2005年3月10日        労働者の力             第 180号


民営化反対!郵政事業の争奪戦を許すな!       

 


  郵政事業の再配分を巡る争奪戦が繰り広げられている。政官財および外資を巻き込んだ公的部門のぶんどり合戦である。そこに自民党の権力闘争が絡み、露骨な利益誘導がなされている。民営化による利便性の拡大やユニバーサルサービスの維持は隠れ蓑に使われている。まさに民衆不在である。
 郵政公社は着々と利権を拡大する一方、徹底的な効率化を進めてきた。生田は総裁職についてから二万人を削減し、「職員は二六万人になった」と答弁している(衆院予算委員会)。非正規職員への代替は拡大し、成果主義が非正規職員にまで及んでいる。強権的な職場支配のもと、過労死労働が強制されている。多数派労組の労使協調はいうまでもない。
 各地で左派の苦闘がある。非正規雇用労働者との連帯や地域的な運動の構築という課題への挑戦が続いている。郵政民営化に反撃し、職場・地域での闘いを組織しよう!(三月三日)

民衆不在の「郵政国会」
 小泉首相は「廃案も継続審議も認めない」と言明している。党内反対派は徹底抗戦の構えを崩してはいない。しかし、倒閣運動に発展する道は見えないし、時間も限られている。公明党は七月都議会に悪影響を与えることを認めない。民主党はふらついている。状況は混迷しているが、選択肢は限られている。
 自民党執行部の役割は「政局」にしないという一点にある。与謝野政調会長は公社のままではじり貧だから、民営会社で事業拡大すべきだと述べた。あけすけな利益誘導だが、反対論は沈静化しない。「健康体の公社に外科手術とはどういうことだ」。こんな押し問答が政府と党の合同会議で連日のように続いている。反対派は、外資による公共資源の買収を規制すべきだとして、ライブドア問題を郵政問題を引き寄せて利用するという乱戦ぶりだ。
 政府は妥協案を示す一方で、巨費を投入した異例のキャンペーンを展開している。民営化ばら色論である。二月下旬には党の反対を押し切り、地方紙を通して千五百万世帯にチラシを配布した。メディアの攻撃も再び強まっている。おなじみの評論家たちは、保養地など郵政腐敗を取り上げ、正義漢を熱演している。
 妥協が成立する場合もあるだろうし、土壇場で事態が暴発する可能性も考えられる。もっともありそうなのは、党議拘束や造反などの波乱があっても法案は成立し、対立は次の場面に引き継がれていくというものだろう。反対派の代表である綿貫民輔は最近、「問題は内容ではない、首相の進め方や竹中大臣の傲慢な態度だ」と述べた。「落とし所」は会期延長での成立だとささやかれている。
 こうして、最重要課題とされる「郵政国会」は、民衆不在のままに消化されようとしている。

「小泉民営化」を支持する米国政府と日本経団連
 三月一日、米国政府は従来の立場を繰り返し表明した。日本政府の郵政民営化方針の支、その上で、「外国企業からの意見聴取」、「簡保新商品の先送り」などの要求である。日本経団連も「小泉民営化」支持である。「公正な競争」を主張する全銀協も、郵政を倒すことには異論はない。
 郵政民営化が「目的」になってしまっているという批判がある。しかし、このチャンスを逃してはならない。郵政が元に戻ることを許さない。それが小泉に与えられた任務である。譲れない線は、〇七年四月の民営化、持ち株会社の下での四分社化、(原則)非公務員化である。闘いは次に制度設計の具体化、新経営陣の選定などに引き継がれる。国債や消費税がどうなるか。金融や物流の再編がどう進むか。民営郵貯はメガバンクか地域分割か。「完全民営化」はその先の話である。
 八二年、第二臨調は「民間活力」「小さな政府」を掲げ、国鉄・電電のみならず、六〇年代後半からくすぶっていた郵政の組織見直しに踏み込もうとした(郵便公社化・三事業分離)。郵政省は「国営・三事業一体」の現状維持で反撃した。第二臨調は郵政では敗北し、今後の課題として「事業内容、要員および業務の合理化等の検討」と基本答申に記すにとどまった。
 郵政民営化攻撃は九〇年代後半に再浮上した。アメリカからの市場開放圧力によって日本版ビッグバンの本格始動が九八年に迫っていた。九六年、橋本政府が発足した。行革元年と位置付けられた九七年、行革会議はついに郵政民営化を政治日程に上せた。郵政省は(全逓の協力のもと)、自ら事業改革案を作成して対抗した。地方行政のスリム化や金融自由化への対応など、今日の事業拡大モデルはすでにそこに網羅されていた。抗争の末、九八年、中央省庁等改革基本法が成立。しかし、郵政は「民営化等の見直しは行なわない」とタガがはめられ、国営公社化、郵政事業庁への再編にとどまったのであった。
 この九〇年代、銀行・生保の腐敗の中で、郵貯・簡保は急速に肥大化した。労使一体の郵政は、ノルマを労働者に押しつけ、強引な営業活動に乗り出した。預入限度額も一千万円に引き上げられた。集められた資金を大蔵省が吸い上げた。国債残高も急増した。
 橋本政府で棚上げされた郵政民営化攻撃にとって、絶好のチャンスがやってきた。〇一年、自民党総裁選挙での小泉の勝利である。小泉は「郵政」を党内権力闘争の切り札とし、政敵を追いつめ、倒しながら、公社の発足から民営化に突き進んできた。

