2004年4月10日        労働者の力             第 169号

反占領反乱状況に入ったイラク
日本政府は即時イラクからの撤兵を決定せよ
 

川端康夫


日本に向けられる反占領の敵意

 イラクは明らかに反占領の反乱状態に入った。七日までの三日間にイラク全土での戦闘で米英軍の兵士ら三十人以上が死亡し、イラク人百六十人が犠牲になった伝えられている。また、イラク中部のカルバラで七日、ポーランド軍がイスラム教シーア派の強硬派指導者ムクタダ・サドル師の事務所を攻撃し、事務所所長を殺害したという。また戦闘の続くファルージャはスンニ三角地帯にあり、米民間人四人の殺害を受けて米軍がヘリコプターで攻撃している。バグダッドでは七日、シーア派居住地区サドルシティを空から攻撃し、多数の死傷者がで、北部のキルクークでも、スンニ派デモ隊と米軍の衝突で、デモ参加者八人が死亡した。
 イラク駐留米軍は七日、シーア派のムクタダ・サドル師の率いる民兵組織「マハディ」への徹底攻撃を開始することを明らかにした。南部の穏健政策をとっていたシーア派内に戦闘集団が登場し、米英軍との正面からの武力衝突に入った。バグダッド周辺のスンニ派の武力抵抗もさらに勢いを増している。もはや、第二のベトナム化といい。そして、イラク内で対立してきたスンニ派とシ−ア派との共闘の動きも出てきた。イラク占領宣言から一年目の九日には、バグダッドの礼拝所で、スンニ派・シーア派両派の合同礼拝が行われ、「スンニもシーアも同じ血が流れている。敵の米軍とたたかえ」と聖戦を呼びかけた。一方、ムクタダ・サドルも九日、「我が敵ブッシュは今、東西南北全体と戦っている」と述べた。九日付きニューヨーク・タイムズはシーア派の民兵がスンニ派を支援するため、大挙してファルージャ入りしていると報じている。
 占領軍派兵に協力してきた諸国の動揺も激しさを増している。タイ政府は人道支援が不可能となれば撤退との声明を出し、ウクライナ軍はイラク中部の都市クートから撤退した。またシーア派部隊と戦闘行為に入ったオランダでは、六五%が即時撤退を支持している。ウクライナでも事情は同じだ。ウクライナは現在、イラクに千六百人を派兵しているが、武装勢力の攻撃で犠牲者一人が出たことにより、ウクライナ議会では野党の共産党が今月の五・六日の議会で部隊撤退を議会審議することを要請し、他の野党勢力も同調し、撤退論が強まっているといわれる。
 占領当局に協力の姿勢を示してきたシーア派が、ここにきて敵対姿勢に入った背景には、来るべき連邦国家の実権が、アメリカ主導によって、クルド勢力に有利なものとされ、最大の人口を占めるシーア派の力が制限されてしまったことによるものといわれている。シーア派の多数は、未だ穏健派を支持しているが、サダム・フセインの抑圧に耐え、そしてその後の米軍の抑圧にも耐えてきたシーア派の「忍耐が限界に近づいているのも事実だ」(朝日一〇日朝刊)。
 そして九日に日本人ボランティア活動家三人の誘拐事件が発生した。
 三日間を区切っての「自衛隊の退去」を求める誘拐犯の声明には、三人の生命がかかっていることが述べられている。しかし政府は、同日、何らの真剣な対応を試みもせずに、撤退はあり得ないと発表した。小泉は面会を求める家族に会おうともしないのである。三人の救出に至っては、ただ米英に協力を求めるだけの政府ではなく、多くの個人や団体が救出ルートを求めて国際的に動いている。そうした動きが功を奏するかも知れない。私はそうした動きに期待をかけている。占領体制の一部を担う日本政府では無理なのだ。
 
 イラクに自衛隊派兵の論拠はすでにない
 
 シーア派部隊の戦闘参加に伴い、政府は七日夕方、首相官邸で内閣官房、外務省、防衛庁などの局長級協議で、イラク南部サマワに派遣している陸上自衛隊の宿営地外での活動について、当面再開しない方針を決めた。極度に悪化しているイラクの治安に一定回復する兆候が見えるまで、としているが、病院での医療支援、学校など公共施設復旧などの宿営地外の活動を差し控え、宿営地内での浄水、給水にとどめるというのだ。
 政府部内では、イスラム教シーア派の強硬派指導者サドル師の動向に気を遣い、サドル派民兵組織とイラク駐留連合軍との戦闘が激化し、多数の死者が出ていること、サマワがあるムサンナ州は比較的安定しているが、予断を許さない、との見方となった。
 ここでの問題は、すでに政府は「人道支援活動」の大部分を放棄していることである。自衛隊が宿営地内に引きこもっているのであれば、政府の派兵の名分はなくなるのだ。イラク特措法は、戦闘地域には派遣しない、といいきっている。防衛庁幹部からも、現在のサマワの自衛隊が、特措法に対応しているのか、疑わしくなるという発言も出ているが、まさに、政府自身がサマワの自衛隊は戦闘地域にある、と認定したのだ。
 そもそも、今回の三人、前回の二人の外交官の問題は、政府による強引なイラク特措法強行と自衛隊の派兵がなければ発生しなかったのだ。しかし、百歩譲って、特措法の成立という事実を認めても、すでに現在のイラクは特措法が前提とする状態にはないのだ。
 日本政府は、即時、イラクからの撤兵を決定せよ。(四月一〇日)
 
