2005年10月10日        労働者の力             第 187号

 
自衛隊はイラクから即座に撤退せよ
―混迷きわまるイラク、多国籍軍に撤退の動き―


川端 康夫


 10月15日に予定されているイラク新憲法草案の是非を問う国民投票を前にして、イラク情勢は極めて混迷した状況になっている。イラク議会の3大潮流はシーア派とクルド人勢力、そしてスンニ派である。他にも少数派の諸民族がいるが、実態としては影響がないとみられる。
 イラクの暫定政府は基本的に人口で多数派のシーア派とそれに協力するクルド人勢力が実権を握り、旧フセイン時代に優遇されてきたスンニ派は、一部を除いて、ほぼ議会選挙をボイコットしている。この対立は、憲法草案に関し、イラク国家の今後をどう規定するかという問題をめぐって深刻化した。憲法草案には、新イラクの連邦国家化がシーア派とクルド勢力の共同の方針で盛込まれ、スンニ派が猛反発した経緯がある。その理由は簡明で、シーア派とクルド勢力の居住地には石油が産出するが、スンニ派の拠点地区には油田がないのである。連邦制は、イラクという人工国家(もともとはイギリスが砂漠に勝手に線引したもの)という経過からは、適正な仕組とも言えるが、それが油田をめぐる利権争いとなると話が混線することになるのだ。現在の混乱が深まれば国家分裂に至ってしまうことも考えられる。クルドやシーア派の中には、国家として自立した方が石油を独占できるので有利だと考えている向きもあるようだ。それは石油資源を持たないスンニ派にとっては死活問題なのである。スンニ派は新憲法案の否決をめざしている。

新憲法案、混迷に拍車

 新憲法承認の条件は、暫定憲法(昨年3月制定)で、「投票者の過半数が賛成し、(全国18県のうち)3県以上で3分の2以上が反対しないこと」と規定されている。草案反対のスンニ派は中西部の3県以上で多数であり、この規定を利用しての否決をめざしてきた。
 ところが、議会多数のシーア派とクルド勢力は、国民議会で「投票者」の定義を、承認に必要なのは「実際に投票した人の過半数」とし、否決する場合は「登録有権者数全体」の3分の2と決め、否決しにくい規定解釈を押しとおした。これに対してスンニ派は「まがいもの民主主義」と反発し、投票ボイコットを表明し、また国連当局も批判するなど、国際的批判が高まった。国民議会は10月5日、規定解釈を取消し、実際の投票者数で判断することにした。
 しかし、規定解釈の合意が出来ても、スンニ派が草案否決の構えでいることには変らない。スンニ派取込みのために最終段階での草案修正も検討されている。しかし、スンニ派は1月の国民議会選挙をボイコットしたが、スンニ派とシーア派の対立がこれ以上深まればイラク政権の実質が崩壊することになる。
 イラクの人口構成は、総人口2600万人で、シーア派アラブ人60%、スンニ派アラブ人20%、クルド人15%などで、有権者は推定で1500万人。国民議会の有力党派はシーア派統一会派(統1イラク同盟)、クルド人統一会派(クルド同盟)、シーア派世俗派(イラク人の名簿)、スンニ派のイラク人党などがあるが、スンニ派の大多数は選挙ボイコットで議会には反映されていない。
 憲法草案をめぐるイラク諸勢力の思惑はますます交錯を深めているが、草案が否決されれば国民議会は解散・総選挙となり、イラクの状況は大きな混乱となることは必至である。こうしたことの背景には、アメリカ侵略軍を背景にした政治の安定に対するイラク民衆の強い抵抗・反発があるのだからアメリカを中心とする多国籍軍の撤退がなされない限り、安定に向うことはそもそも不可能な話である。

米英深部で撤退の流れ

 アメリカ軍は10月15日を前に、13万人から16万5千人に部隊を増強している。しかし、アメリカ国内ではイラクからの撤退を求める声が大きくなっている。ブッシュ大統領の支持率は38%という低水準に落込んでいる。またイギリス、オーストラリア両国も来年の早い時期にイラクのムサンナ州を含む南部から部隊を撤退させる動きが強まっている。ムサンナ州の州都は自衛隊が駐留しているサマワである。両国軍の撤退は、即座に自衛隊の撤退につながる。自衛隊は、両国軍によって防衛されているからだ。
 ブッシュもブレアも撤退計画を否定し、声高にシリアやイランをテロ支援国家と呼ばわりを再び始めている。しかし、新聞がすっぱ抜いたイギリス国防省の機密メモによれば、米軍は来年初めまでに、イラク18州のうち14州から多国籍軍を撤退させ、その後の治安維持はイラクの軍や警察に委ねる予定だという。現在イラクにはアメリカ、イギリス、韓国、オーストラリア、イタリアなど16万人がいるが、駐留兵力を6万6千人削減するというのがアメリカの計画だという。米英の撤退計画は、バグダットなどスンニ地域以外は治安が安定したという前提だが、実はイラク占領の前途に見通しがつかないので、治安が好転しているという口実で撤退を検討しているのだ。イギリス軍が駐留している南部のバスラ近辺は治安がいいと言われているが、その実態はほとんどの警察官が陰でゲリラと関係があり、英軍が撤退すれば警察は雲散霧消してしまうだろうという見方もある。
 米政府は、イラク人の軍と警察を10月末までに20万人にするとしているが、まさに絵に描いた餅だ。アメリカ国務省ではイラク占領の企画者達であるネオコン系列が追出されつつある。アメリカでは中東強制民主化計画が失敗に終ったことが自覚されつつあるのだ。アフガニスタンからの撤退も米政府の視野に入っているようである。アフガニスタンへは欧州部隊が増力されている。バスラから撤退するイギリス軍はアフガニスタンに派兵されるという。
 日本政府にはすでにイギリス、オーストラリアから撤退についての事前通告がなされている。3国間の協議もなされるはずだが、小泉内閣は自発的な撤退という方向を出していない。12月15日に期限が切れるイラク「占領法」の延長はもはや許されないものだ。

