2000年9月10日           労働者の力         第125.126合併号
第十二回全国総会コミュニケ


国際主義労働者全国協議会運営委員会

 国際主義労働者全国協議会は去る八月、**県において第十二回総会を開催した。総会は結成以来毎年定例として行われてきており、定例総会としては十一回である。第四インターナショナル世界大会のための臨時総会が一度開かれている。
 総会は最初に、直前に急逝した山形の梅津同志に対して織田同志が総会を代表して追悼の辞を述べる、全員で黙祷を捧げた。
 梅津同志は全国協議会結成以来の同志であり、山形県での中心的活動を担ってきた。彼は障害を持つ身であり、次第に健康状態の悪化が感じとれるようにはなってきていたが、障害者差別というべき職場からの解雇にもめげずに闘い続けてきた。体調の回復を待ち、この秋から再び職場に復帰するというさなかでの死であった。
 彼は、体調の善し悪しに関わりなく全国協議会の総会出席を欠かすことがなかった。しかし今回は事前に欠席が伝えられていた。暑さがこたえるとのことだったが、本人にも体調不全が心底感じられていたのだろう。総会は、氏の急逝をインターナショナルに報告することを確認した。
 総会は、高木同志が国際情勢を、坂本同志が国際的運動を含めた労働情勢と展望を、川端同志が政治情勢と課題を、神谷同志が「環境社会主義と労働時間短縮」についての補足的要約をそれぞれ報告し、清水同志が国労問題について補足報告を行い、二日間にわたる討論に入った。報告と討論は主要に新自由主義のグローバリゼーションに対抗する社会主義者の任務という視点に沿って進められ、とりわけ東アジア地域における可能性と課題、労働者運動再生の任務との関連が中心を占めた。
 主なものを紹介する。
 その一つは、全世界規模で展開する新自由主義の攻撃とその実施機構、国際通貨基金(IMF)、世界銀行(WB)、世界貿易機関(WTO)などとの直接的闘争と、グローバリゼーションに対抗する地域的な結合の形成ということの関連である。社会主義の東アジアという展望の不透明性を脱却するためには避けて通れない課題であるが、今総会は問題意識の確認にとどまった(この点については別項で展開する)。
 二つには、一連の旧官公労運動の転換にみられる民同型労働運動の全面的な「終わり」の確認と、それを突き抜く新たな運動についての討論である。新自由主義攻勢に完全に同調する労組機構の登場は、グローバリゼーションに対する国際的闘争の担い手が、日本の連合運動とは別のところに構築されるべきことを明らかにしているが、その拡がりの可能性は未だに微弱である。
 高失業率定着の社会、不安定雇用が主流となる社会、こうした労働構造の変容において、今後必至である社会保障の削減や大規模な増税が労働運動の構造的変動を客観的にも推し進めることになるであろう。その手がかりをどのようにつかみとるかが主体的に問われている。中小民間労働運動と不安定、非正規雇用労働の結合とともに、大民間や官公労における少数派労働運動との結合が本格的に追求されるべき課題である(具体的内容は次号以下に掲載する)。
 三つ目として、新たな左派勢力形成をいかに展望するのかをめぐっての討論である。インターナショナル勢力の主体的形成の任務と新自由主義のグローバリゼーションに抗する広範な勢力の結集、その主体勢力化の課題は両立されなければならない。あるいは正確には、その両者の合流において新たなインターナショナルの可能性が具体化する。
 市民派結集の試みがなされた時期もあり、今は緑の党への動きも始まりつつある事態であるが、この十年間の核心は総評運動の解体を越える労働運動の強力な展開に欠けていたことに左派結集の挫折の要因を求めることができる。緑の党を追求する動きに対立する必要はないが、われわれは、一〇〇%左翼による「緑」の実現が可能であるし、可能にしなければならないとしてきた。「環境社会主義」を推進する労働者運動の展開が新たな社会主義的勢力の決定的な回復に通じるだろう。市民派の参入を促進しつつ党勢回復を目指している社民党の動きもその観点からは無視できない。
 以上が主な討論点である。
  二〇〇〇年八月
グローバリゼーションと日本帝国主義


社会主義の東アジアをめざす課題

 

コミュニケで述べた「問題意識」は、以下のように要約できる。
 アメリカ庇護下の日本の終えんと「空白の十年間」という一九九〇年代の日本の特徴は、一方では新自由主義路線の全面導入、他方では石原的「ポピュリズム」のボナパルティズム傾向を生み出している。その両者に対決する主体とその展望を描き出すためには、日本を東アジア地域に相対化して位置づけることなしには不可能であろう。
 
アメリカ庇護下の日本の終えん
 
 新自由主義全面導入論は、戦後型世界政治構造が終えんし、日米関係が庇護から競争へと転じた事実に冷徹な目を向けていない。そのうえで新自由主義に乗り、そこで生死をかけた世界的競争戦を闘うという、ある種の「絶望的」な展望(例えばNTT)と、市場の全面自由化を特徴とするグローバリゼーションそのものを問題にすること(農業はそうならざるを得ない)とがカオス的、混乱的に入り乱れている。
 ここで「絶望的」という根拠は、アメリカ帝国主義は、その表面の新自由主義、すなわち完全な自由市場主義を掲げているが、その実際はアメリカ資本である巨大多国籍企業の市場における勝利を可能にするためには、あらゆること、すなわち帝国主義としての超越した力量を投入することをいささかもためらわないという事実にある。
 日本国家は、「自由貿易主義」を標ぼうしつつ、アメリカ市場への輸出ドライブをかけることによって「経済立国」を図ってきた。だがそれは、八〇年代の半ば以降は変わった。アメリカは自由貿易主義をアメリカ資本にとって最善であるように組み替えた。それが農業から顕在化したことは衆知のことである。ウルグアイラウンドがアメリカの巨大農業ビジネスにとっての試金石であった。日本は、工業における「自由貿易主義」と農業における「保護主義」の矛盾をつかれ、農業切り捨てやむなしに傾いた。
 そうしてアメリカは、日本銀行資本のアメリカ市場での展開を絞り上げた。大和銀行がその犠牲となり、アメリカ市場から追い払われた。ついで訴訟天国といわれる中で東芝がコンピュータ製品の欠陥を裁判にかけられ、巨額の費用(東芝のノートパソコンが今までにアメリカ国内市場であげた利益総額に匹敵するといわれる)での和解を余儀なくされた。NECや富士通のスーパーコンピュータがアメリカ市場に参入できないのも一つの現れである。これらは、表面上はあくまで商取引であり、商法上や反ダンピング法の問題であるが、国家意思を明白に感じ取ることができる。
 こうして戦後日本経済の復興から、世界の第三極へと至る過程を支えたアメリカの対日政策は、いわゆる東西対立の解体とともに根底的な変化をとげたといえるのである。戦後日本政治の主流を占めてきた対米協調路線の根底が揺さぶられる事態となった。
 アメリカ庇護下の日本の終えんが、まさに日本政治の「空白の十年」を生み出したのである。
 日本が、その経済的な軸であった「自由貿易主義」を維持し得るのか、つまり国内的にいえば規制緩和(撤廃)と金融ビッグバン、資本自由化などとして跳ね返ってくる課題を遂行できるのか、遂行すべきなのか。もはや建前の「自由貿易主義」では対処できない事態が展開しはじめた。帝国主義間矛盾が前面に押し出してきている。
 シアトルWTOで日本の河野外務大臣がアジア諸国との関連で微妙な位置に立たされたことは記憶に新しい。そして大衆運動の爆発と諸国間の対立によって、シアトルWTOは失敗し、その後も何ら解決のめどは立っていない。今回の沖縄サミットが何一つ具体的な結論を持たなかったことがその証拠である。
 シアトルWTOの失敗は相当に奥深い影響を残した。シアトルで、そして現在問われているものは、いまや姿を変じたアメリカの「自由貿易主義」であり、グローバリゼーションそのものである。
 
