1990年11月10日        労働者の力              第15号

トロツキーシンポ  大成功

トロツキータブーを打破して全体像の構築へ重要な一歩


 「国際シンポジウム、現代史の激動とトロツキー――トロツキー没後50年」と題するシンポジウムと記念講演会(同実行委員会主催)が十一月二、三、四日の三日間にわたって行われ、大きな成功を収めた。シンポジウムには海外から多数のゲストが参加し、四つのテーマを中心に熱心な議論を展開した。第一のテーマはペレストロイカとトロツキー、第二のテーマは現代資本主義とトロツキー、第三はアジア革命とトロツキー、第四はトロツキーの文化、芸術論であり、トロツキーを現代史の中に正しく位置づけて、その全体像を明らかにしようとするものであった。記念講演会で開会の挨拶を行った伊藤成彦さんは、その中でシンポジウムの意義について次のように報告した。新しい研究を含めて様々な発表があり、トロツキーの大きな歴史的な役割、思想体系が歴史に位置づけられて復元されるべきである。トロツキーに対する評価は別にして、まず、その前提としてトロツキーに関する歴史的な事実を客観的に明らかにする必要がある。この機会にトロツキーを正しく世界史に位置づけて評価し、正確な全体像を把握する大きな役割を果たしていくものにしいきたい。シンポジウムと記念講演会はこうした目的を実現していく第一歩になったといえよう。シンポジウムの内容は刊行される予定ということもあり、ここでは記念講演会の報告に焦点を当てたい。

人間味あふれるトロツキー

 十一月四日、激しい雨の中を参加者が次々と集まってくる。老いも若きも、である。昨年のソ連・東欧の事態は、スターリニズムの歴史的な破産を劇的に示した。社会主義そのものが根底的に問われる中で、一方では社会主義やマルクス主義それ自体からの離反が進行し、他方では人間の真の解放の理論であるはずのマルクス主義の再生、再創造に向けてスターリニズムに代わるものとしてトロツキーへの関心が深まっている事態を反映した結集であったといえよう。
 最初に私(高山)の印象を述べておきたい。特にレニングラード教育大学教授のスタルツェフさんの報告に感じたことであるが、ソ連でトロツキーの真剣な研究が行われているという報告は、なにか夢をみているようだった。わずか二、三十年前であれば、たとえそのような研究が行われていたとしても、それが日本で紹介されるようなことは絶対にありえなかったであろう。歴史の激動を身をもって体験した気分であった。
 およそ五〇〇人が参加し、海外ゲストの記念講演を軸にした集会がはじまった。
 最初に登壇したのは、トロツキーの孫であり、メキシコのトロツキー記念館館長をしているエステバン・ボルコフさんだった。当然といえば当然だが、ボルコフさんの顔つきはトロツキーを彷彿させるものがあった。題目は「祖父・トロツキー」。ボルコフさんは、トロツキーの活動を、十月革命をレーニンとともに勝利に導いた革命家の時期、ソ連の革命過程が麻痺し、次第にスターリニズムに転換していった時期の左翼反対派活動の時代、晩年のスターリニズムとの闘いと第四インターナショナル設立の時期に区分して、それぞれの時期における活動とその理論的、政治的な軸心を明らかにした。
 今となっては、それについて語ることができるごくわずかの人であるボルコフさんの話の圧巻は、メキシコ、コヨアカンでのトロツキーの最後の生活である。スターリニストの残虐で恥知らずの、かつ執ような攻撃を静かに、しかし断固と断罪し、同時にトロツキーが傲慢で利己的だったというもはや定説になっている風評に反論し、人間味あふれる生活者トロツキーの姿を紹介した。スターリニストが機関銃の弾を打ち込んだ最初の襲撃で幸運にも無傷だったとき、トロツキーは「ナターシャ、また一日だけ生きる時間がふえたよ」と語ったことや、暗殺されたときに食堂のなかで「子供を連れてくるな、子供にこんな光景をみせてはならない」といったということをボルコフさんが語るのを聞くと、トロツキーの生き生きした姿が眼前に浮かび上がるようだった。
 つづいて膨大なトロツキーの評伝を著したフランス・トロツキー研究所所長のピエール・ブルーエさんが登壇した。ブルーエさんは、トロツキーの生涯を短い時間の許すかぎりで詳しく報告した。彼は、シンポジウムの中でトロツキーを理論家としてとらえることに反対し、革命家だと規定すべきという見解があったことを紹介し、これに反論した。トロツキーは歴史家、理論家、軍事指導者、文芸評論家、その他諸々であったが、それは彼が立派な革命家だったからだと。そして、その根底には、世界をどのように変革するかを探究する中からマルク主義になっていったというトロツキーの出発点があることを指摘した。トロツキーが強調した「変革の指針としてのマルクス主義」がいわば彼の体質になっていたという指摘であろう。
 ブルーエさんの報告の中で私の興味をひいたもう一点は、トロツキーの文書にやや誇張する傾向があったという指摘である。われわれは、ともすればトロツキーの一語一句を金科玉条としがちだが、こうした態度への警告として、この指摘をきちんと受けとめる必要があろう。

進むソ連での研究

 レニングラード教育大学教授、ソ連共産党中央委員、そしてソ連共産党史概説編纂委員会メンバーであるV・I・スタルツェフさんが「トロツキーとペレストロイカ」の報告を行った。スタルツェフさんは、あくまでも個人的な見解であると断わりながら、現在のソ連でのトロツキー研究の段階を自らの体験を含めながら具体的に報告した。この報告は、「窓」やその他のメディアで部分的に報道されていた内容を実体験にもとづいてきわめて印象深くなされた。
 スタルツェフさんが従来のトロツキー観からはじめて転換したのは、一九六〇年代半ばのフルシチョフ更迭後、まだブレジネフの停滞期がはじまっていなかった頃だという。一九六七年に集団的労作として出版した本の中で十月革命でトロツキーが果たした役割を客観的に分析したトロツキー像を書いた。その際、資料館で「十月革命の教訓」を読み、スターリンら三人組の方が間違いだと書いたが、その部分は検閲によって削除された。ブレジネフの停滞期は、スタルツェフさんにとっても、またトロツキー研究にとっても厳しい時期だった。一九八六年までトロツキーに関しては、公式の学術機関や党の立場には一切進展、変化がなかった。
 グラスノスチが開始した一九八六年秋になってはじめてトロツキーの名誉回復を要求する運動がはじまった。同年十一月に文学者会館に様々な分野の人々が集まり、劇作家のシャトロフ、作家のドミノフが中心になってレーニンとともに闘った革命家たちの名誉回復を訴え、これが彼らの復権のための運動の端緒になった。
 スタルツェフさんのトロツキー研究が大きな決定的な転機を迎えたのは、スタンフォード大学の資料館でトロツキーの様々な著作とともに古びた写真をみたこであった。特にプリンキポでの写真は、トロツキーを一人の人間として身近に感じさせるようになった。彼の生活、人生、家族などをうかがわせる写真をみてショックだったという。従来の彼に対する見方の一切が鱗が落ちるようになくなり、イメージが一新された。
 スタルツェフさんは、さきに紹介した肩書にあるように党史編纂委員会の一員になり、中央委員会附属の資料部にあるすべてのトロツキー関係資料をみる権限を与えられた。そこには、一九二八年までのトロツキーの個人生活、仕事に関係するすべての資料、約六〇〇件があった。誰も知らなかったことだが、トロツキーに関する資料がモスクワにあったのである。四カ月間かけて資料の研究に没頭し、党と国家のナンバー2であった偉大な人物の全貌をとらえることができた。
 その研究の成果を次のような印象として述べた。トロツキーについて一番感心したのは彼が弁証法の巨匠だということだ。彼のマルクス主義理解はきわめてユニークであり、それは革命以前からそうだった。内戦時やNEP期の著作に当たって、すぐれた演説者、文学者という評価とはべつにすぐれた弁証法家という面を発見した。特に戦略、戦術をたてるときに現状を客観的に分析することから始めているところに、弁証法家としての、そしてマルクス主義の継承者としての彼の中心点がある。比喩的にいえば、トロツキーは現実の生活から学んだが、スターリンは自分の結論に合わせて現実を無理やり変えたということである。この評価は、さきに紹介したブルーエさんの指摘につながるものであろう。
 トロツキー研究が本格的にはじまった一九八九年の状況を紹介して、最近トロツキズムを名乗る団体が結成されたことを報告し、「われわれの道ははじまったばかりである」と結んだ。

