2000年12月10日        労働者の力               第129号
加藤の挫折と第二次森内閣の発足


大増税時代に備える労働者の統一戦線を

                                                                                    川端 康夫

  
 「加藤」の乱はあっけなく終わった。一人で突っ走った加藤は、盟友山崎との連携も考慮せず、ただ自軍の解体を招くだけの独り相撲でこけた。関ヶ原の石田三成にもはるかに及ばずというところだろう。加藤派は公然たる分裂となっただけでなく、加藤支持は少数派とさえなってしまった。自派をほぼまとめた山崎に比べればまったくの惨状である。加藤の直前撤退によって、支持率一〇%台の森はめでたく不信任案を否決できた。そして第二次森内閣が発足した。その「目玉」商品は橋本元首相である。最近の世論調査によれば森内閣の支持率はいくらか上昇気味だという。だが森個人の早期退陣を望む声は変わらない。すなわち橋本のおかげなのだ。
 
加藤の乱――その総括
 
 加藤は何を目指そうとしたのだろうか。本人以外にはそこがどうにも理解できない。加藤本人には大平・福田対立と不信任案可決、総選挙突入という図式があったことは確かである。その事実に加藤が繰り返し言及していたからである。だから、小沢の党分裂、野党連合との合流という構図は、頭の片隅にはあったとしても、真剣に考えたという痕跡は見られない。
 ただし大平・福田の場合、大平が急死したという事情があった。その弔い合戦の様相を呈した総選挙に自民党は大勝し、その結果、福田系は「おとがめなし」になった。加藤は、自らが決起すれば、自民党内部の森降ろしが一挙に現実化し、次期総裁、次期首班の道が開けると踏んだのであろうか。そうだとしても、そのための準備、根回しがなされていたという様相もない。要するに自派議員や森ではだめだという党内の一部風潮に煽られ、一人で舞い上がってしまったというのが事実として残るだけである。
 権力闘争にしてもあまりのお粗末さである。加藤の目はしばらくはないだろう。興味津々見守っていた観客としての圧倒的多数の民衆は愛想尽かしたし、党内の、あるいは政界での加藤株価も最安値まで落ち込んだ。残る道は野中にすがるくらいのものだ。
 さて、その野中は直後に「不信任否決は信認にはあらず」とあまりにも正しいことを言って幹事長を去った。もちろん、加藤と袂を分かった古賀(隠れ野中派とも言われる)を次期幹事長にしっかりと推薦し、派閥会長である橋本を閣内に押し込み、仲の悪い村岡を総務会長にし、自分は派閥の副会長に収まった。橋本、村岡がいなければ、残るライバルは青木だけだ。
 青木は自民党参議院幹事長であり、自らの選挙戦もある。参院選は野中が院政を敷き、古賀が表面に立ち、そして野中は派閥を仕切る――このような構図が見えている。森はいつまでか、その次は誰か、自民党内部は野中の動きから目を離せまい。果たして橋本派イコール「野中派」の態勢が進むのか。
 「加藤の乱」バランスシートの第一は、橋本派の比重を高め、その党内支配力をはるかに強め、同時に橋本派が次期総裁候補としての橋本個人をかかえるという結果となった。果たして第二次橋本内閣は実現するか。
 
加藤と民主党――描けなかった戦略
 
 バランスシートの第二は、与野党大連合論の浮上が幾分かは遠のいたことである。民主党内部では右派(鳩山などの旧自民党系)の比重が年々高まってきている。それは主要には選挙態勢の核を熊谷が握り、民主党の各種選挙における公認候補が保守系の人脈に偏っているという事情がある。若手・新人議員のほとんどは旧自民党であるか、あるいはその系列である。
 ここに民主党の政策基調が次第に自民党主流の枠組みとほとんど重なってきている土台がある。鳩山は政権入り、政権獲得に向けて着々と意識的な準備を行ってきている。
 憲法に関する鳩山の主張は石原と変わらないまでのウルトラさであり、財政再建の基調も大衆課税の増強であり、防衛政策では有事法制を先取りして打ち出すほどである。旧社民党系議員(その代表は横路)の無力感は日に日を追って深まっている。
 鳩山らの基調は、自民党を分解させつつ新たな枠組みによる保守政府を目指すことにあり、その場合、労組(連合主流)も保守の枠組みに入れられている。自民党不満派と大連立するための土壌は、少なくとも鳩山に関してはすでに存在している。
 菅もまた、本質においては連立政権の枠組みに反対でないことも明らかだ。だが鳩山は、加藤と菅の組み合わせができれば自分が吹っ飛んでしまうという感触は十分に持っていただろう。鳩山よりも菅の方がより積極的に加藤に対応しようとする姿勢を示した理由がここにある。
 この想定上の大連立は、しかしながら実際には相当の困難さがあった。加藤がその「決起」にあたって主張した財政再建路線は、最後までその内容は明らかにならなかった。それは当然というべきであろう。少なくとも参院選までは言いたくとも言い出せない、大衆課税の大強化が方針の骨格とならざるをえないからである。この方針を実行に移すためには、すでに前号で述べたように「強力な政府」、それは多分に「挙国一致的政権」が成立していなければ、不可能ではないとしても極めて困難だからである。
 加藤がインターネット上で大衆的支持を実感したというのであれば、なおさらであろう。加藤人気というものがあったとすれば、それは自公保三党の森内閣が倒れることを期待した以上ではないのであり、その加藤が大増税方針を提起すれば、即座にその人気が下落してしまうであろうことは明らかであった。森喜朗政権を森(シン)喜朗(キロウ)、すなわち蜃気楼政権と呼ぶとすれば、加藤人気もまた蜃気楼にかわりはなかった。
 加藤が民主党と組んだところで、自民党の大多数、とりわけ橋本派の協力がなければ、こうした不人気な政策を実行にうつすことなどできはしない。加藤の反森決起は、方針を積極的にアピールすることができないというジレンマにおかれた。その代わりに加藤は一般的、抽象的な地方都市の衰退や社会の荒廃を指弾しただけであった。
 
