2003年4月10日        労働者の力             第 157号

フセイン政権に代わる英米支配を許すな
民衆自身による真の民主主義イラクを

 川端康夫


ブッシュの建前はすべて崩れた

 英米軍のイラク侵略が開始されてから三週間が近づいた。バグダット中心部制圧という最終局面が訪れつつある。また無差別的な爆撃によって、民間人の被害は日を追って拡大している。自軍への誤爆があり、そして各種報道機関への意図的な攻撃がなされている。報道関係者の死者も拡大している。
 イラク軍の抵抗は最小限のままに終わりつつあるようである。バグダット市内に兵力を結集した市街戦の展開という予測ははずれたように見える。一般的な性格での軍事的な意味では、戦闘は最終局面に入っていると思われる。フセイン親子やイラク政権首脳、軍首脳の行方も現時点ではわかっていない。フセイン政権の軍事力は、湾岸戦争での大打撃をその後の長期にわたる経済制裁の期間で回復することができなかったようである。
 しかし戦争突入時に描かれたラムズフェルド国防長官の思惑は完全にはずれてしまった。英米軍の当初のもくろみは、圧倒的な空爆によって一挙にイラク軍の戦闘力を奪い、それによって反フセインのイラク民衆の決起を引き出してフセイン政権の壊滅を誘い、そしてバグダットに大歓迎の下に進駐するというものだった。軍事的に極度の優位にある英米軍がイラク軍を撃破するのはまさに容易であることは当初から明らかであった。ラムズフェルドは戦争開始の直後の数日間でイラクフセイン政権の打破が可能だとも相当に深く信じ込んでいたようである。その展望は、イラク南部のシーア派の造反、クルド人勢力の米軍への協力、そして残虐な独裁者フセインの暴政に呻吟するイラク民衆の反政府的決起、これらが軍事的圧力の下で一挙に噴出するであろうというものであった。この一方的な主観的分析は裏切られた。その結果として、フセイン政権打倒の手段がバグダット市内への突入、市街戦を通じた軍事占領という大量殺戮折り込みのシナリオになったのである。
 ブッシュは戦争開始直後の楽観的見通しが裏切られるに及んで、戦争の短期終結ということとは裏腹な長期化の可能性に言及し始めていた。イラク民衆を独裁から解放するという建前、その建前が現実性を帯びるためにはイラク民衆の反政府的決起が不可欠である。それはなかった。そして大量破壊兵器の破壊のための軍事占領というもう一つの建前も、大量破壊兵器が一つも使用されていないという事実によって裏切られている。ラムズフェルドらネオ・コン流派の強引な戦争計画の基礎は開始直後の数日で崩れ去ったのである。
 ブッシュは最後の勝利まで闘いは終わらないと強調している。だがそれは膨大な民間人の死傷者が生み出されることを意味する。こうした戦争に世界の世論、そして当事者であるイラク民衆の支持を得ることなど全く不可能である。ブッシュとブレアはまさにすべての建前をかなぐり捨てたむき出しの帝国主義侵略者としての姿をさらけ出している。
 
イラク民衆―フセインも英米もごめんだ 
 
 イラク民衆が、そしてクルド人やシーア派民衆がフセイン政権の打倒を願っていることはまさに事実である。フセイン政権はまれに見る残虐な政権として支配統治を維持してきた。しかしそれはイスラム世界、なによりもパレスチナをかかえる中近東という現実の中の現象である。イスラエルの右派政権の暴虐ぶりにその根底的な政治的、軍事的緊張と対立を発生させているという政治構造を抜きにして、フセイン政権の客観的位置はとらえられない。
 そもそもが英米政府のてこ入れによって強大化したフセイン政権は、その独裁基盤を英米の支持に求めてきた。ラムズフェルドがフセインと会見し、政権に武器を提供している映像が放送されたが、それこそが英米とフセイン独裁の関係を象徴しているものだ。フセインはイラク民衆の民主主義革命への希求を押さえ込み、かつ中東における英米の走狗としての役割を果たすことを通じて独裁体制を築いた。その民衆性と強さにおいて反英アラブ革命を体現したイラク民衆を打ち砕くために、帝国主義はまさにフセインを必要とした。
 フセインは同時に一種のポピュリズム手法を使い、クウェートをイラクから人工的に切り離したイギリス帝国主義の歴史的策謀への挑戦としてのクウェート侵攻に踏み切ることによって、アラブの盟主への道に挑んだ。イラク民衆から見れば、クウェートはイラクの一部に他ならない。しかしそれは英米の全面的反撃を惹起し、かつ侵略行為に対する世界的なブルジョアジーの結束した反撃に直面した。湾岸戦争におけるフセインの敗北は、軍事的にはまさに徹底したものだった。イラク軍は砂漠の戦闘において、完敗を喫した。それから十余年、アメリカの先端技術を駆使した軍事力増強に対して、経済封鎖の下に置かれたイラク軍の軍事力は湾岸戦争時に見せた野戦戦闘を行う余力はどこにもないことは明らかであった。
 英米にとって、クウェート侵攻はフセインの有用性が終わったことを意味する。中東の要に所在し、膨大な石油資源を保有するイラクを再度手中に入れるためにはフセインの打倒が前提条件となったのである。
 英米軍はシーア派地域を包摂する南部一帯に勝手に飛行禁止区域を設け、日常的な監視飛行とミサイル攻撃の態勢を作り上げ、北部のクルディスタンにおいてもイラク政府の関与を排除する措置をとってきた。英米は、イラク人口の過半数を超えるシーア派民衆をいつでも味方に引きつけ、そして北部のクルド人勢力もまた同様に行動するであろうことを期待し、その上にイラクの反体制派勢力を糾合することで、反フセインの民衆決起を可能ならしめる構造を画策してきた。
 しかし、事態は湾岸戦争時とは根本的に異なる。フセイン政権はどこも侵略を行ってはいず、大量破壊兵器にたいする国連の査察にも応じてきた。また中距離ミサイルの破棄にも応じたのである。さらに重要なことは、アメリカ政府がネオ・コンの戦略を採用しつつ、アラブ世界の「民主化」という巨大な目標を掲げ、いわば「文明の衝突」を辞さない姿勢をあらわにしてきたことの影響である。イラクと同時に悪の枢軸と名指しされたイランのシーア派政権は、今回の英米のイラク攻撃に対して、シーア派民衆の決起を阻止する動きを公然とした。北部におけるクルド人の動きも微少である。クルド人は、その裏切られ続けてきた歴史において、イギリス帝国主義を信じることはあり得ないのである。
 英米帝国主義が一貫して民衆弾圧の背後にあったことを良く知っているイラク民衆は、フセイン打倒のために英米と連携することはいささかも考慮していない。フセインもごめんだが、英米もごめんだ、これがラムズフェルドの思惑を打ち砕いた最大の要因である。
 
