2002年7月10日        労働者の力               第 148号


  
 2002年6月4日
戦争への同盟?カルガリー・サミット
パレスチナ民衆連帯・イラクへの侵略を許すな、有事法制の廃案を
 
川端 康夫
 


 カナダのカルガリーで開かれたカナナキス・サミットは厳重な警戒態勢のもとに開催された。軍用ヘリコプター、戦闘機、対空ミサイル、戦車、装甲車が隔絶されたサミット会場を包囲した。記者団ははるか離れたカルガリー市内に止められ、各国政府随行団の数も制限された。これはもちろんテロを警戒してのことである。サミットに参加した首脳たちはまさに世界民衆を恐れ、そしてテロを恐れ、自らを隔絶した会議場に閉じこめたのである。
 今回のサミットが真に中心議題にしたのは、明らかにイラク攻撃そのものの合意を取り付けるというアメリカの主張であった。ブッシュは、日本の小泉とロシアのプーチンを最大に持ち上げ、イラク攻撃のための新たな同盟軍を現実化しようとした。サミットの構成を見れば明らかだが、日本とロシアを除けば、あとはNATO諸国である。NATOはアメリカを含んだ攻守同盟であり、しかもその活動範囲はヨーロッパという枠組みを越えて展開することができるように変えられた。
 日本は、日米安保があるとしても、日本軍隊は専守防衛であり、海外出兵の余地は、最近の強引な反テロ法の成立によっても、きわめて抑制されている、ロシアに関しては言うまでもなく、サミット参加は初めてであり、かつその軍は歴年の対米戦略で育てられた存在である。ロシア軍にはアメリカへの対抗心や反感が根強く残っている。とうてい同盟軍関係とは言えない。
 ブッシュの動きは、まさにイラクの北に接し、外交的にも関係が深いロシアを牽制するだけでなく同盟関係に引きずり込み、同時に日本を英米同盟レベルの役割を担うものへと誘い出すためになされた。有事法制に挫折の影が漂っているにしても、小泉はアメリカとの同盟関係へと飛躍することが政治的役割だと認識している。
 
政治統合展望の漂流化と軍事的単純化の突出 
 
 サミット直前、ニューヨークを源に、全世界的な株価と為替がきわめて重大な局面に入り込んだ。世界資本主義を辛うじて支えているアメリカ経済の行方に、全世界のブルジョアジーが確信を持てなくなっているのだ。しかしサミット首脳は、この事態に表面的にはまったく無関心ですごした。しかもそのことを、世界のブルジョアジー自身ほとんど気に留めていないように見える。「政治の無力」に対する、支配層のある種の見切り、その背景にある社会的無責任はここまで進んでいる。
 サミットが政治的、経済的になんら新たなものを生み出せなかったことは驚くに足らない。シアトルでの挫折によって、新資本主義的グローバライゼーションの勢いが鈍らされた。反WTOの動きは全世界的な大衆動員の波状をつくり出した。ブッシュの戦争政策は政治をきわめて単純なものとした。アメリカの力に同意するのか、そうでないのか、である。ここでは国際的な政治的な統合性や整合性は出てこない。パレスチナ問題においても政治は機能不全である。ここでもイスラエルの力の政策を阻止する立場は提出されなかった。なぜサミットはイスラエル軍の暴力を制止する平和維持行動を検討すらしなかったのか。かれらはバルカン半島への介入を人道的戦争として強行したではないか。そしてなぜ彼らは突然にサハラ南部のアフリカ諸国への関心を示したのか。それは反グローバライゼーションの世界的な波の高揚にたじろぎ、パレスチナ問題を媒介として高まる反米感情、反帝感情の拡大を本能的に知覚せざるをえないからだ。アフリカはまさに文字通りグローバライゼーションの過酷な犠牲を受け続けてきた。資源収奪や食料危機に放置されてきたアフリカ諸国に対して、これらサミット諸国はただひたすら傍観してきたのである。アルゼンチンに代表されるラテンアメリカ諸国の危機も、アフリカのそれも、さらにはパキスタンとインドの激しい対立も、すべてこの四半世紀の新自由主義の展開が拡大してきたものだ。
 サミットが表現するこの新自由主義経済政策は、また同時に社会関係、社会構造を極度に痛めつける。アフリカ諸国の社会構造の解体と同じ理由で最近のヨーロッパ社会における階級関係の緊張が進んでいるのである。戦後のヨーロッパを主導してきた中道的勢力(左右をふくめて)が、その政策体系を新自由主義路線へと変更させていくに従って、彼らを支えてきた中道的安定帯が崩れたのだ。
 フランスで極右と極左が伸長したのはなんら偶然ではない。
 そしてカルガリーサミットは、これらのすべてに対して力の政治、軍事的暴力で対応すること以上のことは何一つできなかった。イラクへの侵略の同盟が形成されつつある。もちろんそれは始まりにすぎない。「ならず者国家」の枠は次々に増やされていくだろう。この論理においては、アメリカとの関係で非同盟の国は、それだけですでに敵なのだ。それは日増しに高まる全世界民衆の反米、反帝の意識にさらに油を注ぐだけのことだが、しかし、いまやサミットはきわめて危険な装置となった。
 