日本政治、空白の十年
 
 一九八〇年代までの日本資本主義の典型を情報産業に見ることができる。日本資本がアメリカから市場シェアを奪い取ったメモリー分野は、もともとアメリカの集積回路技術そのものを導入し、その量産化において一定の優位性を占めたことによる。アメリカ政府はこうした過程を基本的には阻止しなかった。
 このメモリー分野での超過利潤におぼれた日本資本は、それにあぐらをかき、他方、日本資本に追い越されたアメリカ資本は、さらなる技術開発の努力をマイクロチップ、すなわちコンピュータの心臓部である中央演算機構(CPU)の開発とその市場におけるデファクトスタンダード(事実上の標準化)化、コンピュータを操作する基本ソフトのこれもデファクトスタンダード化を進めた。これが、インテルとマイクロソフト連合といわれる巨大な市場独占力を形成することにつながったのである。
 日本はその間、スーパーコンピュータ部門はさておき、CPU開発から基本的に撤退していった。NECの某社長は、当時を振り返り、メモリー部門の巨額の利益を前にして他の分野に設備投資を振り向けることなぞ霧の中に消えていった、と述べたことがあった。これが日本の八〇年代を要約するものだろう。技術開発は創造力という核心部分を除いた応用部門に限定され、それを第一級レベルの職人的技術力に依存した。
 メモリー分野の優位性はさほど続かなかった。韓国を中心にするアジアNIESが参入し、日本がコスト面で追い上げられると同時に供給過剰(値崩れ)が発生する。メモリー部門の利潤は急激に落ち込み、日本メーカーの経営不振がここにはっきりと姿を現した。これが九〇年代後半の特徴である。
 空白の十年がさらに深刻さを帯びているのは、日本企業を支えてきたというべき「職人的技術」力が急激に崩壊し始めたことにある。ここには新自由主義の激烈な影響がある。収益性の急激な低落に直面した日本企業は、新自由主義理論を直輸入し、職場労働の質を急激に劣化させ、下請けへのしわ寄せや切り捨てを激化させた。下請けが職人的技術を育んできたのであるし、また相次ぐリストラによる職場労働(環境、質ともに)の劣悪化は大量の不良品の蓄積というところに回帰していった。
 もっとわかりやすくは、三菱現象といわれるもの、すなわち三菱重工業のロケットが全然飛ばないという状況である。巨額の国家予算を浪費して進められる日本の「宇宙技術開発」は、新自由主義を直輸入した三菱重工業の経営理論によって、まず低額受注、ついでその枠内での製造ということが徹底され、飛べるロケット製造という目的は、コスト削減のかけ声に埋もれることになった。技術陣や熟練工員にしわ寄せがかかる企業体質、これを一部では「三菱現象」というらしい。
 技術的停滞――これが「空白の十年」を象徴するのであるが、それに加えて加工技術力の中枢部を解体するという最悪の事態を新自由主義理論の直輸入が生み出したのである。
 JCOの臨界事故にみるように、収益主義は原子力テクノロジーの根幹である「安全性」を粉砕した。日本のあらゆる分野において、リストラであり人減らしである。技術開発力もセキュリティも問題にされない。ただひたすらアメリカ直輸入の技術体系とそれにもとづく収益性第一の理論でもって経済的再生を展望しようとする。
 こうした方法で、アメリカ庇護下の日本が終えんした時代におけるアメリカに対抗しうる「競争力」を持つことができるのだろうか。答えは否である。国家の将来像を日本の政財界の支配者層が描けなくなったといえる。自民党政治の本質的な危機の到来は、ここに不可避となったのである。
 
日本における政治の浮遊
 
 日本政治が公然たる連立時代に入ってから久しい。一九九〇年代は、「小沢改革」に始まる保守分裂と革新(社会党・総評)の崩壊として始まった。経済はバブル崩壊以降浮上せず、政治は離合集散を重ね、結果は六百五十兆円もの国と地方自治体の債務である。この途方もない財政欠損を誰が責任をとり、誰が支払うのか、について政府与党は口をつぐんでいる。
 一連の金融危機以降、新自由主義の旗振り役の発言は少しは控えめなものになり始めた。当の経済界に慎重な姿勢が見え始めていることも事実だ。新自由主義のリストラ攻撃が、企業利潤を幾分か引き上げることには寄与したとしても、職場は荒廃し、国内需要は少しも伸びない。こうした状況で新自由主義の理論が万能であると力んでも、影響力は減退する以外にない。
 だが反面、政治的上部構造というべき行政や司法の反動の動きが、一歩遅れて頂点に達しているようにみえる。とりわけ司法反動は、この世界が新自由主義に丸ごと呑み込まれたかのように凄まじい。国労問題をみるまでもなく、司法部門は新自由主義の「原理主義」として機能するに至った。
 こうした一時期が現象した背景には、革新陣営の崩壊と労働組合運動の変質がある。労働組合が新自由主義理論に自ら積極的に巻き込まれたという要素を過小評価は決してできない。労働組合の一部は、労働者の生活と権利を守るという原点から、企業の存続のために闘うというところへ飛躍した。組合あげてのリストラ推進であり、賃金の切り下げである。
 労働者は企業あってのものなのか、それとも否なのか。この古くて新しい根本的命題が日本労働組合にのしかかり、ソ連社会主義の崩壊ということに起因する政治的非武装化という世界情勢の影響のもとに、労働組合はなだれを打って、企業あっての労働者の論理に呑み込まれた。
 労働組合運動は、保革連合の新政党を選んだ。それが結果としての民主党である。この民主党は保守的二大政党論の惨めな産物であり、路線が少しも明らかにはならなかった。それは、すでに明らかなように民主党だけの主体的な責任ではない。
 小沢の「普通の国家」論にしても、その内実は依然アメリカ庇護下の日本時代の持続に土台をおいたものであり、「普通の国家」は果たして何をする国家なのかは一切明らかにならず、小沢の保守改革、新保守主流の展望はここに挫折をみるしかなかった。民主党のジレンマも本質は同じところにある。アメリカ帝国主義との関係において、民主党はいかなる新たな展望を描くのか――このことなしに政治的主流とはなりえない。
 社民党の惨状も冷戦崩壊後の世界構造に対応できないことの結果であった。村山内閣誕生という、いわば国対政治の感覚で窮状を突破しようとしたことが、さらに最悪の事態を招いた。村山内閣成立の背景には、アメリカ帝国主義の「新世界秩序」を動かし難い現実と認識したということがあろう。
 だがそれは速断に過ぎた。「新世界秩序」は世界の「安定」ではなく、世界の「不安定」を倍加するだけに過ぎなかった。すなわち、新自由主義とそのグローバリゼーションは、全世界的な富の偏在を加速し、相対的な「安定」にあった各地域や国民国家の社会構造を解体し、全世界的なカオス的状況を推し進めただけであったからである。その中に生起する社会的、経済的、民主主義的、人権的諸問題に着目し、そこへのこだわりを宣言することで土井社民党の位置が客観的にできてきたのである。
 共産党が反自民のある程度の受け皿となったことも事実である。だがその政権参加の意図が明らかになるにつれて、その政策内容は限りなく不透明となりはじめた。この党がスターリニズム起源というその歴史を覆い隠そうとしていることも極めて大きな弱点であるが、同時に連合政権樹立の展望が、限りなく民主党的なものに接近することで実現できるという錯覚に陥ったというしかない。
 すでに見たように民主党の混乱は日本の客観的位置がもたらしている混乱であるから、共産党の錯覚は受け皿を期待した民衆の失望をかったというのは言い過ぎにしても、保守政治への対抗としての政治的牽引力を弱めたことは間違いない。
 こうして日本政治の九〇年代は「空白」を持続し、政権党の連立組み合わせを通じて「改革派」のエネルギーは使い果たされた。こうした時期は今しばらく持続すると断言できるのである。
 
