2003年7月10日        労働者の力             第 160号

イラクへの自衛隊派兵反対!北東アジアの平和構造をめざせ!
小泉内閣の軍事的暴走を阻止しよう


 川端康夫


   小泉内閣は統一地方選を公明党の支持で辛うじて逃げ切った。そして公明党は永久与党化の道を公然と選択してしまったように見える。幹事長冬柴が進める政策は、完全に自民党タカ派と一体化したものとなった。
 この秋に小泉の総裁任期が切れる。小泉は総裁選でパフォーマンスを展開し、そこで再び国民的支持を引き出し、その勢いで衆院選挙での勝利を目指そうという動きを始めている。これは田中真紀子を応援団長にし、自らは自民党を潰す改革ののろしを上げて圧勝した前の自民党総裁選、そして驚異的高支持率を再度もくろむものだ。だがそうはうまくいくであろうか。前述したように統一地方選では小泉人気は作動はしなかったのだ。小泉内閣を潰し、その最悪というべき内外政策を、その根っこから崩壊させるために闘わなければならない。
 
 小泉再選―党内外からの批判噴出
 

 イラク新法を強行しようとする自公保三党は、もちろん内部に異論をかかえている。いまやほとんどすべての問題で苦言を呈する役割となった野中をはじめ、対抗馬出馬を公然化している亀井、そして現職総務会長の堀内も経済政策を中心に反対勢力として動き始めている。野中は石原との対談で、次の総裁選挙には党内反主流派の統一戦線で闘うと宣言した。党内派閥力学でいえば圧倒的に不利である小泉の頼りとする所は、そのパフォーマンスしかない。さらに小泉は、与党外からの応援もあるかもしれないとも述べ、民主党内部からの呼応の可能性も示唆した。しかし以上に述べられた小泉の発言は前の総裁選挙の再現を期待している以上ではない。そしてその手法は見抜かれている。
 先月末の『朝日』の世論調査によれば、小泉再選を望むパーセントは過半数を僅かではあれ越えているが、同時に次の総選挙で伸長を期待する勢力として野党陣営を望む声が与党のそれを大きく上まわってもいる。こうして世論の圧倒的支持を背景にして闘い抜こうとする小泉には十分な世論的支持があるとは言えない事態なのだ。 
 また党外においても、大マスメディアの中に明らかな変化が兆し始めている。まずは悪名高き『読売』が会長名において小泉内閣の経済政策を正面から批判した。これは外交的にタカ派であり、一直線の改憲論者である渡辺が行ったことであるから、その影響を無視するわけには行かない。そして『朝日』が、三井総研の寺島実郎のアメリカブッシュ政権批判論文を掲載した。『朝日』は小泉登場以降、一貫してその「改革路線」を支持する立場を鮮明にし、大方から顰蹙を買う、露骨な新自由主義路線支持を持続している。その『朝日』がイラク新法批判を掲載した。
 また、今や自民党内部からは老害扱いされかねない宮沢喜一は、小泉批判を五点にわたって展開した。その中では、相変わらずアメリカとの関係において、追随はやむなしとする煮えきらなさを残しているが、同時に経済政策において、彼宮沢は、アメリカドルの基軸通貨である点を指摘し、この枠組みがある限り日本経済の展望は切り開けないとまで言い切った。つまりドル基軸通貨体制からの何らかの離脱を示唆する所に踏み込んでいるのである。このことはまさしく、決定的なものに踏み込んだということなのだ。言い方を変えれば、EUはその通貨ユーロをもって、統一通貨とし、その流通領域はEUの拡大と共に広がる。現在的にはユーロはドルに対してはっきりとユーロ高の状態にあり、とりわけ最近、イラク戦争との関連においてユーロ高はとりわけ鮮明である。その秘密は明らかにアラブのオイルマネーがドルからユーロにシフトしていることにあると同時に、中国もユーロへの移動を進めてきている。中国が巨額のドルを蓄積してきたことは周知の事実であり、中国によるアメリカへの牽制策の一つとして見る有力な見方があった。その中国が九・一一以降ユーロへシフトし始めたのである。
 アメリカの軍事力は、アラブ世界を押さえ込むことに成功はしても、そこにある巨大なオイルマネーがドルからユーロにシフトすることまで阻止することはできない。
 したがって、ユーロがドルに対抗しうる基軸通貨の位置を目指していることがアメリカドルへの大きな牽制となっている。宮沢の発言は何を意味するのだろうか。彼はドル圏からの離脱を直接に示唆したわけではない。にもかかわらず、ドルが基軸通貨である限り、日本経済の展望はないと明確に指摘したのである。とすれば、彼宮沢もドルと違うものを基軸通貨とする展望が必要だといっているに等しい。
 小泉のアメリカ一辺倒政治への対抗案は、何よりも第一に経済的な相対的自立の方向性を追求するところから始まる。その上に国際政治における基本的方向性が組み立てられる。こうして、小泉パフォーマンスによって振り回される一方であった自民党内反主流派は今、迷いつつではあるが反攻の態勢と立脚点を模索しようとし始めている。
 