世界的不安定の原因―新自由主義 
 
 こうしてアメリカ帝国主義の隔絶した強大な軍事力が、あらゆる政治的手段や経済的政策を超越した、新自由主義的グローバライゼーションの最大の武器となっている。だがそれにはそれなりの理由がある。つまり新自由主義のグローバライゼーションは、けっして「ニュー・エコノミー」をつくり出さなかったからである。
 二〇年前の第二次オイルショック以降に始まる新自由主義経済は戦後の資本主義が直面した重大な停滞への反応だった。それはいわば人為的恐慌というべき労働賃金の切り下げ、公的部門の私的資本への簒奪的売り渡し、公共サービスの切り捨てなどによって、資本の搾取と収奪の機会を拡大し、それによって収益性の危機に直面していた私的資本の収益率回復をめざしたものだった。その目的のために、労働者運動への攻撃が最初に試みられた。労働組合活動を抑圧し、解雇の制限の撤廃、それを通じた賃金コスト削減がねらわれた。
 第二にねらわれたのは巨大多国籍資本の活動に無制限の道を開く市場開放、自由化である。それは国際金融資本、あるいは巨大アグリビジネス、自動車産業の世界的競争の激化などを通って、コンピュータ産業の巨大な成長に至って花を開いたかに見えた。
 そして第三に、労働力移動の自由化の拡大が付随した。地域的な経済圏を囲い込みつつ、これらの資本主義国は低廉な労働力を自由にし、それをてこにさらなる生産コスト削減を追求した。
 だがそこに出現したのは、世界的な搾取と収奪の強化でしかなかった。全世界的規模での生産力の拡大がなされたわけではない。全世界的規模で経済的拡大がなされたわけではない。
 世界的規模で貧富の差があらゆる側面を通じて拡大し、一方の繁栄は他方の絶望へと転化する構造が大々的につくり出されただけであった。こうして地域的な相対的安定性が崩され、社会的な相対的安定性も崩された。ここに生じる地域的、社会的な緊張の増大、世界的不安定性の激化を「ニュー・エコノミー」と言えるだろうか。世界的な生産力の停滞は少しも解決されず、それは極端な形で移動しただけであった。富が極度の少数者にひたすら独占される構造を生み出しただけである。
 そうした構造を維持しようとすればそれはさらに軍事力に依存したものとならざるをえない。アメリカは必要な軍事力を今、提供しようと申し出ているのである。サミットはそれを暗黙のうちに受け入れたのだ。
 
