2006年1月10日        労働者の力             第 190号

 
改革・開放の現段階と今後の中国
迫り来る「新しい階級」と市場経済の衝突(上)

織田進
 

 
目次
1、改革・開放の合意はどのように形成されてきたのか
 @毛沢東体制からの離脱
 A「社会主義市場経済体制」から「私有財産制」へ
 B党の「変質」
2、経済成長はどのように達成され、何をもたらしたのか
 @人民公社の解体と」農業改革
 A急速な工業化・「持続的成長」の要因
以下次号
 B 急速な経済成長の矛盾
3、中国はどこへ向うのか


1 改革・開放の合意はどのように形成されてきたか

 中国共産党が改革・開放路線を歩み出してからすでに4半世紀が過ぎた。この間、中国はめざましい経済成長を遂げ、社会のあり方にも巨大な変化が生じている。中国経済の動向は、今や世界経済の鍵を握る存在になっている。
中国がどのような方向に向かっていくか、世界の注目が集まっている。このことを考えるために、まず、毛沢東の指導下では実質的に鎖国体制にあった中国が改革・開放に向かっていく合意をどのように形成していったかを見たい。
@毛沢東体制からの離脱
 中国共産党第11期3中全会が改革・開放路線を決定したのは、1978年12月であるが、それは、毛沢東体制からの離脱として行われた。
 1976年1月、周恩来が死去し、その年4月、第1次天安門事件(*)が発生、ケ小平の失脚につながった。だが、直後の9月に毛沢東が死去し、10月には「4人組」が逮捕され、華国鋒が主席となり、ケ小平は九死に一生を得た。
*1976年4月5日の
  清明節において、周恩来の追悼集会に集まった大衆を公安が鎮圧し、「4人組」はこれをケ小平が組織した反革命陰謀であるとして断罪した。
 1977年7月、ケ小平の全職務は回復され、その翌年12月、ケ小平の指導権確立と共に、現代化を目指し経済の改革・開放路線が確立された。またこの会議で華国鋒は自ら掲げた「2つの凡そ」(*)について自己批判し、その後1981年、全職務から解任された。
 *1976年10月に華国鋒の宣伝部門に対する指示として出されたもので、「凡そ毛主席がおこなった決定であれば、われわれは断固支持する。凡そ毛主席の指示であれば、われわれは終始一貫守る。」と定式化され、華国鋒の権力承継の根拠となった。その指示とは、毛沢東が死の直前に華国鋒に対して「あなたがやれば私は安心だ」と言い残したというものである。
 仮に毛沢東の死が数ヶ月または1〜2年遅れたとすれば、この展開がどうなったかは分からない。毛沢東の死の直後に展開された一連の政治劇は、改革・開放への転換が、毛沢東体制からの離脱として行われたこと、その唯一の推進者がケ小平であったことを明らかにしている。それは、毛沢東の一連の急進的自力更生政策、大躍進・人民公社路線に抵抗した指導的幹部として大衆的な権威を有していた者は、彭徳懐、劉少奇、周恩来、ケ小平の4人しかいなかったが、毛沢東の死後まで生き残ったのは、ケ小平ただ1人であった事実によるのである。
 改革・開放への転換は、中国共産党の党内権力闘争であった。たしかに毛沢東の自力更生政策は完全に行き詰まっており、方向転換は必然ではあったが、ケ小平の存在がなかった場合には、今日に至る中国の歩みが大きく異なったものになったであろう。
A「社会主義市場経済」から「私有財産制」へ
 毛沢東体制からの離脱を果たした中国新指導部は、停滞し荒廃した中国の経済と社会を「遺産相続」してスタートしなければならなかった。1987年第13回党大会において、趙紫陽は「社会主義初級段階論」(*)を展開したが、これは、毛沢東急進社会主義から最終的に決別すると共に、「現代化」のために時間を得ようとする率直な提起であった。
 *これは「中国の社会主義は半植民地半封建社会から生まれたもので、生産力のレベルは先進資本主義国よりもずっと遅れている。したがって、中国は長期間にわたる初級段階を経て、他の多くの国が資本主義の条件の下で成し遂げた工業化と生産の商品化、社会化、現代化を実現しなければならない」というものであるが、その狙いは、資本主義的要素を社会主義経済に導入して現代化を実現するというものである。そしてこの初級段階は少なくとも100年以上はかかるとされる。これにより、社会主義が遠い将来の「理想」とし て棚上げされる1方、  資本主義的要素の導入が正当化されたのである。(関志雄『中国経済革命最終章』)  1989年にベルリンの壁が崩壊し、東ヨーロッパ・ソ連の「社会主義圏」があっけなく崩壊した事態は、中国指導部の危機意識をさらに切迫したものにし、改革・開放の歩みを加速しなければならないとの決意を強めさせた。