 
  イラク侵略反対、

三・二〇宮城県集会に三千五百名が参加
                 


 三月二十日、仙台市にて「イラク派兵反対・平和憲法擁護 宮城集会」が開催された。米英のイラク攻撃開始から一年、世界一斉行動に合わせて企画されたもので、宮城県護憲平和センター、憲法を守る市民委員会、宮城憲法会議など県内の護憲団体や各界の個人らによって呼びかけられた。三千五百名(主催者発表)が結集、集会の後、仙台市の繁華街を行進してアピールした。宮城全労協はこの集会に参加し、ともに行進した。
 冒頭、呼びかけ人代表として集会の成功のために尽力した写真家の後藤東陽さんが主催者挨拶、ブッシュの戦争とそれを支える小泉政府を弾劾した。後藤さんはまた、テロリズムが生み出される要因に心を砕きつつも、テロを支持しないと発言、戦争によるすべての犠牲者に黙祷を捧げるよう訴えた。歌や詩や参加者からのアピールなどが続き、アピールが読み上げられ、自衛隊を戻し、平和憲法の原点に立ち返って平和的解決のために行動することを日本政府に求めた。
 この集会は数多くの市民団体、労働組合、政党などが参加した。いわゆる「超党派」の結集として実現したものであり、宮城県内の反戦平和集会としては特筆すべきものとなった。一九九七年、「沖縄米軍実弾演習の本土移転」に反対する闘いの中で、宮城県王城寺原住民は千名の抗議集会(「団結祭り」)を地元で実現させた。今回の結集は規模でそれを大きく上回るものであった。
 なお、主催者が配布したプログラムには、政党メッセージとして共産党、社民党とならんで民主党のメッセージが掲載されたが、民主党の動員はなかったし、連合も参加していない。
 
 
インタビュー 

社会主義市場経済下の中国労働組合を訪れて
   

         遠藤一郎(全国一般全国協書記長)


遠藤さんは昨年秋に、中華総工会の招待で中国の北京、南京、上海を訪れた。忙しい中、短時間のインタビューに応じてもらった。以下はその要約である。文責は編集部。

中国労働者階級の今

―市場社会主義体制の下で、中国労働者はどういう状況にあるか。香港情報によれば、とくに東北地方を中心として、労働者の反乱というか、反抗が伝えられているわけだが、その辺の印象はどうなのか。
 
遠藤 まず、中国の労働運動というと、中華全国総工会、これはついこの間まで、国家権力の一翼を担う組織、機関だったが、一応憲法上はそれから離れて、中華全国総工会は労働者の自主的団体という規定に変化したが、中華全国総工会が労働運動を担っているわけではないと見ておかなければならない。その上で、現実に中国の労働者が圧倒的に中華全国総工会に加盟していて、そこを通じて現実の労働者の実態が国に問題としてあがっていくということで、それなりに役割は果たしている。改革解放ということで、この間の、とくに国営企業を整理・縮小して、その過程で失業問題が発生するが、中国の常識でいうと、失業じゃない。一時帰休という言い方をする。一時帰休だから、社会保障なり、一定の賃金を保障して、次の働き場所を見つけだすということなんだけれども、現実にずーっと一時帰休という形で保障はしきれない、当然。とくに沿岸沿いを中心とした、民業を含めて非常に発展した地域に比べて、もっと内陸部を中心にした国有企業が閉鎖された場合に、移動して新しいところに行かなければならないということで、一時帰休の場合は、そのまま沿岸部に出てきて新しいところにはいるが、打ち切り保障をもらって、つまり工場が閉鎖されたら非就業の状態で、一時金をもらって自分で探す、という仕組みがある。総工会自身も認めているが、トラブルが非常に多発してきて、非常に重要な問題となっている。一時金の額そのものに対する不満、都市部に出てきて一時金でどのくらい生活を維持できるか、とか。そういう人々が北京や南京などに出てきて、総工会に何とか介入せい、と要請をする。そういう問題が発生している。
 中国に行くにあたって、事前に、総工会の人数が一億二千万とか一億三千万と聞いていた。いま言った国営企業の閉鎖とかを通じて、向こうの説明によれば、これは非常に中国的でアバウトだが、一億二千万人は実際には四千万人ぐらい減った。われわれの常識から言えば、連合だって七百万、それが四千万も減ったというのはどういうことかとびっくりするのだけれども、逆に総工会としては必死になって組織化をして、その結果、三千五百万復帰した、四千五百万復帰したという話があって、今一億二千五百万いると言う。聞いているとあまりにもアバウトなのでびっくりする。
 それだけの激変があるということは事実だね。そういう激変の中で、国有企業の労働者の非常に激烈な事態の変化とか、その中で起こっている幾つかの問題、とりわけ失業と移動、移動は当然住居の問題を含むわけだが、そういうことを含めて非常に多面的な課題が発生している。そういう多様な課題の中で、それをどういうふうに解決するかというような問題については、今の官製労働組合というのは、どの程度有効なのかということが心配になる。じゃあ、それに対して自主的な労働運動みたいなものが生まれる余地があるのか、どうかとなると、非常に難しい。中華総工会は、やはり、経営、国と、労働者の調停する、対立を緩和するという役割を果たす。こちらに矛盾を抱えた労働者の自主的な組織で、それを代弁してぶつけるというふうな位置ではない。ある種の労働委員会のようなもの。そこに制度上の大きな問題がある。少数でも、直接に表現できる、あるいはそれをサポートできる労働組合運動というような日本の労働運動の感覚とは違う。中国の労働者は、今後、もっともっと厳しい状態におかれていくと思われる。非常に大変なことではないか。
 一方で国営企業が減っている。もう一方では、いわゆる私営の企業というのが、まあ、社会主義的市場経済ということで、そこの労働者というのもやはり問題となる。それから外資がどんどん入ってきて、外資系の企業で働く労働者の問題もある。ある意味で、社会が今まで経験したことのない新しいジャンルの問題が発生をしていて、それはそれで、少なくとも社会主義国家だから、進出条件等、守らなければならない労働基準については、国がきちんと規定してます、ということで、独立でそこの労使問題が発生して、その労使問題をどのように規定するかということについては、制度上確立してありますから、そう心配はありません、という言い方をする。
 それについては面白いことをいっていた。外資系企業の方が、進出条件として、中国の法律を守るということを、きちっとやらざるを得ない。問題は、国内の私営企業の方に、そのことをきちっと分からせるのが非常に難しいという言い方をしていた。いずれにしても、数が、私営系や外資系労働者二千万だとか、規模が数千万の単位で動く。この分野で、総工会に所属する労働者はどのくらいいるのかということについては、あんまり明確に発表されていない。