共通の闘いを

 最後に登壇したのは、モスクワ市ソビエト代議員であり、「モスクワ人民戦線」の著者として知られるボリス・カガルリツキーさんで、「ソ連改革の可能性」というテーマであった。カガルリツキーさんは、ユーモアをまじえてみごとな話術を披露した。
 最初に紹介したエピソードは、彼がロシア社会党の指導者としてある研究所に招かれたが、私とのバランスをとるために一緒に公式筋の学者が呼ばれ、その学者は、「社会主義とはなんだったのか」という質問に対して「単なる頭の中だけの考えだった」と答えたそうである。このエピソードを通じて現在の公式筋の資本主義への傾斜を端的に表現したのであろう。
 彼は、「資本主義がやってこようとしている。これに対するレジスタンスがはじまろうとしている」とソ連の現状を要約した。一、二年前はスウェーデンがモデルとされ、社会民主主義がもてはやされたが、現在はニューリベラル派が全盛である。彼らが今日の私有化の先兵である。つまり社会民主主義モデルは豊かな国に適用できるのであり、資本主義で適用できるものであるから、これらの条件がないソ連ではまず資本主義の導入が先決というわけだ。ただしニューリベラル派は、このようなまずい問題のたて方をせず、西側とはソ連の違う特殊性を強調して、私有化の導入を目指している。
 この私有化の特徴は組織されたブルジョアジーがいないことであり、したがって旧来の官僚支配体制が私有経済への移行を行うことになる。だから私有化するといっても官僚層が唯一の売り手であり、かつ唯一の買い手であるという状況があって、ここに問題がある。結論的には、官僚が自らの生き残りをかけて私有化をやっていると考えざるをえない。
 ソ連の人民は帝政時代の伝統とスターリニズムの厳しい支配の中で忍耐強く、つまり受け身になっている。官僚はこれを利用して、人民に犠牲を要求し、一時期が過ぎれば、資本主義になれば生活がよくなるといっている。しかし大衆は、改革の成果が何もあがっていないことに不満をもっており、政権と大衆のどちらも現在の受動状況が長くつづくとは考えていない。しかも政権の側は、民主化が私有化にとって邪魔だと考えている。
 現在の基本矛盾は、したがって私有化と民主化との間にある。われわれ左派の根本課題は、旧来の公営セクターの再編を行いつつ、それを私有化に対抗するものとしていくことである。そのための課題は二つある。一つは、労働者の日常の利益を守る労働運動の組織化であり、もう一つは、民主主義と権利を守る闘いである。この点は、左派の共通認識といえる。そして様々な社会階層を巻き込んだ運動を、労働者、特に熟練労働者を中心にして組織していかなければならない。
 世界はますます一つになっている、これは左派にとっても同じだ。次の世代の左翼は、トロツキーを含むマルクス主義をもって新たな挑戦を行うであろう。われわれの闘いはソ連だけのものではない。みなさんも同じ敵と闘っているし、同じ未来に向けて闘っていると思う、と話を結んだ。

第二回総会提出文書から 討論のために

レーニン主義組織論−

「民主集中制」とわれわれの課題

                外 山  節 男


  はじめに

 第四インター日本支部の分裂について、ある人は「世の中の階級闘争となんの関係もなかった対立だった」という。またある人は「対立といっても何が違うのか綱領的には全くはっきりしていない、ただ組織問題でけんかしていた」という。
 確かに論争は綱領的レベルにおいて整理されていなかった。整理されていなかったというよりも、トータルに問題を組み立てる能力を持っていなかった。そのため現実の階級闘争に対して十分かみ合う形で論争がなされたとはいえない。しかしわれわれの対立は、現実の階級闘争でするどく問題になっている党=前衛党のありかたをめぐって起こっていたのでる。
 党の在り方は、革命、社会主義の内容、現実の情勢に規定される。われわれの女性差別問題はその革命と社会主義の理論的な破産の表れであり、革命と社会主義の理論的な破産にもかかわらず、党維持の論理として一人歩きした党組織論はさらに女性たちを抑圧するものとなった。この点からの総括は、われわれが真に人間を解放できる社会主義を獲得していくための闘いである。日本支部の苦闘は、現実の階級闘争そのものの苦闘なのである。
 われわれの社会主義、党についての再検討は、東欧・ソ連における「社会主義」の破産によって必要になったのではない。それは、日本支部自身の破産によって必要になったのであり、この間の東欧・ソ連の事態は問題をより明らかにし、今までの自分たちを見直し作り直すのに役立っているのである。われわれは、これまでの革命とその組織観を大胆に見直し再構成していかなければならないだろう。

 1 「党」が問題になっている(略)


 2 「単一の党」「唯一の党」について(略)