日本社会と東アジア
 
 以上を要約しておけば、アメリカ庇護下の日本の終えんが日本支配者層に突きつけているものは、大別して二つである。アメリカ的グローバリゼーションに全面的に屈服するか、それとも東アジア地域を糾合して独自的な領域を形成するかである。この両者の存在を感得することは難しいことではない。ただ、その両者の間を右往左往し、混乱の極にあり続けているだけである。
 そして同時に、東アジア地域の糾合、つまり「円ブロック」としてのみ考えるという致命的欠陥・限界を後者は持っている。それゆえ日本帝国主義は結果として孤立的に闘うというところに追い込まれる可能性が大きい。われわれは、これを旧日本帝国主義の発想とほとんど変わらないものと断じる。
 欧州連合(EU)が試みているように、日本企業がアメリカ型巨大多国籍企業と闘争し、かつ生き延びようとすれば、それにはアジア地域の力が背景となる必要があろう。だが日本にはアジア地域の力を背景にし、かつその集団的エネルギーを出現させるための政治的、経済的、何よりも歴史的力、指向性をそもそももっていない。
 東アジアへの侵略の歴史を居直り、そこに再び日本主導のアジアを形成しようとするというのが日本保守政治の考えられるすべてである。
 東アジアにおけるグローバリゼーションへの抵抗は、一方ではマレーシアのマハティールに代表されるように、開発独裁型政権がその政治的社会的基盤を防衛する目的をもって表現されている。スハルト政権の倒壊をアメリカ国務省が望んだという事実は感じられないが、左手の動きを右手が知らないというような事態はクリントン政権とIMF官僚の間にはあったのであろう。
 IMFの新自由主義的「原理主義」は、長年アメリカ帝国主義の防塞であったスハルト政権やマハティール政権などのASEAN諸国政権を、社会的危機を醸成することを通じて一挙的な政治的危機に追い込む性格のものであるからである。
 こうした開発独裁型政権との協調、それを円ブロックに誘導するという発想は、この間都知事としてアジア首都会議をマレーシアで主催した石原が典型的に示していることだが、日本が中心である以外の選択はない、中国を除外した反共主義であるという点で戦前型日本帝国主義の単純再生産の性格を濃厚にしている。
 こうした発想の第一の難点は、極めて単純なところにある。すなわちアメリカと中国が政治的パワーゲームで全面的な阻止線を張るだろうということである。もちろん東アジア民衆も本質においてそうであることはいうまでもない。
 ここに日本政治がさらに浮動を続けるだろうという見通しの根拠がある。そこに大増税と賃金切り下げの加速化が加わればどうなるか。日本社会の緊張は増大し、社会的荒廃が拡大する。それを通じて階級闘争の基盤が拡大することも必然である。支配層の強権化への衝動もまた加速されよう。最も核心的な事実は、アメリカ庇護下の日本の終えんが日本における新たな左派の歴史的形成の重大な契機となる可能性を生み出しているところにあるのである。
 
社会主義の東アジア
 
 開発独裁政権の危機は社会的危機によって醸成される。韓国における闘いの先駆的発展は、直接にIMFに向けられるに至った。金大中政権は、IMFの優等生となる道を選び、その指令を厳密に実行してきているからである。
 韓国社会の様相は大きく変わった。労働組合運動は官製と民間自主労組の違いを乗り越え、かつ企業内組合から産業別への転換をとげつつある。すなわち戦後の日本労働運動が長いこと悲願とし、ついに実現できなかった目標を、韓国労働運動が数年の間に実現しつつあるのである。金大中ブルジョア(中道)政権はしかし、南北統一への積極的攻勢によって政権維持のバランスを保っているが、政権基盤は確かなものとはいえない。
 韓国労働運動は、その先鋭さにおいてIMFを直接の攻撃対象にし、広範な社会運動の展開を支える軸となっている。台湾の国民党独裁政権時代の終えんやスハルト体制崩壊後のインドネシアの複雑ではあるがダイナミックな民衆運動の可能性をみるとき、東アジアにおける開発独裁型政権時代の終わりが始まっていることを痛感せざるを得まい。
 旧体制の崩壊が社会的混乱を導くことは十分にある。帝国主義は「人道主義」の仮面によって介入支配の口実としてきた。アジアではカンボジア問題があり、東チモールがある。アフリカは混乱の極にあり、ヨーロッパではコソボ戦争が頂点をなした。帝国主義の「新世界秩序」は自らが加速させている世界的混乱に、人道的介入の理由をますます見いだすことになる。
 こうした「人道的帝国主義」の介入に手を貸してはならない。カンボジアPKOや東チモールへの派兵など、左翼にとって判断が厳しく問われる問題であった。コソボをめぐってヨーロッパの緑勢力が大混乱に陥ったことも記憶に新しい。
 急速に工業化時代に入っている東アジアが、その将来を相互の密接な協力の中に見るであろうことを疑うことはできない。相互平等の協力関係が民衆の力を背景に実現されていくという展望が生まれるとき、そこに社会主義の東アジアの端緒的な見通しも成立してくる。
 ここで特に二つの問題を指摘したい。一つは日本国家の歴史的存在の問題である。東アジアへの侵略、とりわけ中国大陸への侵略に居直っていては、民衆の東アジアに仲間入りさせてもらうことはできない。民衆への戦争賠償は少しもなされてはいないし、聖戦意識をあおり立てる風潮はますます盛んである。
 アジア民衆への戦争賠償を一つ行えばきりがないというのが、絶対的な拒否を続ける保守党政権の本音であろうが、国と地方をあわせた負債が六百五十兆円を超えている財政状況、その巨額の財政赤字と比較すれば、さほどのこともないはずである。日本民衆は東アジア民衆への戦争補償のための支出であれば、いかに巨額であろうとも身を削っても行わなければならないし、わけの分からない財政支出のしわ寄せを受けるよりははるかにましと感じるに違いない。これは来るべき日本左派勢力の回復にとって最大の試金石となるだろう。
 もう一つは中国である。
 WTO加盟に全精力を傾注した感のある江沢民の中国は、世界市場との結合をますます深めている。こうした市場経済への統合過程は、官僚資本層を形成し、国有工場解体を促進し、そして地域的な貧富の差を拡大し、都市への人口集中などを生み出している。江沢民の中国共産党は、民主主義を抑圧すること、膨大な軍を自己の手中に確保することによって政治的独裁を維持している。
 こうした体制が矛盾を限りなくはらむことは明らかだし、それが不断に揺さぶられる可能性は大いにありえる。
 毛沢東イズムを使い尽くしつつある中国において、陳独秀を再評価する機運が徐々にではあれ高まっていることにわれわれは注目する。孫文の三民主義、それを換骨奪胎した毛沢東の新民主主義論は共通の特質をもっている。それはいずれも「党首個人独裁」であり、「一党独裁」である。この二つに歴史的な評価を下されたのであれば、中国近代史上で残るは民主主義的社会主義を主張したと一般に受け取られている陳独秀だけである。
 陳独秀研究は今や相当に広範囲に行われていると聞く。中国で刊行できない時は香港で、それも難しいとなれば台湾で、陳独秀の関連文献が次々に刊行されている。中国本土にトロツキストはいない。高齢となってようやく釈放されたトロツキズム運動のごくわずかな先輩がいるだけと伝えられている。鄭超燐はなくなったが、康生によって五一年暮れ以降に数百人のトロツキストが反革命一掃運動のどさくさに投獄されたのである。
 だがイデオロギーの力がそうは簡単に滅びはしないことは、陳独秀再評価の動きにみることができる。中国における社会主義的民主主義の実現、すなわち政治革命への胎動につながるであろうことを確信するのである。
 中国の将来がいずれのものになるにせよ、東アジアを地域として築いていく必要性を回避することはできない。それは開発至上主義あるいは自然略奪主義を越えたビジョンを持続可能な成長に結びつける新たな方法論を求めることになる。これが東アジアの社会主義の道となるだろう。
 (以上、文責は川端)