新たな組織化が課題に

 私的資本の企業や外資企業の組織化とそれを支える地域の下支え、その中でいわゆる非正規労働者の実態はどうなのか、また問題はどのように広がっているのか、総工会としてはどうしようとしているのか、そこいらには興味があって、聞いてみた。
 組織化については、国営企業で減ったことには、まだあまり開拓していなかったところで回復した。それはみんな上からの組織化。外資系も私営企業の場合も、上からはできない。そういうことで、組織化については、従来とは違う組織化をするスタッフが必要だという認識はあって、そういう意味で、日本やその他の国でやってきた経験を学ぶというような、実体的交流、実践的交流が問題になる。今までは、日中労働者の交流というものは、不戦の誓いという形の、政治的カンパニア。それはそれで大事なのだが、半分である。日中労働者の交流が、新しい形の交流、つまり、組織化という問題も、従来型では難しくなっているわけだから、問題の所在は意識始めたという感じがする。
 非正規問題については、今調査をしているということで、とくに上海の市議会と上海全人代、それから総工会で共同で調査している。結果が出たら報告する。その中で、一般的な有期雇用とか、パート、アルバイトという概念はあまりなくて、派遣ははっきりしている。プールしておくという労働者の問題に非常に関心を持っている。現実に派遣労働という形で、非正規雇用がまとめられている。
 派遣労働の問題については、全国一律の法律を作る準備を総工会としてしている。そういう意味で、社会主義的市場経済というのは、従来の雇用保護から、基本的雇用関係が大きく変化し、われわれがぶつかっているような問題とかなり共通の問題が浮上し、それについてどうしていくかということで、今後、かなり実体的な交流をやらなければいけないという話をしていた。
 外資系、私営企業の組織化という面では、他の開発独裁的な諸国では、組織化を認めないというところもあったが、中国では今のところそれはない。暗黙な方向があるということも、公的な人たちとの話では出てこない。逆にいうと、日本から進出しているような企業で、こちらから実態を見てみないと分からない。
 ただ現実にあれだけ成長が早く、あれだけ外資が入ってきて、とにかく経済成長が先だ、地域間格差はあっていい、というケ小平路線で、そういう意味では凄まじい勢いだ。北京では建設ラッシュで、スモッグだ。今日は久しぶりに太陽が見えるなんて、まるで昔の川崎だ。今度行ったのは北京、南京、上海で、上海そのものは、高層ビルが林立して、工場の煙がばんばん出るというのとはちょっと違う商業都市だから。今の中国の個人あたりの消費量指標は、日本の六十年代後半の数字だ。少なくとも、二〇〇八年北京オリンピック、二〇一〇年上海万博まではこの勢いが続くだろう。
 
―内陸部から沿海部に移動する人々は、非正規雇用なのか。

遠藤 いや、非正規雇用という概念がない。打ち切り保障もらってくると、身分的には、契約関係が切れた状態。そこで、新たに私営企業に雇われたり、外資系に雇われたりする。その時に、あらかじめ、みんな、非正規で雇うという感覚がない。派遣労働が増えている、派遣労働が大事ですということで括られる。雇用はこんな風に保障せよという形がある。ただその時に賃金はどうなるかというような話は聞いてこなかった。

