2004年12月10日        労働者の力             第 177号


小泉内閣はイラク派兵の継続を止めよ

川端康夫


 小泉内閣は、この一二月九日に、イラク特措法を改悪し、一年間の自衛隊イラク派兵継続を閣議決定した。その中で、状況次第では短縮もあり得るとの含みを持たせているが、派兵各国のイラク撤退計画が相次ぐ中での自衛隊派兵の継続である。イラク特措法は四年間の時限立法で、再延長の可能性もあるが、政府は撤退時期を明示していない。政府は「イラクの政治プロセスや治安状況を見極め、必要に応じて適切な措置を講ずる」という項目を設け、派兵期間内での撤退の可能性を明示せざるを得なかった。報道各社の世論調査は、自衛隊撤退要求が三分の二にのぼり、駐留支持派の三倍近いことを示している。政府与党は国民の声に公然と背を向ける道を選択した。しかしその先に、彼らはなんの自信も持っていない。

泥沼に陥ったアメリカのイラク侵略

 イラクでは、三月に撤退するオランダに続き、ウクライナも対立する与野党が双方ともにイラクからの撤退を掲げ、撤退の国会決議を上げた。ウクライナ問題の調停に入っているポーランドは、こうした動きに困惑している。ポーランドはイラク南部で多国籍軍を率いており、一六〇〇人を派兵しているウクライナ軍が撤退に踏み切った場合、部隊編成が不可能になることも予測されている。そのポーランド自身も、国内では撤退要求が高まっているのだ。
 イラク情勢は「悪化の一途」をたどっている。
 アメリカ軍は一五万人まで増員される。来年の選挙に向けての備えである。
 イラクで活動する多国籍軍は一日現在、日本を含む三〇カ国、計約一六万三〇〇〇人が展開している。ブッシュ米大統領が昨年五月に大規模戦闘終結を宣言して以降の死者は六日現在、一四カ国で計一二一三人に上る。犠牲者の九割以上が米兵だ。自衛隊が活動するムサンナ州でもこれまでにオランダ兵二人が襲撃され死亡している。来年一月の選挙を控えて治安が悪化しつつあり、さらに犠牲者が増える恐れがある。その選挙であるが、ロイター通信は以下のように報じている。
 ―イラク内務省の報道官は八日、来年一月三〇日予定の国民議会選挙で安全に投票ができるよう、アラウィ暫定首相が投票日を数日間設定することを提案していることについて、「よい考えだ。有権者が急いで投票する必要がなくなり、攻撃の対象になりやすい長い列もできなくなる。」と支持する姿勢を示した。選挙日程の最終決定を下す独立選挙委員会の当局者のコメントは、今のところ得られていない。―
 また七日付の米ニューヨーク・タイムズ(NYT)紙によると、米中央情報局(CIA)の機密資料では、イラク情勢は悪化しており、速やかに改善する見込みはないとする悲観的な見通しが示されている。政府当局者らは同紙に、これはブッシュ大統領が一般向けに発表しているものより悲観的だとし、イラク情勢は混迷しており、前途に控える困難を考えると、情勢が改善しているというニュースも色あせる、との見方を示した。CIAは、機密資料についてはコメントしない、としている。
 以下は毎日新聞。
 ―悪化するイラクの治安情勢に関し、イラク暫定政府のサレハ副首相は七日、「周辺国がイラク人の殺害に手を貸している」と厳しく批判した。これは、周辺国からの過激派流入に悩む暫定政府がシリアやイランに対し、国境監視を強化すべきだとの考えを強調したものとみられる。
 サレハ副首相はイラク国民議会で「複数の周辺国の複数のグループが、イラク人を殺害するのに直接的な役割を果たしていることを示す証拠がある。我々はこうした事実を受け入れられない」と語った。
 イラク暫定政府はこれまでも、周辺国に対し国境の監視強化を要求。先月三〇日にテヘランで開かれたイラク周辺国によるテロ対策会議でも、各国は国境監視強化の必要性を認めていた。しかし、シリアやイランには「長い国境線を完全に監視し、過激派を封じ込めることは不可能」との考えも根強い。―

オランダ軍三月撤退が示唆するもの
 
 今度の決定に先立ち、大野防衛庁長官や与党幹事長らがサマワを訪れ、サマワはまったく安全だとの認識を示しており、それが今日の閣議決定の布石となった。しかし、現地サマワの状況は、「まったく安全」という冬柴の言明とは正反対なのだ。
 以下は七日発の共同通信からの引用である。
―陸上自衛隊が活動するイラク南部サマワで、イスラム教シーア派の反米指導者サドル師派幹部であるカジ・ザルガニ師は七日までに、「自衛隊は占領軍」との認識をあらめて表明、「日本国民は、日本政府に陸上自衛隊の撤退を求めるべきだ」と述べた。
 日本政府は九日の閣議決定で自衛隊の一年間の派遣延長を決定する方針だが、今年八月まで中部ナジャフなどで民兵組織を率い、米軍など各国軍部隊と戦闘を繰り返してきたサドル師派の動向は、今後もサマワの不安定要因となりそうだ。
 ザルガニ師は、日本政府がオランダ軍撤退の後の治安維持を要請しているイギリス軍について「彼らは誠実でなく、イスラムを敵視している。」「われわれは占領者を打ちのめす」と対決姿勢を強調した。―
 自衛隊がサマワの治安維持を依頼するイギリス軍は、アメリカ軍とならんで、反占領武装勢力の正面の敵である。オランダ軍の場合とは違う。政府の撤退時期への含みも、この点を考慮してのことかも知れない。大野防衛庁長官の言はあれ、現地の自衛隊では、「安定」の言葉とは裏腹に、宿営地では隊員宿泊施設の耐弾工事が急ピッチで進められている。隊員の身を守る自動小銃は迅速に射撃できるよう安全装置に改良を加えた。不測の事態への備えは着々と進められているのだ。 
 また、サマワでの自衛隊の活動状況は以下の通りである。
 イラク南部サマワで約三カ月の任務を終えた陸上自衛隊第三次イラク復興支援群長の松村五郎一佐(四五)は七日(日本時間同日)クウェートで共同通信記者と単独会見した。
 宿営地への砲弾攻撃について「外国からの流入者に対する反発の一環として、自衛隊にも攻撃をしていると思う」と述べ、復興支援の今後の課題として「民間会社でなければ見積もりができない大きな橋や発電所などの大規模事業」を挙げ、政府開発援助(ODA)による復興支援の重要性を強調した。
 松村群長は復興支援活動の成果として(一)六万人分の飲み水二五〇トンを毎日供給(二)病院などへ約三〇回の巡回指導(三)滞在中に学校八校の修復が完成し、総延長約四八キロの道路を整備―などを明らかにした。
 さらに派遣隊員は三月下旬から給水、道路・学校補修、医療指導の活動を開始した。近い将来、給水任務は縮小し、補修事業は隊員自身が手がけることも検討されたが、現地業者の施工能力は高く、治安を安定させる効果を狙って業者を雇用することにしているという。つまりこの記者会見で、派兵部隊はたいしたことはやれていないと述べているに等しい。
 一〇月に来日したムサンナ州知事が外務省に最も強く要請したのが電力事情の改善だった。今月五日にサマワを視察した大野功統防衛庁長官も、懇談したオランダ軍指揮官から「電力整備が必要」と指摘された。しかし、電力支援は一一月にようやく政府開発援助(ODA)による小型発電機九台の無償供与が決まっただけ。しかも、実際に供与されるのは来年以降という遅さで、「自衛隊は期待を裏切った」と市民の日本への不信感を生み出す要因にもなっている。 
 
