2004年10月10日        労働者の力             第 175号


ブッシュのポチを演ずる小泉がねらう日米同盟の悪無限的拡大
川端康夫



憲法改悪の先取り―「安全と防衛力に関する懇談会」報告書

 ASEM(アジア・ヨーロッパ会議)はブッシュの出席しない会合である。この会合で小泉はブッシュに変わって、フランスやドイツに対してイラク侵略の意義の説得役を務める意向のようだ。小泉はイラクにおける米英軍の正当化を試みようとしているのだ。まさに多国籍軍参加をブッシュに約束した小泉のやり方だ。
 その小泉の切り札は「国際貢献」だった。しかし真の正体は今や公然と姿を現した。「日米同盟」である。
 あらゆることが「日米同盟」をともなってやってくる。一〇月四日に答申された「安全と防衛力に関する懇談会」の報告書は、全面的に日米同盟論にたった内容である。
 以下の内容は、サンケイ新聞の解説記事を元にしている。
 報告書は、政府が十一月に策定する新たな「防衛計画の大綱」の基礎となるもので、テロや弾道ミサイルなど新たな脅威に対処するため「多機能弾力的防衛力」の整備を提言した。米国との世界規模での新たな役割分担が必要とし、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)改定など日米同盟再定義の必要性を強調。
 「基盤的防衛力」は一九七六年の「旧大綱」以来の概念で、「独立国として必要最小限の基盤的防衛力を有する」とし、日本侵略への対処を前提にしてきた。これに対し報告書では、日本侵略に加え、米中枢同時テロなど「非国家主体」からの脅威への対応が必要とし、日米同盟については、世界規模での日米の役割分担を検討し、新たな「日米安保共同宣言」や新ガイドラインの策定を提案。米国への技術供与以外は全面禁止となっている武器輸出についても、少なくとも米国にはミサイル防衛(MD)関連以外も輸出を解禁すべきだと提言している。
 自衛隊の海外派遣に関しては、自衛隊法で付随的任務と位置づけられている国際活動を本来任務に格上げするとともに、武器使用基準の再検討も盛り込んだ。「付言」として集団的自衛権についても「議論を早期に整理すべきだ」としている。
 一見してわかるとおり、ここには、すでに憲法順守の姿は一切ない。小泉内閣の憲法改悪論議の真の姿は、ここにあるのだ。
 
ブッシュのネオコン路線にしがみつく小泉内閣 
 
 アメリカのネオ・コン、ブッシュの路線は、武力によるアメリカ中心の世界秩序の形成である。このブッシュ路線との「世界的規模での役割分担」は、いわゆる「普通の国」論をはるかに越えた展望である。
 小泉内閣の官房長官細田は七日の記者会見において、アメリカ政府の公式報告、イラクには大量破壊兵器は存在してはいなかったということに関し、窮地に陥っているブッシュ政権を正面から擁護し、イラク侵略は正当なものだと述べた。小泉は大量破壊兵器の存在、それがテロ集団の手に渡る恐れ、を米英軍の侵略支持の理由にしたのではなかったか。大量破壊兵器問題は、その当初から存在しないとする国連調査団筋の証言があったはずだ。元調査団員のスコット・リッター氏が来日してそう明言した。そして、調査を真に妨害しているのはアメリカ政府そのものだとも述べていた。さらにこの問題は、アメリカ大統領選の最大の焦点にもなっている。そして小泉は明確にブッシュの路線、ネオ・コン路線を支持しているのだ。
 こうしてみると、小泉内閣が上記の報告書を受けて目指すであろうものは、日米同盟を基礎とし、アメリカの軍事力による世界秩序形成に、自らも武力を持って加わるというものなのだ。集団的自衛権論議の整理とは、この報告書が明確に表明している「日米同盟の維持・強化」の基盤の整理、すなわち、従来の政府見解、集団的自衛権は憲法上は持てない、との見解変更を求めている。そして、「武器輸出三原則」という、従来の政府見解、佐藤内閣で制定され、三木内閣で強化された三原則を、これも変更することを求めている。
 小泉は記者団に答えて、報告書を重視して行くと明言した。自民党政府が自ら歴史的に定めてきた防衛方針を全面的に切り替えることを表明したのである。

日米同盟の強化が先にある―沖縄海兵隊基地移設問題

 こうした小泉の姿勢は、沖縄における軍用ヘリコプター墜落で改めて問題となった米軍基地問題にも明確に現れていた。小泉は軍用ヘリの墜落に際しての横暴なアメリカの対応に対して何らの積極的姿勢をとることがなかった。しかしながら、米軍戦闘機の接触事故がおこり、基地がある限り事故はなくならないことが再度立証されて以降、強まる沖縄県民の怒りに押されて小泉は、基地の本土移設を口にした。そしてさらに七日に、ベトナムでの記者会見で、海外移設をも口にした。それは外務大臣町村がアメリカにおいてラムズフェルドやパウエルと会見し、アメリカ軍の海外駐留再編計画の一環として、沖縄海兵隊移設の可能性を検討するという言辞をパウエルから得たからだ。本土もしくは海外、これが小泉が述べたことだ。もちろん、普天間基地の辺野古への県内移転というプランが現実性を失いつつあることを意識したものだろう。
 ラムズフェルド自身が普天間基地の現状について移転やむなしという見解を表明するほどに住宅密集地域にある普天間基地。そして県内移設の候補地とされた辺野古地区には、稲嶺県知事による期間制限の制約があり続け、その制約がある限り、今から建設を強行しても話が釣り合わない。そこで本土移設となったのだろう。その本土とは、言及されてはいないが、岩国であることは間違いない。他に候補地を求めるとすれば、新たに建設しなければならない。小泉は、まず最初に「本土」と言及し、そしてアメリカサイドの対応を見て「海外」を付け足しただけであり、ここには積極的に海外移設を要求する姿勢は見られない。むしろ念頭にあるのは、日米同盟の維持・強化ということだろう。
 