 小泉を追撃する労働運動の高揚を
 
 イギリスにおいてブレアの新労働党が果たしてきた役割は、ブルジョアジーに代わって彼らの利益を擁護することであった。「第三の道」とはそんなものにすぎない。同時にブレアは英米同盟のもとに副官帝国主義として行動することを貫徹しようとしている。
 小泉の客観的性格もブレアのそれと本質において変わりはない。ブレアの新労働党が急速に影響力を失い始めていることもまた、小泉のそれと同じである。
 現在の新労働党には急進左派はいない。左派勢力は新労働党の外部にいて独自の勢力として、影響力を伸ばしつつある。この春のイギリス地方選挙において、イギリスの社会主義連合は倍増的支持を獲得した。だから急進左翼の台頭はフランスだけではないのである。イタリアにおける共産主義再建党の伸長は言うまでもない。
 この国会において小泉は、健保、郵政を正面に掲げるというところに追い込まれた。対アメリカの切り札として成立をめざした有事法制がそのずさんさのゆえに、そして憲法との関係のゆえに断念に追い込まれ、マスコミ規制法案がこれもまた防衛庁の誤りのゆえに断念せざるをえなかった。小泉の郵政民営化路線は自民党内部での重大な抵抗に会い、結局郵政三法案は文字通りの骨抜き法案として与党三党から提案されることになった。小泉が精一杯のパフォーマンスとして打ち出した「修正なし」は一週間も持たなかったのである。
 明らかに小泉はレームダック化している。抵抗勢力との妥協だけが政権維持の手段となってしまっている。小泉のもとで、自民党は今年に入って、選挙においてほぼ連戦連敗である。横浜市長選に始まり、新潟補選、徳島知事選。そして先日の中野区長選は反小泉派の二候補が一位と二位を独占した。これは決定的だともいえる。大都市部における支持率回復の切り札だった小泉は、もはやその神通力を失ったのだから。
 日本における状況はヨーロッパのような成熟化は見せていない。ヨーロッパ大陸やイギリスでは九〇年代半ばから労働者民衆の反撃が始まり、それが反グローバライゼーションの世界的行動へと直結しながら拡大してきた。日本では八〇年代後半期に労働戦線の右翼的再編が進み、とりわけ決定的には公企体労働運動が決定的打撃を受けた。バブル期に拡大した社会運動、労働運動の後退は、その後のバブル期の終焉によっても復活はしなかった。改良主義労働運動の左翼が崩されたが、それに代わる急進左翼の運動が明白な地歩をえることができなかったのである。ここにヨーロッパとの大きな差が見られる。ヨーロッパでの労働運動は改良主義労働運動の衰退に競り合う形で足場を固めてきた。
 日本においては改良主義左派労働運動は急進左翼との共同戦線を部分的には実現はしたが、衰退の趨勢は覆らなかった。九〇年代の労働運動は、改良主義左翼の労働運動の解体への歩みであったといっていい。国鉄労働組合が闘争の敗北を自認し、闘争団を切り捨てる方向に動き、さらにまたそうした国労において、闘争団の将来とは無関係に多くの国労各派が動いている状況を見るとき、闘いのエネルギーの衰退を痛感せざるをえない。
 国労問題は日本における改良主義左翼運動の最終的姿を表現しているといわざるをえないのである。
 しかしそうした日本において、小泉バブルのあっという間の崩壊、そして明らかにブルジョア政治を労働運動を含んで代行しようとする民主党が結局はブルジョア政党との大連合に踏み切ることがなかなかできないでいることを見るとき、日本政治、日本労働運動の長きにわたる空白に変化の兆しを感じないわけにはいかない。旧公共企業体労働運動においては国労を含んで、すべて改良主義労働運動の枠組みは壊れている。労働者は自立する以外に道はないのである。もちろん同じことを繰り返すことはできないから、新しく創出されるべき運動は、企業内部の組合ではなく、地域的、横断的性格を持たざるをえないだろう。これは避けることはできない。そのためには組織的、政治的な運動主体の強力な活動が求められる。そのありかたを今、具体的に示すことはできないが、こうした動きが必要になることは自明といわなければならない。
 
 新しい社会運動と労働運動の結合を
 
 現在、きわめて遅ればせながら、新しい社会運動の始まりの兆候がある。その一つにアッタク運動をあげることは可能だ。この国際的資本取引に世界的規模で税をかけ、それを第三世界の危機克服のための資金にしようという運動は、現在の国際的資本取引が無税であることを考えた場合、その意味はきわめて大きい。多国籍資本や巨大金融ブロックはタックスヘブンの利用を始め、税負担回避の努力を惜しまない。同時に彼らはナショナル国家を駆使し、その税収を自らの利害のためにフルに利用しているのだ。国際金融取引への課税はまさに資本のグローバライゼーションに対して正面から向き合うものなのである。
 こうしたアタック運動が共同闘争の原則を踏み外すことなく、互いの相違性と多様性を尊重した上で全体の運動の拡大に成功していけば、大きな将来の兆しを見ることができるだろう。そしてこうした新しい社会運動が労働運動と結合していくとき、それは企業内型、企業連型の、第二労務部化した労働組合とは本質からしてまったく違うものとなるだろう。
 日本の社会も労働運動も、小泉が示しているようなアメリカの副官帝国主義の道とは別の道を見いださなければならない。それはアメリカが力ずくでアジアを統制下におこうとしていることに対立して、アジア民衆との協同を築いていくことである。アメリカとアジア。これは当分の間、基本的対立事項であり続けるだろうし、日本政治の内的対立軸もここにおかれる以外はない。小泉がブッシュと連携するならば、日本民衆は「アジアマーチ」をやらなければならないのだ。
 六月十六日の東京・代々木公園で開かれた有事法制粉砕集会は六万人を結集した。その集会の基本的政治傾向がどのようなものであれ、陸海空港湾二〇労組団体がイニシアティブを発揮したこの集会は、急進左翼を含む左派運動が新しい動きをつかんでいくことが出きるかもしれないという希望をいだかせるものである。連合内の中に、有事法制体制を強力に支持する勢力ある一方で、連合系である「平和フォーラム」も一貫して有事法制反対の闘いを継続したこともまた高く評価できる。以上の両者の直接の共闘関係の実現とまではいかなかったが、相互のエールの交換がなされており、将来の関係発展への期待も抱かせた。
 小泉内閣の命運は現実的にはどうあれ、少なくとも内閣を延命する限りは、有事法制やマスコミ規制法への野心を捨てることはないであろう。労働運動の役割は増大することはあれ、減退することはない。小泉との対決を通じて、労働運動の新たな局面を切り開こう。
 
