2002年9月10日        労働者の力             第 149・150号


 同時自爆テロから一年
アメリカの覇権主義と小泉訪朝

 
川端 康夫
 


 アメリカによるユーラシア支配への踏み込み

 九・一一の自爆テロから一年が経過した。アメリカではさまざまな追悼の催しで忙しい。マスコミも大々的な特集を続けている。対テロ戦争を打ち上げ、アフガン攻撃を強行したブッシュ政権は、いまはもう対テロではなくイラク攻撃に躍起になっている。事件の張本人といわれたオサマ・ビン・ラディンやタリバーン政権の最高指導者オマルなどの行方は依然つかめていない。アフガンやパキスタン各地ではテロが横行し、いずれもアルカイダとの関連が噂されているが、確証はいずれもない。
 九・一一以降、世界は大きく変わり始めた。その最大はアメリカブッシュ政権の公然たる力の政策への移行であり、そしてその中東における副官としてのイスラエルによるパレスチナ民衆の屈服を狙う力ずくの攻撃である。アメリカブッシュ政権は二〇世紀の歴史の総括として、軍事的先制攻撃という論理を持ち出し、核攻撃も含む力による世界制圧を唱え始めた。イスラエルのシャロンが属するシオニスト右派もまた旧約聖書の領域の回復とパレスチナ民衆をいわば「居留地」に押し込めることを暗黙の合意事項にしている。
 われわれは現在、アメリカの世界政策の骨格を、いわば古典的な意味での海洋軍事力による大陸支配と定義していい時代に入ったと考える。世界唯一の圧倒的な軍事力を背景にアメリカは世界支配の焦点であるユーラシア大陸の制圧に本格的乗り出しつつある。
 九・一一以前、ユーラシア大陸は基本的にアメリカの覇権が及ばない地域、大陸として存在していた。アメリカがソ連崩壊後に打ち出した「新世界秩序」は政治的には全くの手つかず状態であった。さらに新自由主義のグローバライゼーションそのものがシアトルのWTOの破綻以降、袋小路に入ってもいた。ユーラシアの西の端のEUが東の端の朝鮮半島に政治的介入を開始するという事態も起こり始めていた。アメリカは政治的、経済的にその方向性を明示することが難しくなっていた。これがクリントンからブッシュへの転換の時期の特徴だった。
 九・一一以降始まったものは、ユーラシア大陸へのアメリカ軍事力の強力なくさびが入ったことであった。ロシア―中国の間の中央アジアには三つの国にアメリカ軍が展開している。グルジアにもアメリカ軍が展開した。ロシアの裏庭がアメリカ軍の展開する地域になった。南アジアの火種、インドとパキスタンという両核保有国もまた基本的にアメリカの影響力の下に入った。結局アメリカは狙いとするカスピ海の石油資源をインド洋へのパイプラインで輸送する通路を確保したことになる。
 サウディやヨルダン、エジプトはもともとアメリカの友好国であり、サウディにはアメリカ軍の駐留がある。そもそもビン・ラディンの反米テロの動機の一つにサウディへの米軍駐留があったことは周知のことだ。残されたものは中東諸国であり、北東アジアである。イラクへの攻撃準備はまさに中東における軍事支配の実現、そしてもちろん原油資源の確保である。イラクが核開発を進めていようが、生物化学兵器を開発していようがアメリカにはどうでもいいことである。ようするにアメリカの支配力を認めない国家あるいは政府の解体に狙いがあるのだ。
 北東アジアについては後述する。

 副官帝国主義か大陸への接近か―日本政治の分岐
 
 海洋による大陸支配―そのための強力な装置として、大陸にへばりついた二つの島嶼帝国主義の位置が浮上した。イギリスと日本である。この二つを支持装置として、ユーラシア大陸の両端の地域、リージョンの重しとする、これが副官帝国主義としてアメリカがイギリスと日本に付与する役割である。新自由主義の資本主義であるEU、社会主義市場経済を突き進む中国が、ともに地域的にアメリカとは総体的な独自性を持つのは当然である。これがロシアを媒介にして結びつくとすればアメリカの世界覇権はきわめて危うい。新自由主義的グローバライゼーションを共に掲げようとも、帝国主義としてのEUが独自性を持ちアメリカと対抗する関係であることは明らかであるし、社会体制が異なる中国をアメリカが最終的な潜在敵と認識していることも明白である。
 日本とイギリスの副官帝国主義の役割は、まさにアメリカが大陸を制圧する鍵的役割を果たすことなのである。
 だが、イギリスと日本は、その経済的基盤においてリージョンとしてのEUや中国大陸から切断された存在としてはありえない。イギリスも日本も経済的には大陸の一部として行動する以外に道はない。ここにこの両国の根本的矛盾が横たわっている。イギリスの場合、すでにEUの一部として行動し、北大西洋条約機構(NATO)の一部として行動しているわけだから、表面的には摩擦は大きくはみえない。しかし日本はどうか。北東アジアは未だ冷戦構造がそのままに残っているのである。台湾海峡と朝鮮半島である。
 この地域にはNATOのような安全保証機構がない。しかも東西対立構造が基本的に解体して以降の十年、アメリカはこの地域における冷戦型政治構造の解消への努力をしてはこなかった。反対に沖縄基地を存続させ、北部朝鮮と中国への軍事的圧力を加え続けてきている。そして今年、ブッシュは北部朝鮮を「ならず者国家」に加えた。
 この地域における副官帝国主義への道は即座にこうした北東アジア構造と衝突することになる。
 日本政治の根本的分水嶺はしたがって、こうした大陸とアメリカの関係をめぐるものとなる。自民党における派閥力学もそうであるが、与野党関係の基本軸が大陸政策におかれるのである。言い換えれば、大陸に意識的に接近する政策体系がアメリカと意識的に距離を置く政策になる。いまだ日本の野党サイドにはこうした国際的力学を意識した政党は、最近の日本共産党を除けば見あたらない。社民党はいまや全くの一国主義護憲政党である。国際綱領を持たずして独立した政党となることは不可能である。
 橋本派は相当の意識を中国においている。それは一種の綱渡りであるが同時に「ハト派」である保守本流意識と表裏一体でもある。小泉は「タカ派」である旧岸派、福田派であり、その意識は古色蒼然とした「日本主義」と反共主義のアマルガムである。大陸や朝鮮半島への意識は極度に低い。小泉外交が場当たり主義で、矛盾そのものなのには理由があるのである。
 その小泉の突然の北部朝鮮半島訪問をめぐって日本主義的右翼マスコミは金切り声を上げている。自民党内のそうした部分、平沢勝栄らもそうであり、さらに純アメリカ派というべき阿部晋三もまたそうである。
 小泉周辺の腰もまた引けてきている。本紙が手元に届いてすぐに結果が解るだろうが、拉致問題が入り口でなにが生まれるだろうか。
 ともあれ、中国を中心にする大陸との関係が日本政治の今後の鍵であることを小泉訪朝問題は突きだしているのである。
 (九月十一日)

 国際主義労働者全国協議会

第十四回総会コミュニケ
 


 国際主義労働者全国協議会はさる八月**〜**日、第十四回全国総会を開催した。
 総会は、政治情勢と方針(川端)、危険に満ちた世界の幕開けと革命派の任務(寺中)、世界大会について(高木)、労働運動の現状と展望(坂本)、日本支部再建について、財政・その他の議題で行われた。かっこ内は報告者。
 「政治情勢と方針」は、九・一一以降のアメリカの行動の性格を海洋覇権国家によるユーラシア大陸の制圧として押さえ、大陸とアメリカの関係が島嶼帝国主義である日本政治の最大の政治的分水嶺となるとし、その上でこうした政治性格を体現する新たな政治潮流が政党として登場する必然性を指摘した。その必然性の上に新たな左翼政党が生み出されなければならず、また長らく分離してきた政治と労働運動の乖離が再統合されることになるとし、その創出が求められていると提起した。
 「危険に満ちた世界の幕開けと革命派の任務」は、基本的にはサッチャー以降の新自由主義の資本主義を分析し、それが七〇年代以降に顕在化し始めた資本主義の長期的停滞局面をいささかも打開しなかったことを示し、「IT革命」も資本主義の長期的な上昇局面を切り開く役割を果たし得ていないことを明らかにしようとした。そうした中で進められているグローバリゼーションは富の極度の偏在と社会それ自身を解体に追い込むまでの破壊的作用を全世界において現象化していること、そこから生起してくる「絶望」に対して世界的な反グローバリゼーションの大衆運動が拡大していること、そしてヨーロッパにみる労働運動の攻勢の開始があるとし、労働運動の長期的、世界的高揚こそが長期的停滞にある資本主義からの脱却の道を示すと結論した。
 「労働運動の現状と展望」は、労戦再編以降の総括の上に、いまや総評型労働運動の最後の時期が経過しつつあると要約した。連合結成以降の左派労働運動は「総評運動の継承と発展」を掲げたが、それはあまりにも歴史的限界を引きずった方針にすぎず、結局は左派労働運動自身の「空白の一〇年」が経過した、と結論づけ、新たな労働運動は企業の外部に、独立的に生み出されなければならないとした。
 世界大会―略
 日本支部再建に向けては、先に七月二十日付で公開で出された高木圭、野田久両同志の呼びかけ「第四インターナショナル日本支部の再建にむけ、統一協議会の設置を呼びかける」を支持し、行動を開始することを提起し、了承された。
 