 3 「党の単一性」「単一組織」について

 「唯一の党」はいまや否定されているが、「党の単一制」の問題についてはわが日本支部で十分に討論されていない。他の党についての関係は、同時に自分の党の在り方の問題でもある。「労働者階級の単一の革命党」の概念は、みずからの内部においても「単一性」を強要するよう働くのである。
 レーニンも「単一の党」とか「党の単一の組織」という言葉を使っている。しかし、それは「その中の社会民主主義思想のさまざまな潮流の純粋に思想的な闘争が実際にあるようにしなければならない」「あらゆる党組織の自治は、現実に実行されうるものとなり、また実行されなければならない」ようなもので、スターリンの「一枚岩の組織」やこれまで日本支部の中で強調されてきた単一性の過度な誇張とは違う。共産主義者の統一した一つの組織という意味で使われている。
 「党は全国単一組織でなければならない」というこれまでの共産党組織の原則(一九三四年第十七大会決定の全ソ連邦共産党規約の前文「党は、自覚的な、プロレタリア的な鉄の規律で結ばれた単一の戦闘的組織である」)がいま、東欧・ソ連でも次々と問題になっている。ソ連では民族を越えてソ連共産党の全ソビエト連邦社会主義共和国規模において単一組織が原則であった。民族を越えてのソ連邦単一組織論がデッドロックに乗り上げていることは、はっきりしている。さらに進んで民族共和国(もちろん同一民族だけによって構成されている共和国ではないが、ソ連全体よかは構成民族は少なく、またロシア民族が少数である)の中でも全国単一組織が問題になっている。つまり単一民族国家であったとしても「単一組織論」が否定されなければならなくなっているということである。
 日本支部では「単一組織」という概念は単に日本支部は一つの組織であるとか、一つの中央委員会という意味ではなく、「一体として組織された」といった組織の在り方を意味するものであった。それは「サークル主義」「連合主義」「複数主義」「自由主義」的組織の在り方に対してレーニン主義的な好ましい組織の在り方として提起されてきた。
 一九七〇年代のわれわれは、同盟は全国単一組織でなければならないということを共通にしていた。その中身にニュアンスの違いがあれ、これは第十二回全国大会(一九八四年秋)まで一般論として承認されていた。十二回大会以後、「単一組織」をめぐる論議、対立は、基本的に「いかにしたら真の単一組織が形成されるのか」をめぐるものであったろう。七〇年代同盟は「世界的二重権力論と政府権力闘争論」に集約される綱領的共通感覚によって、組織の単一性を一定程度実感できていた。しかし八〇年代に入るや、われわれの七〇年代綱領の水準では情勢に対応できないことが誰にも明らかになってきた。
 このような中で、女性差別が告発され、また、それに対して機関、男性同盟員の側が組織の在り方、現実を根底から対象とした総括をなしえず、いたずらに従来の組織感覚で機関防衛的に対応する中で組織は危機に陥っていった。同盟員の脱盟、同盟員の分散が進行するという状況の中で同盟組織の単一性が危機に陥っているという認識については一致している上で、論議はその原因、克服の方針をめぐるものであった。
 一つの傾向は、レーニン主義組織論の適用が不徹底であることに原因があるとして、もっぱらこれまでの「連合主義的」組織の克服をレーニン主義組織論の実践によって進めるという発想である。これは八六年に「レーニン主義派」として結実する。それに対して組織の単一性の危機は綱領的分散、綱領的崩壊にあり、綱領的再建をとうして克服していかなければならないという傾向を「プロレタリア派」が代表した。組織の単一性は綱領的統一性を前提にしなければ成立しようもなく、綱領的統一性がないところでの単一組織の強調は組織の硬直化、官僚化を助長するばかりである。この点ではプロレタリア派の主張に一日の長があったのだが、「組織の単一性」概念を前提としているかぎりでは、これまでの組織観の延長線での論争であった。
 「組織の単一性」の概念それ自身が根底から検討されるには十三大会(一九八七年春)における女性メンバーからの提起を待たねばならなかった。「単一性」の再検討は同時に「民主集中制」の原則の再検討であった。プロレタリア派ではいままでの「全国単一組織論」ではだめだということについては一致していたが、しかしそれに替わるものが提起できない中で自己の立場を「民主集中制」の豊富化と表現した。しかし「民主集中制」それ自身の再検討に入りこんだとき、それは非和解的対立にまで突き進んでしまった。
 「組織の単一性」をめぐる対立は、同盟分裂の重大な要素である。「十四大会」はレーニン主義派に限らず「全国単一組織」派の結集である。そのレベルはいまや「二月革命」を経たソ連共産党よりも「保守派」の立場であろう。
 「協議会制でも単一組織だ」という詭弁もあるが、わが同盟では全国単一組織ということは「全国協議会的実態」に対して在るべき姿として代置させられてきた概念である。さすがに現在そのまま擁護できるものはいないであろうが、それは第十二回大会(八四年)の組織建設に関する決議で典型的に展開されている。

 4 「民主集中制」一般について(略


 5 レーニン主義の組織論としての「民主集中制」について

 レーニンは、一九〇二年当時はロシアツアーリズム支配下において非合法活動を余儀なくされている社会民主党の組織方法として中央集権主義を強調していた。われわれが組織論のバイブルとしてきた「何をなすべきか」や「一歩前進、二歩後退」では「連合主義」「自治主義」「自由主義」などを激しく批判し、自然発生性に拝きせず「社会民主主義的目的意識性」に貫かれた中央集権制の職業革命家の党を強調している。
 しかし一九〇五年の「第一革命」後の新しい情勢とメンシェビキとの分派闘争の中で党の意思決定、党の活動における民主主義の重大さも強調して、民主主義的中央集権主義の立場を確立した。当時、レーニンが展開していた考え方はこれまで「レーニン主義」といわれたものと比べて柔軟なものであった。例えば「民主集中制」と最も対立するものとされる分派についてであるが、分派の権利を厳密に党内に限るものとして認めているのではなく、党内における意見の違いが存在することを前提にして大衆に向かった実際的活動の方法が提起されていた。また、論議は党内に限るとか、党の出版物で論争しなければならないとか、決定されたら他の意見を党外に出してはいけないとかいうのが「レーニン主義組織論」の常識とされたが、大衆に向かって論争し、党の決定以降でも少数意見を大衆に訴えることが規律違反に問われるのではないとも主張された。
 レーニンは「批判の自由と行動の統一」(一九〇六年)の中で「レーニン主義の常識」からは「考えられない」ことまで主張している。一九〇六年のメンシェビキが多数を占めた中央委員会は、先に開かれた第四回大会の諸決定に対する批判の自由の範囲の問題について決議をあげた。それは政治的行動の統一は今にもまして必要であるという立場から、
 1、党の報道機関と党の会合では自分の個人的な意見を表明する自由が完全に全党員に与えられる。
 2、しかし広範な政治的集会では党員は大会決定に反するアジテーションを行ってはならない。
 3、また党員はそのような集会で大会決定に反する行動や決議を提起してはならない。
というものであった。
 文面から判断するかぎり大会決定の後でも少数意見の保留が認められていて、意見の表明も単に党内だけでなく党の機関誌・紙によって外に向けてもできるのだから、少なくても機関紙による発表が完全には自由ではなっかた日本支部と比べても民主主義の保証は十分ではないかと思われるであろう。しかしレーニンはその決議を批判して、
 「それによって特定の行動の統一が破られないかぎり、まさにいたるところで完全な批判の自由がある」
 「党綱領の諸原則の範囲内では批判は、党の会合においてのみでなく広範な集会においても、出版物においても完全な自由でなければならないし、行動の統一に関していえば、それを破ることは、広範な集会でも党の会合でも党の出版物においてもゆるされない」
と党の決定に対する批判の自由と決定にもとづく党の行動の統一について述べているのである。
 しかし党内の民主主義を強調した当時の「民主集中制」が真のレーニン主義であって、それ以外はスターリンによって歪められたものだと言い切ることには無理があるのではないか。レーニンにとっては一貫したものであったが、「中央集権制」の初期と民主主義的党内意思形成を重視して「民衆集中制」を展開した中期とボルシェビキ単独の党となったプラハ協議会(一九一二年)以後から「分派の禁止」に象徴される第十回大会(一九二一年)以後の組織問題についての論述をそれぞれ独立して取り出すと、あたかも別の組織論であるかのようになってしまう。
 一九一二年以前は、国際的には第二インターのロシア党であり様々な潮流が存在している党の中におけるレーニンの組織についての主張であり、いわばボルシェビキの革命的マルクス主義を分派闘争を通じていかにして党の方針として確立していくかの観点から展開されている。しかしプラハ協議会以降においては、日和見主義潮流とは決別した革命的マルクス主義潮流の党におけるレーニンの組織論であり、国際的にもチンメルワルド以後は第二インターの修正主義潮流と決別した革命党(コミンテルン)における党組織論としての「民主集中制」が展開されているのである。
 日本新左翼に共通した現象かもしれないが、われわれのレーニン主義組織論の基本理解はレーニンが「広範な民主主義的原則」の必要性を認めてもロシアの専制の下では導入できないとして、「中央集権化された戦闘的組織」を主張した時代の著作にもとづいてなされてきたのが事実である。レーニン主義組織論の真髄は「何をなすべきか?」「一歩前進、二歩後退」だけで学習されていたといってもほぼ間違いない。初期のレーニンに依拠していただけではないといっても、党内における民主主義の徹底の主張に注目するのではなく、もっぱらメンシェビキとの分派闘争を通じてボルシェビキ分派がいかに断固として独立した単一の党の建設を進めていったかという側面において、以後のレーニン組織論を理解していたのである。
 われわれは主に初期のレーニンに依拠していたのであるが、より完成したレーニン主義の組織論・民主集中制論をレーニンの晩年に求めたのが「レーニン主義継承者」の正統派であろう。日本共産党の榊(敬称略、以後同じ)は、藤井一行を批判する論文の中で「総じて、レーニンの最後の三年において、その党組織論は、第十回大会の分派禁止決定の実行・貫徹を基調として、党の統一をめざす最高の実践的展開をみせている」と述べている。つまりレーニンの組織論はその時代背景に応じて展開されたが、プラハ協議会以降の組織論が現在の共産党に当てはまるのであり、とりわけレーニンの晩年、つまり第十、十一、十二大会で集大成され完成されているから、それを現在の共産党の原則的立場にしていかなければいけないというのである。
 この見解は単に日本共産党だけのものではない。日本新左翼各派の位置づけもそうであるし、われわれがコミンテルンの「組織活動に関するテーゼ」をレーニン主義の組織論であると考え、これを学習し実践することで組織をレーニン主義組織につくりかえるという発想もあまり大差のあるものだったとはいえないであろう。
 コミンテルン第二回大会(一九二〇年)の「プロレタリア革命における共産党の役割に関するテーゼ」は次のように「民主集中制」を規定している。
 「一四、共産党は民主的中央集権にもとづいて、建設されなければならない。民主的中央集権の基礎的原則は、党の上級団体が下級団体によって選挙され、党の上級団体の指令一切が絶対に、かつ必然的に下級団体を拘束し、大会と大会との間の期間、一切の指導的な党の同志が一般にかつ無条件にその権威を認める、強い党の中心が存すべきことである」
 第三回大会のテーゼもそうであるが、コミンテルンの規定は「集中性」を強調したものになっている。これは西欧のコミンテルン構成諸党が第二インターやサンジカリズムの影響を受けていたので、それとの決別を促す教育的性格があったためなのかもしれないが。
 われわれは、十回大会以後のソ連共産党やコミンテルンと異なって「民主集中制」において分派の権利を承認していたが、その実際の展開においてはコミンテルンのテーゼの枠組みであった。したがって藤井一行の「民主集中制と党内民主主義」の著作の中で展開されているレーニンの主に第二回大会後の組織に関する論述が非常に新鮮なものに感じられたのである。