 
夏期一時金のカンパを訴えます。


 鬱陶しい梅雨の季節に呼応するかのように夏期一時金の切り下げも鬱陶しいものがあります。しかし梅雨はいずれ明けるものです。大リストラを進める勢力もいずれ決定的に揺らぎます。それをつくり出すのは左派陣営の主体的力を強化する以外にはありません。是非とも私たちの闘いへのご支援をお願いします。
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 没後六十周年を記念する陳独秀学術研究討論会
南京大学で開催さる


佐々木 力(東京大学教授)

 東京大学教授である佐々木力氏から、以下の文章が寄せられました。佐々木氏は五月に中国・南京で開かれた陳独秀研究会に参加され、そこで日本の陳独秀研究会を発足させております。本文章は『労働者の力』と『架橋』紙に送られました。ご厚意に感謝し、本紙上で紹介させていただきます(編集部)。

 昨年五月末、温州での「陳独秀後期思想学術研究討論会」に引き続き、今年も五月二十七日から二十九日までの三日間、南京大学で、第七回「陳独秀学術研究討論会」が開催されました。南京大学開学百周年を記念する行事の一環としてであり、また、これまでにない規模の参加者で、着実に中国知識人の間で陳独秀研究が定着している様子がうかがわれます。これは中国での社会主義的民主化要求の表れにほかなりません。会議では、四月のフランス大統領選でトロツキスト政党が共産党の三倍以上の一〇%を超える得票を獲得し、政治的「地震」が起こったことなども報告されました。
 そして、閉会式では、五月二十七日の陳独秀没後六十周年目に南京で発足をみた日本陳独秀研究会を代表して佐々木が報告し、日本における研究会が発足したことを宣言いたしました。日本では、陳独秀が最期までトロツキズムの旗の下で闘ったことなど、彼の詳細な経歴はよく知られていないままです。今後、現代中国研究者などの助力を得て、中国のトロツキーというべき陳独秀の著作を紹介する努力を行なってゆきたいと考えています。ご支援をお願いするものです。以下が、研究会の呼びかけ文です。
 ちなみに、会議の詳細などについては、佐々木力「復権する陳独秀の後期思想」『思想』七月号、を参照していただければ幸いです。

日本陳独秀研究会への参加の呼びかけ

 近年、中国では、これまでタブー視されていた陳独秀(一八七九―一九四二)に関する研究が、後期思想まで含めて、急速に進みつつあります。この動きと連携して、南京大学で第七回陳独秀学術研討会が開催されたのを機に、陳没後六十周年目にあたる二〇〇二年五月二十七日、私どもは日本での陳独秀研究会を創設いたしました。さらに、研討会の閉会式でも、その創設について宣言いたしました。
 陳独秀は、科挙の秀才から知的経歴を始め、五四新文化運動の「総指令」、中国共産党の創建者、中国トロツキズム運動の指導者などとして、まさしく激動の生涯を送った、中国、否、東アジアにおける稀有の近代知識人ということができます。彼の生と思想の軌跡は、私ども日本に住み、思索する者にとっても極めて重要な示唆を投げかけているかに思われます。とりわけ、学問思想と民主主義思想は、巨大な重みをもって私たちに、その継承と改訂を呼びかけています。
 会の主たる目的は、純粋に学術的なもので、陳独秀思想の学問的理解と、日本語著作選集の刊行の準備です。ここに、心ある研究者諸氏の賛同と、会への結集を呼びかけるものです。

      変化を見せ始めたロシア労働運動
        労働者管理の胎動
             
アレクサンドル・ブズガーリン                                                          
【編集者より】
 以下に紹介する記事は、インターナショナル・ビュー・ポイント誌五月号掲載の「ロシア:変化の兆し」との表題論考の後半部分である。この論考の前半部分で著者は、ロシア経済を客観的に規定、あるいは限定づけている基本的構造問題を明らかにしている。結論的には焦眉の課題である資本装備の更新という深刻な問題にまったく手がついていないという問題だ。さらにこの問題に現在の指導部「新ロシア人」は、「市場が解決する」との極度に観念的、図式的方針しか持ち合わせていないこと、さらにその方針を急いで現実化するつもりもないことが示されている。最後の点をとらえて著者は「悪いことばかりではない」と皮肉な評価を与えている。観念的方策を強行されて悲惨なことになるよりはまだ良い、というわけだ。
 いずれにしろ、ロシアの危機は確実に深刻化に向かっている。この中で事態の重要な要素として労働者階級が取り上げられている。本紙掲載部分の前には、ソ連崩壊前後からの労働運動が検討され、そこでの弱さの問題も論じられているが分量の関係で割愛した。
 なお著者は、ロシアの経済理論家であり、エルネスト・マンデルとも建設的討論関係を持っていた。ソ連崩壊時のソ連共産党最終期の中央委員であり、第四インターナショナル世界大会にオブザーバーとして参加している。
 