 1992年始め、ケ小平は「南巡講話」を発表し、改革・開放の新しい展開の戦略を打ち出した。「計画が多めか市場が多めかと言うことは、社会主義と資本主義の本質的な区別ではない・・・」とし、「経済特区」の実験をさらに進めるべきことを推奨し、外資の導入、証券・株式市場の仕組み等の活用を大胆に試みるべきだと提案したのである。これを受けて、江沢民はこの年10月の第14回党大会において「社会主義市場経済体制の樹立」を宣言した。江沢民はその報告の中で「これはつまり社会主義国のマクロコントロールの下で、資源配分に対して、市場に基礎的な役割を果たさせようということであり、・・・優者生存劣者淘汰を実現するのである」と述べた。すなわち、経済の市場化の中で社会主義体制は国家によるマクロコントロールを通じて防衛されるとの新説が打ち出されたのであるが、同時に、停滞している国有経済再建のための大規模なリストラが市場を通じて推進できるとの期待も表明されたのである。
 だが、国家が市場に対してマクロコントロールを実施することは資本主義経済の構造そのものであり、社会主義を市場から防衛する保証とはなりえない。これ以後、市場経済が国の全体を呑み込んでいく中で、ただ中国共産党が国家権力を掌握しているというその1点で社会主義が標榜されているにすぎないという現実が明らかにされていくのである。そして、解放後30年にわたり「社会主義」の根拠としてきた「貧困の平等」の社会構造の1つ1つが市場化の中で崩壊していくとき、党の精神的権威も失われ、これに代わる支配の根拠とシステムを求めざるを得なくなっていった。
 江沢民の「社会主義市場経済体制の樹立」路線のもとで、改革・開放政策は急速に展開していった。1997年にケ小平が死去したが、この年開催された第15回党大会はケ小平「理論」を党規約に明記した。このとき江沢民は、中国共産党がマルクス主義を中国において2度飛躍させたこと、1度目は中国革命を勝利に導いた毛沢東思想であり、2度目は「中国の特色を持った社会主義」を建設する道筋を明らかにしたケ小平理論であるとして、全面的市場化にもとづく現代化の路線を、党の歴史に位置づけて正当化し、あわせて毛沢東権威の温存の意図を明確にした。
 この大会において、中国共産党は次の1歩、すなわち「所有制構造」に関する新たなステップを踏み出した。「公有制を主体とし、多くの経済要素を共に発展させることは、我が国の社会主義の初級段階の基本的な経済制度である」とし、株式制度を社会的所有制の主要形態と位置づけ、国有計画経済からの転換を加速したのである。
B党の「変質」
 改革・開放の歩みは、毛沢東体制からの離脱として始まり、社会主義の前提とされてきた国有計画経済からの離脱へと到達した。
 この理論的な転換は、経済の市場化の進行に強制されたものであった。改革・開放の経済成長は国有計画経済の泥沼的停滞を顕在化させ、外資導入をテコに急速に発展する私営経済が中国経済の死活を制するに至ったのである。
 こうした変化は、貧農と労働者に基礎を置く階級政党としての中国共産党の建前を根本的に崩すこととなった。党が発展する経済にその基盤を確立し続けるためには、経済成長の新たな根幹となった私営経済に支配力を確立していかなければならない。
 2002年12月、第16回党大会は、胡錦涛を総書記に選出すると同時に、江沢民の「3つの代表」(*)の理論を党規約に明記したが、これに先立ち江沢民は、前年7月の建党8周年記念講話において、資本家の入党を公式に容認する方針を発表していた。
 *「3つの代表」とは、2002年2月、江沢民の講話において提起された、「共産党は先進的生産力、先進的文化、広範な人民の利益を代表する」との「理論」であるが、これによって中国共産党がその階級的出自を乗り越え、いわば「国民政党」への転身、つまりは市場化した中国経済の基幹部門を党の基本勢力として取り込む道を公式に開いたものであった。
 続いて2003年10月、第16期3中全会は、従来の国有企業に代わり、株式制を公有制の主体的形式とする決定を行った。
 こうした一連の「改革」の歩みは、「現代化」する中国共産党が、経済の全面的市場化の進展とともに、従来の綱領的陣地を次々に放棄し、社会主義運動の歴史の中で前例のない「進化」を遂げて行く姿を示している。
 しかしながら、毛沢東体制からの離脱として始まり、あたかも「社会主義」のトータルな否定につながっていくかに見えるこの変質過程は、それにもかかわらず、次の決定的な1点においては、毛沢東社会主義の本質からいささかも逸脱してはいない。それは、「党が国家を決定する」、そして「党は中央が決定する」という原則である。西欧型資本主義のルールと明確に対立するこの反民主主義的政治構造は、現在の中国において未だいかなる変化の0しもない。「党が国家そのものである」関係が基本的に維持され、その構造を通じて全面的市場化が進行し、それによって経済と社会の急激な変化が進行する中で、この変化を取り込むための「変質」が党に強制されているのである。
 「党が国家そのものである」中国の構造を防衛するために、国家と共に党も変質していく。これが現在進行している事態の本質であるといえよう。とすれば、この過程の延長上に、いわゆる「民主化」が自然に接続すると展望することは、きわめて困難であろう。