 総会は、「政治情勢と方針」について、労働運動を包摂した包括的なものとして組み立てられるべきであること、その観点からより具体的課題に踏み込んだ討論をこの秋に集中的に継続することを確認した。「危険に満ちた世界の幕開けと革命派の任務」に関しては、「IT革命」問題の認識も討論点となった。総会は提案文書を『労働者の力』に連載することを確認した。労働運動の討論では、この春に闘われたNTT大合理化闘争の総括が報告され、NTTが作った巨大な海外赤字以降、東アジア、とりわけ中国市場への展開へと方向を変えつつあること、しかしそれはすでに遅しの感があることが報告された。東アジア、とりわけ中国大陸を射程に入れた労働運動が要求されていると報告者は要約した。 以上。 
 
      ―長野知事選―
 自立的運動が作りだした小泉改革への決別
    
権力の思惑を越えた民衆の選択と新たな闘いの浮上
              
神谷 哲治                                                                  
 
 長野知事選で田中康夫氏が再選を果たした。得票状況は前回と合わせて表1に示したが、見るとおりまさに圧勝であった。
 マスメディアの多くは田中氏再選を、「改革型リーダー」への国民的期待の現れと概括し、石原都知事をも含む「無党派知事」登場と同一の流れと評価する。その上で田中氏再選を、小泉改革に連なるものと印象づけている。しかしその評価は正しいだろうか。
 
 民衆的反乱
 
 今回田中氏は、全県十七市の全部、一〇三の町村中の八四の町村で首位の得票者となった。前回選挙での首位が一五市、二七町村にとどまったことと比較すれば、まさにこの面でも都市部、郡部の別なく全県的に圧勝した。この圧勝は、県内の既存権力を代表する県議、市町村議員、市町村長全体の圧倒的多数、加えて連合の労働組合ボス、商店会有力者、公明党という実質的な宗教的権威すべてを敵に回して獲得されたものであったことを考えると格別の意味を持ってくる。
 すなわち事実上、頂点から草の根に至る既成の権力総体が全県的に区別なく拒絶されたのだ。その意味でこれは、権力への一つの民衆反乱であり、『週刊金曜日』で保屋野初子氏が「市民革命」と称したこともあながち誇張とはいえない。
 そしてこの全県的勝利は、田中氏を選択した人々の判断が地域や業種などの狭い特殊利害を越えた、ある種理念的なものであったことを示している。それをうかがわせるものに、毎日新聞が当日実施した出口調査結果がある(図1)。「和をもって尊しとなす」日本的風土の中ではbの多さは当然としても、aとcの対比は、田中支持者の理念重視傾向を鮮やかに示している。
 さらに知事選と同時に実施された二つの県議補選結果も注目に値する(表2)。この補選で共産党は、双方の選挙区で従来の三倍以上を得票した。その上民主党特別代表の羽田氏のお膝元の上田市で、羽田後援会幹部に一万票以上の大差で勝利した。二つの補選はかなり離れた地域である。したがって今回の共産党の成果に地域的特性はないと見るべきだろう。知事選との連動は明らかであり、田中支持者のかなりの人々は、共産党に投票することを選択したのだ。共産党の得票率と田中氏の得票率を比較すれば(田中氏六四%、県議補選共産党候補者、下伊那郡三七%、上田市五八%)、双方の投票者の重なり合いが相当に高いことを推測させる。
 既成政党を取り上げれば共産党は、際だって理念型の党である。なおかつ民衆の目にこの党は明らかな反体制党と映っている。近年の日本で広範な民衆の日常から消えてしまっていたかにみえた、ある種普遍的な理念的価値が人々をとらえ始めたというべきである。そしてその理念は、既成の権力が体現してきたものとは鋭く対立したものである。その事実を、二つの選挙は共に示している。
 
 埋まらない権力の空白
 
 上記の長野県民の踏みだしには客観的根拠があった。長野県は四十一年もの間、副知事が知事へとスライドする形で、まさにテクノクラート支配の下におかれていた。民衆は県政にまったくタッチできない構造ができあがっていた。この中でたとえば、長野オリンピック招致の不正は、帳簿紛失などという信じられない形でうやむやにされ、長年の県政の結果として莫大な負債と甚大な自然破壊が残された。従来の県政はとうてい続行不能の状況に立ち至っていたのであり、それは日本国家の現状を最も目に見えやすい形で示すものだった。
 転換は誰の目にも不可避でありそれは必然的に、どのような未来を望むのかとの問題を浮上させる。理念の比重は高まらざるを得ない。
 一方において上にみた県政の状況では、権力の頂点から末端に至る隅々まで張り巡らされた恩恵的利益配分の網はもはや維持できなくなっていた。配分される利益は細らざるを得ない。
 加えて小泉改革は、労働者のみならず、既成権力秩序の草の根的支え手として地域社会を土着的に統合するつなぎ目となってきた地場資本、中小商工業者を直撃するものだった。地方商店街のいわゆる「シャッター通り」化だ。それは長野県においても例外ではない。つい今しがたまで日本の高付加価値産業拠点として持ち上げられてきた諏訪ですら、大独占資本の海外展開によって苦しめられているのだ。時あたかも富士通は、長野と須坂の工場閉鎖を発表し、三千名にのぼる労働者を放り出そうとしている。しかしそれはまた、地域の商工業者をも道連れ的に捨てることを意味するのだ。
 こうして小泉改革は長野県においても、権力の草の根的支え手から資力と同時に政治的活力、さらには権力中枢への信頼を奪った。それはまた、特殊利害が理念の代わりとなる力を急速に弱めるものでもあった。頂点がいくら笛を吹こうが、その合図はもはや民衆に何の説得力も威力も持たないものとなった。
 既成の権力秩序は音を立てて崩れつつあり、権力の足元には巨大な空洞が広がろうとしている。このような権力の空白の可能性を支配層が自覚していないわけがない。それ故支配層、とりわけ大独占資本は、一九八〇年代中盤から手を付けた「構造改革」と歩を並べて、権力秩序の新しい草の根的支え手の育成を追求してきた。日本新党から民主党に至る政治勢力育成は、その重要な核心的一翼である。その草の根に連合を中心とする上層労働者が連なることは当然にも期待されていた。
 しかし自己の支配下の労働者の政治化を極度に恐れ、ひたすら企業内に閉じこめようとし、なおかつあらゆる余力を企業活動に捧げさせ、「死ぬまで」働かせようとする日本大独占資本にそれは不可能なことだった。彼らの下の労働者には、組合ボスや経営者の指令に形式的に従う以上のことはできない。草の根的支え手は結局、いわゆるプチブルジョアジー以外にはいなかった。
 こうして地域に根を張った、支配層のコントロール可能な新しい権力の支え手とその政治理念はまだ生まれていない。民主党の地方組織はそれ故弱体なままである。有権者の過半を占める無党派層は、この事実を端的に示している。
 