アメリカ頼りの対外政策、破綻がいよいよ明白に

 米英撤退後のイラク、中東情勢というものを考えておかなければならない。まずは、イラクとイランの急接近がある。7月7日にイラクのドレイミ国防相がイランを訪問した。ドレイミはスンニ派の有力部族出身だが、彼はイラン側に対して「フセインはイランを侵略した悪者だ」と述べ、対立を解消する態度を示した。両国は、今後イランが新生イラク軍の訓練に協力するなど、軍事面での協力体制を強化することを決めた。
 イラク国防相のイラン訪問は、イラク側からの希望で行われたとされている。イラク暫定政権は、昨年ドレイミの前任の国防相が「(イラクの反政府ゲリラを支援しているので)イランは最大の的である」と述べるなど、イラン敵視の政策を採っていた。
 それが最近になって方針を急転換した背景には、米英が新生イラク軍の設立準備を十分に進めないまま撤退するのなら、代りにイランに頼るしかない、というイラク暫定政権の事情があるのではないか。
 イラクとイランの接近は、軍事部門だけでなく、イラクの石油をイランの港から積出したり、イラクの石油精製をイランが請負ったりする石油のスワップ協定や、そのための両国間のパイプライン連結、鉄道の連結など、経済面でも進んでいる。イラクはイランを支えとし、自国の解体を阻止する方向にあると考えられている。シーア派過激派のサドル師は、アメリカがイラクを混乱させている。アメリカが出ていけばイラクの統一は守られると主張している。
 さらにロシアと中国のイランへの接近がある。イランへのアメリカの原子力いちゃもんつけには、中国とロシアが反対している気配がある。
 ロシアと中国の関わりはいかなるものであるだろうか。石油消費量が急増している中国は、石油産出国に広範に手を伸して、輸入枠の拡大に懸命だ。イラン、イラクへの接近の最大の理由は原油枠であろう。だが、ロシアと中国の動きにはそれ以上の波及があるかもしれないのだ。いわゆる「上海協力機構」という安全保障会議には、ロシア、中国、中央アジア諸国が含まれているが、今年7月の会議には、インド、パキスタンと共にイランもオブザーバーとして参加した。将来はアフガニスタンもオブザーバーにすること構想もあるようだ。イラン天然ガスをパイプラインでパキスタン、インドに運ぶ交渉も進んでいる。
 ロシアと中国は黄海で大軍事演習を行ったばかりだが、将来的にはインド軍も加わる予定とされている。こうした、「非」米諸国の連携が今後の中東地帯を安定化していくことになるかもしれないのだ。そうなると仮定すれば、米英や多国籍軍派遣の諸国は、イラクから何も手に出来ず撤退し、軍を派遣していない中国やロシア、あるいはフランスやドイツが原油資源枠を手にすることになるのだ。日本ももちろん何も手に出来ない。
 こうした」「上海協力機構」の動きは、同時にASEANが中心になって進んでいる東アジアサミットの動きとも関連していくことになる。
 日本は、小泉の対米1本槍路線のもとで、孤立を深めているのである。イラクへの自衛隊派兵は、憲法違反だと言うだけではなく、まさに100害あって1利なし、ということである。
 日本自衛隊はイラクから即座に撤退せよ。 (10月7日)
 
 日中労働者交流協会―宮城訪中報告
    海外旅行が初めてという仲間たちが垣間見た中国
           
電通労組 小川昌義          

 2005年9月22日から26日まで4泊5日で日中労交―宮城の仲間は、北京総工会、長春総工会との交流を行って無事に帰ってきました。訪中に当たり、両総工会とも大変忙しい中、交流会に時間を割いて頂いたことに感謝をします。その上にたって簡単にその報告をします。
 日中労交―宮城は、昨年12月に設立をし、2005年2月11日に第1回の学習会「中国革命と東アジア」を開催し、7月7日には、「盧溝橋事件と日中戦争」と題して学習会を開催をしました。いずれも講師は、9月15日に急逝された故清水宏幸先生でした。鋭い歴史観と分析で提起を受けましたが、どちらのテーマも1回で終わる内容の物でもなく連続した学習会にと考えていた矢先の悲しい知らせでした。残された先生の資料をいかに生かして行くかが問われています。
 こうした中で、日中労交―宮城は訪中の仲間を募集を行い、最大で36名の募集人員になりましたが、家族の病気、介護等々の問題が発生し、22日出発したのは20名となりした。清水先生の遺影を抱いての訪中となりました。
 訪中に当たり、日程が決まったのがよいが、事務局員を始め、海外が初めてという人ばかり、取り急ぎ旅行会社の方を派遣依頼「海外旅行についての一からの学習会」をしての出発となりました。