沖縄の海兵隊はイラクにいる―米軍自ら否定した沖縄駐留の意義
 
 現在、沖縄には海兵隊はいない。イラクに行っている。ファルージャの戦闘に海兵隊ヘリコプターは投入されたのである。
 以下、沖縄タイムズからの引用である。
―兵力の分散移転 大規模駐留の意義揺らぐ
 八月二十二日正午すぎ。宜野湾市や県、日本政府の飛行中止要請を無視し、米軍普天間飛行場から墜落機と同型のCH53D大型輸送ヘリコプター六機が離陸。第三一海兵遠征部隊(31MEU)約二千人を乗せ、沖縄近海で待ち受ける米海軍佐世保基地所属の強襲揚陸艦「エセックス」(四〇、五三二トン)に着艦した。
 31MEUが空陸の即応力を発揮する上で、同部隊を構成する第一海兵航空団の果たす役割は大きい。世界で展開するMEUは、海軍の揚陸艦とともに出撃命令から五日以内に地球上の75%の沿岸水域に接近、六時間以内に上陸作戦や「ヘリボーン作戦」と呼ばれるヘリによる武装兵士の敵地周辺への移送を行うことが可能という。
 今回、米海兵隊は「CH53Dは重装備空輸任務の主要な役割を果たす」とし、飛行再開に踏み切った。
 一度に五十五人の兵員や車両など装備品の多くが搬送可能なCH53Dは、AH1W攻撃ヘリとともに作戦遂行に欠かせない、との判断があった。
 飛行再開前日。県庁に稲嶺恵一知事を訪ねた在沖米軍トップのブラックマン四軍調整官は、事故原因の調査について「初期段階の報告を受ける」としていた。
 だが、飛行再開に際しての発表では、十分な説明がないまま「最重要段階の調査結果から」「事故機特有の問題」と結論付けられた。
 安全への住民感情よりも軍命が優先された。イラク情勢の悪化を受け、予定より派遣命令が一カ月早く下されていた。
 在沖米海兵隊からは二月にも三歩兵大隊と航空支援部隊、計約三千人とともに普天間所属のヘリ約二十機が派遣された。うち二つの大隊がイラク人七百人以上が死亡したと伝えられるイラク中部のファルージャの戦闘に参加した。
 普天間のヘリ部隊も各地で、イラクの治安維持活動に当たっている。アフガニスタンへも航空管制業務のため、定期的に派遣されている。
 普天間所属の五十六機のうち四十数機がイラクに派遣、現在残っているのは十機程度で、「空洞化」が進んでいる。
 在沖米海兵隊一万六千人のうち、実戦部隊の大半の約五千人が欠けても、安全保障に何らの影響も与える兆しはない。
 普天間飛行場の現状は、戦略的にはグアムへの航空力増強により、海兵隊の兵力の分散移転が十分に可能であることを証明している。
 在沖米軍の六二%を占める規模の海兵隊の沖縄駐留が、果たして戦略上必然なのか。危険な普天間飛行場を放置する日米の政治責任が問われている。(政経部・知念清張)―
 問題の核心はここに明確である。在沖縄海兵隊はイラク民衆の殺戮にむけて派兵されている。これが現在の日米同盟の赤裸々な姿である。つまり、在沖縄海兵隊は小泉内閣がいうような日本の安全保障のために駐留しているのではないのだ。日本政府は米軍のイラク侵略を支持するのみならず、具体的にそのための基地を提供している。日米安保条約の制定時、その適用範囲をめぐって激論が繰り返された。「極東の範囲」がその適用範囲とされ、その「極東」の定義をめぐる論戦であった。だが今や、安保条約の適用範囲は全世界に広がっている。全世界を対象とする攻撃基地、それが沖縄にある軍事基地の正体である。そしてさらに、日本自衛隊はその本拠地、嘉手納基地を米軍と共同使用することを検討し始めているのである。このような基地はいらない。そして日米同盟の維持も強化もいらない。沖縄から、そして本土から、すべての基地を撤去せよ。
 (一〇月八日)
 
