2001年5月10日        労働者の力               第134号

小泉内閣の成立と改憲論の大合唱
二一世紀の日本の進路はどうあるべきか

川端 康夫

改憲を正面に掲げた小泉内閣の登場

 自民党総裁選を圧勝した小泉に対して、各種世論調査はおしなべて圧倒的に高い内閣支持率を記録した。九〇%近い数字を最高に、低くても七〇%台の上位である。細川内閣成立時を上回る空前の支持率である。小泉ブームは、もちろん森内閣が極度に不人気だった反動でもあるが、小泉が持つ都市型のイメージと改革派的イメージ、自民党らしさが少ない点などが人物的魅力を呼び起こしているのだろう。
 しかし小泉への期待感には内実があるとはいえない。小泉の露骨な改憲志向や靖国神社公式参拝表明などの、保守反動の政治イデオロギー傾向はさほど表面には出てはいなかった。小泉人気が民主党を最大に直撃するだろうと予測されることは、「加藤の乱」に期待した層と小泉ブームが重なっていることを意味する。しかし小泉が示しつつある政治傾向は、そうした期待を間違いなく裏切ることになる。
 今回の自民党総裁選挙においては、亀井、麻生、橋本、小泉ともに改憲を公然と主張した。小泉「改革内閣」の「改革」は内容が明確でないと批判される。しかし、その内容は鮮明だ。憲法改悪の主眼点は、自衛隊を軍隊として認めること、集団的自衛権を承認することにある
 現段階の自民党政治の行き詰まりは、もちろん政治的、経済的な改革が歴史的に迫られていることの表現である。
 自民党イデオロギーを支えてきた枠組みの内的な動揺が深化し、顕在化し始めている。後で触れる白石隆氏の言う「日米同盟とアジア主義の共存」の枠組みは、日米同盟に比重を置くか、それともアジア主義に比重を寄せるかのぶれを不断に示しつつ、自民党政府体制を形成してきた。
 ここにいう「アジア主義」とは戦前タイプの延長上にある、いわゆる「アジアの盟主、日本」の意識である。この枠組みを支えた経済的土台が揺らいだ。その動揺が政治の浮遊と空白の十年を導いたのだ。自民党政府体制内部におけるイデオロギーの亀裂は近い将来において劇的に顕在化するかもしれない。

アジアにおける日米同盟

 今や日米同盟論者は、こうした動揺と流れの変化に対する警戒を隠さない。
 戦後のアジア構造は以下のようにつくられた。
 アメリカの支配力のもとに日本を組み込み、それを安保体制としてつくりあげ、同時に日本の経済力をもってアジア地域の反共体制を支える手段とする。東南アジア諸国は日本の原料資源を支え、アメリカは日本製品を受け入れる。日本帝国主義の復活は支持されるが、それは徹頭徹尾アメリカに対する「副官」の位置を越えることは「許されない」。
 それが、一言で「アメリカンドリーム」と呼んだ政治経済構造である。このアメリカとアジアとの関係における二重構造は、したがって日本支配層のイデオロギー的位置に相当程度のあいまい性を付与した。
 天皇制を保持し、戦争責任をあいまい化した。ここに東アジアにおける「日本国家のイデオロギー」のあいまい化が形成されてくる。旧日本帝国主義の徹底的なイデオロギー的清算は行われなかった。戦後アメリカが出した処方箋は「経済的・軍事的枠組みでの制御」であった。東西対立構造における東アジアで以上の枠組みで反共勢力の一翼を担う日本の指導者層は、もちろん旧勢力から選抜するしかなかったからである。
 しかしアメリカと日本、日本と東南アジアとの間の三角貿易関係が転換をとげるという、この十年の新たな状況に入るまでは枠組みはそれなりに順調であった。日本経済はアジアの戦争をバネに復活し、高度成長をとげた。アジアの戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争と続き、日本経済はアメリカの戦争経済に製品を供給し続けることができた。
 
