2001年1月10日        労働者の力               第130号
二十一世紀における社会主義の復権のために

                                                                                    高木 圭

  
日本の戦後型構造が混迷期に突入

 二十世紀最後の十年間に生み出された日本の思想状況は、日本資本主義経済の行方がかなり危うくなった状況を反映している。五十年以上の長期にわたって持続してきた戦後型の政治的、経済的、思想的な構造は明らかに混迷期に入り、保守陣営の内部における分解、分裂も深まりつつある。
 「空白の十年」を経た今日において、より明確になりつつある事実は、さらに今後十年ないし二十年が、政治的、経済的、社会的な全般を貫く過渡期の性格をもつことになるだろうということである。そして同時に、その過渡期という時期を通じて新しい形での社会主義思想が復興してくることになるだろう。
 日本の戦後構造は二重の相反した性格をもっていた。一方での「平和憲法」が示す非戦、戦争を否定する思想といわゆる戦後民主主義、他方における反共主義的な旧体制を引き継いだ権力構造。
 日本の戦後民主主義は一九六八年頃まではかなり攻勢的に機能した局面があった。しかし、その内容には世界、とりわけ北欧やドイツとの格差がはっきりと生じてきた。格差を顕在化させる契機というべき転換点は、一九六〇年代後半、特定すれば一九六八年にある。
 この時期における青年の急進化、反乱を通じて、戦後の市民民主主義、下からのボトムアップ的民主主義が根づいた北欧やドイツではそれ以降、社会民主主義がかなりの力をもち、戦争の総括をそれなりの規模でやりえた。
 だが日本では、一九六〇年代の青年急進化は、新自由主義イデオロギーが吹き荒れ、社会民主主義イデオロギーが大きく衰退するような最近の状況に結びついた。
 日本と北欧、ドイツとの格差は、一九八〇年代、九〇年代、特に九〇年代に顕在化してくる。二十世紀は社会主義の時代ともいわれるが、それが一定程度北欧やドイツでは、社会民主主義的なイデオロギーやその左のトロツキストなどの革命的勢力をも含めて、かなり市民や労働者のなかに根づいていった側面があった。そのことと環境重視の市民、労働者運動と結びついていく。
 一九八九年から九一年にかけた時期、ベルリンの壁の崩壊からソ連邦の解体に至る時期だが、日本はバブル経済の最終局面にあった。この二つの要素が重なり、日本のイデオロギー的な主軸は新自由主義イデオロギーの幻想に全面的にのみこまれ、世界にも比類のない形で左翼勢力が崩壊していく。
 一九九〇年代の日本の総括として端的にいえば、第一に先進資本主義国の中では異例なほどの環境後進国となった事実である。原子力発電所やプルトニウムリサイクルの高速増殖炉開発に走り、北欧やドイツ、あるいは台湾でも原発路線からの撤退シナリオが描かれているのであって、ここの落差は激しい。一九九九年九月三十日に東海村で臨海事故が起こったにもかかわらず、路線は変わっていない。
 第二に、バブル崩壊の「つけ」がどこにまわったのかという問題である。今は国家債務の形でプールされているが、国家債務は四百兆円に近づき、地方自治体の債務をあわせれば六百五十兆円を越えている。国民に消費税や増税の形でつけ回しされることは必至である。
 第三に、東アジアにおける政策的無策である。東アジアは、軍事的には台湾、香港、中国の間で、それぞれに軋轢、たとえば台湾においては独立論が台頭するなどを含みながら駆け引きが続いている。だがいずれは緊張緩和の方向に動いていく。南北朝鮮の対話も両金のもとでドラスティックに進みつつある。「神の国発言」をした森総理を抱える日本は、積極的な対応ができずにいる。
 東アジアの方向性がいまだはっきりとは定まっていない状況ではあるが、しかし日本はアメリカ、EUという二つの帝国主義ブロックの後に控えた最弱の帝国主義国家として今後の政治経済の舵取りの決断を迫られる時期が遠からず訪れることになる。
 今、最も強い思想的勢力としてあるのは石原慎太郎や西尾幹二、西部邁などの右翼的な戦争の反省なしに、日本の政治経済力を武器に中国や北朝鮮に攻勢的に出るグループである。ここにはアジアの諸国からは歴史の見直しや軍事路線において相当の反発が確実に予想されるシナリオしか見えていない。
 そうした時点で日本は、新自由主義的な資本主義経済の抜本的反省をふまえた路線をはっきりと出していく路線を歩まなければならない。いかなる思想を出すべきなのか――攻勢的に打って出るための社会主義の思想がわれわれの視点となるだろう。
 