韓国と日本の労働運動をむすぶ全国連鎖行動

        ―東京・仙台―
           


胎動する韓国社会と労働運動の「いま」、成功裏に開催
―10・1日韓草の根交流を広げる講演会―

 一〇月一日夜、東京の後楽園会館にて、表記の講演集会が約一五〇名の参加の下に開催された。韓国民主労総の劉徳相(ユドクサン)さん(民主労総元副委員長・公共部門代表者会議委員長)を招き、社会内部で進行している激しい変動の息吹を感じ取り、交流する目的だ。この集会は、現代研究所が企画した全国連鎖集会の一環で、東京、仙台、京都、直方、新潟、松山、浜田、長野、名古屋、宮崎、函館、横浜など、約三週間を費やし、民主労総の三人の指導者で分担する壮大な企画の一部である。現代研究所は各地の集会の主催をそれぞれの地域の実行委員会へ委ねる方式をとり、東京では「これからの社会を考える懇談会」(略称・これこん)に協力を要請した。「これこん」は、現代研究所の想い、「アジア太平洋労働者共同体への小石」という趣旨を受け入れ、10・1集会実行委員会を組織し、東京全労協の後援を受けつつ、樋口篤三さんを委員長として集会を組織した。実行委員会の連絡先は、アクト新聞社、現代研究所、同時代社、労働運動資料室である。
 北方ルートと東京集会を担当した劉徳相さんは一九七四年に韓国通信入社、一九九四年韓国通信労組第五代委員長、九五年解雇、逮捕、九六年逮捕九八年民主労総主席副委員長、九九年民主労総未組織特別委員会委員長、民主労総投資協定・WTO反対国民行動・共同執行委員長、〇二年民主労総委員長職務代行という経歴を持つ民主労総の指導的活動家である。
 また実行委員会は、国際交流活動を積極的に行っているATTAC・JAPANの秋本陽子さん、昭和女子大教授で労働運動研究家の木下武男さんにも新自由主義の攻撃と闘う労働者運動の観点からのコメントを要請した。
 集会は最初に実行委員長の樋口さんの、東アジアの経済共同体の展望を強調するあいさつで始まった。続いて後援団体である東京全労協の押田五郎議長のあいさつがあり、次に劉徳相さんの講演となった。
 劉さんの講演は、一時間半を越える熱気にあふれたもので、時間の制約がなければさらに延々と続くものと思われた。
 講演は、基本的には現在の民主労総に至る韓国左派労働運動の歴史をたどる形でなされた。彼は冒頭に、韓国労働運動はなぜ戦闘的かを説明した。すなわち、それは韓国の資本家が極めて搾取的であり、暴力的であるがためである、と。極度の低賃金、長時間労働の強要、労働基本権の無視、暴力的職場支配、警察権力の不断の介入などは、韓国労働者の決起が一九七〇年十一月十三日の全泰壱の死の決起に始まらざるをえないほどの過酷なものだった。「勤労基準法を胸に抱いたまま炎に包まれ絶叫する二二歳の青年、全泰壱(チョンテイル)の叫びは、独裁政権のもとで眠っていた良心を揺り起こし、七〇年代韓国労働運動に火をつけた。全泰壱の死は、非人間的な労働搾取と貧困に抗した人間宣言であり、労働者の最低限の権利をつかむための身もだえだった。全泰壱の犠牲により労働運動が韓国社会に広く波及し、労働者は自ら覚醒するとともに、自主的に生きるために激しい闘いの道を歩み出した。こうして、全泰壱の死は、社会全般にわたり大きな影響をもたらすとともに、民主労総の芽生えとなった」(劉徳相さんの報告文書より引用)
 講演内容は仙台集会報告を参照されたい。
 講演に次いで、ATTAC・JAPANの秋本さん、昭和女子大の木下武男さんの日本側発言は、レジメの豊富さにもかかわらず、短時間の発言しか取れず、残念なものだった。秋本さんは六月ソウル行動の意義を論じつつ、東アジアでの共同行動の可能性が、運動の継続性と新自由主義に対する横断的な闘争へと引き継がれることで開かれ得ること、さらに世界社会フォーラムにみる新しい社会運動の登場を報告した。この報告はATTAC・JAPANの魅力的運動を強く印象づけるものであった。木下さんのレポートは韓国、日本ともに増大している非正規労働を中心に取り上げ、日本においてはすでに年収二〇〇万円時代が始まっていると指摘しつつも、企業内労働組合の限界が顕在化している日本の労働運動の「外側」に増大している非正規労働者群のエネルギーを結合できれば、日本労働運動の新たな再生の可能性が見えてくると論じた。
 最後は実行委員の山崎耕一郎さんが締めた。この集会は「これこん」としては昨年秋の「池明観集会」に続く二段目となるが、奇しくも日本と韓国を結ぶものとなった。集会は総じて、新たな社会運動が台頭する現在の世界的状況を、直接的には全労協的世界とは縁のない人々に伝えるものとなり、また逆にさまざまな分野で活動しながら、直接の交流を持たない人々を結びつける役割も、ささやかながら果たし、その点で意義があった。(川端)

熱烈な演説!そして労働者の熱い連帯
日韓労働者連帯10.2仙台集会

 九月中旬から一〇月初旬にかけて「韓国と日本の労働運動をむすぶ全国連鎖行動」が取り組まれてきた。その一環として一〇月二日、仙台集会が開催された。宮城全労協、国労組合員など八〇名が出席した。
 集会冒頭、『燃えるソウル/〇四・六』の上映。今年六月、世界経済フォーラム東アジア会議に反対する共同行動がソウルで展開された。電通労組の仲間が撮影したドキュメントで、若くて戦闘的な労働者・学生のエネルギーが歌声、寸劇、演説や行進から力強く伝わってくる。
 仙台集会に出席した常岡雅雄さん(現代研究所)が連帯挨拶し、全国連鎖行動の経緯、取り組みの内容、今後の抱負などを話された。

 韓国からの講師は劉徳相(ユ・ドクサン)さん(全国行動には他に韓国鉄道労組の2名が参加している)。劉さんは民主労総の前首席副委員長、韓国通信労組委員長。電通労組は劉さんとの交流を重ねてきたが、直接仙台で出会うのは初めてのことだった。劉さんの迫力、雄弁、情熱、そして希望のメッセージに参加者は感銘を受けた。彼は、「日本では労働運動は人気がありますか?」などと問いかけたり、「皆さんは深刻な顔をして私の話に聴きいっていますが、もっとリラックスしましょう」などと笑わせたりしながら話し続けた。
 講演は大きく三つ。一つは、民主労総の活動の三つの柱−「組織、宣伝、学習」について。たとえば、労働や労働者を否定的に位置づけて「労働者は卑しい存在だ」と強調するマスコミや教育のあり方を打ち破ること。「運動を通して人々の意識を変えさせ」、「人間としての連帯、信頼を大切にして」組織を作っていくこと。実践に裏打ちされた説得力のある話だった。
 第二は七〇年代以降の韓国労働運動の歴史について。七〇年一一月一三日の「全泰壱焼身決起」、「チョン・テイル烈士の意思を継承せよ」として開始され、女性労働者たちの決死の自己犠牲をもって切り開かれていった韓国労働運動。八〇年一〇月の光州大弾圧。「偽装転職」と呼ばれた学生運動家の労働運動への大量流入。独裁政権の弾圧に抗して拡大していった自主的・戦闘的労働組合組織。そのような闘いを通して結成された九〇年の全労協と九五年の民主労総。そして、九七年アジア危機を転機とする新しい労働運動の波、現在の新自由主義・グローバリゼーションとの闘い。
 第三は、次の展望、希望について。「自分たちのために働いてくれる議員を持つこと、それが労働者の願いだった。しかしいまや一〇人の議員がいる」。新自由主義との対決を通して、労働者は国際的に競争してはならないし、資本主義を克服しなければ労働者の未来はない。労働者はもはや社会主義を求めるしかない。劉さんは、そのような意識が新自由主義との対決を通して韓国に生まれてきたという。
 劉さんは最後に、「労働者民衆が主人公となる社会を作っていきたい」と結んで、一時間半の集中した講演を終えた。
 一一月上旬、民主労総の仲間たちが韓日自由貿易協定を許さない闘いのために来日する。中旬にはソウルで全国労働者大会が開催される。集会はこれらの闘いに連帯することを確認した。(仙台)
 