 軍事突出に奔走する小泉内閣
 
 イラク新法に続いて小泉内閣は、恒久的法案の準備にはいることを明確にした。「非武装中立は無責任」と放言する小泉は、これまでの「国是」であった「国連中心主義」をいつの間にか投げ捨て、あいまいながらもアメリカへの支援をもって、国際貢献とする方向に舵を切った。早ければ来年の通常国会に提出される予定で準備されようとしている、いわゆる恒久的平和維持自衛隊派兵法案というべきものには、福田官房長官の趣旨説明では、国連という概念はなく、ただ多国籍軍という用語が使用された。
 アメリカ軍が軍事行動の終了を宣言して以降のイラクで、アメリカ軍兵士は七〇人以上が死亡している。一日に一人強が死亡している計算だ。アメリカ国防省は、まさしくイラク民衆の抵抗が無視しえないものとなるであろうことを見越して、ここイラクに長期にわたる軍政を敷き、とりわけ経済的にアメリカ主導の再建を強行する方針を採用した。石油を手中にすることが眼目であるこの方針には、イラク民衆の支持を急速に取り付けることは相当に難しい、との判断が含まれる。つまりイラクはアメリカ軍の長期的占領下にあり、その占領軍に対するイラク民衆の抵抗が日々拡大するすう勢にあり、その流れが旧勢力のフセイン残党であれ、抵抗勢力を支える基盤となりつつあるのである。
 小泉内閣のイラクへの自衛隊兵士派兵は、したがってアメリカの占領軍政への支援であるに他ならず、そこには国連という枠組みは既になく、同時に平和維持軍(PKO)派遣が前提とする、武装引き離しの相互勢力の了解という枠組みもない。あるのは、軍事的民衆抑圧の軍事力派兵、だ。
 そして防衛長官石破は、自衛隊兵士の携行する武器について、それを「国際基準」のものへと変更するという見解を明らかにした。
 そうしてこの内閣は、米英軍連合という枠組みの一部に公然と、恒久的に加わり、副官帝国主義の役割を果たそうとしているのである。アメリカブッシュ政権の客観的性格をここで再論することはしないが、少なくともそれは「武装する新自由主義的グローバライゼーション」を体現しているのである。それゆえこの国のとる政策は圧倒的な軍事力を背景とする仮借なき「抵抗勢力」への攻勢である。いわば恒久的軍事攻勢というべきブッシュ政権の政策の一部に加わるという小泉の選択は、従って小泉内閣の政策も軍事的冒険主義の様相を強める方向へと流れる必然性がある。
 北朝鮮への小泉内閣の政策の浮遊にもそうした力学が認められる。いわば専守防衛から先制攻撃論へとシフトする危険な傾向がこの間浮上もしたことに留意しなければならない。その強烈な現れとして、KEDO中断という論理が日本政府に浮上している。KEDOは九〇年代におけるカーター外交の成果として実行化が進められているものである。いわば北朝鮮を東アジアの平和的枠組の内部に押しとどめるための象徴という位置をもっている。アメリカブッシュ政権の意向に抗して、このKEDO維持に韓国政府は大きな努力を支払ってきているのだが、日本政府はその中断を韓国政府に提案するというのだ。
 ピョンヤン宣言から一年もたたない内に、小泉政権はピョンヤン宣言の精神をすべて投げ捨てる方向に進んでいる。昨年夏の突如の小泉のピョンヤン訪問は、趨勢的な支持率低下に歯止めをかけられなかった小泉にとって、救いの神ともいうべきものとなった。小泉支持率は相当程度回復した。だがその際に、ピョンヤン訪問そのものに反対した阿部晋三官房副長官にその後の事態を丸投げしたことによって、阿部晋三の主導によるピョンヤン宣言無視、あるいは破棄の方向が急速に進み始めた。繰り返せば、小泉のピョンヤン訪問を実現するに力あったのは外務省である。その外務省が蚊帳の外に置かれる形で官邸主導の対北部朝鮮政策が進められた。
 阿部晋三は、アメリカ一辺倒主義者であるが、その強引なねじ曲げを小泉が牽制しようとした形跡は一切ない。
 ピョンヤン宣言を歓迎し、小泉に何らかの支持率浮上を与えたのは、日本民衆の良識である。北東アジアから軍事対決の芽を少しでもなくそうとすることに対して、日本民衆は、支持を与えたのだ。そのピョンヤン宣言の場では、拉致問題へのある程度の解決の方向性も提示され、外交的に約束された。金正日による情報開示は相当に不自然だったものだが、少なくともここには外交努力による解決の方向性が示されていた。それらをすべて閉ざしたのが阿部晋三らの動きであったのだ。
 北東アジアにおける平和の枠組みの深化を希求する日本民衆の良識に対抗するこうした軍事突出主義者の策動はアメリカ帝国主義の支持と扇動を背景にするものである。従って、小泉内閣の行動への対抗は、アメリカ帝国主義の東アジア政策の枠組みと異なる国際的な政治的、経済的枠組みの構想を必要とする。そのことを宮沢喜一は彼なりに指摘したのだ。小泉が米英同盟と同レベルの米日同盟を夢想していることに対しての政治的対抗軸の大元は、東アジアにおける政治的、経済的な共存、協力の体制を独自に構想していくところから生まれる。そして、それが意識される度合いに応じて、自民党政府体制内の確執も、よりリアルさを増すのである。
 小泉が期待する党外勢力の呼応、このことは民主党に顕在する日米同盟論者、新自由主義者、憲法改正論者の勢力である。こうした勢力が民主党の不断の動揺とあいまいさを作り出していることは改めていうまでもない。民主党の不定型性が醸し出すものは、日本政治の浮遊性である。日本政治は二〇世紀の後半の性格を引きづりつつ、それを越える地点には到達してはいないが、少なくとも小泉の軍事主義的突出がさらなる分解再編の引き金となりつつあることは否定できないことなのだ。

 北東アジアにおける民衆的政治選択
 
 北部朝鮮の政府体制がいかなる仕組みから成り立っているか、詳しいことは分からないが、少なくともこの国家が軍事体制を骨格として成り立っていることは間違いないようである。さらにこの国は、経済的破綻を自力で克服する力量を欠いているという報道も事実と見ていい。ほぼ二〇%ほどの支配的官僚層がすべてを牛耳り、その腐敗の程度は凄まじいとの見方も相当に真実をついているであろう。スターリニズム起源国家が、生き残りを計るとすれば、それはすべてが官僚体制防衛に集中されることは二〇世紀の歴史が実証してきたことだ。
 そうした軍事的に特化された国家機構はすでに歴史の遺物であり、なんらの歴史的発展性も保持していない。北部朝鮮の金正日官僚機構は、北部朝鮮民衆によって解体打倒されるべき存在である。われわれはそう主張してきたし、今後もそれは変わらない。
 だがそうした立場は帝国主義の軍事的オプションとは共存できない。北東アジアにおける共存と協力の長期的枠組みの形成が、こうした軍事国家の存続の基盤を奪っていく。民衆の八〇%を疎外した国家体制が存続し続けるとは考えられないし、そうした国家体制がその軍事力を維持し続けることが可能だとは決して考えられない。
 小泉の踏み込みつつある日米同盟の意味は、アメリカ帝国主義の大陸封じ込め政策の一翼を担うことであるが故に、われわれは東アジアの平和の構造を政治的にも経済的にも築き上げていく方向性こそが、小泉への正面からの対抗軸と考える。          (七月十一日)
 