攻勢に転じはじめたヨーロッパ労働運動
 
 社会主義思想の再建という点で、ヨーロッパ労働運動から学ぶべきことを二点述べたい。
 最初はフランスの例である。フランスも一九九〇年代の前半期には相当に反共の風が強く吹いた。しかし一九九五年春の大統領選挙から年末の公務員ストライキにかけて労働者運動は上り調子に入った。一九九五年五月の大統領選挙ではトロツキストであるリュット・ウブリエール(労働者の闘争)のアルレット・ラギィエルが善戦し、六%ほどの得票を獲得する。
 ベルリンの壁が崩壊してから最も下降路線をたどったのが共産党である。フランスでは社会民主主義的路線、ジョスパン路線が一定程度市民にも受け入れられると同時に、その左の側では共産党勢力とトロツキスト勢力が拮抗し、とりわけ大都市では逆転する現象がこのときからはじまる。これは二十一世紀の世界にとって極めて重要な予兆が見えたことである。
 同じ年の秋にイギリスのリバプール港湾労働者がストライキ闘争に突入する。この闘いは全世界の港湾労働者から支援を受けて、一九九五年夏過ぎから九八年はじめにかけて長期ストライキ闘争として展開された。
 一九九七年六月、ヨーロッパの失業者大行進が展開され(一九九九年にもケルンサミットに向けて再度行われる)大成功をおさめる。一九六八年五月革命以来の労働運動の上昇が見えてきた。現在の資本主義では、失業は決して一時的な現象ということではなく、宿命というべき社会問題である。何万という失業者が全ヨーロッパから集まり社会的な異議申し立てを行うということが今後とも波状的に起こってくることになる。
 思想的には、フランス共産党が後退状況にイデオロギー的に歯止めをかけようとして、パリ大学のトロツキスト学者などをも含めながら「エスパース・マルクス」という学術団体を一九九五年年末に立ち上げた。これはフランスのみならずヨーロッパのスターリン主義勢力にとっての歴史的大転換であった。
 トロツキー派からロシア革命やマルクス主義の解釈を学び、ともに再建を考えていこうとする動きがはじまったのである。一九九八年五月にパリで『共産党宣言』百五十周年記念国際会議が盛り上がった理由の一つでもある。
 一九九六年春にはフランスにおける五つの左翼政党、社会党、共産党、緑の党、リュット・ウーブリエール(労働者の闘争)、そして革命的共産主義者同盟(第四インターナショナルフランス支部)による恒常的な選挙協定が結ばれた。呼びかけはアラン・クリヴィーヌである。
 すなわち保守派と争うときにはこの五党が統一して投票に当たる。それぞれの政綱の独立性を擁護し、相互批判を自由に展開する。それぞれの党派集会においては互いに他党派を招請し、批判を含めた相互の連帯を確認していく。こうした構図ができはじめたのである。これはフランスにおいて、とりわけ人種主義的な右翼が登場しつつある時において、保守派をうち負かし、反動的路線をくい止める極めて重要なステップである。
 フランスで特に重要なことは、移民労働者の擁護、失業者の擁護、環境問題である。ここに左派の陣形が築かれている。昨年の五月一日にはピエール・ブルデューという著名な社会学者が、EUに対抗するヨーロッパ規模での労働者インターナショナル、左派ブロックをつくるべきだという呼びかけを出した。
 一九九〇年代は前半と後半とではかなりの状況の違いが現れた。反動攻勢は今でも引き続いてはいるが、こうした反共主義の横行と先頭に立って闘ったのは革命的共産主義者同盟の同志たちである。ダニエル・ベンサイドを中心とする知識人たちが古典的マルクス主義を守り、二十世紀的なマルクス主義を原則的に展開した。スターリン主義を実質的に越え、現実の問題、新自由主義に対して先頭に立って応えていくということを通じて、かなりの程度、社会主義、マルクス主義、トロツキズムの可能性が見えてきたといえる。
 