―移動は国営企業労働者だが、内陸の農民の子弟が出てくると、中国には農村戸籍と都市戸籍があるから、もぐりとして出てくる。そこはどうなるのだろうか。

遠藤 その辺は総工会では把握していない。内陸部から出てきた人の戸籍をどうするかとか、どこに落ち着かせるかという問題は農民団体が扱う。われわれでいえば、社会問題で、出てきてしまえば労働者なんだから、その出てきたところで把握して対応する、そういうふうに総工会でも考えなければいけないんだけど、話には出てこなかった。

―労働現場を見る機会はあったのか。

遠藤 労働現場を見る機会はなかった。表敬訪問。なかなか友好・親善を越えられない。ついでだが、中国の全体像を把握するためには時間がかかる。およそ日本の一〇倍と考えればいい。それが凄まじいスピードで動いている。格差もすごい。しかし、巨大な枠があるから、その中に自浄能力も組み込まれている感じがする。社会がメチャメチャになるということにはならないと思う。
 矛盾があるのは事実だが、別のところからこの体制を変化させていくことはできるのかな、社会基盤ができるとはとても思えなかった。総工会そのものなどの変化を見ておいた方が良いかも知れない。
 アジアにおける労働者の連帯はどうかという話をもっていった。韓国労総とのつきあいはあるが、民主労総は知らないといわれた時には驚いたな。日本とは全方位外交。自主的労組との関係は難しいのかな。 

  ―韓国―
労働者の闘争、再度爆発

 

            ウオン・ユングス


 〇三年十一月九日、十万人の労働者がソウル市庁前広場での韓国民主労総が主導した全国労働者集会に結集した。この集会は、八七年の大闘争以降、メーデーと並ぶ労働者の伝統的行動となってきた。この集会は、故全泰壱を偲ぶものだ。彼は、七〇年十一月十三日、非人間的な労働条件と、軍事独裁下の野蛮な資本主義に抗議し、自身を犠牲にしたのだった。
 この象徴的な殉教は、七〇年代における民主的な労働運動の第一世代を産み落とした。その後、八七年の暑い夏を経て、この運動の第二世代が生まれた。そしてこの世代が、労働者階級の運動の全面的再生を明らかにした。
 〇三年、労働者達は、労組指導者と活動家の一連の自殺と自己犠牲を目にすることになった。「告発は三〇年前、全泰壱が行ったものと同じだ。われわれが今いるところかがそれなのだ」、と一人の指導者は叫んだ。韓国の労働者階級は、全泰壱が自身を捧げた時と同じ時代に今もって暮らしている。それは、「民主化」された社会では自殺が要求達成の手段ではあり得ない、とノムヒョンがいかがわしい民衆扇動を行おうとも、現実なのだ。
 彼の演説は巨万の労働者の怒りに火を付け、こうしてソウルに何万もの労働者が押し寄せた。集会に引き続いた行進の中では、警察との大規模な物理的衝突が起きた。この市街戦の中で数百人が機動隊に逮捕され、五〇人以上の労働者が投獄された。
 
 朝鮮半島と労働者運動
 
 韓国は、第二次大戦における日本の敗北後に、四五年日本帝国の支配から解放された。しかし国は、その前年のヤルタにおける、アメリカとソ連の協定に従って分割された。こうして、五〇年〜五三年の朝鮮戦争に導くことになった事実上の内戦の中で、最高度に凄まじい階級闘争は、民族の発展に関し二つの異なった方向をつくり出した―北における歪曲された「社会主義」の道と、南における従属的資本主義を伴った新植民地の道。
 この歴史的文脈の下、半島の南では四〇年以上もの間極右政権が支配した。この下で、瀕死の資本家と軍事体制を相手に、民主主義と社会の転換を求めて闘うすべての萌芽的な抵抗は排除された。労働者運動は八〇年代に、立派に一人前の形で発展したが、それは上記の社会―政治的諸関連の枠内においてのものであった。
 反共体制による最も厳しい抑圧体制をもってしても、民衆的抵抗を押しとどめることはできなかった―そこには、六〇年の四月革命、八〇年の光州蜂起、そして八七年の六月蜂起と労働者の反乱があった。体系的に組織された反共の病的興奮にもかかわらず、さまざまな大衆運動が発展した。そこには学生運動、民主的労働運動、農民運動、また都市貧民層の運動などがあった。最終的に、八〇年の光州虐殺後の急進化をもって、革命派の運動が生まれた。
 七〇年代と八〇年代には、学生が反独裁闘争を率いた。しかし九〇年代、八七年反乱の余波の中、大衆運動の指導的役割を果たしつつ、労働者がその番についた。
 八七年の夏、六月蜂起という全国規模の運動の後、権力掌握を維持しようとした軍部の試みに反対して、労働者が国中で立ち上がった。新しく形成された労働者階級は、職場にまでおよぶ軍隊形式の支配を受け入れるよう資本家から強制されたのだった。資本は、極度の低賃金、貧困かつ恐るべき労働条件、経営者による不公正で非人間的な扱い、そして抗議のいかなる動きをも対象とした野蛮な抑圧を強制しようとした。その上にまた、秘密警察と保安部門の手先が、抗議や抵抗のいかなる動きをも探ろうと全力を傾けたが、その一方保守的な諸党と報道機関は、国家と資本の単なる乗り物に過ぎなかった。労働者の大衆的反乱は、これらの諸状況に反撃して破裂した。彼らの要求は穏健なものだった―人間的取り扱い、ましな賃金、よりよい労働条件、そして労働組合を作る権利。
 夏を通して、三〇〇〇以上のストライキを含む自然発生的な波が組織され、一〇〇〇以上の労働組合が形作られた。企業寄りの労働組合官僚は、労働者階級の怒りの的となった。労働者は、独立した民主的労働組合を要求した。そして彼らは、工場の壁を越える連帯と幅広い統一を要求した。この工場の壁は企業組合のシステムを象徴していたのであり、そしてこのシステムは、労働者の統一を妨害し、労働者を経営者の支配下に置くために考え出されたものだったのだ。元学生の活動家と新たな労働者の闘士たちは、地域的なさらには職種上の基礎の上に、新しい連合を組織した。さらに、個々の市民として六月蜂起に参加したホワイトカラー労働者もまた、労働組合が介入していなかった事務所を労働紛争の職場に転換しつつ、労働組合運動に合流した。
 こうして、九〇年代初頭、労働者の戦闘性を際だたせつつ、組織化攻勢が産業全体に吹き荒れた。労働者階級の闘争のこの進展の中で、大工場においては、特権的な労働貴族のほとんどが、新たな戦闘的労働者指導者で置き換えられた。そして現韓国労総の枠組み内で、民主労組が支配的となった。
 
