2001年9月10日        労働者の力               第13 7号

第十三回総会コミュニケ
 

  
 国際主義労働者全国協議会はさる八月**日〜**日、**県において第十三回総会を開催した。
 総会は第四インターナショナル第十五回大会および議案についての報告、政治情勢と課題、労働運動の任務と課題、組織・財政他の報告を受け討論を行った。
 第十五回世界大会に関しては、複数のオブザーバー派遣を確認し、議案の詳細討論はあらためて特別の会議を設定して深めることとした。
 政治情勢と課題の討論には労働運動に関する討論も大枠で統合されて集中的に討論された。主要な論点は、第一に東アジアにおける政治的・経済的展望、その日本経済との関係、第二に日本経済の現段階の認識とその「構造改革」の方向性、第三にNTTにみる大リストラと国際競争戦への参入への態度、第四に新自由主義論による公共部門の民有化、銀行と金融システムなどへの基本視点が取りあげられた。
 報告議案を討論に沿って整理・簡潔化して整理し、『労働者の力』に掲載することを確認した。
 労働運動については、中小民間運動における、労組統合の現状とゼネラルユニオン化への展望およびNTT大合理化との闘い、そして郵政民営化との闘いに比重がおかれて討論された。郵政民営化への態度の整理や体制構築の検討が遅れ気味であるとの認識の下に、早急に郵政民営化論に対する反論を整理していくことが確認された。その趣旨は情勢と課題に展開されている。

国際主義労働者全国協議会第十三回総会―政治情勢と課題

小泉内閣と闘う労働運動の高揚を!
 


選挙―
 小泉の勝利と性格

 七月二十九日に行われた参院選挙は小泉と自民党の勝利に終わった。小泉人気に後押しされた自民党は都市部の衰退傾向を一挙に克服し、農村部でも力を発揮し、一人区のほとんどを独占した。自公保連立三党は安定過半数を確保し、小泉はその「改革」へのステップを確保することになった。しかし、株価の失速傾向、デフレスパイラルの恐れに表現される「聖域なき構造改革」への警戒心の高まりが小泉ブームの底流に流れたことも否定できない事実でもあった。投票率の意外な低さに小泉ブームに心底からは乗り切れない有権者意識を見て取ることは誤りではない。
 弱者切捨てすなわち社会福祉の切り下げ、「不良債権」切捨てによる地方銀行や中小企業の経営不安、高失業率に拍車をかける失業とリストラ促進。「犠牲負担」の呼びかけへの懸念に加えるに外交問題の一連のごたごたや靖国問題や外国籍の地方参政権問題への消極姿勢、教科書問題への無対応がしめす外交路線の空虚さと反動性。これらは「ポピュリズム」政治の目玉が早くも底をつき始めつつあることを意味している。
 特殊法人改革などの一連の政策打ち出しは確かに「改革派」としての目玉商品である。これら特殊法人は、中曽根改革の詐欺的行為として温存されてきたものだ。その事実を熟知している小泉が政権の目玉にしようとしたことは、石原が外形標準課税や排ガス規制を目玉にしようとしたことと本質において同じである。
 石原が自民党=国との闘いを標榜したように、小泉は橋本派=守旧派の図式を作り上げることによって自民党離れする有権者の意識をひきつけようとした。この手法は自民党政治がかかえている閉塞感の打破を求める民衆の意識にアピールした。こうした手法を「ポピュリズム」ととりあえずは規定できる。つまり「人気取り政治」や「大衆迎合政治」とも訳されるが、政治権力に接近するための術策、パフォーマンスを表に出しつつ、その陰に隠れて真にねらいとする政策(強権化による民主的抵抗の排除)の実現を図るとするのである。小泉と石原を組み合わせ、そこに「新世紀維新」を実現しようとする政治勢力が陸続と立ち現れてきたところに、民主主義への脅威が示されている。
 だが石原と小泉との間の客観的な位置の差は大きい。つまり石原はその登場時のパフォーマンス以外には、ほとんど誰も石原のやっている、きわめて非民主的に官僚機構、行政権力を徹底して肥大化させていることを知らない。
 だが小泉は茶の間のスターであり、国政は都政とは違ったレベルで報道される。大衆受けをねらう目玉商品を小泉は常に準備しなければならないが、石原は時々でいい。
 しかも、郵政民営化やNTT大合理化が、巨大マスコミの支援を受けたとしても、にもかかわらず全国民的な目玉商品になるとは決していえないのだ。

野党―
 選択肢なき迷路

 小泉ブームに押され、野党は苦戦を余儀なくされた。共産党や社民党に与えた打撃は大きい。また民主党も無党派層が離れた影響は深刻である。民主党は野党第一党の位置を確立したかのように見えるが、その実態が単一政党の体をなしていない事実が選挙戦を通じて明らかになったし、小泉応援団という政治姿勢が有権者の困惑を招き、この党の得体の知れなさを印象づけた。
 共産党、社民党が憲法を取り上げ、平和を主張する論点は、小泉改革ブームの底流を流れた警戒心を投票所へと引き出すまでにはいたらなかった。社民党には経済政策は皆無に等しかったし、共産党の「福祉充実による経済回復」も争点にはならなかった。ほとんど理解されなかったに違いない。両党共に、経済政策については深い政策的限界に直面したと評価せざるを得ない。
 自由党は意外な健闘となった。この党はただ国家主義的小沢節を語ったに過ぎなかったが、語り方、選挙戦のやり方に社民党以上の迫力があったことは事実である。しかし石原的なものとの違いがはっきり打ち出すわけでもなかった。小沢も改革の中身を語らずに選挙戦を切り抜けた。
 要約すれば、野党サイドは「小泉改革」に対抗するビジョンに決定的に不足があった。
 こうして今回の参議院選は、小泉ブームにもかかわらず日本政治の浮遊状況と政治経済的「空白」の持続を明らかにしたのである。

政局―
 小泉と「守旧」派

 小泉をめぐる政界暗闘は靖国問題に始まった。小泉は八月十五日の参拝をとりやめ、十三日参拝という妥協を余儀なくされた。
 自公保三党幹事長はアメリカに続いて中国外交も引き受け、中国外務当局との折衝を行い、中国の出方をうかがったが中国の態度は硬かった。同時に、都議選直後からの野中の動きも活発になった。最初に「ねぎ、しいたけ」問題を取り上げ憂慮の念を表するのとあわせて郵政民営化反対を公然と表明し、ついで靖国問題で、公明党、保守党国会対策委員長をひきつれて訪中し、小泉への牽制球を投げた。公明党が靖国への強硬姿勢をとり始めるのは参院選直後からであるが、その理由はどうあれ野中との連携を疑うことはできない。
 外務大臣である田中は、事実上外交の主軸をはずされている。その最大問題は対中、対米問題にあった。外務当局は日米同盟路線堅持である。外交の主導権=独裁を狙った田中との軋轢は、親中路線的に発言し行動した田中発言を外部に大々的にリークする過程でのっぴきならないものとなった。右翼マスコミは公然と田中罷免を求める動きに等しい行動に出たし、官邸は人事をめぐる主導権確保に動き、最悪では罷免を検討するにいたった。
 内閣の目玉であった田中の失墜は、本人自らが招いた要素も大きいが、日本外交が日米同盟路線の枠組みにとどまり続けるのか否か、すなわち二十一世紀の日本の位置づけをどのようにしていくのかが問われる根本問題を反映したきわめてホットな論点を押し出したのだ。
 「守旧派」の反攻が先制攻勢となり、小泉は妥協を強いられた。野中の「ハト派」姿勢が強調され、経済産業省の平沼らの対中国高姿勢への牽制も強まることになる。その行く末は予断を許さないものだが、少なくとも小泉主導政権の本格的確立には不可欠である衆院解散、総選挙への主導権に蔭りが出たことは間違いない。党内がまとまらず、公明が抵抗し、野党も解散反対を貫くであろう。民主党は都議選、衆議院選の苦い教訓を受け、もはや小泉応援団に立つことはありえない。
 中曽根や石原、さらには右翼マスコミの短期強行突破路線は、その第一ラウンドでつまづいたのである。