 変化の最初の印
 
 急進的市場改革の八年の中で、ロシア労働者運動の変化の最初の印が現れ始めたのは、今が唯一の時期である。今までのところでは、働く人々の権利を求める闘争に対する新しい接近については、わずかに二、三の実例があっただけである。しかもこれらの例は労働者運動の姿を代表しているわけでもない。それでもいくつかの物事は実際に変化している。
 中でも、耐え難い経済条件に対する従来の受動的抗議の戦術は、これらの条件を変えるための行動的闘争へと転換し始めている―それは今までのところ、ただ個々の企業においてだけであるとしても。闘争形態もまたこの方向で変化している。被雇用者は、彼らの職場の生産設備の略奪を防ぐために、それらの資源を労働者管理のもとに移した。そして管理者や企業所有者の抵抗に出会ったとき彼らは、座り込み戦術に訴えた。
 ツーラ州のヤスノゴルスク工業プラントの被雇用者の行動が、労働者管理創出の一つの手本を提供した。この闘いは一九九八年に始まった。彼らはプラント全体の管理権を獲得しようと試みた。彼らは実際に旧管理者を追い出し、自らの工場長を選出するための会議を開いた。しかしながら裁判所は、労働者の行動は違法であると判決し、この工場長は逮捕された。それでも闘いはそこで終わらなかった。労働者たちは前工場長と前管理者の何名かの解雇を確保することに成功した。工場ストライキ委員会は労働者管理の機関―輸送委員会―を生み出し、その機関は工場生産物の売却を監視した。労働者の圧力のもとで経営者は工場に損害を与えるような、あるいは勘定から隠されるような不正取引取り決めを労働者が防止できるイニシアティブを認めるように追い込まれた。
 座り込みに関する限り、現在までにもロシアにはこれまで個別的事例があった。以前には工場占拠は労働者にとって、経営側の抵抗、経営側の雇った私営警備会社や企業経営者を支持する地方当局者に直面した際に、生産停止をもたらす一つの方法にすぎなかった。
 しかし昨年あるいはその前後、労働者が生産停止―生産は、新しい所有者の失敗を通していい加減に、しばしば停止に至っている―のためではなく、逆にいえば彼らの仕事の継続を確実にするために、企業の管理を主張する事例の数の増大が見えるようになった。これは、労働者管理の目的でもあり、その場合それは労働者が企業を占拠せざるを得なくなることなしに、生み出されるかもしれない。
 
 
 全従業員が工場を占拠
 
 ロシアでは、およそ一ダースの企業のみが全従業員によって事実上管理されている。ロシアの「自由な」新聞上では、それらについてのどのような情報を見いだすことも不可能に近いが、そのような情報がたとえ現れるとしても、それは一般に、戦時に敵兵の戦意喪失をねらって計画される「ネガティブ・キャンペーン」を思い起こさせるものである。
 労働者の行動が成功すればするほど、彼らの出会う抵抗も大きくなる。その最良の例は、レニングラード州ソヴィエツキイにあるヴィボルグ紙パルプ工場での衝突だ。一九九三年に工場は数々の法令違反を犯しながら私有化された。次いで新株主と経営者は労働者から所有権を買い上げ、所有権をほとんど完全に手中にし、そして工場を売却した。この転売にもまた数々の法令違反が付随した。ロシア財務省監査局の監査によれば、売却価格は帳簿価格の四・五分の一であった、とだけいえば十分だろう。そして所有権は、この額の五分の一の頭金で移転された。結果としてこの新所有者は、八〇年代にフィンランドの援助のもと、設備更新に七億ドルを要した工場に対して、所有権獲得のため、ただの三八〇万ドルを払っただけだった。
 この取引の別の特徴は、本物の所有者が不在であるということだ。所有権を形式的に得た会社は偽造情報をばらまいた典型的「ダミー」会社だった。会社は自分をイギリスの会社と称しているが、イギリスで登録されてはいないし、その所有者はイギリス市民でもない。事実上の所有者は、レニングラード州の「ウオッカ王」サバダッシュ氏であった。必然的に彼らは、工場を低額売却するための口実を必要とし、そして口実はねつ造された。一九九五年〜九六年中に工場は人為的に破産させられ、九七年に売りに出された。
 新所有者は、工場設備の中からはただ一つ材木積み替え駅だけを残すとの意向を明らかにした。レニングラード州検事はこの売却結果を検討し、新所有者への所有権移転の一時停止を命じた。しかし新所有者は事実上の工場支配を継続した。この時点で従業員は工場占拠に入り、自身の警備隊を配置し、自身の工場長を選出し、工場を独立的に経営し始めた。
 
