2004年9月10日        労働者の力             第 173.4号


国際主義労働者全国協議会第16回総会コミュニケ
 



  国際主義労働者全国協議会は、去る八月**〜**日、**県において第一六回総会を開催した。
 総会は、第四インターナショナル第一五回大会での議論の掘り下げ、本号に掲載されている「新しい左派の社会的位置と政治的輪郭」(報告・寺中)および新たな左派形成への具体的な諸問題(報告・川端)を主要議題として討議、検討した。この議題は、昨年春に開催された第一五回世界大会が新しいインターナショナルをめざす闘いを課題として設定したことを受け、また日本において過去数年の総会が一貫して追及してきた新たな左派形成をめざす課題の延長上において、より具体的に踏み込んだ成案を得るために設定されたものである。
 世界的に反新自由主義のグローバリゼーションに抗する闘いが世界社会フォーラムへの結集を強め、また世界的にも新しい「反グローバリゼーション世代」とでも言うべき政治勢力が急速に形成されてきているこの時期、二〇世紀におけるものとは質的に異なる新たな国際的左派運動の形成が期待されている時代である。東アジアにおいてもそうした事情は変わらない。フィリッピンや韓国での新しい国際主義左翼の力強い登場はその明白な証だ。日本における状況は労働運動の低迷という現実はありながらも、前世紀の左翼政党の急速な後退が進行し、新しい時代に向かおうとする世界的すう勢において、日本が例外であり得ないことを示している。
 日本の運動が総体的に立ち遅れ、未だ低迷を脱しえない現状には、明らかに左派運動の再興をめざすべき主体の側の立ち遅れという要因が横たわっている。ワールド・ピース・ナウやアタック・ジャパンのような新しいタイプの運動の成長も始まっているが、同時に新しい左派を形成しようとする諸勢力の協同の努力も求められなければならない。第一六回総会は、こうした努力がより具体的形を持たなければならない時期に来たこと、および、組織的な活動に踏み込むことを確認した。
 さらに、この六月の韓国におけるアジア社会フォーラム開催の報告を受け、東アジアにおける運動の国際的協同を進めると共に、中国における陳独秀復権への動きがささやかではあれ始まっていること、日本陳独秀研究会の活動に協力すること、そして九条改憲阻止に向けて「九条の会」に協力すること、および、この一一月にイラク派兵が予定されている南東北の自衛隊派兵反対の闘いを仙台空港において闘うことも確認された。他の議題に関しては省略。なお、寺中報告については、個人提案として機関紙に発表することが確認された。 
 
9.11から3年、占領軍はイラクから撤兵せよ
           

イラク民衆独自の憲法制定準備が始まった

 九・一一の世界貿易センターとペンタゴン攻撃から三年が経過する。アメリカの報復戦争はアフガンのタリバン政権を追放し、さらにイラク攻撃強行に至った。そのイラクは反米英占領の民衆的反乱の最中にある。侵略開始からの米兵の死者は一〇〇〇人を既に越えた。イラク国内でさまざまな活動を繰り広げてきた多くのNGOグループはこのほどイラクからの撤退を決めている。まさに米英の侵略、傀儡政権樹立のもくろみは徹頭徹尾破綻し、国連を前に出した暫定政府への主権委譲というごまかしも限度に来ている。米英軍、多国籍軍の撤兵なしにイラク民衆の反乱は終わることはないだろう。アメリカ大統領選挙の民主党候補者ケリーは、その公約においてイラクからの早期撤兵を掲げた。イギリスにおいてもブレアの労働党は地方議会選挙で激しく後退した。
 だが、小泉の日本を含む派兵諸国は、スペインの政変に基づく撤兵を除けば、「テロに屈しない」という名分を掲げて、占領政策への協力を継続している。しかし現在のイラクに生じている事態は、占領軍に対する民衆の軍事蜂起であって、けっして「テロ」ではない。そして本面の資料に示されているように、イラク民衆は独立した憲法制定への動きに踏み込んでいるのである。
 
テロにも戦争にも反対―チェチェン問題を考える

 九・一一の同時自爆テロへの報復としてのブッシュのアフガン侵略に反対する日本の運動は、「テロにも戦争にも反対」として始まった。そしてそれは、米英軍のイラク侵略に対する全世界的な反戦闘争の一翼となり、ワールド・ピース・ナウの大きな盛り上がりへとつながった。今回そのことを改めて痛切に感じさせる事件が発生した。北オセチアにおけるチェチェン独立派の学校占拠事件であり、それは破局的な結末をもたらした。いずれの側が先に手を出したかは双方の見解は正反対である。ロシア側が突入したというイングーシ側からの証言とテロ部隊が爆弾操作を誤ったというロシア側の見解がある。
 周知のように、チェチェン民族とロシア、あるいはソ連の歴的関係は根深い。ロシア帝国の侵略に抗した五〇年もの闘い、そしてソ連のスターリンによって強制された中央アジアへの民族移住。チェチェン民族が故郷の地に帰還できたのは最近のことに過ぎない。ソ連崩壊後、相次いだ旧ソ連からの離脱、独立の動きに対応したチェチェンのロシアからの独立要求に対して、当時のエリツィン大統領は拒否した。ロシアからの独立がドミノ的に拡大するのを恐れたことと石油パイプラインがチェチェンを通っていることの二つの理由があったいわれている。現在の問題の直接の要因は独立要求拒否、独立派弾圧というロシア政府の対応にある。現大統領のプーチンは、エリツィンのもとで弾圧を指揮したKGBメンバーであり、この時の強硬な活動によって大統領への道を手に入れたと言われる。
 チェチェン民族の歴史からすれば、ロシアからの独立は根本的要求になる。ロシアはなぜ独立を受け入れようとはしないのだろうか。独立を認めたところで、地理的にロシアとの経済的関係を断ち切れるわけはないのだ。その上で、対等、公正な経済関係を築いていくことが可能なのだ。チェンチェン独立がイングーシや南北オセチアに拡大していったとしても。
 明らかに大ロシア主義というべきものがここにはある。ロシア帝国と旧ソ連が最大に発揮した大ロシア主義、特に後者はロシア革命を推進し、同時にロシア革命が成し遂げようとした諸民族の平等を正面から裏切るものだった。本来グルジア人であるスターリン、アゼルバイジャン人であるオルジョニゼッキ、彼らは大ロシア主義に対抗する立場を捨て、最悪の大ロシア主義へと変身したのだ。チェチェン民族などの中央アジアへの強制移住は、第二次大戦におけるこれら諸民族がドイツ軍に協力することを恐れた結果だった。エリツィンはこうした傾向を引き継ぎ体現したのだ。その衣鉢を受け継いだプーチンが強硬弾圧策を採るのは当然のことだ。
 プーチンは事件後、チェチェン穏健派との和解を求める西側諸国を批判し、すべての独立派を殲滅する考えを明らかにした。さらには海外拠点を直接軍事行動で攻撃するという案も軍部は表明している。だがこうした立場に対する国際的支持は少ない。
 一方のチェチェン過激派の立場はどう見るべきだろうか。テロの拡大化は彼らにとって何をもたらすだろうか。
 テロ拡大はイコール軍事弾圧の拡大である。しかし、問題の根がロシア側の大ロシア主義にあるならば、軍事的対応はそれを解きほぐすことにはつながらない。多民族国家であるロシアにおいて、大ロシア主義に抗し、諸民族の平等の実現さらには民族自決権の承認を獲得していくような闘いこそが、国際的にもはるかに強力な支持を受けるのではないだろうか。
 プーチン政権の強権的手法は、今回の事件の報道をめぐってイズベスチア紙の
編集長を辞任に追い込んだ。情報操作、統制は厳しくなっている。この政権を土台から崩していくことなしにチェチェン民族の将来展望は開けないだろう。軍事テロは逆効果である。われわれはチェチェン民衆の民族自決の要求を防衛し、プーチンの民族浄化政策を厳しく糾弾する。そしてプーチンやシャロンを免罪する「反テロ戦争」の論理を徹底的に拒否する。