財務省の聖域化
 官僚制度を打破する。財投をただす突破口だ。郵便には民間が参入し、市場競争は利便性を高め、ユニバーサルサービスも維持される、等々。民営化論者は理念を語ってきた。しかし、このような民営化論者からも、小泉、竹中への批判が強まっていった。「改革理念からの逸脱」も甚だしい。ヤマト運輸はスケープゴートではないか。道路公団と同じではないのか。小泉は「政治は生きもの」と批判をかわしてきたが、ゴマカシは明らかだ。 第一に、財務省の聖域化だ。責任は不問にされ、おまけに国債安定消化資金として従来と同様、郵貯資金を得た。
 昨年七月、それまで「在り方懇談会」の座長として先頭に立った田中直毅は、「問題の深刻さゆえ」に、「(政府当局者や中央銀行を含めた)統一した司令塔のもとによく配慮して吟味されたなかで撤収作戦が行なわれる」ことが必要だと述べた。国債問題が大きくのしかかっているからだ。彼はホームページで、「郵政は政治とまるごと一緒」だと、退場するにあたっての無念さをにじませている。
 「撤収作戦」の結果、財務省は第二の国家予算として郵貯を使い回した責任を回避し、自分の取り分を当然のごとく確保し、しかも、分社化によって郵貯・簡保の所管官庁の座を手にしたのだ。
 この時期、各紙が基本方針を批判した。たとえば日経新聞は「郵貯・簡保は廃止、郵便事業は民営化が筋」であり、基本方針や閣議決定がどうなるかは「対局的に見れば茶番だ」と述べた。だが「改革の原点に戻れ」とする各紙の主張も、「小泉民営化阻止」としないのであれば、同じく「茶番」であろう。
 予算委員会で資金運用能力を問われた生田総裁は、「郵貯は縮小傾向であり、加えて(通常預金を除く)旧勘定は今まで通り国債に回る。したがって(当面は)実際に市場で運用するのは少額だ(だから心配はあたらない)」と、ぬけぬけと答弁している。この点で、財務省と公社の利害は、小泉政府を含めて一致している。

暗躍する公社
 ゴマカシの第二は郵政公社の権益拡大である。
 公社は公共性と営利性の双方を利用し、和戦両方のスタンスを取りながら、政府から大きな譲歩を引き出してきた。一方、政府も公社の要求は無視できない。まずは株式売却益を確保しなければならない。ビジネスチャンスを求める企業と投資家の期待に応えなければならない。民営各社は利益を生み出さなければならない。こうして、「民業圧迫」の批判にもかかわらず、公社は既得権を引き継ぎ、財務省との連携を確保し、コンビニ戦争に逆参入し、中国市場を相手にしたアジア物流ビジネスに乗り出し、念願だった投資信託も決定させていった。
 生田は、「企業価値を高めるのは経営者として当然のこと」だと反論した。郵貯と簡保は縮小するし、長期金利も上がる。その時になって国債を頼むと言われても困る。郵便も縮小するが、市場競争でユニバーサルサービスをやれというなら、規制緩和で業務拡大するのは同然だ、と。
 昨年秋、小泉、竹中の指南役を任ずる加藤寛がいよいよ表舞台に登場した。加藤は闘いの最前線である情報システム検討会議の座長として、四分社・民営化の作業に踏み出すよう、年内決着を公社に迫った。激しい論争の末、公社は折れた。生田総裁は、このように政府との闘いを演じることを通して、多くの見返りを手にした。
 公社は、郵貯・簡保担当の副総裁が総務省であり、郵便担当がトヨタであることが象徴するように、矛盾した利害が絡み合う存在である。また、「適切な事業規模」なのか、「金融・郵便・物流の巨大事業」なのか、思惑も錯綜する。「持ち株会社」の意味も、それによって解釈が異なる。公社は、このような「矛盾」を巧みに利用して、その肥大化を実現させてきたのである。