付 陳独秀と民主主義について

民主主義が輝いた時代

 ここで陳独秀と民主主義について補足説明をしておきたい。
 中国史上、民主主義が輝いた時期がなかったわけではない。一九一一年、辛亥革命の先頭に立ち、その後の「臨時約法」(アジアで最も民主的な憲法といわれた)時期を牽引した若き革命家、宋教仁は南方革命派を代表し、民主主義をもって北洋軍閥の袁世凱と渡り合い、一三年に袁世凱の刺客の手にかかり暗殺されるまで国民党を結成、指導し、民主主義体制樹立のために奮闘した。
 袁世凱派を宋教仁の国民党が選挙で圧倒し、議会の多数派を占めるに及んで、袁世凱は宋教仁の暗殺に訴えたのである。宋教仁の死は中国近代史上の痛恨事であったと同時に、第二革命の引き金となった。第二革命は敗れたが、続く第三革命へとつながり、袁世凱の皇帝即位阻止、退陣を導き出すことになる。
 しかし宋教仁が体現した民主主義と約法をもって新中国を建設するという方法が、当時の革命派の中に復活することはなかった。その間、孫文(広東派)は南方革命派代表として行動していたが、しかし彼の秘密結社方式の党首独裁、党独裁の方法は宋教仁の時期には問題とはならなかった。孫文が約法路線に不満だったことは知られている事実であり、その後、革命運動の指導権を掌握して以降も孫文は約法路線を復活することはなかった。
 連ソ(ソ連との結合、共産党との合作)以前の孫文主義は、大衆的活性化を引き出すというよりは、旧来型の陰謀集団的、秘密結社的であり、軍閥と結び、北洋軍閥と抗争するという性格であり、五・四運動(一九一九年)に表現される民衆の新たな活性化とは相当に距離を置いた存在にすぎなかった。

歴史的な分水嶺

 宋教仁がまいた種は全然別個なところから爆発的に発芽してくる。陳独秀の始めた「新青年」運動がそれであった。その担い手たちが、オールド・アナーキストの蔡培元が校長を勤めることになった(当時の民主主義の風潮がここに現れている)北京大学に招かれ、ここに集中した運動が展開される。魯迅もここで陳独秀の強い勧めによって創作活動を開始することになる。
 その時期は短かった(五・四運動で陳独秀は北京を逃れる)が、近代中国史上に決定的な意味をもった。反軍閥の運動が、ロシア革命の影響もあって民衆的革命運動に発展していく歴史的な分水嶺となった。しかし、その民衆運動が、民主主義的なものを内包して展開することになるのか、それとも民主主義を排したものとなっていくのかは、歴史が決定することになる。
 宋教仁ら長江(上海、南京)派の系列に属する歴戦の革命家陳独秀が、宋教仁暗殺後に「民主主義と科学」とをもって中国のイデオロギー戦線に彗星のごとく登場し、圧倒的な影響力を行使するに至るには、それなりの背景があった。
 その陳独秀が中国共産党に至る時期、当初は孫文を評価していなかったこともまた有名な事実である。科学と民主主義を掲げた陳独秀が「党首独裁、党独裁」の三民主義を認めることは、本質的に矛盾することであろう。
 陳独秀は当時、後に孫文と対立する(開明的軍閥の)陳炯明と親交を結んでいたし、共産党結成直後の時期には、孫文と陳炯明のいずれを選択すべきかという論争も党内にはあったらしい。陳炯明は孫文北伐軍の中心勢力として期待されたが、結局は行動を共にせず対立が深まり、後には孫文を襲撃するまでに至る。蒋介石は決して陳炯明を許すことがなかった。
 ちなみにこの陳炯明は、鄭超麟のフランス勤工倹学参加の資金を提供した人である。福建軍閥であったが、アナーキズムに傾斜したところがあり、連省自治運動に共鳴していたようである。連省自治運動の観点から孫文の武力統一路線に違和感をもったという解釈もできないわけではない。毛沢東も当時(一九一〇年代後期)は、連省自治運動の熱心な信奉者であった。
 当時の中国では、マルクス主義の影響はほとんどなく、アナーキズムが極めて有力なイデオロギーであった。カウツキー主義的なマルクス主義は、当時の中国に縁遠いものだったのであり、それが転換するのがロシア革命である。カラハンの不平等条約破棄、ロシア利権破棄の宣言が中国民衆に与えた影響も極めて大きい。
 連省自治運動構想はアナーキズムの系列から出てくる。中央政府(清朝、続いては北洋軍閥)を否定し、省ごとの自治政府を土台に横の平等な連合で政府を構成しようというもので、民衆自治に理想を託すという立場で、当時の民主主義の風潮とも重なり合っていた。
 だが結果としては、群小地方軍閥が分割割拠するのに都合のよい理論となった。陳炯明も最後はそうしたものへと転落したようである。清朝打倒の革命運動が多かれ少なかれロシア・アナーキズムに類似する陰謀的、テロリズム的傾向をもっていたのも、こうした風潮の影響であろう。
 ちなみに陳独秀の二人の息子、延年と喬年兄弟もアナーキズムの活動家であり、父とは対立していた。兄弟はフランス勤工倹学運動(この運動もアナーキストが指導したもので、当時の中国の青年層の相当部分を強力にひきつけた。
 後の中国共産党の指導者層の多くがここから生まれた「在ヨーロッパ中国共産党」から出ている。周恩来やケ小平もその一人である)。参加の中でマルクス主義に変わり、新生中国共産党の有力活動家として父と行動を共にすることになる。二人は蒋介石反革命の中でそれぞれ二七年と二八年に、上海で殺害される。