デンマークの「赤と緑の連合」
 
 次にデンマークについて考えてみたい。実はデンマークが日本で相当のブームを呼んだ時期というものがあった。内村鑑三が一九一一年に、岩波文庫に収録もされているが、彼のキリスト教的背景をもって『デンマルク国の話』として講演し、それが大正デモクラシー期において農村改革理念としてブームを呼んだ。
 それ以降のデンマークは、プロテスタントが大きな力をもってはいるが、社会民主主義やその左の勢力が政治的指導部として高度福祉社会を建設し、一定程度安定した社会をつくりあげてきた。今や市民主義や労働者民主主義では最先進国と見なされているが、特に医療と教育については完全に無償である。この社会は一九六〇年代の青年の急進化、反乱を柔軟に受け止め、そこから風車発電や反原発運動の基礎ができてくる。
 現在の政権は社会民主党と急進左党と呼ばれる改良主義的な政権であるが、実際の大衆運動は統一リストをつくっている赤と緑の連合が担っている。左翼社会党という改良主義と急進主義の中間的な政党と共産党の一派、SAPという第四インターナショナルデンマーク支部のブロックがかなりいい運動を行って、様々な市民運動や労働者運動をリードしている。この国の選挙制度は比例代表制度で、赤と緑の連合は現在五議席、二・七%であり、SAP(社会主義労働者党)も一議席を占めている。
 学生や青年層が赤と緑の連合に流れ込み、ヨーロッパでも注目される運動状況が生まれている。ちなみに緑の党は議席をもってはいない。一応左翼政党とはいうことにはなっているが、弱小勢力である。赤と緑の連合は赤と緑の連合ではなく、全面的に左翼政党連合である。労働運動と結びつかない環境保護運動というものはほとんど社会的に意味をもたなくなってきているというのがデンマークに示されている状況である。
 労働組合組織率が極めて高いということもあるが、一九七〇年代後半から展開されてきている反原発運動の力が大きな位置を占めてきた。原子力発電そのものの計画はあったことはあったのだが、反原発運動の広がりのなかで一九八五年に正式に国会決議を採択し、脱原子力を確定した。
 デンマークでは極めて高い生活の質が保障されていて、われわれの社会主義の綱領にとっても参考に値する。
 
マルクス・エンゲルス、レーニン・トロツキー、そして現代
 
 古典的資本主義、すなわち産業資本主義の時代においてマルクスはマニフェストとして共産党宣言を執筆した。この時期には地主の没落によって産業ブルジョアジーと労働者階級の二大階級の対立が起こると考えられていた。しかし帝国主義の時代が進むとともに、植民地経営による超過利潤によって労働者階級が資本主義に取り込まれていく歴史も十九世紀後半には現れ、これをどう総括するかが問題となった。エンゲルスは相当に深刻にこの問題を考えたが、十分な答えを出すことができないままに亡くなり、その後に修正主義論争へと移っていく。
 二十世紀革命像を創出するために最大に苦闘したのは、ロシアマルクス主義者たちであり、ここにマルクス主義陣営における左派が誕生してくる。それらにあって歴史的構想としてのロシア革命をはっきりと位置づけたのが、トロツキーの永続革命論であった。その後のロシアでは、戦時共産主義からネップへの移行が進められる。
 トロツキーが一九二〇年代に熱心に主張したことは、軌道修正を様々な方策で行いながらネップを延命させていくということであった。トロツキーは一方では一国社会主義論を否定しつつも、ネップ体制下のロシア経済の延命を深く考えていた。トロツキーの闘いに学ぶべき最大の教訓は、スターリン全体主義体制のオルターナティブとしてのプロレタリア民主主義の問題である。過渡期の経済政策には計画が基本になることは否定しないにしても、市場とソビエト民主主義の活用、特に労働者、市民による民主主義的なチェック機能、すなわちプロレタリア民主主義が不可欠なのである。
 現代資本主義論として、戦後資本主義、帝国主義が旧帝国主義とは違った姿で登場していることを明確にとらえる必要がある。
 レーニンやトロツキーの時代とは違った帝国主義の現代的展開が、二十一世紀はじめの新たな社会主義のビジョン求めている。
 一九六〇年代後半以降、重要になってきた要素はエコロジズムと、単なる階級闘争主義を越えたフェミニズムの登場である。産業資本主義時代の帝国主義が地理的に自らの拡大を図っていったのとは違う局面が生じてきた。すなわち自然と地球環境を高度科学技術の援用をもってつくり変えていこうとする。これを「自然に敵対する帝国主義」と規定できる。
 第二次大戦後のアメリカが連合国と共同してつくりあげた体制は、科学軍事産業コンプレックス(複合体)である。戦後資本主義においては科学技術が大きな意味をもつ。第一に核兵器、次いで労働生産性の上昇に結びついたし、高度な技術(原子力技術が代表)がリスクを一般の労働者市民に強制する。したがってここでは労働者と市民の広範な結合の必要性と同時に、可能性ができてくる。
 以下の三つの柱に要約される。
 第一には、マルクス主義の理解によれば、新しいテクノロジーを生産過程に持ち込むことによって遅れた国々との間との「特別剰余価値」という超過利潤に基づく不等価交換が日常化する。日本は世界最大の債権国といわれるが、この不等価交換の全世界的なシステム構造を考えた場合に、「後進国の債務帳消し」が現在の帝国主義のなかで運動を進めていく極めて重要な柱とならざるをえない。
 第二には、高度経済成長の時期には新しい産業的基礎が次々に生み出され、失業を生み出さずにやれたが、今後は失業の構造化を避けられない状況がある。当然、労働者の運動は移民労働者を含めた「反失業」が掲げなければならない。ヨーロッパでは現実にそうした運動が進んでいるし、日本ではますます高失業構造が定着していく以上、労働運動が反失業闘争を包摂する形で転換していかなければ有効な階級的運動にはならない。
 第三には、世界にも孤立して進められている反動的な原子力政策などの環境資源に関する市民的な民主主義の貫徹が求められる。
 