怯える自民党 
 
 しかし与党内部に異論が全然ないわけでもない。自民党の古賀誠元幹事長は八日午後、札幌市内で講演し、イラクへの自衛隊派遣延長が九日に閣議決定されることについて「あまりにも政治の貧困が過ぎるのではないか。国会や自民党の部会でなぜ一年延長が必要かなどもっと議論するべきだ。慎重に運ぶべきだ」と述べ、政府や自民党執行部の対応を批判した。
 また自民党内で派遣延長に異論を唱えているのが古賀氏や加藤紘一元幹事長らに限られている党の現状について「国民の目にどう映るのか。恥じていかないといけない」と強調した。
 イラクへの自衛隊派遣期間の延長を了承した八日の自民党国防関係合同部会では、武部勤幹事長がサマワ視察の結果を報告後に一五人が発言したが、反対意見はなかった。ただ多くの議員は延長を認めつつも「国民はこのままでは撤退のタイミングを失うと危ぐしている。撤退について柔軟に対応する用意があることを明確化させるべきだ」と指摘。派遣先のサマワからオランダ軍が来年三月に撤退した後の治安維持を懸念する声も相次いだ。自民党はイラクにおける自衛隊への本格的武装攻撃に怯え始めているのだ。
 加藤氏や古賀氏の勢力は一部だが、明確に存在していることの意味は大きい。小泉自民党の内的亀裂は改憲草案をめぐっての自民党内部の混乱にも示されている。自民党の憲法草案は、参議院側の反発や自衛隊現職に草案作成を委ねていたことなどによって、草案そのものの事実上の廃棄と起草委員会の解散、新委員会の組織化ということで落着したが、草案作成は大きくおくれることになる。
 アメリカのイラクでのつまずきは、ドルの動揺と一つながりである。他に代わりとなる確固たる通貨がない以上、ドルが一挙的に暴落することは当面ないだろう。しかし、そのリスクが不断に高まり、その動揺が止まることなく大きくなることはほとんど確定的である。最大のドル資産保有国日本のブルジョアジーにとって楽観できない状況が目の前にある。まさにこのような状況の中で、中国との関係修復が改めて課題とされている。右派のノーテンキな攻勢の足元には巨大な暗闇が口を開けているのだ。
 支配層の底辺では動揺が渦巻き始めた。結局、与党は二年前に自らが下した政治的決定に何らの責任をも示さず、かといって方針変更の決断を下すことも出来ず、「アメリカがうまくやる」ことをひたすら祈りつつ、事態に流されているに過ぎない。ある意味で戦前的な無責任状況が現出している。政治の漂流にくさびを打ち込み、統制する民衆的な力を登場させる空間は、伸縮を繰り返しつつ客観的に広がろうとしている。社会の解体と荒廃に呻吟し、自己の内に閉じこもる民衆多数派の意識が外に向かい能動性を取り戻す機会と可能性を貪欲に追求しなければならない。イラクからの自衛隊撤退、米軍の撤退を要求する草の根からの声をあきらめることなく結集しよう。支配階級に対抗する民衆の新たな政治的結集は、そして左派の創造性が、改めて現実の中から要求されている。(一二月九日)

資料
イラクの現況を御伝えしましょう。


 ATTAC・JAPANにイラク民主化国民潮流(CONDI)よりのメッセージが届いています。イラクの現状を具体的に伝える貴重なメッセージです。転載可とのことなので、ここに転載します―編集部