陳独秀とコミンテルン

 陳独秀が陳炯明と別れ、孫文と行動を共にする契機は、もちろん当時のコミンテルン代表スネーフリート(マーリン)やロシア外務省を代表したヨッフェなどの(少々強引な)説得による。陳独秀は、しかしながら孫文主義やその後継者を乗っ取ることになる蒋介石の考え方(軍事主義、独裁主義)に深い違和感を抱き続けたようである。
 彼が民衆の民主主義的エネルギーや大衆運動の力に革命の基本的力学を感じ取っていたと考えられるのは、蒋介石の北伐に当初は反対し、また中山艦事件以降は事あるごとに国民党からの退出(共産党の組織的独立)を主張して、ボロディンらの広東勢(ここに書記として延年がいた。ケ小平が晩年に、延年は親父さんと対立したし、まことにいい男であったと語るのはこの間の事情であろう)と対立し、モスクワに幾度か許可を申請していることなどに根拠がある。
 陳独秀が二七年七月半ばに書記長職を投げ出すまで、彼の基本的な立場、態度には国民党への疑念が一貫してあったといえる。その陳独秀の心情を抑え込んだのは、当時のコミンテルン指導であり、スターリン(とブハーリン)である。陳独秀は、コミンテルン中国支部としての中国共産党書記長として、コミンテルン指導を遵守すべき立場にあった。その公式立場と内的心情の矛盾が、後に彼をして決定的にスターリン反対の立場に移行させることになった。彼は、二八年の中国共産党第六回大会(モスクワ)出席もコミンテルンへ指導部メンバーへの招請も拒否したのである。
 中国共産党が二七年以降、極左的軍事主義に傾斜し、コミンテルン権威主義がスターリニズムの制圧とともに粛清路線として顕在化してくる影響をまともに受け始めた。李立三路線となれば、スターリニズムの第三期路線そのものの犠牲者というべきだろう。
 この時期、いわゆる調和派が李立三と抗争し、ついでモスクワ派と抗争し、結果は蒋介石に売り渡された事実の背景には、羅章龍らの労働組合指導部が極左主義に抵抗したことがある。彼らが「調和派」と呼ばれるのは、陳独秀派トロツキストとの提携を求めたからである。
 スターリニストは、トロツキー派との抗争において、中国革命は依然発展しているとの証を必要とした。それが都市暴動路線を典型とする李立三の極左路線で頂点に達した。党内粛清も持ち込まれはじめ、後には日常茶飯事となる。陳独秀時代にはありえなかったことである。

毛沢東の粛清路線

 山に登った毛沢東も例外ではなかった。と言うよりは、その粛清路線が体質化するまでにのめり込んだ。一九二九年に毛は、その独裁主義的指導に大衆的批判を受け、一時は批判派の陳毅(朱徳も含む。朱徳が文革時代に迫害される原因である。毛は忘れてはいなかったのだ)に指導権を譲らざるを得なかった時期があった。その巻き返しが二九年秋に周恩来の指導によって可能になるや、毛は批判派、対立派に初めは慎重に、そして最後は大々的に報復と粛清を始める。
 その直接の標的とされたグループは、最後的には地元江西省出身者を中心とする李立三傾向グループとなる(富田事件)が、社会民主主義的傾向や第三党(国民党左派が独自に結成した政党)傾向などの異端分子はすべて粛清対象となり、殺害されていく。いわゆる王明らのモスクワ派がこうした粛清主義をあおり立てたことには何ら疑問はない。
 周恩来やその他(瞿秋白も)、こうした粛清路線の横行に心底では乗らない人々もいたであろう。新四軍司令で蒋介石軍にだましうちされた項英は、公然たる反毛沢東派であった。しばらくはそのような人も存在できていたのである。
 だが蒋介石軍に圧迫された「ソビエト区」はすべて粛清路線が吹き荒れたといって過言ではない。毛は一方では密かに救いの手を差し伸べ、他方では無慈悲に抹殺する。いわゆる「人治主義」の典型である。ここにいざとなれば毛に救ってもらえるという心情が育まれることになる。
 そうした傾向はまた、新たな世代の出世主義によって助長される。陳伯達のような連中である。彼らは毛を神格化し、それに乗ることによって党内の位置を高める手段とした。康生が主導した延安整風運動が果たした真の役割がここにある。
 毛と対等であったり、批判的傾向をもったり、過去にそのような行動、言動を吐いたりした他の同志たちは、沈黙と服従に沈潜する以外になかった。それが文革期の劉少奇らの行動の説明となる。沈黙以外にありえない。それを破れば、彭徳懐の運命である。彭はほとんど唯一、毛沢東と対等の同志関係という立場を崩さなかった人である。彼ら指導部の九九%は、大躍進路線の破たんに際して、最も必要だった彭徳懐の防衛に指一本すら立てられなかったのである。最高指導部では張聞天(洛甫)だけが例外である。
 後年の第七回大会における毛沢東の絶対権確立、整風運動を経て、新中国の幾度も重なる粛清運動、そして文革へと一瀉千里に突き進んでいく。党の独裁、毛沢東の独裁は第七回大会で完成するのであるが、果たして、この歴史に「イフ(もしも)」がありえなかったのであろうか。一党独裁、個人独裁以外に中国革命が勝利することはできなかったのであろうか。党内民主主義、民衆の民主主義は不可能であったのだろうか。あるいは、今後の中国共産党に他の道がないのであろうか。
 ここに痛切なまでに歴史の洗い直しが求められる根拠がある。
 陳独秀研究が広がる意味がここにある。
 (川端)

梅津政一同志の逝去を悼む

 

 梅津政一同志は二〇〇〇年七月二十九日、心不全のため急逝した。五十七歳であった。
 昨年から体調を崩し通院加療中で、五月から六月にかけ約一カ月入院した後、静養中の突然の訃報である。
 
 彼は一九四三年四月三十日、山形県東根市に生まれる。日本通運で働いていた一九六三年、バイクツーリング中の事故で脊髄損傷の重傷を負う。しかし彼はこの状況を甘受せず、自立の道を選び、六六年からは「脊損者の会」で活動を始める。その後働いていたパイオニアの下請け企業における全員解雇に対し、ちょうど天童市で開催された電機労連の大会で支援を訴えるチラシ配布の行動を行う。
 当時あった「障害者は働くべきでない」という考えに反対し、働く障害者に対する差別の問題(最低賃金の適用が除外されている問題など)を提起していく。
 七一年には、障害者のサークル「きどう」に参加。行政に対しても、交通緩和を口実とした山形駅前の横断歩道を廃止し、地下道化する計画に反対する運動を行う。
 また七六年八月に「全国障害者解放運動連絡会議(全障連)」が結成されたが、その後その全国幹事を担い活動するなど、一貫して障害者解放運動に関わってきた。
 