郵貯を民衆に
 郵政は社会主義だと民営化論者はいう。国営、国有だから社会主義だというのは暴論であり、意図的なフレームアップである。実際は、郵政三事業は郵政省に支配されてきた。官僚たちはユニバーサル・サービスと郵貯・簡保資金に寄生して機構と利権を生み出した。郵政省は有利な定額預金、低所得者向けの簡保、地域に密着した郵便局として、国民のための郵政を標榜することができた。しかし、郵政省も大蔵省も民衆から集めた資金を民衆に貸し出すことはなかった。そのような制度を作らなかった。「郵政は社会主義」なのではない。社会主義の政策、武器として動員されることがないままに、民営化=私有化されようとしているのだ。
 村山首相は、阪神淡路大震災の直後、「自然災害に個人補償はない」と国会で表明した。安保・自衛隊容認とともに社会党の自己否定であり、この一言で自社連立政権が資本家政権であることを証明した。銀行や生保、損保にとって、自然災害は大きなリスクである。金融資本のサボタージュに対抗して、郵貯・簡保資金を民衆の武器として闘うべきであった。さかのぼって、細川連立政権の郵政大臣は社会党だが、彼は省益に従った。
 十年後、新潟を大震災が襲った。郵貯を投入すべしの声は、政府にも国会にもメディアにもない。
 竹中は国有化を武器に、銀行に対して不良債権の早期処理を迫った。竹中は民衆に犠牲を転嫁して銀行と闘争し、そのことによってアメリカと結託した彼の野心を実現しようとしたのだ。銀行は貸し渋り、貸し剥がしに走った。犠牲は中小零細企業に集中した。日銀がゼロ金利政策によって銀行を支えた。民衆が得るべき利息は銀行に奪われた。
 自殺、自己破産、生活保護、失業が過去最高を記録し続けた。「消費者金融」をめぐるトラブルが相次いだ。子どもたちの進学や給食費にまで被害が及んだ。民衆の貯蓄である郵貯が、このような人々に投入されることはなかったのだ。菅直人は当時、「郵貯資金を中小企業に融資する」ことを検討すべきだと述べたことがあるが、「思いつき」として相手にされなかった。            
 新潟の山古志村の被災民が寄り添う避難所に、一篇の詩が掲示されているという。「帰ろう/大好きな山古志村に帰ろう/時間がどんなにかかっても帰ろう/皆んなで力を合わせて帰ろう」(同朋新聞一月号)。北海道で語り継がれる卒業式での訓示を思い出す。「国鉄を奪われ、学校を奪われ、離れ離れとなっても、この町で生まれたことに誇りをもって生きていこう」。国鉄解体の当時、このような光景が各地で見られた。一方、山古志村のような所に住んでいることは「社会的なロス」であり、「集団移転」すべきだという主張がある。人間性に対する新自由主義者の攻撃である。
 郵政民営化はイデオロギー攻撃でもある。小泉は敵意もあらわに「四十万の役人集団」、「郵貯や簡保がなくなっても誰も困らない、民間にあるのだから」と言う。大臣就任当時、竹中は、ゼロ金利なのに貯蓄せよということはエコノミストとしての信念が許さないと述べた。こういった人物が郵政三事業を私有化しようとしている。彼らは、「国鉄も、電電の営業所も、みんな無くなった、次は郵便局か」という民衆の声とは無縁である。
 国鉄解体では「赤字ローカル線」をまず切り捨て、長期債務は結局、国民負担になった。NTTは固定電話網への設備投資を打ち切り、ユニバーサル・サービスから逃れようとしている。小泉は十年前、「郵政民営化か、それとも消費税増税か」と主張して、自民党総裁に立候補した。デタラメは明らかである。
 政府保証が外される。「貯蓄から投資の時代」、リスクあってのリターンだという。郵便局はコンビニ化で地域と競争する。ユニバーサル・サービスも商売にする。郵政労働者の住民情報や声掛けも金儲けの材料だ。これでいいのか。郵政民営化反対の声を大きく組織していかねばならない。
(三月三日・八木)

 

 戦後六〇年
日本政府はアジア民衆に真摯に向き合え

          


 今年は敗戦後六〇年にあたる。旧帝国は対アジア政策の失敗をABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網突破の闘いとして、宣戦布告した。事業の行き詰まりを、さらに賭け同然の事業拡大で突破しようとするようなものである。結果は惨憺だった。
 日本の失敗は大陸に領土獲得の手を出したところにある。同じように地政学的に大陸と向き合っているイギリスは、大陸政治に介入はしても、領土獲得の野心を持たなかった。また、ドーバー海峡の制海権を確実にしておけば、大陸からの侵入を防げる。日本の場合、ロシアの脅威がうたい文句になった。しかし、これは通用しない。イギリスと同様に、対馬海峡を防衛すればいいからだ。また人口増対策としての満州(東北)の植民地に対しては、石橋湛山の満州放棄論が経済学的に提起されていた。小国家論を唱えた石橋は、植民地経営には経済的には一利もないと喝破した。石橋の著作は岩波文庫で読める。要するに、朝鮮半島に乗り込んだのが、最大の失敗だったのだ。
 
韓国ノムヒョン大統領の画期的演説 
 
 日本軍や一般民衆の犠牲は莫大だったが、同時に占領地民衆の犠牲も大きかった。日本軍が行った強制連行や慰安婦問題などへの戦後補償はほとんど戦後日本国家によって拒否されている。
 三月一日、韓国のノムヒョン大統領は、一九一九年の三・一運動記念式典の演説で、就任以来の対日本友好姿勢に大きな転換を示した。三・一とは日本による植民地支配に対する抵抗運動であり、今年は八六周年にあたる。
 ノムヒョン大統領は、日本に対して「過去の真実を究明し、真に謝罪、反省し、賠償すべきことは賠償して和解すべきだ。それが世界の歴史清算の普遍的方程式だ」と述べた。この発言は重大なものだ。大統領は、昨年七月の日韓首脳会談の席で、「任期中は歴史問題を提起しない」と述べ、「未来志向」を強調した大統領としては、従来にない厳しい口調で語ったのである。中国や韓国の反発にもかかわらず靖国神社への参拝の意思を明白にする小泉首相ら、日本側の歴史認識に不満を示しのだ。
 大統領は「韓国政府は、国民の怒りと憎悪を煽らないように自制してきたが、われわれの一方的努力だけでは解決できない。両国関係の発展には日本政府と国民の真の努力が必要だ」と述べた。
 同時に大統領は、北部朝鮮による日本人拉致問題についても言及し、「日本国民の怒りを十分理解する」としつつも、「日本も、強制連行から慰安婦問題まで日本支配時代に数千、数万倍の苦痛を受けたわが国民の怒りを理解しなければならない」「真の自己反省がなければ、いくら経済力が強く軍備を強化しても隣人の信頼は得られない」と強調した。
 さらに大統領は、一九六五年の日韓条約に言及し、韓国が経済協力金を受ける代わりに請求権を放棄した問題について、「韓日協定と過去補償問題については韓国政府にも不十分な点があった。被害者としては、国家が国民個々人の請求権を一方的に処分したことは納得が難しいだろう」と述べ、韓国政府が今後、国民への個人補償問題を前向きに検討する考えを示した。同時に「日本も法的問題の以前に、人類社会の普遍的倫理、隣国間の信頼問題との認識を持ち積極姿勢を示さなければならない」と、日本政府の対応を促した。
 このノムヒョン大統領の演説には、私が先月号で言及した日本のアジア外交の根本的問題点がすべて凝縮されて、展開されている。しかも、その日本政府の頑なな戦後補償拒否の姿勢に関して、韓国政府が代わりに担う考えを示したことは、まさに画期的と言える態度である。
 