外交―
 親米か親中か

 成立当初からブッシュ政権はクリントン時代を消し去るかのごとく、ミサイル防衛構想、京都議定書拒否、朝鮮半島問題、パレスチナ問題への対応を切り替え、イラクに電撃的攻撃を加えた。ミサイル問題が象徴するものは「孤立主義」の傾向である。広大な国土を抱えるアメリカはエネルギー自給策のために原発復活やアラスカ原油開発計画を発表した。ミサイル問題ではロシアとのAMD禁止条約からの一方的脱退は避けられないとの見解を表明した。
 こうしたブッシュ政権の対応は、クリントン時代の諸政策の行き詰まりの上に出てきたもので、基本的にはグローバリゼーション、ニューエコノミー、新自由主義路線の破壊的影響が世界的に容易ならざる反撃を受け始めたことの影響でもある。新世界秩序なる用語はブッシュ政権からはもはや聞かれない。WTOなどへの消極姿勢も際立っている。
 だが、こうした露骨な姿勢は内外からの反撃を導いた。共和党からの脱退者が上院の力関係を変え、EUのアジアへの積極対応が始まり、ロシアの積極姿勢も全面化した。金正日の訪ロはブッシュ政権への牽制である。
 今年に入って明確化しはじめたEUとロシアのアジアへの「復帰」は、太平洋の両岸の相互関係の今後にとって、小さくはない問題である。なによりもユーラシア大陸における東西対立の最後である南北朝鮮問題がアメリカと日本とに委ねられてきた時期の終わりを記すことになっている。
 南北朝鮮問題がユーラシア大陸サイド(EU、ロシア、中国)の主体的努力で解決されるとしたら、海洋サイド(アメリカ、日本)がこうむる外交的打撃は計り知れない。ブッシュや小泉的動きが続くとすれば、こうしたありそうもない仮定が急速に現実化しないとは誰も断言できはしない。
 
経済―
 デフレと調整インフレ


 日米同盟関係が転機にさしかかっている。最大の要因は日本経済の将来展望が開けないところにある。戦後の日本経済の成長はアジアからの資源供給と製品のアメリカへの輸出によって成り立ってきた。もちろんそこには二つの戦争があった。そうした関係がいまはない。
 日本はアメリカ経済から競争相手とされ、国内市場をアメリカに開放することを求められた。NIESの工業的離陸、日本国内の市場開放は、アジアからの低廉な工業製品や食料輸入に道を開いた。日本は東西対立の政治的、軍事的緊張関係からの受益者である時代が終わり、いわば第二のアメリカつまり、市場をアメリカにもアジアにも開放し、それらの製品を受け入れることによって国際経済を維持するという役割へと転換を迫られた。そこに出てきたのが「新自由主義」経済理論の導入である。これは国内の社会関係(雇用関係や福祉政策を含んだ)をアメリカ的、すなわち「自助」社会を展望しようとするものである。
 「自助」の思想とは社会関係改変を貫く基本概念である。社会的相互扶助政策の放棄は、もちろん市場価格の安定的維持や雇用関係の安定が放棄されていくときに必要ないわゆる「セーフティネット」を用意しないことに等しい。自民党政府はバブル崩壊後のゼネコン救済、大銀行救済に膨大な資金をつぎ込み、財政余力を失った。セーフティネット確立どころか、反対に社会保障費用の切り下げや消費税引き上げを必要としている。
 日本経済は「新自由主義」理論の下に、アメリカによって迫られた市場価格維持の放棄、雇用維持の放棄を貫徹しようとすることによって消費性向の下落と低価格競争化に追い込まれた。消費財の低価格化は市場の対外開放がもたらすものであり、アメリカをみるまでもなく低コスト構造にとって不可欠である。低価格製品の安定供給がなければ低廉な労働市場も成立しない。しかしそうした物価下落策がデフレスパイラルに結びついているところに日本経済の構造問題が出現している。
 アメリカでは、大規模の製品輸入による膨大な貿易収支の赤字を、基軸通貨ドルの発行でカバーしつつ、全世界からの資金調達政策でカバーする。だが日本経済は、基軸通貨を持たない。貿易収支の構造的赤字化に日本経済は耐えることができない。さらに全世界的な資本主義的競争に耐える商品的農業生産も持っていない。
 日本社会はこうした変動に耐ええるのか? 
 おそらく激しい社会的緊張を覚悟しなければならないであろうし、いわゆる「不良債権」はデフレスパイラルの下では悪無限的に拡大する。その行きつく先はあまりにも明瞭であるが故に、他の選択肢も同時的に実施の方向にある。景気対策と欺瞞的に称する「調整インフレ」政策である。実質ゼロ金利、あるいはゼロ金利の下での金融緩和とは、いわゆる「買オペ」に等しい、金融機関からその手持ち国債を買い取り、資金を供給する方式の積極化を意味している。
 リストラとデフレの組み合わせ、あるいはリストラとインフレの組み合わせ―どう組み合わせるにせよ論理整合的には行くわけがない―が、いずれにせよ民衆の収奪を目的に行われるし、民衆からの収奪によって大銀行やゼネコンを救済しようとするものだ。そこでは経済的不均衡はさらに加速されるだけである。

政策―
 銀行そして郵政民営化

 要約すれば、小泉の下に、大銀行を防衛することに絞り込まれた政治が展開されている。不良債権の一挙的解消も、公的資金の投入論も根は同じである。郵政民営化論はすなわち、貯金・簡保資金の民間金融機関への移行をねらいとするものにほかならない。
 ではここで問わねばならない。大銀行は「国民=国家」の総力をあげても「守らなければならないものなのか」と。
 大銀行とは、三菱であり、三井であり、住友、安田(=富士)などの旧財閥銀行である。こうした財閥銀行を、民衆から資金を搾り取って救わなければならない理由はどこにあるのか。二つの大きな政府系金融機関は、国家資金を膨大に投入して再建された上で、すでに民間資本に信じられないほどの低価格で売却された。そしてその上に民間資本である大銀行を救済するわけである。
 しかし大銀行を支え、それを通じて国家資金を投入する必要がなければ、公的資金は直接にそれを必要とする産業的、商業的部門に低廉な金利(今は実質ゼロ金利である)で供給できる。
 公的金融機関を大幅に充実させ、大銀行救済に代替させる。民間大銀行は自力で事態を切り抜けなければならない。結果として破綻する大銀行が出てくる場合は当然、これまでのように国家の管理下に置かれる。ただしそれは安く民間資本に払い下げるためのものであってはならない。公的信用供給を充実させる用途に向けられなければならないのである。
 繰り返すが、銀行救済が問題の要ではない。「金融システムの安定」が宮沢財政の柱であったが、それを事実と認めるにしても、銀行を救済し、それを通じて産業的、商業的活動を支え、回復させる必要性はない。国家が直接に金融システムを保障すべきなのである。大銀行は自己の能力をフルに活用して、「市場において公的資金との競争」を行えばいいのだ。
 小泉の「民間にできるものは民間に」とは、八〇年代以降経済界において言を大にして語られた言い方である。
 しかし、バブル崩壊以降の現実は「民間ではできない」ことを示している。ゼネコンも大銀行も「民間ではできない」ことの証明なのだ。住専に走ったのが大銀行であれば、土地投機に走ったのも大銀行であり民間企業である。
 もはや「民間」は自力では信用維持も金融システムの維持もできない。民間でできるのならば過去においてもこれからも公的資金投入などの話が出るわけはない。こうした状況が全般化してしまっている今日、小泉のすべてを民営化へとは、現在の事態をさらに泥沼化させることである。また二つの政府系銀行に金をつぎ込んだ上に捨て値で売り渡した愚を繰り返すことにほかならない、公共資産を二束三文で民間資本に売り渡すことを意味する。
 もちろん、公的機関を通じた「信用の供給」においては、民衆による民主的な監査および管理が求められる。公的機関が不断に倫理的堕落を示すのは世の東西を問わず真理である。現状の公的機関の「殿様商売」「悪代官的あり方」の現状があるからこそ、労働者や市民の監視、監査、管理が闘いとられるべきである。
 以上の観点は、したがって小泉が目玉にしようとしている「郵政事業の民営化」とは真っ向から衝突する。われわれは「郵政事業の民主化」を求めるのだ。そして小泉が公共部門のほとんどを民営化するという政策も「民主化」の観点から検討されるべきである。
 ちなみに第四インターナショナルイギリス支部機関紙は最近号において、ブレアの民営化論に対して次のようなスローガンを紹介している。
「Keep private hands off our public services」
 われわれの公共サービスに私有化の策動を近づけるな。
 