 民主労総―労働者運動の新段階
 
 九〇年代前半、民主的労働運動は三つの潮流から構成されていた。一、中・小規模の工場労働者の戦闘的労働組合連合である、労働組合韓国協議会(民主労総)。二、財閥企業の大労組連合、これは民主労総に近かかったが、異なった独自性を維持していた。そして第三に、ホワイトカラー労働者の組合。しかしながら、これらすべての労働組合は、依然として瀕死の韓国労総の組織的枠組み内部にあった。
 最終的に九五年、全体を束ねる組織として「韓国労組連合」(民主労総)を形作ることで、民主的労働組合主義は統一した。民主労総建設の過程は、一方では労働者階級の統一を鍛える過程であり、他方でそれは、民主的労働組合主義の方向に関する内部にあった差異を反映した、内部的な妥協の過程であった。国家機構と資本による切れ目のない攻撃に直面する中で、民主的労働組合内部の幾つかの部分は、国家および資本との協調をむしろ好み始めた。
 こうして、民主労総の最初の指導部は民主的労働組合主義の右翼的移行を示した。これは下部と左派潮流から厳しい批判を引き起こした。闘争よりも交渉を、民衆運動よりもNGOとの提携を、そして社会民主主義方向を優先すること―これらが民主的労働者運動内部における右派潮流の基本的性格である。しかしながら、この潮流は、親北民族主義と改良主義的布陣から成るまったく奇妙な混成だ。そこにはまた、大部分が元の闘士と労組頂点の役員のもう一つの潮流も出現した。これは、政治的組合主義よりも産業的利害に関わる組合主義を好み、制度化された交渉枠組みとその実行を優先した。そして最後に、闘士たちは民主労総の左派潮流に合流した。その大多数は、現場組合員の活動家と左翼の組合指導者だ。
 この内部的布陣をもつ民主的組合運動に対し、一連の試練となったものが、九六年一二月から九七年一月までのゼネストだった。新自由主義の政府による迫り来る攻撃に準備し、民主労総は、民主的労働組合運動の全能力を結集することができた。その中で政府に後退と労働法修正を強制した。しかし最終局面で右派指導部は、個別ストライキへと後退し、スト決行者と一般組合員からの厳しい批判を招いた。
 九七年末には、経済危機という巨大な圧力の下に右派指導部は、経営者の解雇権を受け入れ、政府との妥協を選択した。これは、それ以前の一〇年に労働者が獲得した地歩に対する裏切りだった。それ故、労働組合の方向と展望についての激しい論争が巻き起こった。そして一般労働者の決然とした戦意は、無責任な指導部を指導部門から追い払った。この戦闘的な指導性の下で民主労総は、国家と資本の新自由主義的攻撃に抵抗した。
 