 ソヴィエツキーでの銃火
 
 ソヴィエツキーで銃撃音が響きわたったのはなぜか。答えはきわめて単純だ―工場の稼働のために従業員が手際よく管理したからだ。工場は破産から立ち上がり、収益をあげ、労働者は賃上げに成功した上に、未払い分の払い戻しを受け取り、さらに工場は税金を規定通りに払い、労働者のための社会保障基金を払い込む状況に至った。
 当然ながら、これらの状況は受け入れがたいと見なされた。七月九日、工場を接収しようとの私営警備会社(当時未公認)による最初の挑戦が登場した。この試みは労働者の抵抗に会った。十月十二〜十三日にかけての夜に二回目の挑戦がなされた。今回は「タイフーン」編成部隊―刑務所暴動鎮圧に使用される―すなわちOMON特殊部隊と私営警備会社の部隊が展開した。さらに内務省部隊が予備に控えていた。工場の稼働を困難にするために想定上の所有者は、原材料供給と最終製品出荷に使われていた貨車を止めるように鉄道当局を強要した。
 しかしながら今回の攻撃もまた、従業員の組織的抵抗に迎えられた。非武装の被雇用者(その六〇%は女性だった)は「タイフーン」部隊を工場管理棟内に封じ込めた。戦闘が自分たちの思い通りになっていないことに気づく中で「タイフーン」部隊は、何人かの人々を打ち据えて人質にとり、一人の女性を冷蔵庫に閉じこめさえした。さらに「タイフーン」部隊は彼らが占拠していた建物に、言い尽くせないほどの破壊をつくり出した。従業員が交渉に入ろうと試みたとき、「タイフーン」部隊が発砲し、二人の労働者が負傷した。
 しかしながら、不法に取得された所有権の「勇敢な防衛者」はOMON部隊の防衛のもとに退却を余儀なくされた―労働者の怒りに対する彼らの恐れはそれほどのものだった。彼らが恐れを抱いたことはおそらく正しかった。九〇年代中頃の工場破産に対しては、これらの労働者はそれほどまでに受動的に反応していたのだった。当時労働者は空腹から、人道援助を求める方策の中で崩壊し、闘争に入ってはいなかったのだ。
 しかし今彼らは、工場を自分自身の手中に確保しつつ、それを稼働させることが可能だと理解し、手を引くつもりがまったくない。そのほとんどが中級のあるいはより高いレベルの職業訓練を終了しているこれらの人々は、「われわれは死ぬまで闘う」と語っている。
 
 衝突の教訓
 
 ヴィボルグ紙パルプ工場での大惨劇の余波の中では、ロシア社会の異なった部分から、衝突に対する異なった反応があった。
 嘘の噴流が、TVスクリーンや多くの大部数新聞紙上から流れ出た。労働者は他人の財産に手を出したとして告発された。工場を破産させ、脱税した者は労働者だとされた。労働者は武器を手にして法の支配に抵抗し、工場の「合法的所有者」、今や非常な不安の中にいるサバダッシュ氏を打ち据えたことになった。
 これらの報告のどれ一つとして、いかなる事実にも基づいていない。イズヴェスチャは、戦車部隊を工場に差し向けるべきであり、チェチェンのテロリストに代わって工場を爆撃すべきだ、との要求まで行った。このような流血への渇望は、九三年一〇月の最高会議への報復を求めた「民主的民衆」の呼びかけにすら見られなかったものだ。主要TV局のジャーナリストは、九六年の大統領選から引き出したスローガンを繰り返した―「私有化の見直しはまったくあり得ない。そうでなければ内乱だ」経済犯罪の機構は、無難に盗み、略奪する彼らの権利に挑戦するすべての人々に反対し、また戦争の脅威を目に見えるものにしようとして、受けの良いTV出演者を利用していた。
 セント・ペテルスブルグとレニングラード州の労働者からは異なった反応が出てきた。前記工場労働者のための募金運動が設立され、レニングラード金属工場の労働者は、ヴィボルグ従業員支援の労働者旅団を組織した。レニングラード金属労働者の労組委員会は、ヴィボルグ紙パルプ工場との連帯デモを整える一種の司令部へと転化した。労働者はモスクワにも支点をつくり出した。州議会は工場従業員の行動を防衛する決議をただ一票の反対票をもって通した。「民主主義と社会主義ための研究所」を呼びかけた協会は直ちに工場に代表を派遣し、議会代議員助力のもとでヴィボルグ工場の代表のための記者会見を組織した。
 これらの出来事ははたしてどのように展開するだろうか。われわれの前には矛盾した状況がある。労働者は彼らの賃金それだけのためではなく、生産を維持し、企業が収益性をもって稼働することを確実にし、資本装備が丸裸になることに反対して立ち上がり、闘い始めている。それへの応答として彼らは、国家権力の全重量を見せつけられた。この国家権力は、法を巧みにくぐり抜け所有権を得ようとし、労働者の賃金を盗み取り、企業の資本を解体して売り払うことで収入を得ようとする「新ロシア人」の権利を防衛しているのだ。
 誰が勝つだろうか。労働者管理を組織するため他の従業員は、最初の人々の手本にならうだろうか。人民の大多数は、労働者の闘いを支援する政治勢力を信頼するだろうか。それともロシアのピノチェットを夢に描く人々が勝利を得るのだろうか。
 これらの疑問に明確に答えることにはまだ早い。しかし一つのことははっきりしている
―ロシアにおける労働者運動が変化し始めた、これである。これらの変化がどれだけ急速に起こるか、最初のうねりが尽きるのかどうか、さらに労働者管理を確立しようとの個別的試みが個々の例のまま留まるのか否か、これらは事態の推移の中でのみ示されるだろう。しかし歴史の逆説によって、例えロシアが事実上の事業家階級を生み出すように運命づけられているとしても、この役割を満たすことのできる者は「新ロシア人」ではなく、組織された労働者なのだ。
 