全世界民衆の力でブッシュを追い込もう

 イラク民主的国民潮流の背後には、国際反戦行動を組織し、新自由主義のグローバリゼーションと闘う広範な民衆が存在している。これは、国連安保理の舞台において米英と妥協したフランス、ソ連、中国の枠組みを越えて、直接にイラク民衆と結びつく世界的運動である。国連主導、すなわち米英の傀儡政権ではイラク問題は解決しない。イラク民衆自身の憲法制定会議の形成こそが、現在のイラクからの脱却を実現する唯一の方向である。
 アメリカ大統領選挙の行方は分からない。だが、最近のイラク情勢の深刻化は、「主権委譲」の陰に隠れてアメリカ民衆に事態の静穏化を演出し、支持率を回復させてきたブッシュにとって打撃となりつつある。国際的な世論調査によれば、ブッシュを勝たせたいという人々は圧倒的に少数である。
 イラク民衆の自立的な社会と国家再建への闘いと結合した世界的反戦闘争を押し進め、ブッシュを追いつめて行こう。 
 
  
 
 
資料 ATTAC・Jメーリングリストより 

 七月末、リカービさんが来日し、その際、八月末に占領に反対するイラクのあらゆる潮流が集まって憲法制定準備会議を開催すると発表されました。
 その発言通り、現在、ベイルートでその会議が行われています。
 以下はそのプレスリリースです。
 
プレスリリース

イラク民主的国民潮流(Iraqi National Democratic Current)
イラク独立憲法制定評議会準備会合開催
憲法制定評議会を設立するための基礎づくりを開始
二〇〇四年八月二九日レバノン、ベイルート

 この憲法制定議会準備会合は、米国のバクダット占領わずか一〇日後から、私たちがイラク国内外の独立した潮流に呼びかけ準備してきたものである。イラク社会を形成するあらゆる潮流、関係者、民族、信仰、あるいは政党を代表し、国外の勢力から支配されない、自由で独立した憲法制定評議会を開催する権利がイラクの人びとにあることを、私たちは、国際的、地域的、また国内で開催されてきた様々な会合で訴えかけてきました。
 この憲法制定議会において新しい国家政治体制が決定されるでしょう。イラクの人びとは、占領者とその傀儡ではなく、イラクの人びとの意志に基づいた自主的に選択された新しい政治システムと国家を再び建設することを望んでいます。
 二九日からベイルートで開催されている会議は、イラク社会と現実を代表する人たちによるものです。宗教を越えた民主主義者、国家主義者、マルクス主義者、ナセル主義者、イスラム主義者など様々な宗教、アッシリア人やトルクメン人などの民族、部族を代表する人びと、知識人や市民社会運動からの代表たちによって開催されています。
 私たちは、この会議に皆様を招待し見守っていただくことが、占領軍からの妨害やイラク国内の安全上の問題から不可能となってしまったことが大変に残念です。しかしながら、私たちの声がこの様なかたちで皆様に届けられ、すべての人びとと世界の自由と正義のために力強く反映されることを感謝いたします。
 
     

日本陳独秀研究会
元中国トロツキストを招請し公開シンポジウムを開く              
 


 九月七日午後、日本陳独秀研究会(会長・佐々木力東大教授、事務局長・長堀祐造慶応義塾大教授)は、中国の陳独秀研究の論客唐宝林氏、および、かつての中国トロツキストの拠点浙江省温州の陳独秀研究家三氏を招請し、東京大学駒場にて、公開シンポジウムを開催した。参加はおおよそ六〇名。
 講演者と演題は以下の通り。

 唐宝林(中国社会科学院近代史研究所)「陳独秀と日本」
 陳良初(温州陳独秀研究家)「陳独秀初期思想の発展」
 陳鏡林(温州陳独秀研究家)「陳独秀思想の第三の飛躍」
 黄公演(温州陳独秀研究家)「陳独秀の晩年とトロツキー派」
 コメンテーターは京大教授の江田憲治氏が務めた。
 
 シンポジウムは司会を長堀氏が務め、佐々木氏の開催にあたってのあいさつ「陳独秀と近代東アジア政治思想の展開」に始まり、各氏の報告、江田氏のコメント、それに対する各氏の応答の形で、通訳を介しながら進んだ。会場からの質疑も予定されていたが、残念ながら時間切れとなった。
 唐宝林氏の報告は、五度にわたる陳独秀の訪日をたどり、未だ相当部分が解明されていない在日時の陳独秀の行動をさぐるものだった。今後の研究が進み、解明されることを期待するとしつつ、陳独秀の思想形成が近代日本を通じてなされていったことを明らかにした。
 唐宝林氏は、中国トロツキズム運動を研究する中で、中国共産党のトロツキズムに対する過去の規定を改めるように提言するに至った人物である。中国陳独秀研究会を立ち上げ、主催してきたが、上記のような活動を続けたためか、昨年秋に公的な陳独秀研究会は解散を命じられてしまった。地域的、あるいは私的活動は制限されてはいないが、陳独秀研究会として大挙して来日するという夢が果たせなかったことを残念がっていた。
 陳良初氏の報告は唐宝林氏の報告とも重なる部分だったが、初期の改良主義的立場から革命派へと至る経緯をたどり、特に孫文の「同盟会」に加入せず長江派革命家として辛亥革命を闘ったことを強調した。氏は、同盟会に対する陳独秀の態度には、(一)単純な排満主義の民族主義的傾向(二)単純な軍事主義への批判、という一九二三年の陳独秀の著書を引いて説明した。辛亥革命の袁世凱による転覆の後に陳独秀は宣伝活動に道を見いだし、五度目の訪日(一九一四年七月)時に、『甲寅』誌上に独秀というペンネームを使い始めた。本来の名は忘れられていった、と氏は明かした。これは私には初めての知識である。その後帰国した陳独秀は『青年雑誌』書名を改めた『新青年』を上海にてほとんど一人で発行する。貧窮を極めたが、北京大学文学部長に招かれ、そこで五・四運動を指導し、逮捕、追放を経て一〇月革命の影響の下に中国共産党創設へと動く。まさに理論と行動がまっすぐに重なっていた、と氏は述べた。
 陳鏡林氏の「陳独秀思想の第三の飛躍」は、陳独秀のトロツキズムへの転換を取り上げたものだ。それはすなわち、中国共産党がコミンテルンによって押しつけられた「国共合作」の矛盾が後の二七年大革命の敗北を導き出したことの総括をトロツキーの主張によって与えられる過程でもあった、と氏は要約した。一九二九年一〇月の『全党同志に告げる書』において陳独秀はスターリン主義と全面的に決裂する。一二月一五日には『我々の政治意見書』を八一名の連署で発表する。今日スターリン主義の破産と陳独秀の思想の正しさは明白だとまとめた。
 黄公演氏は、「陳独秀の晩年とトロツキー派」を取り上げた。結論的にいえば、陳独秀は死ぬまでトロツキストであったのか、否かという問題に迫ったのだ。氏は、それを探るために陳独秀の晩年の著作を基礎にする方法により、さまざま誤読される著作をも貫いて、陳独秀はまさにプロレタリア民主主義の最大限の貫徹を主張し続けた、と結論づけた。同時に氏はプロレタリア独裁に関する陳独秀の観点を「民主主義なき独裁」に反対しているのである、と陳独秀の観点を擁護した。
 以上の四氏の報告の後に、江田氏がコメンテーターとして幾つかの論点を提起した。
 一つは、陳独秀の社会主義思想が日本時代の経験から来ているという唐宝林氏の指摘に対しての疑問。社会主義思想は上海の反日労働運動に触発されたのではないか、と。二つ目は、一九二三年の陳独秀の著書に依拠して「同盟会に入らなかった」理由を説明するのは少々無理があるのではないか。三つ目は、「第三の飛躍」に関して、連署した八一名というのは多いのか、少ないのか。四つ目は最晩年の陳独秀の未公表の手紙が発見されたが、その中で陳独秀は「レーニンとトロツキー批判を執筆するつもりだ」と印している。結局それは執筆されなかったが、トロツキー批判を企図していてもトロツキストなのか。
 これらに対して四者がそれぞれ答えた。
 第一の点は唐宝林氏は直接には答えなかった。第二に関して、陳良初氏の説明に加えて、孫文の同盟会が在外華僑の資金に依存したことや当時の中国マフィアと結合していたことも批判していたし、また人脈関係として長江流域の革命家との結合が深かったことも上げられた。第三の点に対して、陳鏡林氏は、ソ連におけるトロツキー派の声明の連署に比べると、少ないとはいえない述べた。この連署は鄭超麟の著書において「若干の水増し」と記されているが、実際には三〇数名だったらしいとの説明もなされた。第三の点が最大の論点になった。唐宝林氏と他の三氏の意見が割れた。結論がまとまったということではなかったが、陳独秀は独立した人格という傾向が強い人であり、トロツキーやレーニンに全面的に従うという人物ではない。そういう人物であるから、陳独秀がレーニンやトロツキーに批判すべき点を見いだしたことは大いにあり得ることだという佐々木力氏の発言がまとめのようになった。
 このシンポジウムが単に中国トロツキストの復権ということに留まらず、中国におけるプロレタリア民主主義の復活、すなわち多党制へと結びつくことを、私は願わずにはいられなかった。(九月八日 川端)
                             注 原文の一部を省略しています。 