 6 レーニン主義の解釈論議の不毛性

 ソ連共産党が、日本共産党が、新左翼各派が、そしてわれわれがレーニン主義の組織論である「民主集中制」の防衛を主張してきた――それぞれがレーニン主義とはこうであると解釈して。そしてレーニンもその時に応じて組織問題を展開しているのだから、局面局面のレーニンの主張をそれぞれ原則に高めたり、自分たちの主張をレーニンの言葉で修辞して正統争いの論議をしても全く非生産的である。
 組織論に限らず党および社会主義の再生の問題は、レーニン主義のレトリックではもはや収まり切れなくなっている。ソ連のペレストロイカをめぐるソ連共産党の論議でも、ゴルバチョフはレーニン主義の継承者としてあくまでもレーニン主義の枠組の中でペレストロイカを進めていくというレトリックで対処しているが、それは早晩「レーニン主義の枠組」では収まり切れなくなって論理的大矛盾をきたすか、自己が束縛されて進めなくなって破綻するかのどちらかの壁にぶつかるであろう――それはすでに現実となって現れているが。
 われわれはレーニンの闘い・主張にこだわり学ぼうとするが、自己の見解をレーニンの言葉で修辞して「これがレーニン主義の立場だ」というやりかたは止めなければならない。あるいはは自己の見解がレーニン主義から逸脱していないかどうか気にし、常にレーニン主義であることを証明しなければならないような思考方法を捨てなければならない。どちらが真のレーニン主義であるかを競う論争ではなく、自分たちの考え方がいかに現状の打開のために有効かということをストレートに「レーニン主義」にこだわらずに論議しなければならない。
 スターリニズムの組織論はレーニンを歪曲したものだが、それを指摘してもレーニン組織論の正しさを立証したことになるわけではない。いかに歪曲されたかだけではなく、歪曲されながらも「レーニン主義組織論」であるとして「通用してきた」レーニンの組織論その物の中にある根拠も明らかにしていかなかければならないであろう。もちろんそれは、社会、時代を超越した原理・原則としてではなく、二十世紀はじめ、ロシア社会であるがゆえに主張された組織論としてであるが。
 われわれの今までの組織観を検証するにあたって、レーニン組織論の「明」「正」の部分をとりあげてこのように本来は民主主義的なのだとするよりも、「暗」「負」の部分をより明らかにし、総括しなければならないだろう。何ゆえにスターリンは「レーニン主義の継承者」たりえたのか。なにを「継承」できたのか。そしてスターリン主義を批判してきたわれわれが「レーニン主義者」たる組織論の根拠は主になんだったのか、と。