パレスチナ      正気を失った破壊
               
ミッシェル・ワルショウスキイ
 
〈イスラエル発〉
 イスラエルは今、判断力のない泥酔運転手の運転する、時速一〇〇マイルで暴走するバスのようだ。このバスは通り道にあるすべてのものを破壊し、どのような停止信号でも止まらず、混沌の中にまっすぐに突っ込んでいる。われわれは、破壊的で殺人的な、限度を失い、正気を欠いた暴力熱を目にしている。救急車や医療チームは銃撃され、教会やモスクさらに外交官車列やジャーナリストも同様だ。占領地の状況を何よりも先ず知ろうとして到着するアメリカやヨーロッパの市民は、まるで彼らがフーリガンであったかのように追放される。そして同じ扱いが、EU理事会代表に対しても向けられる。人々は頭を打ち抜かれて殺され(ラマラでは最低でも六名)、通りすべては、住民を家にとどめたままの砲撃やミサイルで破壊されている。すでに何千人もの市民が連行された拘留キャンプの中では拷問が行われている。
 はたしてどれだけの死があったのだろうか。
 二千人かそれ以上か。
 
 シャロンの真の狙い
 
 ジェニンの難民キャンプでは、あらゆる条件での正真正銘の大虐殺があった。それは一九五三年のキビエ、一九八二年のサブラ、シャティラと同様であり、そのすべてがシャロンによって実行されたのだ。
 この破壊的無軌道の背後に横たわっているものは何か。政府に関する限りそれは、ウルトラ民族主義とアラブ人への憎悪、そしてメシア原理主義を混ぜ合わせたイデオロギーの結果である(シモン・ペレスの存在は、イスラエル労働党を国家社会主義とは別の何物かであると信じてきた国際社会民主主義内部にも、上記諸要素が区別されずにあることを確証するだけだ)。彼らの戦争は、アラブ人を浄化する、エレッツ・イスラエルを目指す聖戦なのだ。
 イスラエル民衆、とりわけ一時和平プロセスを支持した何十万もの男女に関する限り、その和平プロセスはどうしても言わなければならないが、エシュド・バラクの談話によって、いともやすやすと、よく分からないものにされてしまった。彼はキャンプ・デービットでは、パレスチナ人がイスラエルとの和平をまったく望んでいないということを証明することに成功し、そこではただイスラエルを破壊するための巧妙な術策に引き込まれたにすぎない、と明言したのだった。シャロンの勝利はそのような主張の必然的結果だった。
 以下のことを繰り返し言うべきである。戦争が、たとえその勢力がしばしば極度に不均衡なものであろうとも、二つの相対立する軍隊を想定するのであれば、今おきていることはイスラエルとパレスチナの戦争ではない。またそれは反テロリストの作戦でもない。なぜならば、三万人の兵士と一千台以上の戦車や戦闘ヘリコプター、ジェット戦闘機を持つ組織を解体するわけではないからだ。
 それでは今衆目の的になっているものは何なのか。それは、巨大な鎮圧作戦を、植民地主義を経験し、あるいは学習した人すべてにはすぐさまよく分かる二つの考え方と結合させた一つの懲罰作戦なのだ。
 この懲罰作戦は、自爆攻撃への対応ではない(作戦は、最初の自爆攻撃のはるか前、一昨年九月末に始まった)。それはむしろ、二〇〇〇年七月のキャンプ・デービットでのエシュド・バラクが下した絶対命令受け入れを、パレスチナ民衆と彼らの民族指導者が拒絶したことへの対応だったのだ。彼らの母国の歴史的領域二十二%に甘んずるとのパレスチナ人の気前のいい申し出に対し、バラクは、パレスチナ領域のさらに二十%なにがしかを上積みし、入植地のかなりの数を維持し、さらにそれにも増してハラム・アルシャリフ(エルサレムのアル・アクサ・モスクとその周辺―原注)へのユダヤ人の統治権を確立するようにとの要求をもって応じたのだ。とうてい受け入れようのないこの不当な要求を、パレスチナ人は、彼らの歴史的妥協、より一般的には国連決議と法の原理に基づく共存への彼らの意志に対するイスラエルの拒絶と理解した。
 しかしながら、イスラエルの攻撃の本質は懲罰の側面にではなく、鎮圧にある。それは前民衆をひざまづかせ、屈服させ、シャロンの計画を受け入れさせようとすることをめぐるものである。というのは、しばしば想像されていることとは異なって、シャロンには一つの計画があるからだ。その計画とは、パレスチナ民衆を現在居住している地区に閉じこめ、それを紛れもないバンツースタンに変え、占領地の残り(五〇〜六〇%)での入植過程に点睛を入れ、それをイスラエルに併合することである。上記の計画においてこれらのバンツースタン(シャロンはそれらを、いくつもの「広東」と呼ぶ)は、ヤセル・アラファトの無力化とパレスチナ国家機構解体後に地位につける協力者によって統治されるものと想定されている。
 
