2004年5月10日        労働者の力             第 170号

ファルージャからの米軍撤退―軍事的限界を暴露
米英軍はイラクから撤退せよ!
自衛隊も即時に撤退せよ!

 

川端康夫

軍事的流れの転換―イラク民衆の四月攻勢

 ファルージャを中心とするイラク民衆の四月攻勢は、ひょっとするとベトナムのテト攻勢に匹敵する歴史的な闘いとして記憶されることになるかも知れない。それ程までに、ファルージャをめぐる攻防において、イラク民衆は極めて高い戦闘性を示した。ファルージャのモスクへの無差別攻撃に始まるアメリカ軍のファルージャ包囲攻撃は、地元民衆の激しい抵抗に直面し、そして押し返された。アメリカ軍は、一時の停戦に続いて、包囲を解き、撤退したのだ。この事件は、まさにアメリカ軍の軍事力がイラク民衆を到底押さえ込むことができないことを示したのだ。
 四月攻勢は、今まで比較的に安定していた南部のバスラ地域、ナジャフ地域を中心とするシーア派過激派のムクタダ・サドル師派の民兵「マフディ」軍が公然たる戦闘行動の開始、そしてスンニ派三角地帯のファルージャを中心とする攻勢が波状的に拡大し、そして、シーア派とスンニ派が長年の対立を越えて、共同戦闘の方向に踏み出すことによって、まさにイラク全土が反占領軍への武装蜂起へと転化した。これは、米軍への攻撃をフセイン残党やテロ組織アルカイダなどの策動と決めつけてきた米英占領当局の虚飾を文字通りむなしいものにするものだった。多くの人が予言した「イラクのベトナム化」が始まったのだ。毎日、イラクのどこかで、アメリカ兵士が死んでいる。もはやCPA(連合国暫定当局)や傀儡であるイラク統治評議会はイラク民衆総体と対峙する羽目に陥ったのだ。バスラ駐留のイギリス軍司令官は、仮にバスラの住民の最高責任者サイード・ムサウィ師がイギリス軍撤退を求めたら、バスラ市民一五万人は押し寄せてきて撤退を求めるだろうが、そうした動きを軍事力で押さえることはできず、大量殺戮事態を避けるために、イギリス軍は撤退せざるを得ないだろうと四月二〇日に述べたのである。
 大分前に本紙紙上で紹介したイギリス支部の論文に、イラク民衆の歴史的な革命的性格を強調したものがあった。イラク民衆の革命的な歴史的反英闘争、革命的政権のための闘争の歴史は、必ずや米英軍に対する反占領の武装闘争へと発展するだろう、というその論文の予言は、いままさに現実のものとなったのだ。英米占領当局のイラク民衆への圧迫がこうした事態を招いたのだ。

ファルージャに続く焦点、ナジャフ

 イラク中部のイスラム教シーア派聖地ナジャフなどを包囲している米軍部隊は六日、抵抗を続けている同派強硬派指導者ムクタダ・サドル師の民兵組織と激しい戦闘を展開し、ナジャフに隣接したクーファ付近で民兵四一人を殺害した。また、サドル師側が握っていたナジャフ州庁舎を制圧した。
 現地の米軍当局者は、ナジャフの統制を取り戻すため、市の外縁部に位置する州庁舎を確保したことを明らかにした。米軍はまた、ナジャフ北方の聖地カルバラの市街地にも戦闘車両を進め、サドル師の民兵拠点を攻撃、陣地を築いた。
 ナジャフはシーア派の始祖アリーの廟地である。アメリカ軍はサドル師の殺害を目指してきたが、シーア派の聖地ナジャフへの突入を図ることは、当地のシーア派住民総体を敵に回すことになる。また、虐待問題で窮地にある現在、ナジャフへの総攻撃はすぐには考えにくい。しかし、三月以降、ナジャフをめぐる事態は以下のように展開してきた。
 これまでのところアメリカ軍と対立しているのは、過激派のサドル師側だけで、大多数のシーア派住民は、穏健派のシスターニ師の下にある。穏健派指導部は、アメリカ軍とサドル氏側の間に立ち、停戦を求めてきた。アメリカ軍にはナジャフに突入したら友好関係は終わると示唆し、サドル師にはモスクや学校を拠点にすることをやめ、退去するように申し入れている。しかしアメリカ軍は強硬姿勢を崩さないために、一触即発の情勢が続いてきた。それがいよいよ米軍突入に至ったのである。今のところ、シスターニ師側がどう反応するかは分からないが、シーア派総体の「忍従」が切れる可能性は高い。アメリカ軍の強硬姿勢にはイギリス軍も批判的である。その理由が、先述したバスラの可能性である。イギリス軍はシーア派を挑発することを恐れているのだ。
 アメリカ側のサドル師逮捕の理由は、暗殺された親米派の聖職者アブドル・ホーエイに関して、サドル師が指示を出したのではないかということだ。シーア派穏健派は、七月の政権委譲後にイラクの法廷で裁判を行うという条件を出したが、アメリカ軍は七月まで待てないと拒否した。殺害の目的証言はあるものの、あいまいで、イラク法律家協会はサドル師に対する逮捕状は不当なものだと声明を出している。
 イギリス当局は、サドルに対する追加容疑を探すため、サドルの逮捕状を書いたイラク人判事をロンドンに呼び、検討に入った。この動きは、フセイン政権を潰すことを目的として、フセインを悪者に仕立てるための大量破壊兵器開発などの容疑を後から考えたという、侵攻前の英米のプロセスと似ている。容疑の信憑性は二の次で、サドルを殺すのが目的だと感じられる、と評論家の田中宇(さかい)氏は述べている。
 ファルージャとナジャフ、この二つの地のイラクにおける意味は以下のようなことである。