 

右島一郎さんを偲ぶ会、10月10日
 
 
 先月、明石沢(南アルプス・赤石岳東面の沢)を登行中だった右島君が滑落してから一月になる。来る一〇月一〇日、東京の日本教育会館会議室において、右島君を偲ぶ集いが行われることになった。呼びかけは故人につながりが多かった関係者が集まった実行委員会。
 右島君は『かけはし』編集長として長らく活動し、その執筆量はほとんど驚異的なものだった。丹沢勘七を始めペンネームも多数を数えたが、一番代表となるのは高島義一。『世界革命』時代から数えれば四〇年近くを機関紙編集で過ごしたことになる。
 ペンネームの多くが山関係からとられているように、彼は機関紙編集に携わるのとほぼ同時期に登山活動を始めた。ちなみに丹沢勘七とは、丹沢山の勘七沢に由来する。機関紙編集のストレス解消のためだったかも知れない。当初はいろいろとつてを頼って同行者を捜し出したりもしていたが、勤務と活動の関係からか、後には単独行となった。稜線歩きから始まり、丹沢の沢登り、谷川岳の岩登り、そして冬季登山と対象領域を拡大していった。そのほとんどが独学であり、また次第に難易度も増していった。限界への挑戦とまではいわないが、いわゆる中高年登山としては最先端を行っているような感じである。膨大な著作とも共通する、突き進むエネルギーが籠もっていた。
 今、何といっていいか分からないが、一時は『世界革命』編集部を共にした私としては、ただ彼の冥福を祈るしかない。多くの皆さんに、偲ぶ会への参加をお願いします。(石森 健)

     記
一〇月一〇日(日)午後一時
日本教育会館七階会議室
右島一郎さんを偲ぶ会実行委員会
 
 
第十六回総会報告文書

新しい左派の社会的位置と政治的輪郭
―運動の統一と組織統合のために―


           
寺中徹

 昨年、及び今年の衆参両選挙結果を受け、民衆的要求を反映した新たな政治勢力に関する議論が、より広がりを持ち始める気配にある。至近の「アクト」紙上では、金子勝氏がリベラル結集を主張している。一方マスメディアでは、日本を席巻するアメリカモデルに対抗するヨーロッパモデルを推奨する議論もいくつか出ている。これらの議論の裏には無言の内に、民主党に対する疑念がある。
 民主党に民衆的基盤が薄いことは歴然であり、かつそのめざすものの姿も依然定かではない。依然として有権者の半数近くが投票しない、という歴然とした事実がある。民主党の伸張は結局のところ、日本を覆う閉塞感の裏返しであり、いわば、「小泉フィーバー」と類似のもの以上ではないのだ。政治の正統性は一層大きく揺らいでいる。そして、未来を準備する政治の姿は、未だ姿を見せていない。希望は民衆の中に全く生まれていない。
 我々は、新しい左派を真剣に構想すべき地点に立っていることを、昨年確認した。その客観的条件における国内的、国際的必然性は、日を追って明らかになりつつある。我々は、新しい左派、新しい勢力を巡る、より広範な人々との討論を積極的に推進しなければならない。その中で浮上する過渡的な政治共同にも我々は、建設的に取り組むだろう。
 その上に立って我々は、さらに先に進まなければならない。今総会の任務は、新しい左派を現実に手繰り寄せるための実践的方策に踏み込むことである。

もう一つの世界―迫られる社会の再編成と政治の空洞

 政治と民衆の遊離は進む一方だ。それは、自民党の民衆的基盤の衰弱に端的に象徴される。政治と民衆の政治的つながりという点で、それが例え利権に大きく依存していたとはいえそれでも、自民党はある意味で最も緊密な関係を作り上げていた、と言い得るからだ。その限りで自民党は、例え彼らなりにだとしても、つまり家父長的なボス支配の形を通して、全体への伝統的統治責任を誇示できた。しかし今自民党は、彼らを曲がりなりにも「責任政党」たらしめてきた足場を日々細らせているのだ。それは党の徒党化を客観的に準備する。この「変質」力学をまさに公明党が象徴する。自己の支持者(信者)以外には本質的に関心を持たないという意味で最も徒党的である公明党は、その体質を自民党にも伝染させる一方で、その政策的立脚点を変幻自在に変えつつ、権力にしがみつこうとしている。政治の無責任性はこうしてその度を増していく。政治は、特定層の利益の強権的実現という姿をより強めるだろう。
 政策展開に向けて民衆を糾合し、その政策展開を通して民衆統合をさらに強める、このような政治支配を安定的に確保する一つのサイクルは、作動しなくなった。「改革」を標榜し熱に浮かされたような支持を糾合した小泉政治は、政策展開を通して民衆の統合力を解体した。
 結局このような政治的上部構造の姿の根底にあるものは、旧来的な社会的下部構造の解体の進行である。それ故社共を含め、この旧来的構造に最も強く結びついてきた政治勢力が衰弱を露にしたのだ。そうであれば、政治と民衆の新たな生きた結び付きは、即ち政治の正統性の回復は、社会的下部構造の再構築、社会の新たな利害均衡枠組の創出と一体的にしか生まれない。以下で見るように日本社会は今確かに、社会の大規模な再構築という極めて困難な課題に直面している。
 ところが元々独自の民衆的基盤の最も弱い「新勢力」民主党は、この難題に立ち向かうための支えを、少なくとも中期的には持つことができない。彼らが頼りとするものは、結局権力的手段なのであり、それは純粋小選挙区制への彼らの執着に端的に示されている。しかしこの事実は、より深い民主主義という時代の要請への彼らの適性を最初から限界付けている。ましてこの党が本質的に新自由主義の党であるとすれば、時代の要請との不適合は尚のことと言ってよい。
 日本の支配階級は、民衆への依拠を欠いた、同時に民衆からの統制も弱い、その意味で正統制の薄い本質的に弱い政治機能の下で、先の難題と向き合わざるを得ない。その上新自由主義的グローバリゼーションという彼らの路線は、この難題に回答を持たない。政治の袋小路と浮遊は引き続き、そこでは必然的に徒党化への圧力は一層強まる。同時に強権化への衝動も絶えず生まれるだろう。この二つは多くの場合セットですらある。本質的な徒党性を隠す擬態として、ナショナリズムの利用が意識的に試みられるだろう。それは既にマスメディアに姿を現している。
 不安定で社会的緊張を孕んだ、そして情動政治の危険を併せ持つ情勢が続くだろう。支配階級はそれ故にこそ、上からの強権的民衆統合の制度的装置を準備せざるを得ない。改憲や教育基本法改悪その他は、国内的にはそのようなものとして政治日程に載せられている。
 しかし社会的解体の進行という現実は、このような装置によって変わるわけではない。そうであれば、制度的秩序改変のもくろみは、社会の解体に無力な政治に対するより全般的な、即ち政治的な反抗の集約点となる可能性すら孕むものとなる。逆に言えば、社会の解体との闘争の集約が意識的に追及されるとき、憲法秩序を巡る闘争は、支配階級と徒党的勢力を追い詰めるより大きな可能性を持つだろう。
 新しい左派を登場させる闘いは、上述した情勢と闘争の性格に対応しつつ、急がれると共に柔軟かつ多面的過程を必要とする。以下では社会的解体の問題を中心に新しい左派を考えてみたい。