  7 「民主集中制」の成り立つ前提の理論について

 「共産党組織における民主主義的中央集権制は、真の総合、すなわち中央集権制とプロレタリア民主主義との融合であるべきである。ただ、全党組織の、不断の共通の活動、不断の闘争の基礎の上にだけ、この融合を実現することができる」(コミンテルン第三回大会「共産党の構成、その活動の方法と内容とに関するテーゼ」)
 「民主集中制」は、それぞれ独立した民主主義の要素と中央集権主義の要素の組み合わせから成立しているのではなく、革命権力をうち立てる戦闘組織としての集中した指導性を高めるものとして弁証法的に統一されたものとされてきた。民主主義は「党の闘争能力を飛躍させるとともに、同盟員の意識の発展を保障する」革命的民主主義とされた。社民党は大量の労働者の入党の上に、形式的、代行的民主主義の制度の上にきずかれた官僚独裁の党であるが、共産党は「党の各級機関に対する全党員の主権を確立することのできる」民主主義が言葉の真の意味で最も成立することができる党であるとされた。
 「民主」と「集権」が一つのものとして成り立つという根拠には、階層、性別、民族を越えた共産主義者としての同一性によって党が構成されているという前提が存在している。労働者階級の中における相違は、生産関係の段階をはじめ様々な関係からやむをえないものとされる。資本に隷属させられた「遅れた」意識の存在は現実としてて認めざるをえない。だが「先進的」な「意識的」な共産主義者の集団としての党においては、単一性が成立しうるし、させなければならないということがある。共産党は労働者階級の党であるが、労働者階級からも独立した「共産主義者」によって構成される党であるからだ。十分に認識すれば労働者階級の前衛は一つの真理に到達できるのであるから、民主を通じて一つの集中を実現できるとされるのである。
 民主と集中は互いに矛盾するものではなく、弁証法的に統一したものである。党員一人ひとりが共産主義者として自立しているので、社民党のように多数の「遅れた」労働者と少数の知的エリートによる官僚主義に支配されることなく、真の党内民主主義と集中を実現できるのだということになる。民主集中制は、組織一般において成立する概念ではなく、労働者階級の前衛党としての共産主義者の党においてのみ成立しうる組織原則ということになる。
 第四インターナショナルは、レーニンの組織論をレーニンの意に最も忠実に継承してきた。その第四インターナショナル第十一回世界大会(一九七九年十一月)は、女性メンバーだけで構成する党内の会議に反対する決議を採択している。最も民主的なわれわれのレーニン主義組織論の継承がどのようなものだったか検討するためにも、少し長くなるが決議の抜粋を引用する。
 「われわれが唯一の綱領しか持たないのと同様に、党員としての在り方もただ一種類しかない。あらゆる同志は、男も女も、黒人も白人も、労働者もプチブルも、若者も老人も、文字を読める者も読めない者もすべて、党の綱領と活動を決定するとき同じ権利を持ち、その決定を遂行する同じ責任をもつ」
 「革命的マルクス主義の党においては、それがどんな欠陥や弱点を持っていようとも、綱領と指導部と一般党員の間に固有の矛盾は存在しない。したがって婦人だけの会議をつくることは党内民主主義および、われわれの労働者階級のための綱領を実現するわれわれが必要とするような組織の形成と矛盾する」
 「それは(党内の婦人会議の形成)むしろ、党が共通の綱領と任務の遂行を基礎にした、統一した組織であるよりも、それぞれが自己の綱領と優先課題を争う、相対立する利害ををもつグループの連合であるという印象を与えることによって、遠心的な力学を生み出す」
 「それは内部の婦人たちを、破壊的なしかたで自己自身に頼らせる。それは男女とも同志の不満と政治的混迷を深め、しばしば婦人メンバーの組織からの離脱を防ぐよりもむしろ促進する。
 それが内部民主主義にもとづいていないがゆえに、婦人会議は行動における中央集権というわれわれの原則をも浸食する。それはわれわれの綱領と民主主義的中央集権という組織原則と矛盾するようになる」
 この民主集中制の原則のもとに党における各級機関の自治権が否定された。党における諸組織の自治権が否定された。党における民族の自治権が否定された。党における女性の自治権が否定された。それはソ連におけるスターリン主義の党だけの問題ではない。党員の意見の自由の権利を認めながらも、党それ自身の一元性、単一性の承認が「レーニン主義組織論」の前提であった。
 レーニンが「ロシア社会民主労働党の統合大会に関する報告」(一九〇六年)の中で「これまで紙の上でより多く認められてきた、あらゆる党組織の自治は、現実に実行されうるものとなり、また実行されねばならない」と述べている箇所がある。「あらゆる党組織」の性格については議論があるところだが、「党内における自治」は、これまで集中制と対立しないものとして考えられてきた。
 第四インターの国際規約は、「民主集中制」について次のように記している。「民主集中制とは、国際的にであれ一つの政治路線を決定するにさいして内部討論における最大限の民主主義が実現され、他方一度多数決によって決定された路線を適用するにさいしてのもっとも強固な規律である。これは単によい方法といったものではなく、組織原則である」
 日本支部規約は「第九条 わが同盟の組織原則は民主集中制である。それは一つの政策の決定にさいして内部討論における最大限の民主主義の実現と、他方多数決によって決定された政策の実践における断固たる規律の実現である」とだけ記している(また「過渡的綱領」は「民主的中央集権主義―すなわち討論の完全なる自由、行動の完全なる統一」と規定している)。
 さらに「連合主義的な組織上の見地に反対して、単一の世界党と集中した国際指導部というレーニン主義的見地にたつ」と記している。第三インター規約の「事実においても行動の上でも、世界の単一政党であらねばならぬ。異なった諸国で活動する党はその個別的な支部にすぎない」をそのまま継承している。
 レーニン組織論の集大成であるコミンテルンの組織論自身が問題にされなければならない。コミンテルン第二回大会における「プロレタリア革命における共産党の役割に関するテーゼ」はジェノビエフが起草したといわれるが、レーニンもトロツキーも含めて満場一致で採択されたものである。これは、内乱の時代における武装闘争をとうしたプロレタリアートによる国家権力の奪取を実現できる党の集中制と(軍事的)規律の必要性から、もっぱら党組織論が展開されている。ここには分派の権利が存在できる余地はない。この組織論を一般的にあてはめるならば、党の官僚的維持に役立つだけになってしまうだろう。