ファルージャ攻撃の実相は何か。

 ファルージャはバグダッドから六五キロ西にいった、砂漠が始まる入り口の人口三〇万ばかりの小都市です。ファルージャは多少の放牧業と公務、とくに若者 が服務している軍隊以外の仕事がない町でした。若い兵士でよく教育されたものは軍人学校に行き、士官となるのです。町はいくつかの小さな集落に囲まれており、それらはファルージャと生活面で密接な関係を持ち、とくに、家族関係を持っています。すべての住民は二―三の大きな部族に属しており、以前は遊牧をしたりしていましたが、その地域のバディア・アス=シャム砂漠の反対側のヨルダンやシリアと密輸入を営んでいたのです。それゆえ、シリアやヨルダンの部族とたいへんつながりが深く、それは部族ルーツの延長とも言えるのです。ということは、同時にこの地域では、部族的な連帯感が非常に強いし、サダム・フセイン政権の石油の思いがけない賜物によって、福祉国家となったずっと以前のことです。このように前置きを長く申し上げるのは、ファルージャがどのような町か理解していただきたいからです。
 サダム・フセインは資源の欠乏を非常にうまく利用し、部族的な側面では、この地域を軍への志願者たちの宝庫にし、また体制の基礎に利用したのです。そして、野望を持ったこの地域の士官の一群が現れたときには、厳しい弾圧を 加えたこともあります。ですから、この町を旧体制の根城だという説は、ひとりのザルカウィなるものが、低い鼻でこの地域の大きな部族を率いている、という説と同様に、根拠が薄いのです。たしかに、ファルージャには、経験を積んだ士官、兵士が沢山おり、部族の絆が強いのです。こうした事実によって、アメリカ軍に対して、抵抗する能力と意志、そしてイラク人以外のある程度の数のアラブの戦士がいることを説明できるのです。しかし、あくまでもそれだけのことです。
 アメリカ軍はファルージャに対して、常軌を逸脱した大きな攻撃を仕掛けました。大半が三階建てのレンガ作りの家で構成されているこの小さな町は砂漠の真ん中にあるのです。アメリカ軍は、この攻撃を予定通りに行いました。それはイラク民衆全体を恐怖に陥れるのを目的とする戦略なのです。ファルージャにおいて、言語同断な武力鎮圧を行い、アメリカ合州国は、イラクの残りの部分すべてが降参して、アメリカのプレザンスが打ち勝つことのできない宿命として受け入れることを期待しているのです。これこそが、殺戮するための意志が実行されたファルージャの真実です。公式にはイラク政府は二〇八五名の死者と一六〇〇名の捕虜をあげていますが、イギリスの情報は犠牲者の八五%が民間人であると伝えています。「公式には」、アラブの戦士は前夜に逃げ出しており、そこにはいなかったことになっています。今、アメリカ軍は彼らを捜して、モスル、マフムーディイヤ、サマッラ、そしてバッソラなど、南部でも追求しています。迷子になった犬や猫が、住民の死体、男、女、子供の屍骸を食べ歩いている、というのが真実です。民間支援や医療支援が町に入ることは、故意に禁止し、市内に配達することを無限に遅れさせているのです。テレビで放映された人のみならず、複数の負傷者たちが故意に殺害されました。このような惨さは計算済みだというべきでしょう。軍事行為の規制される限界はなく、やり放題なのです。すべてが屈辱を受け、アメリカ軍によって寺院は破壊され、荒らされ、そこを兵士の休憩場所にしているのです(軍靴を履いた兵士たちが武器を持って寝ているアメリカ兵たちの写真をすでにテレビでみたことでしょう)。虐殺と侮辱、恐怖が、予防的、永続的戦争の武器です。「我々と一緒でないものたちすべては我々の敵である。我々に反対するものはどのような運命が待ち受けているか知るべきだ。死か、さもなくば逮捕だ」と、ファルージャ作戦の始めに、バグダッドで、アメリカの高官が表明しています。

抵抗運動の現状は?

 数ヶ月前は、シーア派の聖都ナジャフが攻撃されていました。明日は、ファルージャと同じ虐殺がイラクの他の都市でも見いだされることでしょう。イラク人民が服従するのを拒否する限り、抵抗運動は移動しつつ、あちこちで起こるでしょう。そして弾圧も巡回しながら行われるでしょう。テロル(激しい恐怖)は、イラクのように占領され略奪された国を平和にすることはできません。提案されたもう一つの政治は、国全体のコンセンサスも得られない傀儡政権の受容でした。この政府は、選挙という政治的なプロセスを開始したいと言いつつ、非常事態宣言を発令しているのです。そのうえ、これに参加することを拒否することは、戦争行為と同じだと見なしているのです。以上の名目の元に、また政府のいう〈政治的なプロセス〉に無理矢理参加させるために、ナジャフで、ムクタダ・サドルに対する作戦を行ったのです。しかも、立候補と選挙の方法は、すべて封印され、事前に形が整えられ、つまり偽造されています。
 この一〇日間くらいの間に起こったあらゆることにも関わらず、イラク人民は押しつぶされることもなく,無気力状態に陥ってもいません。イラクの抵抗運動は、とりわけ、占領と傀儡たちに対する一般化した民衆的な拒否の現れです。抵抗は増幅しており、シーア派であれ、スンナ派であれ非常に多様なイスラム教徒の小グループに属しているものから、バアス党(必ずしもすべてが旧政権に忠実なものばかりではない)関係から、偶然的な関係で地域的に立ち上がった無数のグループがあります。抵抗運動は、始まったばかりであり、統一的な組織体系はまだできておらず、戦略は明確化されていません。それゆえ、現場で起こることをすべて総合的に把握できてないのですが、統一的な抵抗戦線と政治意識を作る必要性をみな感じています。というのは、アメリカ軍を相手に、抵抗状況が爆発的に発生している事態が止まないとするなら、質的転換の緊急な必要性も感じており,そのための努力をしている最中です。