振り出しに戻るイラク 
 

 ブッシュとブレアの軍事的勝利が最終的になされる可能性はほぼ確実だろう。しかしブッシュとブレアはそれによって何を得るのであろうか。問題は単純である。フセインの独裁成立以前に戻るだけである。つまり、フセインの敗北は、イラクがただ「振り出しに戻る」ことしか意味しない。英米両国は、膨大な石油資源を自己のために管理し、その回復を求めるイラク民衆を抑圧し続ける能力を持つ政権樹立を改めて追求しなければならない。そしてそれは同時にシーア派勢力との対抗上、クルド人勢力の独立への努力を阻止しなければならないのである。クルド人を独立させれば、イラク人口の圧倒的多数をシーア派民衆が占めることになり、そうなった場合、このイラクというイギリス帝国主義が作りだした人工国家をスンニ派が制圧し続けることは極度に困難なものになるだろうからである。
 こうして、英米両国は自らの走狗となる民衆抑圧政権を必死で作り出さなければならず、そのための手法としてアメリカは英米軍による軍事占領を持続したいと思っている。
 だがイラク民衆の二十世紀が示しているように、農地改革を求め、石油資源の回収を求める民衆的力は底深い。こうした民衆的力を抑圧できる政権だけが、英米両国の支持を受けるのである。今あらためて世界中の注視の下で、こうした政権を人為的に生み出すことは困難であろう。
 「日本モデル」ということがネオ・コンによっていわれる。軍事力によって相手を屈服させ、そこに軍政を敷きつつ民主的政権を創出するというパターンである。だが、日本の場合、それは旧体制の核心であった天皇制の保全を通じて可能となった。すなわち旧体制がそのまま新体制に移行したのである。イラクの場合はどうか。旧体制の中軸であるフセイン体制は破壊されるのであり、全く新しく政権を作り出さなければならない。内部から呼応した勢力の糾合によって成立したアフガン政権とは事態が全く異なっている。しかもそのアフガンでさえ、実態は機能していない。
 イラクの場合、ラムズフェルドの思惑を裏切って、内部勢力の呼応は一部のクルド勢力を除けば一切ない。あるとすれば、外国亡命勢力であるが、それは旧王制派勢力がごく少数存在するとしても、基本的には反フセインの民主主義闘争を闘い、亡命を余儀なくされた傾向が圧倒的に多い。こうした勢力を糾合して、英米の走狗政権を作り上げることは端からほとんど不可能に近いといわなければならない。つまり、ブッシュとブレアには、戦争後の展望は何一つ確実にはない。それ故にこそ、なおさらブッシュにとっては自らが主導する軍政、つまり侵略の継続に固執せざるを得ないのである。ブレアが国連の中心的関与を必要条件として求めても、ブッシュはいつのもごとく切り捨てるだろう。ブレアは附いていくしかないのである。
 国連を中心にする国家再建というフランス、ドイツ、ロシアの共同構想には、イラク石油資源の英米による独占を阻止したいという思惑が見える。同時にブッシュにとっては不可能な、イラク民衆自身の手による民主的な政権の可能性を国連が介在することによって現実的なものにするという性格がある。仮にイラクという人工国家の枠組みの抜本的改革が現実的でないとすれば、残るはイラク民衆の各勢力の平等な協同の道しかない。そしてそうした政権の民主的確立の中で、イラク国家にとっては決して避けることのできない、クルド問題、シーア派問題を解決していく方策を探ることも可能となってくるかもしれない。しかしこのことは、外部勢力の介入を通じては絶対に不可能なことである。
 イラクの未来はイラク民衆が決めることである。アメリカとイギリスの支配下では一切のことが石油利権をめぐって動く。ここではイラク民衆の未来は閉ざされてしまう。
 