     

―レポート―地域の胎動
       北上市での新たな動き
              
 


 北上市(岩手県)を中心とした最近の動きについてのレポートを求められた。しかし、まとまった報告はできそうにない。その理由ははっきりしている。私自身、あらかじめ方向を決めて進んでいるというより、かなり行き当たりばったりに動いているからだし、また一つ一つの事象について評価することもできないでいるからだ。身の回りでは、いろいろな人間がそれぞれに「反戦・平和」や「身近な市会議員」や「同業者の連携」や「雇い止めを止めさせる活動」や「公平な医療」や「新しい市民運動」や「反戦詩」や「遺伝子組み換え反対運動」や「安全な食べ物」や「公平な貿易」、その他いろいろなことを求めて動いており、私自身がいろいろな運動に巻き込まれ(あるいは巻き込み)、翻弄されながら生きているからだ。
 今回は、同業者の連携に関連する動きを報告したい。どのように評価するかは読者の皆さんにお任せする。
 昨年の北上市会議員選挙で、「市民の会21」という団体から梅木忍さんというフリーのアナウンサーが立候補した。米英軍のイラク侵攻に対する怒りの中から「平和をつくろう・ネットいわて」という名前のつながりが生まれたが、その代表を引き受けた彼女と知り合った人の中から、彼女を市会議員にしようという動きが始まった。結果は当選ラインの二分の一強の得票での落選であったが、この活動は、一方では新しい出会いの場をも提供した。楽しく飲んだり歌ったり、一緒に沢蟹とりをしたり、時にはまじめに学習会をしたりしながら、新しい市民運動を模索しているように見える。
 市民の会21に青柳班という班が生まれた。青柳班は、数十人のメンバーがいて、その全てが飲食店の同業者と聞いている。彼ら・彼女らが集まっているのは、自分たちの安定した生活を求め、弱肉強食の不安定な生活を拒否し、協力し合って互いの生活を守ろうというエネルギーが元になっているように思われる。青柳班が中心になって行われた先日のビールパーティでは、約一五〇人の参加者があり、カラオケ、踊りなど多彩な芸が披露され、大いに盛り上がっていた。
 「市民の会21」は年間二千円の会費で、当面の活動としては、前回の参議院選の中などで知り合いになった岩手県内の市民派の(前)市町村議会議員さんや共に活動する人たちとの交流の促進、会員の拡大などを行い始めている。会員には「金持ち」は一人もいないようだ。普通のおじさん、おばさん達(失礼!若者もいる)が、何か今とは違うことを求めて集まってきているようだ。現状は不満だ。そして何か共に生きられるあり方を求めて・・。(I)
 


同志リビオ・マイタンを追悼する

             寺中 徹
 

 

 第四インターナショナル国際書記局より悲しい知らせが届いた。
 第四インターナショナルを、戦後の困難な時期を含め、エルネスト・マンデルと共に一貫して指導してきた同志リビオ・マイタンの訃報だ。マイタンは、九月一六日ローマでなくなった(享年八一歳)。
 マイタンは来日したことがない。そのため彼を直接知る日本の同志は多くない。しかし彼の名は、数多くの討論文書を通して、日本トロツキストにもよく知られていた。筆者はたまたま前回の世界大会で彼の精力的な姿を目に出来た。八〇に手が届く高齢ながら、老・壮・青(男・女)のバランスのとれたイタリア代表団を率いて、討論に活発に参入していた。中国の現状評価をめぐる討論で、香港の同志のやや形式主義的な評価を、顔を紅潮させながら情熱的に批判した姿が印象深い。討論を離れた場での、人なつこい、開け広げな人柄も心に残っている。
 長期の闘いに敬意を表すると共に、心から哀悼する。
 以下に国際書記局から届いた略歴を紹介する。
 
 リビオ・マイタンは一九二三年ベニスで生まれた。彼はナチス占領下で政治活動を開始し、イタリア青年社会主義者指導部の一員となった。一九四七年にイタリアのトロツキスト運動に参加した後は、生涯を通じその指導的メンバーであり続けた。
 一九五〇年代および一九六〇年代前半の困難な時期には、彼は第四インターナショナルの小さな指導部の一員だった。一九五一年にこの指導部に選出されて以降、彼はその死まで、毎回の大会で再選されてきた。パブロがFIを離れて以降は、FIの反対者は、FI指導部を「マンデル・フランク・マイタン」と呼んだものだった。
 彼の世代は、第二次大戦後の困難な時期に、革命的マルクス主義の綱領を次の世代に引き継ぎ、六〇年代後半に新たな広範な青年層を徐々に結合することに成功した世代であった。
 リビオは、一九六九〜一九七六年の期間、イタリアの巨大な労働者・学生反乱に活発に関わった。そして、FI内外を問わず、イタリアの革命的左翼の無数の指導者を訓練する上で重要な役割を果たした者として一般に見られてきた。
 彼は一九七〇年代には、ローマの大学の社会学講座で、低開発の経済に関する講義も行った。トロツキーの著作のイタリアでの翻訳と編集は、ほとんど彼の手による。
 『バンデラ・ロッサ』誌を中心に組織されていたイタリアのFI支持者は一九八九年、「民主プロレタリア」と合流し、共に一九九一年のPRC創立に参加した。彼は一九九一年から二〇〇二年の大会に至るまで、PRC指導部に連続して選出された。
 病気と高齢にかかわらず、彼は最近まで、FI指導機関に参加し続けた。彼はまた無類のサッカー好きであり、七〇代まで毎週プレーを楽しんだ。
 彼の著作は数多いが、ここでは省略する。 
 