北京で見た光と陰

 今回の団員の構成は、親子、夫婦、家族等々と様々の構成となりました。
 最初の海外旅行としては、中国の税関や空港で若干のトラブルがありましたがまあまあの合格点での帰国となりました。
 22日夜、北京空港にようやく到着、ここに私達の労働者学校の先生Iさん夫婦が、午後8時頃にもかかわらず出迎えてくれました。その後に夕食を共にしました。何かと心強い気持ちでした。中国が気に入ったら是非来て欲しいという要望されました。
 中国北京に行ってびっくりしたことは、車が非常に多いこと、高速道路も渋滞をしている事でした。それに日本と同じでコマーシャルの看板が目立ち、それも、欧米諸国の人が写っている看板です。
 一般道路では高級車が走っている中に、バスは冷房もなく窓を開けて走っているし(1部冷房の入っているバスが走っているが料金が高いそうです)、リヤカー付き3輪車、自転車が走っている中を、広い道路を何処でも人が横断をしているのが目立ちました。
 見た限りでは、貧富の差がかなり出てきたのではないかという気がしました。あの天安門広場から故宮博物館に行く地下道の中で、子供を抱きかかえ力なく座り込み、空き缶を置いている姿を見たときには、社会主義国なのかという疑問を持ちました。

中国現場労働者との交流が今後の課題

 23日北京総工会と25日長春総工会とも、大変忙しいにも関わらず交流会に参加いただいたことに感謝をします。北京総工会では、会長1人の参加、2日後の長春では、2名の方が参加しての交流会でした。共に、小泉自民党の圧勝に疑念を持っていました。
 交流を通して感じたことは、日本の労働者との交流を強く望んでいることが共通していました。特に、長春総工会の方は、日本の東北地方との交流を強く望んでいました。
 私は、こうした交流も必要であるが、現場労働者との交流が必要だと痛感をしましが、中国語を話せるわけでもなく、無理なことであると思いました。それでも何とかしなければならないと思っています。今回の交流は、スタート台についたばかりと言う事だと思います。この上にたって今年11月釜山APECの閣僚・首脳会議、12月香港でのWTO開催反対の闘いを共同の闘いとして積み上げていく事が大切だと思います。

中国の反日運動
 
 日本の国連安保常任理事国入を表明してから、中国、韓国の労働者を始めとして東アジア人民から猛反発をうけ、特に中国労働者、学生からは激しい反日運動を起こされました。小泉の靖国神社参3拝問題、教育問題等々侵略戦争を反省しない態度に対する反撃でもあります。
 私が、北京、長春で感じたことは、一般の労働者の方は反日感情を表面的にではあろうと思いますが、全くないと言うことです。団体客として行動をしていたためかもしれませんが。むしろ、今から日系企業や小泉首相が、中国労働者にどのような対応を取ろうとするのかでかなり違ってくるのではないかと思います。
 次に、北京市内で日本車が、あまり目に付きませんでした。この点について長春のガイドさんが話をしていましたが、日本企業が、自動車産業の技術が漏れる事を警戒をし、援助を行わなかったようです。そこでドイツとの合弁企業で自動車産業を発展させてきたんだという話がされました。この事からも判るとおり、今頃になって日本企業が進出しても信用をしないという態度に伺えました。中国が必要としているときに手を差し伸べない日本企業に対する不信感があるように思われました。
 今回の反日闘争にしても、1989年6月の天安門事件、(天安門事件のきっかけとなった人物、総書記を追放され、その直後に死亡した胡耀邦総書記が名誉回復するのではないかという記事が、朝日新聞に記載されていました)にしても、中国労働者、学生が抱える問題、貧富の拡大等その矛盾を深く蓄積していると思います。今の改革開放の方針を取っていく限りますます貧富の拡大する一方であり、この結末は北京5輪大会以後に表面化してくるのではないかと思います。

貧富の差

 改革開放の結果、貧富の差が拡大して来ていると記しましたが、中国の教育制度は日本と同じで6・3・3制度だそうです。改革前は、同じ学校で教育を受けていたようでしたが、今は、高給取りの労働者は、子供を公立ではなく、私立の学校に入れて送り迎えもベンツ等の高級車で行っているということです。こうした教育にも格差の拡大が押し寄せてきているように思いました。それに、1人っ子政策の結果でもあるのではないかと思います。

中国人民抗日戦争記念館にて

 中国人民抗日戦争記念館は、1937年7月7日抗日戦争のきっかけとなった盧溝橋事件のあった橋の側にある建物で、今年7月7日にリニューアルオープンした新しい記念館になっていました。会館内は8つのテーマで構成されていました。中国全土から見学に来ており、ここで関心をした事は、どの子供達も熱心にノートに記録をしながら見ていることでした。
 この会館の中には、中国共産党の歴史と、抗日戦争での国民党との統一戦線が正しかったことを教えているような気がしました。7テーマでは、日本の戦犯の名前があり靖国神社に祀られていることを表示をしています。最後の8テーマでは「未来に向けて」の処に、小泉首相が中国のトップと握手をしている写真が大きく出ているのには、さすがにと思わせる場面でした。
 最後に、日中労働者交流協会関係者の皆さんにお世話になったことを感謝しお粗末な報告とします。
 (記念館にて陳独秀の名前が出てくるのかと思っていましたが、でてきませんでした。それでも、ガイドさんにこの人を知っていますか聞いたら、陳独秀を知っているということでした。)
 