環境社会主義の旗を
 
 二十一世紀の特に前半期においては、環境資源問題が最大の問題となる。地球温暖化を考えても最大問題である。日本ではいまだ緑の党が健全には根づいていないが、ヨーロッパの緑に見るように、純粋の緑の運動は世界的にはすでに終わっているのではないだろうか。
 もちろん日本では赤(社会主義)の運動も、緑(環境運動)もヨーロッパと比べてかなり遅れているから、「緑の党」的なあり方が一定程度の市民権をえる可能性はある。だが長期的には社会主義運動と結合しない限り、国家を背景にして進められている反動的な政策に有効に応えることはできないだろうというのが、最近のヨーロッパでの経験である。
 環境社会主義にはいくつかのキーワードがある。要約的にいえば――
 第一に被抑圧民族との共生。
 戦争被害を被ったアジア全体との共生――これはいまだに不十分である。村山政権時代に一応の総括がなされたが、アジアの今後、たとえばEUのような共同体をつくっていくというような地平に向かいうるような十分な総括ではない。現在はむしろ右派の声が高い。国際的連帯を重視する。
 第二に労働者階級の共生。
 いわゆるブルーカラー的労働部門ではアジアからの移民労働者が占める割合が高まっている。階級的労働運動は彼らとの共生を、資本との闘いの中で階級的共生をつくりあげていく。
 第三には環境との共生。
 新しい方向性を示すのは労働者階級を中心としたボトムアップ民主主義の確立を通じ、現在の生活をこえる生活の質を重視する方向に向けて階級的労働運動と階級的労働者政党を再建していく中で二十一世紀の社会主義をうち立てていく。
 日本においては社会民主主義自体が存続を危ぶまれるような事態にあるが、ヨーロッパやラテンアメリカの思想状況が示しているように、二十一世紀において社会主義イデオロギーを大々的に復権させていく役割は、トロツキーの思想を引継ぎ、かつ現代資本主義を実践的、理論的に明確に理解しつつ、正しい方向性を示していく勢力以外にはないであろうと確信している。
 (一月十日)

第四インターナショナル国際執行委員会決議


フィリピン政府は「総力戦」戦略を止めよ

 以下の決議は、第四インターナショナル国際執行委員会が二〇〇〇年十月に開催した会議で採択したものである。

1 エストラーダ大統領がモロ・イスラム解放戦線(MILF)に対する「総力戦」方針を宣言した時、エストラーダはこれによって数週間で戦争を終結させることができると考えていた。大統領は、空軍、陸軍、海軍の三軍からなる全兵力のほぼ三分の二を動員し、その先陣にはアメリカとの軍事協定によってアメリカによる訓練を受けた精鋭部隊を配した。

2 「総力戦」の目的は、MILFを軍事面で弱体化させて交渉のテーブルに着かせ、エストラーダが考えている「平和」なるものを押しつけることにあった。位置測定装置(GPS)や人工衛星で撮影した写真、重火器を初めとするアメリカが提供した最新の軍事設備を装備したフィリピン国軍(AFP)は、MILFの軍事キャンプ四十七カ所を攻撃した。そこには、革命的プロレタリア軍・アレックスボングカヤノ旅団(RPA・ABB)やRPMPの武装部隊、フィリピン革命的労働者党(RWPP)などがMILFと行動を共にしていた。