  三里塚芝山連合空港反対同盟―

           秋葉哲さん、石井武さんを偲ぶ        

  昨年の五月に岩沢吉井じいさんを成田斎場で見送った記憶もまだ新しい。そして秋葉哲さん(五月一九日)と石井武さん(七月八日)をこの度、相次いで見送らなければならなくなったことはなお悲しみを覚える。石井さんは岩沢さんの葬儀に来ておられた。杖をつき介添えされて歩いていた姿が残っているが、秋葉さんはその時には葬儀に出席できない状態と聞いて心が痛んだ。ここに二人の同志からの追悼の言葉を掲載し、お別れの言葉としたい―編集部。

秋葉さん ありがとうございました
                     名原 克己

 秋葉哲さんが亡くなられたとのメールを読んで、すぐに思い浮かんだのは、普段は穏やかなお顔が、何かのきっかけで気合を込めたとき、あまり大きくはない眼をかっと見開いた鋭い表情に変化することだった。この変化の中に、地主であり旦那様然としていた秋葉さんの人物の大きさ、度量の大きさを感じていた。
 私は秋葉さんにはお世話になりっぱなしだった。秋葉さんから何かをしてもらっただけで、私の方から秋葉さんに何かをして差しあげたということはまったくない。六年前、東京を離れるにあたって、いくつかの点に関して手当てをしておいたが、その一つに秋葉さんのことがあった。秋葉さんにもしものことがあったらすぐに連絡をしてほしいと友人に頼んでおいたのが、それである。お世話になったことへの最低限のお礼だけは忘れてはいけない、そうした想いからであった。また私たちの組織としても、それはもう計り知れないほどの恩義を受けたといえよう。相当昔に聞いた話であるから記憶間違いかもしれないが、私たちの三里塚現闘、朝倉小屋を使えるようになったのにも秋葉さんのご尽力があったという。日常的にもずいぶんお世話になったと聞いていた。
 秋葉さんを直接に知ったのは、一九七八年夏の全国救援活動者会議(全救活)だった(私にとって、単に秋葉さんというより三里塚・芝山連合空港反対同盟の方と知り合った最初の機会だった)。それまで組織外と接触することがなかった私が三・二六闘争の結果、救援戦線を担当することになった。あの年の三里塚闘争で逮捕されたり負傷した人、亡くなった新山さんなどの救援や連帯組織、それらの家族会などを全国的に束ねて臨んだ活動者会議だった。私たちの運動体を全国の救援活動戦線に位置づけ定着させることが、全救活における目的だった。
 その内容は忘れてしまったが、当時の三里塚最大勢力であった中核派は当然ながら猛烈に反対した。セクト的な反対であるから大義が立たない。その点を反対同盟救援副部長であった堀越昭平さんが鋭く突く。私たちの仲間も強く批判する。議論が白熱し決着がつきそうもないと思われた頃、秋葉さんがやおら口を開き、表向きは両者を仲介するような、実質は私たちの主張を認める方向で決着をつけてくださった。反対同盟救援部長の重みをじっくりと感じた一こまだった。
 そして三里塚裁判闘争でもずいぶんとお世話になった。ことに管制塔裁判闘争では、反対同盟全体がこれを闘うという姿勢を示され、公判の度に現地から動員があり、それのみならず東京拘置所での統一面会も実行され、管制塔戦士をはじめ救援戦線の仲間も大いに激励されたものであった。
 こうした裁判闘争の展開に当たっては、ほぼ月一回の割合で三里塚現地の野戦病院と東京の連帯する会事務所とで交互に開催する打ち合わせ会があった。これには、反対同盟救援部から秋葉さんと堀越さん、野戦病院のスタッフ、三党派の救対、連帯する会が参加し、あの裁判闘争を支えたのであった。管制塔裁判闘争を最後まで反対同盟とともに展開できたのは、まさに秋葉さんのおかげであった。
 秋葉さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。


三里塚闘争の中に生き抜いた魂
秋葉さん・石井さんの想い出

                  高橋 喜一(電通労組)
 
 初めて三里塚の地を踏んだのは三〇年以上前。一人で汽車に乗り成田駅を降り立ち「天神峰団結小屋」に行った。知ってる人もいないし何か心細くなりそうな気持を、団結小屋の闘う仲間は温かく迎えてくれ、翌日からの生活と闘いを一緒に担いぬけた。それから、何度となく三里塚の地を踏みしめた。援農で最初に行った家は、小学生の女の子が二人。援農の合い間に「ニッキ堀り」をし、始めてニッキは木の根なんだと覚えた。秋葉さん家へ援農に行った時は「ジャガイモ堀り」。畝をまたいで息子さんと掘り始めたがその早い事、早い事。いくら頑張っても追いつけなかった。夜、秋葉さんの家で風呂と食事をご馳走になり話が弾んで長居(深酒)をしてしまった。
 「お土産に芋を持ってけ」と一袋準備してくれたが、到底運べない。真っ暗な帰り道、田んぼに落ちるやら、酔っ払って帰って現闘に「ヒンシュク」は買うわ・・・
 秋葉さんが亡くなった時に、闘いの中での朝倉の情景と秋葉さんとの出来事を想いだし胸が切なくなった。
 そして、石井さんの死。