日本政府はノムヒョン演説に誠実に対応すべきだ 
 
 日本政府は、すぐさま、真摯な対応を行うべきなのだ。だが、鉄面皮の小泉の対応が変わることはないだろう。小泉ではだめなのだ。
 日本政府の対応は、僅かに九五年の「村山首相談話」で、植民地支配に「痛切な反省」と「心からのお詫び」を表明。それを踏まえて、九八年、小渕首相と金大中大統領の共同宣言で、「未来志向」の関係構築を確認した。しかしこうした構造を小泉は正面から打ち壊しているのである。
 戦前、朝鮮人革命家たちは、中国革命と結び、文字通り旧日本帝国打倒の闘いの先頭に立って闘った。一九二七年の広東蜂起には多数の朝鮮人革命家たちがいた。また『アリランの歌』(ニム・ウエルズ)の主人公も朝鮮人革命家であった。彼は後に延安整風運動において、トロツキストの疑いをかけられ、粛正された。また、文革で殺された彭徳懐の参謀長も朝鮮人の軍人であった。さらに、第一次上海事変(一九三一年)において、日本軍の戦勝祝賀記念会に爆弾を投げ込み、総司令官の白川大将を殺害し、後の外務大臣となる重光葵に片足切断の傷を与えたのも朝鮮人革命家であった。こうした戦闘的民族性は、今、韓国民主労総の激烈な闘争に引き継がれている。
 日本国家は、かつて敗北した中国、そして激しい反植民闘争を展開し、中国紅軍とともに闘った韓国民衆と直接に向き合っているのだ。中国や韓国の民衆をなめては行けない。
 今後、中国、韓国の経済は東アジアを牽引するものとなろう。東アジアにおける日本の将来は中国や韓国との連携にかかっている。そのためにこそ、隣国間の信頼の醸成が急務なのだ。
 日本政府は、韓国ノムヒョン演説に誠実に対応せよ。
(三月九日・川端)
 
   
転載〔グローバルウォッチ通信より〕
イラク選挙後、CONDIはどう見るか
                        二〇〇五年二月一六日
 



 イラクの選挙をどのように評価するか、その後をどのように展望するか、をCONDI(イラク民主的国民潮流)のスポークスマン、アブデル=アミール・アル・リカービに一問一答してもらった。

今回の選挙をどのように見るか?

 今回の選挙が占領政策の一環として行われたことは明らかである。我々はボイコット運動を展開した。結果から以下四点のことが言える。
一。選挙の結果はアメリカが期待しているようにはならなかった。合州国は八五%の投票率を期待したが、実際には五八%にしか達しなかった。
二。ボイコットはスンニ派ばかりでなく、シーア派でさえ、多くの棄権が出た。多くの地域で投票自体が物理的にできなかったことは、周知の通りだ。シーア派が大多数と言われる中で、シスターニ師を支持する票は、そのうちの四八%にしかならなかった。六〇%くらいを期待していたようだが、実際には大変低く、実質的に全人口の二五%ほどしかならない。
三。在外イラク人は四百万と言われるが、そのうちの二〇%しか投票しなかった。
四。以上の結果を見ると、イスラム教義の国家を樹立することは、今のところ不可能だ。アメリカはこの選挙の正統性を何とかアピールしたいのだが、この結果からでは、民主的選挙という正統性は得られない。

選挙後はどのような運動をしていこうとするのか?

 状況は混沌としている部分もまだ多いが、大きく分けて二つの勢力がある。米英の行う占領をよし、とする勢力(アラウイ、ヤワル、シスタニ、クルド勢力)、そして占領に反対する勢力だ。我々は占領に反対する勢力のできるだけ幅広い枠組みを作ろうとしている。それは我々のように、非宗教的な勢力から、宗教的な勢力まで、様々な運動を含んだもので、今まで行って来た憲法制定国民会議の構想を継続させる基盤作りをしようとしている。そして、もし今回の選挙で選ばれた者たちが、新政府を樹立し、憲法を制定しようとするなら、我々の反占領勢力も、同じように、もう一つの憲法案を作り、国民投票によって認定させる運動を展開していく。憲法は国民のコンセンサスが不可欠である。

―メディア上では、あたかもシーア派とスンニ派、そしてサダムの残党勢力が抵抗勢力として、三つどもえのような構図を作っているように語られることが多いが、実際はどうか?オルタナティヴな民主勢力が作り出せる政治空間はあるのか?

 そうしたヴィジョンはアメリカ、ヨーロッパの非常に単純化したナンセンスな見方に過ぎない。イラクは単に一つの宗教的な流れにはならないし、今回の結果を見てもそれが分かる。シーア派でも多数のボイコットが出た。シーア派でさえ、一枚岩ではない。抵抗勢力も多種多様だ。我々は、それらを一つの大きな枠組みの中に何とか統合したいと思っている。

―世界社会フォーラムに参加して来たわけだが、どのような成果があったか?