アラウイ政権について

 現在のイラク政府は、間違いなく傀儡政権で、アメリカのゲームを演じているのです。彼らはアメリカに役立つ作業を行っている。占領者によって作られた、あるいは協力する現場の政権なく占領することなど、今まであったためしはありません。サイゴン政権なくして、アメリカはヴェトナムに介入したでしょうか。これは主権を持った独立国家となるための〈中間的〉な、あるいは〈過渡期の〉政府ではありません。これらの言葉によってアメリカ政府が意図しているものは、現状をより安定的に、より正当化するためです。これはページをめくって全く新しいものを作り出すのではなくて、現在ある状況を強固にすることだけが意図されているのです。もし、選挙があるなら、そのことが目的です。選挙は、恐らくあちこちで勃発する抵抗運動で、延期され、実行することはできないでしょう。もくろまれている選挙は〈民主的な〉占領を主題にしているからです。恐怖を引き起こす攻撃は、イラク人たちに、もう希望はないのだと説得しようとしているのです。それゆえ、今、ファルージャで、このようなやり方で虐殺があったのです。しかし、それはイラク人が望んでいることではないし、満足できることでもありません。八月にあったベイルートでの憲法制定会議準備会議はイラクのあらゆる潮流の代表者たち三五〇名が集まり、憲法制定会議設立の必要性を主張し、この会議こそが政治的プロセスを行うのであって、傀儡政権ではないことを確認しました。憲法制定会議は、一つの政党ではありません。また複数政党の戦線でもなく、これは、多くの貧困と独裁政治、長い戦争と、最後には占領に取って代わられた禁輸処置の後、イラクの政治生活に初めて生まれるはずの基礎的な議会なのです。この会議を支持する署名運動が現在、全国で行われており、この憲法制定議会設立への要望を国際機関に提出し、イラク人の意志を考慮するように、また憲法制定会議実現を支援するように要請する予定です。多くの民衆的運動は、私たちのオルタナティヴな提案を支持するでしょう。

 最後に日本の皆さんに肝心なことを申し上げましょう。
私たちは、イラクの領土における自衛隊のプレザンスは戦争行為にあたることを、またこのプレザンスは占領に加担している行為であるとはっきり言いましょう。それは、昨年派遣され、現在駐留し、これから、派遣延長することを考えている現時点において、明らかなことです。暴力行為や、侵略行為、攻撃や虐殺をしていないとしても、このプレザンスの意味は一向に変わりません。というのも、自衛隊が何の攻撃を受けないと保障するものは、何もないからです。自衛隊が配置されている地方が、いつ何時、攻撃が発生するかも分からず、もしそれが起これば、自衛隊は余儀なくその動きに関与せざるを得なくなるからです。いずれにせよ、イラクにおける皆さんの国の軍事的プレザンスのせいで、日本がイラクに敵意を抱いていると解釈されているのです。日本の民間人は、彼らが政府と関係有る無しに関わらず、時には政府に反対の立場であろうが、拉致され、幽閉され、時には殺されるといったように、イラク人から敵意を持って扱われています。私たちは、常に、これらの行為を厳格に非難し、拒否してきました。残念ながら、私たちCONDIは,いつもこれらの日本の民間人をすべて救い出すことがきませんでした。彼らの苦しみと彼らの喪失は悲劇であります。イラクにおける日本の軍事的プレザンスとそれを決定した日本政府に責任がありますが、しかし、これらの犯罪の重みは、イラク人民の肩に、我々イラク人の意識にのしかかってきており、私たちは二重に苦しむのです。すなわち、占領行為とその行為がもたらすいくつかの結果です。日本の兵士たちが,宿営地に隔離されて何もしていないのなら、なぜ,そこにいるのでしょうか。アメリカ政権を喜ばすためなのでしょうか。日本はそれほどまでに、アメリカに服従しているのでしょうか。イラク社会にたいして、人道支援をおこなうために、私たちに報道されているように、水道工事や病院や学校建設をしつつあるというのでしょうか。もしそうなら、軍隊である必要性はありません。二〇〇三年一二月、私がCONDIのスポークスマンとして日本を訪れたとき、日本政府に提案したように、友情と連帯に基づいた日本の民間のプレザンスこそが、必要なのです。
今、日本の軍隊はイラクから立ち去るべきです。自衛隊の派遣期間の更新をしてはなりません。

アブデル=アミール・アル・リカービ (イラク民主化国民潮流)

 
第4次イラク派兵に反対し、                  連続的に仙台で抗議行動           

(前号からの続報)十一月二十八日、第四次イラク派兵の第三陣、最後の百二十人が仙台空港からクウェートに向けて出発した。防衛庁による部隊編成命令、隊旗授与式など一連の派兵手続きは当初予定から繰り下げられた。香田証生さんが拘束、殺害され、また現地では自衛隊への攻撃が続き、その影響、とくに国内世論に配慮したためだ。しかし、第四次派兵はスケジュール通り、しかも「期限延長」を前提として強行された。
 十一月五日、部隊編成完結式に続いて非公開の激励会が行なわれ、東北方面隊の奥村総監は派遣隊員と家族ら千名を前に、「イラクへは戦争をしに行くのではない。イラク人と同じ目線で、充実感を持って活動してほしい」と訓示したという。十三日昼、山形県東根市の神町基地(陸上自衛隊第六師団)で隊旗授与式が行なわれた。大野防衛庁長官は、「サマワは治安がいいところ。安心して見送ってほしい」と家族に呼びかけた。「現地では百四十人が参加して自衛隊を支援するデモがあり、『自衛隊を歓迎する、友人としてサマワに残ってほしい』と手紙が届いた」など、身内の儀式であるとはいえ、都合の良い情報の断片を並べ立てた訓示であった。

集会と抗議申し入れ―宮城全労協

 宮城全労協は第一陣が飛び立つ前日の十一月十二日に緊急抗議行動を呼びかけた。実行委員会は十月二十七日に続き、派兵命令の抗議と中止を求める再度の申し入れを陸上自衛隊東北方面隊と宮城県に対して行なった。東北方面隊では、「申し入れ文は方面隊総監に届くが、請願として受け取るのであって返答の義務はない」との対応であった。宮城県は、「我が国が国際社会の一員として、どのような役割を果たすべきか、どのような貢献が可能なのかを慎重に判断し、イラク復興の役割を担うことが必要」、「イラク第四次派遣中止を政府に対し申し入れることは考えていない」などと文書回答した。
 抗議集会には東京から井上澄夫さん(市民違憲公告・事務局)が出席し、「日本の戦争―私たちはどのような時代に生きているのか」と題して講演した。井上さんはとくに湾岸戦争とカンボジアPKO以降今日に至る状況をつぶさに検証し、日本の防衛戦略が米軍の世界的な再編と一体になって進行していることを説明した。井上さんはその上で、「憲法改悪は、日本資本の海外権益を擁護するため、世界のどこででも日米共同戦争を展開するための全面的国家・社会再編」であり、「戦後民主主義的価値の全面否定をもくろむ総攻撃」、「国家権力を縛る憲法から『国民』を縛る憲法への根本的転換」である。したがって、「具体的な反戦の活動によって九条の意味を実現することをめざす」総対決の運動が問われていると訴えた。
 集会には沖縄米軍の実弾砲撃演習に反対する王城寺原住民からメッセージが寄せられた。集会当日の十二日には沖縄駐留米軍・第三海兵師団の先発隊が宮城県に入った。「本土分散演習」が恒常化して今回で七回目の演習であり、周辺整備も防衛庁予算によって進められている。小泉首相の「本土移転」発言が住民の不安をかき立てている。だが、宮城県は、「演習は国の責任で実施され、やむを得ない」、「本土移転については、国から説明を受けていないので、現段階では特段の対応は考えていない」という立場だ。