展望―
 アジアと日本

 日本経済は、みずからもアジア太平洋地域におけるグローバリゼーション化を進めている。消費財や水産、農業生産物などの組織生産が輸出され、その本国還流が拡大した。アジア諸国との生産財、消費財の貿易関係は半端なものではない。アジアと日本の経済構造として有機的結びつきは拡大しており、逆行は不可能である。
 他方、日本資本は多国籍化を深めつつ、自動車部門やIT部門において世界的競争戦に直面している。グローバリゼーションは資本の加速度的な集中を伴っている。巨大多国籍資本間の競争は、同時に言語矛盾ではあるが、ナショナルな利害の衝突とも重なっている。産業社会の将来を制するというべきIT部門の掌握はすなわち情報操作権の掌握と関係する。ゆえにこの分野の多国籍資本による集中化がナショナル政府とのあつれきを招く。EU各国政府が通信部門会社の国家的掌握力をめぐって公然と表面に出ているのは周知の事実である。
 多国籍資本相互の競争は、世界的なリージョン(地域)間の競争をも生み出している。巨大なアメリカが南北アメリカを自由貿易圏として傘下に収めつつあり、太平洋地域も自己の勢力圏に押さえこもうとしつづけている。EUは地域の東方への拡大を進め、ロシアと中国はアジア大陸に協力圏を作ろうとしている。
 旧海洋帝国のイギリスは、大西洋(英米同盟)と大陸の間を揺れ動き、日本はアメリカとアジアの間の揺らぎに直面しているのである。アメリカには日米同盟を英米同盟レベルに引き上げ、そこで日本の軍事的役割を引き上げつつ、日本をつなぎ止めようとする見解がある。これが小沢の「普通の国家論」とつながるのかもしれないが、それは未だ鮮明ではない。
 東アジアとの関係において、日本はもちろんナイーブにならざるを得ない。戦前帝国主義の下に、韓国を併合し、中国大陸を侵略し、それをアジア地域全体へと拡大した近代日本の歴史において、一方に開き直る傾向があり、他方にいまさら協力は言い出せないとする屈折した心理もある。
 しかしアジア民衆に謝罪し、アジアの将来展望の枠組みに日本の位置をも考慮するように求めることが必要なのである。そしてその具体化こそが、日本近代史上の大転換を意味する。
 この容易ならざる課題は、明治国家以来の思考方法からの最終的転換を求める。歴史的には明治国家の象徴である靖国は解体される運命にある。その歴史圧力への抵抗の最後的あがきが小泉や石原に表現されているのである。
 もちろんそれは経済的、政治的大転換であるからこそ、すぐには東アジア経済協力機構(と仮説する)の考え方がでてこない。東アジアの関係は軍事的にのみ考えられるのではなく、本来的には経済的関係として考えられなければならないのであるが、戦後経済関係からの発想法からの転換は極度に難しい。
 しかし、孤立国家主義の発想は、東アジアにおける日本経済の位置を弱める。熾烈な国際的競争戦をアメリカと闘わなければならない日本資本にとっては、東アジア市場との協力関係を持たなければ、その展望は見えてこない。歴史趨勢は日本経済の東アジア経済への融合に動かざるを得ない。が、上述したように現時点で抽象的にとどまるのはそれなりの根拠がある。そのことが左派サイドの政治的弱さの根拠である。
 もちろんそれは野党だけの問題ではない。国民性というべき一国主義がある。少なくとも、現時点での日本の対応には内的分裂あるいは矛盾が含まれている。大陸との切断的思考で動いてきた政治と、大陸との結合を深める経済的方向性が整合性をもっていないのである。少なくとも政府部内には日本経済の将来像をアメリカとの結合ではなく、アジアの中に見出そうとする人は今は皆無に等しい。
 そこに日本資本の一国主義的発想の下で、単独での国際競争戦に打って出ようとする発想法も生まれてくる。例としてNTTが典型である。「新しい歴史教科書」運動にNTTは賛同している。アジアの視野がここには全くない。このこと自体が労働者によって弾劾されなければならないことなのだ。

 巨大国家アメリカの戦略を背景とする競合資本との延々と続く競争戦に勝ち抜くことは難しい。不可能とはいわないが、あるとしても部分的である。自動車産業と同じく、世界市場において「負けない」こと、あるいは地域的に並存することをねらう必要が出てくるであろう。その地域とはNTTにとってはアジアとなる。
 とはいっても、そういうことが仮に現実化してくるときに、NTTという個別資本がリージョンにおいて優位性を発揮することに自動的になるわけではない。ちょうど、アジアの経済共同体が現実化するとした場合に、それが「円ブロック」になるわけではないように。
 しかし、にもかかわらず、ここでも問題はアジア地域での連携ということにもどってくるのである。
 
課題―
 グローバリゼーションと抵抗

 国際的で巨大な資本の集中は、まさに独禁法の趣旨に反するが、新自由主義のグローバリゼーションによって奨励されている。民衆のはるかに手の届かないところでの独占事業の発展は、どこからも規制されない金融取引とおなじく、民主主義的社会の発展にとって有害である。
 われわれは巨大資本の集中に反対するが、同時にその国際的規制も必要と考える。グローバリゼーション化への規制要求は民主主義のための要求であり、民衆による管理の要求である。現在、確かに民衆側に決め手となる手段がいまだ見つかっていないが、多国籍資本の行動に対する民衆運動の国際化が形成し始めたのである。これは歴史的運動の波の始まりを刻印するかもしれない始まりである。
 多国籍大企業の発展は、国境を越えた不断の労働コスト切り下げがねらいであり、いわば世界規模での巨大な渡り鳥企業の発展だ。NAFTAにたいしてアメリカ労働組合は、当然にも国境を越える組織活動を余儀なくされた。そしてその活動も十分なものとはいえないだろう。巨大資本の国際性に比べれば労働組合の力量ははるかに及ばない。
 だが、それでも巨大独占体を国際的に規制しようとするのでなければ、多国籍企業における労働組合の位置はゼロに等しくなる。あるいは企業活動を補完する企業連組合に転落してしまう。
 NTTが大リストラを貫徹しつつ、世界市場において多国籍化し、企業間競争に勝ち抜こうとすることは、一方では資本の論理の貫徹であるが、他方では労働コストの世界的切り下げ競争に拍車をかけることになる。大多国籍資本の競争が労働力の価格の際限なき切り下げ、雇用の切りつめという結果となり、社会の荒廃を導く。どこかで食い止めなければならない。その役割がリストラと闘う労働者の任務である。
 NTT労組は企業を支えるものへとその役割を変えている。そのことは企業活動を国際的にも国内的にもチェックし、規制しようとする新しい労働組合活動の基盤が拡大されてくることを同時に意味する。労組の規制力回復を全労働者に呼びかけ、グローバリゼーション化の積極導入がもたらしているリストラ政治、リストラ経営、その結果としての社会的荒廃の進行を打破することを訴えつつ、その先頭に立つことを表明しなければならない。
 国際連帯、国際的労組の組織化がはじめて本格的に求められる時代の始まりである。
 