アメリカ追随を深める小泉内閣に痛打を 
 
 サダム・フセインは自らを西側帝国主義の侵略に対するイスラム勢力の代表という位置に置こうとした。それは一定程度成功したように見える。つまりフセイン個人の残虐な独裁の問題を後景化させることにそれなりに成功した。ムスリムの将来が根底的に問われているのであり、ムスリムとしての自己決定権が否認される瀬戸際にあると、イスラムの民衆は共通に感じはじめているようである。イスラムのジハードの意識は全域に共通していると見られる。
 結局のところ、英米両軍の戦争における勝利は、何一つ生産的要素を示すことがないであろう。ただ一つだけ積極的なことを提示しているとすれば、それは唯一の軍事超大国アメリカの誇る軍事力の限界の露呈という事実である。軍事力の発動は、この地域における地政学的ありようのどれ一つなりとも解決には向かわせなかった。つまりは戦争は政治の延長にある。政治的な袋小路が軍事的解決への衝動を導く場合がかなり多い、という現実は、しかしながら軍事力発動が問題の根っこを解決できないことがほとんどであるという事実を否定はしない。
 アメリカ帝国主義の軍事力はいわば武装する新自由主義の軍事力である。新自由主義はそのグローバリゼーションの全世界への強要手段として、アメリカ帝国主義の軍事力を発動している。しかし、イラクでの冒険が成功しそうもない現状を見れば、あるいは新自由主義のグローバリゼーションが世界的な反抗、抵抗を巻き起こしているという状況を見れば、今後一層、アメリカ帝国主義は自己の軍事力に依存する度合いを強めるであろう。その時に、今回の戦争が三十カ国しか公然とした支持を得られなかったという事態は、ますますアメリカの国際的孤立を深めていくことを予測させるに十分である。
 ブッシュとネオ・コンの路線が今後も持続するのであれば、国連機能は決定的に傷つくことになる。ブッシュとネオ・コンは自らの独立的国際機構という展望をもてあそび始めているはずだ。あの国には前科がある。ユネスコ予算の支払いを拒否し続けてきたという歴史だ。
 ヨーロッパ帝国主義は、今回の事態を通じて、その独立的政治性を飛躍的に強化した。ロシアが加わるこの大陸の帝国主義「ブロック」は幸運にも民衆的支持を背景にすることができた。それはEUの独自の軍事的武装(欧州軍)への衝動をさらに強めるだろう。NATOの挫折は深い。
 アメリカは自らの冒険主義において、大西洋同盟に歴史的危機を導いた。今回がそうであるように、アメリカは英米同盟とともに、日米同盟の強化に乗り出すだろう。すなわち海洋帝国による大陸の支配という図式である。
 日本の支配層は北朝鮮問題を媒介にして自ら積極的に日米同盟にさらに組み込まれていく道を選択するに違いない。しかし、日本もイギリスも同じく大陸に近接する国家である。大陸から離れて、あるいは対立して政治的にも経済的にも存続し続けることは難しい。そして国連の問題がある。
 日本帝国主義はまさに万力に鋏まれることになる。国連中心主義を標榜し続けてきた日本支配層が、国連離れを深める単独行動主義のアメリカにはたしてどこまで追随できるだろうか。大陸との関係を深めている日本経済がどこまで海洋パワーへの依存を続けられるだろうか。
 この春に爆発した反戦の大規模なエネルギーは、日本の運動的、政治的空白の十年が終わり始めていることを示した。間違いなく「国論の分裂」が進行する。そしてそれは既成政治勢力の大規模な再編を不可避的に伴う。われわれは今、そうした時代の始まりにいるのである。イラク侵略に対抗する大規模な民衆動員を作り出そう。小泉内閣の戦争荷担を許さず、そしてまやかしの人道援助、自衛隊派遣の策動を阻止しよう。
 (四月九日)
  声明:イラク人民に対する戦争を止めるための動員を!
                  
第四インターナショナル執行ビューロー
 
 木曜日(三月二十日)の夜、アメリカとイギリスの政府はイラクに対する大規模な攻撃を開始した。この戦争は、当初からアメリカの政策とアメリカの軍事的計画によってあらかじめ決まっていたものだった。
 第四インターナショナルは、この帝国主義的冒険を全面的に非難するとともに、それを止めるためにかつてない世界的規模の反戦運動の最大限の動員を呼びかける。

 イギリスとアメリカは、その弁明のかげに真の目的を隠そうとしている。その弁明とは、イラクのアルカイダとの連携、イラクの大量破壊兵器、サダム・フセインからのイラク人民の解放といったものである。しかし最初に彼を権力の座につけ、彼を武装し、彼を保護してきたのは彼ら英米両国なのである。数百万人のイラク人民を殺害し、サダムの利益になるような役割を果たしてきた殺人的経済制裁体制を押しつけてきたのは、同じ英米の政治家なのである。
 戦争の真の目的に疑いを持つ者はいない。その目的とはすなわち、石油であり、湾岸とアラブ地域の支配であり、アメリカ帝国主義とアメリカの多国籍企業の利益に沿った世界の再形成なのである。