憲法九条と自衛隊撤退を旗印に全県統一行動、四五〇〇人を結集

 また十一月二十一日には「憲法九条を守る宮城県集会−自衛隊をイラクから撤退させ、戦争のない世界を−」が開催され、東北各県からも含めて四千五百人が参加した。三月、イラク開戦一周年にあたって「イラク派兵反対・平和憲法擁護」の宮城県集会が開催され三千人が結集したが、今回の集会はこれを引き継ぎつつ「九条の会」との共催という形で開催された。主催者を代表して後藤東陽さん、「九条の会」の弁士たち(井上ひさし、澤地久枝、三木睦子、加藤周一の各氏)、イラク派遣違憲訴訟・仙台訴訟弁護団などの発言が続いた。多くの参加者が会場の仙台国際センターに入りきれず、芝生に座り込み、スピーカーを通して発言を聞いた。集会は最後にアピールを採択し、市内を行進した。
(仙台) 
 
     年末カンパへのご協力をお願いします
 
 世界社会フォーラムに結集する人びとは、全世界的な反戦闘争を波状的に組織し、イラク民衆との連帯を行っています。こうした二一世紀の新たな民衆的高揚を、新しいインターナショナルへと結実させようと考えております。この私たちのたたかいを後押ししてくださるよう、お願い申し上げます。
 国際主義労働者全国協議会 郵便振替 00110―2―415220
 

    
シリア
クルド政党「イェキティ」指導者、マルワン・オスワンへのインタビュー


   
インタビュアー/クリス・デン・ホント              
 


 マルワン・オスワンは、シリアのクルド人の中で第二の影響力をもつ政党、「イェキティ」の四十五才になる指導者であり、トロツキストを自認している。一人の詩人としての彼は、さまざまな時期に四年近くを思想犯として獄中で送った。彼は今回、国際ペンクラブのゲストとしてパリとブリュッセルを訪れるため、シリアを離れることができた。しかし彼は国に帰るつもりでいる。彼は体制民主化のためにシリア左翼との連携を主張し、二〇〇四年三月二十五日のサッカー試合場では現場にいた。ここでは、警察との衝突が起こり、何十人もの死者が出た。彼の党は、二百万人に上るシリアのクルド人に対する基本的権利の容認と、シリア国家の枠内におけるより多くの自治を求める要求を支持している。

シリアにおけるクルド人の状況は?

 シリア政権は何年もの間、クルド文化をアラブ化しようとしてきた。クルド人は自身の言語で教育を受ける権利をもっていない。我々の目標は、人々がモザイク状であるという現実をシリアが尊重するようになる、ということだ。我々の言語と我々の文化に対する禁圧をシリア国家が終わらせることを、我々は要求している。我々が要求しているものは、他の諸国にはある少数派の権利といったものだ。そして明らかだが、全政治犯の解放もその一つだ。シリアにいる合計二〇〇万のクルド人の内二五万人は、身分証明書を全く持っていない。従って彼らは、シリア国籍も、公共部門で働く権利も土地や家を買う権利も持っていない。それ故これら全ての人に、シリア国籍を与える必要がある。バシャール・アル―アサド大統領は、シリアの体制の民主化のためにも、クルド人とアラブ人の争いを止めたいとは思っている。
 しかしシリア国家はクルド人を恐れているのだ。我々は政治的に十分に組織され、かつ民衆を代表しているが、一方アラブ諸党は同じほどの民衆的支持を持っていない。アサド大統領は、とりわけクルド人とのアラブ人左翼の戦略的な提携に恐れを抱いている。それ故彼は、二つの民衆間の分断を深めるために、できることは何でもやっている。例えば二〇〇三年十二月十日、シリアでは初めてクルド人とアラブ人が一緒にデモを決行した。

投獄の理由は?また出獄の状況は?

 投獄されたのは、二〇〇二年十二月の人権要求国際デーにおけるシリア国会前のデモの後だ。デモで我々が要求したことはシリアにおける人権だった。我々の党、「イェキティ」(統一)は、権利を恐れるこの国に窓を開けるために、このデモを組織することを決定していた。しかし政府はデモを禁止し、いつものようにデモを組織した私と私の友人達を逮捕し投獄した。シリア政府はこの逮捕をもって、シリアの民衆を恐れさせ、我々がやったようなことをやらせまいとした。しかしこれはうまくゆかなかった。というのも、我々が法廷に現れたとき、そこにはデモの時の倍にもなる人々がいたからだ。そして我々が入廷した時全員が起立したのだ。一年二ヶ月後、国際的な圧力、特にアムネスティ・インターナショナルと国際ペンクラブの圧力の後で我々は釈放された。

―イラクの場合と同様、結果として起こりうるUSのシリア侵略について、あなたとあなたの党の考えは?