 「よー!来たか」。石井さんの笑顔は何にもましての「歓迎」だった。現地闘争の度に「笑顔」で迎えてくれた石井さんと東北のつながりは深い。三里塚連帯集会で、石井さんは、三里塚闘争を訴え「大義」は、三里塚農民にあることを明らかにした。世の不条理と闘うことの正義を学んだ気がする。

「こよなく愛した宮城反戦」

 幾たびかの交流会で、石井さんは始めて宮城反戦が三里塚闘争に登場した時の事をいつも語ってくれた。「あんとき、赤ヤッケ着込んだ宮城反戦はほんとに強かった」「機動隊がこっちから突入し・・・」それはそれは、臨場感溢れる語り口で当時参加していなかった私もわくわくしながら聞いていた。人民耕作地運動での落花生作り、横堀団結小屋の建設、ボルタック飛行阻止闘争・・・三里塚闘争は、宮城の青年労働者の心をわしづかみにしていった。一九七四年春闘、「ゼネストへ!」と故戸村一作委員長のヘルメット姿と檄が飛ぶ!
 「ゼネスト貫徹共同闘争委員会」が、当時の電通、国鉄、郵政、地域、学生の中で形成され地域における青年労働者の共同の戦いが準備され、闘い抜かれた。青年労働者は、各拠点に連日結集し闘い抜く、学生は地域の労働者と連帯し宮城の地でどのような闘いが始まっているのかを隈なく市民に宣伝し行動の先頭に立つ。地域における共同の闘いは、三里塚闘争とともにあった。宮城の闘いは、三里塚闘争の歴史を体現してきた。民衆の戦いが、国家権力の意志を打ち破った「三・二六管制塔占拠」。「包囲・突入・占拠」が三里塚農民の不屈の闘魂とそれに連帯した民衆の力が勝利した日として刻印されなければならない。

「故反対同盟救援部長 秋葉 哲・故反対同盟(熱田派)世話人 石井 武」

 現地集会の中で、幾たびも聞いたこの名を忘れる事は出来ない。三・二六、五・二〇の闘いは多くの不当逮捕者を出した。反対同盟の救援部長として秋葉 哲さんは、身を切られるような思いだったろう。凛として発言する秋葉さんの態度に三里塚反対同盟の不屈の精神を感じとり、勇気づけられたのは私だけではない。三・二六闘争勝利の全国チラシは「V」サインで職場の労働者、とりわけ青年労働者に迎えられた。宮城で逮捕された仲間の救援運動は三里塚闘争の「大義」によって支えられ、反対同盟農民の不屈の闘志と、それが放つ温もりによって包まれていた。
 そして、石井さん。仙台に来て生まれて初めて「秋刀魚の刺身」を食べたそうである。秋刀魚は、焼いてか煮てかが「普通」なのだが、一番旨いのは「刺身」なのだ。初めて食べた石井さんがその後も「秋刀魚の刺身は旨かった」と言う事を聞いた時、本当に旨かったのだと思う。樽にいっぱい食べさせたかった。
 三里塚反対同盟の分裂、内ゲバ問題。石井さんは、本当に心を痛めていた。「東北は、宮城は大丈夫か」といつも心配してくれた。醜悪な内ゲバ主義は三里塚闘争によせる青年の豊かな感性を引き剥がし、三里塚農民が闘いの中で築きあげ広げてきた「大義」をも切り裂くものでしかなかった。多くの三里塚戦士が命を奪われ傷ついた。それは、三里塚闘争の「大義」と闘いのなかでなく内ゲバ主義によってである。故秋葉さん、故石井さんにとってこれほど残酷な光景は無かったであろうと思うと心が痛む。

「二人に捧げる鎮魂歌」

 ザップリと風呂に入りながら秋葉さん、石井さんの想い出が次々と甦ってくる。そして、忘れかけていた「三里塚反対同盟歌」が口をついて出た。
「大地を打てば 地底より
 幻鐘の響き 鳴り渡る
 土に生まれ 土に生き 骨を埋めるこの土の誇りも高き 農地死守
 我らが技に 栄えあれ」
 そして、自身を鼓舞するように「インターナショナル」!
 いま、反グローバリズム運動が世界的広がりをもって闘われているが、既に三里塚反対同盟農民は、その闘いの歴史の中でフランスの軍事空港拡張に反対するラルザック農民との交流を先駆的に行なってきている。国境を超えた農民の闘いと国際連帯。三里塚闘争は闘うものの団結と交流のあり方を知らしめている。
 秋葉さん、石井さん安らかに・・合掌 
  声明 中国労働者への連帯を
            
第四インターナショナル執行ビューロー


☆ヤオ・フーシンとシャオ・ユンリャンを釈放せよ!
☆中国労働者の民主的権利と労働権を防衛せよ!