 戦争に国連のイチジクの葉をまとわせる試みは、惨めな失敗に終わった。戦争屋の頭目であるブッシュ―ブレアは、国連安全保障理事会の公的多数派をなんとしてでも獲得しようとはしなかった。二月十五日の全世界の人民の大規模な高揚の圧力の下で、アメリカと、欧州の指導的国家であるフランス―ドイツとの帝国主義間矛盾は、かつてなかったような頂点にまで達した。
 こうした諸条件の下で、数週間にわたるおどし、強圧、買収によっても、安保理での戦争支持多数派を作りだすことは失敗し、フランスは「敢えて」拒否権を行使しようとした。パレスチナ人のための、新しい実現可能とされる国家を創出しようとする全くシニカルなブッシュの提案は、そこから注意を逸らすための試みにすぎなかった。
 結局のところ決議は撤回された。それはアメリカ外交の壊滅的な敗北であった。国連での大混乱は戦争の軍事的準備に影響をもたらさなかったが、それは戦争が遂行される政治的諸条件を変えてしまった。国連の合意があろうとなかろうと、戦争は明らかに受け入れがたいものになったのである。

 戦争の準備は、その最終的結果とはかかわりなく、短期的にも長期的にも政治情勢に深刻な変化をもたらすだろう。アメリカの絶対的優位性の範囲が、本当のところどれほどのものであるのかが試されている。それは、軍事的支配力と政治的支配の限界との巨大な矛盾を示してきた。国連は脇に置かれ、NATOは出し抜かれている。国際的な制度的枠組みの全体が破綻している。世界帝国主義システムの中枢を構成する大西洋両岸関係が緊張している。EU内部で重要な再編が進行している。その今日のマヒ状況は、重要な政治的危機の表明であり、それは欧州の支配階級を戦略の明確化に駆り立てている。
 反戦運動は多くの諸国で政府、議会、政党に巨大な影響を与えるだろう。労働運動、社会運動の根底的な再組織化がふたたび形成されている。イギリス労働党のかつてないほどの分裂は、その最も鋭い例証である。

 第四インターナショナルは、反戦運動を最大限の抵抗にまで高め、新しい世界的な行動デーを準備するよう呼びかける。われわれは、欧州の、世界の、そして各国の労働組合運動がストライキを行い、街頭に打って出るという提案を支持する。またわれわれは、高校生や大学生が学校の建物を占拠し、戦争について討論し、街頭に進出し、より広範な民衆と関係を持つことを支持する。
 ブッシュとブレアは、すべてが思い通りになるというシナリオで作戦を進行させている。それは迅速な軍事的勝利という賭けに出て、歓迎されてバグダッドに入るというものだ。しかしいかなる戦争も予測通りにはならない。彼らは不十分な政治的基盤の上で作戦を行っている。孤立しているのは彼らであってわれわれではない!
 われわれの目標は依然として、戦争を止めよ! 米・英・オーストラリアの帝国主義軍隊は湾岸から撤退せよ! である。

 この戦争は二十年間にわたる新自由主義の波とグローバル資本主義の発展を基礎にしている。新自由主義は戦争をもたらした。そして、われわれが反撃しないならば、この戦争はよりいっそうの新自由主義政策をもたらすことになるだろう。支配階級は、この戦争、そして来るべき戦争の代価をわれわれに支払わせるだろう。これらの諸問題に関して、今日の戦争の首脳であり、「平和」の首脳である、ブッシュとブレア、そしてシラクとシュレーダーといった支配階級は、いずれも完全に合意しているのである。
 われわれの戦争に対する闘いが、資本主義と帝国主義に対する搾取され抑圧された人びとの巨大な動員と不可分の結びつきを持っているのは、そのためである。

 また、戦争は反グローバリゼーション・反資本主義運動の新たな高揚を作りだしており、すでに世界・地域の社会フォーラムに新たな緊急課題を与えている。ここにこそ未来がある。左翼と反帝国主義勢力の再形成と統一が課題に上っている。可能なところではどこでも、社会民主主義よりも左に位置する新しい反資本主義政党が建設されるべきである。

 新しい世界は可能であり、新しい左翼が必要なのだ!
                                 (二〇〇三年三月二〇日)
フセインを使った反革命イラク確立への道―反英アラブ革命中核の鎮圧
     帝国主義を刻印するユニオンジャック再登場声明
           
                 ジョフ・ライアン

 クルド民族とシーア派ムスリムに対するイラクでの抑圧は、ジョージ・ブッシュやトニー・ブレアがわれわれに信じさせようとするようなサダム・フセインの発明策ではない。イラク国家は、英帝国主義が作りだしたまさにその発端から、クルド民族に対して民族的な権利を拒否し、多数派のシーア派民衆に対立する形でスンニ派ムスリムのエリートに権力を確保するように設計された。