2 経済成長はどのように達成され、何をもたらしたか

 次に、中国の改革・開放に基づく経済成長がどのように進み、それが何を作り出したのかを見ることにしたい。

@人民公社の解体と農業改革
 毛沢東体制からの離脱として始まった改革・開放の第1段階は、毛沢東体制の基礎構造・人民公社の解体であった。
 中国の農業生産性は、1952年を100として、大躍進と文革を経た1978年には、わずか71・7でしかなかったといわれる(馬立誠他『交鋒』)。毛沢東の死後、一部で始まった世帯毎の生産請負制度は燎原の火のごとくに広がって人民公社を焼き尽くした。1983年からのわずか3年間で、すべての人民公社が解散し、それに代わったのは郷鎮政府と村民委員会であった。
 生産請負制が導入された1980年から85年まで、農業生産はめざましい伸長を見せ、中国の改革は農村から始まったと言われた。それは、中国が毛沢東主義から決別したことを象徴する出来事でもあった。「10000元戸」などがもてはやされた農業の高度成長は、しかしながら、85年を境として停滞に代わった。
 高度成長をもたらした要因は農民の意欲を抑圧してきた集団農場システムの解体にあったが、それは同時に農業経営の分割小農民化をもたらした。1戸あたりの耕地面積は、1年からの20年間で30%近くも減少したといわれている。
 成長を持続させ、農業の生産性を高めていくためには、産業化や基盤整備のための投資が積極的に投入され、新たな集団・大規模経営に向けた改革を展開することが必要であった。だがこのような投資は、財政難を抱える政府からは提供されず、まして数十年の長きにわたって個人的な蓄財が不可能な集団農場に縛り付けられてきた農民にも、その力はとうていあり得なかった。生産性の持続的な伸長なしに市場経済に組み込まれてきた農村経済は、80年代から今日まで続いている政府の農業政策の混迷の中で、深く慢性的・構造的な隘路に引き戻されていった。
 もともと人民公社制度のもとで、中国の農業は低生産性の代償として膨大な過剰労働力を抱えており、これを貧困の平等化によって覆い隠してきたのであったが、人民公社の解体は「貧困の個別化」を実現してその矛盾を一挙に顕在化させた。だが、農民を一般国民から隔離している2元的戸籍制度のもとで、農民は都市への移住を禁じられ、農業そのものから離脱することができないため、過剰労働力を産業部門間の移動によって吸収することは不可能である。この戸籍制度は、農民戸籍に分類された者は、死ぬまで農民として暮らさなければならないという、中国の全人口の7割に当たる農民をいわば「2等国民」として永久に差別する、世界に例を見ない制度である。そのため、今日の中国経済の矛盾を象徴する農民の都市への大量の出稼ぎ(毎年100000000人を超えるといわれる)が普遍的現象となり、全国の農民と農村財政の不可欠の収入源となっている。
 改革・開放による経済成長を先行した農村経済は、中国経済の成長過程の有機的な循環に組み込まれて、その牽引力となることもあり得ただろうが、実際にはそうならなかった。農業部門の生産性の向上が生み出す過剰労働力を工業部門が吸収し、都市人口が増大してこれを支える農業生産の増大といっそうの生産力の向上を作り出し、農業の産業化と基盤整備のための資本形成を可能にしていくという、国民経済全体の現代化のサイクルが作られなかったのである。
 このような状況の中で、人民公社を解体して大量に生まれた地方権力は、新たな抑圧機構として機能し始めた。
 それぞれの郷鎮政府は、それぞれに新たな官僚機構を肥大化していった(*)。国家は財政負担を逃れるため、郷鎮政府が独自の財源を確立する権限を大幅に認め、郷鎮政府はそれを農民に対する各種の税・公費負担制度の「発明」と、その強権的取り立てに求めたのである。
*1998年、財政省大臣補佐劉長混がこうもらしている。「漢王朝では80人が1人の役人を養っていた。唐王朝では3000人が1人の役人を、清朝 は1000人が1人の役人を養っていた。いまは40人が1人の公務員をやしなっている。」(陳桂棣『中国農民調査』)
 農民と都市住民の格差は広がる1方であり、農民の状況が改善される見通しはない。例えば、2001年の都市住民1人あたり可処分所得の平均は6850元、増加率は8・2%であったのに対し、農民1人あたり平均純所得は2366元で増加率は4・2%であった。農民の不満は急速に増大している。圧政に耐えかねた農民による闘争や暴動が頻発している。
 80年代半ば以降、農村は新たな矛盾の焦点となった。そして農業・農村・農民のいわゆる「3農問題」として深刻化しているこの矛盾は、中央・地方の政府構造と農民の対立の激化という政治的な表現をとりながら、今日の中国に重くのしかかっている。