イラクの一九二〇年状況

 ファルージャとナジャフに象徴されるイラクの現状は、一九二〇年に発生した反英大暴動を思い起こさせている。以下は田中宇氏のサイトからの引用である。
 
《今年一月には、バグダッドなどのイラク人社会で「一九二〇年のような暴動が起きる」という意識が強まり、シスターニ師は「一九二〇年を思い出せ」というメッセージを地元の新聞に出した。「一九二〇革命隊」などという武装市民組織も結成された。
 一九二〇年というのは、第一次大戦でイギリスが当時のイラクを統治していたオスマントルコ帝国軍を追い出し、イラクを独立させるといってイギリス軍を駐留させつつ傀儡統治を開始したところ、数カ月後に大規模な反英暴動が起こった年である。
 反英暴動は、イギリスが国際連盟からイラクの信託統治の許可を取り付け、イラク人の有力者たちを集めて民意を尋ねるという「民主主義」的な行為を行った後で起きた。暴動は、ナジャフを中心とするシーア派と、ファルージャを中心とするスンニ派の両方で起こり、最初は部族ごと、宗派ごとに蜂起していたものが、やがてシーア・スンニを横断する全イラク的な反英ナショナリズム運動となった。一九二〇年の蜂起は、イラクの歴史教科書に英雄的な民族自決闘争として書かれており、イラク人の大半が知っている歴史である。
 イギリスはこの蜂起の後、「アラブ統一運動」をイギリスの傘下で行っていた聖地メッカの知事フセインの息子ファイサルをイラクの国王に据え、イギリスの傀儡ながら立憲君主体制を作ることでイラク人の民族意識を吸収し、何とか安定化した。その後イギリス軍は一九五五年まで三五年間、イラクに駐留していた。
 今回のイラク人の蜂起は、一九二〇年の蜂起とよく似た点がいくつかある。ナジャフとファルージャが蜂起の中核になっている点や、英米軍の側が不必要にイラク人を怒らせている点、イラク人が鉄道や高速道路といった占領軍の交通網を襲撃している点などである。一九二〇年のような蜂起を再発させようとしたイラク人の動きは、遅くとも今年の初めには英米にも感じられていたはずだ。
 一九二〇年の蜂起から分かる教訓は、イラク統治が国連の手に委ねられたとしても、またイラクで選挙が行われたとしても、それが表向きだけの手続きで、その後も米軍による傀儡政治が続くのなら、今年七月の「政権移譲」後もイラクで反米蜂起が起きる可能性は十分あるということだ。》
 以上の引用の内ファイサル体制を「何とか安定化」と規定しているが、前掲イギリス支部の論文は、この時代について分析したもの。従って実際は、まったく安定化できず、英植民地統治は失敗した。
 
始まった自衛隊への攻撃 
 
 同じく四月、安定しているとされてきた自衛隊が駐屯するサマワにも、オランダ軍や自衛隊を狙った攻撃が始まった。四月七日、自衛隊基地に砲弾が打ち込まれ、八日にはサマワのCPA事務所に迫撃砲が撃ち込まれた。自衛隊は基地外での活動停止に追い込まれた。サマワの治安が急速に悪化していることが示されている。さらにサマワで四月一四日、イスラム教シーア派の強硬派指導者ムクタダ・サドル師を支持する学生ら約三〇〇人が米国主導の占領統治に反対し、駐留オランダ軍や自衛隊のサマワ撤退を要求するデモを行った。陸自部隊の撤退を求めるデモがサマワで行われたのは初めてである。陸自が一三日、中断していた宿営地外での活動を九日ぶりに一部再開した矢先の抗議行動となった。デモ参加者の大半は大学生で、サドル師の肖像などを掲げながらムサンナ州庁舎に近いサドル師の事務所前などを行進。「自衛隊と占領軍を区別するのは困難。陸自部隊はイラクに駐留する連合軍の傘下で活動すべきではなく、サマワから出て行くことが(日本にとって)最善の選択だ」と主張した。
 このデモ隊の主張を見るまでもなく、まさに自衛隊は、まったくの戦闘地域の内部にある。外部活動を中止して、基地内に潜んでいるという事態を、戦闘地域ではないとはもはや強弁できない。小泉と与党は、イラク派遣法そのものに違反しているのだ。
 四月の事態では、自衛隊のクエートへの一時待避がささやかれたし、自衛隊自身から、イラクからの撤退が示唆される有様であった。
 事実上、自衛隊は即時にイラクから撤退するしかないのだ。
 