 人民主権か人民管理か
 
 田中氏を最初に長野に招き入れた主唱者の一人は、長野県経済界の重鎮、八十八銀行の頭取であった。この人々から田中氏は、権力秩序の新たな支え手を結集させる軸となることを期待されたと思われる。石原都知事を含めたいわゆる「無党派改革型知事」の客観的役割こそ、そこにある。それ故マスメディアにとってもこれらの知事が重要なのだ。
 しかし田中知事は彼らの思惑を越えて自らの意志で進んだ。民衆との分け隔てない直接対話である。車座集会から今回の選挙運動に至るまで、田中知事の民衆との直接対話は、他の知事と比較すれば際だって濃密である。そして田中氏は事あるごとに、分け隔てをしないことを公言した。このある種の平等宣言と透明性は、ガラス張り知事室のような「形」から、記者クラブの廃止や、全労連からの全国初の労働委員実現などの実効的措置、まで具体化されている。
 田中知事の平等主義は、権力内部、すなわち「統治する側」と一般民衆、すなわち「統治される側」との間の分け隔てをも打ち壊す質を宿していた。テクノクラート支配の打破は、本来それなくしてはありえない。
 しかしまさにこの点こそ権力にとって絶対に許し難いことであった。「統治する側」に民衆を立ち入らせてはならないのであり、統治の問題は「統治する側」の中だけで検討され回答が得られるべきものであった。改革を絶叫する小泉を先頭に、他の「改革派知事」ともどもまさに権力はその線引きで共通なのであり、田中知事と百八十度対極にある。
 今回連合は反田中候補支持の理由に労働委員選任問題を上げたが、まさに問題の本質に触れていたのだ。そしてこの核心で、記者クラブ廃止に怒るマスメディアも同列に並ぶ。そうであれば、選挙中さらには選挙後にますます高まる「対話要求」の真の狙いも自ずと明らかになる。
 誰よりも民衆と直接対話してきた知事への「対話要求」とは客観的に、「統治する側」内部の、権力に近い側との対話を特別扱いし、優先せよ、との要求に他ならない。先にみた図の結果を毎日新聞は、bとcを形式的に合算し、田中支持者の七割が「対話を希望」とブチ上げた。しかしそれこそデマ的解釈以外の何物でもない。この設問の仕方ではbに回答が流れることは分かり切ったことであり、そこにたいした意味はない。真の意味は究極的選択としてのaとcに表れているのであり、その結論はあまりに明瞭だ。八月二十五日に行われた地元紙『信濃毎日』の世論調査では、「対立もやむを得ない」が五四%、民意のくみ上げ方では、「直接県民に聞く」が七九%だ、という(前掲『週刊金曜日』記事)。民衆は、民衆との直接対話は要求しても、権力内部の特別扱いされてきた人々との談合などまったく要求していない。
 権力に近い側が大声で叫び立てる「対話」の本質は、民衆を「統治」から遠ざける垣根を復活する政治に田中知事を引き戻す圧力なのだ。
 
 自立した民衆の結論、反小泉
 
 しかし今回の知事選で長野県民は、すでに自分から、ずかずかと権力末端の空白に入り込み、新しい関係を自分たちのやり方で築き始めていた。田中氏側の選挙運動が自発的でしかも無政府的なボランティアに徹底的に依拠したものであったことは、各種報道が共通に伝えている。組織力を持つ勢力は僅かに共産党だけであったが、その共産党にしてもあくまで勝手連的行動に徹したようである。
 田中氏側にそもそも独自の選挙組織はない。加えて今回の選挙は、県議会の唐突な、衝動的ともみえる不信任決議に端を発していた。民衆に上から差し出される形の仕掛けは前もっては用意されていなかった。
 しかし民衆はこの状況を受動的に傍観しなかった。事前の世論調査にみられた選挙への関心の高さや前回を上回る投票率が示すように、民衆はまさに積極的に今回の選挙に立ち向かった。むしろ民衆がこの機会を、田中氏をいわば利用し、勝手に自分のやりたいように動き出したともいえる。ある意味で既成権力側は、あまりに見え透いたでっち上げ的「市民派候補」をしつらえ、自らの空虚さに上塗りすることで、それこそ民衆に自ら動き出す機会を与えたのだ。
 極限に達しようとしていた民衆の権力に対する怒りと不満、そして田中知事が着手した直接民主主義的「改革」が生み出した身近な民主主義への希望は、まさに既成権力の薄汚れた策動にはじかれて、田中知事の掲げた理念との間に巨大な共鳴をつくり出した。
 そして民衆が自ら動き出すとき、それはどのような権力の思惑をも越えたものとなる。誰にも邪魔されずに各々の要求が表に噴き出し、それが運動の方向を形作ってゆく。各種世論調査、出口調査はおしなべて、今回の田中知事支持者に政策的要求が強いことを明らかにした。田中支持はムードではなかった。設問のいい加減さのために、これらの調査結果だけでは政策要求の真の性格は必ずしも鮮明ではない。しかし小泉改革とのズレは明確にみてとれる。むしろ先にみた、反小泉的補選結果がその性格を反映しているとみてよい。そして田中氏自身、県民と対話し続けた選挙戦を総括し、TVインタビューに以下のように断言している。「争点は明確だった。税金の使われ方であり、物事の決め方。私は福祉、教育、環境に予算を傾注投資してきた。人が人をお世話してはじめて成り立つ領域で、二十一世紀型の雇用になる」(九月三日付『赤旗』)。
 長野県民は「理念ある改革」を「自分たちのための改革」を要求し、自分たちの手でそれをたぐり寄せようとした。そしてそうした途端、それは小泉改革とは理念も手法もまるで逆のものとなることが明らかになったのだ。
 
 第二段階の闘いがはじまっている
 
 繰り返すが長野県民の直面していた問題は日本全国共通であり、日本国家をもとらえている。その上、長野県民が踏み出した道は、巻町の住民投票からの一連の挑戦としてここ何年も引き継がれ、しかもより強くなる流れに明らかにつながっている。長野県民の行動と選択はその意味で例外でもなく孤立してもいない。むしろ潜在的には、日本民衆の深部で着実に成長している普遍的な流れの表出と考えるべきだろう。
 権力があわてふためくことはある意味で当然である。官房長官福田は、「争点が何であったかよく解らない」とそっけなくコメントし、むしろ警戒感をにじませた。直後のマスメディアは、補選結果を知事選から完全に切り離した上で、小泉改革と田中再選の同一性演出に躍起となった。今回の知事選の真の意味を隠したいとの意図は明らかである。
 そして時を置かず、「対話を」の大合唱が高められている。
 すでに第二段階の闘いが始まっている。民衆が自らの手で始めた本物の改革に向かうのか、それとも民衆を遮断し、民衆の望むものとは似ても似つかない、支配層のための改革へと道をそらすのか、がそこには賭けられている。
 しかしそれは客観的には、日本の民衆総体が突きつけられている闘いでもある。新しい民衆的息吹の全国的再生に向けた客観的条件は足元で成長し始めている。長野県民の闘いはそれをわれわれに鮮やかに垣間見せてくれるものであった。長野県民の成果を真に生かす道と、小泉「改革」に反撃する新しい民衆的闘いは一つであり、それはわれわれがまさに挑戦すべき課題である。

         (九月十一日)

 危険に満ちた世界の幕開けと革命派の責任(1)
   ―民衆的抵抗から社会主義的革新へ―
 
      T.新自由主義の四半世紀
            ―ブルジョア支配の拒絶へ
 
社会の貧困化
 
1―1.一九七九年のイギリス・サッチャー政権の登場をもって始まった新自由主義の時代はほぼ四半世紀を経過した。新自由主義が何であったのか、に断を下すには十分な時間であり、民衆はすでに断を下しつつある。この四半世紀の結果について新自由主義は、もはや他の何にも責任を転嫁できない。
1―2.民衆の生活の場にこの資本主義がもたらしたものは何よりも、多くの側面における「社会の貧困化」だった。この事実は世界的に、いわば普遍的に現れ、とりわけ低開発地域では人間の生存そのものの危機へと至っている。グローバリゼーションが謳いあげられる一方で、「南北格差」は急速に拡大し、人間の分断はむしろ深まった。

・社会の成員が普遍的に支えられてきた社会の共有財―物的、精神的文化的―への乱暴な攻撃とそのやせ細り
・失業の全世界化と貧困の極端化
・一方での著しい富裕化
・格差の正当化、結果としての分断された社会
・共有的財の一つである地球環境の急速な劣悪化