日米同盟関係の経済的行き詰まり
 
 これが崩れ始めるのはまさに経済的側面からである。
 まず第一にアメリカ経済は日本製品を無限に受け入れることができなくなった。ベトナム戦争で政治的に疲弊したアメリカを、さらに膨大な貿易赤字と製造業の衰退が一九八〇年代を通じて経済的にも疲弊させた。一九八〇年代、プラザ合意によって日本経済はアメリカに対する一方的な製品輸出国からの転換を求められた。自主規制と同時に輸入拡大を要求された。
 第二にアジアNIEsの台頭が米、日、そしてアジア諸国の経済構造の転換を促進した。日本の東南アジア諸国への資本進出は、これらの諸国の工業化を急速に推し進め、そして直接にアメリカ市場への輸出攻勢へと転化した。
 日本経済はアジア諸国の工業製品のための部品供給やプラント輸出の度合いを高め、ここにアメリカ市場に対する輸出攻勢の低価格化競争も出現する。アメリカ経済がハイテク製品、情報通信産業部門での世界的優位性を回復するのは一九九〇年代であるが、もはやここには戦後のアジア太平洋の経済的枠組みはほとんど残ってはいない。
 日本経済がアメリカ経済の一方的な受益者であるという立場の保障がなくなるにつれて、戦後政治の枠組みを規定した日米同盟の基盤的揺らぎもここにおいては必然的なものとなる。
 繰り返せば、戦後日本経済のキャッチアップは、対米輸出とアジア資源の収奪によって賄われた。貿易関係の複雑化、重層化は日本経済がアメリカと東アジアへの一方的な製品輸出国という位置を失い始めるにつれて「体質転換」が求められることになったが、それは国家の基本政策問題を決定するレベルへと当然にも浮上していくこととなる。これが二一世紀初頭に迫られている日本の政治的、経済的「構造改革」の根幹問題である。
 一九八〇年代の中曽根登場に現れた政治的転換の枠組みは、小沢が代表する一九九〇年代初期の時点では、こうした日米同盟論の枠組みと直接に衝突するものとして表現されたわけではなかった。
 小沢は保守本流の系譜を引く立場にもあり、国連(すなわちアメリカ)との調整に中曽根以上に神経を使ってきた節もある。しかし日米同盟論という枠組みの「堅持」が明確に提起されたともいえない。そうした点では路線的性格がまったくあいまいな「国家主義」だけが前面に押し出された。
 こうした「小沢的風潮」を通じて戦後民主主義内部に温存されてきた「国家主義」風潮が噴き出してきた。改憲論の主導者である中曽根の復古主義傾向と小沢的な傾向が結びついて出てきたが、そこから石原的な日米同盟の枠組みを否定する日本国家論が登場するに至るのである。
 国家主義傾向は、戦後型の反共主義の枠組みを踏み出し始めた。戦前ノスタルジー型の復古主義的国家主義である。東アジア侵略を東アジア解放のための戦争と言いくるめる方法によって、かつ民衆への攻撃をなかったとか、あるいは些細な事実とすることによって日本という国家に帝国主義としてのバックボーンを再度うち立てようとすることである。
 こうした傾向の根幹には当然、天皇制が座っている。日の丸・君が代法制化。その現在的頂点が新しい歴史教科書検定合格である。
 安保体制を基軸とした日米同盟に、こうした風潮は対立し挑戦しようとする意思の表れなのであろうか。
 石原は明らかに日米同盟からの離脱を表明してはいる。
 今のところ、自民党政府体制はそうした方向に動いているわけではないが、もはや以前のような単線化した日米同盟論の論理ではことはすまない地点に次第に近づいていることも事実である。