社会の再組織化を巡る政治的分岐―新しい左派の位置

社会的配分システムの組換え

日本の労働者民衆を締め付ける生活不安は、今著しい程度に達した。これらの不安が一時的なものでないことを、全ての者が直感している。それは、労働者民衆の多くがいわば包摂されてきた、ある種の「共同体」が解体されようとしているからだ。企業社会はその代表といってよい。
 企業社会は確かに、他者を排除する強い排他性の上で、その成員全体の生活を曲がりなりにも安定的に確保する機能を果たしてきた。それは生産配分の機構であると共に、その成員の多くにとっては、人間にとって不可欠な人間的つながり合いの大部分をも供給するものだった。それ故この「共同体」の破壊は、生活の物質的基盤の破壊であると同時に、精神的基盤の破壊にもなる。この後者の側面は、‘98年以降急増している自殺という形に悲劇的に反映されている。
 労働者民衆が今切実に求めている生活の物心共の安定は、それ故旧来的「共同体」に代わる新たな形の「社会的なもの」の形成によってしか果たされない。
 しかし現在の政治の回答は、結局のところ「日本経済の成長力回復」、これ一つだけだ。それ以外の、いわば社会政策的手立ては皆無に等しく、むしろそれは劣悪化されている。労基法、雇用保健、健康保健、そして年金と、その劣悪化はとどまらない。そしてこれらの改悪も、とどのつまりは「成長力回復」を大義としている。
 しかし今、「成長力回復」には例えそれが実現されたとしても、実は何の意味もない。成長の成果を例え多寡の差があるとしても全体化する仕組みを、戦後社会は埋め込んでいた。大企業労組と公務員労組を中核とする春闘を起点に、社会各層に配分が伝播するいくつかの仕掛けだ。その基底には、前述した保護的で家父長的な「共同体」が位置していた。長く続いたこの仕組みによって、成長と生活向上をイコールで結ぶ習慣が民衆の意識に刻み込まれたと思われる。しかし新自由主義は、この成果配分の、社会的な、即ち非市場的なある種自動化された伝播ベルトを、徹底的に破壊しようとする。そして現実にその政策展開は、破壊を相当程度進めた。それ故成長は、例えあったにしてももはや全社会的配分と全く結びつかない。当然のごとくに、「景気回復は生活実感を伴っていない」ことになる。しかも代わりとなる「市場による配分」は、事実が示すように多数を犠牲にする。その上、一定の配分を受けた者に対しても、市場は何らの安定も保証しない。勝ち続けることに保証はないからだ。その保証は、まさに「投機」の法則どおり巨額の貨幣所有者にのみ与えられる。
 そして成長は、精神的不安というもう一つの切実な問題には、何の解答でもない。
 我々は、新自由主義的グローバリゼーションは結局のところ安定した成長すらも実現できない、と主張してきた。本質的には、そこに一体的に内包された社会の解体が、生産の不安定化のみならず,終局的には生産性の低下につながる、と考えるからだ。つまり、エコノミストの語る「地政学的リスク」は、この政策展開が不可避的に抱え込まざるを得ない本質的なものなのだ。それは、「二つのアメリカ」としていずれアメリカ本国においても発現するはずだ。
 成長の直接的阻害は、多国籍大資本の国内投資削減から生まれる。トヨタにしろ、NTTにしろ、貯め込んだ巨額の利潤はその多くが、金融を含んで海外に投資される。こうして、昨年後半日本の有形固定資産蓄積は純額で減少した、と報じられた。
 民衆の物心共の不安はこうして放置されている。社会的領域での回答が、改めて切実にあらゆる政治勢力に課される。日本の政治はこのような局面を前にしている。
 課題の中心は、配分の安定的な、つまり再生産的循環を内包した仕組みであり、それは社会的なもの以外にありえない。市場は、参加者個々の恒常的不安定をこそ原理とするのだ。一方、社会的に構築される仕組みは人間的連帯を原理的基盤にするのであり、その限りで精神的不安の問題にも適合的といってよい。配分を巡る個人原理と社会原理の分岐は、この局面の最初の政治分岐となる。もちろんこの二つの原理は、実践の場では100パーセント排他的なわけではない。
 しかしこのような課題は、既存の政治勢力にとって文字通り難題だ。配分問題は厳しい利害対立を内包するのであり、しかも成長の乏しさを条件とする場合その対立はさらに激化する。ここには闘争が、より端的に言えば階級闘争がある。実際、ヨーロッパの社民勢力は、そして中道右派勢力もそれ故にある種立ち往生しているのだ。技術的にこの問題に対応しようとする思考は、つまり「社会工学」的な最適解の追求とそれによる行政的調停という思考は、殆ど現実的でない。ここに第二の分岐が浮上する。
 新しい左派は、客観的にはこのような分岐と状況の中に位置を与えられる。
二つの力学―権益を巡る暗闘と社会的分化

 激烈な利害対立は、民衆の新しい姿による社会集団化、社会的分化とその再編成に向けて圧力を加える。それは新たな人のつながりでもあり、精神的不安という人々が直面するもう一つの問題もそれを後押しするだろう。
 それらが社会的諸闘争という形で現れるならば、政治的分岐が民衆のエネルギーと結び付いて結晶化する可能性が生まれる。それは世界の多くの地域の闘いの現にある姿だ。それは政治発展のある種標準モデルと言ってよい。確かにこの展開形態においても、例えばヨーロッパに見るように、運動と政治・制度の壁は厚い。それでも日本の「新しい左派」にとって、この展開が最も望ましいことに変わりない。
 しかし日本においてこの形が、短期に浮上するかどうかは必ずしも定かでない。先に見た日本的「共同体」は、完全に解体されたわけではないし、また解体されない。支配階級にとってこの非階級的な共同体的あり方は、支配を安定的に保持する上で手放したくない装置だからだ。こうして、例えばトヨタはトヨタ企業社会を断固として防衛している。そして労働者の一部も、生活の不安が増すほどにこの保護の下に逃げ込もうとするだろう。
 日本的「共同体」は、そのサイズを変え、内部を変質させつつ、おそらく「共同体」毎に配分争奪戦に参入する。「構造改革、既得権益打破」の掛け声は、権益の再配分と二重写しなのだ。それは、国鉄解体、電電解体、そして道路公団、郵政の両民営化を巡って繰り返された姿だ。そして小泉は、「自民党をツブ」したのではなく、経世会を弱体化した。民衆的結集の弱さを与件として、日本においては先ず伝統的な支配的単位間の暗闘が進んでいる。
 このとき政治的表現はその分曖昧なものとなるだろう。求められる課題に正面から向き合えない弱まった政治、それ故の更なる民衆的不信、そして政治的統合力の衰弱という悪循環がここには隠されている。
 その中で、支配階級が頼りとする「共同体」も、内部的生命力の衰弱を避けることはできない。内部への還元が確保できないからだ。とりわけ企業社会にとって問題は、世界市場での生き残りだ。そこで戦うための投資、言ってみれば「戦費」が限りなく要求される。こうして最優良企業であるトヨタもNTTも、内部還元どころかそれを系統的に縮小することになる。企業社会はサイズをますます縮小し、内部関係も「協働」からより激烈な競争へと変わる。その上に、民衆の無け無しの生活防衛用零細預金―郵便貯金―までもが、多国籍大資本の「戦費」に変えられようとしている。潜在的には、そして客観的には、多国籍大資本の「戦費」飢餓感はそれ程に強い。外国投資を底無しに呑み込むアメリカ資本主義がそれを端的に象徴している。それ故先に見た「標準モデル」への流れは、底流で確実に強さを増す。それを表に引き出す闘いが問われる。