石油と抑圧の制度化

 周知のように、石油資源の豊かなモスル州は、一九二六年に最終的にトルコからイラクに割譲された。イギリスとイラク君主制双方共が、この問題に関して共通の利益を見いだしたのだった。この問題のためにイラク君主制は、州で大きな部分を占めたスンニ派を新国家に合体させる必要があった。スンニ派、すなわちモスル州でのアラブ人とクルド人双方なしには、シーア派ムスリムが多数派であるイラクにおいて、ファイサル王家体制(イギリスが押しつけ、サウジ・アラビアに今あるものと同根の)は生き残るチャンスがほとんどなかったろう。
 イラクへのモスル州編入が作りだした最大の敗者はクルド人だった。彼らは以前は一九二〇年のセブレ条約(批准されなかった)の中で彼ら自身の国家を約束されていた。しかしクルド民族は、イラン、イラク、トルコ、シリア(ソ連の少数)の間に自身が分割されてしまうことを見いだした。そして、彼らは、自身の国家を持たない世界で最多の民族にされている。過去七五年間に亘ってクルド民族は、彼らの住むすべての国家の中で、さまざまな時期と地域に応じて激しさの程度が変わるとはいえ、共通に抑圧の下に置かれた。
 少数派のスンニ派による永久的支配に運命づけられたシーア派もまた敗者であった。そしてこの状況は、イラク君主制の打倒後も長い間続いてきた。イラクのアラブ人のおおよそ七五%はシーア派であり、ここにはシーア派の最重要な廟のうち四つがある。大部分がスンニ派であるクルド人を加えても、イラク人口の五五%はシーア派だ。一九二七年後半にキルクーク近くで発見された油田に対して石油探査がその年に始まった。三年後「イラク石油」(アングロ―イラニアン、シェル、モービル、スタンダードの企業連合で以前はトルコ石油、以下IPC)はイラク政府を強要して、その採掘権地域を一九二平方マイルから三五〇〇〇平方マイルにまで拡張させた。そして一九三八年までにIPCは、全国土にわたる石油の独占権を得た。
 
 英国による一貫した民衆抑圧
 
 その時までにイラクは名目上は独立していた。一九三二年には国際連盟に加盟を認められていた。一九三〇年のアングロ―イラク条約(イラクへの英国空軍基地の無期限維持)とIPCへの採掘特権の後に、反英ストライキと反英デモが国中で吹き荒れた。英空軍機はバスラその他の都市上空を力を誇示するために飛び回った。形式的独立の承認は英国にとっては、ほんの小さな譲歩でしかなかった。独立はファイサルに統治を保証はしたが、それはただ英支配を確保するためだった。
 真の権力は英空軍に、そして一層イラク石油の下に保持されていた。労働組合は禁止され、その指導者は投獄された。そして、一九三四年に創設されたイラク共産党(ICP)を含むすべての反対派は非公然状態を強いられた。ファイサル王は一九三三年に死亡し、彼の息子、ガズィが跡を継いだ。一九三〇年中頃までに軍(英国が訓練してきた)は政治により巻き込まれるようになっていた。一九三六年から第二次世界大戦勃発までの間に七回のクーデターがあったが、君主制統治に挑戦した者は誰一人いなかった。一九三七年に軍は、一連のストライキを鎮圧する上で主要な役割を演じた。
 一九三九年のガズィの死後、遺産はアブドラの下に収まったものの、真の権力は親英派のヌリ・アルサイードを通して帝国主義者の手中に保持された。そして彼は、次の二〇年間のほとんどの間実質的な支配者だった。
 ところでヌリと王族は、一九四一年五月のラシッド・アリに率いられた反英反乱の後一時的に亡命を余儀なくされた。この反乱は、イラクへの軍派遣と展開を認める一九三〇年のアングロ―イラク条約の英国の権利に挑戦したのだった。しかし反乱崩壊の後英国は、イラクを再度軍事支配の下に置いた。
 一方で、ソ連邦との戦時同盟の故にイラクの英支配は最初の間、労働運動抑圧の減少、いくつかの労働組合の承認に至った。しかしこの姿勢は、冷戦開始の時まですらも持続しなかった。一九四五年早々鉄道労組は、三〇〜五〇%の賃上げ要求をイギリスの経営当局が拒否した後ストライキを呼びかけた。しかしこのストライキを停止させるため、労働組合は非合法化され指導者は逮捕されたのだった。この抑圧にもかかわらず鉄道労働者は一九四六年、さらに四八年には三回ストライキに立ち上がった。また港湾労働者はバスラで、一九四七年にストライキを行った。そして再び労働組合は抑圧された。
 