 一年以上にわたる未決勾留の後、二〇〇二年三月における労働権を要求した遼陽市デモの中国労働者の指導者、ヤオ・フーシンとシャオ・ユンリャンは、「国家転覆」の罪状の下、七年と四年の刑を宣告された。裁判所のこの決定は、SARS押さえ込みのために課された移動制限を理由に、彼らの弁護人の出席がないまま五月九日に読み上げられた。その二四時間前に中国政府は、SARSに対する新しい経済対策を公表し、「雇用状況を安定させるために自由に被雇用者を解雇すること」を、国有企業に禁じた。
 遼陽市は、東北地方の遼寧州首都だ。この地域はかつては、中国労働者階級にとって誇るべき工業心臓部であった。しかし今は、北京政府が採用する親資本主義政策によって破産させられた、旧式の国有工場からなる赤錆地帯となっている。市内労働者の六〇%以上は今失業状態にあり、どのような種類の社会的保護策もないが故に、貧困の中にいる。一九九八年以降、中国のWTO加盟に関連づけられた産業再構築過程の中で、全国で二五〇〇万人以上の国有部門の労働者が一時解雇された。
 遼寧における労働者の抗議は、〇二年三月一日に、かつては六〇年代における毛沢東派による工業化のモデルであった大慶油田で始まった。数万人の労働者が、彼らの賃金、年金、労働権を要求してデモに立ち上がり、官僚体制から独立した彼ら自身の労働組合代表を選出した。彼らの例にはすぐに、遼陽鉄鋼工場の一時解雇労働者が引き続いた。そしてこの工場に、ヤオ・フーシンとシャオ・ユンリャンが雇用されていたのだった。〇二年三月十一日、五千人以上の労働者が、彼らが受け取るはずであった失業手当二年分以上の即刻の支払いを要求して市役所正門につめかけ、「年金受給資格者の金を盗むことは犯罪だ」との横断幕の下に、工場経営者と地方当局者による金の着服と腐敗を糾弾した。
 代表者たちが選出され、運動は全市に広がった。〇二年三月一八日には、二〇工場から三万人の労働者が再びデモに立ち上がり、前夜秘密警察によって拘留されたヤオ・フーシンとシャオ・ユンリャンの解放を要求した。抗議は三月二八日まで、ほぼ連日続いた。しかしその三月二八日、地方当局者は労働者とのいかなる話し合いも拒否し、占拠した建物からの退去を命令し、三名の他の代表者を逮捕し、そして市内に数千名の武装警官と兵士を配置した。この状況においても三月二八日、彼らの代表者の解放を要求するために六百人の労働者が市役所に戻った。
 ヤオ・フーシンとシャオ・ユンリャンはその時以来拘留されてきた。彼らの裁判は一月に開かれ、彼らは反政府扇動で告発された。判決が延ばされる中で、彼らは遼陽市拘置所に収監されたままだった。そしてここでは、彼らの家族や友人にとって、彼らの健康状態が大きな心配事であった。劣悪な条件と野蛮な取り扱いが引き起こした病気のために、シャオ・ユンリャンには吐血が始まった。〇三年三月二〇日彼の妻、ス・アンファと二〇人の労働者代表は、地方当局者との話し合いを持ち、彼らの法的状況と健康状態について抗議しようとした。しかし彼らは、市役所の入り口を越えることは出来なかった。当局の回答は、五月九日の判決という形で来たのだった。
 労働者活動家をいわゆる「人民共和国」において、親資本主義中国政府がいかに扱うか、を示すものがこれだ。事実が物語っている、ということだ。
 われわれはヤオ・フーシンとシャオ・ユンリャンの即時の釈放を要求する。彼らの健康には中国当局に責任がある、とわれわれは確信する。
 中国労働者階級の民主的権利と労働権、および中国の労働者活動家との連帯を表明するよう、われわれは世界的公正を求める運動と国際的労働組合運動に呼びかける。
 〇三年五月十四日。(インターナショナル・ビューポイント誌六月号)
 

 アルゼンチン―一サイクルは終わったのか?
 

              エジュアルド・ルシカ


 〇三年四月二十七日のアルゼンチン大統領選は矛盾した結果を残した。この選挙は、全般化したしらけと無関心のさなかに行われたが他方で、登録有権者の八〇%近くを投票に引き入れた。そしてそれ以上に、結果は何の驚きももたらさなかった。第二回目の(決戦)投票は、双方共が正義党(PJ、ペロン主義者の党―訳者)出身者である二人の候補者―メネムとキルチネル―の間で行われることになる(注1)。この二人はしかし、新自由主義モデルの変種を代表するにすぎず、そこにはこのモデルに大きく代わる実質は何もない。どちらの候補も、総投票の二五%も獲得しなかった。
 
 麻痺したままの支配秩序
 
 これらの結果は、この国における伝統的二党制の終了と、雇用主組織内で起きている変化を反映する新しい党体制の予兆を示す。提携関係の再構成および支配階級ブロック内での覇権追求、これが問題にされているものだ。
 いくつかの諸党、より小さな組織、さらに「住民会議」や「封鎖行動」といった運動組織が呼びかけた棄権は、顕著な敗北を被った。棄権は二〇%であり、〇一年の立法府選挙よりも少なく、九九年の大統領選を僅かに上回ったものにすぎなかった。この棄権率は八三年以降の上昇傾向を確証するものではあるが、白票と無効票は、八三年以降で最低水準となる二・五%にまで急落した。
 候補者を出した左翼の党、IU(共産党とMSTの連合、一・七%得票)とPO(〇・八%得票)は、九九年大統領選比で得票を伸ばした(IUは倍増、POは二五%増)が、前回の議会選との比較では実質的減少となった。これらの結果は、社会運動への彼らの参加やそこでの影響力とはどのような意味でも関係があるようには見えなかった。
 これらの結果からどのような結論を引き出し得るのだろうか。それらが意味するものは、〇一年十二月十九、二十日をもって始まった全過程が票の山によって打ち壊された、ということだろうか。論理的には、これが支配階級にとっての勝利であることには疑いの余地がない。民衆的反乱後に出現した、正統性を欠き弱体な暫定政府は、困難なしにというわけではないもののともかく、統治能力を確保し、その提起された目的を遂行することに成功した。そうであってもしかし、これらの結果は、アルゼンチンの危機に対する長続きのする政治的出口をしつらえるのだろうか。
 まず第一に支配階級にとっては、これらの選挙で目標を明確に画定することが必要だ。その目標とは、〇一年十二月に幕を開けた政治サイクルに終止符を打つこと、秩序と国家の支配を復活させ、政治体制を再構築することだ。議会制民主主義と法治国家の下での資本家支配にとって、中心となる、この二つの問題双方共が、十二月十九―二十日の日々とそれに引き続くあらゆる進行の後に、つり下げられたまま今後に残された。
 かの民衆反乱は、九〇年代を通じて積み重ねられてきた緊張を解き放ち、発展してきた社会的表現を力に変えた。そしてそれは、複雑かつ矛盾した社会的主体に形を与え、それらの複雑性と矛盾にもかかわらず、諸制度と確立された秩序の外側で、自己組織化が国家と政治体制との関係での自律性が深く進展する形で発展した、そのような他の物事の出現を可能にした。
 支配階級が止めたいと思っていることこそ、この過程だ。プエンテ・ペイレドンでの虐殺、国の北部でのピケテロス(封鎖運動参加者)の監獄送り、労働者が占拠するブルクマン被服工場やザノン・セラミック工場への国家の攻撃は、この意図の一部なのだ。
 
