2002年12月10日        労働者の力             第 153号

小泉内閣は日朝国交回復交渉を急げ
東アジアの冷戦構造解消無くして          拉致被害者の人権回復はない
  
川端 康夫
 


拉致被害者の永住帰国と人権回復は同義か?

 日本政府は拉致被害者の一時帰国という「約束」を破って被害者の永住帰国を決定した。その結果、日朝間の交渉は全くの暗礁に乗り上げてしまった。現実を要約すれば、拉致被害者の身柄が、北から日本政府に移管された、ということである。拉致被害者の家族の帰国の見通しも立たず、日朝国交回復交渉も何一つ進まない。日朝国交回復交渉を進めるために、小泉内閣はまったく何を考えたのであろうか、完全な外交無策としか言いようがない。
 問題の真実は、北、日本のいずれもの国家権力からの拉致被害者およびその家族の自由の確保というところにある。拉致被害者とその家族を日朝間に存在する実態的、法的戦争状態下で、両国家権力の争闘のための道具にしてはならないのである。
 こうした国家主義の論理は、議連や家族会の一部に間違いなく存在し、そして政府の担当窓口である阿部晋三にも明確に見られる。議連はそうだが、阿部晋三も日朝国交回復交渉には反対である。阿部晋三は、問題の発生の時点で、小泉の訪朝それ自身に反対したほどであり、彼は議連と組んで、拉致被害者をカードとして利用し、そこで日朝国交回復交渉を水に流してしまうことを考えているのだ。
 この問題から自由にならなければ、拉致被害者とその家族は永遠に自由にならない。
 そもそも日本国家権力は拉致問題と向き合って来てはいなかった。現在社民党に攻撃が集中しているが、実は日本の歴代政府も、さらにはいかなる政党も正面から拉致問題に取り組んできたことはないのである。人権軽視国家としての日本は、中国封じ込めの論理によって残留孤児問題を放置してきた。それと同じ論理が拉致問題に働いている。小泉内閣は、北に放置されている拉致被害者の人権をどのように考えているのだろうか。おそらく何も考えてはいないのだろう。「日本政府の下への国民的団結」の論理には、人権の視点はなく、日本国家利害の論理のみが存在している。
 
家論理突出の環境を解消せよ 
 
 このように見れば、拉致問題の真の解決は日本と北部朝鮮の両国家における民主主義の深化と回復が必要であることは明らかである。それは日本政府に丸ごと依存した拉致被害者回復運動ではなく、国家権力から独立した力による運動が必要であることも意味する。
 原状回復論の非現実性は、「覆水盆に返らず」を故意に無視しているところにある。拉致被害者本人、子供、家族の要求は各々異なるはずだ。それを押さえ込み、欺瞞的な無前提の同一化を政府は押しつけている。それも北による洗脳というカムフラージュさえをも動員して。
 厳然とある現実、歳月の経過に立脚した解決の追求が必要なのである。ここにおいては、現瞬間の状況が示すように、国家利害突出はまさに最悪である。議連や阿部は決して拉致被害者のためを考えているのではないのだ。拉致被害者が真に救われるとするのなら、北にいる家族との一刻も早い合流を最優先しなければならないはずなのだ。この点において、マスメディアの大キャンペーンも同じく指弾されなければならない。マスメディアは完全に政府や議連のサイドによっている。連日流され続いている北攻撃は、日本のメディアの質の劣悪ぶりを示す典型的例と言っていい。
 
民衆的希望としての東アジア冷戦構造の解消 
 
 世界で唯一残された冷戦構造―これが東アジアの現実である。この解消こそが民衆の希望であり、歴史的、国際的課題である。事実として、日本における「拉致問題突出」は、東アジアのみならず、アジア一円に困惑と疑念を作りだしている。自由党の小沢ですら、国家主義的な安全保障の観点からであるが、小泉内閣の「拉致突出」を批判している(『朝日』「野党よ―党首に聞く」)。冷戦構造が続く限り、国家主義の論理も持続する。阿部晋三や議連の意識は、まさにこの冷戦構造を持続させることに主要な目的をおいている。それゆえの拉致被害者の取り込みである。人権の無視である。
 人権、民衆的権利の観点から、こうした冷戦型国際的システムに主体的に介入する視点こそが必要なのだ。そうした時に東アジアの冷戦構造の解体の意義が浮上してくる。拉致問題そのものも冷戦構造が生み出したものなのだ。
 冷戦構造の維持を目的とする議連や阿部晋三らは、拉致被害者たちの要求を逆に踏みにじっているのである。
 
悪の枢軸論と同質の北犯罪国家論 
 

 議連の永住帰国論を支えているものは、北が信用できないという一点である。北を犯罪国家と規定する論理から導き出されるこの論理は、当然にも国交回復を否定することになる。だが、改めていえば、歴史および現代において、すべての国家、あるいは国家という存在が大なり小なりに「悪」であり、「犯罪的」である。それゆえにこそ、マルクス主義は最終的目標を「国家の廃絶」においているのだ。北を「犯罪国家」と決めつける議連らの論議はまさにこうした国家の本質を意識的に隠蔽し、自らの国家、すなわち日本国の免責、至上化を内に含む論理に無批判的に誘導することになっている。だがこの日本国が歴史的に免責される存在だとは誰もが思わない。そしてさらに、この日本国家が、そうした歴史を正面から認識し、償いをすることに絶対的に否定的であったことも誰しもが認めざるを得ない事実である。北との戦争状態を五〇年もの間持続してきたということ自体がそれを物語る。世界中で唯一国交の無いのが北なのだ。
 現実の世界を構成する国家体制とその国際的関係のあり方を抽象的に、観念的に否定することはできない。国交正常化こそが現在取るべき最も緊急の課題なのだ。
 