 この「社会の貧困化」は、もっとも貧しく、もっとも不利な位置に置かれた人々に集中的な打撃を加えてきた。
1―3.その一方でこの資本主義の下で遂行された投資は、その社会的「効率性」を結局示さなかった。世界的規模での経済成長、あるいは生産の成長は、一九七〇年代初頭の落ち込みを回復できず、低水準のまま推移した。極的成長は残りの部分の極端な低成長をいわば糧とし、全体としては相殺的だった。投資は全社会的にみたとき非生産的に空費された、といってよい。  ・その成長と環境的社会的影響評価双方ともに不確実でいかがわしい巨額の冒険的投資―バイオ、化学、軍事技術、ITの全社会化
  
・短期的周期で繰り返される過剰蓄積と資本破壊(帳簿上の減価)―IT、通信
・物理的に残存する過剰蓄積の生産への負荷―実物生産の停滞と先進諸国での過剰消費
・金融的投機への不可避的傾斜―バブル圧力―投資のための投資
 このような投資の無軌道は、「何よりも投資を優遇すべきだ(したがって利益を保証せよ)」とする新自由主義のサプライサイダーによって後押しされた。しかしこの無軌道は、「ニューテクノロジーだけが未来への唯一の保証だ」との決めつけの下で、また競争の脅威の下で、いっそう加速されようとしている。

生産に忍びよる荒廃

1―4.その上現実の生産は、むしろ深刻な荒廃と脆弱化に向かう兆しをみせている。

・なによりも先ず深刻化する一方の地球環境の悪化は、農業を先頭に一次産業全体に深い傷を負わせている。しかもグローバリゼーションと結びついた先進工業諸国向け食料、原材料生産が十分な配慮もなく大々的に推進された開発途上地域では、生態系、水、土壌に再生の危機にさらすような問題を引き起こしている。
・ニューテクノロジーはこの点で、改善に貢献するどころか、むしろ悪化を後押ししている―BSE、遺伝子改変作物、乾燥地感慨(表流水、地下水減少と塩害)
・産業全体では局所的「効率化」、コストの外部化が叫ばれ、本来産業内部で負担されるべきコストが、社会、環境に放出され、産業の問題処理能力はむしろ後退に向かう。
・上記の一要素として労働の個人化と熟練の使い捨て―随時雇用とアウトソーシングが歯止めなく進められた。中国などへの国際的資本展開にもその要素は色濃い。この動きは、熟練養成コストの放棄、現にある熟練ストックの食いつぶしであり、将来的な生産能力を深刻な危険にさらすだろう。膨大な熟練労働力の移住・流入を当て込んでいるアメリカのみが、この危険を無視できるが、しかしそれは他の地域から本来必要な資源を奪うものである。
・上にみた熟練の放棄の中でもっとも重要な側面は、労働集団の中で成長し、継承され、保持される集団としての自律的熟練の解体である。
 この解体が真っ先に引き起こすものは、生産にまつわる諸々の異常探知能力の低下であり、事故や労働災害、そして製品品質の欠陥へと帰結する。規制解体が最先行した部門である交通分野で、すでに世界的に大事故が頻発している。労働現場における自律的連帯とその上に蓄積されている熟練を守らなければならない。
 この集団としての熟練の解体は、最終的に労働生産性の低下へと帰結するだろう。
 
・経済における金融の異常な肥大化は、実物生産への軽視、貨幣という数字のみで現実を判断する、ある種の観念論を強めた。その結果、上にみた生産に埋め込まれようとしている荒廃はほとんど看過される。また、この肥大化自身が金融資本市場のけいれん的性格を強め、かつその性格が生産を暴力的に攪乱する。ラテン・アメリカ―ロシア―アジア―ラテン・アメリカと続くこの連鎖で、当地の生産と民衆の生活は大打撃を受けてきた。
・金融の肥大化は、多国籍資本による生産の全世界的「最適配置」戦略の最重要手段でもある。このようにして全世界の工業生産は、中国、ブラジル、アメリカ・メキシコ国境などを極とする、ある種の集中への動きを高めている。しかしそれ自身は生産の多様性を奪い、むしろ生産総体の脆弱化を内にはらんでいる。「一斉に走る」傾向の強い日本資本には特にその危険は高い。

 上にみた生産の荒廃化と脆弱化は短期的には、多国籍資本、巨大金融資本をなんら傷つけない。彼らは基本的に「渡り鳥」であり、次々と収益の場を変えるだけである。あるいは、荒廃と脆弱さは投機のチャンスですらある。
 彼らの推進する新自由主義のグローバリゼーションは、民衆に苦難をもたらす、この生産に忍び寄る荒廃化と脆弱化をさらに深めている。

希望のための拒絶

1―5.一九九〇年代中葉に生じたヨーロッパ諸政府の社民化は、このような結果に対する最初の異議申し立てだった。しかしこの社民政府は、新自由主義政策を推進する政府だった。政権についた労働者代表は、客観的には民衆の抗議を押さえ込む役割を与えられた。民衆の希望は裏切られ、社会の荒廃は持続した。この政府が民衆から見捨てられることはある意味で必然だった。
1―6.端的にいって、いま世界の民衆は未来への希望を奪われている。パレスチナ民衆の上に悲劇的に、極端な形で襲いかかっているものは、この世界の現実の一環である。新自由主義の四半世紀の結論がここにある。
 新自由主義者はいまなおさら、自由市場で誰もが成功する希望をあおり立てている。しかし、民衆は、一人の「成功者」の陰に圧倒的多数の悲惨が不可避的に伴うことを目撃してきた。新自由主義者の希望とは無数の民衆にとってただ絶望をしか意味しない。日本では年間自殺者数が一九九八年突如五〇%跳ね上がり、その水準は今も続いている。新自由主義の希望がもつ真実の意味がここに隠しようもなく現れている。
 未来とは、まさに青年のための時代である。未来への希望を奪った新自由主義はそれ故、青年にもっとも非和解的に敵対している。こうして新自由主義は客観的には青年という未来の体現者によって前途をふさがれる。それはいままさに全世界的な反グローバリゼーション運動の中での青年の大衆的登場によって明らかなものとなりつつある。
1―7.新自由主義とそのグローバリゼーションの作りだした社会の不条理はますます明らかになろうとしている。それは一体誰のための、何のための社会であるのか、このことが公然と問われ出した。一九七〇年代前半の戦後資本主義の行き詰まり―失業拡大と高インフレーションに対し支配層は、経済安定化と新たな成長を約束してきたが、民衆が受け取ったものは逆のものだった。支配層全体の権威はが揺らぐことは当然だった。先進諸国では普遍的に棄権率が上昇し、政治的上部構造の中軸に位置してきた政治勢力は左右を問わず縮小し、左右の急進派が台頭し始めた。ブルジョア二大政党制という強固な壁に守られてきたアメリカですら、緑派のラルフ・ネーダーの二七〇万票得票という驚天動地の現象が現れた。
1―8.この支配的権威の動揺は、一国レベルにはとどまらず、国連やその他の世界的権力体制にまで貫徹している。運動という形に現れた、より明確な不信の表明は、これらの国際的体制に対してより直裁である。民衆からの隔絶の度合い、密室性と非民主制がこれらに際だつことは誰にも明らかなのだ。民衆はもはや、これらの点を正当だとはみなさない。「もう一つの世界は可能だ」とのスローガンで、世界丸ごとの作りかえが世界の民衆の共通感覚に浮上しつつある。あるいは、現在ある体制以外のシステムはありえないとする支配層の宣伝への民衆的挑戦が始まっている。