闘い―
 鍵は労働者のエネルギー


 要約すればわれわれは第一に、世界的にアメリカによる「新秩序形成」が見えず、EUやロシア、あるいは中国が世界的諸問題への発言力を強めはじめたこと、第二に、戦後の日本経済を支えてきた諸関係が変化し、日本は日米同盟を続けていくのか、あるいはアジア諸国との関係強化、すなわちアジアにおける経済(政治)共同体の方向へと歴史的舵を切るのかが問われていることである。そして第三に結論として、アジアとの協調という必然的な歴史的変化に対応した政治的、経済的枠組みをもつ政治勢力が登場しなければならず、それがポピュリズム的混迷を突破するポイントであると主張する。
 すでに述べてきたように、経済的将来像を描くにおいては日本の論者はほとんど一国主義である。循環型、反成長主義などの諸論には傾聴すべき点が少なくはないけれども、いづれも戦後型経済構造がアメリカとアジアとの相互関係で成立してきたこと、今はその条件が失われたことを重点に置いて検討してはいない。
 そして、銀行の国家管理とか、公的金融の強化、あるいは解雇乱用の規制や失業救済事業への踏みだしなどに言及する人がいないのは、ソ連邦崩壊という時勢を思えばいくらかは理解できるが、しかしそれも程度の問題である。
 政府が進めている雇用対策はヘルパー労働の実態が示しているように、ほとんどは最低賃金に毛が生えた程度の給与水準である。その上に日経連は最低賃金制度の廃止を求めているのである。
 政治的・社会的運動のダイナミズムは、マクドナルド労働化の全社会的拡大に直撃されつつある労働者層の参加なしには不可能である。労働運動の活性化を最大の闘いの目標として闘わなければならない。それが小泉・石原に対抗しようとし、政治的動力をつくり出そうとする諸方面の懸命の努力を結実させていく決め手ともなるのだ。
        


    復権する陳独秀の後期思想

          佐々木 力氏にインタビュー(下)                                                                  

 

前号の内容
 中国トロツキズムに光が当てられ始めた!
 次の道の模索
今号の内容
 プロレタリア民主主義の新思考
 陳独秀は最後までトロツキストだった
 新しい人民中国の探照灯
  
プロレタリア民主主義の「新思考」

―どのような点が明らかになったと思いますか?
 第一の点については、一九二七年の第二次中国革命敗北の責任をとって総書記辞任後の、責任の自己探求に光があてられました。その時読んだ文献が、モスクワの中国人留学生がもたらしたトロツキーの議論です。当時のモスクワの中国人留学生の中でのトロツキーの影響は相当の広がりを持っていました。今回初めて知ったのですが、当時モスクワにいて、その後長い間ソ連に留めおかれた蒋経国(注1)もトロツキーのシンパだったらしい。これらの留学生が訳したトロツキーの文献、『レーニン死後の第三インターナショナル』(注2)よりは以前に執筆された文献のようですが、それらを陳独秀は読んだ。そして以前から自己の見解がトロツキーのものに近かったということを悟ります。研究会の中ではもちろん、第二次中国革命の敗北がコミンテルンのスターリン・ブハーリン指導によって押しつけられたものであることは前提になっていました。さてその上で彼は自分の革命論を再度固めて、今度は一九二九年に、『共産党の全党の同志諸君に捧ぐ』という書簡を書くわけです。これはコミンテルン指導の根本的誤りと自分の指導の誤りがどこに起源するかを示したもので、大変に大きなインパクトを与えるわけです。これは本当に多くの人々に読まれたと思われ、党内部でもかなり議論したようです。しかしこの頃はスターリンが自分の体制を固めつつあった時期で、結局は陳独秀を中国共産党から追放することになりました。
 次の論点は、陳独秀のプロレタリア独裁論でした。ここではまず、彼の抗日戦争論が取りあげられました。彼は、国民政府の獄に五年間閉じこめられた後、日中戦争が激化した時期の一九三七年、第二次国共合作成立にともなって釈放されます。それ以降、彼は「蒋介石の国民党と毛沢東指導下の共産党が一緒に抗日戦争を闘うことが明らかである以上、ともかくこの戦争は一緒に闘って日本帝国主義に勝たなくてはだめだ。それがないかぎり中国の未来もない」との立場をとります。その立場で彼は中国共産党との統一戦線の交渉にも入った。この経過を中国共産党への復党交渉とする観点は誤った歴史解釈で、事実ははっきりと統一戦線のための交渉です。
 この点で彼は他のトロツキー派、すなわち、彭述之(ほうじゅつし。ペン・シュージ)を中心とするグループと袂を分かちます。彭らのグループは上海を拠点に、トロツキー派独自の労働者工作と機関紙活動を活動の中心にすることにこだわっていました。
 抗日戦争のための陳独秀の統一戦線工作は、スターリン派の王明(注3)による猛反対と漢奸キャンペーンを伴う妨害、また毛沢東の統一戦線に対する一知半解によって結局日の目を見ませんでした。それならば彼は、上海に合流すべきであったという考え方をする人もいるかと思いますが、しかし彼のような大物が日本軍占領下の上海で活動することはまず不可能だったと思います。四川省に移ってからも彼には、蒋介石の監視がちゃんとついていたわけです。
 一九三七年、日中戦争の勃発と同時にトロツキーは声明を出します。七月三十日、「中国と日本」という題で、新聞記者に対する回答ですが、英語で残っています。この中で、「いまプロレタリアートに要求されることは、蒋介石と中国共産党の統一戦線に基づく抗日戦争である。これは正義の戦争である」。こういうことまでトロツキーは言っています。そうしますと、トロツキーの見解を知らなかった陳独秀と、他の中国トロツキー派を比べた場合、陳独秀が一番トロツキーに近かったわけで、それが次第にわかってきました。
 彼は一九四二年五月二七日に心臓病で亡くなりますが、その間にいくつかの文章を遺しています。特にモスクワ裁判だとか、一九三九年の独ソ不可侵条約を目撃してからは極めて原理的なスターリン批判をやっています。
 このあたりが特に現代にひきつけて焦点が合わされた論点でした。
 
―晩年の民主主義論というと、陳独秀がトロツキー派を去ったという通説とも係わる点でもありますが。
 いま紹介した陳独秀のスターリン批判は、トロツキー派としてやっています。たとえば『私の基本的考え方』(我的根本意見。十九四十年十一月二十八日)で陳独秀は「民主主義のないプロレタリア独裁論などというのは、マルクス主義、あるいは社会主義にとって望ましい独裁論にとってはまったく無益だ」と主張しています。これは彼がトロツキー派であったということと、ともかくも一九一五年(注4)から当時までで二五年間も中国民主主義の唱道者であったことの当然の帰結だと思われます。最近出た韓国人の陳独秀研究者のある論文では、「これはトロツキー派の議論ではない」と言っていますが、私はそれはおかしい解釈だと思います。トロツキー派の議論を知らないように思われます。
 ただし、先の批判で陳独秀はレーニンの党組織論も問題にしています。これは
大いに議論になる点でしょう。
 陳独秀の主張では、社会主義は、全人民の民主主義を貫徹する中で経済的ファクターを重視する、という点で大きな意味をもってくる、という考え方です。つまりとにかくもプロレタリアートの独裁というものは、プロレタリアートの民主主義がなければだめであって、それをもって階級性を無くして行く全民民主主義貫徹のための、過渡期社会において意味をもつものだ。こういう民主主義論を展開しています。
 これをどう評価するかですが、トロツキー派として当然出てくる考え方だと言う人がいます。あるいは「労働者国家擁護」という考え方を捨てるものではないかと考える人もいます。それから陳独秀は別に独自で構わないという議論もあります。
 私としては、彼はブルジョア民主主義を擁護しているわけではないのであって、プロレタリア民主主義の内容を固める上で大いに議論の材料になると評価します。これに対して唐宝林氏は、「トロツキーをも越える民主主義論」ということを言っていました。
 
 陳独秀は最後までトロツキストだった!
 