3 エストラーダ政権の「総力戦」攻撃は、MILFだけを対象としていたのではない。ミンダナオ島の戦略的な位置というものは、フィリピンにおける資本主義的なグローバリゼーション化というネオリベラル計画の成功にとって非常に重要であり、この事実がこの戦争の主要な目的である。だから、この戦争は、資本主義的なグローバリゼーションに反対するすべての人に対するものなのである。
 フィリピン革命的労働者党は、ミンダナオのみならず全世界においても、この戦争を中止させるべく闘い続けてきた中心的な勢力の一つである。そしてフィリピン国内や国際的な草の根平和会議を行い、この戦争で被害を受けた人々に対する人道的な救援活動を展開している。

4 モロの人々は、五十年以上にわたって自決権を獲得すべく闘い続けている。事実として、三百年以上にわたって一切のフィリピン人植民者や侵略者に一貫して抵抗し続けてきた。自決権をめざすモロ人民の闘いは現在、モロ・イスラム解放戦線とバンガ・イスラム軍(BIAF)とが指導している。フィリピン革命的労働者党は、モロ人民のこの闘争を支持している。

5 非軍事的な問題を軍事的に解決しようとするエストラーダのやり方は、失敗した。しかし、この戦争は、ほぼ百万人のミンダナオ人民に移住を強制した。その多くは子どもや老人であり、彼らは難民センターにおける「プラスティック製テント」での生活を余儀なくされている。これらのセンターでは、数百人の子どもが医薬品や食糧不足のために死んでいった。

6 RWPPは、ミンダナオ、モロ、ルマドの人々や多数派のキリスト教徒によるその他の進歩的なグループとも共同の活動を展開して、ミンダナオ問題の包括的な解決を実現しようとしている。この面ではすでに一定の成果をあげているが、エストラーダ政権とアメリカ帝国主義とは、これを実行しようとはしない。

7 エストラーダ政権による対MILF軍事攻勢が頂点に達したときに、イスラム原理主義勢力アブサヤフが息を吹き返したのは、決して偶然ではない。アブサヤフは、マレーシア近くの観光島でキリスト教徒や外国人観光客に対する数件の誘拐を実行した。これらの行動は、国内のみならず国際的にも新聞やテレビの見出しとなった。アブサヤフは、行動の初期段階では事実として、人質を釈放する条件として政治的な要求を提出していた。
 エストラーダ政権の宣伝機関は、アブサヤフとMILFとを同一、一体の存在として描き出すことに成功した。そしてアブサヤフのテロ行為を「正当な理由」としてミンダナオ島のキリスト教徒を武装させ、アブサヤフのみならず、MILFあるいはイスラム教徒に対しても闘わさせた。歴史的に長期にわたって「お隣さん」として共存してきたイスラム教徒とキリスト教徒とが、互いに不信を抱くようになった。

8 数千人もの命が奪われ、そして家屋や農園がひどく破壊された後、エストラーダ政権は、ことにMILFの中心的なキャンプであるアブバキールを攻略した後、対MILFの軍事的な勝利を宣言した。MILF指導部は、アブバキールキャンプを奪還しようとするのではなく、ジハード(聖戦)を主張し、自らの大義と土地とを防衛しようとした。
 エストラーダ大統領は、二〇〇〇年七月後半にクアラルンプールで開催されたイスラム諸国会議機構(OIC)外相会議に関係者を参加させ、OICがMILFをオブザーバーとして承認するのを阻止しようとした。この数週間後には大統領が訪米して、クリントン大統領に軍事援助を要請した。

9 MILFは現在、国軍(AFP)に対する軍事反攻としてゲリラ活動を展開している。この戦争は、フィリピン政府の財力を初めとする資源を甚だしく浪費させている。そのためにIMFが許容している財政赤字の上限三〇%を大きく超えてしまっている。軍事攻勢が頂点に達していた時、政府は一日当たり百万ドルを支出していた。これが、フィリピンにおける経済危機の主要な原因の一つでもある。

10 経済危機はこの三カ月の間に、エストラーダ大統領のスキャンダルによってさらに悪化した。大統領の取り巻きの一人が、エストラーダ大統領が違法賭博に関与していると暴露した。そして大統領は現在、上院における弾劾裁判の手続きの中にいる。ブルジョア諸野党は、このスキャンダルを利用してエストラーダ大統領のさらなる弱体化を図っている。

11 こうした厳しい状況にあって、全世界の進歩的な諸政党やグループ間での連帯を強め鍛えて、アメリカ帝国主義が直接、間接に援助しているエストラーダ政権による「総力戦」戦略の継続を中止させることが緊急の課題、任務となっている。そしてモロ人民の自決権要求の闘いと、この闘いを体現している進歩的な諸組織を支援することは、われわれにとって緊急の任務となっている。