 発展する反英抵抗
 
 最も野蛮な抑圧は、一九四六年にキルクーク油田で行われた。IPCは、石油労働者の労組結成を許可せず、賃金要求も拒否した。一〇日間のストライキの後に開かれたキルクーク近くでの石油労働者の平和的集会は、騎馬警官に襲われた。一〇人の労働者が殺害され、多くが負傷した。キルクークでのこの出来事は、イラク労働者の間の意識に大きな変化を引き起こした。一九四四年から四八年にかけたすべてのストライキは経済要求を目的にしたものだった。しかしイギリスの所有者のためにそれらを鎮圧しようとするイラク当局の熱意は、反帝国主義の雰囲気を増大させることに導いた。
 ほぼ同時期に、マハバード共和国の形成と共にクルディスタンでの重要な発展が起きた。マハバードはクルディスタンのイランが占領した地域にあるとはいえ、共和国はイラクのクルド人から熱烈な支持を受けた。一九四五年に形成されたクルド民主党(KDP)は、イラク、イラン双方からクルド人を引きつけた。
 
 反英反乱からイラク革命へ
 

 しかしながらマハバード共和国は、深くソ連邦に依存していた。冷戦の開始と共にソ連は彼らの軍事力をイランから引き上げ、石油利権と引き替えにクルド人を彼らの宿命のままに放置した。マハバード共和国はうち砕かれ、KDPはイラク人の党とイラン人の党へと分裂した。そして両党はしばしば、互いに相互に敵対した。
 一九四八年に英国とイラクはポーツマスで、三〇年のアングロ―イラク条約の代わりとなる新条約に署名した。しかしポーツマス条約は、イラクに軍事基地を維持する英国の権利を残した。イラク人大衆は憤慨し、広範な反乱を組織した。反乱は野蛮に抑圧された。しかし、ポーツマス条約が批准されることは例え親英政府によってではあれ決してない、ということを反対の強さは意味していた。
 特にエジプト大統領のナセルを打倒するための、五六年の英―仏―イスラエルのスエズ進駐の後には、帝国主義への敵対心は増大する一方だった。ムスリムとキリスト教徒双方を統一した反乱を破壊するための、核兵器使用の脅しを背景にした合衆国海兵隊のレバノン侵略を持って、五八年までにアラブ世界は公然たる反乱の状態にあった。
 イラクにおいては、親英王制が民衆的怒りの大衆的爆発によって打倒された。共産党を含む諸政党が合法化された。共産党のこの合法化は巨大なデモに引き続いたものだった。三〇万人以上の人々が街頭に登場し、党がまだ非合法であった時点で、政府に共産党を含めるよう要求した(ちなみに比例的に見て、このデモの規模は今年の二月一五日のロンドンとほぼ同規模!)。
 全政治犯は即刻釈放され、政治難民はイラクに戻り、そしてクルド民族に対して交渉提案が行われた。政府の布告を待つことなく貧農は、大土地所有者から農地を接収した。政府は貧農に、農地改革法が通過するまで待つよう勧告はしたものの、貧農抑圧という手段に訴えることはしなかった。事実上政府―その中で軍は一定の位置を持ってはいたが、支配的なものではなかった―は、地代の水準を制限し、大土地所有者がそれに応じない場合には重い罰金を科すと彼らを脅す法をすぐに導入した。
 一九六一年一二月の法令八〇は、そこですでに利益を上げていた地域に対するIPCの採掘権を制限し、九九・五%をイラク人の手に残すようにした。この動きに帝国主義は猛烈に抵抗し、そして米CIAはその注意をイラクへと向け始めた。イラク革命は、帝国主義が作りだしたイラク―ヨルダン連邦を破壊し、ヨルダンにあふれ出し、フセイン国王を退位に追い込みかねない脅威となった。この革命はまた、クウェートにおける英帝国主義の利益への挑戦でもあった。クウェートに関しては、イラク人大衆は明確にイラクに所属するものだと感じていたのだ。
 結果として英国は、彼らが後ろ盾となっている体制を守るために、ヨルダンとクウェート双方に軍を派遣した。追い払われた軍事基地を再獲得しようとする英国の試みが全くなかったほどにイラク革命には強さがあった。
 