 最近中東で起きたことをあなたが注視しているならば極めて明確なように、その支配の増強がUSの望みである以上、我々は反対する。そのために我々は、クルド問題とシリアにおける民主主義の問題を解決するためにシリア政府に圧力をかけるべく、国会前のデモを組織したのだ。我々は、誰のためであれトロイの木馬になどなるつもりはない、と国会議長に語りかけた。シリアは我々の国である。がしかしそのためには、体制は我々を他の市民と同じ権利を持つシリア市民と認めなければならない。我々は、外国の権力の道具として奉仕することなど決して望まない。クルド人及び他の被抑圧シリア市民が外からの解決を求めることを阻止するためには、体制は我々に正当な権利を認めなければならない。 USは中東に関して前から特別な予定を立てている。しかしこの予定は、当地の民衆の予定とは決して両立不可能なのだ。アメリカ人はいずれ去る。しかしアラブ人とクルド人は全世界の全ての民衆と同様、一緒に住むことを運命付けられているのだ。そうであれば我々の問題は、アメリカ人であれ他の外国勢力であれ解決できない。

USが強制するシリアに対する禁輸についてのあなたの考えは?

 ある地域に対する禁輸はいつの場合でも、政府ではなく民衆を傷付ける。例えばイラクへの禁輸は、イラク政府をより強めた。一方でイラク民衆はさらに貧困になった。民衆のために窓を開ける代わりに、禁輸は窓を閉じ、体制をむしろより強硬にする。禁輸のために生活はより困難となり、民主化への障害はより多くなる。これは体制にとっての口実となるのだ。

シリアの体制の民主化実現に向けたあなたの戦略は?

 クルディスタンの全ての部分(アッシリア、シリア、アルメニア、クルド、アラブ、トルクメン)のクルド民衆は、多くの抑圧に苦しんできた。何回もの大虐殺があった。そしてそこには、シリア左翼が抱える問題がある。彼らはこれまで、クルドの抑圧に反対しては、何事をも発言したことがなかった。
 これは問題である。何故ならば、USが介入のためにクルド問題を使うことを阻止するために我々は、クルド人と左翼の間の分断、クルド人とアラブ人の分断を克服し、左翼的で民主的な諸党がクルド問題を解決するための架け橋と基盤を構築する必要があるからだ。クルド勢力単独では、シリアを民主化するための強さを持てない。左翼単独でもそうだ。従って我々は、双方の連携を必要としている。シリア左翼が取り掛かるべきことは、外国勢力とのつながりを理由にクルド勢力を責める前に、我々とつながりを持つこと、正確に言えば、シリアにおけるクルド問題解決のために外国勢力と連携しようとする全ての者達の足元から草を刈り取ることだ。何故ならば、人がどぶに落ちればそこから出るためにどんな綱でもつかもうとする、ということを理解する必要があるからだ。

トロツキストになった時期と理由は?またその今日的意味は?

 若い時から左翼は私を惹きつけた。シリア大学時代、左翼理念は支配的だった。七〇年代には、マルクス主義があらゆる所に広がっていた。ソ連に関する書物を読んだ後で私は、その体制はスターリニストの体制であり、マルクス主義を表しているわけではない、ということを理解した。これによって私は、他の軌跡、他の非スターリン主義的な枝分かれに従うよう導かれた。
 私は、毛沢東及びトロツキーの手になる多くの文書を読んだ。私が注目したことは、トロツキーの立場がマルクスのそれに近い、ということだった。さらに私は、他のマルクス主義潮流に比べてより多く、トロツキズムが物事を刷新できてきたこと、新しいものを生み出す能力を持っていたこと、を知った。一九八三年にわたしは、「トロツキーに依拠したマルクス主義」を採用した。そして直ぐに私は、シリアのクルド人の中でトロツキストグループを作り出した。そしてこのグループは、政府との間で、同時にクルドとシリアの他の左翼勢力との間で、多くの困難に遭遇した。
 我々は第四インターナショナルといくつかの関係を作った。一九八六年に我々の小さなグループは、我々の民族的シンボルであるクルドの新年、ネウロッツを祝うシリアで最初のデモを組織した。それは大成功だった。何千人ものクルド人がデモのためにやって来た。それ故全ての目が我々に注がれ、我々トロツキストグループの殆どは逮捕された。この事態は私を非常な困難に置いた。我々は全てを単独で続けることは不可能だった。
 それで我々は、内部にトロツキストを受け入れるクルド左翼諸党とのつながりを作り出した。これがクルド農民の党に関わる例だった。この党は我々を、一つのトロツキスト支部として内部に受け入れた。その後一九九二年に、我々は他の三つの党と共に「イェキティ」(統一)党を生み出した。この党は全ての左翼潮流を受け入れた。私は今、一人のよく知られたトロツキストとして、「イェキティ」指導部の一員だ。

獄中にいた長さは?またそこでどのようにして志を保ち続けたのか?

 一九八一年に私は、大学でネウロッツを祝ったために、また私がその組織者だったために逮捕され、一ヶ月拘留された。一九八四年に再度逮捕され、大統領特赦の後に出獄した。一九八六年には、先述の咎でまた刑務所に送られた。一九八八年には三ヶ月獄にいた。彼らは一九九二年にまた私を逮捕し数ヶ月閉じ込め、最後が二〇〇二年だった。私はこれらの逮捕を理由に探求を放棄することは決してなかった。私はいつも走り回っていた。大学に戻ろうと思っても、大学は私を受け入れなかった。全部で私はほぼ四年を牢獄で過ごした。シリアのような国であなたがもし反体制的な政治的闘士となることを選択したとするならば、あなた
には前もって分かるように、逮捕されることになる。私の構想がシリアを変革し、その全ての市民、クルド人とアラブ人のためにその国を民主化することである以上、私が獄に囚われるであろうということは分かっていた。シリアの刑務所は、そこでの囚人と看守の関係が非人間的なものであるが故に、非常に過酷だ。彼らは私の魂を殺そうとする。拷問は単に肉体的なものだけではなく、何よりも心理的なものだ。しかし私は、民衆が私を支持していることを知っていたのだから、私の士気を高く保持でき、私の理念を守り、釈放後に活動を続けることができた。帰国すればまた逮捕されることは分かっている。しかしそれは私を悩ますものではない。
(「インターナショナル・ビューポイント」八・九月号)
注.インタビュアーは、クルド語衛星テレビ、ROJTVと提携するジャーナリストであり、社会主義労働者党(POS、第四インターナショナルベルギー支部)党員。
 