イタリア
共産主義再建党(PRC)の新転換

         
フラビア ダンジェリ


 PRC書記長、ファウスト・ベルティノッティは2003年6月、その時まで従っていた政治路線の紛れもない逆転を発表した。それは、民衆が主導した国民投票(注1)結果の公表直後のことだった。この投票の主要な推進者は、PRCだった。党の全国政治委員会(NPC)メンバー達には驚きだった。と言うのも彼らはこの発表を、委員会直前に新聞の一面で見つけることになったからだ。

中道左派との和解?

 新しい方針の中心は中道左派政治勢力との親交再開だ。それは、ベルルスコーニ新自由主義政府への反対派を強化するためばかりではなく、加えて明確な目標をも含んでいる。つまり、2006年の選挙に向けて綱領的な合意を実現すること、「拡大した」中道左派の想定される勝利が生み出すことになる政府への、自身の閣僚を出すことを含む、参加意思をはっきりさせることがそれだ。この時その政府は、現(本稿執筆当時―訳注)EU委員会委員長、ロマノ・プロディが率いるものと考えられている。
 ベルルスコーニ政府の反動的かつ権威主義的本性が特に、他の政治的反対諸勢力に対するPRCの攻勢を要求している。それは、数多くの社会的諸闘争、部門ストライキ、広範な不満を支えるよう、彼らを説き伏せる働きかけへの要請だ。上記した社会的沸騰は国を揺さぶりつつあり、またベルルスコーニ打倒と、社会的虐殺及びUSAに従う戦争という彼の政策を終わらせることが、要求として既に―2006年を待つまでもなく―提起されているのだ。社会運動,特に世界的公正要求の運動が持つ強さと急進主義は、とりわけ国民投票の大闘争の後では、この攻勢を社会的領域で可能にした。この大闘争は敗北に終わったとはいえ,1000万票もの賛成票を集め,さまざまな運動と闘争を統一した(政府及び体制派は正面からの対決を避け、徹底的に棄権を組織した。この国民投票は最終的に、投票率50%以上という制度的な壁を越えることができず敗北した―訳注)。そしてそれは政府を真の危機に導いた。
 PRCはしかしそうではなく、政府参加の準備があると告げつつオリーブの木(注2)との密室の交渉を通して、この力を制度的政策の領域へと導こうとした。そこでは、実のある政治的代替路線という観点に立った諸要求の定式化さえない。

受け入れ不可能な立場

 現在、オリーブの木を作り上げようとの数限りない声明が、中道左派とカトリック中道派諸勢力から上げられている。PRCの立場から見れば、これらの勢力が表明するものは明らかに非常に異なったものだ。いくつか例をあげれば次のような点だ。
*2003年12月、この2年間全く賃上げのなかった都市交通労働者は、ストライキキャンペーンを率いた。そしてそれは、新たな反ストライキ立法にもかかわらず、交通労働者の大きな支持を得た。マルゲリータ(オリーブの木内部の有力政党)指導者、フラネスコ・ルッテリはこの時、この「山猫スト」を非難する政府の唱和に加わった。
*ルッテリはまた、政府が提案した年金改革について政府と話し合う用意がある、とも発言した。しかしこの改革は、労組ナショナルセンター全てが強く非難していたものなのだ(もっとも、批判の程度はさまざまだった)。
*マルゲリータ所属議員は、生殖医療に関する新法に賛成投票した。この法の核心は、胚を法的地位を持つ「人」として認識する点にある。それ故この法は、妊娠中絶の権利を否認することに向けて基礎を据えるものとなる。
*最後に、3月20日の反戦デモを世界とイタリアの諸運動が準備していたその時に、マルゲリータと左翼民主党(DS)は、イタリア軍のイラク駐留期限更新に関する議会の投票を棄権した。その際彼らは、国連の権威が再確立されることを条件に、USAと共にかの国に部隊を維持する準備があると断言した。これは、イタリア軍の即時撤退を要求している平和運動との深刻な亀裂に導いた。