橋本派の策略――自前の強い政府?
 
 自公保にとって現時点での理想は、来る参院選を勝利し、政権を安定させ、少なくとも三年間は総選挙を行わなくともすむ可能性がある時間を稼ぎ、そこで苦しいことが予想される財政再建、すなわち大衆課税の大規模な実施に着手することである。野党に支持がなだれうっても総選挙さえやらなければ、確保している多数派の力を駆使できる。そのためには不人気な森を早期に退陣させ、河野や高村のピンチヒッター、あるいは橋本その人の再登板を強行し、安定した政権枠組みを作ることも、場合によっては必要となる。
 橋本派あるいは野中は、こうした過程を通じて支配力をさらに強め、それを背景にした強力政権を樹立する展望を模索している。それがどの程度のものなのか、青写真はできているのか――外部からは憶測してもしかたないが、しかし「強い政権」というシナリオには当然にも「挙国一致的政権」が含まれていることは確実だろう。すなわち野中や橋本派にとっては、自らの主導する、あるいは影響力を行使できる政権以外の選択はありえないからだ。
 加藤主導は許されない。しかし大連立の枠組みを否定することもしない――これこそ加藤が野中に屈服した最大の理由ではなかったか。
 「加藤の乱」が鎮圧された今、河野グループや旧河本派を除く、森―亀井連合の浮上を抑え込むことが橋本派にとって必要となった兆候がある。旧宏池会は実質的に三つに分解した。河野グループ、加藤グループ、そして古賀らの非加藤グループ(これが宮沢直系となるのだろう)。この三派ともに橋本派、野中の重力圏の中にある。旧河本派も同じだ。山崎派は加藤とのつながりだから間接に含まれる。「処分なし」の恩義もあるだろう。そこで問題は、森派と旧中曽根――江藤・亀井派となる。
 森―亀井連合の背後には中曽根がいる。加藤・山崎の処遇をめぐって最初に野中と中曽根の間に火花が散った。これは野中が押し切った。ついで亀井の政調会長降ろしの策動で衝突が起こった。ここは野中が引いた。田中真紀子入閣問題は橋本派が阻止に成功した。田中真紀子が森へ手のひらを返したように急接近し、これに橋本派が不快感と警戒心を持ったのであろう。橋本派と田中家の因縁だけでは説明がつかない。以前の入閣時には問題とならなかったからである。
 亀井降ろしに森が同調しなかったことは意味深い。野中、あるいは橋本派が森の出処進退の一切を握ろうとすることへの警戒が浮上したのだ。
 