 左翼の責任
 
 〇一年一二月の後に、社会の重要部分で左翼への転回が起きた。それにもかかわらず政治的左翼は、社会運動の形であれ、党の形であれどちらでも、今回の選挙でこのことを活用できなかった。左翼諸党は、人々の必要よりも、自らの建設という彼らの政策を優先しつつ、不毛な紛争につきまとわれ続けた。ところがそれに反し、社会運動は一つの高原状態に達したように見える。ピケテロス運動はその動員力を維持してきたが広がってはいない。労働者占拠の工場は占拠されたままだが、その進展は拡張を見なかった。住民会議はそれらが提起した偉大な目標をどれ一つとして得ることがなかった。それらの多くは、理解できまた連帯に満ちたものだがしかし脱政治化された、相互支援という形に一時避難している。「彼らまとめてたたき出せ」というスローガンはこのようにして、その社会的密度を失っていきつつある。
 この選挙が示すものは以下のことである。まず運動が何とかして政治へと飛躍することができなかったということだ。そして政治的左翼の党には、そこでこの飛躍が生じるかもしれないような、水路を提供できなかったという点で、重大な責任がある、ということだ。
 
 支配階級にとっての狭い道
 
 そうではあっても政治体制の再構築は、単に暫定政府を終わらせ、投票で正統化された政府を据えることだけを意味するわけではない。それはまた、伝統的諸政党内を深くバラバラに切り裂くに至った政治的代表制度の危機を解決する、ということも含んでいる。この意味においてこの選挙は、来る十二月までに延ばされた選挙過程の始まり以上の意味はない。そして十二月に、州の政府と立法府が選出され、国会議員と上院議員が部分的に刷新されることになっている。
 他方で上記の断片化は、ただ単にこれらの党指導部メンバー間の対立が作り出した産物というだけではない。それはまた、資本内部にある明確な分派間紛争の表出でもあるのだ。この紛争は新自由主義モデルを対象とするものではない。その本質が問題にされているわけではないのだ。それ故紛争は、このモデル内部における具体的計画あるいは変種に関わるものだ。
 ここには、同時に進行する二つの過程がある。一方にはペロニズム内部における危機の解決という過程がある。他方には、支配層全体の統一ブロックの表現を可能にするようなやり方で、資本分派間の覇権問題を解決するという過程がある。双方の進行ともが互いに干渉しあい、展開しつつある新しい政党体制において決定的役割を演じるだろう。
 次期大統領が誰であろうとも、彼らの政府は以下の物事に条件付けられている。すなわち、国をおおう危機の性格、政府が受け継ぐことになる「相続財産」、IMFが改めて行使しつつある圧力、さらに対外債務のもつ頑強な強制の仕組み、これらのものだ。この単純な原理的問題に関しては、財源を利子支払いに向け秩序だって持続可能な形で移転できるようにするために必要な、時間と量にに関して違いがあるだけだ。
 結局のところ次期政権は、低水準の社会的合意の下で統治せざるを得ないだろう。市民の冷淡さから判断するならば、この政府は全面的に受動的な性格に支配されるだろう。
 
 統一メーデー
 
 この中で人々は、十二月に頂点に達する選挙の進展が果たして、この国にとって政治的出口となる戦略的方向を設定するものであるか否かを知ることになる。短期的未来は、ブルジョア派がその計画を社会的、政治的運動との関わりの中で強制する、緊張関係に従うことになる。このことはまったく明らかだ。そしてその社会的、政治的運動は動員と抵抗の動力を維持しつつも、新しい挑戦に挑まなければならず、論争と深めた考察を必要とするだろう。
 何年間もの間で初めて、反資本主義政策を自らの立脚点としさらに、新自由主義への抵抗を持続している一団の政治、社会組織が、メーデーにおける共同行動に参加するために、自分たちの分派的相違を脇に置いた。参加を拒否したグループは、CTA(アルゼンチン労働組合中央評議会)とCCC(毛派組織PCRとつながっている、「階級闘争潮流」)だけだった。行動を一致させた中心要求は、五十六人の労働者が十七ヶ月間占拠し操業し続け、つい数日前に暴力的に立ち退かされた、ブルークマン被服工場との連帯だった。この行動は二万人の人々を引き寄せ、ブルークマン近隣地域に集中された。そしてそこで当該の労働者、鉄道労働者、ピケテロス、ザノン労働者が演説した。次いで彼らは五月広場に向かい、そこで政治指導者、社会運動指導者、そして最後にブルークマン労働者の訴えに耳を傾けた。そこでのスローガンは、「帝国主義はイラクから出ていけ」、「メネムもキルチネルもノーだ」、「ブルークマンは労働者のものだ」、そして「闘いを
理由に投獄されたピケテロスに自由を」、だった。
ブエノス・アイレス、〇三年四月
注、著者は、マルクス主義雑誌『クアデルノス・デル・スル』の編集者であり、左派経済専門家グループ、EDIのメンバー。
注1、メネムは負けを見越して、第二回投票実施前に撤退した。(インターナショナル・ビューポイント誌六月号) 
 