必要な北指導部への冷静な視点 
 

 拉致問題を引き起こした北指導部に対しては、民衆的権利を進展させることを基軸にした、民衆的介入の観点からアプローチしなければならない。一部には反帝主義の観点からアプローチしようとする傾向があると聞く。だが、こうした観点こそ、拉致問題で大きく誤った日本の左翼政党、とりわけ社民党の轍を踏むことになる、冷戦型発想といわなければならない。北指導部の政策と行動の根拠を冷静に把握する必要があるのだ。
 北指導部の発想は、政治的貧困さの産物である。観念論としてのスターリニズムによる貧困な革命観。それに由来する政治システムと経済運営の完全な破綻と行き詰まり。しかし、北指導部の「権威」そして北の民衆の「呪縛」は、客観的な戦争の論理、すなわち軍事的封じ込めと脅迫に対する強烈な自己防衛意識によって基礎づけられている。さらには旧日本帝国主義への憎悪と強烈な対抗意識がある。まさに近・現代東アジアが生み出したものである。
 北指導部から民衆が自立できる環境こそが必要なのであり、ここに「太陽政策」の決定的重要性がある。封じ込めと軍事的脅迫は、北の民衆の政治的自立と成長を明らかに抑圧する。それを廃棄する「太陽政策」の観点こそが、北における新たな民衆的権力への置き換えに資するのである。封じ込めと軍事的脅迫こそが、非民衆的権力の土壌であり、世界の支配的エリートにとってまさに有益なものであるし、ひるがえって戦後の日本が政治的、経済的モデルとして考えられている理由でもある。北の民主化を望むのであれば、軍事的封じ込めと脅迫は、百害あって一利なしなのだ。
 こうして見れば、いわゆる「脱北」政策ないし北体制の強制崩壊論の冒険主義的性格が浮上してくる。現在の北には、民衆の生活秩序を統制できる代替的政治勢力、力が存在していない。東欧革命との最大かつ決定的違いはここにある。カンボジアのポルポト体制との違いもここにある。東欧革命には明確な民衆的基礎を持つ反体制派、民主化グループが存在していた。そしてカンボジアにはベトナムを背景とする軍事的対抗勢力がいた。その上ポルポト政権には有機的に形成された民衆的権威はなかった。北にはそのいずれもの条件が存在していない。
 北の体制には相当の抵抗能力があると見た方がいい。抗日軍事抵抗に源を持つ、曲がりなりにも半世紀を越える統治実績がある。政治的な権威、軍と政治・社会システムが確立している。たとえそれが過酷な抑圧の下に完成されたのだとしても、一瞬のうちに一掃できるとはとうてい想定不可能なことである。しかも背後は中国である。東欧の背後のソ連が積極的に東欧革命を促進する立場にあったのとはまったく異なる地理的環境である。ロシアも中国も北の崩壊を望んではいないのである。
 「脱北」政策や強制崩壊を展望することは、まさに巨大なリスクを北の民衆に与えることになる。韓国や中国における民衆をもおおう危惧感を重視しなければならない。
 
国交正常化交渉と一体な拉致問題の解決 
  
 こうして議連や阿部晋三が主張する、拉致問題の解決なしに国交正常化はありえない、という方針はまさに逆立ちした方針である。国交正常化が拉致問題を真に解決するのである。そして同時に日本政府による北との国交正常化が、韓国政府による太陽政策と共に、北体制の民主化を促進しうる唯一の方向性なのである。
 例によって小泉は、この日本政府の逆立ちした方針に介入しようとはしていない。小泉にはまことに人気取りのパフォーマンスしかないのだ。こういう内閣は一日でも早く退陣した方がいい。(一二月六日) 

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 危険に満ちた世界の幕開けと革命派の責任(4)
  ―民衆的抵抗から社会主義的革新へ―

X 支配層―能力の衰退と資質の劣悪化そして冒険主義
                     
 押しつぶされる支配の担い手

5―6 日本の大独占資本の場合は特に、上にみた伝統的権威への依存が顕著である。労働者の企業への徹底的囲い込み―企業主義と非政治化―により労働者の資本からの独立を阻止しようとした大独占資本は、そのことによって自ら地域社会への扉を閉ざしたといってよい。企業社会は地域と断絶的に形成された。そこから地域にのりだそうとする労働者は、明確に反資本の意識的活動家であった。反公害運動や住民運動の中でその関係は鮮やかに示された。それゆえ大独占資本の政治的統制力は、政治的権力頂点に限られるのであり、草の根の民衆にはほとんど手が届かない。この間隙を埋めるためにも復古的な地域ボスの政治勢力に依存するしかなかった。それゆえ近代化された大独占ブルジョアジー独自の政治勢力の結晶化は著しく困難なものとなった。
 日本の大独占ブルジョアジーが歴史的に作り上げてきた上記の政治的特徴は、グローバリゼーション下の国際的展開において今、重大な矛盾を作りだしている。

―中略―

 しかし日本の支配者層全体はこの現実をほとんど認識していない。アメリカの世界的覇権を不動のものと前提することで維持されてきたこの彼らの「一国主義」は、袋小路にはいることになる。
5―7 資本主義的グローバリゼーションを推進する多国籍超大独占資本の支配機能は、本質的に極めて脆弱な矛盾に満ちた基盤の上に築かれている。