民主労働党(DLP)―前進の道か一つの罠か―

 九七年大統領選に民主労総前委員長の権永吉が立候補し、少数だが一定の票を得た。この後、権と彼の同僚は、民主労総の公式的支持を得て、DLPという名で新しい党を形成した。権は、ジャーナリストであり、ジャーナリスト連盟と新聞労組の指導者だった。そして、合法主義と選挙志向という路線の下に、右派改良主義、社会民主主義の潮流を代表していた。こうして、民主労総中央の強い支持にもかかわらず、その労働者階級の基盤はむしろ狭い。それは、労働者階級意識についての低い水準および一般労働者が投げかける官僚への政治不信、双方を反映している。
 その出発の当初、民主労総右派の上意下達的圧力にもかかわらず、DLPは幅広い支持を欠いていた。しかし、〇一年九月、運動の民族派は、党の指導権を握ろうとの思惑の下に、一体的に党に合流することを決定した。運動の多数派としてのこの民族主義潮流はこれまで、独立した政党建設を拒否してきていた。それはその親北の立場故のものだった。運動の指導権は北部政権に帰属するものであるから、韓国の運動は党ではなく、統一戦線を建設すべきだ、と彼らは主張してきた。
 この動きの進行と共にDLPは、党員数で一定の成長を見たが、絶え間ない分派闘争にさらされた。DLP内には一定の左派潮流があるが、その影響は無視できる程のものだ。〇二年地方選で党は約八%得票した。しかし大統領選で権候補は、総投票数二八〇〇万の内、三%以下、一〇〇万票に届かなかった。
 さまざまな左派の中でDLPは、民主労総の支持を独占しているように見える。しかし民主労総―DLPという結びつきにもかかわらずDLPは民主労総を掌握できなかった。運動全体にとっては言わずともがな、だ。理由は、選挙志向の強調しすぎ、大衆闘争における日和見主義、内部民主主義の貧しさ、さらに成長する一方の官僚化と改良主義的社会民主主義的方向、つまり、早すぎたブルジョア同調と制度主義化だ。今年の総選挙(既に公示、本紙が届く頃結果判明―訳者)めがけ、あらゆる類の野心的日和見主義者が立候補目指して群がっている。
 DLPは、ブラジルの労働者党、イギリスの労働党、さらにドイツやスウェーデンの社民党のなんらかの理念型を模倣した。しかしそれは、社会民主主義のためのいかなる物質的条件をも欠いている、という全面的に異なる条件の下にであった。こうしてDLPは、依然として社会民主主義という旗の下で、社会自由主義という破滅の道に従いつつある。
 
新政府と労働者階級の闘争

 一昨年の一二月、ノムヒョンは大統領選に勝利した。彼の支持者はそれを、選挙による革命として歓呼して迎えた。党の予備選を通じて、彼は最弱の結果を残した一人だった。それ故その失敗が彼の支持率を急降下させ、第三のブルジョア候補であるジュン・モン・ジョンへの支持増大と共に、彼の党は分断された。
 しかし彼は、強力な競争相手である前候補者であり最高裁判事であったホイ・チャンに闘いを挑み、勝った。そしてそれは、金大中政権の継続を意味し、保守主義に対する自由主義の勝利を意味した。それは条件次第では、民主主義と社会的進歩にとって有利な状況と解釈されたかも知れない。
 しかし政府の根幹的弱さは、その貧しい組織的足場だった。廬大統領は、中でも彼の若い熱烈な支持者の中で、個人的な人気を博した。しかし大統領として彼は、改良主義的心情を宿した経験不足の助言者達を回りに集めた。そして彼のチームと彼自身は、保守的なメディアと野党、さらには彼自身の党からさえ、常に攻撃にさらされ続けた。
 見かけ上の進歩的姿勢とは著しく違って、彼の基本的方向は新自由主義改革をめざすものだった。さらに彼は、前政権から引き継ぎ、私的資本と国際資本からの圧力が命じる任務を完遂しなければならないと感じていた。この結びつきの中に彼は、彼の親米的かつ反労働者的立場を統合した。
 昨年春訪米した彼は、彼の反米主義に関する懸念に反して、最悪の戦争屋と友情を高め、ブッシュを大いに喜ばせた。それ故これは、彼の支持者と敵双方をびっくりさせた。彼はアメリカの全手段を支持し、もう一人のブレア、東アジアのブッシュのプードルになった。さらに、ブッシュ政権がイラク占領に伴う由々しい政治的危機のもとにあった昨秋、民意に何ら問いかけることもなく韓国軍をイラクに送ることを決定することにより、彼はブッシュに手をさしのべた。こうして、ブッシュに付き従うとの彼の不意打ち決定は、廬政権と米帝国主義に対する巨大な反対を引き起こした。
 彼の労働政策に関しても、同じ筋書きが進行する。当初彼は、労働者への親近感を示した。そして何人かの組合指導者は、労働者への彼の進歩的立場に高い期待をもって、個人的基盤の下に政府に加わった。しかしながら、資本からの圧力増大に直面するに連れ彼は、立場を変え始めた。
 