スコットランド社会主義者、選挙で前進
 

                  ゴルドン・モルガン


 〇三年五月一日の地方選でスコットランド社会党(SSP)は、スコットランド議会議員を、九六年選挙時の一から六へと増加させた。選挙後大多数の有力メディアの記事は、グラスゴーから新しく選出されたSSP議員、ルーシー・ケインについてのものだった。それらは、ハリウッド(スコットランド議会所在地)に「未開人」を送り込むものと断じ、差し上げられた手のひらに「私の宣誓は人民に対するものである」と書き込み、ジーンズを身につけ彼女が行うことになる女王への宣誓を取り上げている。
 一人きりのバンド、トミー・シェリダンの党としてSSPを描いてきたメディアの四年間は明らかに終わった。スコットランドには今や、そのすべての委員会に代表権を得たSSPをもって、公式に六党からなる議会がある。
 
 九九年以降のスコットランド
 
 スコットランド議会という点で今回の選挙は、一七〇七年以降では僅か二回目のものにすぎない。九七年の国民投票が遂に、連合王国(UK)政府が譲渡する制限的権力を持つ新議会の創出を是認したのだった。議会は、保健衛生、教育、地方政府、運輸、警察、環境を支配する。しかしその一方UK政府は、経済、防衛、外交の政策に対する権限を保持している。UK政府は、スコットランド議会の諸規定の統制すらも行い、認可という手段や、スコットランド自身の税を持ち出すことへの妨害を通してその支出を制限している。
 九九年の選挙は比例代表制の下で行われた。結果は労働党を過大に利するものだったがそれでも重要なことに、労働党に全体としての多数を与えることは否認した。労働党は自由民主党(LD)との連立に追い込まれ、この四年間の政府が形づくられた。同時に九九年選挙は、SSPと緑の党に、一二九議席の内の各一議席を与えた。
 スコットランド政府は、スコットランドにおける社会的剥奪を覆し始めるだろうとの希望をかけた人々を失望させた。労働党が率いたこの政府は、ほとんど例外なくUK政府の政策に従った―特に、公共サービスの私有化策において。労働党の弟分的提携相手のLDも、政策分野では労働党と見分けがつかなかった。
 主要な野党であったスコットランド民族党(SNP)は過去の年月を通し、一貫して右へ移行した。その中で彼らは、「企業文化」を支持し、事業税減税を追求した。SNPは依然親独立派ではあるが、それはEUとユーロの枠内のものであり、こうして具体的要求というよりはむしろ精神を表現するものとなっている。残りの公式党、保守党は、労働党が彼らの政策を盗んだ、と時たまぐちるだけだ。
 選挙に向かうにあたって人々の前には、すべて親企業であり、その選挙公約がほとんどの主要政策に関してまったく同一である四つの大政党が立っていた。
 
 〇三年に向けたSSP
 
 SSPは九九年選挙に向かう中で、スコットランド社会主義連合から形成された。それは瞬く間に極左派勢力のほとんどを、共通綱領を中心に結集させ、九九年グラスゴーでの一議席獲得に目標を定めた。
 SSPは、トミー・シェルダンの選出に成功した。そしてそれは、人頭税反対闘争におけるトミーの卓越した働きと、SSPそれ自身としての他の労働者階級の闘争に負うものだった。九九年にSSPは約四〇〇人の党員の下で、四六六〇〇票(全体の二%)を得た。幸運なことにその内の一八六〇〇票がグラスゴー(グラスゴーの七・二五%)だった。
 九九年の成功に引き続きSSPは、党員の急速な流入を実現し、その運動の活動力を強化した。一人の議員を持ったことが、われわれの姿が目に見えるものとなる可能性を大きく高めた。そこには特に以下の二点の成功が寄与した。すなわち第一は、ワラント・セール(債務者家族の品物を公的に差し押さえ、セリにかける野蛮な法的手段)の廃止に賛成する党横断の多数派形成であり、第二は、学校給食料金廃止の法案通過だ。
 〇一年、スコットランドのSWP(社会主義労働者党、FIと競合関係にある教条主義的傾向の強いイギリスのトロツキスト党であり、イギリスではFI支持者を圧倒する勢力を持つ―訳者)メンバーがSSPに合流した。そして党は、その成長に見合った党の内部構造と規約の再組織に取りかかった。〇一年のUK総選挙でSSPは、スコットランドでは全体の三・一%となる七二五〇〇票を得た。
 SSPの新規約は、年次大会で全員が選出される全国執行部と常任委員、また大会間の政策を決定するための、大部分が支部代表者から構成されるより大きな全国委員会を規定した。さらに選挙システムとしては、ほとんどの機関の選出に対する、また公的選挙の候補者に関して、性別比率の同等性を確保するシステムが導入された。〇二年末までにSSP党員数は約二五〇〇、党の地方支部は約七〇となった。
 〇二年を通じて世論調査が示したSSP支持率は、第一投票で約四%、スコットランド議会を決する第二の比例投票に関しては六%以上だった。SSPは、スコットランド中のすべての運動に、最も目立つ形では消防士の争議に参加し続けた。そして〇三年初め、消防士の重要なメンバーたちが党に合流した。またSSPは国際的運動を取り上げること、ヨーロッパにおける左翼の再編への参加を続行してきた。SSPの国際部役員であり、新選出スコットランド議員、フランシス・クーランはFI世界大会のオブザーバーだった。
 九・一一後SSPは、「戦争ではなく公正を、連合」を創出し、イラク戦争への反対を主導した。すべての共同体で諸グループが生み出され、学校の子供たちはストライキに入った。緑の党も戦争に反対であったが、彼らのメンバーはスコットランド中で一五〇人内外にすぎない。
 グラスゴーでの一〇万人の行進を持って戦争反対の規模が明らかになるとともに、主流諸党は彼らの位置を動かし始めた。SNPは戦争に対する公然たる反対により近づいた。デモの演壇においてではあるが、彼らの指導者は実際に彼らの立場を変えた。そしてそれはLDの場合も同じだった。ただ労働党と保守党だけが、議会で戦争に反対することを拒否した。世論調査における労働党支持率は崩落し、あたかも彼らが選挙に負けたがっているように見えた。SSP支持率は最高時一〇%、緑の党は八%に達した。
 