 国際的圧力なしには惨禍が
 
 何千人もの死や彼らの社会基盤の破壊にもかかわらず、絶対的に降伏の兆候をなんら示していないパレスチナ民衆の断固たる姿勢のゆえに、これは失敗を宿命づけられた、正気の沙汰とは思えない目標だ。失う物がこれ以上何もない人々の決意のもとで、西岸とガザ回廊の女と男は、イスラエルの暴力に英雄的に抵抗し続けている。
 パレスチナが降伏するか、あるいはイスラエルを率いる極右政府よりももっと断固とした別の権力がイスラエルに攻撃をやめさせ、占領地での入植地建設を解体させるまでシャロンの殺人的暴力が止まりそうもない理由がこれだ。一〇年以上前、当時のイスラエル軍参謀長、ダン・ショムロン将軍は、パレスチナ民衆の運動を打破るために採用する方法を決定する前にイスラエル軍は、二つの要素を考慮しなければならない、と語った。すなわち、あり得る国際的圧力と強力な国内的反対の存在だ。これらの二つの要素が占領軍に、可能な抑圧手段の限界を定める、と将軍は語った。しかし過去十八ヶ月の推移においては、この二つの要素の欠落はひどい物だった。
 ヨーロッパの場合、国際的圧力は言葉の上での非難やあいまいな圧力以上のものではない。一方、九月十一日以来アメリカは、反テロリズムの世界十字軍におけるゴーサインを出してきた。
 イスラエル社会に関する限りでは、挙国一致政府と軍のもとに統一され、事態は敵か味方かの二者択一である。バラク、次いでシャロンのテロリスト政策への協同から徐々に離脱し始めた平和運動を別にして、一九五〇年代の考え方と行動に戻ることが必須である、と人々は心から信じている。その五〇年代、イスラエルはアラブとの戦争に完全に動員されたのだった。それはまるで七三年の戦争以来何事も、サダトの出現はおろか、エジプトとの和平も、マドリード会議も、オスロプロセスも、ヨルダンとの和平、あるいはサウディ提案も何も起きてこなかったかのようである。社会の心理は平衡感覚を欠き、残忍であるがしかしまた、自暴自棄的であり異常なものである。ジュネーブ協定は踏みつけにされ、戦争法規も守られず、国際関係の規範は掃き捨てられた。
 しかしそこには完全な免罪がある。ヨーロッパ諸国家はどのような重大な制裁も課さなかった。アメリカの場合は、野蛮に対決する文明世界の十字軍をいかに導くべきかの手本を与える者として、シャロンを支持している。
 確かに市民社会はこの間、パレスチナ民衆との連帯をもって二百万人がデモをしたラバト(モロッコの首都―訳者)からカリフォルニアのバークレーまで、戦争犯罪に対して一万五千人以上がデモをしたブリュッセルからニューカレドニアのヌメイアまで立ち上がった。ヨーロッパ議会はイスラエルへの経済制裁を求める、この覚醒を映し出した。それはテル・アビブから大使を召還したムバラクにも言えることだ。しかしながらそれはあまりにちっぽけであり、悲劇的に遅れている。
 シャロン政府とその軍の殺人的狂乱と、イスラエル民衆多数派の精神的平衡の崩壊とは、強力で直接的な干渉を必要としている。
 これが先延ばしにされるならば、パレスチナはその存在をやめ、イスラエルはマサダの闘士の運命を甘受し、中東全域は核の惨禍の野となるだろう。
 これは黙示録的誇張だろうか。そうではない。赤信号で止まらない者に何が起きることになるかを思い起こすだけで十分である。
 (インターナショナル・ビュー・ポイント誌五月号) 
 

 
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