―そうしますと、陳独秀の思想はトロツキズムの中にあったということですか。

 そこが第三番目の論題でした。彼がトロツキー派を離れたということは、第四インターナショナルの文書においても定説化されていました。例をあげれば、創立大会の宣言からそのことははじまっています。
 ところがその宣言が出たとき(一九三八年九月三〇日)からほぼ二ヶ月後、実は陳独秀はトロツキー宛に手紙を書いています(三八年十一月三日)。おそらくは南アフリカから中国に来ていたジャーナリストの李福仁(フランク・グラス)の英訳によると思われます(注5)。
 その中で陳独秀は、「抗日戦争に関するトロツキー派の姿勢はまったく極左セクト主義であり、何の実効も持たない極めて危険な傾向である」と言っています。そして第四インターナショナルの建設をもう知っていたのでしょう、「中国における第四国際(注6)の威信を傷つける」と言っているわけです。もし陳独秀がトロツキー派を離れているのであれば、こういう言い方はしないはずです。
 ところがさらに、トロツキーはそれにフランク・グラス宛で返事をしたためているわけです(三九年三月一日付)(注7)。この中でトロツキーは、「自分は中国事情にそんなに明るくはないが、ともかく陳独秀が政治的に健全で、自分たちの友人でいることは大変にうれしい。」また「彼の書いていることは本質的に、自分には正しいように思える」と書いているわけです。だから、他の中国トロツキストとの比較で、トロツキーに近かったのはむしろ陳独秀だったと思います。文献的にはそのように位置づけられます。
 陳独秀は亡くなる直前の一九四二年五月十三日に『被抑圧民族の前途』というエッセーを書き遺していまして、ここでははっきりと反帝国主義的でマルクス主義的な議論を展開しています。鄭超麟は晩年に、さきほどのトロツキー宛書簡と、このエッセーから言って、陳独秀が最後までトロツキー派であったことがはっきりと位置づけられている、と述べていますが、私はそれが適当な言葉だったと思います。今回の参加者のほとんどもこの点に肯定的でした。
 それではどうしてこれまでのような通説がまかり通ることになったのか、です。ここには上海派の中心である彭述之の役割が大きかったことはほぼ間違いありません。第四インターナショナルに対する中国トロツキストの発信は、ほとんど彭述之を中心にしていたのです。
 
 新しい人民中国の探照灯
 
―このような議論を熱心にやる中国の人々の、現代にひきつけた問題意識について、感じることはありましたか。

 それはさきほどの民主主義に関する議論の中に現れていました。陳独秀は歴史上の人物として重要なだけではないことは、彼の研究が天安門以降に熱が入っていることに明白です。
 必ずしも確実であるとはいえませんが、ケ小平が市場経済への転換時期に、自分の権威として毛沢東よりも陳独秀を参考にしている可能性もあるようです(注8)。ケ小平が毛沢東主義者であり、陳独秀の思想とは異なることは間違いないわけですが、路線転換に陳独秀が一定の関連をもっていることは確かみたいですね。
 南京大学の政治学教授が実に大胆な発言をしていました。「今までの中国というのは、農民的、軍隊的命令でやっていた階級分析、階級支配の時代なんだ。これからは、陳独秀の民主主義論、プロレタリア民主主義論に基づいた中国の建設をやらなければだめだ」と熱心に言うわけです。
 これが最近の陳独秀研究者の想いを実に的確に象徴する、と私は思います。必ずしもトロツキー派ということではなしに、陳独秀の晩年の思想によってむしろ、中国社会とか、またトロツキー派の思想とかを考えて行く人が出てきていることがわかります。
 
―それは現実に中国社会に起きていることとも関係あると思いますか。

 上海で、日本・中国経済の専門家と話したんですが、たとえば市場経済の評価うんぬんではなしに、今の中国経済で恐慌は起こりますかと聞いたのです。すると五分ほど考えていましたが、はっきり起こりますと答えるんですね。市場経済は、国家的な全体的計画経済をはみだして、自立化の道を歩んでいるということだと思います。この中で、やはり反対派の動きというものは、はっきりと表に立っている政治活動があるかどうかは別にして、相当広範にあると思っていいと思います。ともかくこれを一体どうしたものかと、党の内部からも考えて、陳独秀を熱心に、それこそ自分のこととして考えだしているといっていいと思います。
 今までの人民中国は、いわば反帝民族国家です。私との議論の中では、中国のことを誰も、マルクス主義の正しい理論による社会主義国家だと思っていないことがわかっています。
 一言でいうと今までの中国社会は、毛沢東を建国の師とし、ケ小平を開国の師としてきましたが、それ以降の民主主義、社会主義が求められていると思います。
 その中での陳独秀に対する、しかも後期思想までに至る探求が進んでいることに、重大な意味があります。
 
―貴重な時間をとっていただきました。どうもありがとうございました。

(インタビューをもとに編集部の責任で文章化した。見出しも同じ。)

注1。蒋介石の長男。前夫人との間に生まれる。養育は前夫人が責任を持ちほとんど蒋介石は関係しなかった。成年に達し、蒋介石とは関係なくソ連留学(中山大学)を行い、その過程でトロツキー派の左翼反対派に接近。いわゆる第一期の中国トロツキスト世代に属する。一九二七年秋のロシア革命一〇周年においてトロツキー派の街頭デモンストレーションに加わった第一期世代の中心が中国に送還された後、二八年にトロツキーから離れる。その後、スターリン派の監視の下にソ連出国を許されず、各所を転々としつつ苦難の生活を送る。三七年の第二次国共合作に至り、帰国を許可される。その後は蒋介石の国民政府に属し、父とともに台湾に逃れ、父の死後国民党総裁となる。一党独裁を止め、多党制による議会制民主主義への転換を行った。この経国の政治的踏切の背景に、二〇年代左翼反対派の影響の名残を見いだすことは不可能ではあるまい。


注2。『レーニン死後の第三インターナショナル』は、コミンテルン第六回大会に提出されたブハーリン起草の綱領草案を批判し、「対案」としてトロツキーによって提出されたもの。コミンテルン第六回大会は一九二八年に開かれたが、トロツキーの「対案」は公的場から隠匿された。全世界から集まった代議員たちの抗議により、この文書は限られた一部代議員が閲覧するところとなった。アメリカ共産党の代議員であったキャノンが密かにメモをし、国外に持ち出して公表した。中国共産党のコミンテルン第六回大会代議員は、その直前にモスクワで開かれた中国共産党第六回大会に参加した代議員の中から選出された。瞿秋白がロシア語ができるので文書閲覧に参加し、中国代議員に趣旨を説明したようである。陳独秀がこの文書に接したのは比較的後で、トロツキストへの転換が完了した後らしい。陳独秀にトロツキーの数々の文書を提供したのはやはり第一次中国トロツキストの世代で、一九二九年の春ごろである。これらの文書の検討を通じて、陳独秀派のトロツキスト派への急速な移行が開始された。