―中略―

 ここにみた多国籍資本支配の脆弱で不安定な構造は、多国籍資本と民衆との間に、独自の強力な直接的な関係、利益の均衡関係が全般的社会システムとして築かれない限りは決して克服されない。多国籍資本とその国際体制はそれ以外には、民衆の総体的無力化という絶望的でリスクの大きい道に向かって歩を進める以外にない。ブッシュ政権の進めるアメリカの、とりわけ途上地域に向けた対外政策には、早くもこの色彩がちらついている。
5―8 しかもすでにみたように新自由主義は、社会に取り組む資質を極度に欠いたものだった(二章)。それゆえ現実に新自由主義の四半世紀、特に90年代以降の新自由主義のグローバライゼーションは、世界各国の支配関係を、先進工業地域、途上地域の別なく弱体化させた。この資本主義のもった激烈な社会的解体作用が体制の草の根的支え手をも襲うものだった以上、それは必然的であった。いまやこの体制の積極的な担い手は、社会のごく薄い上昇志向に駆られた野心家以外いないといってよい。
5―9 ところがこの新しい支え手は、恐ろしい程の社会的狭量を特徴としていた(二章)。先に挙げた竹中(同類のマスメディアの寵児も)はこの点でも一つの典型だ。そしてこの特質は支配層全体をもおおうものとなった。新自由主義の四半世紀は事実として、新自由主義に内在する特質―社会、民衆への無関心、それゆえの無責任―が、支配層個々に制約なく移植され、成長する時代となった。新自由主義のイデオロギーはそれをまさに正当化した。そして数年前までの労働者、民衆の混乱と抵抗の弱さがそれを可能とした。この抵抗の弱さと、ソ連崩壊を頂点とする「社会主義イデオロギー」の崩壊は密接に結びついている。人は大義なしには闘えない。そして労働者、民衆の抵抗を支える大義の再建は、未だ萌芽の状態である。
5―10 しかし新自由主義者に刷り込まれた上にみた特質は、本質においては、民衆掌握・統合の自らからの放棄を意味する。彼らはただ、民衆が無力であると、あるいは民衆の抵抗を、市場を理解できない不合理な精神すなわち「野蛮」のゆえだと、観念的に決め込んでいる。

不可避的な政治の機能不全

5―11 結果として、現実が否応なく迫る民衆統合、支配は、そのための専門家―政治家、行政官僚、弾圧機構テクノクラートなど―に委任された。新自由主義者にとっては、このような機能分担はまさに「合理的」だった。アメリカ連邦準備委員会議長グリーンスパンを神格化し、その手腕をひたすら当てにするアメリカの新自由主義ブルジョアジーは、その「合理性」を典型的に発揮している。
5―12 しかし、統治の専門家に処理を迫る現実の問題は、新自由主義の基本的枠組みから発生していた。二、三章で触れたように新自由主義は歴史的課題にまさに逆行していた。この基本的関係の下では、いかに技術的専門家といえども、彼らは立ち往生する以外にない。「交渉」に臨む専門家の「持ち札」を新自由主義は次々に奪うのだ。
 全世界で普遍的に、時の経過と共に政治の機能不全の度合いが深まった。可能かつ現実的であるか否かは別として、総体的路線転換がなされない限り、客観的に残されているものは基本的に抑圧政治だけである。
5―13 こうして統治の専門家と新自由主義ブルジョアジーとの間には、潜在的に緊張が高まる。この暗闘は、後述する国際的権力関係の再編をめぐってさらに深刻化する可能性が高い。統治の専門家にも、国家権力を基盤とする彼らなりの固有の特殊利害があるのだ。それゆえ統治の専門家は、国家権力の安定と強化をなによりも追求するだろう。
5―14 上記の緊張を背景に今、新自由主義ブルジョアジーの政治への直接動員が試みられている。「大企業役員政府」と揶揄されるブッシュ政権を先頭にイタリアのベルルスコーニ政権、フランスの新保守政権などが続く。制度上閣僚への登用はないものの、小泉政権も政府審議会には現役の大企業経営者を大量に招き入れた。ここにおいては国家官僚機構と民衆の対立が意識的に煽り立てられている。
 しかしこの試みも結局は、新自由主義ブルジョアジーの社会的狭量と、それゆえの政治的無能力を公然と暴露するもの以外とはならないだろう。自分を棚に上げてエンロン経営者などをくさし、ただひたすらアメリカ経済の「健全性」を強弁(その代表であるオニール財務長官は今やアメリカ国内でも嘲笑の的である)し、そして最後には愛国主義を煽り立てて軍事を突出させるブッシュ政権にすでにその一端は現れている。
 
グローバリゼーションの武装 
 
5―15 新自由主義のグローバリゼーションは、この機能不全化しつつある政治領域にさらに困難で、しかし本質的に不可欠な課題を押しつけた。それは、世界単一の自由市場に見合った国際秩序―国際権力の実態を作り上げるという課題だ。それは帝国主義国際関係の抜本的再構築を意味する。ソ連崩壊以降追求された、G7、IMF、WTOを軸にした政治的制度再編、新世界秩序は壁にぶつかった。
 今や国際秩序の核心―暴力装置の問題が性急に浮上させられつつある。
5―16 国際的権力の核心は、多国籍資本の投資(また資本引き上げ)の自由、およびその投下資本を誰が守るのか、である。その究極の実体が米軍であることには、おそらく世界の大ブルジョアジー総体の承認がある。ブッシュ政権はそれをしゃにむに突きつけようとしている。
5―17 しかしそれを政治に編み上げること、すなわち究極的には民衆の同意を取り付けることはそれこそ至難である。しかもそこには、自己の独自利害をかけた、国家機関各級の統治専門家による執拗な抵抗が不可避となる(5―13)。こうして国際権力創出の課題は、その努力自体が、支配層内部の暗闘を伴った民衆との衝突に転化する、あるいはすでに転化している。米軍は今やどこから見ても、民衆の側にはいないのであり、それは世界の民衆が日々繰り返し見せつけられてきた現実である。