二一世紀の日本の進路

 ここで「新しい歴史教科書」問題がもっている客観的な意味が問われてくる。この教科書の検定合格は、日本政府が今後のアジアにおいて戦前帝国主義を免罪することを求めつつ、そうした延長上に日本国家の役割の承認を求めているに等しい。
 「新しい歴史教科書」はアジア民衆や諸国政権との協力を求めて作成されたものでもない。むしろその効果は反対である。とすれば、こうした「国家主義」は政治的に袋小路である。アメリカの大局的なアジア政策とも合致しない。ここに日米同盟論者の警戒心の根拠がある。
 要約すれば、日本政治には基本的な三つの道が提示され始めている。これは新しい事態であり、おそらくは二一世紀初頭の新たな政治分解を基軸的に定めていくことになる。一つは日米同盟、二つは孤立主義的国家主義、三つは東アジア民衆との直接の結合を求める立場。
 今のところ石原のアジテーションがあるが、同時に日米同盟派から『海の帝国』(白石隆、中公新書)が出され、アジアとの連帯派としては著名なケインズ学者である森嶋通夫の著作『日本の選択』が岩波書店の同時代ライブラリーシリーズから出された。
 森嶋氏が新しい著作『なぜ日本は没落するか』(岩波書店)で書いているが、この提起には「驚くほど反応がなかった」らしい。森嶋氏の説は北東アジアの経済協力へのステップを「共同開発」から始めようという主張である。つまり日米協力関係が日本経済を発展させるという時代は終わったという歴史観に立って、二一世紀の日本経済を大陸との接点に展望しようとする。
 ここで森嶋氏は一方でいわゆる「国連中心主義」について、東アジア民衆(北部朝鮮、中国)が「国連軍」と闘った歴史事実に照らして注意深く対処すべきことを主張すると同時に、将来の方向性においては政治的同化、すなわち社会主義的体制選択が必要であろうとも提起するのである。
 氏は、経済的な没落を回避するためにはこの「大胆な提起」が必要と主張している。氏が著名な近代経済学者であること、財界との関係が深い人であることを考えた場合、まさに驚きである。が同時に「驚くほど反応がなかった」こともまた驚きではない。
 経済成長下のこの二、三十年間における日本の思考過程からはほぼ絶対に生まれてはこない発想ともいえるし、他方では旧帝国主義国家が行った侵略行為との関係で大陸の民衆との関係にナイーヴにならざるをえない要素を持つ民衆心理からもかけ離れているからでもある。
 他方、白石氏のいう『海の帝国』とは東南アジア諸国、すなわちマレー半島からフィリピン、インドネシア地域を指している。彼は、大陸、すなわち中国、朝鮮半島、インドシナ半島とは区別された、この「海」の経済圏との結合強化を唱えるが、同時に氏は地域(リージョン)主義的結合を排し、日本経済がさらに自由にふるまう領域の拡大という方向性を強調する。東アジア型諸国家、つまり日本を含めた中国、朝鮮半島の諸国家と東南アジア諸国家の性格の違いを指摘し、この違いが地域連合化の障害になると主張する。
 氏の主張の眼目は日米同盟の維持強化が唯一の選択だという点にあり、その観点から石原的主張を言語道断、問題外と切り捨てる。そこにはアメリカ第七艦隊が遊よくする東アジア海域という条件がある。
 氏は大陸アジアとの協同が必要不可欠になる時点とは、すなわち日本が日米同盟関係から離脱しなければならない事態とは、西太平洋に中国艦隊のヘゲモニーが成立するときであるとし、そうした事態は当面考える必要はないと言い切る。
 つまり白石氏は、東アジアにおける中国脅威論をけん制し、またアジアにおける帝国主義としての地域主義的ヘゲモニーを主張する石原的傾向を切って捨てている。
 だが「これほど居心地のよいシステムを変える必要はない」という結論がアメリカのアジア戦略にひたすら寄りかかる守旧的、現状維持的な論理展開という印象をぬぐい去ることに成功しているとはいえない。
 以上、簡略化して紹介した森嶋氏と白石氏の見解にこそ、二一世紀の日本がいかなる進路を選択していくべきなのかを描き出そうとする両極が姿を現し始めている。一方(白石)は円の放棄はありえないとし、他方(森嶋)は体制転換までを視野に入れる。
 後者の視野は、われわれが概念的に提出してきた東アジアにおける合同計画経済の視点と重なる。
 
アジアと現行憲法

 以上に展開した論理的分岐の基本構造上に、日本の将来像をめぐる対立軸がある。そうした視野から見れば、現憲法が第一条に天皇条項を置き、九条に非武装条項を置いている枠組みは、まさに戦後の日本国家規定を体現したものということができる。すなわちあくまでも「二重的」なのである。東アジアにおける「副官」と「帝国主義」という二重の役割である。
 改憲論が、日米同盟の枠組みを否定して出されていると断言するのは言い過ぎではある。しかし全般的な復古主義傾向のなかで、石原的な日本ヘゲモニー論と別個に展望しているともいっていない。「新世紀維新」という用語の使用や靖国公式参拝表明などを見れば、小泉は限りなく石原に近い。
 改憲論のあいまいさは、実は日米同盟論と日本独自ヘゲモニー論との間の路線的分岐を含んでいる。そうして分岐が進むにつれて、改憲論の枠組み的分裂、ひいては自民党体制の分解に近づいていく。だがこうしたことは、アジア民衆との結合という視点からは意味はない。また、あいまいなままに進むこともありうることで、直接の政治過程として現れることを過大視することもできない。民衆の闘いがこうした内的亀裂を表面化させていくものでもある。
 だが社民党が遅ればせながら、村山時期の見解修正に動き始めたことに見るように、アジア民衆との関係を意識した動きが少しずつかもしれないが拡大してくることは明らかである。「新しい歴史教科書」「従軍慰安婦」「アジア民衆への賠償」と、事態は積み重なる一方となろう。東アジアにさらに比重を移さざるをえない日本が、こうした問題を避け続けることはできない。
 船橋氏は朝日のコメント欄において「近隣条項ではなく国益主義を」と主張した。この主張の趣旨は白石氏が表現したブルジョア合理主義と通ずるものであるが、おそらくは容易には理解が得られまい。日本民衆の根深い一国主義が大きな制約となっているからであり、森嶋氏の論調への反応のなさとも深部では通底するだろう。