A急速な工業化・「持続的成長」の要因
 中国経済は、1996年以降今日まで実質7%以上の成長を続けていると言われ、特にWTOに加盟した2002年以降は、3年連続で前年を上回る高い成長を実現している。
 もちろん、中国の統計数字の信頼度や、不動産バブルの発生などの危険な要素を割り引いても、中国が連続して高い経済成長を達成していることは明らかであろう。
 この高い経済成長がどのようにして達成されているのかを見ると、いくつかの重要な特徴と問題がある。
 第1は、投資と貿易への依存である。
 この20年間に中国は、新たな国民経済の誕生と成長の歴史を刻んだのだと言っても過言ではない。したがって、成長を投資が牽引したこと自体は何ら不思議ではない。中国のGDPに対する投資比率は1991年から2003年までの期間で39・1%であるが、高度成長期の日本、韓国、台湾はそれぞれ32・6%、29・6%、21・9%となっている。しかし、投資効率という点では、大きな問題がある。国有企業改革が十分に進まないまま投資が実行されているため、効率が低いのである。それぞれの期間の資本係数(投資比率を成長率で除したもの)を比較すると、日本、韓国、台湾がそれぞれ3・2,3・2,2・7であるのに対して、中国は4・1であり、しかも年を追って上昇している(91―95年が3・4、96―0年が4・5,1―3年が5・1)。
 投資に大きく依存した成長の反面は、国内消費の弱さである。現在の中国の貯蓄率は、25%と極めて高く、高度成長期の日本を上回るほどであると言われている。こうした貯蓄率の高さが、脆弱なパフォーマンスにもかかわらず金融機関の融資余力を作り出し、投資依存成長を可能にしている。
 国内消費の弱さは、経済成長の貿易依存の要因にもなっている。2004年の中国の貿易総額は、日本を抜いて世界第3位のレベルに達した。また投資依存型の成長は、重工業中心の経済を作り出している。工業生産に占める重工業の割合は、2000年の60・2%から2004年の66・5%へ増加した。
 重工業への傾斜は、環境問題を深刻化させている。エネルギーの石炭依存は解消されず、逆に、エネルギー消費に占める石炭の割合はこの5年間で、66・1%から67・7%に増加した。
 第2は、外資への依存が大きいことである。
 今世紀に入ってからの外資企業の対中直接投資は4年連続で過去最高を記録している。
「経済特区」を外資導入の呼び水とし、資本・設備・技術を早急に得ようとした政策は成功した。外資は、中国の巨大な人口を将来の市場と見込んで、争って参入し、今日の成長の基礎を作った。それはたしかに、急速な現代化のために必要な条件であったが、他方では、貿易に依存する成長と相まって、国民経済の対外依存が過度に大きい構造、経済の国内的再生産のサイクルが不十分であるという弱点をつくりだしてしまっている。
 こうした対外依存の大きい構造は、外的な景気循環や金融情勢に左右されやすい。世界経済の動向が中国を常に直撃することになる。毛沢東体制からの離脱として出発した改革・開放は、毛沢東の自力更正とはまさに対極の経済を作り出したのである。
 第3は、国有部門から民営部門への資本と労働の移転が急速に進行したにもかかわらず、、国有企業の再建が基本的に成功していないことである。
 主要企業の工業生産高にしめる国有企業の割合は、2000年の47・3%から2004年の3・2%へ急減しており、これに対し株式制企業及び外資企業の割合は、それぞれ27・6%、27・4%から43・2%、31・4%へ急増している。
 就業者についても大きな変化が生じている。国有企業及び集団企業の就業人口は200年の9600万人から2004年の7600万人へ減少したが、私営企業や外資企業の就業人口は4700万人から8000万人に急増し、都市就業者にしめる国有・集団部門と民営部門の比率はついに逆転した。
 こうした就業人口の変化にもかかわらず、好調な民営部門が、リストラされる国有企業の過剰労働力の吸収に成功したかというと、必ずしもそう言えないのは、公式発表によってもこの5年間に都市の失業者数は140万人増加して827万人に達し、失業率も3・1%から4・2%へ大幅に増加していることが示している。
 1000万人にも達しようとする失業者は、膨大な都市の貧困層の最大勢力であり、これは国有企業改革が社会危機の要因に転化しつつあることを示している。
 政府が推進した国有企業の漸進的改革路線は、かえって官僚と企業経営者の機会主義的な債務逃れや、資金流出を助長することとなった。もともと、国有企業は国有銀行と国家財政の手厚い庇護のもとで低効率のまま生きながらえてきたのであるが、全面的市場化の中で事態をこれ以上放置できないレベルにまで危機が深化してきた。1999年の段階で、国有資産の損失と不良化が資産全体の4分の1に達し、国有企業の債務負担率は平均7割に上った。これらの不良資産は国有銀行の不良債権となり、国家の金融機能の安定が脅かされる事態となったのである。1996年からの5年間に不良債権処理のために使った銀行の引当金は2800億元で破産企業は5335社、その影響を被った従業員は430万人であったと言われている。さらにその後の4年間に実施しなければならない不良債権処理は2900億元、2900社が破産、閉鎖され、570万人の従業員の雇用に影響が出ると予想されている(何清連『中国現代化の落とし穴』)。
 このような巨額の資金投入の危険を回避するため、中国政府はこれらの大型企業の体裁を繕って株式市場に上場し、民衆のリスクに転化しようとした。株式制を公有制の主体的形式とするという党の方針の決定は、まさにこの国有企業と銀行の危機を救済するために民衆の資金を吸い上げようとする意図から出たものでもあった。
 第4は、この高度経済成長が、中国経済の新たな主体としての私的資本の「原始的蓄積」の手段となったことである。
 改革・開放の20年間は、急速な経済成長をもたらしたが、この過程の中で市場化した経済の新たな主体の形成が進んだ。それは、国有財産であった中国社会の富が国家から流出し、私的経営の主体としての少数者の私有財産に転化・集中していく過程であった。
 中国の国民貯蓄にしめる政府部門の比重は、1978年時点では6割であったが、この数字は20年後には13%にまで低下した。2000年における都市住民の貯蓄総額は6兆元を突破したが、この数字は国家の財政収入の5倍を超える。そしてこれらの民間貯蓄の47%(1999年時点)が上位3%の富裕層に帰属している(田暁利『現代中国の経済発展と社会変動』)。
 改革・開放以前の中国においては、資本家は存在することを許されなかった。しかし全面的市場化に基づく新しい経済成長を国有企業に依存することは不可能であり、新たな経済主体を民間に作り出すことが必要であった。このため、外資の導入とともに、新たな民間資本家・企業家の創出とそのための資本形成が、この経済成長そのものの中で行われなければならなかったのである。
 私的資本の「原始的蓄積」とは、具体的には富裕層の創成である。この創成が改革・開放の名において、全面的市場化の中で行われたのである。それは、平等主義を国是としてきた中国社会が、新たな階層社会へ転換することを意味する。このような転換は、成長の速度が衰えたり壁にぶつかったりした場合には、直ちに極度に緊張した対立を生み出さざるを得ない。
 どのようにしてこの「原始的蓄積」はなされたのか。その当事者、新たに形成された私的資本の所有者であり、私的経営の支配者となった者達は、まさに国家と地方の高級官僚とその縁に連なる人々である。またその「蓄積」は、彼等の家族ぐるみ、親戚縁者ぐるみの集団行為である。この「原始的蓄積」を可能にした「打ち出の小槌」は、まさに権力そのものである。
 この国ではすべての取引は常に権力によって媒介され、あるいは実行される。したがって、「談合」でない取引は元々存在しないし、インサイダー取引はそもそもあたりまえである。官僚が握る無限の権力を駆使して、投資し起業し、株式上場を果たし、融資しあるいは破産させて債務を帳消しにし、土地使用権を売却し、各種の許認可にかこつけて賄賂を取り、その他あらゆる経済行為を通じて、これら高級官僚による「原始的蓄積」は遂行された。
 こうして権力が市場化し、資本化したのである。一般にこれは「権銭交易」と呼ばれた。
             (次号へ続く)
 