   8 「敵対者トロツキー」のレーニン主義組織論の継承について

 トロツキーは長年「レーニン主義の敵」であった。事実トロツキーは、一九〇四年に「党は党組織により、党組織は中央委員会により、そして結局は独裁者によって置き換えられる」と批判し、レーニンの過度の中央集権主義は最後には労働者階級に対する一人の独裁者による独裁につながると指摘している。それは後で「誤解による批判であった」とトロツキー自身反省するのであるが、全く的外れの批判というわけではないだろう。スターリニストは、スターリンに対する最も首尾一貫した反対者のトロツキーを一貫したレーニンの敵対者と描きだし、自らをレーニン主義の正統な後継者であると主張する。
 それではトロツキーの理解者たちはどうか。トロツキーが規約一条をめぐって論争になった第三回大会でメンシェビキに属したこと、その後調停派の立場をとったことがあること、一九一七年までボルシェビキと違う分派に属したことから、トロツキーとレーニンの主張が違うことは誰でも認めなければならない事実である。そしてロシア革命がレーニンとトロツキーが共同してなされたという見解に立った上で、レーニンの率いるボルシェビキ党にトロツキーのグループであるメジライオンツェが参加して組織的には合流した歴史的事実から、「トロツキーは組織論ではメンシェビキ的誤りをおかしていたが、一九一七年に自己批判をしてレーニン主義組織論の立場に立った」――これがわが同盟を含めた新左翼の立場であった。その上で新左翼各派は「しかしその後トロツキーはレーニン主義組織論を貫徹できなかったのでスターリンに敗北した」と続けるが、わが同盟は「トロツキーはその後一貫してレーニン主義組織論の継承者であった」とするところで違った。
 この、一九一七年に組織論ではレーニンの立場で、戦略論ではトロツキーの立場で合流したとして、それ以前のトロツキーの組織論に関する考え方を全面清算してしまうことは正しいのだろうか。もちろん日本支部の中でこれは理論的、組織的に定式化されたわけではないが、一七年以前のトロツキーの組織に関する論述は誤ったものとして無視された。論敵を非難するに「一七年以前の非レーニン主義のトロツキーのサークル主義の立場に転落している」などという言葉も出てきた。これは、日本支部に独特な傾向であって、マンデルの「プロレタリア組織論」でトロツキー、ローザのレーニン批判が肯定的に評価されていることからみると、少なくとも第四インターナショナル全体の立場ではないようである。
 「しかしこの問題のうちにこそ、レーニンがメンシェビキに対するし烈な闘争の過程で理解しなかった(一九〇三〜〇五年)か、あるいは十分に理解しなかった(一九〇八〜一四年)一つの落し穴がある。そしてこの点においてこそ、『労働者階級と先進的労働者』の弁証法を理解するにあたってトロツキーとローザ・ルクセンブルグがなした歴史的貢献が全面的な意義を持つのである」(マンデル「プロレタリア組織論」)。
 日本支部は、ブンド、全国委員会派のトロツキズム=非レーニン主義組織論という批判に対するに、六〇年安保闘争での「経済主義」、安保後の全国同盟機関の崩壊という弱みをおってか、一七年以前のトロツキーを全面否定し、以後はレーニン組織論の唯一の継承者というふうにトロツキーの組織に関する思考のあまりにも図式的な清算を行ってしまったのではないか。
 われわれは十七年以前のレーニン組織論に対するトロツキーの批判の意図を正しく理解しなければならないし、またスターリンのレーニン主義の歪曲に抗して自己をレーニン主義の後継者として押し出して闘わねばならなかったトロツキーの党内における位置状況を理解しなければならないし、さらにレーニンに賛成して決議した分派の禁止についてのトロツキーの否定的総括に注目しなければならないだろう。
 「ボリシェビキ党が一九二一年三月の致命的危機の時期に第一〇回党大会において分派を禁止したのは事実である。その措置が正しかったか否かを問うことはできる。とにかくその後の展開の過程からみて、この禁止措置は党の堕落の出発点として役立った。すぐに官僚は党に思考することも息をつくことも許さないように“分派”という概念の幽霊を作り上げた。かくしてボリシェビズムを圧殺した全体主義体制が形成された」(「トロツキズムとPSOP」)。
 トロツキーがレーニンの組織論に反対したことについて、後に「その後の全経験によってレーニンのほうが正しかった」(「トロツキズムとPSOP」)といっていることは確かである。しかしトロツキーのいったことをすべて否定するのではなく、レーニンに対してトロツキーの組織に関する独自性について、今はむしろ注目していかねばならない。

  9 日本支部のレーニン主義組織論としての「民主集中制」はどのように規定されたか(略


 10 「民主集中制」は現実にどのように実践されたか(略

 11 どのような組織を考えていくか

 われわれのめざす革命、社会主義の内容と別個に党組織論は追求できない。われわれは神棚に祭っておいた暴力革命による権力奪取、プロ独、国有化と計画経済などの全面的な見直しと再構成のうえで現代資本主義を克服する社会主義像を作り上げていくのであるが、それを待って初めて組織について言及できるということではなく、日々の闘いをとうして自らの組織の在り方を同時に追求していく必要があるだろう。
 全国協議会への結集の条件ではないが、これまでの議論の中で確認できることは、レーニン主義組織論の実践とされてきたこれまでのわれわれの「民主集中制」からの決別であった。実際にわれわれは、その克服を目指してこの間活動してきた。その上で、これまでのわれわれの「民主集中制」ではなく、現実的で生き生きしていたはずの真のレーニン主義的民主民主集中制についてどのような結論をもつかについては、もっと討論が必要であるとして保留してきた。しかし、歴史的な現実としてのレーニンの民主集中制に対する評価は別として、真にレーニン主義的な「民主集中制」を適用すればいいという考え方では、これまでのわれわれの「民主集中制」の抜本的克服は不可能であるという結論をもたねばならないだろう。
 問題の本質は、いかに民主主義的であろうが、共産主義者としての同一性という前提のもとに成立する「集中制」の組織原理であり、「戦争、武装蜂起、革命」にもとづく戦闘組織概念の受け入れにある。われわれは、レーニン主義組織論の歴史的役割についてその客観的評価を行うとともに、レーニン、トロツキーの時代を含めたコミンテルン型組織論の全面的な克服を通じて新たな組織の方法を追求していかねばならない。
 この間、全国協議会で過渡的なものという条件つきながら検討してきたものは、以下のようなものであった。「論争、協働の場」「運動の調整・連絡機能」「個人の自立を基礎に、自立した諸活動の尊重」「女性メンバーの自治自決権、同数委員会」「上級下級主義の廃止」「全体協議の重視」「合意できるものの決定。決定することを容認しても同意できない決定にもとづく行動への不参加の自由」などである。これらは、何か系統だった理論として提起されたものではなく、われわれのこれまでの「民主集中制」でいきづまった結果として、現実的に対処する方法として提起し、実践してきたものである。これまでの活動を通してこれらの考え方は、単に過渡的な、当面のということにとどまらず、もっと発展、豊富化させていかなければならないであろう。
 さらにわれわれは、東欧の改革、ソ連のペレストロイカの中で、旧共産党が「民主集中制」を放棄していることについて、スターリニズムの破産として切り捨ててしまうのではなく、彼らが「民主集中制」を放棄していかなる組織原理を追求しているかを注目しなければならない。「自分たちは真のレーニン主義の民主集中制であるから破産していない」とする日本の新旧左翼の立場よりも、彼らの新しい組織方法への転換は、民衆の力によって突きつけられた根底的なものからの必死の生き残りのためのものであるだけに、われわれの参考になるものである。
 東欧の旧共産党勢力の反省にもとづく諸概念は、「民主主義原理」「党―党員の共同体論」「共同行動」「党員主権」「自発性」「責任における個人原理」「党内における複数主義」「入党・離党の自由」「公開性」などである。われわれがこれまでに模索してきたことと共通する点が多い。もちろん組織の方法は、われわれのめざす社会主義観と切り離して独自に成立するものではないが、旧共産党―社会民主主義への転換という規定のもとに組織についても同じにひっくくってしまうのではなく、組織の在り方そのものについての彼らの総括から出てきたものであるだけに、われわれに示唆するものは大きい。
 八六年から八八年にかけて日本支部の中で組織をめぐる議論が展開された。いきついたものは、「単一組織」「民主集中制」の組織観に裏打ちされた「十四回大会」の強行開催であった。「十四回大会」は有志の集まりであったが、日本支部の相対多数を結集したということは当時まだ日本支部内の討論の全体が現実からいかに遅れていたかを示している。だが八九年秋を経過したいま、「単一組織」論的概念にとらわれている人は少ない。これまでの見解にとらわれずに日本支部内で自由に議論する必要がある。「組織のことは非公然で」という観念こそ取り払って、われわれの再建に向けた論議を起こしていかなければならない。
 極めてはっきりしているのは、いまの社会状況、とりわけ思想状況では集中を基軸とした党組織論は小さなセクト的なグループしかつくれないということである。第四インターナショナル日本支部の統一・再建とともに、様々な傾向の社会主義追求勢力の結集による運動・論争・共同の政治勢力の形成が必要であり、第四インターはトロツキズムの闘いを継承したその推進グループであらねばならない。