党が得てきたもの

 PRC内部の現在の論争、並びにベルティノッティと指導グループ多数派が提起している政治転換を理解するためには、この党の歴史のいくつかを振り返る必要がある。
 11年前に生まれたPRCは、スターリニズムの危機からの「脱出路を与える左翼」、という困難な試みに挑戦した。それは、民主的左翼党(PDS)、次いでDSへの転換に従うことを拒否したイタリア共産党(PCI)内諸要素を結集した党、としての道だった。1999年のプロディ政府との決裂及び世界的公正運動への参加という複合的展開が、諸運動との関係を開かれたものとするという独自の政治的課題を党に課した。近年党は、労働者層と若者の重要な部門に対して参照点を示してきた。その一方党は、幾つかの重要な地域で、PCIから引き継いだ古い民衆的要素をも保持している。これらの理由から党は、その歴史のさまざまな局面で、あり得る一つの革命的再構築の道具であるとの外見を見せてきた。それは、PCIの改良主義戦略の遺産及びトリアッティ(注3)の継承というものと手を切り、首尾一貫した反資本主義の観点とその実践をひき受けつつある、というものだ。
 共産主義再建という理念(及び名称)それ自体その可能性を指し示すが、この理念は全期間を通じて党の任務に反映されていた。もっともその可能性は、党の活動家と指導部の健全な部分に彼らの歴史を批判的に見直す能力を要求していたが故に、困難に包まれたものとして、である。そして再建という任務は、それを党指導部がこれから獲得すべき目標として繰返し提起したように、今もって理論的展望の段階にある。党は今も、戦略、政治、さらに組織の刷新に向けた有機的進展を真に続行する点で、能力、また意志すらも人々に示していない。PRCはこうして、明確にされたわけではない「新しい」取り組みと、官僚的かつ改良主義的な伝統という根強い実質との間で、常に綱渡りを演じてきた。危機的な政治的瞬間のたび毎に―特に、社会・自由主義の諸勢力との関係及び政府の問題が差し迫った形で提起されたとき―、指導グループ右派に対する重要な分裂が起きた。そしてそれが、活動家と支持者、特に若者の希望を、質的な飛躍を内に含め強化してきた。
 2002年春の前大会では、再建並びに過去との断絶の過程を刷新し、党の戦略的、政治的輪郭を再確定することを目指す最も真剣な試みを目にできた。この構想の中心部に人々が目にできた諸要素は以下のものだ。
*スターリニズムとそれが生み出した社会との、さらにはそのような現象に対するどのような融和であれそれとの、あらゆる結び付きを断ち切ろうとする望み。
*制度的政策から社会的政策への党の重心の置き換え(トリアッティの旧来的理念への挑戦)。つまりそれは、資本主義との決裂と代替的社会に向かう移行という新しい構想の確定を、対立、運動、下からの参加民主主義を通して可能とする道筋の探求だ。採択された決議の適用はこうして、革命を日程に載せることを提起した。
*党の独特な革新的特徴としての、首尾一貫した大衆運動の選択。これは、旧来の官僚的で操作主義的な党概念に対する対抗的選択だった。
*党が持つ伝統的でより保守的な諸要素との部分的決裂、及び組織の複合性の選択。

PRCの限界

 上述した決議が持っていた波及力は、その後に起きた出来事の進展と力学がそれを増幅したにもかかわらず、限界を持っていた。結論を言えばこの限界は、指導グループそれ自身の中にある未解決の両義性に関わっている。何よりも、改良主義的諸理念と完全にかつ決定的に手を切ることの困難があった。特に以下の点を上げることができる。
*スターリニズムとの断絶は、あまりに一般的であり道義の問題に留まっていた。それは、官僚の体制と選択そして一方反スターリニズム諸潮流が採った道筋、これらに含まれた真の性格についての一定の把握には基づいていない。
*現代資本主義の分析と国家についての理解は曖昧だった。そしてそれが、例え完全に誤っていたわけではないとしても、示されていた解釈とはひどく異なった光を生の現実が社会・政治諸動向に当てるに至った際、継続的な政治的過ちに導いた。
*トリアッティ主義との決裂はぼかされたままであり、大会に参加した活動家にも結局は説明されず、明瞭にされなかった。
*資本主義に代わる社会の建設における社会の中心的位置という仮説、システムとの決裂という革命的戦略、権力の別のシステムの建設、そして労働者大衆の自己組織、これらのものに孕まれた戦略的側面に関するはっきりしない性格。この不明瞭な性格が、制度化された改良主義と漸進主義の日々の組み合わせの再浮上を正当化した。
*自然発生主義的なそして大衆運動主義的な諸特徴。そこには、運動内における党の操作主義的振る舞いに対する正当な拒否があったとはいえ、これはまた、先の問題を目立たなくしていた、これらは党の活動に圧迫を加え、運動建設における党活動家の活動展開を妨げた。そしてこれが結局は、採択された戦術をしきりに責めたがっていた党の保守的部分に、論争をを仕掛ける論拠を提供した。
 これらの弱さがあったとしてもしかし、この何ヶ月かPRCの働きかけを特徴付けてきた今回の方向転換は、真の転換だった。それ故それは、党の活動家をただ驚かせ、まごつかせるものでしかなかった。頂点で決定され、中央の指導グループが党の重要部門の敵意を押しのけて押し付けたこの不意の転換は事実上、大会が決定した路線との決裂であるだけでなく、過去4年間PRCが積み上げてきた文化的かつ政治的な基盤との決裂でもあった。
 これは大きな反転であり、急進的伝統との断絶である。そしてそれは、党の性格それ自身の改造に至るだろう。次回選挙の結果がどうであれ、党は重い代償を払うだろう―ところでその選挙では、政府に関するPRCとオリーブの木の合意は果たして実現するのだろうか。さらにもっと大事なことだが、そのような連携でそもそもベルルスコーニ打倒に成功できるのだろうか―。先ず第一に、もし指導部がこの選択の成り行きを限界にまで推し進めるならば、社会との関係で党が保持している理論的足場が掘り崩されるだろう。他方で、階級闘争の力学あるいは何らかの特殊な政治的出来事が割り込んできて、この選択の現実化を阻止したとしても、党は同様にその副作用で苦しむことになろう。