12 フィリピン革命的労働者党は、モロ人民と一緒に闘って、その自治という政治目的を実現しようとしている。その闘いにおいてフィリピン革命的労働者党は、モロ人民が自決権というプロレタリア的な権利を確立するために、労働者、農民階級の内部に組織を建設し強化する活動を支援している。第四インターナショナルは、RWPPの同志たちに対する十全たる国際主義的な連帯を表明すると同時に、彼らに対する政治的、物質的な支援を継続することを誓約する。
(インターナショナルビューポイント誌12月、326号)

パレスチナ    正しい解決への道


第四インターナショナル国際執行委員会決議

 この決議は、革命的社会主義者の世界規模の組織である第四インターナショナルの国際執行委員会が二〇〇〇年十月に開催した会議で採択したものである。

全責任はイスラエルに

 アリエル・シャロン将軍が行った挑発が、流血の秋をもたらした。彼は、一九八二年のレバノンのサブラとシャチラにおける大虐殺を指揮した人物であり、その時に護衛役を務めたのがエフード・バラク将軍であった。バラクは現在「労働党」出身のイスラエル首相である。シオニストがパレスチナ人民に対して行ってきた長期の犯罪的な暴力の歴史においても、バラクが首相となっているこの時期は、軍部が支配していたとき以上に最も野蛮な時期の一つとなっている。
 全世界は再度、人権や人々の権利に関する帝国主義諸国の主張がその世界的なヘゲモニーの利害にそって変動する事実を目撃している。すなわちイラクとセルビア、「赤い国家」に対する猛烈な空爆や残忍な経済封鎖、これと対照的なイスラエルを特別扱いした軍事援助と友好的な支援。イスラエルが世界でも有数の産油地帯における帝国主義支配の戦略的な機構の中心国の一つであるからだ。他方では、パレスチナあるいはコソボの民族的な諸権利が承認されることはない。
 シャロンの挑発は、すでにコップの縁まで一杯になっていたところに落とされた最後の一滴である。この挑発は、オスロ協定締結と、一九九三年九月にワシントン・ホワイトハウスで調印されて開始された和平プロセスの幕を下ろした。それは、調印以降の七年間に過剰蓄積されてきたフラストレーションの結果であり、この期間にパレスチナ人民の経済的ならびに社会的な立場、状態は悪化してきた。

基本的な要求

 ラビンは、パレスチナ人の基本的な要求を満足させるような譲歩を行わなかった。基本的な要求とは、ヨルダン川西岸とガザ地区におけるシオニスト入植地の解体、一九六七年占領地からのイスラエル軍の全面的な撤退、東エルサレムを含む以上の地域全体でのパレスチナ国家の樹立、一九四八年から一九六七年までに発生したパレスチナ難民の帰還――である。
 イスラエル側の態度は、ヤセル・アラファトが率いるパレスチナ自治政府(PA)が西岸とガザ地区の住民を効率的かつ持続的に統治できるという明確な条件が実現された場合、パレスチナ人の希求を大幅に切り縮めて受け入れる可能性があるというものである。
 こうした詐欺的な態度は、大きな矛盾、対立を生み出した。ラビン、ペレス、ネタニヤフ、バラクと続いたシオニスト政府は、オスロ合意のほんの一部のみを少しずつ、かつ大幅に時間をかけて認め、PAに対しては、一つを認める代償として、それぞれの場合に次の段階に向かう条件として弾圧の強化を要求した。
 彼らの精神的に固定された「安心感」や排外主義的な横柄さ、パレスチナ人に対する差別的なさげすみといったものは、その優先度が最も反動的なイスラエル世論への迎合にあることを示している。イスラエル政府は他方で、シオニスト入植行動の拡大を実行し、パレスチナ地域の軍事的、インフラ的な分断化を進めた。
 こうした条件下にあって西岸とガザ地域住民の憤激に直面したPAが、そうしたいと努めるにもかかわらず、パレスチナ人を完全に統制することに多大の困難を経験することになるのは明らかである。そのうえヤセル・アラファトらは、一方では強権的な統治をエスカレーションする傾向はなく、他方ではパレスチナ人大衆から、そして警察の一部からもその正統性に対する信頼が弱まっていることを知っており、イスラエルとの関係で自らの立場を弱めている。と同時に、イスラエルに欺かれていると次第に強く感じるようになっている。
 その程度が次第に強くなる以上のような明白な袋小路が、最近の憤激の爆発と流血の秋とをもたらしたのであり、それが現在も持続している。現在の事態は、アラファト指導部が行った戦略的な選択の全面的な破産をむごたらしいやり方で物語っている。その選択には、一九六七年占領地における自治区を獲得するために、シオニスト国家の慈悲心やいわゆるアメリカの仲裁に期待することも含まれている。この戦略の破産がさらに明白になっていった結果は、パレスチナ人の間でイスラム原理主義が成長・拡大したことだった。
 バラクは、シオニストを結集した政府を望んでおり、そのためにアリエル・シャロンを入閣させようとしている。そして一九八八年に考え出されたイスラエル軍指導部の初期のプロジェクトに復帰するつもりだと主張している。すなわちイスラエル軍を西岸とガザに一方的に再配備し、これら地域と境界に対するイスラエルの戦略的な統制を確立し、永続的な封鎖を実行してパレスチナ人を飛び地に封じ込め、イスラエルの包囲を強化することによって窒息する脅威に絶えず直面する自治つき収容キャンプ状態にすることである。
 このプロジェクト、その見通しと、オスロ協定に関するイスラエル側の解釈との第一の相違は、パレスチナ指導部とシオニスト政権との間に直接的な協力関係がないことであり、パレスチナ地域の内部管理に対してシオニスト政権の側に侮辱的な無関心があることだ。この事態にあっては、パレスチナ人民に提供されうる唯一の前向きな展望は、オスロ協定の枠組みにおいて設立された抑圧的で腐敗がひどい管理組織に代わって、インティファーダの初期段階に見られた自治組織を再生・発展させることである。