 JR採用差別事件の勝利解決を目指す!1047名・闘争団・争議団・原告団2・16総決起集会
 2月16日(木)午後6時半、日本教育会館3F
          

 昨年9・15東京地裁判決以降模索されてきた闘争団総団結への第1歩が5者共闘として実現されることになった。当日は東京総行動の日であり、全1日行動のエネルギーが国鉄集会に結集することを期待したい。
 
    パキスタン
パキスタン労働党(LPP)、5000人の強力な反WTOデモを実現

             ファルーク・タリク

 
 何千人というLPP支持者が、12月6日ラホールで、私有化並びにWTOという帝国主義の苛烈な攻撃に反対し、デモ行進に立ち上がった。このデモには労働組合活動家と政治意識のある労働者が参加し、デモはラホール駅で最高潮に達した。大挙結集した参加者は、米帝国主義反対、軍事独裁反対、私有化反対の、さらにレンガ工場経営者とWTOを糾弾するスローガンを掲げた。
 この場での発言の中で、LPP議長のニザル・シャーと書記長のファルーク・タリクは、世界貿易機構(WTO)交渉は富裕な諸国と彼らの協力者であるロビーインググループによって支配され、それ故交渉の進展は発展途上諸国にとって今もいかなる成果も生み出していない、と語った。交渉の歩みはまた非民主的かつ不透明でもある。鍵となる決定全ては、アメリカやEUのような豊かな諸国が影響力を行使する、小グループの会議で下されている。それ故10年に亘るWTO交渉の経験を検討したとき我々は、発展途上諸国と市民社会の立場から、香港における第6回WTO閣僚交渉の頓挫を要求する。
 一方このデモはいくつもの社会運動団体と労働組合によって支持を受け、またデモにはそれらの指導者も多数参加した。
 これより前にLPP執行委員会が合わせて発表した新聞声明は、左のように述べている。注)筆者は、LPP書記長。(「インターナショナル・ビューポイント」電子版12月号)