 
   
 9・18集会・報告ー200名余結集

1億円カンパ完遂までもう一歩
        

  9月18日東京・文京区民センターにおいて、「管制塔占拠闘争元被告への損害賠償請求執行に抗議するー元被告たちを支え3里塚現地の闘いに連帯しよう!9.18集会」が200名を超える結集でひらかれた。
 会場の外は、文京区民センター前の交差点に、カメラをもった公安関係の私服警官が多くたむろし、久しぶりに緊張した雰囲気であった。会場内では久しぶりの再会で友情を確認する同窓会的様相であった。
 集会は、映画「大儀の春」の上映からはじまった。30年近くの歳月・時間を引き戻すような感動的な映像であった。しかし、大衆的実力闘争という概念さえ死語となっているいまの運動との落差を感じさせるものであった。
 集会は、労働情報共同代表浅井真由美さんと呼びかけ人の白川真澄さんの司会で開かれた。最初に発言に立った管制塔カンパ呼びかけ人の吉川勇1さんから「1億円は容易ならざる金額だ。かなり無理しなければ集められない。自分も1週間考えてカンパ額を決めた。これからも、無理して集めきろう」と強烈なカンパ運動の呼びかけがあった。続いて、廃港要求宣言の会の鎌田慧さんから「国家に金を払うのはおかしいが、元被告だけに犠牲を受けさせるわけには行かない。弾圧は運動でみんなの力で返していこう。10円カンパを成功させよう。」と訴えた。
 更に、管制塔裁判弁護団の虎頭弁護士、おんな組いのちの中山千夏さん、日本諸費者連盟の水原博子さんから連帯のあいさつがなされた。
 カンパ運動の状況が、基金運動事務局の中川さんより報告があった。「8月に呼びかけ文を発送して以来、毎日10件を越すカンパが寄せられている。カンパは連帯基金、3党派、被告団の3ルートで集められている。9月18日現在で連帯基金が2038万円、関係党派・インター系で1200万円、プロ青900万円戦旗500万円、元被告団2000万円の6638万円集まっている。10月末までに集めきりたい」との報告があった。
 次に、三里塚・東峰の石井紀子さんが話された。休憩後、連帯する会静岡の塚本さん、連帯する会熊本の神田さん、元労働情報編集長の樋口篤3さん、そして、反対同盟の柳川秀夫さんから「本来ならば反対同盟がこの集会を主催しなければならない。最大限がんばって元被告たちを損倍攻撃から解放したい」との連帯のあいさつがあった。
 そして、管制塔裁判元被告前田道彦さん、中川憲一さん、石山一男さん、中路秀夫さん、児島純二さん、和多田粂夫さん6名が壇上に上がり、それぞれあいさつした。前田さんから「今回いろいろと回り、感じたものは、政府の損賠攻撃は失敗したということ。様々なところで怒りが燃え上がり、予想をこえてカンパをしてきてくれている。いろんな人と一緒に管制塔に上がったのだと思う。」との発言があった。
 最後に呼びかけ人の柘植洋三さんから集会成功のお礼と訴え、またこの日に向けて作られた歌を全員で合唱して終了した。(S)

 ―韓国―
韓国労働者運動の今

団結権追求と新自由主義政策との戦闘的対決
          
ピエール・ルッセ

 団結権やストライキ権、また団体交渉権などの労働基本権を、韓国社会の全部門が享受しているわけではない。そこから排除されている部門の典型は、公務員や移住労働者だ。政府が新自由主義政策を実施しているその傍らで、戦闘的労働組合は今も抑圧を受けている。
 10年前の軍事独裁体制終結、及び1996年のOECD(経済協力開発機構)加入にもかかわらず、韓国では労働組合の団結権は全面的に認められることがなかった。労働組合活動家は今も「事業妨害」を理由に法的に告訴されている。
 組合活動を理由とした損害賠償と賃金・財産の仮差押要求の承認が今も続いている。例えば2004年1月には、41職場のそれら合計が1億1千万ドルに達した!労組指導者は投獄され、80年代の反独裁闘争から出現した民主労総は警察の抑圧を受けている。2年には121人の労働者が起訴された。
 いくつかの部門で労働者が自由に労働組合を組織する活動は、今も禁止されたままであるか妨害を受けている。これが公務員と移住労働者の場合だ。しかしこれらの労働者の中でいくつもの闘争が、何ヶ月にも亘って過酷な抑圧と対決しながら発展してきている。