新自由主義の政治的無能力


5―18 こうして伝統的支配層全体は、深刻な袋小路に入った。彼らの困難の直接的根源は新自由主義にある。しかし彼らの内では、それに代わるものを誰も持っていないように見える。彼らの労働者代理人が僅かに若干の手直し策―第三の道、ワークシェアリング、セーフティネットなど―を持ち出しているにすぎない。
5―19 ここに上げた手直し策を総括的に性格づけるとするならば、労働者の「合理的自制」を担保に、「労働者と共に歩む資本主義」への歩み寄りをブルジョアジーに求めるものとなるだろう。しかし彼らは、ブルジョアジーの「収益の自制」、ましてその法的、制度的担保については何も語らない。

―中略―

 この手直し策は、労働者、民衆が確固とした対抗戦略を手にしていないという条件の下でのみ、未だしばらく宙を漂うだけである。
5―20 支配層本流の中では、新自由主義の四半世紀が彼らの中でのオルタナティブ模索能力を限りなく奪ったようにみえる。一世を風靡した新自由主義的思考の異常な勢い(ケインズ枠組みの行き詰まりはそれほどに衝撃が大きかった)は、表面的には一世代全体に亘って異論派を一掃したかのようだ。それはあたかもマルクス主義潮流におけるスターリニズムの席巻を想起させる。
 それに加えて、この全体をおおった新自由主義的思考そのものが、その観念論的特質のゆえに、ありのままの現実を直視しそこと格闘し、そこから発想する能力を奪った。今マスメディアが重用するこの手の論者の、自分の観念・図式―本質的には保守的で卑俗な社会観―に合わせた現実解釈議論の手軽さは目をおおうばかりである。
 それゆえ彼ら内部の新自由主義的思考への批判は、高齢となった、あるいは現役を退いた旧世代以外からはほとんど聞こえてこない。そしてその限りで批判は、丁重にまさに無視されている。
5―21 その上に支配層にはさらに由々しい問題が生起している。それは新自由主義がまさに激励するブルジョアジー諸個人の勝手な利得追求が個人的貪欲を解放し、各人の勝手な利益あさりに帰結したことである。英米での大企業最高経営責任者への報酬はうなぎ登りとなり、今や全民衆的非難の的となっている。少し前までこのような批判は、下層大衆のひがみであると切り捨てられてきた。下層の収入の低さは「能力」の低さ故であり、それは自己責任の問題と突き放されてきた。しかし今、そのような傲慢さは、政治的、社会的にあまりに危険なものとなった。
 しかもそこには腐敗、脱法、違法行為が公然と横行していた。新自由主義者にとっては、法も単なるゲームの対象であり、法規定をすりぬけることは「能力」の一つとなった。こうして竹中の脱税は問題にするにあたらないものとなる。法に込められた社会的合意は実態として空洞化する。労働法規を最先頭に、企業不祥事の続発にまで至る法の実態的位置低下は社会全般に埋め込まれる。社会的解体は「法治」の事実上の否定としても貫徹している。
 
冒険主義浮上の力学 
 
5―22 上にみてきた現実問題への立ち往生、困難打開能力の劣化、そして新自由主義ブルジョアジー諸個人の社会的、政治的バランス感覚の欠如と道義性の欠如は、支配層総体の無責任化を進行させる。各要素が相互を強め合い、僅かに残る全体への責任の意欲をも萎えさせ、誰しもをとりあえず自身だけを守る方向に追い立てる圧力が高まってゆく。
 この展開力学は同時に、支配層内部を結束させる基盤的相互信頼をも腐蝕させる。支配層内部の権威もまた拡散に向かわざるを得ない。
 誰も真剣に責任を引き受けず、その場限りその時次第で漂流する日本政治、ブッシュ政権の突出する危険性に目をつぶり保身的に、あるいは感情に身を任せてこの政権に追随するアメリカ政治は、上にみた展開力学を端緒的に示している。
5―23 現実は、民衆との公然たる衝突の世界的拡大として彼らの前に立ち現れている。民衆は無力であるとの新自由主義者の勝手な想定は、その歴史と現実を無視した致命的欠陥のツケを払わされようとしている。この現実の前に支配層内部には否応なく客観的に、対立が拡大せざるを得ない。
 しかしその対立は、支配層全体を締め付ける上述した拡散力学の下で潜行する。その対立を自ら表に引き出し、公然たる論争、抗争として展開し、そして統合へと主導しうる指導性すらもが消えようとしている。支配層内の対立はねじれ、不鮮明化し、暗闘化する。この脈絡の中では、部分が異常に肥大したり、ある種の謀略すらもが力を持つ事態が起こりうる。
5―24 支配層をとらえた、この底深い危機と、ブルジョアジー内部での民主主義の位置逆転(3 12〜3 18)を背景に、支配層内部での冒険主義に推力が与えられ、抑制できない状況が生まれた。一方には、どんな手段を使っても新自由主義にしがみつく、いわば新自由主義との心中派の冒険主義が登場している。ブッシュ政権はその代弁者といってよい。彼らは人類進歩の旗として新自由主義を押し立てるがしかし、その遂行のためには核の使用もためらわないのでありそれは、彼ら自身にも本質的に未来への確信はないことを示す。彼らの中に無自覚の内にある種の絶望が忍び込んでいる。
 一方別の側には、新自由主義に破滅させられた民衆の憤激を糧とし、新自由主義解体の先に復古的な共同体秩序への一挙的舞い戻りを夢想する一翼が立つ。世界各地の支配層の一部は、この翼を自己の権力のために利用してきた。アルカイダを始めとするイスラム勢力の一部がアメリカによって支援されてきたことは周知の事実だ。ヨーロッパの「極右」のみならず、全世界で力を高めてきた民族主義、宗教的復古主義の諸潮流を、しかし現在の支配層はほとんど統制できない。
 そして労働者、民衆内部での対抗戦略、対抗的結集軸の不確かさ(後述)は、この二つの冒険主義への抑制をさらに弱いものとしている。
 世界は、それぞれの冒険主義がその論理を抑制なく、自己の手中にしている手段に応じて現実化する可能性を排除できない状況に入った。それゆえにまた、世界の民衆を破滅させ得る巨大で圧倒的な物的手段を手中にしているブッシュ政権の冒険主義は、世界の民衆にとって最大の危険要因となっている。
 世界はまさに危険な状況に入った。そしてこの状況の緩和のためにですら、全世界を席巻する新自由主義の総体的転換が必要となっている。そうであれば、この危険からの脱却の課題は、ブッシュ政権の統制、アメリカ多国籍資本の統制へとまさに貫徹する。
 