―チェコ共和国―
チェコ共産主義者のヨーロッパへの道

           マーク・ジョンソン           
 

   チェコ共産党は、進歩性のある社会的で経済的な政策と、権威主義的で民族主義的な感情に対するつまらない愛着という奇妙な混成物をヨーロッパ議会に届けるだろう。しかし、故国における反共主義の退潮、そして西欧左翼の自由主義的潮流との接触は、党を近代的な反資本主義勢力へと転換するかもしれない。

社共連携に向けた圧力

 統治勢力である社会民主党に罰を与えることと並んで、チェコの有権者はヨーロッパ統合の現在の進展に対する強い懸念を明らかにした。投票者の六〇%以上が、「EU懐疑派」諸党、主にバクラフ・クラウス大統領の保守派、ODSと、ボヘミア及びモラビアの共産党を支持した。前者にとっては、個人的自由と国民的利益に対する主な「社会化の」脅威として、EUが共産主義に取って代わった。後者は、ブリュッセルが助力する新自由主義的改革、及び統合されたヨーロッパの枠内で特にドイツがチェコ共和国に及ぼすことになるより大きな政治的かつ経済的影響力、これら双方に反対している。
 弱体で優柔不断な政府が統治した二年後に、社会民主主義者の一派閥が、メディア―情報内務相、スタニスラフ・グロスを党指導部に駆り立てつつ、彼らの選挙敗北を指導部変更を強制するための口実として使った。彼には現在、多数派政府を作るために数週間の手持ち時間がある。
 九〇年代中盤以降のチェコ政治の逆説は、投票は左翼の多元性を明確に示しているものの、社会民主党はこれまで共産主義者との連携を考えることも拒否してきた、ということだ。そして共産主義者は国会議席の一五―二〇%を安定して確保している。グロスは少数派の中道諸党とカトリック諸党を必死口説いている。その一方で力を増しつつある彼自身の党の一派は、一九八九年の「ビロード革命」が五〇年の全体主義統治を終わらせてからこの方共産党との連携を妨げてきた、「防疫封鎖線」を破棄するよう彼をせっついている。
 ヅデネク・ジシンスキーは、共産党を無視することは全体としての左翼を弱めている、と信じている一人の社会民主党議員だ。「我々の党は一九八九年に、反共産主義を基盤に再創立された。しかし、我々の影響力を強め、信頼性を再建しようとの我々の現在の試みは、反共産主義に基づくべきではない。一九八九年まで遡れば、反共産主義は以前の体制に対するチェコ社会の殆どを覆う自然な反応だった。極めてすばやく形成された右翼潮流は、彼らの思想的かつ政治的覇権を生み出すために、反共産主義を意識的に助長した」、と彼は語る。
 その覇権は彼らに、他の点では不人気だった改革を遂行する力を与えた。この改革をジシンスキーは、「野蛮な資本主義転換」と呼んでいる。
 しかしジシンスキーは九〇年代を通じて、チェコ民衆は彼らが持っていた幻想をもはや維持できなくなり、彼らの政治的選択肢を今もっと注意深く検討している、と信じている。反共産主義の覇権は今弱まりつつある。「政治―経済的システムを新たに形成することについての見解の相違は大きくなりつつある」。時間の経過と共に、チェコ民衆はより深い深部で、「新しいシステムが持つ肯定面と否定面を以前のシステムとより適切に比較できている」、とジシンスキーは信じている。「白黒に割り切れるものは何もない事を我々は知っている。旧来の体制は、右翼原理主義者が描いていたような『悪の帝国』であったわけではなかった。そして新しい体制は、全てが可能な社会という最良なものでもない」。
 反共産主義的通念の期間を通してチェコのメディアがうんざりするほどに繰返したことは、次のようなことだった。つまり、共産党を支持する者は、以前の官僚、秘密警察の手先、それに自由と自由な選択に適応できない一握りの郷愁を持つ年金生活者だけである以上、この党に対する選挙での支持は無視できるまでに確実に縮み続ける、と。この敵意に満ちた雰囲気の中で党は、その名前から「共産主義者」という語を落とすこと、あるいは全体主義的時期の罪から自身をきっぱりと遠ざけること、を拒否することで、自覚することなく反共産主義思想に利益となるように振舞っていた。

薄れゆく反共風潮

 しかし時代は変わった。以前の反体制派であるペトル・ウールによれば、有権者はもはや反共産主義の訴えにそれ程反応しない。「多くの民衆は、イギリスの労働党やドイツの社会民主党の反社会的政策に対する共産党の批判に、より多く関心を示す。その政策をチェコの社会民主主義者は輸入しようとしているのであり、彼らはまたイラクに対する戦争の間ブッシュを支持している。非共産主義者を含む多くの人は、その綱領と内政における機能と共に共産党を注視し、この党を社会民主党よりも左翼的であり、社会的であり、さらにより民主的な代わりとなるものとすらみなしている」、と彼は語る。
 他の左派社会民主主義者と同様ジシンスキーは、共産党は「主要な異議申立て党」となった、と認める。共産主義者に投票する年金生活者は、必ずしも以前の体制が持っていた「陰うつな確実性」に対する郷愁によって動かされているわけではなく、不充分な年金で暮らすことの日々の屈辱によって突き動かされているのだ。九〇%の失業率、居住地隔離、そして多数派住民による毒気を含んだ人種主義に直面しているロマの少数民は、ただ「昔には全員に仕事とアパートがあった」が故に共産党に投票するわけではなく、この党が、私有化と社会保障切り下げに対する最も強力な反対投票を記録し、保健や教育や貧困削減への予算支出に賛成する議会党だから、全く単純にそうするのだ。
 共産主義者の独裁下で自身が囚われの身で九年を過ごしたウールは、「民衆を恐れさせるために『共産主義』を使おうとの試みには、益々何か馬鹿げたものがある」、と語る。社会は進化した。「古い体制が崩壊して以降一五年だ。そしてその体制の最後の二〇年は、一九五〇年代と同じような血塗られた独裁ではなかった。しかもその一九五〇年代は、殆ど誰もが具体的には思い起こすことができない」。一九八〇年代には、ウールのような反体制派が迫害され、周辺化され、投獄され、あるいは移住を強制される一方で、「多くの人々は今時よりはうまく切りぬけていた」のだ。