注3。王明。本名陳紹禹。安徽省の人。ソ連留学中にスターリン派の中国問題担当のミフのお気に入りとなり、以降一貫してスターリン派の代弁者として行動。中国人留学生の内部での粛正活動の先頭に立ち、瞿秋白系統(江浙同好会)やトロツキストへの攻撃を重ねる。三〇年春に帰国し、「二八・五人のボルシェビキ」とともにミフの支援を受けて李立三を放逐し、党の実権を掌握する。その後モスクワに戻り、代理人の博古(秦邦憲)や洛甫(張聞天)らを通じて、党の全体的粛正と実権の完全な掌握をめざしたが、「実力派」である毛沢東を完全には押さえ込めないままに、洛甫らが毛沢東との連携に走り、反対に毛沢東の実権掌握を許してしまう。
 三七年の第二次国共合作後に帰国し、反ファショ統一戦線路線の中国における代弁者として行動する。この頃を王・毛の両頭並立時期ともいう。王明が延安に着陸した後最初に行ったことは陳独秀との協調に動いていた党中央を叱責、恫喝することであった。次いで「問題児」の張国壽派粛正を毛沢東に協力し、重慶に移る。重慶において王明は「すべてを統一戦線のもとに」のスローガンで「君臨」する。だが王明は、党の実権とはすなわちモスクワの支持にあるという時代は過ぎ去りつつあるというリアルな認識を持たなかった。他方毛沢東は、実権は軍にあるというプラグマティズムを黙々と貫徹していた。八路軍を徹底的に改変し、周恩来や張国壽系列を解体し、毛派軍への再編を進めた。毛の潜在的脅威であった新四軍の項英が戦死した後に毛を制御する要素は影を潜め、周恩来と王明は延安に引き戻され、周は屈服し、王明は実権を失う。以降の王明は毛沢東のスターリンへの配慮の象徴として中央委員会には残されるが、最後的にはモスクワに戻る。ここで王明は中国共産党「分派」を組織し、文革期の毛沢東批判を続けるが、延安時代に毛沢東によって仕組まれた(と王明は主張する)「薬殺」策略の後遺症で死亡する。


注4。陳独秀は、長江派といわれる上海、南京、武漢の長江すなわち揚子江系列(非孫文派)の革命派に属し、出生地の安徽省において辛亥革命を闘った。袁世凱の弾圧を辛うじて逃れた独秀は上海において『青年雑誌』を創刊する。これが『新青年』の始まりであり、独秀の名を全国化するものとなると同時に後の五・四運動を準備した。一九一五年とは『青年雑誌』の創刊の年である。
注5。当該の陳独秀書簡の英訳は現在、アメリカのスタンフォード大学のフーバーインスティテューションに納められている。
注6。インターナショナルを中国語表記にすれば「国際」となる。第三国際、あるいは共産国際はそれぞれ第三インターナショナル、コミンテルンとなる。
注7。原文はハーバード大学の有名なトロツキー文庫に納められている。
注8。ケ小平はフランス勤工倹学組だが、その先輩や同僚には中国共産党の中枢をになうことになる活動家が綺羅星のごとくいる。少し経路が違うが周恩来も入るし、朱徳もドイツで周恩来に入党を許可されている。この中に鄭超麟がいる。鄭超麟は後に上海でケ小平の最初の結婚式に招待されているが、いわばケ小平の兄貴株である。鄭超麟らの中国トロツキストが、胡耀邦時代に釈放されることになる背景には、ケ小平と鄭超麟との関係があるだろう。
(以上編集部)

 委任なき政府―イギリス総選挙と左派
               
アラン・ソーネット                  
―ブレアの新労働党は途方もない非民主的選挙制度によって、六月総選挙での「地滑り」的勝利を得た―

 労働党の得票率は四二%、有権者の二五%から支持を得たにすぎなかった。投票率は一九一八年以来の最低となる五九%。選挙人名簿に登録した者の四一%が棄権したわけだが、他に統計には現れない、名簿に載っていない多くの人々がいる。こうして今回の選挙では、投票年齢に達した人々の、多分僅か二〇%に満たない人々が新労働党に投票したにすぎない。
 一九九七年の選挙に比べ、労働者の票はおよそ三百万が労働党を去った。それでも「地滑り」といわれる。合理的に考えれば、政府を形成すること以外、どんな委任もなされたわけではないということだ。しかしイギリスの制度の下では彼は、一九八〇年代のサッチャー以来のもっとも強力な首相ということになる。
 このような結果は、労働党の選出基盤をイングランド中央部へと移すことでもたらされた。ブレアの政府は、以前のどんな労働党政府よりも、労働者階級からは少ない投票、イングランド中央部の中流階級からはより多い投票を基に選出されたのだ。最大の棄権は、労働党の伝統的は固い支持者の中に起きた。
 その結果が、巨大な中流階級の投票に基礎をおく政府だった。それは、イギリス資本中軸をますます代表しつつある。新労働党は、イギリス政治の中心に植民し、保守党をそこから狩りだし、溶解寸前まで追い込む、一つの仮住まいとなっている。
 保守党は確実により弱体化するだろう。ヘイグは既に辞任し、既にはじまった党首選びはEUに関する歴史的分裂によって漂流している。ブレアは前議会でほとんど抵抗を受けなかったが、今度は議会対策ではもっとはるかに楽だろう。
 ブレアの第U期は第T期よりもはるかに反動的となりつつある。新労働党はヨーロッパ社民の急進的右派を代表し、新自由主義のグローバリゼーションを目標とする唱道者となっている。
 公共部門への新たな攻撃が、もう幾つかの細部まで詳細が明らかになりつつある。健康、教育、運輸などの主要なサービスが、どんなイデオロギー的束縛もなしに再構築されるべき、とされている。
 これらすべてはもちろん、徹底的にイデオロギッシュに遂行されるはずだ。そのイデオロギーが、まさに「市場」と呼ばれるものだ。
 新政府の直面するもっとも困難な課題は、単一通貨、ユーロの問題かもしれない。選挙期間中ブレアは、ユーロ加入条件を語り始めたものの、今やアイルランドが国民投票でニース条約を拒絶したという現実がある。新労働党は加入時期で割れている。その一方でイギリス資本の有力な一部は、可能な限り早くユーロに加入するため選挙の果実を使うよう、新政府に期待している。
 
 社会主義のオルタナティブ
 
 ところで左翼は選挙で何を達成したのか。
 ブレア主義へのオルタナティブを建設する展望とはどういうものか。
 明白なことが一つある。すなわち、今回の選挙に社会主義者同盟として介入する決定が、運動、結果双方において結果を出した、ということだ。この介入の緊急性は、新労働党の左に政治的空白ができたことにより切実なものとなった。この空白は、不満を抱いた労働党員と支持者が放置されていることを意味した。この空白は埋められなければならず、それはまさに社会主義者同盟によって果たされなければならなかった。
 抗議の票は必然的に、棄権(最大部分)と自民党(歴史的にはイギリス資本の第二番手のパートナーでありながら、今では労働党の左にうまく収まっていた)、そして左翼的キャンペーンを行った緑の党、さらに二つの社会主義のオルタナティブの間で分割された。最後の二者が、社会主義者同盟(SA)と、アーサー・スカーギルの社会主義労働党(SLP)だ。これらの中で、自民党が実際に投票された票の最大部分を吸収し、議会での前進を果たした。
 緑の党は、彼らの立候補した百四十五の選挙区で平均二・二五%を得票し、総選挙での過去最高の成果を得た。彼らの選挙運動は主張も活動も弱いものだったが、これだけの成果を達成したのだった。
 左翼に限れば、最大の成果はスコットランド社会党(SSP)の得た結果である。SSPは五月に社会主義労働者党とスコットランドでの合併を果たし、スコットランドの社会主義組織を結合した最初のものとして選挙戦に参加した。SSPは七二の全スコットランド選挙区で平均三・一%を得票した。総得票数は七二五〇〇票となり、十選挙区で供託金没収を免れた(すなわち五%以上)。この結果によりSSPはスコットランド議会の次回選挙でより多くの議席を得る可能性を得た(この選挙は比例代表制)。上記の成果は、ただスコットランドにおいてだけでなくイギリス全体においても、社会主義派の刷新を進める上で大きな一歩が印されたことを意味する。SSPは依然として後に続くべきモデルである。
 