Y 歴史的挑戦を内包する民衆の対抗政治

民衆に預けられた未来

6―1 すでに多くの側面であらわとなっている新自由主義の限界は、資本主義そのものの歴史的可能性を問うものである。新自由主義登場の経緯およびそこに作用している客観的諸力がそのことを示している(三・四章)。
 歴史的客観的すう勢に加え新自由主義が特殊に加速した支配層総体の衰弱、それゆえに潜行する彼ら内部の対立、そして冒険主義の跳梁、これらの底には先の問いの深刻な重さが隠されている。
6―2 この問いの重さは労働者民衆が受け止めなければならない。今、まさに未来への鍵は労働者民衆が握っている。
 支配層の一部は事実上、すでにそれを認めているに等しい。たとえば「ワークシェアリング」理念(彼らなりの歪曲を込めてではあれ)に同調するブルジョアジーは、結局のところ「労働者による資本主義救出」を頼りにしているからだ。
6―3 しかし現実が迫る問題はすでに、歴史的あるいは客観的に、との意味合いを越えている。支配層を巻き込み、もはや彼らには抑制できない二つの冒険主義の解体、その切迫した課題がまさに労働者、民衆に預けられている。
 同時に、この問題といわばメダルの裏表のように貼りついている、新自由主義の解体からの社会の救出という課題もまた、労働者民衆に預けられている。
6―4 世界の民衆はこの現実、すなわち民衆の地下に押し込められていた決定的役割の浮上を自らの闘いを通して、特に、九四年のザパティスタの蜂起、九七年のユーロマーチからの一連の行動を通して作りだした。支配層および彼らの政策双方にひそむ本質的脆弱性、欠陥は、これらの下で引き出され、かつ進行した。
6―5 それゆえ労働者、民衆は、先にみた直面する二つの切迫した課題に、少なからざる現実的可能性を手に踏み出しつつある。
 とりわけ冒険主義との闘いにおいては、まさに即応的で同時に真に大衆的な巨大な抵抗が要求される。それは今、可能な土壌が与えられ、その土壌は今後さらに豊かになる十分な根拠がある。それは現下の民衆的経験―「反テロ戦争」への国家動員を突き破る、民衆の自立的諸行動―として日々実証されている。

統一戦線と民主主義

6―6 この可能性の現実化と打ち固め、さらなる拡大が要求されている。
 そこにおいては、労働者民主主義、民衆の自治の深化と拡大が不可欠の基盤的要件となる。それこそが歴史が提起する客観的発展方向(二・三章)を体現するものであり、それゆえにまた闘いの勝利的展開を支えるものである。そしてこの間の民衆の闘いは実際にも、この道に沿って強化されてきた。便宜的代行主義や徒党的覇権主義への誘惑は、その芽から摘まれなければならない。
6―7 同時にわれわれには、民衆が現におかれている客観的諸関係を現実に即して把握し、現状からの必然性ある発展、展開の要素と調和した運動の創造的探求が不可欠となる。特に民衆的抵抗が極度に遅れている日本にあっては、このことへの格別な注力が必要である。主観的一面化や性急な図式化は慎まれなければならず、経験の多面的突き合わせが行動探求の基礎におかれなければならない。インターナショナル支持派諸潮流の分裂状況は、今や重大な桎梏である。
6―8 日本における民衆総体を特徴づける弱点は、権力からの政治的自立性の弱さである。七〇年代以降の労働者運動の後退は特にこの点を重大なものとした。民衆全体を事実として縛る総体的な枠付け―政治―に対する受動性と無力感は、小泉フィーバーに端的に示された。
 この逆転、民衆の能動的で行動的な政治介入を再建し、促進する具体的道を探らなければならない。その道は、この間各地で追求されてきた直接民主主義的異議申し立ての少なくない経験として蓄積されてきている。
6―9 民衆的政治介入の再建にあたって、労働者統一戦線は決定的要件である。それは人々の奥底にしまわれていた政治介入への欲求を解き放す。しかも統一した行動の中で人々は多様な息吹に現実に触れ、その中で自信を取り戻し、そして政治的に前進できる。
 労働者統一戦線、それと不可分の一体である労働者民主主義の最も意識的かつ確信ある防衛者として、第四インターナショナル支持派潮流は、この点でも重大な責務を負っている。
 