 選挙運動―精力的に展開
 
 戦争のために、スコットランド選挙の報道記事は、最後の三週間に限られた。そしてその時ですら、九九年の規模に比べれば限られたものだった。
 SSPの柱となった具体的政策は以下のものだった。すなわち、戦争反対、逆進的固定資産税を廃止し、累進的な所得税形態に置き換えること、無料の学校給食、私有化反対、公共部門における週七・三二ポンドの最賃と三五時間労働、だ。そして大スローガンは、社会主義の独立スコットランド、である。
 世論調査の気まぐれのため(SSP支持率は、バグダット陥落の際六%に滑り落ちたように見え、その後九%まで立ち直った)、また選挙制度の独自性のため、SSPがいくつの議席を得ることになるのかははっきりしなかった。選挙の実際の結果はすべての評論家を驚かせるものだった。
 すなわち、SSPは六議席、緑の党は七議席(共に前回の一議席から)、無所属が四議席を獲得した。
 主な敗者は労働党とSNPであり、彼らはそれぞれ六議席と八議席を失った。重要なことは、僅か一九〇万人しか投票しなかったことであり、それは九九年よりおよそ四五万人少なかった。SSPは得票を一二八〇〇〇(六・八%)に増大させた。その上にわれわれの票は、議会選の二回の投票を通じて堅さを保った。二回目での比例リスト投票に向けて予期された、他候補の浸食の徴候はほとんどなかった。世論調査に従うならば、SSPに投票するつもりになっていた投票者の内二%のみが、九%を得た無所属候補に流れたように見える。グラスゴーではSSPは、全体の一六%となる三一〇〇〇票を得た。この事実を歴史的視野に位置づけるならば、スコットランド全体でのSSPの得票は、一九一八年以降のあらゆる公然とした社会主義者が得た票よりも多かったということであり、それは一九三五年の独立労働党の得票をしのぐものだった。
 ほとんど運動をしなかった緑の党は、SSPよりも僅かに少ない得票で七議席を獲得し、主な勝者となった。SSPは強力な環境政策を持っているとはいえ、緑の党への投票者の多くはSSPの社会主義的政策のいくつかを拒否するだろう、ということは予期されていた。緑の党のスコットランド議会議員の多くは社会主義者であり、われわれは多くの課題に関する協力を期待している。


  社会主義の大衆的政党に向けて
 
 SSPは戦争と選挙に向かう期間中に、数百人の新党員を獲得した。柱となる任務は、これらの党員を打ち固め、教育の内部的計画を提供することだ。
 議会内チームを持つことは、事務所と職員のために財源利用権を与える。そしてこれは、SSPの姿をスコットランド中で引き立てることになる。そしてもっと重要なことにSSPの議員は、スコットランド中の貧困な人々、不利な立場にある人々に影響を及ぼしている問題を取り上げることが可能になる。
 SSPは、選出された六名の議員、四名の女性と二名の男性が、労働組合、環境、政治運動の経験に富んでいるという幸運に恵まれている。SSPには議会活動それだけで社会を変革できるとの幻想はまったくない。とはいえ、SSPはこれまで、地域の共同社会および直接行動を議会での仕事と効果的に結合してきたのだった。挑戦すべきことは、闘争と協力のより高い水準に合わせてこの道を進むことだ。
 SSP指導部は、われわれが成長し支持を得続けるものと決めてかかることの危険性を自覚している。現在までわれわれは、この国の上流階級や資本主義に対する脅威と見られてはこなかった。それ故また、当然にも問題にされてこなかった。しかし今すでにわれわれは、メディアでの中傷を目にしている。そしてそれらは強さを増しそうだ。
 これらの攻撃はわれわれの支持者の内の堅くない部分に影響を及ぼすかもしれない。しかしそれに対する主な防衛は、党の運動、より広い共同社会への党の結びつき、そして党員の内部教育を強めることにある。このことと並んでわれわれは、ヨーロッパとスコットランドにおける資本主義の作動の現実に向けた探求と分析を進歩させる必要がある。議員に認められた諸手段を得るということの利点は、上の過程を進めるための研究チームを設置する可能性だ。
 スコットランド全体で約七%という支持率から、われわれがグラスゴーで得ている一五%の支持率まで成長し、資本家政党に直接対決するという挑戦は、われわれを怖じ気づかせるものでもあるがまたわくわくさせるものでもある。その途上で後退の危険があることは明らかだ。しかし今までの所SSPは、資本主義打倒に献身する社会主義者組織であり続けている。党を社会主義革命に献身するものとして保持するようどう組織することが最良か、あるいは実のところその必要はあるのかも含め、開け広げの討議が、この夏中SSP内のマルクス主義者の間で続くことになるだろう。
 SSPが直面する試練は、イタリアで再建党が立ち向かっているもの、さらにヨーロッパ中の他のグループが直面している問題と共通である。それ故われわれは、国を越えた社会主義に到達するために、彼らと共に活動し続けるつもりだ。
 SSP機関紙編集長のアラン・マクーベスはこの状況を以下のようにまとめている―「われわれは、幾世代にもわたる慣習と偏見に挑戦している未だ若い政党だ。突破を果たしたとはいえわれわれは、主流諸党が今手にしている財産のほんの僅かの部分を自由にできるにすぎない。しかしわれわれの側には志がある。われわれは向かおうとしているところを知っている。どうすればそこに到達できるか、その詳細すべてをわれわれが未だ理解していないとしても、行くべき所は分かっているのだ。……われわれの前には旅すべき長い道のりがある。しかし少なくともわれわれは旅を始めたのだ」。(インターナショナル・ビューポイント誌六月号)

 
 
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