試練としての民族主義

 得票率二〇%、地方と中央政府における強力な議員団、そして国に割り当てられた二二のEU議会議席の内六議席を手にボヘミアとモラビアの共産党は今、拡大されたヨーロッパ連合内における最も安定した反資本主義党の一つである。しかし、故国では反共産主義が徐々に薄れつつあるように見えるとはいえ、西欧の左翼との統合がた易いわけではないということも党は見出すことになるだろう。私有化に反対し、労働者の権利と社会的保障を支持し、失業者と年金生活者を守る党の明確な立場は、ヨーロッパ議会における「統一ヨーロッパ左翼」幹部会を強化するだろう。
 しかし、ドイツの報復主義、一九八九年以来の治安悪化、さらに移民に関連付けた犯罪と公衆衛生の危険、これらの想念に対するチェコ共産主義者が持つ執着を前にしたとき、そこには当惑した沈黙(あるいは左翼の本性を前提に、告発調の不機嫌な論争)が現れるだろう。チェコ社会の大部分は事実上、社会的かつ経済的課題に関する進歩的観点と、しかし個人的自由に関しては権威主義的外観、という調和を欠いた複合によって特徴付けられる。ウールはこれを次のように、全体主義的な時代の遺物として説明する。「我々の価値体系において、この一五年には大きな進展があった。人々は個人、家族、社会生活についての古い図式を徐々に捨てつつある。国家、党、あるいは何であれ集中化されたグループに対する個人の従属、女性の不平等な地位、権威主義的で父権的な諸関係、集団の必要に順応する個人の義務、違いの抑圧、あらゆる犠牲を払っての統一、秘密を全般化した文化、そして連帯責任と連帯的責苦の受容、以前のこれらの受け入れを我々は今徐々に克服しつつあるのだ」、と。
 全体主義的な支配を耐えてきた他の諸社会にも平行したものがあるこの原理的な文化的変革は、社会民主党と小さな中道諸党のいくつかによって囲い込まれてきた。そしてこれらの諸党は、彼らの着想を西の自由主義と、元大統領のバクラフ・ハベルのような思想家に見られる地方の反体制的伝統から得ている。このことが社会民主党を、現大統領であり、かつての首相であったクラウスの党である保守的なODSとも、共産党とも遠いところに位置させる。
 ウールに従えば、双方の党共が「伝統的価値」の攻撃的かつポピュリスト的な防衛を手段に、彼らの反対派的印象を打ち固めようと挑戦してきた。ODSは、新自由主義経済を推進するものの、広い意味での自由主義は拒絶する。一方共産党は、一定の権威主義でもある偏狭なチェコ民族主義の理論化を手段に、戦時における彼らの対ナチスレジスタンスの役割を膨らませようとしてきた。社会の中に常にあるこの民族主義は、一九九二年のチェコスロバキア連邦分裂以後により強くなった。
 ウールから見たとき、共産党の前にある真の試練は、民衆のさまざまな民族的、文化的、言語的集団を受け入れ、尊重することを基盤とした「多文化主義」である。そのような多文化主義は必然的に、偏狭な民族主義を克服しようとし、もちろんのこと完全に地方的、国民的、さらにヨーロッパ的な郷土愛と両立できる。ウールが懸念することは、チェコ共産党の指導者、ミラン・ランスドルフが我々は今のところ多文化主義ではないと認めつつも、彼と彼の党がこれを必ずしも問題であるとは見ていない、ということだ。
 「この社会は五〇年の間、融合あるいは開放を内容とする、ロマの人々と少数民族の統合という試練に直面してきた。チェコ共産党がもしこの試練を受け止めることができるならば、この党は偏狭な民族主義から自身を解放できる―そしてそれこそ、西の共産主義者の中には実際上はないものなのだ」、とウールは指摘する。
 そうしなければ共産党は、拝外主義と反ユダヤ主義を導入するほどにまで民族主義を強調し続けた、ロシア共産主義者の後を追いかける可能性がある、と彼は警告する。「共産主義者は、西の道とロシアの道との両方をこれまで追いかけてきた。チェコの党が進む道はどちらだろうか」。

新しい力

 ともあれ、反共産主義風潮の後退は、チェコの共産主義とこの国に代わりとなる左翼を建設しようとする全ての者に、新たな時代を開いた。その道の長さはどれほどだろうか。「共産党は、彼らの歴史的な荷物を徐々に下ろしつつある。それは丁度、カトリック教会がしてきたように、だ。しかしだからといって、共産主義者に何百年という時間がそのために必要だというではわけではない、ということに希望を持とうではないか」、これがウールの見解だ。
 彼は、党にとっての可能性を次のように青年党員の中に見ている。「多くの若い共産主義者は、反グローバリズムからグローバリズムの変革へと進化した。彼らは私に六〇年代後期のフランスの青年を思い起こさせる。彼らは資本主義や民族主義そしてグローバリゼーションの代わりとなるものとして、現代的な定式を持つ諸理念を共産主義に提供しているのだ」、と。共産党指導部は、党のこの潮流にもっと多くの注意を向けるべきだろう。この潮流はチェコ左翼に対して、より確固とし、より包括的な構想を示す可能性を持っているかもしれない。
「インターナショナル・ビューポイント」八・九月号)
注.筆者は、チェコ共和国及びスロバキアのIV通信員。

 
 
 
 
 
 
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