つのる「綱からの転落」の恐怖

 四月はまた、イラク在住の外国人への攻撃が強まった月であった。イラクにはCPAの下で活動する外国系企業が相当に入り込んでおり、そこで働く外国人労働者や企業職員、さらには、いわゆる傭兵というべき占領軍を補助する集団も相当程度存在している。そしてそれに支払われる給料は途方もなく高額である。今回暴露された米英軍によるイラク民衆への虐待行為がなされたアブグレイブ刑務所の管理や尋問などが民間委託されている事実も明らかになった。これらは有形無形に占領行政の一部を担っているのであるから、イラク民衆からすれば明らかに敵性なのだ。
 まず最初に三月三十一日、今回最も激しい戦闘が行われたファルージャでアメリカ人傭兵四人が殺害された。ファルージャの戦闘は米軍による報復戦から始まったものだ。続いてイタリア人四人、日本人三人、そして二人が続いた。他には、韓国人宣教師、中国人、イギリス人、ドイツ人などが相次いで拉致された。この行動は明らかに意図されたもので、敵性国国民とその他の外国人の扱いには慎重な差異があった。また活動の有り様次第で釈放されたり、殺害されたり、という違いもあった。
 日本人五人の場合、彼らは明らかにイラク民衆のためにそれぞれ活動しているボランティアであった。そしてここで特筆すべきは、世界的な民衆運動のネットワークが直接にイラク国内に働きかけ、とりわけ最初の三人、高藤さん、郡山さん、今井さんらの救出運動の核心部を担ったことである。その詳細は五月八日発売の『世界』に報じられている。昨年一二月、日本を訪れ、その過程で外務省の策謀により小泉との会見を演出されたパリ在住の亡命イラク民主化運動指導者アブデル・アミール・アル・リカービ氏を中心とするネットワークがイラク国内グループと連絡を取り、救出運動を進めた事実である。その状況は、同じくパリ在住のコリン・コバヤシさんによって日本にインターネットを通じて、リアルタイム的に報じられた。中途で音信が取れなくなった時期もあったが、コリン・コバヤシさんは冷静に事態を見守るべきだと伝え続けた。後の二人の問題についてもこの動きの影響はあったであろう。このパリからの発信(アタックのメーリングリスト)に接した日本の人々はまさにイラク民衆運動との接点を実感したであろう。リカービ氏は今年一月のムンバイWSFにも参加した活動家である。
 それとはまさに対照的に、首相官邸サイドから操作されたマスメディアによるバックラッシュはすざましかった。自衛隊撤退を求めた三人の家族に対して、文字通り非国民扱いをし、自己責任論から自作自演論まで飛び出す攻撃が今でも続いている。政府が「救出」のためにかけた費用を払わせろとか、の攻撃はまさに常軌を逸したものといわざるを得ない。
 日本政府は、五人の救出には何の役割も果たせなかった。占領統治の片棒を担いでいる以上、日本政府になんらのイラク民衆との接点があろうはずもないのだ。ただイラクの有名な詐欺師に振り回されただけである。首相官邸はこうした実態を隠蔽するために、バックラッシュを操作したのだ。それには右翼文化人も大量に悪のりした。家族への執拗な、陰険な嫌がらせが組織的に拡大し、家族を打ちのめした。家族は最終的に、自らの言動への自己批判に追い込まれたのだ。なんという事態であろうか。
 こうした動きは、当のアメリカのパウエル国務長官らの態度とはまさに正反対であった。外国報道機関もこうした日本のマスメディアの動きを批判した。フランスのル・モンドは、日本人拉致被害者三人の行為を、次のように論じている。日本にも自主的に行動する青年達が登場した。新しい日本における動きである、と。つまり、ル・モンドは、国の主導という枠組みで行動しがちな日本民衆の中に新しい自主的行動を行う動きが生まれたのだという観点で、拉致被害者三人を評価したのだ。日本マスメディアとは一八〇度も評価が違う。
 しかし、首相官邸や大マスメディア、そして右翼文化人らのこうした反応は、彼らの深刻な危機意識の現れである。彼らは自衛隊のイラク駐留に正当な論理的根拠をもたず、ただひたすらごまかしに訴えるしかない。また、非戦闘地域に派遣したはずの自衛隊に犠牲者が出たとしたら、彼らのすべての虚構は即座に崩壊するのである。まさにびくびくものの綱渡りをやっているのだ。イラク派兵をめぐっては、まさに国論は二分している。派兵以前には反対がほとんどを占めていたが、既成事実に弱い国民性は、派兵を容認する傾向を増大させた。しかしながら、それでも反対と賛成は拮抗しているのである。何かが起これば賛成世論は一挙に崩壊する。これを彼らは恐れているのだ。これがパウエルのように、被害者として全身で抱擁する姿勢を示していたのなら、イラク派兵問題の是非を問うことへはつながらず、官邸サイドの被害者救済の見せかけに民衆が引き寄せられたかも知れない。
 まさに、大マスメディアの扇動にもかかわらず、日本の国論は二分している。この事実を忘れることはできない。小泉の綱渡りは続いているのである。
 