民衆的抵抗がつくり出す綱引き 
 
6―10 先に上げた二つの直面する課題に向け、世界の民衆は今連携を深めつつ立ち向かおうとしている。この闘いを、自らの力に依拠し、主導的に展開することを通して民衆は、根源にある歴史的課題を自ら引き寄せ、そこに肉薄するチャンスに近づくだろう。
6―11 その上で、あるいはそれゆえにこそわれわれは、民衆が依然として政治的に決定的弱さを持っていることを確認しなければならない。その弱さとは、労働者民衆に共有された、現体制に代わる実現すべき社会、経済に関する基本的枠組みの不在である。端的に言って社会主義は今、労働者民衆の中心にはなく、著しく薄れている。
6―12 結果として拡大する民衆の抵抗は、まさしく抵抗として、社会の抜本的転換、社会を組織する原理の転換を事実上棚上げにしたまま進んでいる。それは客観的には、資本主義の無限の改良の可能性に依拠していることになる。
6―13 八〇年代以降進行した民衆の「非政治化」を体現するこの状況が、ブルジョアジーには持ちこたえの自信を、改良主義者には介入の余地を、そして冒険主義者にはやみくもの冒険への誘惑を与える。本質的に彼らはいずれも、民衆の疲れを当てにしている。
6―14 情勢全体は基本的に帰趨のはっきりしない、冒険主義の突発をはらむ動揺的な階級的綱引きの消耗戦的一時期を当面経過するものと思われる。この中で新自由主義の資本主義の試みは、その歴史的無力性をますます明らかにし、けいれん的性格を高めてゆくだろう。それはまた、資本主義そのものの歴史的生命力が根底的に試される過程でもある。その意味で民衆の疲れを当てにする支配層にも時間は必ずしも味方ではない。

社会主義革命派の責任

6―15 はるか先とはとうてい言えないいずれかの時点で、労働者、民衆は決定的闘争への踏み込みを迫られる。資本主義自身、無限の改良というコースの下では展開できないのであり、総力的対決は避けられない(四章)。
6―16 社会主義革命派には、このような情勢展開の性格を自覚した上での、労働者民衆の中に社会主義を復活させる特別の闘いが要求され始めている。新自由主義のグローバライゼーションに反対する民衆の中で、「もう一つの世界」に込められた民衆的要求を実現する手段の問題が討論、論争の主題として登場しているからだ。
6―17 社会主義復活のための闘いは、生存のための、統一された広大な大衆的抵抗と一体となり、真に実効的な抵抗を求める民衆のエネルギーの中で展開されるとき初めて有効なものとなる。労働者統一戦線の下で以前の分断化された制約から解放され、抵抗の意欲を深める民衆は、より能動的にすべての政治諸勢力の構想を点検し、さらに自ら要求を持って介入するだろう。
 社会主義の民衆的復活をわれわれは、実効的抵抗の要求を最も一貫して体現する方針の帰結として社会主義社会を民衆が受け入れる過程、として展望する。そのような過程を意識的に生み出し、そこに能動的に参加し、またその過程を促進すること、そこに社会主義革命派の特別の課題がある。そしてそれはまた、労働者統一戦線の下での、とりわけ改良主義潮流との党派闘争である。
 6―18 このような条件において最も有効に、社会主義そのものもまた刷新された像に近づくことができる。
 社会主義は確かにより豊かに現代的に刷新されなければならない。旧来の像の貧しさと欠陥はあまりに明らかだ。そこにおいては、相対的に独自の理論的探究の責任が社会主義革命派には課せられている。しかしそれは最終的に、民衆によってしか完成されない。
 人は完成された地図を手に未踏の地に入ることはできない。それゆえ民衆は、真に必要だと判断すれば、荒いデッサンの下でも社会主義的実践に踏み込むだろう。その実践的経験を生かすことのできる政治的枠組みが必要なのだ。
6―19 社会主義革命派には、この不透明で緊張をはらんだ一時期全体を、未来への最も確信に満ちた労働者勢力として、労働者、民衆の、特に青年の大衆的抵抗の先頭に立ち、社会主義的転換を忍耐強く訴え、かつその総体を先見性を持ち、創造的に闘い抜く重く緊張を要する責任が課せられている。その責任はわれわれに、政治的理論的成長と成熟を要求している。
 (次々号に補論を予定)

前号までの内容
T新自由主義の四半世紀
 社会の貧困化
 生産にしのびよる荒廃
 希望のための拒絶
U固有の社会を作れない
 新自由主義
 生まれない新しい社会
 ニューエコノミー
 破壊される、社会の持続可能性
 新自由主義の拒否が不可避に
 以上一五〇号
Vかつてない力を持つに至った民衆との衝突―歴史的力関係
 労働者民衆への深い依存
 歴史が作りだした民衆の力
 民衆無視の新自由主義は転落する
 以上一五一号
W資本主義―迫られる決死的跳躍
 ケインズへの決死的賭け
 新たな選択―労働者の受動性が頼り
 新自由主義、資本主義救出能力不在を露呈
 資本主義を越える道へ
X支配層―能力の衰退と資質の劣悪化そして冒険主義
 支配層の能力を奪う民衆への依存
 以上一五二号
 
 次の闘いはより困難なものになる
 
 
              ホマオ・マチャド・ボルゲス
 
〈本記事は第一回投票結果判明後の第二回投票に向かう状況についての論考である。ルーラは第二回投票でブラジル大統領に選出された。しかし彼が取り組まなければならない課題は、きわめて困難なものであり、PTは真にその政治性を試される。本論考は、PTがとらわれているある種の政治的罠を取り上げている―編集部〉