 ポルトアレーグレの社会フォーラムは、多くの様々な議論があって、多彩だが、ここは戦略会議ではない。またそれを期待する場としては無理がある。やはり、ベイルート会議の継続を呼びかけたい。反戦とオルター・グローバリゼーション運動の世界中の運動が一堂に会して行うイラクをテーマとした国際会議をできるだけ、遠くない将来、実現するようあらゆる運動体に呼びかけたい。そして具体的な決議と具体的な世界的な運動方針を決める場を設定する必要がある。
(文責:コリン)
 


=ベネズエラ=
チャベス大統領との質疑応答
「革命完遂を通して、十分な社会的、経済的解放まで我が人民を導くために」
             
パスカル・セラーノ

 
 

 ウーゴ・チャベス大統領(ベネズエラ―訳注)は、昨年末のマドリード訪問の時、数十人もの知識人たちと即席の討論を行った。彼は二時間に亘って、作家、俳優、編集者、そしてジャーナリストが示した心配や疑念に応答した。彼等は自由に、事前に選別された議題というものなしに、討論に参加した。この意見交換から、以下にいくつかの抜粋を紹介する。尚先の会合に参加したパスカル・セラーノは、この報告を「レベリオン」のウェブサイト(〇四年一一月二六日)に発表。

軍事独裁非難は事実に基づいていない!

―あなた方の統治やあなた方の内閣で兵士が果たしている大きな役割を理解することは、スペインでは難しい。それを説明できるか―

 ある人々は私の政府は一種の軍事政権だと考えるが、それは事実ではない。我々の歩みに武装勢力が加わっていることは事実だ。我々の権力への到達は、「カラカーゾ」(一九八九年二月の民衆反乱)と表裏一体だった。この反乱の途上では、より大きな社会的正義を求めたことをもって、何千人ものベネズエラ人が抑圧され、亡くなった。彼等は私を一揆主義者と呼んだが、一九九二年に我々が行ったことは一体となった市民―軍反乱だった。
 私の農民大臣、アリ・ロドリゲスは文民であり、予備的に武器を保有していただけだ。そして我々は、憲法が機能する政冶の時代へと国を導くために蜂起を計画した。ベネズエラは当時、腐敗した政治勢力の支配下にあった。流血を避けるためには一発たりとも発砲されるべきでないと要求した後に、我々は投獄されたのだ。
 その当時、カラカスでは毎週末四十人以上が虐殺された。しかし我々の一二時間の反乱の間では、一七人の死があっただけだ―確かに私にとっては大きな悲しみが残る死ではあるが―。我々が監獄から出てから、我々は党を建設し、そして選挙に立候補した。そして我々は勝ち、今勝ちつつあり、そして再度勝つだろう。
 同時にあなた方は、ベネズエラの行政官達の出身をも考慮すべきだ。彼等は貧しい社会階級の出であり、農民の子供である。貧困との闘いという構想に手をつける必要性を彼らが理解している理由がそれなのだ。

―あなたは、メディアがあなたの政府並びにベネズエラの情勢を取り扱い、さらにそれを超えて行動するやり方について、厳しく非難した。現在情勢をどう見ているのか―

 それは恐ろしいものだった。ガレリアーノが言おうとしていたことだが、「それ程にも多くの人々がだまされたことはかつてなかった」のだ。彼等は私に対してクーデターを敢行し、私を拉致しある島まで飛行機に乗せた。それについては誰も真実を告げなかった。彼等は皆が、私が辞任を承諾した、と広めた。しかしそれは嘘だった。というのも、彼等は最初は私を射殺しなければと思っていたのだから。
 しかし、雄鶏が二度時を告げる間もなく、民衆と憲法に忠実な部隊が正当な政府と憲法秩序を復帰させることに成功した。当時スペインの新聞一面には、「民衆がチャベスを打倒し、軍が彼を権力に戻した」、などという見出しが現れた。そして我々は、ベネズエラ経済の心臓である、我々の国有石油企業、PDVSAのサボタージュに対処しなければならなかった。次いで、国民投票があり、そこで私は民衆から六〇%の支持票を得た。
 クーデターを捜査していた判事の殺害という形で、反対派がテロリズムに訴えていることが、今まさに明らかとなった。現在メディアは改めて、彼らの仕事に取り掛かるつもりになりつつある。批判は歓迎する。私に対するそれらの侮辱や個人的な言語による攻撃が例えあったとしても、我々はこれまでどのようなメディアも閉鎖しなかった。スペインにおいても、ベネズエラからのニュースを取り扱う方法に関して進化がある、と我々は考えている。

富の再配分は特権との闘いだ

―富の再配分政策はベネズエラでどのように適用されているのか。ベネズエラの行政に存在する国家の腐敗は、ボリバール革命をどのように犯しているのか。さらに社会運動は、腐敗に対する闘いにどのように参加しているのか―