小泉内閣を追いつめ、イラク撤退を実現しよう  

 本日(五月七日)福田官房長官が辞任した。自身の年金未払い問題の処理に問題があったという理由である。ここでは、辞任の是非は問わない。しかし、多数に及ぶ国会議員、閣僚の未払い発覚は、年金国会ともいわれる今国会での年金法案の採決の行方に大きな影響を与えることは確実である。
 今の問題は、小泉内閣の番頭役として中心的な役割を果たしてきた福田官房長官を失うことによって、小泉内閣は相当の痛手を受けたという事実である。与党は、先のミニ総選挙で、イラク問題を懸命に避けて、勝利をものにした。イラク問題は七月の政権委譲に向けてさらに泥沼化しよう。アメリカは政権委譲に形以上のものを与えようとはしていないからだ。仮にナジャフ突入が南部シーア派の総決起を導くとすれば、同じく南部にあるサマワのオランダ、日本両部隊に対する攻撃も本格化すると思われる。そしてまた、バスラのイギリス軍が撤退する事態となれば、何としても撤退しないとしているイタリアや日本が駐留している意味もでたらめさを否応なく暴露されることになる。。
 イラク情勢は急展開する可能性がきわめて高い。七月は日本の参議院選挙の時期である。小泉内閣も、与党サイドも、イラク問題から逃げ続けることは難しいだろう。イラクからの即時撤退を求め、小泉を追いつめる闘争を拡大しよう。
(五月七日) 
 
イラク派兵に反対し憲法を生かす共同候補擁立運動
      一時休止を確認
                 

 さる四月二六日、二ヶ月にわたって続けられた「イラク派兵に反対し憲法を生かす共同候補擁立運動」は最後の会合を開き、運動の挫折、参院選後までの一時休止、を確認した。出席者の間には無念の思いが漂った。運動は、弁護士の前田知克氏を代表に、内田雅俊氏を事務局長にし、矢山、国弘両元議員を加えて、精力的に二ヶ月間活動した。ワールドピースナウの活動家、キリスト教関係者、市民活動家、地方議員、一部社民党員、新社会党や多くの左翼党派が共同し、東京だけでなく全国からも駆けつけて運動を盛り上げようとしてきた。社民党、共産党、沖縄社会大衆党、みどりの会議と公式、非公式に接触し、申しれを行ってきた。しかし、各政党、団体ともすでに参議院選への態勢に入っており、提起の趣旨は認めるものの、要求に応えることはできないとの対応となった。
 四月に入って、運動は各政党の出席の下に提起を実現しようとしたが、まず共産党は上田耕一郎氏他が対応し、地方選挙では可能性があるが、国政選挙での提起は受けられないと表明。会議にも参加しなかった。社民党は田議員と保坂前議員が対応して会議に出席、共同候補の提起に応ずることは党の解消に通じるとの社民党執行部の意向を代弁した。沖縄社会大衆党は島袋委員長。今回の参議院選挙沖縄選挙区に副委員長の糸数慶子さんを無所属で立候補させる。その際に、民主党と社民党、共産党の支援を受ける関係上、共同候補運動に乗ることは不可能であるとの回答。みどりの会議は幹部が出席し、趣旨は理解するが、今回は独自性を出す選挙を目指しているという回答であった。
 左派勢力の議会内議席数が、選挙制度の関係上、追い込まれるわけで、そこに対する危機感が、運動サイドに「人民戦線」的発想(国弘元議員)を呼び起こしたのだが、政党、団体の側にその危機意識は薄かった。さらに事態が進めば、政党側の対応も異なってくることを期待して、運動は参議院選挙後まで一時休止を確認したのである。
 また、東京選挙区での共同候補擁立の動きも不完全燃焼に終わった。その最大の障害は、社民党が独自候補に固執したためである。また、左翼共同への全国規模での動きが続く中で、東京選挙区に市民派の独自候補を擁立しようとする動きに、あまり拍車がかからなかった。他には、兵庫選挙区で左派共同候補を倒立する動きが、九+二五運動を軸に追求されている。また広島や岡山でも同様な試みがあったが、残念ながらまだ実を結んではいない。
 
     「社会主義へ、新しい挑戦」
   第四インターナショナル第15回世界大会報告決定集


発行 日本革命的共産主義者同盟中央委員会/国際主義労働者全国協議会
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―スペイン―
エスパシオ・オルタナティボの声明(二〇〇四・三・一五)