U.固有の社会を作れない新自由主義

生まれない新しい社会

2―1.みてきたように新自由主義の資本主義は社会に乱暴に手をかけた。社会的なものを含め、あらゆるものを分解し、商品とし、収益の対象とすることは資本主義に内在する本性である。この基本性向を新自由主義はまさに解き放った。新自由主義の原型である新古典派の生まれた一九世紀末とは比べようもなく「発展」した技術的手段と「合理的精神」の下で、この解き放ちはそれだけ激烈な性格を帯びた。
2―2.資本主義とは一般的に、確かに古い社会を解体してきた。しかし同時に資本主義は、その中軸である賃労働関係を中心に、新たに社会を再編し、新しく社会を形作ることでその存立と成長を支えてきた。
 ところが新自由主義の資本主義は、自身にふさわしい、自身と相互に成長しあう、そのような新しい社会を生み出す兆しを何ら発信していない。
2―3.新自由主義の生み出した現実の問題に対抗するために人々は、特に一九九〇年代以降さまざまに新しい結びつきを作り上げてきた。
 NGO、NPOを含め、新しい住民運動、新しい労働組合運動、社会運動が世界各地で民衆の自主的な結合として無数に生まれている。さまざまな色合いを持ちながらも、これらの性格の大枠が新自由主義と敵対的であることは、反グローバリゼーションへの世界的合流、世界社会フォーラムの成長に明瞭に示されている。新自由主義は、これらの新しい人々の結びつきと調和的な関係を何ら作り上げることができずにいる。G8は山奥に、WTOは砂漠の中に逃げ込み、片方でブッシュ政権のような強圧的抑圧路線を登場させた。
2―4.新自由主義が民衆に提示するものはただ「自立自助」である。民衆は極度に個人化した労働を前提とした「柔軟で流動的な労働市場」の中を「自己決定」で泳ぎ回ることを要求されている。社会的なものは限りなく商品化され、したがってそれは市場で調達されるべきものとされる。この上に労働力の対価―民衆の生活の再生産費用―の完全な個人化(たとえば純粋な成果賃金)が加われば、社会の個人への分解は限りなく進むだろう。しかしこのような、社会の個人への分解は不可能である。人間が社会的存在であるとの本質規定は別にしても、たとえば現代の高度な生産が分業を含め集団労働の成果であるという現実を前にすれば、純粋な個人別成果賃金などあまりに非現実的なのだ。おずおずとした富士通の挑戦すら破綻したことは何ら不思議ではない。
 それ故、新自由主義者は新自由主義の帰結にある「社会像」についてはなにも語らない。彼らが語るものはただ「個人」の可能性だけである。
 新自由主義は現実には、ただ一つの例外を除いて、その到達社会をあいまいにしたまま、社会的分解の力学を放置している。

破壊される、社会の持続可能性

2―5.一九九〇年代のアメリカで、唯一の例外、個人化された報酬の追求があった。ここでは民衆の生活を再生産するものはもはや労働力の対価ではなく、金融所得である。賃金部分の切り下げをストックオプションや401Kで埋め合わせる報酬体系が、経営者層ばかりではなく、IT産業や航空産業を中心に一般労働者にまで広げられた。いまではアメリカの家計の五〇%以上が株式を保有していると評価されている。一九八〇年代に顕著となった賃金の下落(高賃金職種の縮小)とその後の低位での持続が、アメリカの内需に必ずしも打撃を与えなかったことの一端はここにある。一九九〇年代のアメリカはこのような形で、新自由主義と個人化された民衆の間に一種の調和が形成されたかにみえた。「ニューエコノミー」の到来とその繁栄が高らかに謳いあげられた。もちろんその陰で、極度に無権利かつ低賃金の労働が大量に不可欠なものとして組み込まれ、新しい反抗が準備され始めていた。その意味では、「ニューエコノミーの社会」はその最初から何らかの持続性も成長性も保証されていなかった、ということは確認しておく必要がある。
2―6.しかし「ニューエコノミーの社会」は自らの内に抱え込んでいた虚妄性によって、その存続を決定的に限界づけられていた。それはよくて壮大な手品、正しくは「詐欺」だった。二〇〇〇年春以降に始まったNY株式市場の変調がその手品の種を尽きさせ始め、昨年暮れ以降の企業会計不正の露見をもってその仕掛けが露呈することになった。
 アメリカのブルジョアジーも、世界のブルジョアジーも、このほころびを取り繕うために全力で策を弄するだろう。しかし「ニューエコノミー」の根源にある空虚さは、いつまでも人為的に蓋のできるものではない。アメリカも近い将来、新自由主義が他の世界にばらまいてきた社会的解体という現実と向き合うしかない。
 こうして新自由主義の資本主義は、世界中で例外なく、自らの社会の不在という存立基盤の空洞をさらけだすことになる。
2―7.「ニューエコノミー」のメカニズム―略
2―8.新自由主義の資本主義、その下でのグローバリゼーションは、その存続と成長を支える社会的基盤を作り上げるどころか、むしろその解体、食いつぶしに栄養源を得ていた。
 環境、生態系をも包含する社会総体の「持続可能性」が危機にさらされている。開発途上地域を真っ先に襲ったこの危機は、新自由主義の資本主義が生み出す普遍的なものとして、いま人々の前に立ち現れつつある。
 民衆の心の中に漠と広がりはじめた、あらゆる側面での「持続可能性」問題は、よりいっそう明確な形をとり、より強く根源的に体制を問う問題とならざるを得ない。

新自由主義拒否が不可避に

2―9.新自由主義の四半世紀は、この資本主義に固有の、自身を支える社会を作る上での著しい能力の欠如を事実で示すものだった。しかしこの事実の根底には、新自由主義、その基軸である新古典派理論を貫いている基本的現実理解がある。その理解とは、複雑に絡み合い、多元的に展開されている人間諸活動から切り離して、経済活動をそれだけで完結しうる領域として閉鎖的に構築し、純粋な個人的利得行為の体系に編み上げ得るという理解だ。ここにあるものは、あるがままの現実を直視する姿勢ではなく、観念に合わせた現実の解釈である。
 新自由主義は、この観念的姿勢をさらに拡張し、事実上すべての人間活動を利得行為で理解する傾向を発展させた。その意味で新自由主義は、新古典派の急進主義的展開と性格づけることもできる。
2―10.上にみた新自由主義の論理は、現実にはすべてのものを市場の解決にゆだねる「市場原理主義」の徹底化として現れた。「市場原理主義」が高々と持ち上げられ、人間諸活動の広範な分野に市場が拡張された。しかし市場の想定する人間は、経済的、個人的利得のみを唯一の関心事とするバラバラの個人でしかない。ここに「社会」が介在する余地はない。
 一方で新自由主義派のブルジョアジーは自らを経済に、より正確には自己の事業にのみ集中させた。他のすべてはそれぞれの専門家に預けられた。ある意味で徹底的に「合理的」なこの機能主義を隠れ蓑に彼らは、事実上社会から自らを切断した。狭量ともいうべきこの新自由主義者に、多面的な現実の社会に迫る能力はとうてい期待できない。
2―11.新自由主義に内在する論理が現実にそのまま展開することを抑制するものを新自由主義は、その思想の中にも担い手の中にも欠いていた。その意味で新自由主義は、その最初から社会をはじき出していた。
 社会は外部から、新自由主義の否定として持ち込まれる以外はない。新自由主義の資本主義自身、社会からあまりにも絞り上げることによって実はその生命力を弱めている。社会を新たに生み出す能力を欠いた新自由主義は、まさに社会によって反逆される。全世界で立ち上がっている民衆は、その社会の反逆を身をもって体現している。まさしく「世界は売り物ではない」。
 以下、次号に続く
 今野求さんを偲ぶ会を終えて、いま新たに思う