「韓国公務員労組」(KGEU)への抑圧

 2004年秋民主労総とKGEUは、公務労働者に関係し、反組合条項を含んでいる「公共職員労働法」案に反対し、ゼネストを決行した。このストライキが11月9日に始まったとたん、KGEU書記長のアン・ビョン・スンとKGEU委員長のキム・ユン・ギルに対し逮捕状が発行された。この組合の指導者達を逮捕し、その活動を阻止するために、ソウルの民主労総本部周辺に警察が時間を空けずに配置された。
 書記長は2005年3月17日に逮捕され、44日間の拘留の後4月28日に釈放された。彼には2年の執行猶予がついた刑期8年が宣告された。委員長の場合は、150日に亘る追求の挙句、2005年4月8日に逮捕された。彼は75日拘留され、6月24日に釈放された。そして執行猶予2年、刑期1年の判決を受けた。
 KGEUに対する抑圧は指導者の逮捕だけではないし、その上彼らが釈放されて終わったわけでもない。6月21日と22日に組合はいくつかのデモを敢行した。そこでの要求は、抑圧に終止符を打つこと、そして江原道原州市の組合支部との交渉に応ずることだった。
 しかし行動2日目に126名の組合員が検挙され、6月24日に釈放された。行進は合法的に公表されたにもかかわらず、機動隊がデモ隊に襲いかかり、1人づつ彼らをデモ隊から暴力的に引き剥がしたのだ。
 2人の女性は卒倒し、そのうちの1人は、彼女達の同僚が繰り返し要求したにもかかわらず、医療処置もなしに40分も放置された。背中に手術を受けたことのある1人の男性は、彼のその症状を警察に告げたにもかかわらず虐待を受けた。その結果彼は、6週間にわたる治療を必要とした。
 民主労総は政府が行っている「改革」という主張を厳しく非難している。その政府の主張は公務員の地位に関する「指針」の中に含められているのだ。民主労総は、KGEUに関わる新しい法の提案に際してKGEUは1度たりとも考えを聞かれたことがなく、政府諸機関の1、400人の被雇用者が、2004年12月における新たな法律採択後に、彼らの権利を守るために闘っていたことを理由として解雇されるか不利益扱いを受けた、と指摘している(注1)。

MTUに対する抑圧

 移住労働者の団結権を要求する闘争は特に厳しい。その理由は、公務員の闘争よりも大衆化することがもっと困難だからだ。それもまた民主労総の傘下にある「移住労働者組合」(MTU)は、2005年4月24日に設立された。この組合は、未登録移住労働者の合法化に焦点を当てつつ、職場における労働者の諸権利、並びに資格証明書のない労働者の合法化を要求して闘っている。さらにまたこの組合は国際的連帯を求め、移民の防衛が様々な国でどのように扱われているかについての情報と経験の交流を提案している。
 MTUは、ソウル、仁川、京畿道のいくつかの労働組合支部や移民の協会の再結集から、さらに彼らの権利を求める闘いに向けてこれらの労働者の中に蓄積された1定の成熟から出現した。2001年には既に、韓国政府の入管政策に対してと同様、職場で外国人がその犠牲となっている差別と酷使と闘うために、「平等労働組合季節労働者支部」(ETUMB)の中に「移住労働者」の支部が設立されていた。
 2001年にETUMBは、ソウルの明洞大聖堂前で77日間に亘る座り込み行動を決行した。組合の2人の指導者は、その行動を理由に逮捕された後、入管拘留センターでハンガーストライキに入った。2002年には、1000人以上の移住労働者が政府の政策に反対する行進に参加した。
 2003年7月21日、韓国政府は雇用許可制(EPS)として知られる新たな法律を導入した。2004年8月に効力が発生したこの法律は、移住労働者を経営者のなすがままの状態に置くものだ。それ故それは、新たな奴隷制として非難されてきた。その時ETUMBは、今度は1年以上続いた、即ち、2003年11月15日から2004年11月28日まで!続いた新たな座り込みを決行した。
 民主労総は、「これらの諸行動を通して『姿が見えず声なき』移住労働者は、彼らの問題を韓国社会の最前線に持ち出すことが遂にできた。より重要なことは、移住労働者によって率いられ、組織された独立組合である、『移住労働者組合』の形成に到達したことである」、と書き記している(注2)。
 韓国政府は常に移住労働者組織の認知を拒否してきた。2003年、ETUMB並びに明洞座り込みの主要な指導者の1人であったサム・タパは、白昼公道上で入管当局によって拉致され、次いで国外追放された。同様に政府は、MTUに対していかなる認知を与えることも拒否している。この組合が職場における三大労働基本権―団結権、ストライキ権、団体交渉権―に基づく利益を得る可能性はない、ということを彼らは公式に確認した。
 警察は、彼らの個人記録を作成し、彼らに抑圧を加えるために、労組活動家を写真に収めてきた。MTU委員長のアンワル・フセインは、帰宅途中に30人以上の官憲によって乱暴に逮捕された。頭と手に傷を負ったまま彼はチュンジョー拘留センター(ソウル南部)に幽閉された。民主労総は、アンワル・フセインと韓国内の400000人の移住労働者、さらにMTUの防衛のために国際キャンペーンを推進してきた。