 あらゆる経済変革にはある社会的影響が付きまとう。我々はこの五年間の歩みの中で、いくつかの段階を経てきた。脱民族化された技術官僚の手中にあった国有石油企業、PDVSAの復旧は、我々に多くの費用をかけさせる。
 私が若い副官であった時、私はアリ・ロドリゲスやギレルモ・ガルシャ・ポンセのようなゲリラを探索し、逮捕するよう命令された。今彼等は双方とも、一人は閣僚として、もう一人はある定期刊行物の責任者として、私と共にある。彼等は彼らの闘い及び要求双方に関して正しかった、と私は実感した。
 PDVSAの復旧は巨大な事業だった。この会社の経営者の一人は、最後はUSA大統領への助言者となって終わった。それが示すものは、彼がずっと誰のために働いていたのか、だ。彼等はまさに全てを私有化しようとしていた。彼等は既に、石油会社の頭脳を私有化し終わっていた。つまり、コンピュータ制御システム全体は、その指揮者が全てCIA要員であった混合企業の手中にあったのだ。
 そこには国家の中の国家があった。それは、政府であれ、議会であれ、財政監査院であれ、支配や監査のために説明可能な状態にしておくことが誰もできないものだった。彼等は、ベネズエラには一セントたりとももたらさないような投資を全世界で始めた。クーデターと経営者の石油ストライキの失敗後に我々は、二ヶ月間の職場放棄と休暇取得を理由に、一七,〇〇〇人の管理職を合法的に解雇できた。
 PDVSAは今も、USAにいくつかの油井と精油所を所有している。しかしこれらは我々にこれまで一セントたりとももたらさなかった。さらにこれらに我々は、割引価格で石油を売らなければならない。しかし我々はこの状況に終止符を打つことができない。何故ならば,アメリカの裁判所では,我々が負けるからだ。それ故我々は、ブッシュに資金を融通していることになる。しかし彼等は、我々がフィデルにではなくUSA大統領に金を与えているのにもかかわらず、フィデル・カストロに融資していると私を告発する。
 しかし少なくとも我々は、PDVSAのベネズエラの部分は取り返すことができた。そして、PDVSA予算から一七億ドルを貧困との闘いに委ねることができた。
 我々は来年には、社会的目的のためにこの予算から再度二〇億ドルを使用できるだろう。それとは対照的に、それらが石油企業の管理下にあったときには、虚構の経費申し立てを理由にいくつもの税を支払わなかった。彼等は、税逃れというたった一つの目的の正当化のためだけに、何も見つからないということを彼らが完璧に知っている場所で石油探査を実行する、というようなことまでやった。
 徴税がもう一つの問題である。ベネズエラでは誰も税を払わなかった。例えば、密輸は生活だったのだから、我々は現在自動化された税関だ。
 しかしこれら全ての先に我々は、新自由主義以外のものに進み、社会的で民主的で公正な国家をもたらしたいと思っている。

国際的連携なしに前進はあり得ない
―問題は米帝のくびき―

―次の南米首脳会議について、どう考えているか―

 我々は、ラテンアメリカの統合過程については極めて批判的であった。それはこれまで、むしろしばしば分解の過程であった。ラテンアメリカ諸国の同盟という地政学的理念を最も強力に明らかにした者はシモン・ボリバールであった。マイアミで一〇年前、最初のアメリカ大陸首脳会議が開かれた時、シモン・ボリバールの夢が真実になる時が来つつある、とクリントンは語った。しかしそれは違っている。そこにあったものは実際は、モンローの夢だった。つまり、ラテンアメリカ諸国をアメリカ合衆国が支配するという夢だ。クリントンはそれを実行しようとしていた。
 メルコスル(ブラジル、アルゼンチン、ウルグァイ、パラグァイの貿易協定―編注)のような仕掛けは、現実には単なる商業的な構想であり、真の統合ではない。ルーラが二年前権力を握るまでは、統合という我々の構想については、我々はひどく孤立していると感じていた。
 帝国はこれまでは、今形をとりつつあるものをいつも回避しようと試みてきた。つまり、ルーラ、キルチネル(アルゼンチン大統領―訳注)、ボリビアにおける新自由主義政権の崩壊、そして今日のウルグァイにおけるタバレ(タバレ・バスケス、昨秋選出された新大統領―訳注)等々、といったものごとのことだ。ここに現れている形は、例えパラグァイの大統領が新自由主義的主張を変えないとしても変わらない。それ故アヤクチョ首脳会議は、我々が前に進むための一歩を踏み出すことを可能にするだろう。それは、ラテンアメリカ陣営の統一がゆっくりと進んでいるからだ。

―ベネズエラでは、どのような国際的連携グループがあなたの政策を支援しているのか―

 我々がOPECにやってきた時、この国には石油一バレルの価値もなかった。当時までベネズエラは、OPECにおけるUSAの第五列だった。我々は全ての諸国と会談し、そして組織を再出発させた。そして、我々の経済を麻痺させた経営者のロックアウトに悩まされていた時、我々は多くの国からの連帯を噛み締めることができた。そこには、石油を送ってくれたブラジルがあり、食料と砂糖を供給してくれたキューバがあり、サンタ・マルタとカルタヘナの港の使用を許してくれたコロンビアがあった。またロシアは、石油を送ってくれ、アルジェリアと他のOPEC諸国は、我々が自由に使うことのできる技術者を世話してくれた。
 クーデターの失敗及び私のベネズエラ大統領としての再確認の後、USAは私に対抗して汎アメリカ民主憲章を使用するつもりでいる。それは、カルモナに対する反乱を挙行した者は私だ、との主張の下で全面的な攻撃を意図するものだ。カリブの諸国―大きさは小さいものの、誇り高い―と多くのラテンアメリカ諸国は、USAに立ち向かった。
 確かにソ連はもはや存在していない。しかし世界には多くの友人達がいるのだ。

―私の意見では、キューバは非効率的な独裁性だ。あなたはキューバにおける移行を支持しようとしないのか。キューバに対する援助でキューバが民主主義に移行するよう、ベネズエラは何ができるか―