十一月攻勢―激発する労働者の闘争

 経済危機と労働者の生計と組合の権利に対する前者に引き続く攻撃以降、労働者は、生き残り闘争以外何の選択肢もない、希望を奪われた状況にさらされた。職場の六〇%以上は、パートタイム職、臨時雇い労働、臨時仕事にさらされている。さらに正規労働者すらも、保障されない職、柔軟労働、配転攻撃の脅迫、絶え間ない嫌がらせと労働法侵害、さらに経営者による統制にさらされている。強力な労組が労働者の権利を守っている大工場では、経営側の攻撃がとくに過酷だ。それは、労働省の無関心と不介入をテコに、合法非合法を問わず利用可能なあらゆる手段を使うほどのものとなっている。さらに最近になってますます多くの資本が、以下の手段に訴えている。すなわちそれは、労働者の賃金と組合財産の仮差し押さえを求める法的手段であり、さらに組合活動家と指導者による個人賠償を要求する訴訟だ。これらはそれによって、彼らの家族の生活をもろともに破壊する。
 このような中で一連の自殺が起こったのだ。それは、戦闘的労働者と組合活動家には基礎的生存が保障されていない、という状況だ。組合支部の指導者、キム・ジュイクは一〇月一七日、地上三五メートルのクレーンで首をつった。そこで彼は、一二九日もの間座り込み闘争を続けていたのだ。財閥子会社のハンジン重工業は、組合分裂という野蛮な攻撃を続けながら、僅かの賃上げをも拒否した。
 もう一人の指導者、リー・ハエナムは、労働者と組合に対する間断のない経営の嫌がらせに抗議し焼身自殺した。自動車部品企業、セオン工業は、組合破壊のため、あり得る限りの手段を使った。そこには、暴力団やちんぴらの雇用すらも含まれる。多数の労働者が、雇われちんぴらの無差別的暴力によって負傷した。労働者福祉法人の衣料労働者の組合指導者、リー・ヨンセオクは一〇月二十六日、差し迫るストライキ直前、ソウルの労働者集会で焼身自殺した。
 自殺という行動は、すべての活動家がそれに反対だとはいえ、まったく個人的な決意である以上、統制が効かない。民主労総中央を受け持ちとしていた一人の警察首脳は、連続的自殺は「計画されたものだ」と語る形で、彼自身の陰謀理論を披瀝した。当然ながら彼は、あらゆる方面からの批判に直面し、その地位から解任された。しかし大統領は、民主化された社会で自殺は対立解決の手段であり得ない、と語りながら解任されなかった。前労働者代弁者は、何百万という労働者が直面する過酷な現実をまったく理解できずにいる。上述したことは、このことを示すものだ。
 政府の反労働者姿勢と見境のないブルジョアジーに対抗して労働者達は、十一月六日に四時間スト、十一月九日に全国労働者集会、十一月十二日にゼネストを行った。そしてゼネストには国中で十五万人以上の労働者が参加した。しかし政府は、反労働者的立場を保持し、五〇人以上の労働者を暴力を理由に逮捕し、民主労総中央指導者達を召還した。その上政府は、民主的権利を制限するために、集会とデモに関する法を変更しようと試みている。しかし疑いなく、この種の手段でも労働者の闘争を止めることはできない。
 
労働者の権利を求める移民労働者の闘争

 同時に数千の移民労働者が座り込みハンストを始めた。それは、新たな規制の下で未登録移民労働者を国外追放しようとする政府の方策に反対するものだ。移民労働者は3K職種に雇用されていた。それは、汚い、危険、格下の仕事であり、低賃金と劣悪な労働条件の故に韓国の労働者が拒否する仕事だ。これらの恐るべき条件の中で、男女の移民労働者は、容易に資本主義的搾取と人種主義的差別の犠牲者にされた。肉体的暴力といじめという非人間的取り扱いの続いた長い年月の後、韓国の資本家と政府に反対し、移民労働者は団結し始めた。それはまた、彼らを単に犠牲者とみなし、闘争を思いとどまらせようとする慈善団体や宗教グループに反対するものでもあった。しかし移民の闘士たちは、韓国労働運動から生きた経験を学び取った。そして結局、彼ら自身の独立組合、MB―ETU(民主労総と提携する一般労組である平等労組の移民支部)の建設に成功した。韓国における移民労働運動の新段階。
 この移民労働者組合は現時点で、反差別闘争における、また移民労働者の超搾取反対闘争の主導的勢力だ。国外追放に直面した一組のカップルが、絶望の中で自殺した。それ故現在の闘争は、政府の追放政策と、いかがわしい雇用許可証システム、すなわちもう一つの新版奴隷制に目標を定めている。全国にわたる数カ所で、数百人もの移住労働者が厳寒にもかかわらず座り込み闘争を維持している。
 
反グローバリゼーション農民闘争

 一〇万人以上の農民が、〇三年一一月一二日に集結した。農民の暮らしを支える基底を破壊した政府の失政に抗議するためだ。帝国主義的グローバリゼーションの圧力の下に進んでいる市場開放と貿易自由化が特に、農民の暮らしをとうに脅かしていた。
 ほとんどの農家家計には巨額の負債がのしかかっている。それは、ただ生き残るだけの方策すら見つけられないほどのものだ。このような状況において、農民とその組織が、反新自由主義的グローバリゼーション闘争の主導力となっている。リー・キュンハエはカンクンで、「WTOは農民を殺している」と叫びながら、WTOへの抗議に自らの命を捧げた。多くの人は自殺という彼のやり方には同意しないものの、心の底から彼を理解している。
 高齢化の進む貧困化した地方では、その上になお、より厳しさの増す競争、一連の自然災害、失政、さらに見境のないグローバリゼーション―これらすべてのものが、絶望的な闘争か単なる無抵抗的消滅か、という誰も望まない選択へと農民を押しやっている。一一月一二日の全国農民集会では、国中から集まった一〇万人の農民がソウル下町の通りを占拠し、機動隊の暴力との対決の中で、交通は麻痺状態となった。逮捕に抗議するため彼らの一部は、地下鉄中央駅で座り込みを行った。さらに彼らは、別の行動を組織しようと計画に入っている。
 