―虐殺後の選挙―
国民党(PP)の嘘と反戦の大勝利
ーPPの敗北、社会労働党(PSOE)の勝利、カタロニア民族左派の前進ー


 三月十一日の大虐殺の衝撃とPPによる情報操作の下行われた昨日の選挙結果は、PPの相当な敗北と、PSOEの成功を明らかにした。PSOE指導者のサパテロは最終的に、有権者の相当な部分が実行した「戦術的投票」を打ち固めることに成功した。PPの権威主義と好戦政策をたらふく詰め込まれたこの部分は、(引退予定の)アスナールと(彼の後継者の)ラホイによるマドリードの惨劇の政治的利用に対する憤慨を、確固として明らかにすることを決めたのだった。
 しかしPSOEは、過去一年を通じた大衆的決起がなければ、勝利することはできなかっただろう。この決起は、政治変革に対する深く根を張った熱望を築き上げた。そしてこの熱望は、多くの諸都市における昨土曜日の抗議行動にも、特に青年の投票率上昇にも、見出すことのできるものだった。奮い起こされたこの熱望が今現在妨げられることが決まっているわけではない以上、これらの決起の発展が本質的となる。
 新たな政治サイクルの始まりを印すこの基本的事実と並んで、エスクエッラ・リバプリカーナ・デ・カタルーニアの得票と獲得議席の顕著な増大があった。カタロニア社会の広範な感情は、スペイン国家の多民族的性格を認識すること、及び対話への参加を支持している。上記の形に示されたことは、このことだ。
 他方、統一左翼は、大きな後退をこうむった。その大きな原因は「戦術的投票」が加えた圧力だ。しかし我々から見たとき、原因はそれだけではない。選挙中とそれ以前に、統一左翼を左翼の代わりの勢力として見えるものとするような明確な政治的姿の追求と、選挙上の主張、その間の動揺と矛盾にも原因はあるのだ。
 この結果新議会は、全体として左翼が多数派となり、多民族的色彩がより濃くなる。そしてこれらのものは、新たな試練を直ちに提起する。それが、サパテロ指導下に作られる新政府が突き付けられるものだ。政府が取り組むべき第一のかつ即刻の処置は、イラクからのスペイン軍部隊撤退とならなければならない。それと同時に、もう一つの施策が取り上げられなければならない。それは、憲法修正を目的とする「第二の移行」を、準備万端整えるとの約束だ。それは、バスクやカタロニアのような地域の人々の自決を受容することを基礎に、新たな連邦協定制定と国家の多民族的性格を確認するものとなる。自由と民主主義を守る(特に報道機関に関して)ための緊急の踏み出しもまた必要だ。その一方社会と経済の領域では、「縁故資本主義」、私有化さらに、労働人口の大多数にとってより一層強まる雇用の臨時的性格と、きっぱり手を切ることも必要になるだろう(この労働人口には、許可証の無いすべての人々にそれを即刻与えることにより、移民も含まれる)。以下のことにも新政府は取り組むべきだ。それは、進歩的租税政策、良質な公共サービスとまともな住宅を確保する権利の保障、週三十五時間労働のような処置を基礎に置く権利を伴う雇用の創出、さらに「全国水利計画」の即座の解消と全原発の閉鎖だ。
 しかしながら、いかなる信頼もこの政府に置けないように我々をさせるものがある。一つは、一九八二年のPSOE勝利後の、希望が打ち砕かれた経験だ。そしてさらに、党現指導部の方向がある。それは、この党の選挙公約の主要な項目に明らかであり、また新政府の想定される顔ぶれにも象徴的に反映されている。政府との関係で、市民が自ら行う行動とデモを維持し、強めることが必要になる。そこでは、政府が取るあらゆる前向きな歩みを支持しつつも、運動の独立性を保ち、社会的かつ政治的な代わりとなる反資本主義の左翼を、徐々に融合させるよう運動に圧力を加え続けることも必要だ。この代わりとなる左翼は、見込みのある時もあったのだが、今日まさに必要なのだ。それ故にこそ、統一左翼のような勢力が議会内で採用する立場が問題となる。我々はそれを、以下のものだと信じる。即ち、政府首班としてサパテロ選出を支持し、先述の課題に関するそれに限定した協定に加わる、それらはあり得るとしても、政府に入閣はしない、ということだ。入閣が意味するものは、サパテロの綱領全体の支持である。それが先の立場の理由だ。
 最も差し迫った任務は、三月二十日のデモを、戦争とイラク占領に有罪を宣告し、スペイン軍部隊の即座の撤退、アメリカとの全協定の破棄、「南」の、特にパレスチナ民衆と連帯するもう一つのヨーロッパのための闘争を要求する好機に変えることだ。
注)スペインのFIメンバーは、エスパシオ・オルタナティボ内で活動。(「インターナショナル・ビューポイント」三月号)
 

ムンバイ世界社会フォーラム(WSF)
WSFにとっての新たな舞台

          
ホセ・マリア・アンテンタス

 第四回WSFは、疑いなく成功した。それは、諸論考や参加者大多数の印象が証言している。WSFのような出来事とその展開についてバランスシートを作ることは、その複雑さの故に常に難しい。政治的、社会的、文化的背景が、我々の多くにとってなじみの薄い中それが行われる場合、そのことは一層度を増す。
 それでも私は、バランスシートのいくつかの要素を引き出してみたい。それは以下のものに基づいている。即ち、個人的経験、インドの組織委員会の有力メンバー達による説明、他の参加者達との意見交換、そして、インドの現実とWSFの展開をより理解していると思われる人々が行った、根拠を持つ分析だ。