 分裂
 
 イングランドとウエールズでの社会主義派への票は以下の二つの党の間で割れた。一つは今回初めて立候補した社会主義者同盟(SA)、もう一つは前回(九七年)も立候補したSLPである。SAはSLPより得票したもののその差はほとんどない。SAはイングランドの九三選挙区に立候補し、総計五五六三五票、平均一・七五%の得票となった。
 SLPは、百四の選挙区(イングランド)に立候補し五四八八〇票。これは、一選挙区平均で、SAが五九八票、SLPが五〇四票であったことを意味する。ウエールズでのSAは、六選挙区に立候補し、平均三七六票でありイングランドより低い得票だった。
 これら全体が意味することは次のことである。すなわち、戦後のイギリス議会選挙では比類のないことだが、SSPを含む極左候補者に一八万票が投じられたということである。しかし依然一つの問題、「分裂」が残っている。選挙に向けた急造ではあったが、SAにより注目すべき統一が達成された。にもかかわらず、イングランドとウエールズでは、左翼が分裂していると見られた。そしてSLPは、いかなる統一の申し出も拒絶している。
 今回SLPは、アーサー・スカーギルがブレア派に対抗して立候補したハートルプール以外では、大した運動はしなかった。この選挙期間中、彼らは二〜三〇〇人にまで減少してしまった。今や彼らは、以前の選挙で得た知名度とスカーギルの名声と力に依存している。
 SAは、彼らの出たほとんどすべての選挙区で注目すべき運動を展開し、はっきりした姿をアピールした。ほとんどの選挙区で大衆集会、宣伝集会がもたれ、数百万部のリーフレットが手渡しされた。SAの実際の得票は、SAの活動家のある者にとっては期待を下回るものだった。しかしそれは客観的に評価されなければならない。
 今回は、ロンドン以外で立候補した初めての試みだった。そしてその成績は、SSPが初めて選挙に挑戦した時と同じなのだ。さらにこの成績は、一九五〇年に一〇〇選挙区に立候補したときの共産党の成績以上であり、戦後を通じて極左の最良の成績だったのだ。
 一方SAは、労働党左派が劇的に衰退し、選挙中どんな明確な姿も見せなくなったまさにその時に、数百万の人々に向けて社会主義の考え方を届けた。
 選挙結果は、社会主義のオルタナティブを探し求め、それを選挙で示す用意のある少数派の存在、それがいっそう増大していることを明確に示し、SAを政治的に目に見える存在とし、選挙運動後も生き続ける組織へと前進させた。
 多くの労働組合左派は、SAに直接対応する形で統一を議論している。消防士組合は、労働党への対立候補へも寄金を可能とするように規約を改訂した最初の労働組合となった。これらの課題を議論するため、SAは秋に労働組合の会議をもつことを決定した。
 SAは明らかに、運動から学び、その強さと弱点を評価する必要がある。外見的にはわれわれは十分環境派だったとはいえない。それが重大な課題だからというだけではなく、その問題を解決することなく緑の党の挑戦と対抗することのないようにするためにも、われわれは上記の問題を直視すべきである。
 
 権威筋は
 
 われわれの選挙結果について権威筋では、ESRC(選挙・社会動向調査センター)の副代表、ジョン・カーチスが言及した。
 「労働党の支持率は、最も圧倒的な労働者階級地盤のところで平均四%低下した。‥‥これらの得票のいくつかは、極左の党に前代未聞のスケールで負けたようにみえる。‥‥極左の立場に立つ党の行動により、労働党はおそらく、その左に競合者が登場するリスクを犯すことなく右傾化できる限界に達したと思われる」
 それ故バランスシートは極めて肯定的だ。
(インターナショナル・ビューポイント誌6月号)

新しい政治的枠組み?
 イタリア総選挙が生み出したもの
 
リヴィオ・マイタン


 
―二〇〇一年五月十三日のイタリア総選挙で、シルビオ・ベルルスコーニが勝利しそうだという予測は、ヨーロッパ各国の政治サークルや影響力のある報道機関の中にかなり活発な反応を引き起こした。それは二つの懸念を表現している。一つは、極度の経済的支配力を持つものが手にすることになる政治権力の使用目的である。第二は、ベルルスコーニ派以外のウンベルト・ボッシの北部同盟のような右翼ポピュリストの党やネオ・ファシストの後継党である国民同盟を含む連合(中道右派連合−編集部)が、半島の民主的制度に対して意味することになる脅威である―
 
 これらと同じ懸念が、選挙に際して与党の中道左派連合―オリーブの木―によって利用された。彼らはそれにより、過去数年次々に継承されてきたブローデイ、ダレーマ、アマート各政府の失望をもたらしただけの結果をひとまず棚に上げ、彼らを支持するように左翼の有権者を説得しようとしたのだった。上下両院の議員数の勝者としてベルルスコーニを登場させた今回の総選挙結果は、そうした懸念をただ目立つものとし、有権者の中での困惑の波を引き起こしているだけである。
 振り子の揺れ戻し論や、ベルルスコーニの人気への国民投票とかを語る者に対しては、以下の事実を指摘すべきだ。
 中道右派連合は議席数では勝利したとはいえ、投票数で勝ったわけではない。おまけに彼らは一九九六年の総選挙との比較で百万票以上を減らしている。オリーブの木は得票数を実質維持した。またPRC(共産主義再建党)と今回はオリーブの木に加わらなかった部分の票をあわせれば、その総得票数は中道右派連合を越える。
 また、ベルルスコーニ自身の党であるフォルッツァ・イタリアは前進はしたが、一九九四年のユーロ選挙での三〇%という得票率には達しなかった。しかもその前進は、同盟者、北部同盟を犠牲にしてのものだった。北部同盟は下院での比例議席配分に必要な四%に達しなかった。最後に、全体状況をつかむためには、議会選挙後の二週間に起きたことを考慮すべきだ。地方自治体選挙の第二ラウンドではオリーブの木が勝った。オリーブの木はローマ、トリノ、ナポリで多数を維持した(中道右派連合は第一ラウンドのミラノでは勝っていた)。
 このよう結果だが、しかしその中で、オリーブの木最強の党であるDS(左翼民主党)が極めて深刻な後退を示した事実が残る(一九九六年の二一・一%から一六・六%へ)。その一方で、以前のキリスト教民主党の一部であり、同盟(オリーブの木―編集部)の指導者フランチェスコ・ルッテリを含む不均質な中道派混成組織が予想を越える一四・五%を獲得したのだ。
 以上の事実から三つの疑問が提起される。
 ベルルスコーニの連合は、社会的、政治的に何を意味しているのか。一九九四年とは違ったものなのか。危機と政治的激動の十年間の後で、イタリアの状況を安定させる能力を持つものなのか。
 
 「ベルルスコーニ」U?
 