即位の礼―大嘗祭反対

国民統合のイデオロギー的支柱としての天皇制による

一連の儀式に反対する闘いを

「象徴天皇制」のごまかし

 天皇代替りの集大成でもある天皇の即位の礼は、十一月十二日、大嘗祭は十一月二十二、三日に行われる。
 昭和天皇が戦後いかに「人間天皇」「象徴天皇」を強調しても、神格天皇制の下になされた侵略戦争と植民地支配の暗い過去を消すことはできなかった。とりわけアジアの民衆にとって日本帝国主義はヒロヒトの軍隊の暴虐として深く脳裏に焼き付けられており、最近の日本資本のアジアにおける横暴はヒロヒトの軍隊と容易にオーバーラップするものである。
 これに対してアキヒト天皇は、戦後民主日本のクリーンな象徴天皇制として押し出されており、戦後確立した議会制民主主義下における資本の安定した国内支配秩序維持に貢献するとともに、国際的には侵略者ヒロヒトに代わって平和愛好国日本の代表として皇室外交を展開して、日本資本進出に貢献させられようとしている。
 だが、ヒロヒトからアキヒトへの代替りがこれまでの天皇制の「暗」の部分を清算してまったく新しい天皇に生まれ変わるなどということはできるわけではない。象徴天皇制を規定した憲法に則って「開かれた」「民主的な」「国民に愛される」天皇、皇室にしようとしても、天皇制そのものの成立する根拠は憲法に記されているからではなく、「万世一系」にある。
 アキヒトに「政教分離」を規定している「憲法を守る」と宣言させながら、アキヒトを主役にして践祚からはじまった一連の代替り儀式において「万世一系の行為の継承性」を押し出さざるをえない。いかに「庶民性」を強調し、民主平和憲法の下における象徴制であろうとも、天皇であるかぎり、その即位において皇統の正統性を演出せざるをえないのである。
 十一月十二日、国事行為としての即位礼正殿の儀(これを一般に即位の礼といっているが)に先立って賢所で「即位礼当日賢所大前の儀」の神事が行われる。朝日新聞の報道によれば宮内庁でも「正殿の儀を国事行為として行う以上、大前の儀はやるべきでないし、やるとしても天皇の勅使が賢所に出向いて奉告すれば足りる」という憲法遵守派もいたそうであるが、結局昭和天皇の時と比べると規模はぐんと縮小されたが、「神前で天照大神の子孫として行為を継ぐことを誓う御告文(おつげぶみ)を読む」いわば聖界の即位儀式である大前の儀は国民の代表とされる三権の長や大臣が参列して行われるのである。

大嘗祭の本質

 国事行為である正殿の儀でも構成は「国民主権、政教分離の現憲法にもとづき、伝統も大事にする」とはならず、「伝統にもとづき(つまり昭和天皇の即位礼を継承し)、現憲法とのつじつまを考慮する」にならざるをえないのである。つまり明治憲法の下でつくられた旧登極令を踏襲した儀式である。
 国民の代表である首相が「天皇陛下万歳」をする位置を庭ではなく正殿内にするとか、のぼりの文様から神武東征神話の八咫烏(やたがらす)や金色の霊鵄などを除くなどが、わずかに憲法にそった改定である。即位の礼の核心は、高御座の使用であり、御神体として礼拝の対象とされてきた鏡はあきらめざるをえないとしても、皇位の印である三種の神器のうち剣と璽を御璽・国璽と一緒に高御座に置くことであり、国民の代表として首相が「天皇陛下万歳」をすることであり、そして自衛隊が礼砲を撃ち儀仗整列することにより、万世一系の皇統を日本民族統合の象徴として国民的に承認させることである。
 公的性格がある皇室行事とされた大嘗祭の概要については十月十九日、宮内庁から発表された。大嘗祭は約二十六億円が宮廷費から支出され、大嘗宮は昭和天皇の時と同じ規模でつくられている。大嘗祭は天皇が天照大神の直々の子、すなわち神になることにより本当の天皇になる儀式である。だが宮内庁は、大嘗祭について天皇の神格獲得を否定したという。
 「特別の秘儀はなく、天皇が内陣で一人だけになることはなく、天皇が神前で読み上げる御告文には過去のものをみても自ら神格を得る趣旨の記述はなく、神に五穀豊穣を感謝し祈るものである」とし、さらに「両殿の内陣にしつらえられる寝座は皇祖・天照大神を迎えるもので、天皇自身は触れることもせず、この寝座で天皇が神と一体化するというのは誤りだ」と強調したという。だが、この宮内庁は神格獲得否定をいう中で、神格獲得儀式であることを立証している。すなわちアキヒトは神である祖先を迎えるのであり、アキヒトは神である天照大神の子孫であるというわけである。
 大嘗祭は単なる新嘗祭の豪華版ではない。アキヒトが布団の中に入ろうが入るまいが、大嘗祭は即位した新天皇アキヒトが、皇祖の神とともに同席して新穀を食べて祈るのであり、新天皇アキヒトだけがそれができるという儀式である。これが天皇の神格化でないとしたらなんであろう。
 即位の礼と大前の儀、大嘗祭を前者は政教分離を一応クリアした国事皇位、後者は政教分離していない皇室の私的行事と分けて考えることはおかしい。天皇制はいかに民主的な装いをこらした象徴制であろうとも、皇統の正統性によって成立しているがゆえに、これらは一体のものである。
 大国日本の国際的責務として自衛隊の海外派兵が画策され、そのイデオロギー的支えとして、国民統合の天皇制の一連の儀式が展開されている。即位の礼―大嘗祭反対の闘いにたとう。

「連合反対!明日の労働運動を担う全国労働者討論集会」を開催

転換期の運動を飛躍めざして

 問われている主体のあり方

「連合反対! 明日の労働運動を担う全国労働者討論集会」が十月十三、十四日、東京で催された。反JCの旗を掲げた「大阪集会」の出発から十三年、「東京集会」としては四回目の開催であった。
 今日要求されている課題をいかに認識し、方針化するか。その中心的活動として全労協建設をいかに推進するか。しかも、国際的な情勢の激動は労働運動の再構築に対して、あるいは左翼に対して何を突きつけているのか。そして「主体としてのわれわれ」はいかにあるべきか。そのような問題意識が集会基調案に流れていただろう。
 「日本労働運動の変革・再建を目指すわれわれは、産別や中央組織の違いをこえて結集してきた。しかしこの間、組織選択の方針の違いから、われわれの間にも少なからぬ混乱と反目が生じている。……また、全労協も未だ完成されたものではなく、路線的にも組織的にも、これからどう作り上げていくかという段階である。混乱や対立を克服し、再度、日本労働運動の変革・再建という本来の目標に向かって力を結集するために、政策の検討や政治的な意思統一をはかることが急務であり、本集会の主要な目的でもある」
 「おりもおり、東欧社会主義諸国の変容は労働者がめざすべき社会のあり方について根源的な課題を提供している。われわれはこれまで階級的労働運動とかいう言葉で自らの路線を表現してきたが、まさに労働者としての国際主義や階級的視点の内容が問われている」(基調案)
 しかし、課題の多くは今後の継続的な取り組みに委ねられた。いくつかの特徴的な事柄をあげることができる。@集会構成・内容の変化A分科会の準備と活発な論議B参加者の減少(六六二名、昨年比七二%)C第一分科会での組織問題をめぐる激論。これらは、転換期における困難と模索の交錯を表すものであったといえよう。以下は集会の簡単な報告である。