亀井のバラ撒き政治
 
 第二次森内閣としての自公保三党の政策基調は、参院選を前にした猛烈なバラ撒きと金持ち優遇政策の貫徹にある。国会最終日に議員立法の形で原発設置自治体への新たな交付金を制度化したことが、その最大の象徴である。来年度予算の骨格をめぐって亀井は、財政当局の大衆課税強化への踏み出しにストップをかける一方、贈与税や相続税への優遇政策、住宅控除の延長となりふり構わない。外形標準課税問題も見送られた。経済指標が楽観を許さないという、自民党にとってのゆゆしき事態でさえも、彼個人にとっての追い風なのである。
 他方、財政当局からの圧力にいくらかは応えなければならないという理由で、ODA(政府の途上国援助)予算の削減をもちだし、外務省と火花が散ってもいる。これは主要には中国の問題で、中国が対外援助を行っている一方で、日本が中国にODAを行っているのはけしからんという右からの圧力に対応したものだ。
 また在日米軍に対する「思いやり予算」の極少額の削減を盛んに宣伝している。これもアメリカ政府財政が好転し、日本財政が極度に悪化しているという金丸時代の状況とは逆転した環境で、おずおずと持ち出したものだ。
 対外予算は見せかけ的に削るが、予算構造の基軸はバラ撒きであり、そして航空自衛隊への空中給油機導入というような外交的にも大問題である予算措置をも来年度には実現するという状況である。この点に関して公明党は一応の抵抗を示したが、それはまさにポーズだった。
 もはや世論の大勢となった感がある公共事業見直しも、福井空港問題が振り出しに戻ったように、原発立地とのバーターをおおっぴらに行っている状況で、要するに実施困難事業を整理したにすぎない。
 IT革命予算が各省事業項目の羅列にすぎないことはすでに明らかだが、国内消費を抑えている給与所得の低下、失業率の高位定着などに対する国の取り組みはほとんど皆無に等しい。土建屋政治は以前として健在である。
 対外輸出に依存した二〇〇〇年度の経済成長は若干のプラスという政府見通しが出されている。が、それは算定指標の変更による人為的な操作の結果であり、低落を続ける国内消費の実態隠しに役立っているだけだ。
 しかし東京都の増税方針が例外ではないように、地方自治体財政は窮迫の度を深めている。公共事業に投資するにも地方の財源がない以上、国、自治体ともに公債に依存するしかない。財政赤字の現在高は国・自治体あわせて六百五十兆円を越える。税収財源確保の圧力は国・地方ともに高まっており、財政現状からはバラ撒きといえども大規模にはなりえない。亀井のバラ撒きは自公保三党の選挙地盤を養うだけのものにとどまる。その配分権を「実力者」へのステップにしようというのが亀井の考えているすべてなのだ。 
 「空白の十年」といわれた一九九〇年代、バブル崩壊後の金融・財政政策は、土建屋政治と銀行救済に著しく偏り、同時にそれとは相容れないはずの新自由主義政策導入の下でリストラが国を挙げて推進された。
 商法改悪、労働法制改悪などの一連の施策が強行され、勤労者の可処分所得が減少した。失業と非正規雇用、派遣労働の全面拡充がもたらした労働者の不安感が収入の多くを将来に備えて貯蓄し、消費にはまわらない状態が続いた。そのうえにゼロ金利政策は貯蓄の利子収入分を無意味なものとし、利益は金融機関に吸い取られ(盗み取られ)たのである。
 こうした金融・財政政策の結果としての自己分裂的な結果が現状であり、空白の十年である。さらにゼロ金利政策のあおりを受けた保険会社の相次ぐ倒産、そごうデパートの倒産、熊谷組などの中堅ゼネコンの危機など、倒産の負債総額は史上最高を記録した。バブル後遺症は今後の景気指数の低下とともにさらに重くのしかかることになろう。膨大な国家資金を投入するむなしさだけが漂っている。
 その結果が、大規模な大衆課税の強化である。亀井のバラ撒きは、この十年間、国家資金をゼネコン、銀行へ野放図に投入した、その「最後を飾る」ものとなろう。大増税時代への入り口を亀井は掃き清めており、次は「強力な政府」による大増税への突入である。
 その結果は目に見えている。すなわち景気後退と増税の悪循環サイクルである。それを貫いてゼネコンと銀行救済が行われるし、金持ち優遇政策が推進されることも変わらない。こうした時代の入り口に立っている。
 
新たな政治構造の落とし穴
 
 古賀新幹事長は、早くも参院選勝敗問題に触れて自公保三党で過半数確保を勝敗分岐点とした。現有議席では与野党の差はわずかである。先の衆院選程度の敗北でも過半数を割る可能性は相当に高い。森内閣の支持率が景気失速の深化――確実にそうなるだろう――に耐えて浮上する可能性は期待できまい。
 森内閣は第二次組閣を行った限りは、そのまま参院選に望むことになるはずだが、「一寸先は闇」の状況と言った方がいい。
 野党は、民主党が打ち出した参院選における選挙協力へと協議を始めた。民主党に配するに自由党と社民党である。一人区での共闘という構想であるが、客観的には自由党と社民党の政治基調が正反対であることを考慮すれば、はじめから成立しようがない。民主党鳩山の主眼点はむしろ自由党との接近にあるのだろう。改憲勢力としての共通点があるし、自民党支持層内部の反創価学会勢力との連携の可能性も見込める。
 鳩山の訪中はいささか冷たくあしらわれた。鳩山は中国政府に対して憲法改正と自衛隊の活用という自説に対する理解を求めに行ったのである。彼はPKO活動に全面的に協力し、日中両国がそこで協力しあうという論理をもって訪中したのだが、中国サイドはそれにとりあわず、まず歴史認識の明確化が前提と切り返した。
 何を主張するにしても、まずその動機を明らかにせよ、ということである。旧日本帝国主義の中国侵略という冷厳な事実を認めないで事を運ぼうとしても、それは到底無理である。民主党はそうしたことへの努力をしていないのは明白な事実である。
 社民党支持層が候補者調整の結果として自由党に投票することなど、ほぼ皆無に近いだろう。この党は組織政党ではすでにない。「動かせる票」はどこにもなく、無党派層の支持が唯一の生命線である。社民党が自由党との選挙協力に動けば、それは村山時代の路線と失点から徐々になし崩し的に抜け出しつつある土井体制の終わり、したがって社民党それ自身の終わりを自ら宣言することに等しいであろう。
 そうした浮動票頼みは自由党の側にも通じることだが、その固有の支持層が社民党への投票に動くということもまずない。代表継続を決めた小沢は、その就任あいさつにおいて、次期参院選で与野党逆転があった場合には新たな政界再編の流動が起こるであろうと述べ、橋本派主導ではない政治再編への期待を表明した。保守陣営内部の主導権争いの新段階を展望しようとしているのである。
 名実ともにポスト宮本体制を確立した日本共産党は、同時にその路線を「永田町政治からの超越」からの「脱却」、ブルジョア民主主義体制への妥協という方向に定めたようである。議長に収まった不破、新委員長になった志位の体制は、憲法の象徴天皇制を容認し、同時に年来の「自衛権の擁護」という趣旨にそって自衛隊の実質的な承認に踏み切るという「大転換」に動き出した。野党協力、非自民政権の樹立、参画という構想と党綱領のまったくの不整合性は、それを数年以内に改めるということで取り繕われている。
 ここに明らかなように転換は不確かで不安定なまま、なし崩し的に進められるという基本性格をもっている。「加藤の乱」に際して、志位は加藤が党内叛乱にとどまる限りは加藤政権擁立に協力することはできない旨を述べた。彼はここで自民党内部の権力闘争に利用されるのを拒否することを明らかにしたのだが、他方では加藤が、あるいは加藤・山崎グループが離党した場合の対応については発言しなかった。そうではあるが、論理として両グループの離党という場合には政権形成に協力することが含意されていたといえる。しかし彼らがそれを明言するには準備が足りなかったのである。
 こうして加藤の乱に示された構図は、民主党や自由党が主導する与野党対決論のもつ「落とし穴」をも同時に明らかにした。社民党がそうした働きかけに抵抗できるのかどうか、共産党が自らその落とし穴に入り込むことになっていくのかどうか、問題の核心がここにある。
 日本財政の行き詰まりと必然である大衆収奪政治の始まりに対して、必要なものは労働者階級の統一戦線の構築であって、ブルジョア分派との連携では決してない。安易な政権接近路線は即時停止せよ、社民党と共産党は労働者統一戦線のために闘え、これが二十一世紀を迎える労働者民衆の要求とならなければならない。
    (十二月十五日)