最悪の選択としての改憲論
 
 憲法改悪論議はすでに述べたように、復古主義的、孤立主義的な国家主義の路線と手を携えて生まれている。天皇制は日本一国の内部問題だが、旧帝国主義によってアジア民衆に押しつけられたという歴史がある。東アジアにおける日本のヘゲモニーを指向する孤立主義的、独善的な論者たちは、はたしてこの天皇制を再びアジア民衆に押しつけることを求めるのだろうか。
 アジアとの対話、協調、さらには一歩進んで地域的(リージョン的)結合を深めようとするならば、天皇制は「じゃま」なのだ。天皇条項は廃棄されるべきなのである。だがそうした思考方法は改憲論者からは出されない。
 イギリス保守党勢力が大陸との結合強化(EC強化)になかなか踏み切れない理由の一つに、それがイギリスの国家体制、王政と矛盾を来すというところがあるのであろう。ECの場合、アメリカのヘゲモニーの大枠で機能しているわけだから、アジアの場合のような「複雑さ」はない。しかし、英国王室がこのECで何らの役割を果たさない、果たすべきではないことも明らかである。
 鳩山が中国に行き、憲法改正の趣旨を江沢民政権に汗だくになって理解を求めたが、冷たい反応しかなかった。天皇制を護持し、日の丸と君が代を法制化した流れに乗る改憲論の性格は、「新しい歴史教科書」によってさらに印象を強めただけである。天皇制、日の丸、君が代は二一世紀におけるアジア民衆との結合深化にとって最大の障害である。鳩山はこうした事実を認識すらもしてはいないだろう。
 現行憲法の二重の性格、すなわちその一つの特質である象徴天皇制度の基盤は、アジア民衆との結合が具体的に進むなかで解体されていかざるをえない。そうした過程に積極的に踏み込んでいくときに、象徴天皇制が実質的に風化し、ひいては最終的に無意味なものとなっていく。
 もう一つの特質である九条の維持は、日本があらゆる意味で具体的な紛争解決の手段として軍事力に訴えない、軍隊を持たないことを明言している点において、今後のアジア民衆や諸国との地域的結合を深めていく場合の、最低の保障、出発点である。日本国家の「国際化」は歴史記憶において、まず最初にアジア民衆の警戒心を呼び起こす。これは避けられない。
 その警戒心を解除する最大の保障が軍事力の放棄であることはあらためて強調する必要もないことである。この「常識」あるいは「良識」を懸命に掘り崩そうとしている右翼論壇、そして自民党などの改憲勢力は意図的にアジア民衆の意識を逆なでし、そして船橋氏の言葉を借りれば「国益を損なっている」のである。
 日本以外のアジア諸国が武力を維持しているし、当分はそうした状況は持続するだろうことを考慮すれば、東アジアにおける協調的枠組みということは「武装」の問題を排除はしないけれども、東アジアにおける地域的結合が進めば、相互の軍事的緊張は解消される。
 軍事問題は複雑である。PKO活動ということが与える様々な影響があり、ヨーロッパのグリーンパーティーに見るごとく、運動の戦線を切り裂いてもいる。いわゆる「国際的な警察活動」は国際組織、機構として成立したことはなかった。ECやアメリカの旧ユーゴ地域への軍事介入はまさに彼らが行った政治介入の延長にすぎなかった。軍事は政治の延長である。彼らが、危機に瀕しているアフリカ中央部から撤退した事実に照らせば、こうした「人道的戦争」の底が割れる。
 分解の危機にさらされているかのようにも見えるインドネシア国家が第二、第三の東チモールに直面してしまう事態は絶対にありえないとはいえない。そのようにならないためにこそ、政治と外交が出動しなければならず、ECが行った旧ユーゴ地域の強引な政治的解体策動のようなものの逆こそが求められている。東アジアの地域的結合の深化が、地域紛争の平和的解決のための手段となる。
 結論的にいえば、東アジアにおける政治的、経済的な枠組みの協調的形成という視点から、憲法問題、軍事問題が検討されなければならない。現時点での憲法改悪への動きはアジアと日本の将来にとって最悪の動きであり、これを許してはならないのである。     (五月十一日)  

第四インターナショナル
国際執行委員会を開催


 第四インターナショナルは、世界大会と世界大会と間の指導機関である国際執行委員会(IEC)を二月にヨーロッパで開催した。
 約五十人の執行委員とオブザーバーが出席した。中心議題の一つは、資本主義のグローバリゼーションに反対する闘いに関する議論を、ブラジル・ポルトアレグレにおける世界社会フォーラム(WSF、本紙前号参照)の成功に照らして継続することだった。
 IECはまた、国際政治情勢と革命的マルクス主義者の任務に関しても、第十五回世界大会を準備する作業の一環として議論を継続して展開した。そして決議案「世界情勢とわれわれの任務」を作成する委員会を設立した。この委員会は、二〇〇〇年十月のIECが採択した世界情勢決議案と今回のIECが議論をした任務に関する草案を単一の決議草案にまとめる。
 IECは、エコロジー、レスビアンとゲイリベレーションに関する決議草案について議論を行った。これらは、第十五回世界大会において草案作成に当たった委員会からの報告を受けた後、採決にかけられる予定である。
 IECはまた、エストラーダ追放以降のフィリピン情勢の展開、ラテンアメリカの政治情勢(エクアドル先住民の闘いとコロンビア計画に対する闘い)、第四インターナショナルポルトガル支部が参加しているレフトブロックの経験なども議論をした。
 また二〇〇一年度の国際組織としての予算に関して討議をし、各支部共通の活動を強化するのに必要ないくつかの措置を決定した。
 支部が展開している大衆行動とぶつからないようにするため、さらには内部討論を十分に展開するために、IECは、第十五回世界大会を当初予定の二〇〇一年秋から二〇〇二年春に延期することを決定した。世界大会を準備するための国際執行委員会は、今秋に開催され、世界大会の組織化、他の革命的な組織への参加招請などについても議論する。
 IECは、メキシコにおけるサパチスタ行進と、アメリカにおけるムミーア・アブジャマル政治囚に関する決議を採択した。
(インターナショナルビューポイント誌3月329号)