                   川端 康夫


 九月十二日夜、東京の日本教育会館にて今野求さんを偲ぶ会が持たれ、百十名余が全国から駆けつけた。偲ぶ会はまず実行委員会代表の前田裕晤労働情報代表の開会あいさつ、遠藤一郎、朝日健太郎両氏の司会で始められた。吉川勇一、吉岡徳治という市民運動、労働運動の両先輩の発言を受けたのち、福富節男さんが献杯の音頭をとった。その後、さまざまな方面からの故人を偲ぶ思い出が語られ、個人の活動分野の広さがしのばれた。
 全労協議長の藤崎良三さん、三菱長崎連帯労組の西村卓二さん、元全学連委員長の塩川喜信さん(今野さんは塩川さんの時の全学連中執)、東大教授の佐々木力さん、友人の酒井与七さん、井邑義一さん、山田邦夫さん、社会主義政治連合代表の小寺山康雄さん、元社会主義青年同盟委員長の山崎耕一郎さん、『労働情報』を共に立ち上げ、押し進めた樋口篤三さん、渡辺勉さん、東部労組の足立実さん、東京反戦を共にした浜口龍太さん、白川真澄さんらがこもごも思い出を語った。
 最後に宏子夫人のあいさつで盛大に盛り上がった会を締めくくった。
 今野さんが一年前なくなった九月十二日未明は、貿易センタービルが自爆テロで崩れおちるとほぼ同時刻だった。もちろん今野さんは貿易センターのことは知らないままに逝ってしまわれたのだろう。しかしこの二つのことがほぼ同時刻に起こったという事実は、偶然とはいえ、なにかしらのつながりを感じさせるものがある。世界革命に一生を尽くした今野さんは強いアメリカ帝国主義を道連れにしたのだというような。
 二〇〇一年は二十一世紀の最初の年である。二十世紀という戦争と革命の世紀が、その口火を切ったロシア革命が八〇年に満たないソ連の解体として幕を閉じた。社会主義の世紀は終わったという人も続出した。そして戦後労働運動を長らく代表した総評も解体させられた。
 しかし、ということは、新たな世紀の、新たな思考と構想、戦略と運動が全面的に求められるということでもある。
 ちょうど百年前、当時の第二インターナショナルも帝国主義時代の登場に直面して、大々的な路線論争の最中にあった。ローザ・ルクセンブルグの伝記映画には二十世紀を迎えるドイツ社会民主党のパーティーの場面があったが、そこに登場するカウツキーやベルンシュタインがその論争の当事者であった。そして、その論争を通じてロシアの社会民主党が鍛えられ、そしてレーニンとトロツキーのロシア革命へと上り詰めていった。
 その後の百年目。今野さんの闘う人生を規定した東西対立と総評労働運動の時代が同時的に終わったことを実感させる九〇年代は、また運動の側にとっても「空白の十年」であった。その時期、多くの人々が次の時期を切り開くために悪戦苦闘を続けていた。見えない! 
 そして山川さんが逝った。今野さんは何をどのように考えていたのだろうか。その手がかりは私にはない。
 だが私たちは、この東アジアという現実をじっと見つめ続けてきた。巨大な工場であり、巨大な市場でもある中国、そして長期停滞から脱せない日本経済。共産党一党独裁という巨大な歴史的罠を抜け出せない中国、左派運動の解体が進む日本。アメリカの最終的な潜在敵としての中国、アメリカによる日米同盟への圧力。
 そして今年、私たちは何か少し見えてきたような感じを持ち始めた。中国と日本―これを貫く社会主義の展望、そしてアメリカとの同盟関係からの離脱。これが二十一世紀の、少なくともその最初を形作る政治的分水嶺。日本の政治はアメリカと中国という巨大な重力源によって不断に引き裂かれる。東アジアを貫く左派はこの力学によって形成される。日本の民衆的左翼はここに生まれる。
 私は夏の総会に「東アジア社会主義的民主主義研究会」という構想を提案したが、少なくともこれは私の「空白の十年」への回答の始まりだと考えている。
 今野さんはこうした考え方にどう反応するだろうか。ばーか、なに寝言を言っている、と一笑に付すだろうか。大いにありそうでもある。だが心の底からの国際主義者として、意外と興味を持ってくれそうな気もする。良くは解らない。自信もない。今生きていてくれたらなー、これがただ今の実感である。
―イタリア共産主義再建党―  
          再建の再形成
                               リビオ・マイタン 
 
 イタリア共産主義再建党(PRC)は、一九九一年の創設から数えて、その第五回大会(今年四月四日〜七日―訳者)で、イタリア労働者運動の歴史におけるその特異な、実際ユニークと言える性格を確立した。それに匹敵するものを見いだすことは今日、ヨーロッパ左翼の中のみならずヨーロッパや他の大陸の労働者階級と社会主義と一体となっている諸党の中でも難しい。
 
 危機の中で問われた真の「再建」
 
 この大会に向けたスローガン―再形成―の選択は一見したところ、陳腐な決まり文句のように見えるかもしれない。事実上それは一種の告白に等しく目標を示すものだった。すなわち再建は未だ起きてはいず、いままさにそれを遂行しなければならない、ということだった。
 一九九一年党が生まれた時は、第一歩の要求を再確認することが必要だった。すなわち、共産主義の旗のもとで労働者運動という闘争を続けるということだ。しかし、この新党名の採用に表現された健康な意図や一九九一年から九九年に至る四つの大会の文書に盛り込まれた分析や考え方にもかかわらず、言葉の最も広い意味における再建は理論または戦略レベルでは生じなかった。そればかりか、党員の良質部分の観念や政治的実践のレベルでも再建はほとんど起こらなかった。PRCのその後の政治的選択や分裂はこのことを著しい形で確証するものだった。
 党の最初の大きな危機は、一九九五年始め、最初の中道右派政府の失墜後、前ベルルスコーニ政府の閣僚、ランベルト・ディニの率いる異質の連携への結論的参加をめぐって問題が持ち出されたとき生じた。このケースでは、党は国会議員団の多数派と創立大会で選出されていた全国書記セルジオ・ガラビーニを失った。一九九六年総選挙の後には党は、プローディ政府への不毛な支持へと転落した。そしてこのことは実はそれこそ、後の選挙上の後退という形で重い罰を受けた。
 次いで一九九八年秋、中道左派連合の漂流を注視しつつベルノッティは、党が議員団多数派と袂を分かつよう提起した。党代表であったアルマンド・コスッタはその時、最初の分裂よりさらに重大ですらあった第二の分裂を主導した。このことは、反資本主義のうねりの中での労働者運動の戦略に関する全体としての熟考が、それまで未だなされていなかったということのさらなる証拠であった。そればかりか、スターリニズムの性格や社会主義への過渡期の問題についてもまとまった考えはなかった。
 党は自身が袋小路に入り、没落しかかり、実際に不可逆的な腐蝕に犯されていることを見いだすために危険を冒したが、そのことを理解していたということでファウスト・ベルティノッティは賞賛されてよい。彼はスターリニズムに反対するキャンペーンの開始を決定した。同時に、グローバリゼーションの時代における資本主義の展開動態とその原理的特性に関する現代化された分析を基礎にした戦略的考察を鼓舞した。
 教条的に見ればなるほど以下のようにいうことは正当である。つまり、ソ連の官僚制化に対する共産主義者による最初の反対闘争から七〇年以上も遅れて反スターリニズムキャンペーンが始まったという、その事実こそがイタリアやその他における労働者運動の引き延ばされた漂流を明らかにしている、そのようなことである。しかしそうであっても、よくいわれるように、まったくやらないよりも遅れる方がまだよい。
 現体制の矛盾の成長や新しい反抗運動の高揚があるとはいえ、国際的レベルでは、反資本主義者、社会主義者の展望の再確認は依然困難なままである。ベルティノッティの主導性はこのような背景の中で生じたのであり、それだけまったくもって称賛に値する。
 
 さまざまな抵抗とためらい
 
 われわれは、討論のため大会に提出された議案書で提起されたテーマに関して後退するつもりはない(注1)。昨年十一月の全国政治委員会(NPC)は議案を圧倒的多数で採択し、この議案に対しては、歴史的少数派が対案をもって反対した(注2)、ということを思い起こすべきである。それにもかかわらず、かなりの分化をもつ前多数派内部で新しい現実が出現することになった。そしてその現実は全国指導部NPCの著名な少数派、また書記局の二人のメンバーによる四本の修正案の提出に導いた。
 これらの修正は以下にあげる諸点に関するものだ。まず帝国主義の問題だが、少数派は帝国主義についての古典的観念を乗り越えるべきだとのテーゼの主張を否定した。次いで新自由主義反対の運動の性格付けおよびこの運動と党の関係に関わる問題。多数派は労働と資本の矛盾という中心性をぼかし、運動の中で党を薄める方向へ流されている、と少数派は主張する。さらに共産主義運動の歴史についての評価であり、少数派によれば多数派の判断は、あまりにも清算的だとなる。最後に党の自己刷新の問題だ。この点について少数派は、多数派の観点を入れつつも伝統主義者の取り組み方を保持した(注3)。
 これらの修正派をスターリニストあるいは新スターリニストと特徴づけることは言い過ぎだろう。厳密な意味においてのスターリニストは党の完全に周辺的な一部を代表するにすぎない。彼らを「継続派」とみなすことがわれわれにとってより適切だと思われる。それは、なによりも彼らは旧イタリア共産党の伝統と考え方に一体化しているからだ。この主題に関して、多数派議案がしばしば批判の的となってきたのだった。修正案を防衛した人たちはより一般的に言って、討論の中で同じ会議の内でもためらいがちにさまざまな姿勢を採った。彼らは多数派との相違を極小にしようと何度も試みたが一方、彼らは多数派の清算主義傾向とみえるものを猛然と批判した(注4)。
 