 我々はキューバに対して非常な敬意を表明している。我々は、例えばドミニカ共和国に対して提供するものと同じ援助をキューバにも提供する。この援助が条件付のものであり得るなどとは、我々は一度も考えたことがない。友人は友人だ。我々はキューバを尊敬しているし、我々には独自の基準がある。あなたの質問によりうまく答えることのできるものは、フィデル・カストロ以外にはいない。
 しかし私は、今キューバで起こりつつあるものをある独裁になぞらえ得ると言うつもりは決してない。私はそのような確信を全く持っていない。自分達の大統領を選挙で選ばないのは何故かと、ここヨーロッパで人々は何故アラブ人に聞かないのだろうか。キューバには教育を受けていない者は一人もいない。しかし、自分自身を民主的であるとみなしている諸国には、無学な人が四〇%もいる。
 この問題は私にとって非常に扱い難い問題だ。というのも私は、キューバとその革命に非常な敬意をもっているからだ。我が国には貧しい居住区で働くキューバの医師がいる。彼等はハバナに家族を残し、ベネズエラ人を助けて二年間も過ごした。
 キューバとベネズエラの間で我々が試みつつある統合と協力のモデルは、いかなる疑念もなく、我々が多くのラテンアメリカ諸国に差し出している一つの実例だ。しかし私が思うに、この質問に対するより正確な解答を与えることのできる者はキューバ人だろう。
(「インターナショナル・ビューポイント」〇五年二月号電子版、但し訳者による抄訳・再構成)
注)本記事にはかなりの補足がついている。当補足部分および完全訳部分は、本紙ホームページ上に掲載。
 
=デンマーク=
赤緑連合(RGA)、総選挙で六議席獲得

  アーゲ・スコフリント
 
―二月八日投票のデンマーク総選挙は、赤緑連合(エンヘッドリステン)にこれまでで最良の結果を残した。得票率、.四%、獲得議席、六がその成績である。リネ・バルフォット、ぺルニール・ローゼンクランツ―セイル、フランク・アーエン、ルネ・ルント、ペル・クラウゼン、そしてヨルゲン・アルボ―バールが議員に選出された。この中でアルボ―バールは、第四インターナショナルを支持するRGA内潮流SAPのメンバーだ。
 RGAは今回すばらしい運動を展開した。この運動中におよそ八〇〇人もの人達が入党を申請した(それ以前の党員数は約二六〇〇人)。しかし極左のこの成功は、全体的結果との関係で割り引かれるべきだろう。全体では、右派の、移民に厳しく敵対的な政府が続くことになったのだ。我々は以下に、今回のRGAの成功に関するRGA広報担当書記、アーゲ・スコフリントの解説を掲載する―IV編集部―

混迷続く中道的改良統治

 右派政府が新しい任期を獲得し、そして極左が前進した。二月八日のデンマーク総選挙は、議会における二つのはっきりした陣営という形で、この国をむしろより分極化した状況に置いた。RGAは、デンマーク政治における安定した勢力として自己を打ち固めた。今やこの勢力の主要な挑戦は、この選挙上の前進を、貧困、戦争、そして外国人嫌いを生み出している右派政府と対決する強力な運動へと転換することだ。
 議会において四議席を失ったにもかかわらず、首相、アンデルス・フォー・ラスムッセンの党、自由党は、選挙後の新しい任期を期待している。実際、連携相手の保守連合は二議席増を果たし、一方、政府に議会多数を保障している反移民派極右のデンマーク人民党も、二議席増やした。
 主な変化は野党ブロックの中で生じた。社会民主党は五議席減となり、二〇〇一年における彼らの歴史的敗北を取り返すことができなかった。その時彼等は、単に政府を失ったばかりではなく、最大政党としての一世紀の長さに亘る彼らの位置をも失ったのだった。メディア上の二人の首相候補間の個人的競合を特徴とした選挙運動期間中、社会民主党のモーゲンス・リッケトフトは、個人的側面においても、政治的側面においても、信頼に足る代わりとなるものを示すことができなかった。
 双方の候補者が約束したものは、大なり小なり似通った社会保障政策改善策だった。それは、医療保障、介護保障、低価格の児童保育、教育と研究への支出増、といったものだ。
 その上でラスムッセンは、二〇〇一年総選挙後に政府が導入した税率凍結政策(主要に高所得層並びに大資産所有者を利した)を継続する、と主張した。さらに彼は、右派政府のみが厳しい移民政策を維持できる、と主張した。実際彼の政府はその政策を強化してきた。この制限的な移民政策は、右派政府に対する多くの国際的批判を引き起こしてきた。しかし社会民主党の挑戦者は、その制限を緩めるつもりはないと宣言した。一方この政府の最大の弱点は、それが政府に駆け上がった二〇〇一年以来の失業率上昇だった。
 選挙運動が始まった時、一つの食肉工場が閉鎖となり、四五〇人の労働者が解雇された。その時にリッケトフトは、新たな論点を得、職の一つの創出計画を提起した。しかし彼は、確固とした反対派として登場することができなかった。何といっても、ブルジョア政府の私有化と緊縮政策は、前任の社会民主党政府から続くものなのだ。同様に、党はデンマーク軍部隊のイラクでの使用を支持し、新たなEU憲法を推奨するための国民的協定に合流した。