インドにおけるWSFの進展

 インドにおけるWSFの進展過程のより意義深い側面は、諸組織と、それとは非常に異なる性格の諸グループの間で生まれた、幅広い統一のエネルギーだった。それは、二〇〇三年一月ハイデラバードで開催されたアジア社会フォーラムの準備をもって始まった流れを、打ち固め、深めるものだった。インドの現実をよく知るインド組織委員会メンバーによれば、類似の諸組織(労働組合、農民運動、その他)間の統一的作業に向けた一定の能力は、インドに伝統的に存在してきた。しかし、例えばNGOと労働組合、あるいは政党と全くつながりの無いガンジー精神の民衆運動と左翼政党の大衆戦線との間にある、強度の分裂と対立関係もまた、その一方に存在してきた。WSFの過程は、以前の障壁とすみ分けを打ち破る、統一的エネルギーの発生を可能にした。インド組織委員会に参加した諸組織の色合いは、非常に幅広いものだった(農民諸運動、労働組合、水私有化反対の諸運動、NGO、ダリット―被差別の最下層カースト―、主には毛派起源の急進左翼諸党)。
 毛派の一部と結びついている農民組織の小さな核は、WSF会場の隣で「ムンバイレジスタンス」という企画を組織した。その一方もう一つの独立的農民組織のグループは、「民衆運動会議」を組織した。その二つとも、規模は小さなものだった。
 ところで、WSFの進展とこの統一的エネルギーがインドに深く根をおろしたのか否か、を知るのはまだ早い。準備過程に最も直接的に参加してきた外国人の一人であるピエール・ルッセも、そのように見ている。もっとも、肯定的方向に向かっているという指標はある。例えば、反イラク占領の三・二〇行動日の準備や、全国ゼネスト(二月二十四日)の呼びかけをムンバイで発表するとのインド労組の決定が、それだ。

WSFの全体像と構成

 およそ一二五、〇〇〇人の参加という、これまでで最大となった今回の全体像と構成は、それ以前との関係でいくつかの新しい特色を示した。ほとんど全ての人々が認めたように、今回のフォーラムは、WSFの国際主義化進展における真に本質的な質的飛躍を明らかにした。参加者はこれまで、基本的にラテンアメリカ、ヨーロッパ、北米の人々だったのだ。ムンバイは、インドの諸運動と、主に大陸東南及び東のアジア諸国の運動の幅広い統合を可能にした。フォーラムの構成及び参加者におけるこの実体的変化は、主な主題にもまた反映された。以前のフォーラムで既に取り上げられ、インドで人々が進めている形態の下に発展させた問題に加え、インドとアジアの現実が考慮に入れられた。
 主な会議にいくつかの変化はあったものの、フォーラムの方式は第三回のものにかなり近い。ここで触れた会議とは、WSF組織委員会あるいは国際評議会が直接に組織するわけではないものの、フォーラム参加組織と諸運動が組織する重要な一部だ。フォーラムの焦点は時に、諸会議や諸研究討議の内部よりもその外側に当てられたようだ。最初から最後まで連続した、インドやアジアの運動のデモ、行進、歌を前提とした時、これはあり得ることだ。確かに多くの運動にとっては、論争に参加するよりもこれが、フォーラムの日々の主要な自己表現形態だった。
 もう一つの肯定的な目新しさは、インドの民衆運動、「貧者」そしてダリッドのような最も差別された社会層が、はっきり表に登場したことだ。今回のフォーラムは、「貧者」と民衆層という民衆的現実の表出がこれまでで最強な社会フォーラムだった。この点については幅広い一致がある。それとは逆にこのフォーラムは、制度側の姿が全体として最も陰の薄いものでもあった。左翼が全般的に弱く、反動的右翼が支配する都市での開催であった以上は、フォーラムの組織的、政治的、さらに物質面の準備に、インドの制度側からはいかなる援助も当てにできなかった。状況がそうであるにもかかわらずインドの組織委員会は、いくつかの模範となる決定を行った。例えば、以前のフォーラムへの寄金者であったフォード財団のような、制度側からの財政支援を拒否した。そして、多くの賞賛を受けたフィレンチェの「統一と急進主義」は、再度フォーラムの基調となった。