三里塚闘争への参加
 七三年から七四年にかけての「三里塚闘争に連帯する会」の活動に参加し、戸村一作氏の参院選を闘い抜く。この後も現地集会に参加し、七八年の三・二六闘争にもかけつける。この間、反対同盟の岩沢吉井さんと親交を結ぶ。
 
国鉄闘争を闘い抜く
 臨調答申から始まった「国鉄分割・民営化」攻撃は、国鉄、そして国鉄労働運動の解体をもくろんだものだった。各地で結成された「分割・民営化」に反対する地域共闘の組織、国民会議の一翼を担い、宮城や福島とともに山形会議を結成。梅津同志は山形会議議長として運動に参加。立山学氏を招いての講演集会や「分割・民営化」実施前日の八七年三月三十一日、山形駅前での街宣行動などを行ってきた。
 
解雇撤回闘争
 九三年十月十九日、当時の勤務先、ハイオステクノロジーから翌二十日付の解雇通告を受けた梅津同志は、支援の仲間たちとともに、解雇撤回闘争に立ち上がり、地位保全の仮処分を山形地裁に提出した。結成された「支える会」とともに会社前でのチラシ配布や国労・自治労、そして県労連傘下の組合員の署名活動を行い、裁判所に提出する活動を行った。その結果、九四年五月十七日の第六回審尋で「勝利和解」を勝ち取る。
 支える会は、この後も十月に職業安定所へ「障害者の雇用確保」の要請を行った。
 
市民運動とともに闘う
 彼の活動はまた、市民運動を抜きにしては語れない。
 日韓連帯、東チモール、国民体育大会、天皇制、湾岸戦争時の海外派兵、ガイドライン問題など、あらゆる場所に彼の姿が見られた。
 街頭宣伝、車両パレード、抗議デモ、行政への要請行動、そして学習会と形は違っても変わりはなかった。特に近年は「新ガイドラインを読む会」の中心的活動をともに担い、九八年五月には山川暁夫さんを招いて講演会を開催したり、その後も継続的に学習会や議会請願などを行ってきている。
 道半ばにして逝くのはさぞかし無念であったと思う。
 これまでともに活動してきた私たちは、彼の遺志を引き継いでいかなければならない。 
 二〇〇〇年九月九日
  多くの仲間を代表して
  山形県 中山博士

対外債務の帳消し
実質が伴わない空騒ぎ

                                                             デニス・コマン、エリック・ツーサン


 一九九九年六月に開かれたケルンサミット(G7)は、いくつかの最貧国の債務を九〇%ほど帳消しにすると宣言した。この宣言は不正直であり、そのうえ対象となっている諸国の債務残高や国家財政の支出などにはほとんど影響を与えないのである。

はじめに

 G7サミット会議後の恒例行事となっている国際通貨基金(IMF)と世界銀行(世銀)との秋季会議が一九九九年九月にワシントンで開かれたが、その目的は、G7で宣言された意図を調整し統一することであった。その結果、国際的な金融機関が定めた基本線にそったメディアのキャンペーンが展開されることになった。「心配するなかれ、貧国の債務は帳消しになった」と。IMFと世銀は、これまでの構造調整計画(SAP)に変えて貧困克服戦略計画(PRSP)という新しい革新的な術語を打ち出した。
 すなわち債務の帳消しと貧困の撲滅とを同時的に実現しようというのである。一九九九年六月から二〇〇〇年三月までに、この線にそった発表が次々に行われた。一九九九年六月ケルンサミットは、総額千億ドルの債務帳消しを発表した。同年七月にはG7の一員であるカナダが同国が関係する債務の一〇〇%を帳消しにすると宣言した。九月にはアメリカが六月に決定された内容を再度明らかにした。
 それから数日後、米大統領のビル・クリントンは、三十六貧国の債務を一〇〇%帳消しにすると、数字のうえではより進んだ態度を表明した。同年十二月末にはイギリスの大蔵大臣ゴードン・ブラウンが一〇〇%の帳消しを宣言した。フランスの大蔵大臣もイギリスに後れをとらずに一〇〇%の帳消しを発表した。二〇〇〇年二月にはイタリア政府が、カナダ、アメリカ、イギリス、フランスにならい、一〇〇%の帳消しを発表した。一九九九年六月選挙の結果として登場したベルギー新政府も、ケルンサミット宣言を支持すると明らかにした。
 こうした状況に歓喜するだけでいいのだろうか。第三世界の債務を帳消しにする全世界的な運動は、その目的を達成したのだろうか。答えは否である。というのは、事態が極めて根深いからである。一九九九年六月のケルンサミットから十カ月後の本年四月で見ると、重債務最貧国(HIPC諸国)四十一カ国のうちでわずか三カ国だけ――ボリビア、ウガンダ、モーリタニア――が債務帳消しの恩恵を受けたにすぎない。しかし、これら三国にしても最善の場合で、支払うべき総額の三五%が減額されるにすぎない。ケルンサミットの数字、九〇%に遠くおよばない。
 債務が帳消しとなったモーリタニアでは、人口の六二%が不識字であるが、教育支出よりもはるかに多い金額を債務支払いにあてなければならないのである。モザンビークとガイアナの二カ国は、ケルンサミットでは債務即時削減で利益を受けると想定されていたが、重債務の状態が無期限に続くことが判明した。イギリスのジュビリー2000が試算したところ、HIPC諸国のうちで帳消しの恩恵があると想定される十五カ国は帳消し後の毎年、帳消し以前よりもはるかに多額の金を支払わなければならないのである。
 事態が改善されているとは、とても言えない。南の人々の立場ではなく、北側債権者の観点に立つ場合のみ、事態が改善されたといえるのである。だから第三世界の債務を帳消しにするための運動を終結させるのでなく、継続・発展させなければならない。G7やパリクラブ、IMF、世銀が主張する債務帳消しに関する中心的な問題を、以下に論じていく。

債務軽減の裏側

――ケルンサミットなどで発表された債務削減が第三世界最貧国などの事態を改善しない理由は何か。
 債務削減を主張する債権者が、そのための条件としているのは名称を変更したにすぎない構造調整計画の継続、つまり「貧困克服戦略計画」の推進である。独立経済研究機関や国連組織、社会運動などの試算によると、「貧困克服戦略計画」は、対象国経済の不安定さを増大させ、破滅的な結果をもたらすことになる。
 UNCTAD(国連貿易開発会議)の報告、ことに一九九八年の貿易開発報告中のサブサハラに関する優れた章は、サブサハラ諸国における構造調整の実態を分析しており、十年以上にわたって何らの利益をも生み出していないと明らかにしている。世帯消費の減少、国内市場向け生産者の生産縮小、商品食料への依存拡大、アフリカ諸国が世界市場に輸出する商品価格の低下、低所得者に対する課税強化――UNCTAD報告のこうした否定的な結果は、構造調整計画適用によるマイナス面の一部でしかない。