新自由主義「改革」

 盧武鉉韓国大統領の政権は「改良主義的」と考えられている。確かにこの政権は北朝鮮との対話(韓国左翼にとっては極めて重要な問題)に取り組んできた。それ故この政権は、軍事独裁体制の後継者である保守的な諸政党から攻撃を受けている。そしてこの政権は、穏健なNGOだけではなく、多くの元活動家、学生、労働組合活動家の中で人気を博してきた。しかしそれにもかかわらずこの時代は、新自由主義諸政策が急進的に実施されている時代でもある。
 これらの反改良を押しつけるためには、戦闘的労働組合主義は沈黙させられなければならず、組合の任につくものは社会的平和を保障する者でなければならない。この枠組みの中で、労働法の「改革」が進められ、さらに韓国政府はそのいわゆる「ロードマップ」、「産業関係改善」、そしてその他の法案を推進しているのだ。
 民主労総によれば、「中でも最も深刻な問題は労働市場の急激な柔軟化とそこから派生している諸問題だ。過去数年の間に、労働力の56%が有期雇用や短期雇用、また派遣や契約労働者、さらに特殊に雇用された労働者などの非正規労働者に転換された」(注3)。
 そのような政府に対してどのような姿勢をとるべきなのだろうか。軍事独裁体制時代に唯一認知されていたナショナルセンターであった韓国労総は、政府、雇用者との「3者協議」に1貫して参加してきた。この問題に関し民主労総内部には重要な違いがあり、その全国的指導方向はかつてよりも相当修正されてきた。
 内部に存在する緊張を表すように民主労総は、2004年末と2005年始めの2ヶ月の内に、3回の大会を開いた。しかし今年7月14日の中央執行委員会において、組合がこれまで参加してきた労働大臣管轄下の種々の委員会から引き上げ、大臣の辞任を要求することが決定された。この決定は、政府が彼らの新自由主義政策を放棄するように政府に圧力をかけるためになされた(注4)。さらに、民主労総と韓国労総の両委員長が率いる共同抗議行動が敢行され、この2つのナショナルセンターは共同の新聞声明を出した。
 他の多くの諸国と同様韓国においても、随時的で臨時的かつパートタイム労働の「非正規」労働者問題に関して、盧武鉉政権はこの間正面からの攻撃を推し進めてきた。200年9月にこの政権は一連の政策を発表した。それは特に、臨時労働の期間を2年から3年に延長し、随時雇い労働に関し経営者に殆ど全面的な自由を与えるものであった。
 関係する労働者は、これらの法案に反対し、しばしば何ヶ月も続いた非常に厳しい闘いに取り組んだ。関係する部門の3人の労組指導者が、議会に反対し、巨大なクレーンの最上部を「占拠」した。そして彼らは1週間後に逮捕された。
 民主労総は、「非正規労働者」が受けている差別的取り扱いは特に女性の肩に重くのしかかっている、と指摘する。これらの労働者では、男性の稼ぎは平均して「正規」労働者賃金の57%にしかならない。ところがこの比率は、女性になると43%にまで下がるのだ。民主労総が指摘するようにこの事実は、これらの「非正規」女性労働者を現在の実績よりもはるかに多く組織する必要性を迫るものだ。
 非正規労働に関する上述してきた諸法案が巻き起した反応がいかに強いものだったかは、政府がそれらを採択するという考えを放棄しなければならなかった、ということに示された。しかしそれはもっと後まで延期されたに過ぎない、ということもまた明らかだ。今日民主労総は、政治の世界とメディアによる具体的な中傷宣伝に直面している。その狙いは、新自由主義的諸手段遂行に向かう道を掃き清めるために、戦闘的労働組合主義を弱めることだ。

WTO反対

 対立はまた世界貿易機構(WTO)との関係においても高まりつつある。7月27日、「総評議会」の場で、韓国の様々な組織は、「新自由主義のグローバリゼーションに反対する民衆行動」設立を発表した。その目的は、WTOに対する、自由貿易協定に対する、さらに自由主義の他の諸手段に対する抵抗の戦線を広げ、これらの問題に関してこれまで調整のないままに採られてきたあらゆる働きかけにより大きな統一を与えることである。
 この連合は民主労総と並んで、特に「FTAとWTOに反対する韓国民衆行動」(KoPA)、韓国農民同盟(KPL)、韓国民衆連帯(KPS)、韓国労総、さらに多くの他の大衆組織と活動家組織、部門別の連合を巻き込んでいる。
 その中心スローガンは、「WTOノー、ドーハ開発交渉議事日程を停止せよ」だ。そして来るべき主要な国際的合流は、今年11月香港で予定されているWTO会合だ。韓国の闘士達は、極めて多くのアジアや国際運動の勢力に彼らの力をつなげる形で、そこに登場するだろう。
注)筆者は「国境なきヨーロッパ連帯」(ESSF)で活動、この間の長い年月アジアの連帯運動に関わってきた。仏LCRの指導的活動家でもある。
注1)「ELSACに対する説明文書」、2005年5月9日
注2)民主労総、「警告行動、移住労働者に対する弾圧反対」、2005年5月19日
注3)ELSACに対する説明文書」
注4)民主労総は、これらの新自由主義政策の最近の例として、非正規労働者に関する政府による法案促進、最低賃金に関する恣意的な決定、さらに病院の争議に関する職権調停を上げている(民主労総月刊ニュースレター、2005年6・7月号)。(「インターナショナル・ビューポイント」電子版、9月号)
 