 強力な全労協を

 一日目と二日目の午前は分科会討論に当てられた。この設定は討論の掘り下げが必要という参加者の意向を反映するものであるといえる。分科会は@集会基調討論A国鉄闘争の勝利と新しい労働運動をめざしてB原発とめようC女性解放と労働運動――つくろう! 女たちの労働運動を!D闘おう三里塚、許すな農業破壊E障害者差別と闘う――ともに生きともに働くとはF命と健康を守るG労働者の国際連帯H天皇制と闘う労働運動I多数派への道を探るJ地域共闘と未組織の組織化の――であった(分科会討論の内容は後日集会実行委員会によってまとめられるとのこと)。

 二日目午後から全体集会が開催された。集会実行委員会を代表して市川誠さんは、中東情勢の考えられる四つのコースを指摘しつつ、国連平和協力法案粉砕の闘いに全力をあげようと訴えた。
 来賓として山崎全労協議長は、「現在の重大な情勢のなかでこの集会が開催されている。百万全労協めざし組織化のプロとして地域で奮闘されたい」と挨拶。
稲田国労委員長は、「闘争の基本目標を再確認しつつ、国家的不当労働行為との闘いを進める。十一月総行動を展開し、十一月三十日の五万人集会(明治公園)を成功させよう」と提起。
 労研センター、台湾労働人権協会からのメッセージに続いて、国労釧路闘争の横田事務局長からの特別報告。「自活」体制についての詳細な報告であり、六四人の闘争団をアルバイト班、専従班、全国オルグ班の三つに分け、その中で「労働者協同組合」の試行錯誤を繰り返してきて、現在、クリーニングの下請け、石油ストーブの分解清掃、印刷や横断幕づくりの三つの分野でようやく純利をあげつつあるとのことであった。苦しさ、困難さについても言及された。「冬場の生活をどうするのか。東京への出稼ぎについて議論があった。この冬が山場だ」「闘うことと食うこととの両立は可能か、という問題だった。そこで、JRに戻るために闘う、設備投資は少なく、闘いをまわりに返していくの三本柱を基本にしてきた」との発言があった。

初めての試み

 続いて、初めての試みとしてパネル・ディスカッションが行われた。テーマは集会のサブ・スローガンである「働く人々の自治・自由・平等・連帯」。
 パネラーの中野麻美さん(弁護士)は、日本生産性本部の経営戦略を@少数精鋭による「能力主義」管理A雇用の多様化・個別管理B流動化C労使関係再編として紹介し、それと対応する職場の変容を@厳しい労働条件・無定量な労働A差別の拡大(女性・高齢者・パート・派遣)B企業間・企業内異動の促進C競争・反目・経営に向かっての結合・利害の対立として指摘。このような状況のなかで、「人間として、労働者としての権利」とは何かを考えることが必要であり、自由・自治・平等・連帯について「市民革命による天賦の人権」の現代的意義について再検討すべきと提起した。
 栗木安延さん(経済学者)はポスト・フォーディズム、パクス・ジャポニカをめぐる今日のホットな論争の一端を紹介しつつ、「労働者のエセ主体性もとにかく動員している」この企業社会の変革をいかに展望すべきか、「生産だけではなしに消費・流通・産業全体」を問題とする労働運動が必要だと強調した。
 パネラーの最後に前田裕晤さん(十月会議代表)は「論議のための問題提起」として、労働運動とは何かのとらえ返し、自分自身の切開が必要だと語った。前田さんの淡々とした語りは確かに集会の一つの象徴であったといえよう。労働運動、労働者階級とその前衛性、資本主義から社会主義へ――それらを当り前の論理としてきたがどうであったか。東欧問題は否定的状況なのかどうか。労働組合にも競争原理が貫く現実をどのように考えるか。民営化を人間社会の破壊という視点から再度いかに問題にしうるか、等々。
 会場からの質問・意見の多くは、労働運動が魅力を失っている現状をどのように認識し、その克服の道をいかに探るかという点に集中した。女性参加者から、男たちは仕事も組合活動も家に帰って「疲れた」を連発しつつやっているが、これはどういうことか、「好きだから」ということかとの指摘がなされた。現在の(男性)労働運動のあり方が(男性)活動家の生き方の問題としても問われており、しかもその答えをもてないでいる(であろう)ということはまた、この集会を強く印象づけるものであった。
 最後に、実行委員会の集約として遠藤一郎副代表が4点を提起した。@今春の国労、韓国スミダ、医労連などの闘いは労働運動の変化を示唆しているのではないか。新しい要素が全労協に持ち込まれたり、活動家が積極的に担っているということの可能性に注目すべきであろう。A組織選択をめぐる違いから内部団結に困難が生じている。港合同はこの点について分科会で主張し、また文書でも提起されている。選択の違いがあっても九〇年代の前進のために、団結はいかにあるべきかの視点から、今後の共同闘争の展望、方針の一致のために論議を積み上げていきたい。B自治・自由・平等・連帯のスローガンは従来の自分たちの価値観のとらえ返しということでもあり、その中味の深化が必要。C国連平和協力法案阻止など秋の重要な闘いに全力を。
 最後に国鉄闘争センターの石田精一さんが閉会宣言を行い、集会を終えた。

平和協力法と自衛隊海外派兵反対    山形

         活発に学習会や街頭情宣

 十月二十七日、山形市内で女性、市民、学生らでつくる「国連平和協力法案と自衛隊の海外派兵に反対する会」は、街頭宣伝とチラシ配布の活動を行った。二十人近くの参加で、「協力法案反対」「自衛隊の海外派兵許すな」とハンドマイクで訴え、約二〇〇〇枚のチラシを配った。
 この運動は、九月中旬にアメリカがサウジアラビアに大量の軍隊を送り込み、それへの協力として日本が「貢献策」として行った多国籍軍への一〇億ドルの援助がさらに増額され、「国連平和協力法」という名目の特別立法で自衛隊を海外に送り出そうという動きが出てきた中で、「有事立法ではないか」「何かしなければならないのでは」といった声が上がってはじまったものである。
 これまで学習会を重ね、チラシ配布も今回が二度目である。学習会ではアラブ地域の歴史を学び、国境がイギリスなどの帝国主義諸国によって政治的判断でつくられたものであることや、クウェートでは選挙権をもっているものがほんのわずかであり、国民所得もアラブ諸国の中では圧倒的に高所得でありながら、人々の間の格差がきわめて大きいことなどを知った。さらに報道されている「平和協力法案の要旨」(10・5『赤旗』)に、「国民の協力規定」があり、これでは国家総動員法につながるという声があがった。
 一方、具体的な行動としては、政府・自民党への抗議文や労働組合に反対運動に取り組むよう要請する文書などを送る活動が提起され、実行してきた。山形市内では市長選挙の関係から、これまで共産党系を除けば反対の声はほとんど見られなかった。しかし、山形大学で教官有志の反対署名が取り組まれるなど、運動が行われはじめている。中東の湾岸危機を口実に政府・自民党がもくろむ国連への協力=自衛隊の海外派兵は当然にもアジア諸国の反発を受けている。今国会での廃案は当然の要求として、それだけにとどまらず、さらに全国で行動を!