 バース党とCIAによる反革命
 
 イラク革命の民衆的性格は、エジプトとシリアが新たに形成したアラブ共和連合(UAR)にもある作用を及ぼした。イラクを含めるようUARを拡大することをナセルは即座に拒否したがそれは、統御不能の自然発生的大衆蜂起を正しくも恐れたからだった。イラクとの融合は、シリアの反対派を大々的に強化しかねず、そしてこの反対派はナセルにとって彼ら単独だけでも統制には大いに困難だったのだ。
 一方でUARに対する反対はイラク内にもあった。首相であるカシム将軍にとっては、合体はナセルに対する奉仕を意味しかねないものだった。そして共産党にとってそれは抑圧を意味していた。なにしろナセルはエジプトで共産党を非合法化し、ナセルのアラブ社会連合以外のどんな政党をも許さなかったのだ。
 一九五九年にナセルは、親エジプト政権を確立しようとクーデターを仕掛けた。しかしこの試みは、数多くの流血の惨事を持って押さえ込まれた。しかしながら、政府支持派と反政府派間の暴力は引き続き、そしてこれがカシムと共産党の提携を引き裂く事態に至らせた。しかしこれでも、親ナセル勢力とバース党にとっては十分でなかった。そして五九年、バース党によって、カシム暗殺の企てが実行された。この実行者の一人が、サダム・フセインという名の若い学生だったのだ。
 親ナセルクーデターの試みを見てCIAは、カシムは打倒されると結論づけた。六三年二月、CIAは仏情報機関SDECの助力を得て、バース党を権力につけるクーデターを組織した。クーデターにイラク労働者は猛然と抵抗したが、彼らは敗北した。カシムは即座に処刑され、何千人もの共産党員が殺害された。共産党は地下に追いやられた。
 当初バース党は、それ以前にカシムとの対立関係に入っていたクルド民族運動に対し交渉申し入れを行った。彼らはクルド地域への自治保証を提案し、二〜三名の政府への参加を申し出た。しかし六三年五月までには、クルド人とイラク軍との間ですでに衝突が起きつつあった。そして全面的に大量虐殺的な戦争がまもなく後に続いた。
 法令八〇の廃止に大いに希望をかけていた石油諸企業は、バース党クーデターを歓迎した。しかし法令八〇の存続は、イラク民衆の抵抗によって確実にされた。もっともIPCに対しては重要な譲歩が行われた。
 六三年にはシリアでもまた、軍事クーデター後にバース党が権力についた。そしてこのことが再度、UARへのイラクの合流について議論を再開させた。しかし、双方のバース党政権に対するナセルの敵意とナセル主義者の仕掛けたシリアでのクーデターをもって、UARは急速に消滅するに至った。二〜三ヶ月もたたない内に、イラクとシリアのバース党は、かつてより以上に高まった激烈さをもって互いに非難しあっていた。その犬猿の仲は現在にまで引き続いている。
 しかしナセルとの対立は、イラクのバース党支配に対する軍内での反対とバース党それ自身の分裂へと導いた。六三年十一月十八日、バース党の野蛮な支配は、軍事クーデターにより打倒され終わりを迎えた。
 
 反革命の保証者、バース党
 
 新政府―軍・汎アラブ民族主義者、ナセル主義者、何人かのバース党員の連合―は、前政府の政策のあらかたを引き継いだ。もっともエジプトに対しては、改めて交渉が申し入れられた。その目的はイラク経済をエジプトの全銀行と調和するものとすることであり、三十二の製造、貿易企業と並んで保険会社が国有化された。退役軍人には、国有企業管理の任務が与えられた。
 しかしながら、これらの国有化は、脆弱な民族ブルジョアジーによって大方が指揮されていた。六四年にイラク国営石油(INOC)が設立されたものの、帝国主義者の所有する石油企業には手がつけられなかった。六五年までには政府は、国家部門の縮小に手をつけつつあり、外国資本との合弁事業を主張しつつあった。
 地方では、貧農への農地配分は停止に向かい、大土地所有者への補償は三倍にされた。農民蜂起は軍によって押さえ込まれた。監獄は何千という政治犯で一杯のままであり、彼らの多くが拷問を受けた。その一方でクルディスタンでの戦争はさらに三ヶ月続いた。休戦は、イラク軍が攻勢を新たにかけるまで一年しか続かなかった。しかし今度はイラク軍に大量の死傷者が出、政権は深刻な危機にあることを悟った。
 抑圧にもかかわらず、大衆的反対は続いた。六五年から六八年にかけて多数の労働者が参加してストライキが広がった。学生もまた政権に活発に反対していた。大学は戦車と装甲車で包囲された。
 六八年一月、学生の射殺に抗議し、逮捕された学生の釈放と大学からの治安部隊の撤退を要求するストライキに、バクダットとバスラの全大学が立ち上がった。ストライキは十三日間続き、ただバース党学生の武装襲撃によってのみ打破られた。そしてここにも再度サダム・フセインが含まれていた。イラクが直面していたどのような問題を解決することに政権が失敗し、抑圧にもかかわらず大衆運動の強さが持続する状況は、六八年七月一七日のもう一つのクーデターに導いた。そしてそれはバース党を再度権力に押し上げた。そしてここには、ほとんど確実に再度CIAが関与していた。
 バース党は敵意に満ちた反共のままであり、またクルド人にも敵意をもっていたが同時に、大衆運動の強さを恐れてもいた。したがって今回は一貫して、彼らは政敵の抑圧と経済分野でのポピュリズム的手段を結合した。後者には、七二年のIPCの国有化などが含まれる。時としてバース党は、クルド民族主義の諸党や共産党を含む反対派との連携に入る準備をもした。しかしこれらは単に、時と余地を稼ぐ戦術的術策にすぎなかった。
 