―ドイツ―
左翼、選挙で躍進

  
マヌエル・ケルナー
 
 9月18日まであったものは世論調査に過ぎなかった。しかしそれは今や事実となった。即ち、WASG(職と社会的公正のための対案)に支えられた、前PDS(民主社会主義党)である左翼党は、8.7%の得票をもって議会内で1つの政治勢力となった。この得票は8.1%を得た緑の党を超えた(この党は、2002年には8.6%を獲得した)。この事実を小さな政治的地震と語ることは少しも誇張ではない。
 2002年にPDSは僅か4%を得たに過ぎず、5%の敷居(比例代表議席を得る資格に必要な)に達することはできなかった。それ以降この党の議会での代表は、小選挙区で選出された2人の議員によって果たされたに過ぎなかった。
 PDSは事実上、「東の」党になる道に従っていると言ってよい状況に置かれていた。あるいはむしろ、ベルリンとメックレンブルグ―ウェストポメラニアの地方政府に従属的な立場のままSPD(社会民主党)の連立政党として参加し、新自由主義化した社会民主主義の反社会的政策並びに緊縮政策に対し共同責任を負ったことによって、選挙基盤を沈下させつつある党への道をたどっていた、と言ってもよい。

二重の政治的分極化と賭けられたもの

 5月のノルトライン・ウェストファリア州議選におけるWASGの成功(PDSの0.9%得票に対して、2.2%の得票率)、さらにWASGへの合流と統一提案という形でオスカー・ラフォンテーヌが発揮した主導性を経て、選挙での躍進は明確となった。
 首相であるゲルハルト・シュレーダー(SPD)が策動を仕掛けただけに、あらゆることが大急ぎでやり遂げらなければならなかった。9月18日に総選挙を早めるために、彼は何と自身の不信任投票を求めたのだ。しかし、社会的決起、SPD内での批判、さらに左側での新たな政治勢力創出を阻止することを想定したこの前倒し突進は、与党の敗北に終わった。
 政治的力関係を変えたものは確実に、SPD並びに緑の党の左に向けられた統一的な推進力だった。SPD及びCDU/CSU(キリスト教保守派、キリスト教民主/社会同盟)は、2002年には各々38.5%を得ていた。しかし今回SPDは34.3%に、CDU/CSUは35.2%に減少した。選挙の直前には、投票意思のある有権者を対象とした世論調査でのSPDの低落はさらにもっと劇的となっていた。それは30%以下にまで達し、左翼党は11%に達しようとしていた。
 しかし投票日直前最後の2週間でSPDは、FDPの自由主義者とCDU/CSUとに対抗するある種の分極化を作り出すことに成功した。そこにおいてSPDは、「福祉国家に対する必要な改革」のために闘いはするが、SPDはあくまでも社会的公平の党であり、その1方FDPとCDU/CSUは普通の人々に対し残酷さと社会的不公平をもたらす党である、と強調した。SPD―緑の党が遂行してきた真の政策から見た場合、この主張はまさにデマゴギーの傑作であった。
 また、左翼党の筆頭候補者であったグレゴール・ギジ、オスカー・ラフォンテーヌが、選挙最終盤に広め繰り返したように、特権的諸党が形作る新自由主義の政党連合より左に対する投票も、キリスト教保守派と自由主義者で作られ、アンジェラ・メルケルが率いる「黒―黄」政府への道を阻止する上で「有効な投票」であった。SPDと緑の党だけでそれを実現することは不可能だっただろう。この事実は、ドイツの政治地図に長期的な変化が起きつつあることを示している。さらに加えて、最も残忍な新自由主義的手段を提唱してきたFDPの9.8%という得票は、「大政党」を犠牲にして左と右へ向かう、2重の分極化をも示している。
 次の政府がどのようなものとなるのかは、今のところ全く明らかではない。「黒―黄」も「赤―緑」も、ともに議会では多数を取れない。特権的諸党はいずれも、左翼党との連携を排除している。その上この党の代表者達も、新自由主義的政策に責任のある諸政党との連立政府はいかなるものであれ排除している。ところが人々が驚いたことにゲルハルト・シュレーダーは、政府を率いるつもりだ、と投票が終わったばかりの日曜夜すぐさま語った。しかし一体誰が相手なのだろうか。
 FDP指導者のグイド・ベスターベーレは、SPD並びに緑の党との連立を彼の側から拒否した。CDU/CSUは、緑の党及びFDPとの連立を作る可能性を探るため彼らとの交渉を開始した。まさに見世物だ。これらの騒ぎにもかかわらず最もありそうな結末は、SPDとCDU/CSUの「大連立」であり、その場合シュレーダーは首相に留まることはできそうにない。
 左翼党の選挙での躍進は、ドイツにおける労働者運動に歴史的な日付を記す。労働者階級や最も貧しい層や最も抑圧されている層にとって今賭けられているものは、政治の分野における階級的独立を再確立する可能性だ。
 その実現のために要求されることは、連立政権や共同責任というものが持つ論理全てを断ち切り、議会外の動員を鼓舞し、反資本主義の戦略を発展させつつ、確固とした野党の立場を採用することだ。左翼党とWASGとの間の融合という道筋を経て生み出されようとしている新たな左派政党はそれ故どのような犠牲を払っても、順応という道に陥ることを避けなければならない。そのような道はただ失望と破綻へと導く可能性しかもっていないのだ。
注)本稿の初出は、「社会主義新聞」(「soZ」)
訳注)本紙8・9月号3照
(「インターナショナル・ビューポイント」電子版、9月号)
―フランス―
LCR、バカンス明けを上々のすべり出し
 フランスで9月は「復帰」の時だ―この時期に夏休み後の政治生活が再度始まる。とはいえ今年その意味はとてつもなく大きい。それというのも5月29日の国民投票が与えた衝撃は、夏を心安らかなものとしなかった、ということを意味していたからだ。その名に値するあらゆる政治組織や政治潮流は、通常8月終わりか9月初めに、来るべき年に準備するために夏季大学を開催する。
 LCR(第4インターナショナルフランス支部)もその例外ではない。LCRも8月終わりにポルト・リュカルテで、第14回夏季大学を開催した。ここには約800名が参加した。その40%はLCRの(あるいはその時点ではまだ)党員ではなかった。
 LCRとその主要なスポークスパーソンであるオリビエ・ブザンスノーが要となる役割を果たした国民投票運動に引き続いて、そこにはメディアが大挙して出掛けて来た。彼らを主として惹き付けたものは、国民投票勝利後の展望に関する論争だった。
 この夏季大学とそこでの論争はテレビやラジオ、さらに新聞紙上で幅広く取り上げられた。それがその上に1000人以上もの人々の関心を呼び起こし、そのうちの何人もがそのためだけにやって来た。LCRは、「左翼に立場に立つノー」の運動に関わった部分全体を網羅する発言者を招待した―それらの人々の中には、マリー―ジョルジュ・ビュレー(共産党書記長)、社会党の「社会的共和国のために」潮流のジーン―ルク・メレンコン、農民指導者のジョゼ・ボベ、さらに連帯労組連合(SUD諸労組)のアニック・クップが含まれる。
 論争は社会的かつ政治的展望、綱領、さらに可能な政治的連携等の問題を網羅した。ジーン―ルク・メレンコンは、「ファビウスからトロツキストまで広げた新たな左派統1」を強調した―しかしこれは、ファビウスが「ノー」投票運動の1派であったとはいえ必ずしも反資本主義とは言えず、彼が新たに見出した反自由主義ですらも確信を与えるには程遠いものである以上、問題含みである。マリー―ジョルジュ・ビュレーは、「抗議だけに止まらない勝つための多数派民衆連合」を呼びかけた。
 オリビエ・ブザンスノーが呼びかけたものは「1時的でない社会的政治的戦線」であり、その中で彼は、2007年の選挙について語る前にドゥビルパン政府が今も仕掛けている新自由主義的攻撃に対する反撃の組織化について話し合うべき、と強調した。その戦線においては、既にいくつかの結集が生まれつつある―特に、最初の私有貨物列車阻止に向けた9月16・17日の行動、また10月4日の全国労組行動日(全国で100万人以上の労働者が結集し、成功―訳注)。
 上に見た論争に平行して、左翼側の論争は引き続くだろう。9月10・11日に共産党は例年の「ユマニテ」(共産党機関紙)祭を開催予定だ。LCRはここに自分自身の出店を初めて設置し、オリビエ・ブザンスノーは「ノー」勝利後の展望に関する―再度の―中央演壇での論争に参加する予定だ。
(「インターナショナル・ビューポイント」電子版、9月号)
 