LPPの新聞声明

 WTOは、世界銀行、IMF、またアジア開発銀行と並んだ、もう1つの資本主義の世界的制度だ。資本主義の諸原理はまさに労働の搾取と貧困に基礎を置いている。そうであれば、これらの制度が貧しい者に有利な形に改良され得る見込みは全くない。WTOもその1つである世界資本主義の諸制度を解体するために真剣に考えることは、今や緊急の必要となっている。LPPの指導者達が語ったように、これまでゲームのルールを変える機会を提供したように見えてきたドーハラウンドの可能性は、今や投げ捨てられてしまった。それは、WTO交渉の歴史を検討すれば明白だ。豊かな国々は、世界貿易の利益のより公平な配分を達成するために、幾つもの実践的な手段を約束した。4年後、実質のあるものは何1つ達成されていない。貿易障壁はそっくりそのまま残った。農業補助金は増大され、いくつかの支配的諸国の影響の下で守られている。そして豊かな国々は、投資やサービスや知的財産に関するルールを1歩1歩追及してきた。しかしこれらこそ、世界的不平等を強化する点で脅威となるものなのだ。
 (GATT)ウルグァイラウンド交渉の結果今諸国が耐えなければならない協定全ては、均衡を欠いたものであり、豊かな国々に傾いていた。ウルグァイラウンド当時、発展途上諸国は、技術的能力を多く持っていなかったか、あるいは帝国主義の道具に気付いていなかった。そしてこれらの諸国は1994年に、唯一の約束として、WTOという取引に署名するしかなかった。こうして明白なことは、発展途上諸国の市場に浸透しその資源を搾取するために、上に見てきた全てのことが豊かな国々によって作り上げられた、ということだ。
 現在の交渉は、貧しい国々に対して、特に社会の貧しい部分に対して、何物も提供しない。貧しい国々の特権的上層は、これまで国際資本の代理人と協力してきた。そして両者は今も、ほんの少数の富裕層の利益のために貧しい民衆を搾取し続けている。これらの諸制度から何か良いものを期待することは、時間の無駄である。それ故世界中の社会運動と民衆は、これらの諸制度に反対する連携を打ち鍛え、貧しい人々の諸権利を守るため彼らの政府に圧力を加えなければならない。
 全ての市民の社会グループ、政党、議会、さらに発展途上諸国に我々は、これまでに出されてきた閣僚宣言を拒絶するよう訴える。そして資本主義の丸屋根を打ち壊すよう要求する。LPPの指導者達が語ったように、WTO第6回閣僚会合は新自由主義的世界貿易体制10年の完成を印付けるものだ。今回の会合は中国の香港で行われようとしているが、それはそこが、以前の閣僚会合の際に見られた反対勢力の動員をどのようなものであれ効果的に防止できる可能性のある、帝国主義資本にとっての「安全な天国」であるからだ。
 WTO事務局によれば、今回の会合議事日程の主要な項目は、「農業生産物と工業生産物の貿易枠組みに関する協定、さらにサービス貿易における将来の市場解放に関する協定」だという。彼らは、今回の会合において輸出補助金の廃止のために期限を設定するよう呼びかけている。こうして、WTOメンバーの大多数の、新植民地主義の略奪にさらされている発展途上諸国が、アメリカやEUの諸方策によってこの会合で更なる圧力の下に置かれることになる1方で、新自由主義の命令に1致した開かれた市場に努力することが明快な予定となっている。そして、今ですら農業補助金に加えて約70億ドルを支出しているこれら帝国主義大国は、2012年まで同額を削減するつもりがないことを、曖昧さの余地なく既に宣言していたのだ。
 これら諸国はアメリカのように、貧しい諸国の生産物に対してしばしば1定数の関税や非関税障壁に頼る。そして、サービス分野の貿易全体は帝国主義的金融資本の独占分野だ。低開発諸国におけるサービス貿易の解放は、それらの貿易を帝国資本の覇権の下に引き渡すことを意味する。
 こうしてWTOの香港会合は、低開発諸国の民衆に対しても、同様に帝国主義諸国のプロレタリアートと非抑圧大衆に対しても、さらにもう1つの苛烈な攻撃になろうとしている。あらゆる抵抗を破壊するために、アメリカとEUはこの間ずっと諸手段を行使してきた。そしてその抵抗はこれまで、低開発諸国の利益を保証するWTO指令に支持を得る可能性を追求するいくつかの作戦や術策という形を通して、殆どの低開発諸国政府が示したものだった。
 低開発諸国をごまかすために今回WTO事務局は、WTOと、世界銀行―IMF共同体との間の協調と同調的な施策を想定した、「貿易目的援助」イニシアチブという政策枠組みを提案した。これと並んで以前の会合とは異なり今回は、「貿易を通した貧困削減」、「開発途上諸国のための平等な競争分野」、その他についての飾り言葉もまた宣伝題目となるだろう。このようにして香港会合は、新植民地主義に彩られた帝国主義的グローバリゼーション日程をさらに進めるための、帝国主義大国による総力を挙げた攻勢に向けた1つの機会となろうとしている。多国籍企業と併進するWTO―世界銀行―IMFの3つ揃いを通したこの猛攻の結末は、世界プロレタリアートと世界中の非抑圧民衆にとっては、日を追って恐るべきものとなる以外にない。帝国主義的グローバリゼーションの30年についてのバランスシートは、このことを赤裸々に明らかにしている。この猛攻は、彼らの失業、貧困化、惨状、そしてそれによって彼らの疎外を、さらに激しくするだろう。
 帝国主義大国によって、特にアメリカ帝国主義、並びにWTO―世界銀行―IMFと多国籍企業そしてその他の帝国主義の代理人及び従僕を介した他の帝国主義的諸手段によって、無慈悲に追求されているグローバリゼーション、経済の自由化、そして私有化の日程に対決する非妥協的な闘争を、LPPは声を大にして呼びかける。その闘いに我々は、人類の前に提起されている唯1の代案としての民主的な社会主義という、革命的目標を提唱することによって力を与える。
 この世界的観点をもって我々は、反WTOの国際的な運動を作り上げようと今闘っている全ての人々と手を取り合っている。我々は、改良されたWTOという考えには賛成できない。唯1の回答は、WTOの進展全体を不可能とすることである。我々は、閣僚会合の際の反グローバリゼーション運動がこの会合を中断に追い込むことが可能かもしれない、と期待している。我々は、WTOの不公正な協定に反対するために、香港に、あるいは香港の外に集まろうとしている全ての人々に連帯を送る。帝国主義のシステムそれ自身また他の帝国主義の代理人及びその諸制度と同様、WTOを歴史の屑篭に投げ入れる方向を基に、WTO香港閣僚会合に反対する強大な国際運動を発進させるために団結しよう。
注)筆者は、LPP書記長。(「インターナショナル・ビューポイント」電子版12月号)
 

 イギリスレスペクト大会―後退と好機
  
「ソーシャリスト・レジスタンス」
 
―ヨーロッパ諸国で、左翼の新たな再編に向けた挑戦が続いている。この中では当然ながら幾つかの困難も現れてくる。それらをどのように打開するのか、それもまた、新たな左翼の形成にとっては避けることのできない問題だ。我々が検討を深める際の1つの素材として、以下にイギリスの論争を紹介したい―本誌編集部
 


 レスペクトの第2回年次大会が11月19、20日の両日、ロンドンで開催され、ここには350人の代議員(10人に1人を基準として)並びに50から100人のオブザーバーと来賓が出席した。「ソーシャリスト・レジスタンス」(SR)は、地域支部代議員として12人を確保し、大会における基軸的な論争に参加した。それらの論争は、市民的自由、保健サービスと教育の防衛、さらにLGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーの人々)の権利、そしてレスペクト建設を巡って闘わされた。SRは大会での論争を深めるために19日夜分派集会を開いたが、これは非常に有意義な集会となった。
 SRはレスペクト建設に今も全面的に関わっている。それは、これまでの長期に亘るイギリスの左翼の歴史を通じて、この事業が最も意義深い出来事だからだ。しかしながら今大会は深刻に気懸かりなものとなった。不幸なことに今大会は、新労働党とその新自由主義的進路に対する広範な基礎を持つ代替勢力としてのレスペクトの長期的発展に関し、1定の疑問符を付すものとなった。大会は、この国の多くの左翼を包含できるような、真に多元的な組織として発展するレスペクトの能力に疑問を抱かせたのだ。レスペクトの未来は、その中で左翼の大多数が違和感を抱かずにすみ、一定の役割を果たすことのできる、そのような開かれた多元的な組織としてしかない。大会はこのことを痛切に思い起こさせた。