――世銀やIMFが一九九九年に貧困克服戦略を明確にしたとき、前述のような批判を考慮しなかったのだろうか。
 批判が増大するのを避けるために、世銀やIMFは、従来のやり方を再考すると発表したが、それは表面的なものだった。構造調整計画の核心部分は実質的に残り、発表された唯一の「改善」は厚生と教育支出の増額であり、「貧困克服戦略計画」の作成において「市民社会」の状況を考慮することだった。
 アフリカ各国政府が二〇〇〇年から実行している政策を、計画やその実態において詳細に分析してみよう。厚生費と教育費との増額は顕微鏡でしか分からないほどわずかである。これら二項目の支出は、過去十五年間継続的に減少してきた(二〇%の減額に相当する)うえで増加するのであり、増大する支出の二%を占めているにすぎない。これから計算すると、一九八五年の支出額に回復するのが二〇一〇年ということになる。
 二〇一〇年までに健康に関する状況は悪化し、呼吸器疾患や下痢、マラリアなどによる死亡が減ることはないだろうし、エイズによる死亡は増大し、数カ国では平均余命が低下するだろう(WHOが最近発表したアフリカ報告を参照)。栄養失調が増加し、国民の健康を悪化させる。その犠牲の中心は女性である。
 教育に関していえば、児童や生徒に相当する子どもの数はかなり増加しているが、適切な教育機会を与えられていない。アフリカ各国の教育労働者や医療関係者の賛嘆に値する努力があっても、そして数パーセントの支出増額があっても、十五年間にわたる緊縮政策による状況の悪化を改善するにははるかにおよばない。

専門家の見方は

――経済専門紙はどんな態度をとっているか。
 一九九九年六月のケルンサミット直後、ウォールストリートジャーナルは、世銀やIMFが採用した債務削減措置は不良債権を新規債権に切り替える小手先の技術に他ならないと述べた。この措置によって二つの国際金融機関は、先進国の国債購入で被った損失を補うことができるようになる。ここには、債権放棄のような気前のよさを示すものはひとかけらもない。
 極度に親市場の立場に立つイギリスの週刊経済誌エコノミストは、一九九九年のクリスマス号で英連邦、合衆国、フランスなどが最近発表した債権軽減措置という「プレゼント」の中味は「包装」以外に何もないと書いた。その記事の見出し「誰が童話を信じるか」がすべてを象徴している。実際、北側諸国政府が債務削減に関して発表した数字の総額は、表面的には巨大であるが、具体性はない。こうしてエコノミストは、サブサハラ諸国が一九八八年以降に負った債務の三分の二以上が利子支払いのためのものであることを明らかにしている。
 結局、全体としてみると富裕国が債権回収を放棄しても、そのことは貧国には一銭にもならない。つまり長年にわたって不合理なやり方で蓄積され、貧国を脱出不可能な状況に追い込んでてきた利子、これを放棄すること以外のものではない。「五十カ国の最貧国を一つのグループとしてみると、援助として受け取る額の二倍以上を利子支払いにあてている。これ以上に無意味なことはない」とエコノミストは認識を示した。

――債務削減(帳消し)の資格、条件は何か。
 最貧国(一人当たり年間収入がおよそ七百六十ドル)であり、重債務国であること(累積債務額と輸出額の比率で計測される)が必要。この基準は厳格に適用され、しかも根拠がないのだから、非常に貧しく債務があっても重債務貧国(HIPC諸国)とみなされない。ハイチやバングラデシュ、パキスタン、ナイジェリア、ペルー、エクアドルは債務軽減の対象となるHIPCとはみなされない。インドやインドネシアはいうまでもなくみなされない。しかし最も貧しい人々の八〇%は、こうした諸国にいるのである。
 その国家の政治性も問われる。スーダンやリベリア、コンゴ民主共和国、ソマリアのようなHIPC諸国は、その政治的な方向性を根本的に変えない限り、債務削減を行うかどうかの審査対象になることはない。
 対象国はまた、IMFと世銀が作成した構造調整計画を三年から六年間にわたって継続して遂行しなければならない。その結果の成否を判定するのは、これら二つの国際金融機関である。
 三年ないし六年の構造調整計画が成功したとしても、債務額の水準がIMFと世銀によって耐えられないものと判定される必要がある。次のようなケースを考えてみよう。
 その国は、ことに輸出額が増加したために債務が相対的に少なくなった(一九九八年にウガンダは、主要輸出品であるコーヒー価格が一時的に上昇したため、こうした現象が生じた)。その結果、IMFと世銀は、債務の水準が耐えられるものとなったと判定し、債務軽減の必要性がないと結論を出す。以上のケース検討から次のような結論が出る。HIPC諸国当局はIMFと世銀による債務軽減の必要性判定の前に状況が悪化した方がいいと考えることになる。この状況が、一九九九年十月のマリと一九九九年十一月のベナン人民共和国で発生したのであった。
 債務軽減を願う国は、パリクラブの審査(以下を参照)を経なければならない。そこで青信号が出ると、その国は再度IMFと世銀を訪ねて、両機関に対する支払いの軽減を認められなければならない。
 一九九九年九月以降、新しい措置、すなわち「貧困克服戦略計画」作成の義務が追加された。

債務軽減の実際

――債務削減は一度でなされるのか。
 債務削減が一度になされることはなく、数年にわたる過程となる。対象国は、それまでに国家財政上の経済改革とネオリベラルによる緊縮政策を三年から六年間ほど実行しなければならない。しかも、これらの政策は、IMFと世銀の承認を受ける必要がある。こうした見習い期間を経て審査対象国は、IMFに赴き、次の段階に進むことができるか否かの判定を受けることになる。
 この判定と同時に、問題の国は、パリクラブの公的債権者の前に進み出ることが要求されている。パリクラブが、債務削減あるいは債務帳消しを決定することもある。メディアの多くが伝える関係各国政府の宣言とは反対に、公的債権者の債務を九〇%あるいは一〇〇%帳消しにすることは不可能である。なぜか。この削減(帳消し)は、いわゆる「カットオフデート」(決算あるいは監査のために取引を中止するか、あるいはそれ以後の分を別に記帳することに定めた日)以前の支払いにさかのぼる二国間債務の総額にのみ関係するからである。
 このことは、以下の諸国にとっては一九八三年以前の二国間債務の総額に相当する――中央アフリカ共和国、セネガル、トーゴ、コートジボアール、マダガスカル、ニジェール。二〇〇〇年における二国間債務の総額は、カットオフデート以後に蓄積されたもので、その大部分は滞納分である。
 パリクラブが対象国にケルンサミットの要件を満たしていると青信号を出したとしても、追加的な段階を経る必要がある。すなわちIMFと世銀に出かけて、両機関に支払うべき金額の一部の軽減を要請しなければならない。