支援の柱

 西岸とガザ地区のパレスチナ人民は、自らをイスラエルのくびきから解放する手段をもっていない。力関係は圧倒的に不利である。力関係を変えるためには、これまで決定的に不足していた新しい支援の柱を見出すことが必要である。
 アラブ諸国政府に対してパレスチナ連帯の大衆運動の圧力をかけて、パレスチナ側に不可欠な外交的な支援と経済援助を行わさせること。
 国際的な連帯運動の圧力で、パレスチナ国家樹立の権利を承認させ、緊急国際援助を実行させ、イスラエル国家がパレスチナ地域を絞殺しようとする政策を止めさせ、一切の軍事とそれに関連した援助を止めさせる。パレスチナ人民と真に連帯するための条件の一つは、一切の反ユダヤ表現を厳しく拒絶することである。
 イスラエル国家自体の内部では、暴力行為が噴出しており、「第二級イスラエル市民」となっているパレスチナ人がその暴力の犠牲となっており、この事実はイスラエル社会がどれほどまでに落ち込めるのかを示している。このようにおぞましい見通しによって、多数のイスラエル人が行動に出て、パレスチナ人を飢えさせようとするシオニスト政府の政策を止めさせ、一九六七年に占領したパレスチナ地域全体においてその主権国家を樹立する権利を承認させることが望まれる。
 パレスチナ主権国家の樹立こそが、すべてのアラブ人とユダヤ人の平等な権利という原則にのっとった正しい解決への道に不可欠な要素である。これなくしては、この地域ではおぞましい暴力と絶え間ない不安定以外の将来展望はありえない。
(インターナショナルビューポイント誌12月、326号)
 

イスラエル世論への緊急アピール

                             

 
 二〇〇〇年十一月に百二十一人のパレスチナ人政治活動家や学者が、イスラエル世論に対して次のような緊急アピールを発し、憂慮の念と強い願望を表明した。アピールは、イスラエル国内の複数の有力紙とインターネット上のホームページで発表され、広範な国際的関心を集めた。