エリック・ツーサンにインタビュー
運動の基礎は固まった


 九月末にプラハで行われた国際通貨基金・世界銀行の二〇〇〇年年次総会に抗議する大衆行動が展開され、それからさらに資本主義的なグローバリゼーションに反対する持続的な大衆運動が形成されていった。ベルギーの新聞のために行われた第三世界の債務を帳消しにする委員会の代表エリック・ツーサンに対するインタビューを掲載する。

――プラハでのデモを準備する会議に出席し、国際通貨基金(IMF)や世界銀行のような機関に反対する行動に積極的だが、デモの要求は何か。
 単一の要求というものはない。デモは、いくつかの大きなテーマに焦点を当てている。IMFと世銀反対派、そうした要求の一つである。しかし微妙な違いがあって、この二機関の解散を望む人がいるし、それらを改革すればいいと考える人もいる。
 第三世界の債務帳消し要求も、こうした行動の動機となっている。この点に関してもデモ参加者の間で違いが存在している。一部は最貧国(サブサハラアフリカ諸国、ボリビア、ニカラグア、ベトナム)の債務帳消しを要求し、第三世界(インド、パキスタン、ブラジル、インドネシア、メキシコを含む)の公的債務すべての帳消しを要求する人もいる。

――運動の中心になっているのはどんな人々か。
 中心となっているのは、十八歳から二十七歳までの若い世代。いろんな問題に敏感なのが青年だ。彼らは、生まれてからの生活すべてを市場が支配する世界で送っている。これらの青年は、共産主義体制というものを知らないが、両親から共産主義体制が存在したことがあり、しかも良い結果をもたらさなかったということを教えられている。
 またフランスの一九六八年五月革命やベトナム戦争の影響を受けていない。だから、この運動は新しい世代による新しい運動といえる。この青年らは、現在の世界に納得していない。彼らは、環境が尊重され、南北二つの世界が対等で、各種国際機関が民主的である、そうした世界を望んでいる。だからこそ青年たちは、IMFや世銀と闘うのだ。彼らは、この二つの機関が民主的でないと考えている。また彼らは、経済のグローバリゼーションによるある種の影響に反対して闘っている。

――この青年たちは、グローバリゼーションに反対しているのか、つまりこれらの活動家たちは、実際の行動がそうであるように「反グローバリゼーション」と規定していいのか。
 彼らをそう規定するのは間違いである。彼らが望んでいるのは、各人の基本的な要求を満足させるような、差別や格差を拡大しない非排他的なグローバリゼーションである。「反グローバリゼーション」といえば、何か世界に向かうのでなく国内に閉じこもるような印象を与えるが、彼らはそうではない。この反グローバリゼーションは、民族主義のようなものを基盤にしていない。この青年らは、ネオリベラリズムによるグローバリゼーション、利潤追求の経済に反対しているのだ。