新しい左派―闘争の中での政治的輪郭

 新しい左派をめざす闘いは、このような展開を視野に入れつつ進められなければならない。おそらく一直線的な闘いではないだろう。政治的上部構造とそこに結びついた支配的単位集団と明確に一線を画した戦線に足を置くことが先ず求められる。しかし時によっては、支配集団の暗闘をも利用する戦術展開が必要となるだろう。
 それだけに我々は、新しい左派への発展を助けるような政治的分岐、論点を積極的に準備する必要がある。支配的秩序と鋭く対立することになる問題群だ。但しその際我々は、このような問題群を原理からではなく、現実の闘争の必要に即して表現するべく意識的に努力する必要がある。歴史的創造としての新しい左派のためにはそれが必要だ、と私は考える。
 社会領域に関しては、例えば以下のような問題が焦点になるだろう。
 昨年我々は、核心において国際展望が問題になる、と主張した。それは本稿が主要に対象とする社会的領域においても第一級の重みを持つ。どのよう社会的配分システムも、現代の条件にあっては多国籍大資本の行動の自由とは両立しないからだ。先に触れたようにこれらの大資本は基本的に国内投資を削減し、社会のあらゆる蓄積資金に手を伸ばす。それだけではなく厚かましくも、社会的責任の免責を大声で要求し、それをかなりの程度実現しようとしている。法人税は大幅に減税された。社会保険拠出にも抵抗を強めている。年金への消費税充当は、明らかにそのために策されている。このような行動を放置したままの社会的配分は、例えある種の普遍性と平等性を織り込んだとしても、事実上は限りなく「貧困の平等」に近づくだろう。そうであればそれは結局現実性を持たない。真にその名に値する社会的配分を実現するためには、多国籍大資本の、国際的に共同した統制は回避できない。社会政策も現代では、一国的には完結できない。
 社会政策がその背後に民衆の新たな社会集団編成を不可避的に伴うとするならば、それは新たな、形式的でない実効的な民主主義を要求する。一層度を増す差別的で階層的な秩序との対立においては、委任ではなく各々が自律的に自身を組織し、自己決定する権利が決定的に重要となる。それは特に、伝統的「共同体」とのせめぎあいにおいては、民衆的正統性の重要な基準となる。さらに、権力奪取が全てであるその姿を通して、結局は有能なテクノラートによる「良き管理」を本質とする民主党とは、この問題でも明確に衝突するだろう。
 新自由主義が多くの苦しみを人々に与えているとき、それ故に社会的手立てが求められるとするならば、その時は私有と競争が今一度疑問に付されるときである。
 私有は何よりも、資本の使用に所有者以外の何者の介入も排除する。この私有の法的絶対化は、特に日本の場合際立っている。身近な例をあげれば、多くのマンション乱開発はそれによってほぼ無条件に守られている。新自由主義の政策展開、即ち規制解体は、この私有の法的絶対性を基礎に、まさに資本の自由を解き放った。私有は今さまざまな場面で、具体的な壁となって人々に立ちはだかっている。民衆的管理という理念の下に民主主義と結合し、資本使用を民衆的に規制する要求を通して、私有を具体的に突き崩す運動が要求される。それは現実の課題となりつつある。
 労働者の団結にはその最初の時期から、競争の拒絶が連綿と刻まれてきた。現在にあっても、多くの人々は別に競争を好んでいるわけではない。競争の強制が多くの人を追い詰めている現在、「競争が進歩を作り出す」との繰り返される決り文句をそろそろ屑篭に捨てるときが来ている。持続可能性があらゆる面で深刻な危機にある今、「少しでも早い進歩」という脅迫は意味を失っている、あるいは少なくとも相対化される。そうであれば尚のこと、競争の強調はそれこそ一つの「イデオロギー」に過ぎなくなる。
 新しい左派は、私有と競争に思想的にも運動の側面でも挑戦すべきだ。人々の内部で具体的に成長する私有の制限、競争の制限に対する要求に、新しい左派は足場を提供する役割を果たすべきである。おそらく一貫してそれを行う者は、新しい左派以外にはいない

民衆による新たな共同性の創出と労働者

 伝統的共同体の解体は労働者民衆に自立を迫る。新たな社会的結集はいずれにしろ模索される。その一部は既にNGO、NPOなどとも重なりつつ、新しい形の民衆運動として姿を現している。
 社会横断的普遍性と民主主義を備え、伝統的共同体と対抗的にもう一つの社会的共同性を本来生み出す可能性を持っていた運動は、戦後労働組合運動と革新諸運動だった。しかし結果から見ればこれらの運動は、伝統的共同体に対置するものを社会に埋め込むことに結局失敗した。これらの運動は例えばヨーロッパと対比したとき、労働者を普遍的に支える制度や法、あるいは法的拘束を持つ規範をあまりに貧弱にしか実現しなかった。そして地域にも、労働者共同体的な場は定着しなかった。
 その意味で多くの労働者には、企業社会以外の対抗的な「もう一つの世界」は用意されなかった。おそらくこのようなあり方と、昨年指摘した「政治展望なき運動」の性格は無縁でない。その意味でとりわけ労働者に関わる「もう一つの世界」の不在には、戦後労働者政党の責任が少なからずある。それ故にこそ社会的共同性が新しい質で要請される今、新しい左派には挑戦する責任がある。
 どのような基盤の上に新たな社会的共同性を創出するのか、が一つの分岐になり得る。端的に言えば、市民と労働者という二つの原理が提起される。この二つの原理は必ずしも対抗原理ではない。実体としても重なり合うのであり、相互補完的と言った方が適切かもしれない。しかし各々の取り組み方には独自の特徴があることも明らかだ。この相違を原理主義化させず、現実の必要に見合った取り組みを各々が追及してみるべきだろう。最終的には課題の性格が適切な組み合わせを明らかにするだろう。
 我々は、民主主義、社会的・国際的連帯、持続可能な生産と配分を要請される今後の社会において、労働者のもつ特性が極めて重要であることを確信している。本稿においては、この点について再論はしない(一昨年報告、第七章参照)。
 ただ本稿では、現在の日本において他の社会諸階級と比較したとき、最大多数を占める労働者が最も不安定な状況に置かれていることを強調したい。企業社会が実質的に解体されつつある一方で、強化される一方の労働が労働者をますます強く長く職場に縛り付けている。労働者はある意味でかつて以上に社会的に隔離されているのだ。職場においても社会においても、労働者個々の孤立は深まっている。生計の不安がその上に覆い被さっている。
 新たな堅固な拠り所を求める労働者の欲求は潜在的に確実に高まるだろう。新しい左派は、労働者にとって自然で適合的な結集の場を意識的に準備しなくてはならないのだ。この課題は、労働者の生活防衛との一体性を欠いては非現実的だ。資本との、使用者団体との闘争体制と交渉機能は不可欠であり、この結集は必然的に労働者に固有の独自性を帯びることになるだろう。この結集が社会的編成の刷新に大きく貢献することを、私は確信している。