WSF――反グローバリゼーションの闘い
成功したものの同じジレンマに
エルネスト・エレーラ

 風が変わり、地平線がくっきりとしてきたことには、いささかも疑問はない。わずか数年前には、ネオリベラルの反革命が絶頂を極め、世界社会フォーラム(WSF)のような衝撃力を持つ行動は考えることさえできなかった。この意味で二〇〇一年一月にブラジルのポルトアレグレに多数の人々が結集した事実は、資本主義・帝国主義のグローバリゼーションに反対する闘争・行動の広がりや多様性を、さらには保守主義勢力のヘゲモニーが自覚せざるをえない袋小路をも鮮明にしたのであった。

風は変わったが

 闘いのシナリオは好ましい方向に変化しつつあり、連帯を基礎にした戦闘的な国際主義が再生し発展している。社会的な対立が政治的な不安定さと同じリズムで加速されている。この現象は、いわゆる第三世界で顕著である。しかしながら決定的に有利な力関係の形成は、未だしである。
 ジレンマが続いている。様々な闘いや社会的な不服従行動を左翼勢力の再建運動へとどのように作り直していくのか。「ネオリベラルのグローバリゼーション」反対の勢力を反資本主義の新しい社会をめざす陣形へと、どのようにして発展させていくのか。不均質な社会的、政治的な幅広い運動要素に、どのようにして綱領的な統一性をもたせていくのか。
 これらの意味において、マルクスとエンゲルスが第一インターナショナルとの関係で経験したことを、われわれも同様に体験しつつあるという幻想は、WSFが直面している現実を完全に無視している。マルクスやエンゲルスの時代とは異なっているのには様々な要因があるが、何よりも一世紀以上も時間的に離れていることが最大の要因である。
 WSFにおいては、多様なフォーラムが同時的に開催された。農民関係のフォーラムの一つとして、先住民と青年のフォーラムがあった。このフォーラムの気分、雰囲気は、反乱、バリケードのそれであった。話題は、「闘争形態のすべて」や「行動に移す」などであり、「空想主義的」な雰囲気があった。
 ワークショップではやや事情が違っており、具体的かつ即時的な要求が議論された。社会運動の活動家、労働組合活動家、様々な闘士が談話を占拠し、新しい社会の可能な形態を描き出そうとする議論が展開された。同時に、政党の政治的な要素に関する議論(あるいは批判)は不在だった。この点はキャンプでも同様だった。
 会議ホールでも事情は違っていた。議題として発表された中心的なテーマは、新しい生産組織、より公平な商業・貿易、金融資本の移動の統制、農業問題だった。非常に多数の人が参加した。理論的に確固とした説明があり、パネリストたちの間で論議が展開され、同意がみられた点や不一致なままとなった論点があり、会場からも多くの問題が提出された。
 ここでは、政治―綱領的な論点や「新しい社会形成路線」の性質などが中心点となっていた。民主主義の問題に特別の関心が払われた。というのも、フォーラムが開催されたのが、「地方自治体予算の参加型作成」という民主的、大衆的な経験が実行された場に他ならなかったからである。

豊かさと緊張

 明らかに鋭敏な意識性があり、それがフォーラムに豊かさと緊張とをもたらした。現状を支配する経済秩序を変革し、大衆動員に最大のインパクトを与える要求とは、第三世界諸国の対外債務を全面的に帳消しにし、国際金融取引(現在では一日二十億ドルとなっている)に対してトービン税を課税することである。「公平な商業・貿易」や富裕国が「格差を減らすために」支払うべき「エコロジー債務」といったやや曖昧さが残る要求も提出された。
 こうした「グローバルなインパクトを有する措置」に賛成する議論の背景には、ドラマティックな分析が共有されていたことがあった。南の諸国では、一九八〇年の対外債務が現在は四倍となっており、それは当初額面の六倍となっている。この点に関して第三世界の債務を帳消しにするための委員会のエリック・ツーサン代表は、債務帳消しよりも「オーディット」を支持するブラジルPT大統領候補であるルラや左翼指導者、経済学者などを批判した。
 最も広範な同意がみられた論点は、遺伝子操作による製品反対である。こうした製品がもたらしかねない環境リスクや消費者の健康に与える危険さ、少数の多国籍企業による種子の独占と闘う農民の存在などが、同意を形成したのであった。
 自由貿易や私有化は、失業をもたらし、不平等を拡大し、公共サービスの利用を困難にする要因として、基本的に反対された。労働者の国際移動の自由化や、水と種子とを人類共通の遺産とみなし、種子に関する特許などによる私有化は認められなかった。