――世銀とIMFが保証する債務削減は、結局どうなるのか。
 IMFと世銀は、対象国の債務が耐えられないものであり、同時に、その国がパリクラブの条件を満たしていると判定すれば、その国のIMFと世銀に対して支払わなければならない金額の減額を決定できる。理論的な例をあげると次のようになる。ある国が世銀とIMFに十年期間で五千二百万ドルを返済する義務がある場合、両機関は二千万ドルの減額を決定すると、その国は三千二百万ドルを返済することになる。
 この場合、世銀とIMFは、この二千万ドルについては水に流したのだろうか。そんなことはあり得ない。両機関は返済を確実にするために、トラストファンド(信託基金)を創設し、その基金から十年間をかけて二千万ドルを引き出す。減少した基金を誰が支払って補うのか。IMFと世銀の加盟国が支払うことになる。この場合、先進工業国だけではないが、これら諸国が中心になって出資する。
 これらの出資金は、世銀とIMFとが国際金融市場で投資したものである。世銀やIMFへの支払いにあてられるのは、これら投資からの収益(利子あるいは資産価格の上昇)である。こうして世銀とIMFは、加盟国の国債を得て、それが債務削減に対する各国の出資金となる。こうした理論的な例を見て、債務帳消し(取り消し)について語ることはまさに言葉の無駄遣いであり、世銀やIMFに債務を帳消しにする寛大さがあると主張するのは本物の詐欺行為である。
 ウオールストリートジャーナルが正しく指摘しているように、HIPCのイニシアティブとトラストファンドのメカニズムとによって、世銀とIMFは、回収不能な債権を加盟国の国債へと転換できるのである。実際、世銀とIMFは、HIPC諸国に新規借款を提供し、それによってHIPC諸国は、ことに世銀とIMFとに対する返済を遅滞なく実現できるというわけである。世銀とIMFのポートフォーリオ(資産の配分状況)安定化方針について、触れておこう。この方針が実際に生み出しているのは、世銀とIMFが金融市場に新たな投資をすることでオペレーション(資産運用)のコストを賄おうとするので、証券市場のバブルに寄与しているのである。

貧困克服計画とは

――「貧困克服戦略計画」とはどんなものか。
 世銀やIMF、G7は、二十年間にわたって、その政策が地球規模で貧困を拡大していると批判されてきたので、HIPCのイニシアティブを貧困を減少させるように追求(再度!)する政策に向けようとした。
 一九九九年九月のIMF、世銀、G7の会議以来、HIPCは、国際社会に対して「貧困克服戦略計画」と題するプログラムを提出することを義務づけられた。この計画は、当該国の市民社会との対話を通じて練り上げられたものであることが要求されている。前に注意したのと同じように、ここでも注意すべきこと、つまり債務削減の恩恵を受けようとすれば、さらなる条件の実行を迫られるのである。
 そうした計画に必要とされる内容や手続きは、明確にされてはいない。事実、内容に関しては、構造調整計画によるマクロ経済の枠組みと、貧困との真実の闘い――富の再配分や食料自給をめざす政策、国家と公共サービス(保健、教育、経済の社会的基盤)との強化などが必要――との統一性を維持できるはずもない。結局、無駄な努力をすることになるだけである。
 別のはっきりしない点。貧困克服計画作成に「市民社会が関与する」とは、正確には何を意味しているのか、はっきりしない。これまで、この点に関して何らの回答もない。この数カ月間の具体的な経験を検討してみよう。モザンビークの例は雄弁である。同国は、二〇〇〇年一月に債務の「削減ないし帳消し」の利益を得るはずだった。この日付は、一九九九年六月のケルンサミットと同年九月のワシントン会議の前に決まっていた。一九九九年十月、IMFと世銀は、モザンビークに貧困克服計画の作成を要求。同国政府は具体的に対応し、二、三カ月以内に市民社会との対話を経たうえで、そうした計画を作成することは不可能であると回答した。その結果、「債務軽減ないし帳消し」は、無期限に延期された。
 どのように結論すべきか。所定の時間内に計画を作成するという課題を実現できない民主的な政府は、「債務軽減の無期延期」といった罰を受けるが、他方、権威主義的な政府であっても、その重圧下にあるいくつかの市民組織の協力を得て、債務軽減といった恩恵を受けることができる得点をあげることになる。
 ガイアナ共和国のケースもまた雄弁である。一九九九年十二月に「債務軽減ないし帳消し」の恩恵を受けることになっていた。その直前に複雑な事情が発生した。政府は、国民の不満に直面して、三・五%の賃上げを容認した(実質賃金は下がる)。
 この問題についてIMFと世銀は、政府がそうした決定をするなら「債務軽減ないし帳消し」は延期されると述べた。そして賃上げ問題を法廷に持ち込むよう勧告した。その結果は驚くべきものだった。その裁定は二〇%の賃上げだった。かくしてガイアナの「債務軽減ないし帳消し」は無期限に延期された。

債務と軽減の実態

――第三世界諸国の債務は、その他の債務と比べてどうか。
 世銀によると一九九八年における第三世界の債務は全世界の債務総額の六%に相当する二兆三百億ドルである。この場合、旧東欧圏の債務、四千六百五十億ドルは含まれていない。この数字は人口との関連で考慮される必要がある。四十一カ国のHIPCの債務は二千億ドル、サブサハラのアフリカ諸国の債務は二千三百五十億ドル。ベルギー国家の債務は二千五百億ドル。サブサハラアフリカ諸国の人口は六億人で、ベルギー(千万人)の六十倍となっている。
 全世界の債務は三十七兆ドル、アメリカ合衆国国家の借入金は五兆ドル、同国の全世帯借金は六兆ドル(数字は一九九九年のもの)。日本国家の借入金は二兆ドル。

――一九九六年以降実行された債務軽減の総額はいくらか。
 HIPC諸国がそれまでに獲得した軽減額は、最大限に見積もって第三世界の軽減額の二五%、一九九六年当時のHIPC債務の五%である。一部のHIPC国に与えられた債務軽減は、その他の形態での債務増加を補う規模になっていない。

――一九九九年九月末にビル・クリントン大統領は、HIPC諸国がアメリカに対して負っている債務の一〇〇%帳消しに拡大すると発表した。これは同国の二〇〇〇年予算にどのように反映されるか。
 HIPC諸国がアメリカ合衆国に対して負う債務を軽減するために議会が配分した予算総額は、国防軍事支出の〇・〇五%以下である。実にあきれ果てた話である。

――英連邦のゴードン・ブラウン蔵相が一九九九年十二月二十九日に発表した措置はどうか。
 その額は、二十―二十三年間で六億三千五百万ポンドとなっている。この額は、同国国防予算の千分の二にすぎない。

――先進国がHIPC諸国に与えた債務軽減が、先進国の援助予算の減額につながるというのは本当か。
 その通り。北(先進国)政府が帳消しにする債務の一部は、南側諸国が北の民間企業から借りたものである。こうした融資は、各国の特別な機関によって保証されている。
 例えばベルギー政府がギニアの債務、四百万ドルの帳消しを発表した場合を考えてみよう。このことは、ベルギー援助局の予算がギニアの債務、四百万ドル相当のクレジットとして保証委員会を「補償する」ことになる。つまりベルギー企業による対ギニア融資は、この保証委員会によって保証されていたのである。
 その金は、ベルギー開発援助局の財源から支出され、保証委員会の金庫に入る。そして保証委員会が、その金でベルギー企業の融資を補償する。

――前述の話ではベルギーが四百万ドルの債務帳消しを実現することになっているが、これはベルギーにとって、どの程度の額なのか。
 実際問題として、それほど多い金額ではない。四百万ドルという数字は、その融資契約が締結されたときのものである。事実として、この債務は、当初額の一五%、つまり六十万ドルを越えることはない。
 この理由からして一九九九年六月にG7が発表した千億ドルの債務帳消しは、実際の額はそれほどのものとはならない。同じことは、ビル・クリントンとゴードン・ブラウンは発表した措置とその数字にもいえる。
(インターナショナルビューポイント誌8―9月、323号)