政治の責任―新たな左派と国際主義

 新しい左派は何よりも、世界を再組織する民衆の国際的協働の一翼として構想されなければならない。新自由主義のグローバリゼーションが世界を、いわば普遍的に破壊しようとしている基本枠組の中で、それ以外のあり方は結局のところ非現実的なのだ。
 特に現局面において、暴力、戦争が人々への直接的危害となっている。しかし、この暴力、戦争こそ新自由主義的グローバリゼーションがその内部に不可避的に組み込んだもう一つの顔なのだ。現下の米大統領選において、民主、共和両党にこの点での違いは全くない。そして、アメリカの覇権を巡る矛盾を孕みながらも、民衆への強権手段と軍事の再構築は、ヨーロッパにおいても日本においても支配階級にとって等しく追求すべきものとなっている。九条を焦点とした改憲策動は、明確にここに位置をもっている。まさにそれ故にこそ日本経団連は、改憲主導の意思を公然化した。
 同時にそれ故にこそ、国家による暴力と戦争は全世界で人々の抵抗の焦点になり、中期的にそうありつづける。そしてその抵抗は、明確に国際的連帯と連携を意識したものとならざるを得ない。支配階級を全世界の民衆の国際的共同で封じ込めようとする闘いを、民衆は既に始めている。それは何よりも、この四半世紀にアメリカ国家という具体的姿をとって支配階級が世界に強制した枠組が、否応なく突きつける闘いなのだ。世界を再組織するという課題は、民衆にとって現実の危害から逃れ得る唯一の道であり、それはもはや抽象ではない。
 日本においてもまた、国際的枠組をもはや日常としてリアルに実感し、認識の中に組み込みつつある民衆から見て、国際的広がりを欠いた政治構想はやはり現実的とはみなされないだろう。憲法を巡る論争や、イラク派兵を巡る論争の中に、それは既に明白に反映されている。
 しかしそうであれば尚のこと新しい左派は、民衆の高い能動性、社会を自ら主体的につかみ取ろうとする活力なしには、とうてい民衆に根ざしたものとはならない。その点で日本は確かに特異な状況にある。日本においては明らかに、民衆的活力の陥没が国際的に見て著しい。それ故日本民衆多数に映る国際的広がりとは、アメリカ一極支配の世界なのであり、それが変えられ得る事を人々は未だ信じていない。
 民衆的活力再生という、新たな世界に向かうための基盤的課題が、我々の眼前にある。この課題に取り組む中軸には、諸運動の統一・合流の追求が据えられるべきだ、と私は考える。それは運動の発展と成功にとって必須というだけではない。民衆の団結、共同の枠組の広がりは、それ自体で一つの希望を作り出す。そして希望こそが活力の源なのだ。そして活力に溢れた協働の蓄積と豊かな発展があってこそ、民衆的経験の融合という確かな基礎の上で、新しい社会の創出が可能となる。それ故我々は今後とも、個々の運動に精力的に取り組むと同時に、運動の統一と協働のために誠実に努力しなければならない。特に先に強調した観点から、労働者運動の新しい質を備えた再建を粘り強く働きかける必要がある。
 同時に我々は、このような運動の統一の追求が、それ自体で一つの政治的働きかけであることを確認すべきだ。統一した運動の発展のためには、政治の豊かさもまた必要なのだ。そのように考えたとき「新しい左派」の追及は、そこに込められた政治の貧しさの克服を含め、民衆的活力再生にとって不可欠な要素となる。
 昨年我々は新しい左派を呼びかけるにあたって、日本における政治と運動の相互関係についての総括に立って、民衆的活力の再生に政治の貧しさの克服から取り組むことを提起した。そして政治的機能はこれまで確かに不足していたのであり、その豊富化は先ず何よりも政治組織を名乗る者達の責任である。この観点の延長において私は今、できる限り積極的に、政治的機能の拡張を具体化する必要がある、と考える。そしてそれは今、第四インターナショナル支持組織を当然含みながら、いくつかの政治組織の統合として提起される。
 現在の支配的秩序に満足せず新たな民主的で連帯的な社会をめざしている運動勢力内部に、政治的に幅があることは歴然たる事実だ。少なくとも、いわゆるリベラル、社会民主主義、緑、そして我々の社会主義派がある。さらにまた、当面あるいは根本的に政治を回避し、個々の運動の具体性を追及する主張も力強い。おそらくこの最後の傾向の人々が現在最も多いと思われる。そして総体は現在多くの場で渾然一体となって協働している。運動の統一のより大きな発展をめざすに当たって、この協働は重要な基礎であり、そこにある政治的な協力関係は極めて貴重である。何よりもそこには長く積み重ねられてきた努力がある。この協力関係を維持しさらに拡大するために我々は、一層の努力を払わなければならない。長期的には、この協力関係も新しい左派の一つの母体であろう。
 しかし同時に先に見た政治的幅を前提としたとき、この枠組を現時点で新しい左派の直接的出発点と想定することは現実的でない。新しい左派のためには、いくつかの政治展望が運動の現実の中で突き合わされ、検証されなければならないのだ。このような過程を建設的にそして大衆的に、活発に推進するためにこそ一定の組織統合が必要となる。
 この統合においては、政治展望を国際的協働の枠組に意識的に基礎付ける努力が共有されなければならない。それが新しい左派に不可欠となる政治性格であることを改めて確認したい。そして運動の国際的切断が深い日本においては、この国際主義こそ政治が特に引き受けるべき責任でもある。従って我々がめざす組織統合は、新しいインターナショナルを明確に視野に置く政治組織の統合として提起される。
 もちろんいくつかの障害は予想される。これまで長い間別個に活動してきたことには、相応の根拠があるからだ。個々の運動の場では取り組みの相違も現実にある。こうして例えば政治文化をも含む相互のの違いは、適切で思慮ある対応を欠くならば、容易に分散と結論的な再分裂に至るかもしれない。統合には、統合の具体的姿を含め、組織活動に一つの「開発」が確かに必要になるだろう。
 しかしそれらの「障害」は、「新しい左派」という展望、そこに込められた時代への責任に立つとき、いずれは必ず克服されなければならないのである。私はその「克服」自体が、獲得されるべき政治の豊かさの一つであることを改めて強調したい。
 我々は、今後に想定される一直線的でない、複線的な闘いに、ここで結論的に提起した組織統合を真に役立つものとしなければならない。(〇四・八・二十一)
 
 
ドイツ
政治的大流動の予兆
―社会民主党(SPD)と労働組合の断裂―

 

               ティース・グライス


―ヨーロッパで経済的に最も重要な国で、労働組合の最後の大闘争後二〇年を経て、ドイツ国境を越える広がりを持つ重要性を伴いつつ、一つの闘争がはじまった(選挙におけるSPDの連続的大敗北が示すように、SPDと労働者民衆の歴史的な固い結びつきは今大きく揺らいでいる。八月二日からライプチヒで始まった、「アジェンダ二〇一〇」反対の月曜デモは回を追う度に拡大し、全国の諸都市へと広がっている。ドイツの労働者民衆は、かなりの規模でSPDから独立した自律的な活動には入り始めたようだ―訳者)―

週三五時間時短闘争

 ドイツ労連(DGB)傘下の労組多数は一九八四年、週三五時間労働を要求する闘争に立ちあがった。ロックアウトを伴う六週間のストライキが闘われた。そして労組間に公然たる分極化が現れた。当時五人のギャングと呼ばれた労組少数派(主に化学労組と鉱山労組)は労組の統一に反抗し、労働時間短縮を含む妥協を求め、キリスト教民主同盟(CDU)・自由党連立政府と交渉した。
IG―メタル(IGM―金属産業労組)、印刷諸労組、そしていくつもの同調組合は―幾分保守的な指導部の示した躊躇はあったとしても―、一日労働時間、週労働時間短縮闘争のために、新たな社会的連携を作り上げた。緑の党の総選挙における成功(この党は連邦議会に初めて議席を得ることに成功した)に鼓舞された反核運動、そして巨大な結集をみたミサイル配備反対闘争(もっとも当時それは既に下降に入っていたけれども)が、実り多い可能性に道を開いた。週三五時間時短闘争は、社会の中の上述した社会運動的な深い根を欠いていたとしたら、昨年の東部における週三五時間時短闘争の敗北と同様、悲しむべきものに終わっていただろう。
 闘争に入った労働者や特に政治的左翼にとっては、一九八五年の妥協(それは、三五時間労働を一〇年をかけて段階的に導入するとしていた)は、大きな失望に終わった。上記のような堅固で長期のストライキが生み出した、有望な情勢を前にしていたからだ。その批判は正当だった。しかし同時に語られるべきこともあった。即ち、このストライキが、ヨーロッパ中殆ど至るところに影響する形で、階級間力関係を変えたということだ。ともかくも労働組合は、CDU・自由党連立政権(一九八二年以降の)が持ち込んだ、「道義的―精神的変革」という中心的政治構想の矛先を鈍らせた。潜在的には資本主義社会の枠組との対立に至る三五時間労働という考え方を手段に、大量失業反対の極めて強力な闘争が、ヨーロッパの日程に載せられた。

労働者運動の短い春

 しかしこの有望な春の後に暑い夏と秋は続かなかった。労組指導部は次第に、中でもドイツ民主共和国(東ドイツ―GDR)の終焉と一九九〇年のドイツ統一の後では、「永遠の」首相コールの保守政府に従うようになった。協約が想定していた時間短縮の緩慢な速度は、合理化やより大きな柔軟性という諸手段に加えて、労働強化によって取り返された。これらを比較したとき職の再配分は殆どなかった。週三五時間労働の導入以降一四万人内外分の職しか生まれなかった、と労組すらも語った。こうしておおよそ一〇%という長期大量失業は、西ドイツ社会の底深い一つの現実となり、そしてドイツ統一後状況はさらに悪化した。
 旧東独部では、併合後の意図的な工業破壊政策が「経済特区」に結実した。ここでの真の失業率は、活動人口の四分の一から三分の一の間にあった。そして若者は国を抜け出し西に向かい、他のどこよりも、労働時間はより長く、賃金はより低く、さらに資本家の傲慢はより大きかった。一九九〇年夏の東西ドイツマルク間等価交換比率の導入は、東では経済崩壊を、西では消費財産業のブームを生み出した。
 労組指導部の消極性と終わりなき大量失業が賃金を圧迫した。労働力価格は、二〇年以上事実上停滞していた。その一方、公共サービスや最近では郵便やエネルギーのような私有化されたサービスの価格は毎年上昇した(電話費用を唯一の例外として)。保健サ―ビスの「改革」は、可処分所得をさらに減らした。その上に賃金労働者は一四年間も、東部における資本主義再構築に資金供給するために、「連帯補填」という名の上乗せ税を支払った。