 一九九四年のベルルスコーニの勝利後、われわれは以下のように論じた。
 「フォルッツァ・イタリアは大実業家のイニシアティブの下に登場した。このために彼は、彼の金融王国と彼自身が所有する強力なメディアを無節操に使いまくった。彼の党はここから生まれ、彼の個性と同一視されている。自分をカリスマと見なしている一人のリーダーの決定的役割と、右翼の種々の党派に共通の足場を提供するために最初からこのリーダーが振る舞ってきたような調停的役割の双方から、人はボナパルティズムの企てについてすら語ることができるかもしれない。そこにはまだ満たされていない一つの空隙があった。ベルルスコーニはちょうど間に合ってそのことを理解し、それが彼を成功に導いた鍵である」。
 空隙は、キリスト教民主党とクラクシの社会党の同盟に基づいて長く続いてきた連合の崩壊によって現れた。この同盟は実に四半世紀も君臨してきたのだった。旧イタリア共産党(その後民主的左翼党PDS、次いで左翼民主党DS)から発した連携によって導かれた新しい中道左派が、その相続人になることを願った。しかしながら、その継承を容認できなかった人々すべては、別の解決を追求し、そしてベルルスコーニに頼ることになった。しかし一九九四年秋の年金防衛の力強い大衆動員の圧力が彼の連合内の矛盾を決定的に強め、その結果彼は急速に敗北し、一九九六年選挙後の中道左派の権力を導いた。
 今回、中道右派が再結集し最終的に権力に到達することを許したものは、いうまでもなく中道左派のやりかたである。そのやりかたは、社会経済分野(ネオリベラリズムの理想化であり容認である)および国際政治(セルビアへの戦争と新NATO条約への無条件の支持)の双方を貫く。しかしながらベルルスコーニが九四年と九六年の両方から教訓を汲んだことも加えられるべきだろう。九六年には彼は、北部同盟との決裂により失墜したのだ。今回彼は、いわゆる市民社会の中に基礎をもつよう、いろいろと試みたのだ。また、実績のある中道右派の市長候補を自治体選挙で支持した。五月十三日に再選されたミラノやボローニャの市長のような無所属の人物である。彼はバルカン戦争での与党との連携を維持し、中道政府のやりかたを支持することで責任ある政治家のイメージもつくり出した。彼はストラスブールの議会でヨーロッパ人民党に参加することを通じ国際的政治潮流の中にも位置を占めた。
 選挙の九ヶ月前に彼は、右派連合の主導権をめぐる挑戦を断念した国民同盟との連合を固め、その上に立って北部同盟との連携を再構築した。
 ベルルスコーニのやりかたをポピュリズムと表現することは適切だろうか。十九世紀ロシアのポピュリズムや四十年代、五十年代のラテンアメリカのポピュリズムとのどのような比較にも、外見以外にはいかなる内容もないと思われる。他方そのような性格づけは、もしそれが以下のような限定された特徴をもった政治的、イデオロギー的やりかたを表現するならば、少なくとも部分的には意味をもつ。
 すなわち、自身を市民と一体化させつつ、政治家に反対して人々を代表するような主張。反対派や競合者の不行跡や汚点への、体系だった一本調子の中傷の形でなされる事実の描写。単純で非政治的な危機への対処策。現行の社会的、制度的枠組みへの改革圧力。
 しかしベルルスコーニは、市場経済それ自身ではなく、「社会的市場経済」を擁護しつつ、オリーブの木に比べてもより非正統的なネオリベラリズムの闘士に見えるように何回か試みていた。ベルルスコーニの勝利に寄与した要素の中に、感情や感傷、逆行的なもの、はっきりいって社会の広範な層の中に今なお残っている復古的衝動を表現する能力があることは間違いない。それが、中部イタリアではまだ限られていたとはいえ、それ以外で地域を越えた支持を彼が集めた理由でもある。
 他方、中道右派がシシリーで達成した驚異的な成功は警戒を要する。それはマフィアがベルルスコーニの下でかれらの仕事と社会をより安心して支配できると信じていることを示しているのだ。
 カトリック教会に関しては、もはやキリスト教民主党の黄金時代にあったようには選挙に影響を与えることはできない。とはいえ、また確かな分別の下でだが、その要求―たとえば「家族の防衛」、私立学校、避妊の問題―はいまや議会や選挙レベルでより大きな聴衆を得ることになった。
 そして結局のところベルルスコーニは、九四年、九六年当時よりも、雇用主の非常に幅広い層の支持あるいは好意的支援を得ている。
 彼らが中道左派政権に不満を抱いていたわけでないことは確かである。しかしだからといって、より急進的なネオリベラルの手段や、より大きな安定性をもつ政府という主張を止めたわけでは決してなかったのだ。それを象徴するメッセージが、イタリア雇用主の誰もが認める大立者、ジアニ・アグネリ(フィアットの経営者)のものだった。彼は、外国新聞の批判に対しベルルスコーニを猛然と防衛したのだ。アグネリは九四年にも上院で、確かに中道右派政府に賛成投票していた。しかしそのとき彼は、ベルルスコーニを首相には推さなかった。
 
 民主的枠組みの危機
 
 国内外ともに、ベルルスコーニの政府権力への到達が四八年憲法に伴う民主的諸制度の危機を意味する、と語る人々がいる。問題は多角的に検討されるべきだろう。中道右派は長い間憲法改訂を好んで口にしてきた。そこでは、言葉の上では、憲法に規定された手続きの枠内で行われるものとされている。そしてこの改訂論は全体として大統領制の色彩を強め、地域的自律性を促進するもののようにみえる。それは特に、社会的観念と州の役割を規定する条項、すなわち憲法の第一部への挑戦といっていい。
 しかしながら、今までのところ明確なことは、この連合によって何一つ進められてはいない。さらにベルルスコーニは、ヨーロッパの枠組みに関してはどんな方向でも挑戦を意図していない。最低限このことは考慮されるべきである。
 いわれているように、行政権力が国の最も富裕な人物の支配の下におかれるという事実が引き起こした恐れは、経済のいくつかの部門では強烈である。さらに国の民間テレビのほとんどへの支配は完全に合法的である。このことから予測される危険は、選挙運動最終盤に目撃された。ベルルスコーニはPRCを別にすれば他のどの候補も太刀打ちできなかったほどの巨大な物量を使った。しかしながら政権にあった中道左派もまた、もっとも基本的な民主的ルールを足蹴にする形で、公共テレビ網を破廉恥に使ったのだ。ブルジョア的制度の下では、富や政治権力をもたないすべての人々、すなわち普通の人々にとっては民主的権利はしばしば中身のない殻にすぎない。市民は真の決定権力からますます遠ざけられている。最終的には市民の運命を左右することになるマクロ経済上の選択、戦略的に重要な政治上の、さらに軍事上の選択は、少しも市民に依拠してはいない。
 中道左派の諸政府の実践についての最も重要な批判点は、彼らが上記の傾向になんら対抗してこなかったということである。五月十三日の後にアマート政府が下した決定は、この最直近の例だ。彼らはまさに、G8サミットに対しジェノバ市への陸海空封鎖作戦を決定したのだった。
 中道左派の動向やジェノバで何が起こるのかに関わりなく、民主的枠組みの腐蝕に向かう構造的傾向は、ベルルスコーニ政府の下では疑いなくはっきりしてくるだろう。それがどれほどの広がりをもつのか、またどのような結果につながるのかは基本的に、イタリア、EU、ひいては世界における社会的、経済的動力学にかかっている。
 少なくとも次の二点は確かである。
 第一にベルルスコーニは、選挙で惨敗した彼の同盟者との間に難しい問題を抱える。第二に、制度分野での遠心的、地域主義的傾向に彼もまた直面することになる。この傾向は、北部同盟の支持を得るため彼が中道左派政府に対してとった反対姿勢のため、むしろ激化させられたのだ。
 しかしながら今回、ベルルスコーニは政府形成に際して、両院での北部同盟議員の投票を絶対的には必要としているわけではない。そうである以上われわれは、九四年にボッシとの摩擦から生じたことの再現を予測すべきではない。これが、新政府の未来が特に大幅減税と年金増額を含む選挙公約を実現する能力次第である、とする理由である。そしてそれらの公約は、現下の経済成長低下や、通貨ユーロの安定条項尊重という枠組みの下では決して容易なことではないのだ。
 もしイタリアが著しい成長を達成し、その背景の下で労働組合連合との間に協調関係を再建できるのであれば、一定期間の安定性の強められた新しい政治的枠組み、という仮定もありえないことではない。しかしながら、そのような動きはさしあたり見あたらない。その上、最近数ヶ月、例え未だ全般的とはいえないにしても、闘争の否定しがた
い復活が生まれている。今も労働者階級の最重要部門である金属労働者は、労働協約更新のための長期の闘争に入っていた。そして最近の全国ストライキを通して、特にミラノやトリノなどの一定数の都市の街路は、おびただしい数の労働者で埋め尽くされたのだ。
 一方、その間に、三月と四月、いくつかの中心大学、特にローマの大学では学生運動の波が起こった。その上に資本主義のグローバリゼーションに反対する運動は成長を続けている。そしてそれは、政治的レベル、文化的レベル双方に、積極的な効果を与えるだろう。それ故、七月のジェノバサミットに反対する動員は、大集合というもの以上の政治的意味をもつ運動なのだ。
(インターナショナル・ビューポイント誌6月号)