――この運動の将来性は。一九六八年五月革命に例えられる、そうした大波が発生しているのだろうか。
 答えるのが難しい質問だ。思うに、この運動は巨大だ。一九九九年のシアトル、今年の夏に建設中のマクドナルド店を破壊したボーベの裁判が行われたフランスのミヨー、今回のプラハという一連の行動を観察すると、基礎が固まって安定した現象だと思う。この運動は、静かに始まり、次第にその姿をはっきりさせ、力を強めてきた。協調や調整の関係が確立され、大々的なデモがすでに予定されている。第三世界の三つの大都市で非常に大切な会議が開かれ、ネオリベラリズムによるグローバリゼーションに代わるものを追求、発展させようとしている。アジアでは韓国・ソウル(十月十七―二十日)、アフリカはセネガルのダカール(十二月十一―十七日)、ラテンアメリカではブラジルのポルトアレグレ(一月二十五―三十日)の予定となっている。

――しかし、そうした運動、つまりそのメンバーが時には相当に異なった要求を提出するような運動は、運動体としての構造をもって、前進することができるのだろうか。
 運動体としての構造を有し、前進することができると思う。運動内部でそれぞれに異なった立場があることを全然気にしていない。そうした違いの存在は、弱さの証明でなく、多元主義の表れである。
 すでにいくつかの分野で、相当な前進を達成している。資本の移動、流れに対する課税、トービン課税を例にとろう。数年前まで、これに反対する人は、考えもせずに手を振って反対を表明するだけで、その理由を説明することさえなかった。現在では、ベルギーやフランス、カナダ、ノルウェーなどで検討されている。
 かつて実現不可能だと言った人は現在、その理由の説明を迫られている。第三世界の債務帳消しに関しては、いくつかの重要な前進が実現された。この運動は、無視していいものでなく、すでに影響を与え始めており、今後とも拡大をとげるものと考えている。
(インターナショナルビューポイント誌11月、325号)

プラハ宣言
二〇〇〇年九月二十八日


 私たちは、非政府系の地域組織であり、ここプラハに集まり、国際通貨基金(IMF)と世界銀行の二〇〇〇年年次総会が日程を短縮して閉会したことに注意しつつ、この宣言に署名をした。予定されていた相当数の会議は、非政府系組織との会議を含めてキャンセルされた。IMFと世銀側は、必要とされていた仕事が終わったからで、それ以外の理由はない――というものであろう。
 会議の最終日がキャンセルされた事実は、二機関が自らに対する信任が欠如していると認識していることを表している。私たちのような組織の力強い抗議や、これらの機関によって過去数十年間に生じた経済的な「害毒」に対する責任追及への回答として提出された「貧困撲滅」や「債務軽減」といったうつろな言葉の拒否に直面して、これら機関は、いくつもの嘘を重ねた上でついに「賢明」にも沈黙を選択した。
 これらの機関と、構造調整計画などの経済方針を実行する――その力は基本的には正当ではない融資をテコとしている――責任者とに対する私たちの挑戦には、依然として回答がない。私たちは、根本的に新しい地球規模の経済構造を構築するうよう訴えている。それは、上からの指令で単一のモデルにつくり上げようとするのでなく、世界の多様な人々が多様な道を選べられるようにするものであり、これら機関は、こうした経済構造を受け入れないだけでなく、理解さえできない。
 私たちは、プラハに結集し、IMFと世銀の差別的かつ不公正な方針に対して非常に広範な包括的かつ国際的な抗議行動を展開した。両機関およびこれが主催する会議の反民主的かつエリート主義的なあり方に反対を表明した。
 集まったのは、非常に多数の若い活動家や闘士を初め、その地域におけるグローバリゼーションに反対する活動を始めている東欧と中欧の人々がいる。また三十カ国以上――バングラデシュ、南アフリカ、アルゼンチン、アメリカ合衆国、フランス、インドなど――から結集し、連帯行動を実現した。プラハに集まった私たちは、当地に来られなかった数百万人の人々――アフリカで貧困にあえぐ農村女性、アジアでレイオフされた労働者、必需品のための融資を拒否された太平洋・カリブ海地域の諸島に暮らす人々、ラテンアメリカの搾取工場で働く若い女性など――と連帯して行動を展開した。
 プラハに結集した私たちは、抗議行動を展開しただけでなく、債務問題や構造調整計画、汚職など腐敗が伴う環境破壊的な産業基盤構築、資源のみならず東や南の人々をも搾取・収奪する経済開発哲学に関して議論を展開し、積極的かつ人々中心の方針を模索した。私たちはまた、チェコ警察がIMFと世銀の会議の前とその期間に行使した心理的、物理的な弾圧措置を非難する。少数の抗議者による挑発行為があったにせよ、チェコ警察の弾圧の結果、無関係な多数の人々が負傷し、平和的な抗議デモの最中とその後に数百人が不当逮捕された。今なお逮捕され拘留され続けている数百人との連帯を表明し、彼ら全員に対する人道的な扱いと早急な釈放を要求する。またチェコの獄中にある人々への野蛮な扱いについて、深い憂慮の念を表明する。
 世界銀行自身が、その方針が失敗したことを今月になって認めた。その世界開発報告は、同行内での検閲を受けたのであるが、長い間、あらゆる問題に関する世銀の揺るぎない回答であった開発哲学への批判が現れている。また旧ソ連と東欧諸国における市場経済への移行過程に関する報告は、貧困が二%から二一%へと十倍となったことを明らかにし、IMFと世銀が推進したネオリベラリズムに基づく処方箋が地球上のあらゆる箇所で失敗したことを認めている。
 世銀自身が提供している証拠からして、世銀やIMFならびに両機関を支持している専門家は、同じ薬をさらに投与したり、同じ条件づけを続けることが不適切であると考えていると判断される。経済上の革命、その経済を生きる人々がコントロールできるような経済への革命が求められている。過去二十年間に失敗してきた経済モデルによる全社会でなく、人民に奉仕する経済へと転換すべき時である。
 プラハでの抗議行動は、メルボルン、沖縄、ジュネーブ、ワシントン、シアトルなどでの抗議活動を引き継ぐもので、コーポレートグローバリゼーションとIMF・世銀の矛盾と不適切さを全世界に明らかにした。私たちの抗議はまた、今日のボリビア――グローバル化した経済の具体的な現れに対して様々な部門の多くの人々が起ち上がっている多くの場所の一つ――で展開されている闘いに響き合うものである。金持ちや強者がそうした経済モデルを押しつけようとする限り、私たちのような組織は、抗議を続け、この経済システムの明白な破産を明らかにしていく。グルーバル経済に向けて、その権限を行使しようとして集まる機会がある限り、私たちは、そこに結集し、監視し、暴露し、抗議していく。