脱走する組合員大衆

 これら全てが労組運動の物質的基盤を一貫して掘り崩した。IGMが二年前に行ったアンケート調査は、極めて明瞭な光景を明らかにした。組合員の圧倒的多数、そして未組織あるいは元組合員の多くは指導部に、賃金上昇をもたらす政策の推進を先ず何よりも期待していた。しかし労働組合のこの基本的な任務、つまりは労働力の集団的売買契約は、満たされないことがより一層多くなっていた。
 近年では全ての賃金交渉が同じ儀式を繰り返した。即ち、まずい条件を受け入れるのではと疑う心配は全くない、との声明が数週間いくつも続いた後に、長期協約が来るのだ。そしてその結果は、インフレ率が例え低いままだとしても、実質賃金の低下と養成工の条件悪化だった。これは青年の中での、さらに職場における組合下部組織内での怒りを引き起こした。何故ならば、何百という職場会議や組合員大衆集会の決定を指導部が無視したからだ。これらの場で組合員が決まって支持した要求は、全員一律額の賃上げ(賃上げ率ではなく)と短期の協約期間だったのだ。
 警官組合、また列車機関士、航空機操縦士あるいはその他の特別職被雇用者の専門職組織を例外として、ドイツ労組の組合員数が底無しに減少してきた理由をこれが説明する。DGBの諸労組は果たして今も賃上げの役に立つ道具なのかどうか、この疑問を殆どの賃金労働者は正当だと思うに至った。そして若者からは、より良い未来のために戦う意思そのものが消えてしまった。一九九一年以来DGB諸労組は、その組合員数の三分の一を失った。GDR旧労組との統一後の目覚しい増加は、一〇年で〇にまで減少した。特に失業者は一団となって組合を離れた。労組内部には今、失業者のための下部組織は殆ど残っていない。誰かが職を失った場合同時に労組をも脱退することは、今では普通のことになっている。
 この二〇年間諸労組指導部の対応は組織の「近代化」だった。いくつかの労組が共に、より大きな組織に再編されるに至った。その一つがIGMであり、この組合は木工と織物の諸組合を吸収した。一方化学と鉱山の諸組合は融合した。最も目立ったところでは、大ヴェルディへの、公共サービス労組とメディア諸労組の合併があった。この動きは、「構造改革」と新組合員獲得に向けた波のようなキャンペーン―尚のこと具体的中身のない―を引き連れていた。「労働アカデミー」のような組合活動家のためのかつての訓練学校、同様な他の訓練調査研究施設は、こうしてどちらも閉鎖されるか諸労組に分割され、時には私有化された。それ以上に、コール時代と新自由主義イデオロギーの一層強力となった圧力が、ベルリンの壁崩壊後の凄まじい政治的退化に導いた。

職のための協定?

 「職のための協定」は、一九九〇年代中盤にIGM委員長のツビッケルの提案から発足したものの、実りのない交渉の後で葬られた。「社会的パートナー」というこれらの会合―政府、労組、雇用者組織が関わった―は何も生まなかった。一九九八年にこの協定を刷新しようとの試みの後、シュレーダーはこの協定への関心がどんどん薄れていることを隠さなかった。
 「第三の道」という理論―シュレーダーがトニー・ブレアから借り受けた―は社会協定という理念を撥ね付けた。何故ならばこの理念は、そこに奴隷根性と労組指導部による協力への願いがあるとしても、社会階級に分割された社会という見方に基礎を置き、さらに相対立する利害という色が着いていたからだった。シュレーダーは益々、専門家からなる特別の議会委員会と彼の「倫理評議会」に頼る方を好んだ。そして後者は、交渉ではなく「個人対個人」の回路で事を運ぶという提案を行った。
 二〇〇二年の選挙キャンペーンを唯一の中断として、この連合は新自由主義的で反労働組合的政策を発展させた。それは、前任者達がそのような急進主義をもって敢えてやるようなことの決してなかったほどのことだ。社会民主主義者と緑派は、こうしてドイツに真性の「道義的・精神的」変革をもたらした。
 この政策には基礎として、以下の二つの綱領的な立場が含まれている。
一.私的資本利潤率引き上げのための、賃金及び社会保障配分の切り下げ。
二.「新世界秩序」におけるドイツの地位を守りかつ上げるための、経済的、外交的、さらにまた軍事的手段を通した首尾一貫した努力。
 少なくとも二〇〇二年のシュレーダー再選以降、「我々の労働コストは高すぎる」との言い回しがドイツの政治的議論を支配してきた。この主張は、あらゆる前線での賃金労働者攻撃を伴っている。賃金労働者は「第二賃金」と呼ばれる一部の賃金を放棄すべきだ、というのがその言い分だ。問題となっている賃金部分は、年金、社会保障手当て、失業手当からなるもので、これは全体として一八〇〇億ユ―ロに達する。経営者達はこれを高過ぎるとみなしているのだ。
 労働組合運動は一九九八年以来、社会的配分の領域で何度か重大な譲歩をしてしまった。組合は年金の部分的私有化を受け入れた。また、薬代の一部支払いや初診料一〇ユーロに反対する高まる抵抗を抑え込んだ。労組指導部が行ったこれらの譲歩は、それ以前になされていた組合大会の決定や綱領の修正が到底不可能なほどに急激なものであった。しかし最も深刻な問題は、「法外な第二賃金」という論理を諸労組が受け入れたことだ。
 賃金労働者に加えて職の無い若者と定年退職者が、シュレーダーの「第三の道」が狙う第二の的だ。年金そして中でも失業手当の切り下げが政治的に決定された。後者によって、以前は三二ヶ月であった支払いが最高で一二ヶ月にされた(五五歳以上の場合は一八ヶ月)。ハルツ法の枠組の中では、失業者は三つの側面で攻撃を受けた。手当の額と期間が切り下げられた。新しい職を受け入れるという問題に関して失業者が要求可能なことを規定する規則は杓子定規となり、かなりの場合今や強制労働に似たものとなっている。失業者は現在、経営者、専門家、政府が発展させたいと思っている「低賃金部門」に差し向けられ続けている。この部門は、労働市場に圧力を加え、最終的に賃金水準低下に導くパートタイム労働や臨時労働を引き連れるだろう。
 ハルツ法に関する交渉への合意の際労組指導部は、大会決定や以前に決定された組合の政策に全く反するものを受け入れた。それは特に臨時労働の問題に際立っている。あらゆる世論調査が示すように、この政策への信頼は無く、事実上全ての人が拒否している。さらにSPDの現綱領ですら、臨時労働の禁止を今も謳っているのだ。
 最近になって第三帝国以来はじめて資本と国家は、一日、週、年間労働時間を延長しようとする攻撃に乗り出した。即ち資本は、マルクスが提起した形で、絶対的剰余価値引き上げを試みつつあるということになる。既に一つの州(レンダー)は、公務員(ドイツではストライキ権が無い)に対して週四一ないし四二時間労働を導入した。この延長は公共部門全体に、次いで私有産業に拡張されることになっている。一定数の公休日と年間の休暇時間の削減も議論に上っている。さらにまた定年退職年齢を六七歳かそれ以降まで引き上げようとの計画まである。
 今春の賃金交渉で経営側は、賃上げなしの労働時間延長受け入れをIGMに迫ったが、これは拒絶された。しかし残念ながら労組指導部は、困難に陥っている企業の場合を例外とすることに同意した。このことが意味することは、直接の攻撃が例え打ち返されたとはいえ、週三五時間労働という一般規則に今や例外が生まれた、ということだ。

敗北した東部でのストライキ

 シュレーダーは、賃金切り下げに代わる政策は全く見つからない、と繰り返すことが益々多くなった。彼にとってはこれが、国がその下で生きることを学ばなければならないグローバリゼーションの決まりなのだ。
 彼の政府の第二の主要点、即ちドイツ政治への軍事の再導入は、シュレーダーによって彼の最も重要な歴史的使命と表現された。ベーベル、シューマッハ、そしてウィリー・ブラントの党の首相にとって、これは何という堕落だろう。
 ある種の躊躇を見せつつも労組指導部は、再軍備と戦争に向かうこの道を受け入れた。彼らは、ドイツ労働組合運動を基本的に性格付けている一つの中軸的要素を、必要もないのに投げ捨ててしまった。この指導部は、一人だけを例外として―緑の党党員である、ベルディ委員長、フランク・ブシルスケ―、全員がSPD党員だ。
 ドイツの資本主義的統一以降の東西ドイツ労働者間には、賃金及び労働時間の深刻な不平等が存在してきた。ベルリン市では、居住地が通りのどちら側にあるかで賃金、労働時間が違ってしまう、という異様なことはまれではない。IGMが最終的に三五時間労働要求の闘争に敢えて踏み切ったという事実は、それが例え失敗したとはいえ、一定の勇気の証だった。西側出身の機構員が支配的である官僚内部で、長い論争があったのだ。そしてこの時短闘争は典型的な形で敗北した。東部のIGMは数々の戦術的失敗を犯したが、三週間のストライキが続いた。ところがその後で組合委員長が新聞に、ストライキは終結、と発表したのだ―何をも取らずに、また承認投票もなく―。これ以前、何人かの労組機構員と中でも西側工場の工場評議会トップ(特に自動車部門)が、組合に完全に忠実とはいえない声明を出すことによって、東部のストライキに間接的に害を与えていた。
 スト後IGMは、激しい分派闘争にみまわれた。そしてそれは、反対派から二人の指導者を選出することに導いた。そのことで緊張を緩める可能性が追求されたのだ。ストライキのこの敗北は、ドイツの労組が持つ力にもはや大きな価値はない、ということを赤裸々に示した。DGBには亀裂が入り始めた。諸労組の方向感喪失はその頂点に達したように見える。