訃報
ピエール・ブルーエ死去(1926―2005)

           ミューレイ・スミス
 マルクス主義者の歴史家であり、トロツキスト闘士であったピエール・ブルーエが、7月26日ガンとの長い闘いの末亡くなった。高名な歴史家となる以前ピエール・ブルーエは闘士であった。そして彼はそうであることを決してやめなかった。彼はその政治活動を10代で、1936年のフランスゼネスト並びにスペインの共和派を支援することから始めた。
 第2次大戦中パリへやって来た彼は、レジスタンスに参加し共産党員となった。しかし彼は、ドイツ兵の中での国際主義的宣伝を組織することを要求することで党と衝突した。彼は型通りに除名された―彼は確かにトロツキーのいくらかの書物を知ってはいたが、それが何であるのかを正確には知ることもないまま、トロツキズムとして告発され、それは最初でも最後でもなかった―。戦争が終了に向かう中で彼は、フランストロツキズム運動に合流し、何10年間もそのメンバーでありかつ指導者だった。
 しかしピエール・ブルーエの最も重要な貢献は、歴史学の分野においてなされた。彼は、偉大な博識を表現の明晰さに結び付けた一流の歴史家であった。しかし彼を特徴付けるものは、彼がトロツキズムの伝統の中で教育された1人のマルクス主義者として、労働者運動と革命の歴史を書いた、ということだ。
 スターリニズムが左翼の知識人を支配していた国においてこれは重要だった。そしてブルーエの本の殆どは、その支配に極めて効果的に挑戦した。
 本の著作と並んでブルーエは、1977年に「レオン・トロツキー研究所」をも設立し、フランス語によるトロツキーの著作の発行を指揮し(27巻以上)、さらに「レオン・トロツキーノート」を発行した。
 ハーバード大学のトロツキー文書の秘密部分が1980年に公開された時、その新しい資料に基づいて著作を行った最初の人々の中にブルーエがいた。その最も注目すべき成果が、彼の1988年の伝記、「トロツキー」だ。
 ブルーエは彼の政治活動の殆どを、トロツキズム運動内のランベール派の中で行った。彼は結局1989年にランベールによって除名されたが、それでも政治活動は続けた。
 そして人生の最後の時期、テッド・グラントとアラン・ウッズが率いる国際潮流と協力した。LCR政治局は、彼の死を伝えるコミュニケで彼への敬意を表した。
注)筆者は、スコットランド社会党の元国際活動担当活動家であり、現在はLCRで精力的に活動中。

(「インターナショナル・ビューポイント」電子版、9月号)

 
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