署名 チェコの経済グローバル化に反対するイニシアティブ、反失業欧州行進(オーストリア)、ATTACフランス、ジュビリー二〇〇〇南アフリカなど
(インターナショナルビューポイント誌11月、325号)
中東

パレスチナ独立戦争が始まった

                              ミッチェル・ウォーシャウスキー

 

 パレスチナ指導部は、この数年間にわたって占領者との全面的な和平協定を締結するための交渉を続けてきた。その協定は、植民地的な支配を終わらせるはずだった。だがヨルダン川西岸とガザ回廊のパレスチナ人は、イスラエル国家はその国民が納得するような妥協を行う準備ができておらず、パレスチナ人の自由と独立は闘いを継続することによってのみ実現できるのだという結論に達した。そしてアメリカを仲介者とする交渉というものが、まやかしであることが明らかになった。
 
挑発

 イスラエル右翼の指導者、アリエル・シャロンがエルサレムのモスクを訪れるという意図的な挑発を行い、これが銃撃戦の発端となった。これは説明をするまでもないことである。火薬が何カ月にもわたって蓄積されてきたのであり、キャンプデービッドでのパレスチナ自治政府アラファト議長とイスラエル・バラク首相との首脳会談以降、その火薬の爆発が切迫していることが明白だった。
 自分の任期が終了する(二〇〇一年一月)までに和平協定を実現したいと熱望するクリントン大統領が仲介した首脳会談を、パレスチナ人はオスロ合意(一九九三年のパレスチナ自治に関する原則宣言と一九九五年のパレスチナ拡大自治合意)の終わりと認識した。和平交渉を終わらせたのはヤセル・アラファト議長が妥協を拒否したためとするマスメディアの主張とは反対に、イフード・バラク首相にこそ、その原因があることは明らかである。
 バラク首相は、キャンプデービッド会談において、パレスチナ交渉団が従来の暫定合意に関して示した穏健な立場、態度を維持するものと信じた、あるいは信じるふりをした。事実、パレスチナ指導部は六年間以上にわたってかなり穏健な立場を維持し、すでに調印された合意内容における自らの要求水準を引き下げたり、あるいはイスラエル占領地における入植の持続に目をつむったりしてきた。まさにこうした立場、態度が、暫定合意や仮協定に結実してきたのであった。
 オスロでの秘密交渉以降、パレスチナ指導者の誰一人として、パレスチナの最終的な地位に関する目標を隠しはしなかった。すなわち、一九六七年六月占領地からの完全撤退、入植地すべての破棄、パレスチナ難民が帰還する権利、東エルサレムを含むヨルダン川西岸とガザ全体におけるパレスチナ主権国家の樹立実現である。
 イスラエルの指導者たちは、以上のパレスチナ側の目標に関しては交渉による変更が可能であり、パレスチナ側に自らの考え方を受け入れさせることができると信じる、あるいは信じるふりをした――これまでのいくつかの協定締結で実行できたように。パレスチナの世論についていえば、アラファトとその警察が一定の枠内に押さえ込むだろう、というのは、アラブの人々は、誰でもが知っているように自分の考えをもつことはないし、上に立つものの意見に従うのだとイスラエル側は信じた。

計画

 パレスチナ側交渉団が自らの要求の大枠を大幅に縮小することは、ほとんどまったく起こりそうになかった。バラク首相は、いずれにしろとうてい受け入れられないような要求を提出して交渉をつぶした。その要求には、前首相のネタニヤフ(右派リクード)さえ出さなかったソロモン寺院跡に建造されたハラームアルシャリフに対するイスラエルの主権主張などがあった。
 無責任かつ犯罪的なでたらめなのか、それとも意図的な挑発なのか――この点はまったく問題ではない。和平交渉それ自体が終わることになった。そして衝突の内容も今回は、もはや単純な民族問題でなく、宗教が関係することになった。歴史は、バラクこそがキャンプデービッドにおいて中東の宗教十字軍を始めた人物として記憶するだろう。歴史はまた、エルサレムの解放のためという「聖なる戦争」を挑発した無責任極まりない人物としてバラクを記憶するだろう。バラクに比較すると、シャロンなんかはチンピラ挑発者にすぎない。
 イスラエル側の虐殺的な攻撃は、パレスチナ人のデモに対する「過剰反応」ではないし、あるいはデモの一部やパレスチナ警察が火器を使用したためでもない。戦車や武装ヘリコプターをも含むイスラエルの大々的な武器使用は、長期にわたって練り上げられた計画に基づくものであり、すべてはイスラエル軍の作戦計画によっているのである。