 期待に反してルイス・イオグナシオ・ダ・シルバ(ルーラ、PTの大統領候補)は二〇〇二年十月六日の大統領選第一回投票での当選を決められなかった。僅かの例外を除き世論調査は、彼が第一回投票での勝利に必要な有効投票の五〇%を一%越えそうだと示していた。
 この事実以上に、勝利が確実に見えてくれば来るほど、ルーラは、幅広い新しい支持を、その候補を見限った他党の党員分野、また大事業家双方からよりいっそう得ようとしがちになった。有名な銀行家や大金融企業首脳はルーラの立候補に支持を表明するか、最低でも共感を示した。報道は、彼らの内の何人かが、(PT指導部から)未来の政府の経済チームに加わるよう依頼された、と述べた。
 最後に、PTの活動家と支持者に依拠して最終盤の数日に運動のピークを持ってくるPTの伝統が、希望をより高く持ち上げた。
 しかしルーラは第一ラウンドで勝利しなかった。開票率九九%の段階でルーラは、三九〇〇万票近く、有効投票の四六・五%、全投票の四一%を得た。こうして彼は、約一九五〇万票近く、全体の二三・二%―すなわちルーラのおよそ半分を得票した政府候補、ホセ・セラを相手に第二ラウンドに立ち向かわなければならない。
 もしわれわれが、今回の場合そう見えるように世論調査が十分現実に近いと認めるならば、ルーラ支持は運動の最終盤増大せず、実際幾分後退した。これはどう説明できるのか。
 第一に、運動終盤に向け十月三日に行われた、主要候補間のTV討論の衝撃がある。「マーケティング」に関する彼の助言者が描いた戦略にしたがって、ルーラは他の候補者との対決を避けた。直接の、かつ繰り返された質問に際してさえ彼は、提起されたどのような提案に対しても賛否を明らかにすることを避けた(以前彼は、「ピースアンドラブ」の一人であると彼の気持ちを宣言していた)。問題は複雑であり、「社会全体との討論」を通して解決されるべきだ、と彼は変わることなく繰り返した。ここで刻印された印象は、困難を恐れる候補者というものだった。
 第二に、今回のPTの伝統的運動は、勝利の可能性を持ちながらも、はるかに強さを欠いたものだった。PTの運動への参加には、何年間にも亘って下降が現れていた(そこには、専門家の機関員の手中へのますます増大する党の転形が伴っていた)。今回、動員解体は以前より鋭いものだった。ルーラとPT指導部多数派が今回の運動に導入した変化は、不信の念で見られた。常に党自身を社会主義の党と定義していた党活動家が、大企業経営者との親密な共同行動の中で働き、銀行家に友好的に向かい、IMFとの間で交わされた合意の尊重に関与させられた政府という見通しを、熱気を持って見守ることができなかった、ということは理解できることである。
 ルーラ自身は間接的に、これらの困難を認めた。サン・パウロにおける運動の最終集会の一つで彼が語ったことは、「党の闘士諸君は、私が党の綱領を遂行しようとしているということを安心してよい」というものだった。運動が違った形であれば、このような断言はまったく不必要であっただろう。
 ともかく第二ラウンドは、ルーラにとってはより有利なものであろう。彼は大きなリードをもって出発し、さらに他の三人の主要候補者の支持を受けるに違いない(PSBのガロンチノ、PPSのシロ・ゴメス)。PSTU(モレノ派トロツキストグループ)のホセ・マリアもまた、〇・五%の得票率という挫折といってよい得票に留まったが(これは部分的に、ルーラを第一回投票で勝たせるための「有効投票」に向けた圧力によって説明可能だ)、おそらく彼の支持を与えるだろう。
 さらに決定的重要なことは、選挙の示したものが、フェルナンド・エンリケの政府とその新自由主義政策に反対の投票を行うという選挙民の巨大な意志だ、ということだ(それは政府候補者のセラが、彼自身を変革のための候補者として押し出そうとしたほどだ)。
 他方、選挙の大勢は決まったと考えては間違うことになるだろう。何よりも、第二回投票で「ピースアンドラブ」の戦略を維持することはより厳しいからだ。(インターナショナルビューポイント十月号)
注。ホアオ・マチャド・ボルゲスは、PTの社会主義的民主主義潮流の全国調整委員会メンバーであり、経済学者。
 ―ブラジル総選挙第一回投票結果―
          
労働者党左派の前進
              
ホマオ・マチャド・ボルゲス

 ブラジルの連邦を構成している州レベルで実施された種々の選挙における労働者党(PT)の結果は、得票上で確かな上昇傾向があったとはいえ、相当に変化に富んでいる。いくつかの愉快な驚きがあった。州知事候補がホセ・ゲヌイオ(PT左派と考えられている―IV編集者)であったサン・パウロでは、彼は有効投票の三二%以上を得た(この州の選挙でかつてPTが得た中では最高)。こうして彼は初めて、二一・三八%を得た右派候補、パウロ・マルフを打ち破って第二回投票に進むことになる。いくつかの州でPT候補の結果は、予期されたものより良かった。
 しかしながら、またいくつかの気にかかる結果もあった。その政府がPTの主要な展示品であったリオ・グランデ・ド・スルー州では、タルソ・ゲンロは第二回投票に進んだ。しかしその得票は有効投票の僅か三七%であり、一方右派候補リゴットは四一・一七%を得ていた。
 PTは第一回投票で、小さなアクレ州(ペルー国境に近いブラジルの北西地方―ホルゲ・ビアンナは再選)とピアイ州(権力乱用で放逐された前知事の支持で)の政府を勝ち取った。
 下院議員と上院議員の選挙結果に関しては、PTはその議席数を増大させたものの、華々しいというものではなかった。なぜならばPTは、多くの地域で議席をその同盟者、自由党に譲ったからだ。
 最終的にわれわれは、PT左派の結果に注目しなければならない。そしてそれは、この左派が完全に反対していた全国的政治方針(本紙十月号参照―編集者)に従わざるを得なかったということを考慮すれば、十分に良好なものだった。おおざっぱにいえば、PTとして選出された連邦下院議員七〇ないし八〇のうち、十名は、候補者選出のための最新党内選挙において社会主義的民主主義潮流(PT内第四インターナショナル支持グループ)の支持したリストに参加していたが、それは十五%増である(社会主義的民主主義潮流の支持者は、リオ・グランデ・ド・スルー州現副知事、ミゲル・ロゼット・、前ポルト・アルグレ市長で現州下院議員、ラウル・ポント、そしてアラゴス州の州上院議員、エロイザ・エレナを含む―IV編集者)。
 またパラ州からは、アンナ・ジュリアが上院議員に選出された。全体として、党の左派は連邦下院議員の約三〇%を占め、それは以前より良好な割合である。(インターナショナルビューポイント十月号)
 