 スターリニズムと共産主義は相容れない
 
 全国大会では、さまざまな提携グループに変化はなかった。そうであっても、ベルティノッティがスターリニズムについての彼の批判を鋭いものにし、刷新をさらにいっそう精力的に擁護したことは強調されて良い。今回退任する書記であり、修正支持派の一人でもあるクラウディオ・グラッシに応える中で彼は、スターリニズムは共産主義とは相容れない、と断言した。彼はまた一国社会主義論を拒否し、ソ連共産党二〇回大会でなされたスターリン批判に関連して、他の潮流がそれよりもはるか以前にスターリニズムに反対していたという事実を思い出させた(注5)。
 新しいNPCの選出は二つの困難で注目されるものだった。第一にその規模は、三五〇以上の定員から一三五の定員へと縮小されなければならなかった。これは完全に合理的な減員ではあったが問題をはらむものでもあった。一方で、最低四〇%は女性であるべきだとの割り当て規定を反映しなければならなかったからだ。その上でもう一つの複雑な要素があった。
 多数派議案と対案それぞれの支持者間の委員比例配分は明らかに十分なものだった。しかし修正を支持した人々に関し、事はまことに複雑なことになった。
 名簿は最終的に、投票権のある五四九名の代議員のうち、賛成三五〇、反対一二〇、棄権一二で採択された。それは、国会議員の排除というようないくつかの厳しい手だてに負うものだった。もっとも議員団両院の代表は、すべてのレベルの機関に変わることなく席を得ることになる。ベルティノッティは、NPCにおいて、対案派を代表するフェランド支持十三票、棄権二票に対して百五票で書記長に再選された(注6)。
 ベルティノッティを支持した多数派は疑いなく政治的成功を勝ち取った。そしてそれはまた国際的反響を呼ぶはずだ。とはいえ、大会での路線の採択とその実践への翻訳との間にある溝を過小評価するならば、大きな間違いとなろう。
 ベルティノッティ自身は、党の慢性的でゆゆしき弱さをもう一度強調した。付け加えるならば、見てきたような重要な問題に対し投票、意志をもって地域の大会に出席した党員は全体の三〇%を僅かに越えるものでしかなかったということも否定的な留意点である。その上われわれは、われわれ自身の直接的経験に立って、ベルティノッティ支持多数派内部の異質性の程に注目せざるを得ない。それは長い間公然と露わにされてきた相違を脇に置いたままにしているのだ。確かに多数派は、緊張から解放されるにはほど遠い。とりわけ、この多数派潮流が総体的多数である都市が四大重要都市中の二つ(ミラノ、トリノ)でだけだという状況においてはそうである。
 大会で船出したPRCの刷新は、二つの条件においてのみ現実化が可能だ。第一は部分的にわれわれに依存するものだ。それはすなわち、いわゆる反新自由主義的グローバリゼーションの運動が、現在の形態でかあるいは別の形態の下で自身を維持し、むしろ発展するということである。そしてそれは今日かなり可能性が高いと思われる。
 第二の条件は、党の構成が新しい世代の流入を介して実体的に変化することだ。近年PRCは、多くの青年を獲得してきた。近い将来、これらの新党員は、決定的に特別な重みを得、大衆運動を通して経験を積み、成熟しなけれならない。その上に次のことが決定的である。すなわち青年は、前段の地域大会、また全国大会それ自身の期間中に起きたあらゆる物事にもかかわらず存続してきた、非を認めることのない機構の機能がつくり出す潜行性の害毒に免疫をもっているということだ。
 党の構成の問題は、最後の論点において決定的な、鍵となる政治組織問題である。(インターナショナル・ビューポイント誌五月号)

 *第四インターナショナルの指導者の一人である著者は、今大会でPRC全国政治委員に再選された。
注1。インターナショナル・ビューポイント誌二〇〇一年十二月参照。そこにはベルティノッティ報告の抜粋および今大会で採択された議案の抜粋が掲載。
注2。少数派はまた第四回大会でも存在していた。三回大会でこの部分は雑誌『バンディエラ・ロッサ』(第四インターナショナル)の支持者を含み、ブローディ政府支持拒否に基づく、より大きな少数派の一部だった。「リベラティオーネ」は上記少数派の主張を以下のように要約していた―マルコ・フェランドは、中道左派に向けたPRCの開かれた立場はどのようなものであれ、きっぱりと拒絶するという立場を押し出した。この観点においては、「オリーブの木」は単にブルジョアジーの政治組織の別の形態にすぎない。運動の「オリーブの木」からの離脱それだけがベルルスコーニをうち破ることができる。つまり、確実な結果は急進的闘争を通してのみ得られるということだ。アルゼンチンの経験は反グローバリゼーション運動という概念を論駁するものであり、それを神話化して提起してはならない。問題の中心はトービン税の要求や非暴力主義の擁護にあるのではなく、大衆の対抗権力から出発するということにある。「オリーブの木」政府は新たな新自由主義政府の一つであるにすぎない。共産主義者が参加しうる政府はただ、労働者と彼らの力に依拠する政府である―。
 PRCの歴史的転形過程との関係で自身を周辺化させる選択をしてしまったこの潮流は、反グローバリゼーション運動についてのセクト主義的観点とPRC多数派も事実上その一部だとする「オリーブの木」に対する評価に基づく多数派非難
 を結びつけている。その対案は一三・七%を獲得した。
注3。もっとはるかに抑制された、主にロンバルディに集中した少数派は、左翼民主党(DS)に対するもっと柔軟な姿勢を主張する修正案を提出した。いくつかの場合に、これらの修正案は本文で触れた四つの修正案の参加者からも支持された。
注4。それに従って対案について投票するとの決定はただ、地方支部レベルでのみ表に出すことができた。だが一方修正案は、州レベルでも提案でき、そして全国大会ではむしろいくつかのいかがわしい作戦に導いた。ある者は支部で修正案を提案せず、多数派支持者として選出されその後に、州レベルで修正案を支持し、ある場合には多数派に反対した。
注5。PRCの日刊紙『リベラツィオーネ』に載った報告は、これらの章句を省いた。このことは故意ではないものの、大会に出席していないかった人々は何が語られているかを知らないという状況はそのままだ。
注6。修正派の代議員が概して例え全体として修正案を支持しているとしても、他の場合には一つ、二つあるいは三つの修正案を支持し、また四つの案全部を支持しない代議員もいたという状況の中では、修正支持票の見積もりは複雑だった。NPC選出投票に関しては、対案への参加者が厳密な比例基準に基づいたリストに載った彼らの候補に投票することは間違いなかった。対案は、一九九四年の一五%強に比して一三・七%(票数では五三〇〇に対し四三三〇)を得、多数派議案は八六・二八%(内約二五%は「継続派」修正案に好意的)を得た。

―中国―
    激化する矛盾と民衆の抵抗
                 ツァン・カイ(『十月評論』)
今年の全国人民代表大会に提出された、朱鎔基首相の政府活動報告は、中国の社会と経済に生じている深刻な問題を明らかにした。経済成長は二〇〇一年、七・三%以上と報告されたものの(しかしこの数字は多くの人によって誇張されていると異議を差し挟まれている)、中央政府支出は一〇・一%増加し、財政赤字は三〇九八億元の新たな高みに達し、国債は二五六〇億元、さらに国防予算は一七・六%の増大となった。経済刺激策としての巨大な赤字は将来深刻な問題をもたらすとの批判が、代議員や専門家からなされた。
 