流血

 イスラエル軍は一年以上前から、PLO(パレスチナ解放機構)が一方的にパレスチナ国家の独立を宣言した場合に即座に攻撃できる計画を作成しておくように命令を受けていた。イスラエルのジャーナリストたちによると、これらの計画はパレスチナ人の独立という行動に対して支払うべき犠牲をできるだけ大きくするように作成されていたという。こうした計画の一つは明確に「血が流されるべきである」と述べており、そして実際に流血の事態となったのである。
 大勢の精鋭狙撃兵が攻撃に参加していた事実が、イスラエル側の意図を疑問の余地なく明らかにしている。軍はパレスチナ人射殺の命令を受けていたのだ。百人以上の死者が出、数千人の負傷者が出ている。パレスチナ側の払った犠牲はとてつもなく重い。それでもパレスチナ人の決意には、いささかの揺らぎもない。
 パレスチナ人の決意は弱まるどころか、数多くの活動家、戦士が持続するであろう戦闘を準備している。その闘いは、大衆的な対決の形となるか、それとも占領地におけるイスラエル側施設などへのゲリラ攻撃となるであろう。そしてイスラエル内部自体における攻撃もあり、一般市民に死者が出ることもあろう。復讐の感情が今日、イスラエルの占領、その軍隊、入植などに対する攻撃の意思と混じり合っている。
 パレスチナ人にとって最近数週間における大きな成果は、イスラエルと国際世論に、イスラエルの占領こそが問題の根本であり、「和平交渉」はこの大枠における問題の一つでしかない事実を想起させたことである。イスラエルと国際世論の多くは、一九九三年九月ワシントン基本原則宣言署名以降、占領が基本的に終わったのであり、和平交渉が中心となるとしていた考え方を逆転したのである。
 このワシントン宣言は、パレスチナ人以外のすべての人を満足させた。他方、パレスチナ人は次のことを理解した――確かにあまり大きくはないが一定の変化はあった。しかしイスラエルは西岸とガザを占領し続け、そこに弾圧装置を維持し、大規模ではないが入植を拡大し、土地や水を盗み続けていることを。

封鎖

 別の点では状況は悪化さえした。運動の自由が奪われ、ガザとエルサレムは永続的な封鎖状況におかれた。イスラエル側交渉者は、そのとてつもない横柄さをもって、パレスチナ―イスラエル間和平交渉に関する自らの考え方を、その指導部を通じてパレスチナ人に対して押しつけ、その最も基本的な権利でさえ断念させることができると信じていた。
 彼らの考え方を一言で表現すると「分離+支配」あるいはアパルトヘイトとなる。人々が何かを期待している間は、この幻想は持続する。だがキャンプデービッド会談の失敗、とりわけバラク首相のエルサレム問題に関するとんでもない挑発が、七年間におよぶ待機の局面に終止符を打った。
 西岸とガザのパレスチナ人がヤセル・アラファトに対してパレスチナ―イスラエル紛争を解決するために彼らの名前において交渉するよう委任したが、この委任が終了し、同時に停戦も終了した――すべての事態はあたかも、このように進行したようであった。
 一方のパレスチナ自治政府とその警察、他方のペタン(フランスの軍人・政治家。ベルダン攻防戦で第一次世界大戦の国民的英雄となる。一九四〇年首相となり、ドイツに降伏してビシー政府を樹立)とその民兵が比較されているが、現在の大衆蜂起はまた、それがいかに皮相かつ不合理であるかを明確にした。衝突の前面に位置するのは、パレスチナ警察とヤセル・アラファトの政治組織である。彼らは、パレスチナ自治政府が統治する領域に存在する少数の火器を使用している。
 PLO議長アラファトは七年前、議論の別れる、しかも極めて危険性の高い選択を行って停戦を決定し、その引き換えとしてアメリカ帝国主義を仲介者とするパレスチナ―イスラエル秘密交渉を開始することになった。アラファトはさらに、アメリカとイスラエルの要求に大幅な譲歩を行い、人民の名前においてそうした譲歩をするアラファトを拒否する人々を弾圧する措置すらとった。アラファトのごく親しい協力者の一部がオスロに度々飛んで、敵と協力した。
 しかしヤセル・アラファトと、彼を支持する非常に多くの活動家や戦士は、イスラエルの傀儡(かいらい)ではない。仮に彼らがイスラエルの考えを受け入れたとすると、それは暫定合意が終わったときにヨルダン川とガザ回廊に対するイスラエルの占領が最終的に終わり、エルサレムを首都とするパレスチナ国家が樹立されると考えたからに他ならない。
 だが歴史は後にこう記すだろう。そのやり方が正しいとしても、イスラエルがパレスチナ指導部に交渉の究極目的を変更するように要求し、パレスチナ指導部は支持を失い、自由と独立のための戦争にパレスチナ民族解放運動が統一していくことになった――と。
 イスラエル指導者が交渉ではなく闘いと流血の道を選ぶと、軍事対決が彼らが考えていた以上に問題を多いことをじきに思い知らされることになる。それは、パレスチナ警察や民族主義グループがもっている少数の火器が原因でなく、アラブの連帯のためである。そしてエルサレムやモスクといったイスラムの象徴が問題の中心になっていることが、アラブの連帯をさらに強めている。この連帯が二つの戦線をつくり出した。