韓国での労働者階級の政策

 民主労総の船出をもって労働者運動は、自身に二つの戦略目標を設定した―労働者政党建設と企業別労組の産別労組への転換。要するにこれらの任務は、労働者階級の運動の一部として政治的翼を組織すること、および階級的団結を広げるためのより効果的な組織を作り上げること、であった。さて現時点で、産別労組建設は最終段階というよりはむしろ途上にあり、運動はDLPという政党をもっている。
 しかしこの展開は、危険をはらんだねじれを被った。初期において産別労組主義の推進力は、主に組合官僚によって与えられた。そして彼らは現在、民主労総内では政治的に中道派である。組合指導部と現場労働者間には基本的に緊張があり、それが権力闘争の一つの源だ。具体的闘争は、全国指導部と地方あるいは工場指導部の間にある。それは、いくつかの大労組、主に自動車と造船の大労組が、動員力により大きな財政力という大きな力を持っているからだ。他方で深まる官僚主義と一体的に腐敗を見せる中央指導部―労総あるいは産別の―は、中央集権構造の方を好んだ。しかし現場の活動家は、このような官僚的運営に反対した。彼らは、産別主義のそのような転形は産別主義に含まれる階級的意味合いをねじ曲げるものだ、と主張した。こうしてこの意味で、官僚と現場間の対立は内部的紛争と論争を生み出した。しかし同時にそれは、労働者階級の闘争のもつ躍動的な力を持続させている。
 そして、DLPは民主労総の公的支持の確保に成功したとはいえ、民主労総のより大きな規模を考慮すれば、その支持基盤はむしろ弱い。現時点でDLPは四万人の党員を誇るが、階級的基礎はむしろ弱いのだ。民主労総諸労組内では、DLP入党は上から強制された。その一方民衆運動内の民族主義派は、突然の転換の後でまとまって入党する決定を行った。
 こうしてDLP内の関係は変化した。DLPは、社会民主主義の方向から民族主義的改良という混成物へと、さらに歪められる可能性を増大させている。
 DLP外には、一定数の急進左派が存在する。その中では、「労働者階級の力」(PWC、FI一五回世界大会にオブザーバー参加、筆者はその支持者―訳注)と社会党が重要である。さらにDLP内にも、方向に関し違いをもっている幾つかの左派がある。社会党は今、選挙における一連の失敗の結果として、独自性に関わる危機を進行させている。この党は、DLPの右翼的移行を利用することに望みをかけている。
 PWCの立脚点は、社会主義的方向と議会主義からの独立性、そして階級闘争的な労働組合運動の追求に置かれている。PWCはまた、教条主義とセクト主義を批判し、真の労働者階級の党を建設する第一段階として、左派の統一を支持してもいる。
 PWCはさらに、地方、全国、また国際的次元での労働者階級の闘争で重要な役割を果たしている。さらにPWCは、そのメンバーのほとんどが職場と単組を足場にしているという困難にもかかわらず、反グローバリゼーション運動と反戦運動で重要な仕事をやってきた。むしろつつましいといってもよい規模でありながら、活動家の広範なネットワークと明確な政治的立場をPWCはもっている。そして、労働者運動の枠内で左翼反対派としての指導的役割を果たしている。

結び―次の階級的戦闘を待ちつつ

 韓国の労働者階級は、資本と、軍部であれ文人であれ双方のブルジョア国家による厳しい抑圧を通して、とくに新自由主義的グローバリゼーションの攻撃に対決して、その階級意識と運動を発展させてきた。政治的なまた労働のあり方に関わる方向についての深刻な歪曲にもかかわらず、労働者は民衆諸層の闘争を率い続けている。
 労働者運動の発展に対比したとき、急進左派勢力は依然としてみすぼらしい状況にあり、政治的代替方向の建設に向け、少しずつ地歩を回復する途上にある。しかし、新自由主義的攻撃反対の労働者階級の闘争、官僚的歪曲に反対する職場の動力学、さらに社会的、民衆運動内での、反資本主義的方向と国際主義的視野の成長―これらすべては、反資本主義運動と解放に向けた労働者階級の運動の新しい類型の発展、そして左翼再編のための政治的財産だ。
 この展望とその打ち固めは、労働者階級の諸闘争の世界的発展に結びつけられている―アルゼンチンにおける道路封鎖と工場占拠運動、さらに〇一年一二月の蜂起、〇二年におけるイタリア、スペイン、ギリシア、イギリスの労働者の波状的ストライキ、〇二年二月さらに一〇月のボリビア蜂起、〇三年五月〜六月のフランス年金スト、〇三年二月一五日の国際的反戦運動さらに、シアトル、プラハ、ジェノバ、バルセロナからカンクンとマイアに至る反グローバリゼーション結集の連なり。
 国内的諸闘争と国際的諸闘争のこの動的な弁証法は、二十一世紀の革命運動のために新たな前進の道を指し示す。それは同様に、労働者階級の国際的運動の「新しい政治」に向けた新たな展望でもある。韓国労働者の闘争と、韓国の他の大衆運動の発展は、世界的な諸闘争と諸運動のこの新たな波の一部である。(インターナショナル・ビューポイント二月号。なお、紙面の都合で、反戦運動と反原発運動に触れた二節、および内容的に一部重複する箇所を割愛した。)
 

 
 
 
 
 
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