分岐

 しかし、それぞれに違った道、考え方も表明された。富裕国の市場を閉ざして保護し、南の主要輸出品である農産物価格を押し下げる農業補助金への反対が大きな声で表明された。他方、国際組織ビナ・コンペシーナに代表される貧しい農民たちは、自らの生産に有害な食糧輸入に反対して行動することを決定した。
 この運動の指導者たちは、「農業はビジネスでなく、食糧は商品とされるべきでなく、人間の権利の問題として農業を扱うべきだと」主張する。そうした指導者として、ブラジルのエギディオ・ブルネット、ホンジュラスのラファエル・アレグリア、フランスのジョセ・ボベなどがいる。
 急進派と穏健派との対立は明白だった。例えば、フィリピンのワルデン・ベロのように一方は、IMF(国際通貨基金)や世界銀行、世界貿易機関(WTO)の廃止を主張し、ブラジルのエコノミスト、ルチアーノ・コーチニョのような「リアリスト」は、これら機関の改革を主張する。別の対立例として、一方のグループは、すべての人間の生涯にわたる権利として最低収入の普遍的な保障を主張し、労働のみが所得の正統な根拠であるとする従来の支配的な考え方と決裂する。
 一方に反対行動あるいは機構外抵抗などのパルチザン戦略をとり、「人民権力」の展望において力を蓄積し、戦闘的な市民不服従の行動を追求するグループがあり、他方には、民主主義と参加型行動を深めることを通じる漸進的な変化を追求し、「統治の推進」というプラグマティックかつリアリスティックな戦略をめざすグループがあり、多くの問題に関して二つのグループの対立が存在している。
 社会的な主体の問題もまた、議題にはなかった。多くの人が「市民社会」に言及したが、実際には社会は階級によって分断され続けているのである。
 論争にも不足はなかった。フランス社会党の大臣がいくつかの会議や議論に参加した場では、ことにそうだった。その大臣は、活動家や闘士たち――その中心は、欧州議会議員であり、第四インターナショナルフランス支部LCRの指導者でもあるアラン・クリビーヌ――が署名したカードが読み上げられるのを聞かなければならなかった。その内容は、フランス政府が制定した反移民法の責任者として、この大臣を非難するものであった。
 中期的な目的を持った一部のユートピア的な観点とは対照的だったのが、コロンビア計画反対や米州自由貿易地帯(FTAA)構想への反対、反帝国主義のキューバ革命連帯運動などの緊急的な課題を担う活動家や闘士たちだった。
 コロンビアのFARC―EP代表が参加し、多大な関心を集め、参加者の多く、ことに青年や政治活動家から熱烈に歓迎された。参加した反乱組織の国際委員は、WSFの重要性を次のように強調した。
 「われわれは、WSFの理想に同意し、よりよい世界が可能だと考えている。だからこそコロンビアのFARCは闘っているのだ。ここにいるのは、コロンビア計画を非難し、アマゾン川流域の問題に世界の関心を集めるためである。ブラジル国家は、自身のためにもアメリカ合衆国がアマゾン川流域を使用するのを許すべきでない」
 他方、労働組合や社会運動のネットワークは、アメリカ合衆国による再植民地化計画に対する障壁を設置する必要性を強調した。アメリカ大陸社会同盟は、第二回人民サミットへの参加を訴えた。これは、カナダのケベックで四月十六―二十一日に開催され、FTAAに反対する戦略方針に関する議論を継続することになる。そして「この方向における第一歩として、四月初めにブエノスアイレスで開催されるFTAA労相会議に合わせて、その地で大衆行動を展開する」と呼びかけた。