客観的諸困難

 こうして、鋭い内部対立と党の危機という筋書きが展開し始めている。
 効果的に戦いを展開し、いくつもの勝利を達成し、そして不利な社会的力関係を深部から転換する、これらの点で大衆運動が逢着した困難の結果としてこの転換を解釈すること、それは確かに可能だ。一方運動の発展は、党それ自体の強化や「再建」を越えたもっと幅広い新たな代替勢力の構築に、自動的に到達しているわけではない。このことを前提にすれば、この転換は幻滅の結果でもある―運動への力強い参加にもかかわらずPRCは、前回選挙で大きく得票を増大させることはできなかった―。2003年春の選挙の「停滞」は、同年の国民投票での敗北と並んで、確かに特別の作用を党に加えた。
 ベルティノッティは、与党連合の問題を提起することによってそれを政治論争の中心に据えつつ、党が直面している諸困難に蓋をしようとしたのだ。報道の側面ではこの作戦は成功した。しかしこれは、党内部の混乱を代償にしたものだった。党の重要な部分は、「当然のように」ベルティノッティの側に付いた―そこには、PCIの歴史に伝統的に最もつながっている者達(彼らは前大会で、決議に対する一連の修正案という形で多数派路線に反対した)が含まれる―。その一方特に大衆運動に関わっている中堅指導者の他の部門は、極めて批判的であり、方向感覚を喪失させられた。その結果としてこの部分は、活動放棄や、社会領域に限定された活動への引きこもりへと至っている。運動に精力的に参加してきた青年組織内では、新路線はさらに否定的に作用した。即ち、遠心的力学と熱意喪失だ。
 しかしこの問題の理解は、転換に道をつけた客観的な諸原因を越えて、政治的な次元でなされなければならない。大きな政治的事件に突き当たった際には実際これまでも、指導グループは書記長自身を先頭に、改良主義的諸理念の虜のままだった。そしてそれは、階級闘争が政治的成果という問題を提起する度毎に、再発している。これらの理念は、一体としての機構のもつ官僚的な実践と相携えている。そしてこの機構は、あまり大きくはないとしても、その穏健で保守的な圧力を常に新たにしてきたのだ。今回の問題におけるNPCの指導的活動家の布陣は印象的だった。それは、党に関する忠誠主義理念を表現している。かつての「民主的プロレタリアート」(注4)に由来する部分が今回の場合に果たした役割は、特に否定的なものだった。

我々がとった路線

 PRCの歴史の中で、「バンディエラ・ロッサ」に結集する政治潮流は一貫して、自身の活動家が党の活動に実体的に定着する条件を生み出そうとしてきた。それは、階級的主導性と社会への根付きを促進することの追及でもあった。我々にとって「再建」は、それによって我々が新たな革命的政治課題に向かって移行できるかもしれない、他に例のない機会であり道具であると見えた。その途上には、くぐり抜けるべきものとしての衝突、決裂、実験、いくつもの新たな出発、そして再編を含む、複雑な過程が想定されていた。
 我々が想定した進展は、最終的な一つの反資本主義勢力に向かう一直線的な進路ではなく、むしろ矛盾に満ちた過程だった。そのため我々は局面全体を通じて、党の中に広範で多元的な左派を作り上げようと挑戦してきた。そこには与えられた時期に応じていくつかの成功があった。しかしそこでは我々は、結束の固いグループになったり、一つの混ざりもののない戦略的路線を提出するために目的意識的に働きかけることはしなかった。
 1998年のコスッタ支持者の分裂及びプロディ政府との決裂決定を一方として、他方の政治的光景に現れた世界的公正を求める運動の爆発は、前大会に見られたように、党の左への進展に導いた。

社会運動

 上に述べた理由から我々はまさに最初から、1998年に始まった歩みを支持することを決定した。そして我々は、大会を通して浮上した路線を支え、それを先頭で、かつその限界を超えようとする点にまで推し進めた。我々は我々の力を指導グループ内に、多数派活動家との作業関係に投入した。そこにおいては、革命的な党の建設にとってはこれが最も有利な道筋だとの意識があった。しかし同時に、前進が保障されているわけでは決してないということも、対立が相変わらず残っていることもまた意識されていた。PRCの政治路線における転換は、「諸運動の運動」に直接に波及した。理由は簡単であり、「ジェノバの民衆」に党が一体化していたからだ。そしてこの運動は独自の困難に直面していた。それは、その歴史の新たな段階に向かう道筋、という問題だ。こうしてこの運動は、これらの諸困難がPRCの故にさらに増大したことを目にしている。
 運動の攻勢について語ることは例えできないとしてもそれでも、反新自由主義の抵抗の強力な潜在力が変わることなく存在していることは疑いない。ここ2,3ヶ月の間でも我々は、核廃棄物反対の部分的勝利を含んだ戦闘を目にした。さらに、交通関係の数え切れないストライキ、年金に関する労組の諸行動の再開、FIOM(金属労働者の全国組合)の抵抗などがあった。他の分野においても、例えば民主主義と報道の自由のように、部分的闘争と抵抗がある。そして数限りない国際連帯の働きかけと並んで、ペルージャ―アッシジ平和行進に示される平和主義の感情がある。これらをあれこれ考えてみれば、客観的条件―新自由主義政策のもつ残酷さ、要求されている代償の耐えがたさ、益々つのる反ベルルスコーニ感情、そして戦争―は、諸運動の爆発を見た2000〜2002年の時期の条件とそっくりそのまま同じなのだ。
 しかしこれらは、実現された勝利というよりも未だ闘争と運動としてある。そして、直接民主主義的表現や自己組織という側面では、今尚具体的な諸問題がある。イタリアの運動が持つ特殊な性格の故に―ジェノバの日々(2001年)は反政府側にのしかかっていた政治的真空を「埋めた」のだが、その時以来イタリアの運動は、社会的運動というよりも政治的な意味を持つことになっている―、ベルルスコーニ政府への反対をより明確な政治的枠組の形で解釈したいとの誘惑がある。こうしてPRCの転換は、イタリア社会フォーラムを作り出した諸運動と社会団体の指導グループ内―例えば、リリプットやARCL、さらにFIOMの一部ですら―で、さらに最大の労組ナショナルセンター、CGIL内ではもちろんそれ以上に、一定の賛同で迎えられた。他方より急進的な部分、例えばCOBAS(基礎委員会―独立の労組―訳注)の諸労組や市民的不服従の社会運動からは強力な反対の動きが現れた。
 ただ、社会運動の一定の枠組から現れたこの賛同は幻想を与えることになった。それは、政府という観点に立った中道左派との提携に対する政治的提案が、実質のある成果を得る点での運動の困難を克服可能とする方向なのかもしれない、という幻想だ。しかし現実には、この提案の結果はエネルギーの分散に終わった。それは、諸運動の効率を上げる―それはそもそも、運動の目標を自律的に決定し、独立した闘争の機関と構造を獲得するに当たっての運動側の能力に依存する―こととはかけ離れたものだった。

PRCはどこへ?