襲撃

 エルサレムでの衝突からわずか数日後に、第二戦線が形成された。すなわちイスラエル内パレスチナ人の戦線である。イスラエルの中心地域で大衆蜂起のイニシアティブをとった。過去二十年間に形成されたユダヤ人村を数千人のパレスチナ人が一週間以上にわたって包囲した。そして数多くの道路がパレスチナ人青年による投石や火炎ビンで襲撃される恐れがあるという理由で封鎖された。一週間以上にわたって一部のイスラエル市民が、占領地における虐殺に対する激しい怒りを表明し、ユダヤ国家が五十年間にわたって彼らに強制した不平等や不公平な扱いに対する不満を爆発させた。
 アラブ人がその解任を要求している残虐な人種差別者で、北部地域の警察責任者であるアリク・ロンの対応は、複数の政治家が「軍事政府の時代(一九六〇年代半ばまでイスラエル国内のパレスチナ人に押しつけられた)への復帰」発言をしたことと相まって、全国的なアラブ人虐殺への青信号となった。
 火器やこん棒などで武装した数百人のユダヤ人青年が、いくつかのアラブ人地域で略奪を働き、数多くの人々を負傷させ、モスクに放火をし、アラブ人が居住するアパートメントを燃やした。ユダヤ警察は、略奪者を阻止するどころか、彼らも自衛するアラブ人に対する攻撃に加わった。ヨンキップールで組織的な虐殺が行われた後、ナザレで虐殺が行われ、二人の死者、八十人以上の負傷者が出た。犠牲者はすべてアラブ人だった。ナザレでの虐殺後、バラク首相もついに事態の深刻さを悟り、虐殺実行者を非難した。紛争が「ボスニア化」したのであった。すなわち二つの宗教の対決となり、一方は警察に保護され、政府に支持される。

傷跡

 こうした殺人を伴うヒステリックなイスラエル人の反応は、簡単にはふさぐことができないほどの傷をつくり出し、ユダヤ国家は、ユダヤ国家であり続けようとするのか、それとも民主的な国家の外見を保持し続けるのか、という構造的な選択を迫られることになった。
 クリントン政権は、状況がイスラエル―パレスチナ関係に限定されている限り、バラクが望み通りに行動するのを許容できた。しかしパレスチナの子どもを含む若いデモ参加者が虐殺される姿がアラブ諸国をはじめイスラム世界における広範な連帯運動を生み出した。十月一日以降、アメリカによる新秩序の安定性が問われることになった。二回ほどイスラエル人の誘拐に成功しているレバノンでヒズボラーが作戦を展開し、全般的な戦争に発展しかねない事態のエスカレーションをもたらした。
 イスラエル―パレスチナの平和は、「新しい中東」の安定性を支える基礎である。レバノンの首都ベイルートからモロッコの首都ラバトに至るまでのアラブ世界全体における大衆デモと帝国主義中進国におけるイスラム教徒の動員は、エジプト大統領のムバラクやヨルダンの新しいアブダラ王のみならず、新世界秩序の盟主にとっても大きな警告なのである。

課題

 アメリカ帝国主義にとっては、衝突を終わらせ、イスラエル―パレスチナ和平交渉を再開することは緊急の課題となっている。クリントン大統領は、エジプト大統領とヨルダンの若い王の支援を得てイスラエルとパレスチナの双方に停戦を呼びかけさせた――侵略者と犠牲者とを同等に扱い、秩序回復――アメリカのCIAが「中立」の立場でコントロールすることになる――への具体的な目標を定めた秘密文書を作成した。
 パレスチナ側の要求である国際的な調査委員会の設置は、フランスのシラク大統領が支持したが、アメリカは状況を調査し、(アラブ側への譲歩として)国連にそれを報告するかもしれない。
 だがヤセル・アラファトが現在の大衆蜂起をやめさせることができるという兆候は存在していない。イスラエル政府の差別主義者的な幻想とは正反対に、パレスチナ人民は、牧羊犬シェパードの動きで街頭に出てきたり、あるいは引っ込んだりするようなおとなしい羊の群ではない。それでもアラファトが人々の行動を統制できるとしても、今回の蜂起以前の状態に事態を戻すことはできない。新しいページが開かれてしまったのだ。
(インターナショナルビューポイント誌11月、325号)