社会運動の協力

 この期間中には例年のように、社会運動の会合が毎日開かれた。もっとも今回は「活動家会議」と呼ばれた。それというのも「社会運動」という用語はインドの場合、特定の型の運動に関係する、他の世界よりも限定的な意味があるからだ。その一方彼らが認識するところ、「社会運動」の下には、インドのあらゆる多様な現実、組織、闘争を含むより包括的な性格が与えられているのだ。呼び名の変更はそのために必要とされた。とはいえここにも重要な課題に関する協同があった。イラクでの戦争に反対する国際的運動の協力はその例だ。これは、世界中の現存する反戦連合の多彩な広がりを結集するものだった。
 「社会運動世界ネットワーク」を組織することを昨年決定した諸運動は、三つの大討論会を開催した。第一は、カンクンの総括であり、その時に明らかになった運動の強みと弱点を分析するものだった。そこには、今秋香港で開催される次回閣僚会議に向けた組織化の観点も含められた。カンクンをめぐる問題分析の側面、公的交渉の追求、さらに各国政府への圧力、これらの点では十分な準備があった。一方、カンクン当地だけではなく、国際的水準全体としても、結集には弱さがあった。これらの点で広範な一致があった。反WTO世界行動日組織化の難しさは、イラクでの戦争のような課題に対する近年の結集の強さとは対照的だ。クリストフ・アギトンもこのことを認める。
 第二の論争は、「諸運動のネットワーク」それ自身の活動のあり方に関してだ。いくつもの必要性が特に言及された。ネットワーク構成の拡張、同時にインドやアジアを筆頭とする新しい現実の統合がその一つだ。それと並んで、現在まで非常に弱いものであった側面、運動の戦略的討論のための空間を広げる問題があった。
 最終的に「社会運動会議」は、結論的声明を作成した。それは、今年の主な結集課題を概括したものであり、三月二十日の反イラク占領行動、及び香港WTO会合を中心としている、
 運動間の協同に関わる弱点は、インドの運動の関わりの低さだった。インド組織委員会の何人か、例えばPK・マーシイから聞いたところでは、その理由は二つあった。一つは、インドの諸組織をフォーラム期間中担当した主要な人々にかかった過重負担だ。同時にインドの諸組織にとって、社会運動が行う世界的協力の展開には、なじみの薄さというものもあった。何しろこれまでこれらの諸組織は、国際的動きに殆ど関与してこなかったのだ。
 社会運動の国際協同は、ムンバイで大枠としては一歩前に進んだ。しかし、望む方向での真の前進を、達成された合意が可能とするかどうか、これを知るためには今しばらく時間が必要だ。挑戦すべきことは明確だと思われる。ネットワークの拡張、インドの現実及びそこに不在であったものの統合、戦略的討論のための国際的空間の開放、さらに今年の主要な課題が要求する水準にまで我々自身を引き上げること、がそれだ。
注)本論考の初発は、二〇〇四年一月二十三日付けの「エスパシオ・オルタナティボ」ホームページ。(「インターナショナル・ビューポイント」三月号)
 
―イギリス―
新しい、代わりとなる勢力

                 アラン・ソーネット

 レスペクト―統一連合、新たな多元主義的で、社会主義的なイングランドの政治連合が、一、五〇〇人の活動家参加の大会をもって、二〇〇四年一月二十五日創設された。 レスペクトは、六月十日予定のEU議会選、並びにロンドン市議会選に登場することになる。

新しい党が生まれた

レスペクトが立脚する政治宣言が出席者の圧倒的多数で支持された瞬間、満場総立ちの拍手が起きた。宣言は、当日の討論経過を通じて修正され、内容を豊かにしていたのだった。
 R・E・S・P・E・C・Tは、頭文字で縮めた略称だ。即ちそれは、尊厳(R)、平等(E)、社会主義(S)、平和(P)、環境(E)、共同体(C)、労働組合(T)、を表わす。これは、出席者の主要な優先事項と、また今日の多くの人々の心情を極めてよくまとめあげている。大会は暫定執行委員会(十八名)を選出したが、それは反戦運動を色濃く反映している。この組織は、確かにそこから出現したのだ。
 執行委員会には以下の人々がいる。昨十月に労働党から除名された議員、ジョージ・ギャロウェイ。この除名はイラク戦争に対する彼の立場(特にイギリス軍部隊への命令不服従の呼びかけ)による。公共サービス労組委員長、マーク・サウェッカ。映画監督、ケン・ローチ。消防士組合の二名の地域支部代表。ブリングハムの「戦争止めろ運動」における有名なムスリム活動家、サルマ・ヤクーブ。「イングランドムスリム議会」指導者、シディッキー博士。社会主義連合(SA)議長、ニック・ラック。さらに極左派から、社会主義労働者党(SWP)の四名の指導的メンバー、並びに私。
 この執行委員会は、先述の選挙運動、さらに十月までレスペクトに責任を負う。その上で、第二回大会が行われる予定だ。