 PRCの転換は、ヨーロッパの主な共産党と共に一つの「ヨーロッパ左翼の党」を建設する―大陸規模における代替的政治主体を建設するために―、という指導部の意志と共にある。しかしそれは、主要に議会主義的な精神と一体となった間に合わせ的なやり方すすんでいる。そして他方でそれは、フランスのLCRとの間で築き上げた関係を基盤に、反資本主義左翼との諸関係を構築することを目的に重ねられてきた作業を疑問に伏し、伝統的共産党間で「コミンフォルム」の伝統に起源を持つ連携に似たものを再生産する形になっている。
 しかしそれは何よりも、新自由主義左派との間で連立政府協定を結ぶ準備のできた諸党の提携なのだ。こうして、「ヨーロッパ左翼の党」の創立宣言は、EU憲法の構想については何事も語らず、軍事化されたヨーロッパの可能性を容認し、そして安定協定(通貨に関する―訳注)が孕む問題に関しては問題をはっきりさせていない。PRC内の現局面はこうして、大部分新しく未知のもので一杯だ。我々の政治潮流は、その政治的歴史的一貫性を放棄することなく、またさまざまな歴史と経験の凝集は徹底的な明晰化を要するということを意識して、この党の建設に真摯に取り掛かっている。
 不幸なことに事実は、上述した我々の確信を確かなものとしている。我々は今日、党の多数派から距離を置き、近年における党の最良の特色を基礎としてまた運動への関与を出発点として、明確に代替的な路線を入念に形作るよう迫られている。
 これはたやすいことではない。確かに、イタリアにおける階級闘争の力学、さらにヨーロッパにおいて最も憎まれている政府の一つと真正面から対抗することの重さ、これらが我々が追求する路線―反右翼統一戦線であると同時に、首尾一貫した反資本主義左翼を建設するという決意をも含んだ―を特に困難なものとする。しかしそれは、支持を受けるに値するただ一つの道なのだ。
(注)筆者は、バンディエラ・ロッサ潮流支持者(第4インターナショナルに帰属するPRC党員)であり、かつPRC全国指導部の一員。
注1.この国民投票の目的は、不公正な解雇からの保護を小企業(被雇用者15人未満)の労働者に拡張することだった。
注2.オリーブの木は、社会民主主義勢力(元PCI多数派の社民化から生まれたDS)とキリスト教民主主義者を中心とする、中道左派の選挙連合。
注3.パルミロ・トリアッティ(1893−1964)は、PCI創立者の一人であり、1926年のアントニオ・グラムシ逮捕後にその指導者になった。彼は、1945年6月から1947年5月まで閣僚だった。彼はグラムシの著作を出版したが、それらに改良主義的解釈を施した。ソ連共産党20回大会(1956)後に彼は、PCIにクレムリンから距離をとらせた。
注4.民主的プロレタリア(DP)は、PRCにその創立時点で合流した極左組織。第4インターナショナルイタリア支部であった革命的共産主義同盟の活動家は、数年間DPとの連合の下で活動した後に、潮流を維持し、その月刊誌「バンディエラ・ロッサ」の発行を続けつつ、PRCに合流した。この二つの組織はPRCに同時に合流したが、建設されるべき党については異なった考えをもっていた。
(「インターナショナル・ビューポイント」5・6月号)

参考―PRC内部の論争状況(HP版のみ掲載)

 二〇〇四年三月六―七日、ローマで開催されたPRCのNPCにおいて、バンディエラ・ロッサ潮流の九人の活動家が署名した文書が提出され投票に付された。この九人とは、ジジ・マラバルバ、フラビア・ダンジェリ、フランコ・ティリリアット、サルバトーレ・カンナボ、リディア・チリッロ、バルバラ・フェルッソ、エレナ・マジョラナ、リビオ・マイタン、ナンド・シメオネであり、二〇〇二年の前回大会では党多数派に属していた。 今NPCは、多数派が提出した決議案を六七票の賛成で採択した。この決議案は、五月八―九日、ローマで創立大会が開催されることになっていたヨーロッパ左翼党(PGE)への合流を支持するものだった。一方五三人はこの構想に反対した。反対派は四つの決議案に割れた。一つは、PGEの構想を批判するものだったが、その理由は、この中により正統的な共産党(ギリシャのKKE、ポルトガル共産党、さらに東欧の共産党)が含まれていないからだった。そしてこの決議案は、PGE創立大会をEU議会選の後まで延期するよう求めていた(支持三〇票)。他の二つは、PGEの構想を改良主義への降伏とみなすもの(支持一二票)と、それを「階級綱領」の放棄であると責めるもの(支持四票)である。そして最後が、先の九人連名の文書であった。この文書は七名に支持された(署名者の内二名欠席)。
 NPCは、PGE創立大会でPRCを代表する一二名の代議員団―男女各六名づつ―を選出した。ここにはジジ・マラバルバとフラビア・ダンジェリが含まれている。(「インターナショナル・ビューポイント」五・六月号)
―なお、ここで触れたバンディエラ・ロッサ潮流の文書の政治的基本線は、本紙に掲載したフラビアの論考に沿っている―訳者―

 
 
 
 
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