左右への分極化

 野党の中の大きな勝者は、議席数を九から一七へと増大させた社会自由党だった。社会民主党とは異なりこの党は、ブルジョア政府の反移民政策に強く反対している。「責任感のある、人道的かつ公平な代わりとなる党」としてのイメージのおかげで、社会自由党は学生並びに高学歴都市住民の間で、より一層人気を博すようになった。彼らの反労働組合政策、親緊縮政策、さらに反社会的租税政策は、十分明らかにされているわけではない。コペンハーゲンのいくつかの伝統的な労働者選挙区では、この党が最大の党となった。
 左翼の中では、改良主義の社会人民党がもう一つの芳しくない結果を残し、一議席を失った。過去一四年間党の指導者であったホルガー・K・ニールセンは、選挙翌日に辞任した。
 極左派のRGAは、一九九四年の党創立以来で最良の結果を得た。得票率.四%をもって、党はその議席数を四から六へと引き上げた。この好成績は、いくつかの要素で説明できるだろう。その中で大きなものは、社会人民党の右翼的転換、特にEU憲法を推奨する立場(党内の全員投票においては、党員の六%が反対投票した)への転換、そして青年議員ぺルニール・ローゼンクランツ―セイルが示したメディアでの傑出した振る舞い(メディアは選挙のプリンセスと呼んだ)、初めて投票する層の中での大きな支持(連合は、いくつかの高校生票においては最大党の一つだった)、さらにイラク占領へのデンマークの参加に対する鮮明な反対である。
 リネ・バルフォット議員は、「党が手にしたものは、我々が運動にあたって設定した三つの目標の一つだった」、と語る。そして彼女は、「しかし我々は、政治的均衡を左に向けて変えることには、あるいは戦争反対の声を高めることには成功しなかった。そして我々は、政府の打倒には完全に失敗した」、と付け加える。
 しかしRGAは、殆ど全てのメンバーが参加した活動的でよく調整された選挙運動をやり通すことができた。運動期間中に党は、八〇〇名の新党員を獲得した。党の次の試練は、一一月一五日に予定されている地域選挙並びに市選挙、そしてEU憲法に対する来るべき国民投票である。
(「インターナショナル・ビューポイント」〇五年二月号電子版)
 
=速報・ポルトガル総選挙=
社会党完勝、「左翼ブロック」大躍進

 

 ポルトガル総選挙は、戦闘的左派の「左翼ブロック」に六%を超える得票率と、八議席を与える結果を残した。左翼ブロックの議員の中では、PSR(第四インターナショナルポルトガル支部)から、フランシスコ・ルカ(リスボン、前)及びアルダ・マセド(オポルト、新)の二人が選出された。
 土曜日に投票された総選挙では社会党が、得票率四五%、定員二三〇中、獲得議席一一九となり、紛れもない多数を勝ち取った。この絶対的な多数の下で社会党は、右であれ左であれ、いかなる連立相手をも必要としていない。一方現政府与党の右派連合(社会民主党と人民党)は、五〇万票以上の低落を目にすることとなり、得票率二八.七%、獲得議席七二となるまでに後退した。
 左翼の側では、先ず共産党―緑連合は、得票率七.五七%、獲得議席一四となった。この結果を前回と比べた場合、議席数は同じであるが、得票は後退となる(八・七五%からの低落、約五万票減少)。
 一方左翼ブロックは、六.八%(三六四、二八四票)を獲得した。これは前回二.七五%(一四九、五三二票)からの大幅アップであり、議員数も三から八へと大きく増大させた。社会党の左についての大きな話題は、共産党とその連携相手の票に示された彼らの明らかな停滞―下降、そして左翼ブロックのうねりだ。ジョージ・コスッタ、アントニオ・ルカ、ホアオ・カルロス・ルカは、IV最新版の記事(選挙前に執筆されたもので、昨年夏のEU議会選について論評したもの)で、「……ポルトガル共産党は、青年が投票する投票所全てで、票で左翼ブロックに遅れをとり続けている。そして今や大都市中心部全体でも遅れをとり始めている」、と語っている。
(「インターナショナル・ビューポイント」〇五年二月号電子版)
 
=速報・世界社会フォーラム=
ルーラ政権に関する鋭い論争

  クリス・ジョーンズ
 

 世界社会フォーラム(WSF)に関しては、焦点を一つに、あるいは一〇にですら絞ることは不可能だ。しかし、ポルト・アレグレ市が後援したこの第五回フォーラムの一連の日々の後には、WSFを作り上げた夢、運動、理念、さらに課題という多くのものの中から浮かび上がっている一連の主題がある。
 第一のものは、議題には載っていないとはいえ、ルーラ政権の政策との闘いであり、PT(ブラジル労働者党)とブラジル社会主義の未来である。ブラジル政府の閣僚達は、大会合やワークショップでの係争問題、中でも環境や人権について演説するために、WSF中あちこちに散らばった。そしてそこで彼等は、好感をもって受け止められた。またルーラは、ダボスに発つ前に基調的な演説を行った。
 PT左派、労働組合、またPTの左に位置する諸党は、前途に控える道筋を論争するための、意見が激しくぶつかりあう企画を何度も組織し、ピケを張りやじり倒すために、ルーラの基調演説集会にデモをかけ、新自由主義とルーラを攻撃する壁書きのスローガンや広告掲示板を街中に掲げた。PT多数派はそれに対抗して、「一〇〇%ルーラ」というTシャツを着込み、「もう一つの世界はルーラと共に可能だ」と読めるように、壁の書き込みを変えていた。PTとWSFの緊密な結び付きを前提とした場合、この論争はおそらく避けられないものであった。しかし不幸なことだが、それは大部分ブラジルの内部討論として遂行されてしまった。それ故この論争は、その行方を左翼にとっての国際的に学ぶべき教訓という幅広い背景の中に引き入れ、明らかにするものとはならなかった。
 WSFの公式日刊紙は、論争の背後にある諸論点を反映している。それは、第一面には、「私はここの仲間だ。私は大統領ではあるが、社会運動の大統領だ」とのキャプションと共にルーラの写真を掲載し、一方中の頁には、「ルーラ、ワシントンのお気に入り」というウォルデン・ベローの論文を掲載した。
(「インターナショナル・ビューポイント」〇五年二月号電子版)
 
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