気懸かりな議論

 レスペクト支持者は、ジョージ・ギャロウェイの東ロンドン選挙区中を行進していた。ここには以下に見るように、深刻な問題があった。
 大会は、昨年達成した疑問の余地ない成功を総括し、さらに前進に向けた地図を作成する大会とならなければならなかった。そこには、いかにして新たな党員を獲得し、彼らを長期に亘って統合するか、いかにしてレスペクトを「大衆的な党」として発展させるのか―レスペクト全国書記のジョン・リー並びにSWP(社会主義労働者党)指導部の多数はまさにそのように強調した―、いかにして強力な地域を打ち固め、弱い地域にレスペクトを建設するか、他の左翼勢力をいかにしてレスペクトに合流させるか、できる限りの多くの地域にいかにして機能的な地域支部を発展させるか、選出された代表と共に議会と地方自治体双方で活動できる組織として、レスペクトをいかにして発展させるか、ただ反戦だけの党ではない反戦の党としていかにして知られるか、などの課題が横たわっていた。大会は、姿を現しつつあるブレア政府の新自由主義的攻撃と対決する運動の中にいかにしてレスペクトをしっかり配置するか、また今始まりつつある市民的自由に対する強襲にいかにして対決するか、これらを議論する必要があった。
 大会は確かに、これらの課題に関し立派な諸決議を採択した―NHS(イギリスの保健システム―訳注)、教育、また年金に関し―。大会はまた気候変動に関しても重要な議論を行った。さらに大会は、イラクにおける戦争に関し強力な声明を採択し、予定されている平和会議を支持した。
 大会は戦争と市民的自由の防衛について、そして今議会を通過しようとしている「反テロ」法に反対する一連の立派な決議を採択した―ただしこれは、「人種的宗教的侮蔑扇動処罰法」に大会が反対を示すことができなかったことによって損なわれた―(本紙HP上に関連記事)。今上げた法は、今まさに議会を通過し掛けているが、現存する不敬罪法の拡張となり得るものなのだ。しかしSWPはこの法案を支持し、レスペクト内部でその支持を力説してきた。
 さらにもう1つ残念なことがあった。それは、複数の支部の支持を受けた、LGBTの権利を支持する現在のレスペクトの政策を将来の選挙公約に含めることを呼びかけた決議(この政策は総選挙公約には盛り込まれなかったが、それは紛糾を残した)が、提案者も決議それ自身もイスラムには全く触れていないにもかかわらず、論争の中でイスラム嫌悪として歪曲されたことだ。決議それ自身は採択された。しかしこれがそのように敏感な問題となる理由を知ることは難しい。LGBTの権利は、進歩的な見解の範囲では主流をなす課題であり、レスペクトはそれを考慮すべきだ。
 しかし主要な問題は、レスペクト建設に関する分科会で頭をもたげた。この分科会は、SSP(スコットランド社会党)のコリン・フォックスが主宰したが、レスペクトの将来に関わる限りでは鍵となる分科会だった。
 組織としてレスペクトを発展させることを目的とした1団の決議―より改善された運営、より民主的な機能のあり方、党員並びに支部とのより健全な連絡、より集団的な政治討論、そしてレスペクト自身の出版物―に対して、ジョン・リーとジョージ・ギャロウェイ(レスペクト議員)は、たぶらかし的な演説と忠誠に対する粗野な訴えをもって否定的に対応したのだ。反対の決議もそうでない決議もあった。しかし論争の色合いは、先に示した諸決議は不必要であるか、もしくはレスペクトの財政に法外な要求を持ち出す、というようなものだった。

党へか、それとも連合のままか

 これは矛盾した状況を作り出した。大会はレスペクト建設に関しいくつかの重要な決議を採択した。しかし指導的メンバーが繰り出した言い回しはそこに、これらの決議の優先度は低い、との趣旨を付け加えた。
 ジョン・リーはこの分科会での口火を切る発言の中で、レスペクト建設の問題は議事録や報告の問題ではなく、政治指導性の問題であり、彼と他のメンバーはそれを提供してきた、と語りつつ、大会を強く叱りつけた。ジョージ・ギャロウェイと共に彼と他のメンバーは、反戦運動の中で指導性を発揮し、さらにレスペクトの中で彼らはそれを発揮している、このように彼は述べた。さらに彼は、反戦運動形成以降彼と他のメンバーが先頭に立った政治的指導性の実例の目録をも示した。彼の結論は、レスペクトがもし彼に、事務所のコンピュータの前で座っていることを望むのであれば、別の全国書記を見つけるべきだ、というものだった。
 もちろん我々全ては、レスペクトが機能的かつ実践的な、そして運動と密着した指導部を持つことを願っている。我々全ては、政治的発展に打てば響くように対応できる指導部を望んでいる。しかしそれは、レスペクトの党員と選出された委員会を通じた、全体としての集団的な政治的発展に基礎を置くものでなければならない。それは、指導部以外のメンバーが疑問をもたずに付き従うことを期待するような、指導部の個人的先導性に基づくことがあってはならないのだ。
 論争は、これら全ての背後ではもちろん、レスペクトが1つの党として発展すべきか、それとも緩やかな連合であるべきか、に関わっている―確かに、レスペクトが今より多くの組織的構造を持てばそれに応じて、レスペクトには党の性格が刻印される―。しかし、レスペクトがもし機能的かつ民主的な組織として発展する道を進もうとするならば、組織的構造の強化を避ける道は全くあり得ない。
 他の全ての政治的諸党と対抗しつつ、またその歩みの途上で提起される全ての問題と格闘しつつ、全国的規模でも地方の場でも、レスペクトがもし政治的勢力へと挑戦するつもりであるのならば、レスペクトはその努力を効果的に組織し、路線を発展させることができなければならない。そしてレスペクトは、党員達がそれらの努力と1体的に結び付いていると実感できる内部生活を、確実に実現しなければならない。レスペクトは、メンバー達が今3加している諸組織とは別の、レスペクト独自の政治生活をそれとして確保しなければならないのだ。それをどう名付けるかは重要な問題ではない。しかしいずれであれレスペクトは、1つの政党としての性格を帯びることを避けることはできないのだ。
 ヨーロッパ中から他の左翼諸政党が招待され、これらの諸政党は大会で発言した―イタリア共産主義再建党、ポルトガルの左翼ブロック、ドイツの左翼党、SSP―。これらの組織全てが党と呼ばれているわけではない。しかし確かなことは、それらは全て自身をいわば党として組織している、ということだ。

