計画がほとんど信頼されていないことを示している。都市の人々や、そして農村部でも次第に多くの人が、ムガベが土地への渇望をポピュリスト的に利用していることに気づき始めている。
 これまでムガベは、白人所有のプランテーションを接収するという芝居がかった脅しや、少数派である白人や西側各国政府、最近では国際通貨基金(IMF)と世界銀行を非難することなどで、支持を獲得してきた。しかし、そうした脅しや非難の背後でムガベはひそかに、国内の白人資本家階級や西側の各国政府、西側の金融機関などに、彼らの経済利益を脅かすことはないと確約してきたのであった。
 一九八〇年のジンバブエ独立に先立って、富裕な白人農場主の土地は「通常の売買行為」を通じてしか他人のものとなることはないと、ロンドンで強調した。補償なしでの土地接収を禁止する条項が、ジンバブエ憲法に盛り込まれた。
 これによって急進的な土地再配分が不可能となったが、黒人エリート層が――合法的な土地購入によってか、あるいは国家の腐敗を利用するか、国の庇護によって――ジンバブエ資本家階級へと上昇することができるようになった。一九九〇年以降、土地なし農民に土地が配分されることはなかったが、土地なしのZANU―PF官僚や議員、閣僚、高級将校、ムガベの親族や取り巻きの企業家などに土地が与えられた。
 南アフリカの急進的なエコノミスト、パトリック・ボンドは、一九九八年に出版された著作(アフリカ・ワールド・プレス)の中で、約四千八百の大規模商業農場の内、その七〇%を白人ジンバブエ人が、二〇%を黒人資本家が、残りの一〇%を多国籍農業企業が所有しており、これだけで全耕地の〇%を占め、しかも同国で最良の土地のほぼすべてであると分析している。
 残りの土地で、黒人が農場主である八千五百の小商業農場や五万七千世帯が再植民した小区画の耕地となっており、そして荒れ地に百万世帯が耕作をしている。土地なし農民の数は数百万になっている。

指令された土地占拠

 ムガベ大統領は、国民投票運動において農村部での支持者動員に失敗したことや、都市部でのMDCの強力さに衝撃を受け、二月十八日にZANU―PF中央指導部の緊急会議を招集した。その会議は、ZANU―PFが農民を見捨てていないことを行動をもって確信させる必要があると結論を出した。
 ムガベ大統領は、緊急会議において憲法改正案の国民投票敗北の原因としてジンバブエ白人農場主をあげた。これはお笑いぐさである。というのは、国民投票で有権者の二五%弱に相当する百三十万人が投票したが、白人人口はすべてを合わせて八万人なのだから。
 二月二十二日、ムガベはジンバブエ国営テレビにおいて次のように発言した。土地問題は未だ解決されていない。人々は怒っており、その怒りをそのまま表出させると、農場を侵略し、その農場主が保護を求めてやって来るだろう、と。これが農場占拠開始のシグナルとなり、二月二十九日、第一陣として三十六の農場が占拠された。占拠された農場の数は、たちまち百以上となった。
 ムガベがそう呼んでいる「農場デモンストレーション」が自然発生的なものか、それとも農村部で煽り立てられた集団心理によるものか、これを判別する証拠はほとんどない。政府のトラックやZANU―PF所有車輌を運転する(ZANU―PFの中央委員が率いる)民族解放戦争帰還兵協会のメンバー、労働組合や学生デモに対する攻撃で悪名高いZANU―PF青年旅団のメンバー、失業青年、土地なし農民などが、集められた。
 同国の独立系新聞は、第五旅団のメンバー――一九八〇年代前半にジンバブエ南部で三万人以上を虐殺して――が帰還兵を率いていると報じている。中央諜報組織メンバーの関与も伝えられている。四月二十一日の独立系新聞はまた、ジンバブエ国軍将校が農場侵略を指揮し、これに必要な物資を提供していると報じた。

農場労働者

 大マスメディアや西側の政治家などはすべて、暴力による攻撃の矢面に立っているのが黒人農場労働者とその家族であるという事実を完全に無視している。
 ムガベ大統領とZANU―PFは、四十万の黒人農場労働者(彼らの家族を含めれば有権者の約二〇%に相当する)の票が決定的であると考えている。農場労働者の多くは、ZCTUに加盟する農業・プランテーション労働者労働組合のメンバーである。
 ムガベや帰還兵は農場労働者を白人農場主の言いなりになる存在であるかのように宣伝しているが、これほど事実からかけ離れたものはない。農場労働者は、同国で最低の賃金(月額六十米ドル)しか得ておらず、一九九七年には戦闘的な三週間のストライキを闘い、四〇%の賃上げを獲得した。
 農場占拠は、農場労働者がMDC(民主変革運動)の集会に数多く参加した地域に集中して展開されている。MDC支持者が所有している農場が占拠の目標となっている。
 労働者の宿舎でMDCのTシャツやその他のMDC物資が探索され、農場主は殴打され、数十人が入院することになり、MDCの車輌や印刷機など運動資材が破壊されている。
 農場労働者は自分のポケットの中味を全部出して、MDCメンバーカードをもっていないことを証明しなければならず、ZANU―PFの徒党は農場労働者に「再教育」集会に参加を強制し、そこで脅威を与え、威圧している。またZANU―PFのならず者連中は、農場労働者宿舎を放火して回っている。数百の農場労働者家族が家を失った。
 ZANU―PF徒党は、MDCのオルグや活動家をも攻撃している。MDCの集会や集まりは、絶えず攻撃されている。MDCの事務所は、放火や爆弾攻撃の対象となっている。
 三月二十六日、首都ハラレの北百キロの所で、一人の農場労働者が投石され、死亡した。ハラレで四月一日、NCAが主催した四千人規模のデモを私服姿の第五旅団メンバー二百人が攻撃した。四月七日には、二百人の徒党が六千人強が参加していた集会を攻撃した。
 四月十五日、二人のMDCオルグがZANU―PF徒党に攻撃された。放火された車輌から、MDC活動家の死体が発見された。
 四月二十四日、ハラレの近くでZANU―PFカードを提示できなかった人物が斧で攻撃され、殺された。四月二十一日には、MDCオルグが銃撃された。ハラレ北部でMDCの会議を組織しようとしていたのだが、同月二十四日に死亡した。
 殺されたり、あるいは殴打された白人農場主の圧倒的多数は、積極的なMDC支持者であった。四月十五日に殺された農場主や十八日に射殺された農場主は、MDC内部では著名な人物だった。前者に雇用されていた農場労働者一人もまた、殺された。
 ある農場を攻撃した一味は、農場を占拠する気はまったくなかった。六十人の攻撃者は、AK47で武装していた。彼らは第五旅団メンバーだった。この攻撃のすぐ後、MDC集会を攻撃した。
(グリーンレフト・ウイークリーから。電子版インターナショナルビューポイント誌)