声明

 合理的だと思われる決定、「最終宣言」はなかった。WSFを構成する要素の政治的、社会的な多様性がゆえに、フォーラム中に展開された様々な論議や提案を適切に反映する単一の文書にまとめることは不可能に近い。その代わり、社会運動の議会フォーラムとワークショップ世界女性行進による声明などが出された。
 これら声明のすべては、資本の側のエリートとそのヘゲモニーに対する挑戦がみられる。「ネオリベラルのグローバリゼーション」に反対する広範な同盟を形成する必要性、抵抗闘争や組織的な動員を持続・強化する意図などが表明された。
 情勢の変化はまた、議員グループの宣言にも表現された。彼らは「世界の再植民地化」を非難するにとどまらず、「不道理な債務をつくり出す構造に反対し、最貧国の債務帳消しを支持する」運動やトービン税を導入して投機的な資本移動に課税する制度の確立、税金逃れのための「タックスヘブン撤廃」の運動を行うことをも表明した。
 この声明は、「WTOや国際金融機関の根本的な改革が可能」という幻想を有しているものの、全般的には好ましいものだった。
 これら議員の多数――ラテンアメリカとカリブ海地域の議員はサンパウロ・フォーラムを構成する政党に属しており、制度改革の現実主義路線を選択している――が、それぞれの議会においてポルトアレグレで同意された内容を、実際にどのように実現していこうとするのか見守る必要がある。
 女性のワークショップの声明は次のように述べている。
 「現在のネオリベラルのグローバリゼーション反対、連帯を基礎とする新しい社会を」「女性の貧困化を大々的に促進し、女性に対する様々な暴力行為を増幅させる性差別のグローバリゼーションを非難する」
 全体的にみれば、フォーラムの中心軸に女性問題が組み込まれることは少なかったが、ブエナベンツーラ・デソウサとフレイ・ベットが政治的な解放から多文化的、フェミニスト的な側面まで含めて、女性問題のために奮闘した。

新しい世界とは

 WSFの中心的な組織者の一人は「様々な思考について討議するために、ここに参加した。そうした考えを闘いに転換する道を追求しなければならない。数年以内に、その方法を準備できるだろう」と述べた。彼はさらに「もはや意味を失ってしまった左派と右派との分極化よりも組織された運動の具体的な行動により関心がある」と述べた。
 イグナシオ・ラモネットは、ルモンド・ディプロマティク(二〇〇一年一月)に掲載した「ポルトアレグレ」という記事の中で同様な見解を表明した。
 「WSFの目的は、シアトルやワシントン、あるいはプラハの行動のように抗議することでなく、今回のような建設的な精神をもって、より人間的かつ連帯を基盤にした新しい世界が可能であることを確証し、新しいグローバリゼーションを促進する理論的な枠組みと実践行動とを提起できるよう試みることである」
 もし「反グローバリゼーション運動」が、商取引の好ましくない影響や結果、対外債務支払いに伴う悲惨さ、WTOや世銀、IMFといった国際機関が強制する諸条件などへの反対だけにとどまるのであれば、「市場の働き」における不均衡に関連する諸問題への批判の水準にとどまることになる。つまり商品の物神崇拝やすべての人間・社会関係の商品化に対する批判は、その力を大きく失うことになる。
 現在の反グローバリゼーションの闘いが有している幅広さとその戦闘性とは、「ネオリベラルモデル」による構造調整計画とその結果とに対決しているだけではない。この闘いは、日々の戦闘において権力関係、所有関係を問題にしている。すなわち工場を占拠したり、農場を占拠したり、あるいは住居地域を占拠したり、「海賊」放送局を設置したりしてである。これらは、底辺の人々が資本に奪われていた自らの諸権利を取り戻す行動や闘いに他ならない。
 それぞれの闘いは、それぞれのやり方で、時にはただ宣伝的なものもあるが、権力問題を提起している。だからこそ、組織と政治戦略とを建設することが、必要かつ緊急の課題となっているのである。資本主義・帝国主義のグローバリゼーションに対する抵抗闘争は、WSFのような国際運動――資本のグローバリゼーションに代わる新しい路線を構築しようとする運動――のための実践的、政治的、理論的、綱領的な経験を力強く試す場である。