 帝国主義はサダムの残虐さを必要とした
 
 七五年までには、共産党への大量殺害、クルド人の居住地からの追い出しという抑圧が再度規範化された。国家のバース党化の進展には、「クルド人地域のアラブ化」、特にキルクークの油田地帯でのそれが伴った。七五年から七八年にかけ三五万人以上のクルド人がクルディスタンから国外に追放され、二四〇の村々が焼き払われた。
 七九年にサダム・フセインが国家の頂点に立った。彼の支配の下で残酷なテロが続いたが、結局はクルディスタンと、イランとクウェートに対する戦争でそれは新たな高みに達した。
 しかしながら、残酷なテロによる支配を発明した者はサダムではなかった。彼は、以前のバース党政権の政策、西側権力が全面的に支持を与えた政策を続行していたにすぎない。バース党を権力につけた者は結局のところCIAだったのだ。サダムは、まさしく野蛮で残虐な暴漢であったが故に西側から歓迎された。彼がICPを大虐殺した際には西側政府から、抗議のどのような表明もなかった。さらにまた、ハラブジャへの攻撃の後ですら、クルド民族に対するサダムの処置について多くの抗議が行われたわけではなかった。このハラブジャで彼は、英空軍の先例に従って、毒ガスの使用を命じたのだった。
 クルド人の闘争はイラク国家を分解させる恐れがあったが、それは帝国主義者の望むところでは全くなかった。その上にこれらの闘争は、トルコを分解する恐れもあった。ソ連邦との境界という戦略的な意味をもつ位置にあったトルコがそれ故NATOの要的メンバーになった以上は、先にみた変化は帝国主義権力から見てまったくもって望ましくないものだった。それ故西側政府はサダムを武装し続けた。
 七九年のイラン革命は西側にとって、はるかに大きな脅威と映った。従って八〇年にサダムがイランとの戦争に打って出た時、西側は彼を支持した。イラクが米軍艦、スタークを沈めた後ですら米政府は、彼を支え続けた。
 西側政府が悪魔のように描き始めたのは、彼がクウェートに侵攻した後にすぎない。問題はそれ故、サダムが彼の下の民衆を抑圧する残酷な暴漢であることではなかった。問題は、サダムが彼らの手を離れて行動したこと、それ故もはや、西側の利益を保証する上で当てにできないこと、にあった。そしてその時ですら西側政府は、クルド人およびシーア派民衆の反乱を破壊する上で、イラク国家の安定性の脅威を理由に、サダムにフリーハンドを与えたのだ。
 
 変わることのない帝国主義の目的
 
 西側政府はサダムの後ろ盾となってきたと言ってよい。しかし西側民衆の多数は彼への反対を組織した。彼らはイラクでの人権抑圧とクルディスタンの抑圧(トルコにおけるものと共に)に注意を引きつけるために、イラク人やクルド人の亡命者と共に努力した。
 そして、「抑圧に反対し、イラクの民主的権利を求める委員会」(CARDRI)と「クルディスタン連帯キャンペーン」に参加しているすべての人々は事実上、今イラクに対する戦争に反対している。ブッシュとブレアの戦争はイラク人にとって、ましてクルド人にとって、民主的権利とは何の関わりもない。彼らの意図は、イラクを管理するために、さらに、クルド民衆が被ってきた抑圧の長い歴史にもかかわらず、クルド民族を単一のイラク、イラン、トルコ各国内で生活するよう強制するために、アメリカ人の将校を着任させることである。そしてその意図を彼らは、まったくあけすけにしているのだ。(ソーシャリスト。レジスタンス三月号。中見出しは訳者)
 
 イスラエル、米国、そして国連
 一九四八年以降国連は、パレスチナ問題について五八もの決議を採択した。しかしイスラエルはそれらを次から次へと無視してきた。占領地からの撤退を要求する一九六七年の決議は、依然として徹底的に無視されている。
 そして米国は、イスラエルを批判する決議を退けるために、安全保障理事会での拒否権を膨大な数で行使してきた。米国はまた、エルサレムでの入植地建設の停止をイスラエルに要求することに反対しても拒否権を行使した。七三年以降だけで米国は、イスラエルを守るため二四回以上の拒否権を使った。
 ジョージ・ブッシュは中東の「文明化」を語っている。しかしイスラエルは、戦争犯罪に手を染め続けているのだ。そこには、暗殺、拷問、人質の確保、そして人間の盾としてのパレスチナ人使用が含まれている。
 米国の拒否権行使について、至近の例を以下に上げる。
 八五年・アラブ系民衆に対するイスラエルの「抑圧的手段」を遺憾とするだけの決議。
 八六年・ムスリムの聖地を尊重するようイスラエルに求めただけの決議。
 八八年・第四回ジュネーブ会議の有効性を受け入れ、パレスチナ市民の追放命令を撤廃することをイスラエルに要求し、占領地でのパレスチナ民衆の人権を侵犯しているイスラエルの行動を非難する決議。
 八九年・占領地におけるイスラエル人の蛮行の非難。
 九七年・入植活動の抑制をイスラエルに要求する決議。
 〇一年・パレスチナ民衆に対するイスラエル人のテロ行為の非難。
 
 資金
 
 イスラエルの野蛮な体制は、米国の資金供与に完全に支えられているものだ。そしてそれは五〇年代以来ずっと続いてきた。過去数年だけで米国は、イスラエルの兵器計画を発展させるため、巨額の軍事資金を与えてきた。そこにはたとえば以下のものがある。
 十三億ドル・ラビ機(軍用航空機)開発。
 二億ドル・メルカバ戦車(世界最大級といわれる戦車―訳者)開発。
 一億三千万ドル・対戦車レーザーシステム開発。
 〇二年に米国は、軍事援助として二〇億四〇〇〇万ドルを供与した。(ソーシャリスト・レジスタンス三月号)
 
 
 
 
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