―ヨーロッパ社会フォーラム―
           
目標に国境はない
          
 
〈以下は、「失業、不安定雇用、社会的排除に反対するユーロ・マーチ」の書記、ミッシェル・ルーショウに対する、ヨーロッパ社会フォーラムに関するインターナショナル・ビューポイント誌によるインタビュー〉

―一九九七年のアムステルダムの半失業大デモから五年を越える年月の後、ユーロ・マーチに関しては何が起きているか―

 幸いなことにユーロ・マーチは、ネットワークそれ自身に関してと同様、失業と不安定雇用労働者の状況について討論するために、ちょうどアムステルダムで会議を持ったばかりだ。
 失業率はEU至る所で、短期の下降のあと再び上昇している。リスボンとバルセロナのEUサミットは、労働の不安定性を加速する道を開いた。
 それゆえ、この巨大な長期的効果をもつ社会悪と闘うためにヨーロッパ規模で強化された失業者組織が必要となっている。しかしそれは容易くはない。一九九七年〜九八年の運動の後、EU諸政府への強硬右派の回帰と共に、失業者所組織は、さらにより残忍となった新自由主義の攻撃に単独で抵抗することが難しいことを悟った。
 諸勢力の首尾一貫した協力のみが経営者と彼らの政府を打ちのめすことができる。セビリアEUサミットの直前、失業者に対立するアズナール(スペイン首相)の施策によって促進されたスペインでのゼネストは、労働組合との必要とされ、かつ可能性を秘めた共闘が、現実に可能であることを示した。抗議のための運動ではもはや不十分である。失業と貧困を生み出す者を圧倒する勝利をいくつか重ねる必要がある。もしそれがなければ、最も恵まれない層は、オーストリア、イタリー、あるいはより近いところではフランスでの選挙に見られたように、ポピュリストのデマゴギーに回帰するだろう。
 
―運動に対するあなたの見通しは、具体的にはどのようなものか―

 決定が確定されるEUレベルで対抗するために、国境を越えた統一的闘争を建設できる共通の要求に磨きをかけなければならない、と私は考える。しかしこれは言うに易く行うに難しいことだ。ヨーロッパは現実に多様である。たとえば、仕事があるかどうか、あるいは青年かそれとも定年退職者か、それらに関わりなく収入の問題とどのように闘えばよいだろうか。EUの途方もない拡張の前夜、もしわれわれが賃金上、財政上、さらに社会的分野での安上がり政策に反対しようとするならば、全EU国家に適用される同一の社会的な、また賃金の最低基準を要求する必要がある。
 それゆえわれわれは、二〇〇二年十月三十日に、収入問題に関する討論と運動のヨーロッパ・デーを組織している。収入問題とは別個にわれわれは、すべての社会的権利のためにヨーロッパ規模で闘わなければならない。その場限りの会議で準備されている新しいユーロ憲章は、これらの権利に関して完全な袋小路に入ってしまった。これが意味することは、国民的文脈の中での長い闘争を通して勝ち取られてきたすべてのものの、前例のない後退にわれわれが直面している、ということだ。われわれはこの領域に介入するつもりだ。そしてフィレンツェでのヨーロッパ社会フォーラム(ESF)は、社会的諸権利を再確認する機会とならなければならない。実際、働く権利、収入を得る権利、住む権利は、広大な自由取引地域にまで切り縮められているEUでの売り物ではない。
 
―フィレンツェで、あなたは何をするつもりか―

 われわれはこのような試みを長い間待ち望んでいた。国民国家の枠組みの中での闘争が依然として有益でありかつ必要であるとしても、われわれ自身をヨーロッパレベルで築き上げる必要がある、と私は考える。資本家は彼らのヨーロッパを五十年以上もの年月で築き上げてきていた。一方われわれの側は、労働組合あるいは政治的レベルのような連合において非常に遅れている。
 ESFにおいて、数万の活動家は始めて、もう一つの世界でのもう一つのヨーロッパに向けた行動戦略を徹底的に考え、それをはっきりさせるために共に会するだろう。失業者諸組織、「無き者」―職無き者、家無き者、金無き者―の諸組織は確実に、これらの諸会合で耳を傾けられることを確かめるに違いない。そしてわれわれは、専門的技術を深め、闘争の展望を追求しなければならない。
 したがってわれわれはフィレンツェに、不安定労働と収入に関する分科会と共に、「失業者、不安定雇用労働者ヨーロッパ闘争協議会」を提案している。われわれは、社会的権利の関する分科会、さまざまな「無き者」の会合や集会、社会運動の最終集会その他に参加するつもりだ。
 われわれが望んでいることは、社会運動に向けた闘争の統一的目標をヨーロッパ規模で生み出すことをフィレンツェが可能にすることだ。われわれはすでに、この希望が具体化されつつあると感じている。われわれのイタリアの友人たちがこのフォーラムの準備のために実行してきた非常に開かれた過程はすでに、その成果を生みだした。
 すべての組織が今や、すべての国で彼ら自身を「ヨーロッパ・ネットワーク」の中に転形するために接触を追求していることを、われわれは確認できた。地球上の最も富裕な大陸のどこかしこで悲惨の種を播いている新自由主義政策に反対するために、われわれはフィレンツェで上述した結集を加速し、力を合わせるつもりだ。この「一極的」世界において、任務は急を要している。(インターナショナルビューポイント十月号)
 
 
 
 
 
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