「反乱インターナショナル」

 一九九七年八月に人間性と反ネオリベラリズム第一回会議が開かれた。呼びかけたのは、メキシコサパチスタのEZLNで、その副司令官マルコスによると、「世界中の」運動のための場となる運動を構築しようとするものだった。数千の活動家やサパチスタの支持者がチャパスに結集した。彼らの多くは、社会運動やNGO所属だった。そこでは「希望のインターナショナル」が語られた。十分には成長してはいないが、種はまかれたのであった。十分には成長しなかった理由は、地域的な闘いとの連帯運動だったからである。
 その当時の国際状況は最悪だった。そして社会と政治との分裂は、絶頂に達していた。
 シアトルの闘いが状況の枠組みを変えた。とりわけ、その社会的な抵抗運動の性質がゆえに、そして、その闘いの前に多国間投資協定(MAI)の締結を阻止するという重要な勝利を達成していたからである。
 次から次へと巡回する抗議運動や「反グローバリゼーション」反乱は、シアトルの闘いから一九九九年十一―十二月の「ミレニアムラウンド」にかけて持続性を獲得した。その後、ロンドン、バンコク、ダボス、ワシントン、ジュネーブ、プラハ、ニースと運動が引き継がれていった。
 こうした時間系列による行動表は、強烈な印象を与え、左翼の「引き潮」や「敗北」あるいは「思想的な後退」といった主張に屈服した人々を困惑させる。その屈服によって多くの場合、運動の後退・解体や、階級闘争の力学や情勢の変化を的確に認識する政治能力の欠落を合理化しようとした。いずれにしろベルリンの壁崩壊が、重くのしかかっているのだ。
 ラテンアメリカでは、シアトル以前からでさえ、抵抗闘争と反撃の過程が始まっていた。ストライキや大衆闘争の高揚、大衆動員が次から次へと続いた。政権の不安的さが、この地域の際だった特色となっていたし、それは現在も続いている。
 社会的な分極化とその政治表現との分裂状況は、終わりつつある。この事実は、ウルグアイ、ブラジル、エクアドル、エルサルバドル、ニカラグアにおける左翼の政治的な前進や、人権闘争、エクアドルにおける先住民運動の勝利、コロンビア計画に対する大陸規模の動員などに示されている。そしてサパチスタは再度、イニシアティブをとり、メキシコシティに向けて行進した。
 これらすべての闘い、運動において、戦闘的な左翼の再編と反資本主義綱領による勢力を建設する条件が整いつつあり、政治目的や理論的な明確化が可能な条件が生まれていることは明らかである。
 参加者の一部やジャーナリストは、WSFを新しい「反乱インターナショナル」と定義した。WSFを組織する原則や宣伝は当初、この方向で追求されてはいなかった。次回フォーラム(二〇〇二年、ポルトアレグレ)は、この方向に進むのか、それとも「ネオリベラルのグローバリゼーション」に対する「反グローバリゼーション」からする対話者となるのかを決めるだろう。
(インターナショナルビューポイント誌3月、329号) 
WSFと第四インターナショナル

 WSFには、多数の第四インターナショナル支持者が参加した。それを国別にみると、フランス、ベルギー、スイス、イタリア、スペイン、南アフリカ、フィリピン、カナダ、メキシコ、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ウルグアイで、ホスト国ブラジルはいうまでもない。
 これら第四インターナショナル支持者は、そのすべてが、社会組織、労働組合、ATTACネットワーク所属グループ、連帯委員会のメンバーや活動家、政治闘士として参加したのである。
 これら参加者は、ワークショップやキャンプ、会議において組織者やパネラー、調整者、司会者などとして活躍した。フォーラムでは様々な行動が同時的に行われた。一月二十六日には、「マルクス主義、ユートピア、現代」という本に関して、その著者ダニエル・ベンセイドなども参加して討議された。これには三百五十人以上が参加した。
 三十日昼には同志的な雰囲気による昼食会、同日夜には昼食会のつづきとして会議が行われ、アラン・クリビーヌやピエール・ルッセなどが四百人以上の参加者に対して、フォーラムとそれが挑戦しようとしている点について、それぞれの第一印象を述べた。
 五日間の期間中、三カ国語(ポルトガル、スペイン語、英語)による「レジスタンス」――これには第四インターナショナル次回世界大会で採択にかけられることになっている決議草案「資本主義グローバリゼーションへのレジスタンス」も含まれる――三千部が配布された。その序文は、ミッチェル・ローウィによる「第四インターナショナルとは?」であり、WSFとの関係で第四インターナショナルの立場が説明されている。
 「第四インターナショナルは、世界社会フォーラムに闘士や議員、労働組合指導者、様々な社会運動の活動家などとして参加している。これに参加して国際主義の革命的マルクス主義の観点において貢献しようと考えるが、それにとどまらず、他の参加者の経験や思想からしっかりと学びたいとも考えている。というのも、二十一世紀の国際主義という種がまかれるのは、シアトルのような街頭行動やポルトアレグレで行われているような会議を通じてであると考えるからである」
 またメキシコ支部、革命的労働者党の同志たちによるレビュー五百部も配布された。これも、次回世界大会の決議草案であり、コロンビア計画とコロンビアの政治・社会運動連帯行動に関する第四インターナショナル国際執行委員会決議である。
 ブラジル側からは、デモクラシア・ソシアリスタのラウル・ポント同志による「参加型民主主義、ポルトアレグレの経験」千五百部も配布された。
 第四インターナショナルの刊行物、インプレコールとインターナショナルビューポイント誌がブラジル労働党(PT)のスタンドで販売された。またエルネスト・マンデルの「マルクス主義の歴史的位置」(新版)やラウル・ポントの「民主主義、参加、市民権」などの書籍も販売された。
 オーストラリアの革命的組織で第四インターナショナルと連帯する民主社会党の指導者ディック・ニコルスも、これらすべての行動に参加した。
(インターナショナルビューポイント誌3月、329号)