時代への挑戦

 レスペクトのような一つの組織に対する政治的要求は、九十年代中盤以降イギリスにはずっと存在してきた。それは、新労働党の急速な右への移行、その左側に発生した政治空間に随伴したものだ。左翼に対しこの空間は、孤立から脱却し、幅広く新しい何物かを築き上げる挑戦の課題を提起してきた。
 近年、SAはイングランドでこの課題に着手した。そしてスコットランドでは、スコットランド社会党(SSP)がこの課題に取り掛かり、より成功している。イングランドでSAは、突破を果たすことの難しさを知ったとはいえ、左翼の新しい勢力の創出に関しては、かなり重要な基礎的作業に役割を果たすことができた。
 重大な新しい好機が、イラク侵略反対の大衆的反戦運動の出現をもって幕を開けた。「戦争を止めろ連合」(StWC)は、すばらしい成果を上げた。しかしそれは、自身で政治組織になり諸選挙に登場する可能性はなかった―幅広い統一戦線として、それはこの組織の役目ではなかった。五月の全国大会でSAは、このことを認識した。それ故SAは、戦争を巡って生じた急進化をてこに、新しい政治組織の形成を呼びかけた。しかしながら、そのような発展に向いた触媒は当時全く無く、SAの試みが実を結ぶには至らなかった。
 触媒は、ジョージ・ギャロウェイの除名と共に現れた。これは劇的に情勢の幕を開け、政治的働きかけのはるかに広範な可能性を登場させた。その上彼の名誉なのだがギャロウェイは、除名から日を置かず、EU議会選とロンドン市議選を戦うための新政治組織形成を率直に呼びかけた。その中で彼は、その名簿に望まれれば自分を載せる用意がある、と表明した。新しい運動を呼びかけるに当たっては、前労働党議員として彼の位置は特異だ。そのような一つの分裂を作り出し新党を呼びかけるという点で、事実上彼は、現代の最初の労働党議員だ。ケン・リビングストン(現ロンドン市長、公式労働党候補に対抗して出馬し除名された元左派労働党議員―訳注)は自身が除名された際、そのように動くことを拒否したばかりか、他の人々に党に留まるよう呼びかけたのだ。ギャロウェイは事実上、労働党復帰の意思は全く無いと表明している。それは、「戦争を止めろ」運動活動家への裏切りに等しいからだ。ブレア主義の登場によって、幅広い反資本主義党建設が中心問題として提起されて以降、レスペクトは可能性として、イギリス左翼に起きたもっとも重要な発展だ。

抵抗が鍛えた民衆の統一

 イングランドにおける反戦運動の活力と成功、さらにその運動が進展する中で、伝統を従えて広く分化した政治的諸要素の間に鍛え上げた統一、これらのものへの洞察を欠くならば、レスペクトの出現を理解することは不可能だ。この運動は確かに戦争を止めなかった。しかしそれは、イングランドにおいて何年間もかけて建設されてきた、最も重要かつ幅広い運動の連合だった。そしてそれは大衆的支えを持っていた―かつても今も、真の大衆運動だ。
 二〇〇二年九月ロンドンにおける最初の大デモの時から反戦運動は、明らかに何かとてつもないものになろうとしていた。このデモは二〇〇三年二月十五日に引き継がれた。これは、二〇〇万人が街頭に登場したイギリス史上最大の政治デモとなった。それは、左翼を再形成し、再活性化する特別の潜在力を持つ運動だった―この好機をつかむ準備が左翼にあった場合に。
 同時に人々は、新労働党の度を増す反動的社会政策と衝突していた。この政府は、授業料を導入し教育をより高価なものにした政府であり、学校の私有化を進め、利潤の指令を許そうとする政府だった。それは今保健サービスで起きている。それは、移民と難民に対する切れ目の無い攻撃によって、人種主義を仕込み、極右に活力を与えた政府だった。今日の労働党政府は多くの問題でその前任者である保守党政府より実のところ悪い。この事実に労働党支持者は直面した。
 これらの要素の説得力のある組み合わせ―戦争と労働党の社会政策―が以下のものを作り出した。即ち、新労働党とその伝統的支持者の間の、何年もの間に成長を続けてきた裂け目が、さらにはるかにこじ広げられたのだ。

目前の戦いへ

 いまや任務は、レスペクトを短期間のうちに政治組織へと築き上げることだ。今日の要請は、広範な労働者に手の届き得る党にある。その手段は、右翼及び新労働党の反動的政策と戦うことを欲する他の人々と、革命的社会主義者を結びつけることだ。我々は、選挙でも運動でも有効に機能し得る党を必要としている。レスペクトはそのような党になり得る。全ての兆候がそのことを示している。
 不幸なことだが、共産党(CPB)は特別大会(一月二十一日開催)で、現段階ではレスペクトに合流せず、労働党を左翼に引き戻すというその政策を続けることを採択した。これは残念なことだが、しかしこの決定も、レスペクトに続く動きを押し止めることにはならないだろう。党日刊紙、「モーニング・スター」を見れば、CPBはこの問題で深く分裂している。それは、レスペクトに党の方向に反対するよう薦めている。その一方この新聞は、レスペクト大会以前の日々、「全員が統一急行に乗車を」との見出しで論文を載せていたのだ。
 以下のことが重要だ。即ちレスペクトは、選挙運動あるいは緩い選挙連合には留まらず、長期に存在し、新労働党に代わる前進中の政治勢力を提供し得る、そのような政党にさらに発展を続けている、ということだ。そこには既に、民主的で多元的な組織となる、との一つの合意がある。それは、極左組織の加入と、その内部で諸政治綱領グループとしての存在を可能とする組織だ。
 今現在、レスペクトを組織として建設し、その下に選挙運動を始めるべく約一ヶ月の時がある。一月三十一日の最初の執行委員会は、(EU議会選選挙区に基づく)地方大会を呼びかけた。それは、レスペクトを地方の水準において出発させ、EU議会選候補者をそこで選出するためだ。この組織がどれほど得票できるのか、それは誰にも分からない。しかし予感を言えば、ことがうまく進む限り、EU議会には最低一議席を確保する可能性がある。注。筆者はFIイギリス支部の指導的活動家。(「インターナショナル・ビューポイント」三月号)

 
 
 
 
 
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