 
 私たち、パレスチナ人の学者、活動家は今年(二〇〇〇年)二月、イスラエル国内で緊急の訴えを出しました。その中で、七年間続いているオスロ和平プロセスが私たちが願っている目標、すなわち二つの民族が最終的な歴史的和解に達し、平和に暮らし、互いの人間的な尊厳を尊重し、友好関係を築くという目標――ではなく、むしろ戦争に向かってさらに対立が激化していくのではないかという懸念を表明しました。
 またイスラエルがオスロ協定を利用して、その主張とは反対に前例がない規模――ほぼ倍増――で入植地を拡大し、パレスチナ人の土地を奪い続けていることへの憂慮の念を表明しました。パレスチナ人が自由に行動する権利が厳しく制限されているのに、イスラエル人入植者が私たちパレスチナ人のコミュニティに対してふるう暴力は制約されていません。
 こうした状況に対してパレスチナ人は、自らを守る物理的、法的、政治的な手段をもっていません。イスラエル軍による占領は日常生活に影響がある明白な現実ですが、オスロ和平プロセスの下では国際法を否定したりするなど、その姿を変えています。私たちは現在、いくつかに分断された地域に暮らしており、それら全体が生まれるであろうパレスチナ国家の領土とさえ、イスラエルはヤセル・アラファト議長――その受諾をパレスチナ人に強引にれています。
 私たちの多くはこの数週間、街頭に出ていますが、銃あるいは石さえもったことはありません。私たちは、ロウソクをもち、教え子や隣人、親戚などの死を追悼するのです。この死者は、言葉だけではできないこと、つまり命をかけてその主張を全世界に聞いてもらおうとしたのです。パレスチナ人がヤセル・アラファトの指令にしたがって街頭に出ていると考えるのは、素朴かつ危険なことであり、私たちの知性を辱めるだけでなく、私たちが生きている現実をまったく理解していないことの明白な証でもあります。
 私たちは、紛争が次第に危険な方向、民族的・宗教的な対決へ向かっている――ナザレにおけるアラブ市民虐殺や、二人のイスラエル兵士へのリンチ、シナゴーグやモスクに対する数多くの群衆襲撃事件などに示されている――ことを深く憂えます。アリエル・シャロンがハラム・アル・シャリフに行くのを許したバラク政府は、完全に無責任であり、自らの政治的な延命しか考えていないのです。この事実は、バラク政権が判断力を欠如しているだけでなく、パレスチナ人、アラブ人、イスラム教徒全体の気持ちに完全に無関心であることを示しています。
 非武装のパレスチナ市民のデモ隊に殺傷力のある武器を使用している事実は、パレスチナ人の生命に対する根本的な侮辱を表しています。またイスラエルの圧倒的な軍事力を動員し、その動員をエスカレートしてパレスチナ人の闘いを鎮圧し、恐怖に陥れて服従させようとしている事実は、大義や道義にしたがっては絶対に行動しようとしないという立場を示しています。軍事力は、数多くの生命を代償として抗議の行動を鎮圧できるかもしれません。しかし長期的には、その正義と本来存在すべき場所を要求している人々の意思をなくすことはできないのです。
 私たち全員は、イスラエルとパレスチナとの交渉による公平かつ正当な平和というものは、自決権を承認するものであると強く確信しています。しかし私たちは、私たちが属するコミュニティと同様に、オスロ協定の枠組みにおいて、アメリカだけを唯一の「仲裁者」とする和平プロセスによって現在の不公平が解決されると、希望を託すことができなくなりました。

次の諸原則を出発点とすることが和平のための公平な基礎となることを、私たちは確信してまする。
 1 イスラエルが一九六七年に占領したすべての土地が占領地であり、和平はこれらの占領を止める場合にのみ達成され、そのうえでのみパレスチナ人が自決権と国家主権とを行使できる、という原則を基礎にして和平交渉がなされる必要があります。
 2 東エルサレムはイスラエルが一九六七年に占領したパレスチナ領域の一部であり、したがって最終解決においては、東エルサレムに対するパレスチナの主権を認め、エルサレムを二つの国家の首都とすることが必要です。
 3 イスラエルが一九四八年にパレスチナ難民を生み出した自らの責任を認めることが、国連諸決議にそって難民問題を公平かつ永続的に解決するために不可欠の前提であります。
 4 双方は、互いが精神的、歴史的に類似していることを承認しあって、それぞれの国境内部に存在しなければなりません。それぞれの国境内部における精神的、歴史的な類似を表現する土地へ相手の人々が安全に行く方法を確立し保証する必要があります。しかし、そうした土地の存在をそれぞれの相手国境内部に対する主権の主張に利用してはなりません。
 こうした諸原則を実行することによって、公正な、したがって真実かつ永続的な平和をもたらすことができる、と私たちは信じています。二つの民族の共存という願望は、再構築される和平案というものが公正、公平である場合のみ、実現されます。そのためには、パレスチナ人に襲いかかった歴史的な不公正を道義的に事実として認める必要があります。平和と共存は、人々の意思に反して押しつけられる不公正な解決策によっては達成されないのです。
 この土地は、二つの民族にとっての故郷です。相互尊重と和解とを基礎とする解決策は、安全と安定のみならず、将来の世代が自由かつ繁栄して暮らすためにも、不可欠なのです。私たちは、この数週間の悲劇を脱して、新しく公平な平和の考えが二つの民族の間に出現することこそを、希望します。
(インターナショナルビューポイント誌12月、326号)