 問題の過小評価と先送り
 
 経済についての肯定的な言及に次いで朱鎔基首相は、緊急に解決を求められている「いくつかの問題」が、経済と社会生活に存在していることを不承不承に認めた。そこで認められたものは主に以下の問題である。
 ・農民収入の伸びが低下した。
 ・主要作物が穀類である地域や、深刻な自然災害を受けた地域では農民収入   が減少した。
 ・いくつかの職場では、賃金の深刻な遅配があった。
 ・生産にいくつかの困難があった。
 ・失業が増加している。
 ・構造的問題は依然未解決である。
 ・環境上の諸問題は依然きわめて顕著である。
 ・禁止指令にもかかわらず、地域ごとの保護主義がはびこっている。
 ・いくつかの地域では、形式主義さらに浪費が深刻であり、いくつかの腐敗現象がむしろ顕著であった。
 ・いくつかの企業では、基金の横領と法令違反が広がった。
 ・深刻な事故が頻発した。
 
 朱首相は、上記の諸問題が「いくつかの」地域でだけ起きているとの修飾によって、問題のひどさを低めようと試みた。しかし大会代議員によって、問題のひどさに光を当てるために、「いくつかの腐敗現象がむしろ顕著であった」から「いくつかの」との語を削除するような修正がなされた。司法報告を作成したシャオヤンが確認したように、二〇〇一年には総計二〇一二〇人が腐敗や贈収賄により有罪を宣告され、これは前年からの四四・三五%の増加であった。
 世界貿易機構(WTO)への中国参加の影響がもたらす問題に関する朱鎔基の記者会見での回答は、アメリカのジャーナリストに対する次のようなものだった。「アメリカから中国に輸入されるトウモロコシは今や中国の全生産量、一五〇〇万トンと同規模だ。世界中の多くの諸国が実行している、遺伝子操作農産物規制の政策をわれわれが導入しようとした際、アメリカから、あなた方の指導者たちはトウモロコシについてわれわれと話し合おうとやってきた。そしてこの政策は一〇億ドルのアメリカの輸出に打撃を与える、中国はもっと慎重になって貰いたいと語った。しかしあなた方は、中国の鉄鋼輸出に対して八〜三〇%の関税を課すと発表している。これは三億五〇〇〇万ドルの価値をもつ中国の対米鉄鋼輸出を不可能にするものなのだ」。
 
 農民、農業への過重負担
 
 前郷党書記リー・チャンピンは、郷の支出を数え上げて農民の負担について、この負担を負うために農民がいかに搾られているかを書いた。彼は郷の年間支出の総額を以下のように見積もっていた。すなわち、六千億元の負債に対する八百億元の利子、教師の賃金八百億元、教科書と学校施設費用五百億元、地方機関要員総数三千九百万人(県、郷、鎮レベル)の賃金二千億元、さらに県、郷、鎮レベルの事務所とさまざまな出先機関の経費三千億元だ。上記だけでもすでに七千百億元だ。農民は県レベルよりも下の段階で支出の七〇〜八〇%を負担しなければならなかったとリーは見積もっていた。それはおよそ四〇〇〇億元に達すると思われる一方、朱鎔基の見積もりではただの五百億元であった。
 その中にリー・チャンピンの郷がある湖北省江陵県の党書記、デュ・ツァイキンは、その県、郷、鎮の負債五億四千万元のうち大多数は農民の負債であったと語った。たとえば、デュム郷では三百の農民家族それぞれは、一万二千元から一万五千元の負債を持っていた。
 これらの問題に取り組むにあたって、政府は何らの効果的な手だてをも提出してこなかった。前農業相代理、ルー・ミンは政策諮問委員会の会議で、農業技術や農業科学の発展に向けた国家投入はきわめて低かった、と発言した。国家投入は一九九九年、六〇億元、農業の全生産価値の僅か〇・四%だった。

 拡大する失業と紛争
 
 都市の失業は最近の数年、またWTO加入に伴って深刻な問題となっている。中国工業はより重大な競争に直面する。中国で集計されている失業の公式数字は、ツェン・ペイヤンが全人代に報告したように三・六%であった。
 これは失業者数が千二百万人であることを意味するが、国有企業から「一時待機」とされている五百万人と登録失業者六百八十万人を含んでいる。しかしそこに付け加えて、(一億五千万人の農民からなる地方の余剰労働力からあふれ出た)仕事を求め都市に移動する四千万人の労働者が存在している。ウェン・フイ・バオは、推定失業率は一〇%をはるかに越える、との専門家の見方を引用している。中国の他の何人かの学者(フ・アンガンのような)は、実際の失業率をおよそ二〇%と見積もっている。
 かつての重工業地帯、東北地方の遼寧省では、非常な数の工場が倒産した。労働力の半分はいま失業している。昨年の公式数字は、五〇万人の人々が「待機」とされたり、定年退職したり、職を失ったことを告げている。そしてこの数字は国全体の一〇%に達するものだ。「待機」とされた労働者、未だ工場とのつながりを保持していることを意味しているこれらの労働者は、月に百元から数百元の年金を受け取ることになっている。しかしながら遅配が通例となっている。
 『北京夕報』に載った報告に従えば、労働組合のある工場の統計は以下の数値を提供している。二〇〇〇年全国の賃金遅配と欠配は三六六億九千万元に達した。過去二年、北京の労働紛争の裁判事例は劇的に増加した。それは二〇〇〇年に七四八〇件であり、前年の四二・九%増である。二〇〇一年の一月から九月までの件数は二〇〇〇年の同時期に比べ六〇%増であった。シャオ・ヤンは、全国の二〇〇一年の非公開の労働紛争件数は一〇万四四〇件、前年の三三%増と語った。
 
 闘争的独立組合組織が地平線上に
 
 労働者の抗議を伝える報告はおびただしい。以下は、二〇〇二年三月だけの労働者の行動に関する報告だ。大慶では、もともと二九万人であった従業員のうち七万人が「待機」とされた。三月十一日から、五万人の待機労働者は医療給付と退職給付を要求して示威行動を開始し、抗議は三週間続いた。遼寧市では、三月十一日から労働者は市役所を包囲し始め、二〇の国有工場労働者三万人以上がしばしば抗議に合流した。黒竜江省では撫順市の待機坑夫が三月中頃に、通りに繰り出した。そして彼らの要求には、賃金支払いや働く権利の回復だけでなく、官僚の腐敗、公共財の安売り、さらに基金横領の告発もが入っていた。三月十一日を中心に、新彊省ウルムチのトラクター労働者数千人は街頭に出て、公共財と土地の売却に抗議した。
 労働者の行動と抗議のこのような大衆的波の中にある新しい徴候は、労働者組織の形成だ。香港の『民報』のレポーターによる在野の報告に従えば、独立的労働者組織が形成途上にある。大慶労働者は、大慶油田経営局移動職員臨時労働組合委員会を組織し、労働者代表を選出した。遼寧では「遼寧鉄鋼労働者全倒産失業労働者」という臨時組織が形成され、政府との交渉のためヤオ・フュシン他の労働者代表が選出された。これらの組織の名において労働者たちは公開状を発し、異なった工場から選出された代表たちは連絡を活発化した。
 彼らは、国際人権規約の下にある「独立的労働組合の組織化」に関する条項を全人代が支持し、それによって労働者が独立的労働組合を組織する権利を得、集団的交渉力を持てるようにすることを要求した。かれらはまた、腐敗官僚の処罰をも要求した。
 政府は、いくつかの地域では労働者の指導者を逮捕することで、また他の地域では労働者の機嫌を取ることで応じた。彼らは特に、省を越えたあるいは部門を越えた労働者のつながりを警戒していた。
 現在の問題は、資本主義にむけて道を開いた中国の改革政策二〇年が経た後の、中国社会に起きた混乱と動揺を反映している。それらは中国のWTO加入によって激烈にされる。労働者の闘争の登場は、生活の質の荒廃化と社会的不公正の加速的高まりに対する集団的応答である。(インターナショナル・ビューポイント誌六月号)中見出しは訳者。中国語人名記述は発音に従った。
 

 注。現在の中国の抱える数々の問題、特に労働者、女性、農民、また教育や社会福祉の問題を、多くの分野にわたって具体的、詳細に明らかにする論考が、香港のトロツキスト組織、「先駆」のリュウー・ユファンによって発表され、インターナショナル・ビューポイント誌三・四月号に二回に分けて掲載されている(「中国は世界を揺るがすか」)。きわめて興味深く、われわれにとって重要な分析であるが、あまりに膨大であるため本紙上では紹介できなかった。今回同一の問題を対象を絞って簡略に取り上げた、香港のもう一つのトロツキスト組織、『十月評論』の論考を紹介した。
 

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