左翼の目覚め

 しかし二〇〇三年は、何年もの間むしろ悲しむべき状態を過ごしてきていた労働組合左派を立ち上がらせた。労組を動かすために多大のエネルギーを費やして、しかし大した成果もなく努力していた組織された政治的左翼は未だ存在していた。賃上げ交渉に関して警告ストが設定された際に、先頭を切るのはいつもこの左翼だった。とはいえ職場の自律的活動―イタリア、フランス、ギリシャ、あるいはイギリスですら知られていたような種の―は、ドイツではパレルモの雪よりもまれだった。全国的協力としての「労組左派ネットワーク」はむしろ、個人の討論サークルだった。
 年金の部分的私有化を目的とした法案に関する議会論議期間中に初めて、独立左翼が組織した抗議集会が開催された。労働大臣となったIGMの前ナンバーツー、ウォルター・リースターが提案した年金法は阻止できなかった。しかし左翼によるこれらの働きかけはその結果として、労組左派の新たな地方グループを作り出した。二〇〇四年の賃上げ交渉期間中には一九七〇年代以来初めて、独立したパンフレットを発行する労組左派が出現した。
 二〇〇三年には、有名な「アジェンダ二〇一〇」を発表した五月一三日の首相演説の後には特に、長期の期間の中で初めて、大きく非政治化された組合員大衆が批判的反応を示した。人間の顔を持つ、職を保障する、より良い賃金を備えた資本主義のために党が働くことを期待したが故に常にSPDに投票してきた人々が、反乱し始めたのだ。未だSPDに留まっていた人々は、一団となって党を離れた。ヘルムート・シュミットの時代には、党には未だ百万の党員がいた。二〇年の内にこの数字は、二〇〇三年だけでほぼ五万人減という数字を伴って、六三万人にまで落ちた。現党員の多くは党を許していることを恥じている。世論調査は、有権者の三〇%以下しかSPDに投票しないと語る(今EU議会選はその通りになった―訳者)。かなりの間SPDは、全ての選挙に敗北してきた。そして世論調査員たちは、党への信頼の喪失は賃金労働者の間で深いと語っている。
 二〇〇三年五月SPD党員の労組指導者はかつての日々のように、最終手段として政府の政策への抗議を組織しようとした。しかし今回、数都市で組織された集会とデモの参加者は九万人を越えなかった。数日後DGB委員長のテオ・ゾマーは、闘争の打ち止めと歴史記録化を意味する「夏季休戦」を発表した。
 しかし歴史は別の道を取ることになった。ATTAC―ドイツの夏季大学の中で、職場と労組の独立左翼活動家は、一一月一日にベルリンでの全国的デモを呼びかけることを決定した。同時に、ハルツ法案についての政府決定と議事堂での論議に反対する政治ストライキが現れた。これらのストライキは形式に配慮して、憲法が保障する労働条件交渉の自律性確保を求めるものとして提起された。しかし事実上これらは、SPDと政府の政策に反対するストライキだった。労組員大衆は、ベルリンのデモに大挙して結集した。デモ以前の一〇日間には、「上からの」指令のない、しかし指導部との一定の連携を保った労組の結集がみられた。結果として、赤・緑政府の政策に反対して一〇万人以上がベルリンで抗議した。
 ヨーロッパ社会フォーラム(ESF)でヨーロッパ行動日が計画され、その日取りが四月二日と三日とされたとき、二〇〇三年五月、さらには一一月のベルリンをも上回るはるかに大きな結集が必要とされるということが、全ての人に明らかとなった。ESFは初めて、ドイツ労働組合指導者、ベルディのフランク・ブシルスケの公式的参加を見ることになった。彼は労働組合と社会運動の新しい連携は好ましいと語った―労組運動の頂点でそのような言葉を聞くことができたのは、二〇年以上前のことだった―。自由な論争の時期が始まった。そして、上述した後退的環境の中で何年もの間活動してきた人々は、政治的雰囲気のこの変化を理解し、かつ活用している。
 二〇〇四年四月三日のデモに先立つ週末、ベルディ左派の創立大会がもたれた。反対派潮流―左派グループのセクト的構想ではなく、組合指導部が容易には中傷不可能な―が初めて一般公衆に語りかけたのだ。

新しい労働者党

 社会民主主義に対する政治的代替勢力の問題を討論するための二つの再結集が、今報道を飾っている。一つはベルリンのグループ、もう一つは北バイエルンのグループだ。これらの二つの傾向が一般公衆に語りかけた最初のものだ(論争を呼ぶが)との利点を持つとしても、政治的グループはそれらだけではない。その上、それらの提案は必ずしも最も興味を引くというわけではない。いずれにしろ、状況は殆ど至るところで動いている。
 我々はおそらく、労働組合運動と社会民主主義の一五〇年にわたる結婚の、終局的な危機の中を生きている。イギリスの場合とは異なり、この結婚は常に政治的だった。SPDと労組の間にある構造的で有機的な関係にもかかわらず、そこには一定の組織的な独立性があり続けた。それは、労組の党というよりも、むしろ自律的な労働者党としてのSPDの発展に由来している。SPDと労組の間にある政治的つながりが、今もし解体過程にあるとすれば、その成り行きは何百万人もの精神と心情に影響を与えるだろう。したがって左翼は、過去何十年間には到底不可能だった新たな大衆的政治の形態を手段として、対応しなければならない。
 四月三日のベルリン、ケルン、シュテュッツガルトの大デモは、上述したことの一つの小さな指標だ。それらが示したことは、「上」からのある種の組織と、「下」からの大部分自律的な一つの結集の、弁証法的統一であった。
 過去において多くの結集を阻止し抑えこんできた労組官僚は、今脇に押しやられつつある。つまり歴史が作られている最中なのだ。一方我々は、何十年もSPDに忠誠を保持してきた、そして今孤児のように感じているこれらの労組専従者達を、追い払わないようにすべきだろう。違いが生まれる過程は、具体的条件に応じて多かれ少なかれ急速に、労働組合運動を貫流している。労働組合運動は、労働者階級―職を持つ者と職のない者との―に対する大規模な攻撃を、ドイツでまた国際的に打ち返すという巨大な任務に直面している、ということを見出している。同時に世界中の民衆は、ドイツ資本による「世界的権力掌握」を流産に追い込むドイツ労働者運動の可能性、に期待している。ここには歴史的次元の二つの任務があるのだ。
 来たりつつある闘争の結果を知る者は誰もいない。社会民主主義との分離という進路において労働組合運動は、資本と政府との必要とされる衝突を避けようとするならば、もちろん敗北する可能性がある。その場合結果は、USAタイプの労働組合主義となるだろう。左派の任務はそのような展開への道を遮ることだ。大きな統一的連合の維持、弱い立場にある人々との固い連帯という原理に従った集団的協約の交渉、立場と潮流の多元主義の保障、労働組合主義のこの理念は、必要とされる努力を払うに値する十分な価値がある。
注)筆者は、ケルン地域の労組活動家で金属労働者。彼は、FIドイツ支部の二つの公式部分の一つである国際社会主義者左翼(ISL、もう一つは革命的社会主義者同盟―RSB)メンバーであり、月刊紙「社会主義新聞」(SoZ)の協力者。(インターナショナル・ビューポイント誌、五・六月号より抄訳)
 
 
 
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