問題を隠蔽する危険な試み

 不幸なことだがある決定が、緩やかな連合モデルを守り、党的構造の発展を確実に先送りし今以上に進めないようにするために、SWPとジョージ・ギャラウェイによって下されたように見える。この決定は、政治的課題の広がり全体に亘る政治的力に向け挑戦する組織にとっては、実行不可能なモデルでしかない狭い組織化モデル、を強制することになる。
 あるいはそのモデルは現実に機能していない。自身が実現した巨大な成功にもかかわらずレスペクトは、その数的な強さとその政治的活力に関する限り、諸支部の間に大きな相違をもつ弱い組織のままに今尚留まっている。それでも指導的人物達からは、この点に対する評価は全く示されなかった。そして大会は、ただ成果にのみ目を向けることを促され、いくつもの問題に目を向けることは奨められなかった。
 レスペクトの全国評議委員であり、SRの指導的メンバーであるアラン・ソーネットは、以下のように力説した(サウスワーク決議案を提案しつつ)。即ち、昨年の総選挙でレスペクトが得た成果は非常に重要だが、それでも我々は、それ以降のレスペクトの歩みに対してもっとはるかに冷静な目を向けなければならないと。この時期は大きな好機が訪れた時期であったが、しかし党員数には変化がなく、左翼の新たな部分の3加も全くなかったのだ。さらに、いくつかの支部は強いものの、他の支部は弱く、そしてもがいている。これらを我々が認識しないのであれば、またその問題と真剣に取り組むことがないのであれば、レスペクトは深刻な諸問題に直面することになるだろう。
 レスペクト建設に関する平場の討論は、ジョン・リーの立場の支持者によって支配された。次々に立つ発言者は、レスペクトに必要な内部体制として、率直に言ってどのような労働組合でも大目に見られることのないような体制を要求した。支部と意見を交換し合い、政策をじっくり研究するような、そのような文書作りに時間を無駄使いする必要は全くない。我々に必要なことの全ては、最新の運動に各々3加し、それを建設し、レスペクトの見解を伝えることだ。このような発言が続いた。
 ジョージ・ギャロウェイの閉会挨拶もこの問題に関し同じ調子を続けた―論争はひとまず閉じられ、表決も行われた、という事実がありながら―。彼は、ジョン・リーが語ったことは「素晴らしい」、と語った。出された提案を実行する点で問題だったことは彼の場合、単に金銭やレスペクト事務所の要員の問題だけではなかった。彼は、レスペクトが新聞を持つことには常に反対だったし、今はもっと反対だ、と述べた。レスペクトは党ではなく連合であり、それはレスペクトが留まるべき道である。レスペクトが新聞を持つことになれば、人々は結局キューバやかつてのソ連の状況に陥ることになるだろう。このように彼は述べた。新聞に込められた問題として、このような法外なことを幾分かでも示唆した人物はこれまで例がない。
 ジョージ・ギャロウェイは、SRのチラシの中で提起された問題点に直接言及した。そのチラシは、レスペクトは総選挙以降、4、0人という党員から増大していないだけではなく、現に存在している左翼の新たな部分の加入を実現してもいない、と指摘していた。この言及の中で彼は、レスペクトの党員数は問題ではない、と何とか論じようとした。
 重要なことは票だ、と彼は述べた。「10、人の党員で100、0票を取るよりも、4、0人の党員で250、0票を取る方がよい。我々は成功しているのであり、それを噛み締めればいいのだ」と彼は大会に語りかけた。これは文字通り、党員を獲得したり、反戦運動や左翼のより広い層に自身を広げる点でのレスペクトの能力のなさを隠蔽するものであり、危険な試みであった。小さく基盤の薄い党が長期的に大量の票を集めることができるという考えは、全くの欺瞞である。
 ギャロウェイは、左翼の旧式的言語を捨て去る必要がある、と力説した。確かにそれが必要だ。しかし我々がガラクタとして捨てるべき最初のものは、指導者がいかに立派に仕事を成し遂げつつあるかについて、さらにその他の全てのメンバーがいかにして指導者に従うべきかについての、威圧的演説なのだ。
 SWPメンバーは上のギャラウェイの語ったこと全てにいっせいに拍手喝さいを送った。もっと悪い傾向すら現れた。即ち、自分が所属する支部で様々な決議案を支持した何人かのSWPメンバーが、大会ではその態度を変え、支部代議員達とのどのような討論も行うことなくその決議案に反対したのだ。このようなやり方に基づいて地域支部を建設することは不可能だ。

レスペクトの建設と変革を

 このような進展に対し我々は、レスペクト構想の重要性を再確認し、その建設のための闘いを継続する必要がある。レスペクト建設は今のところ都会における試みに過ぎないのだ。レスペクト構想がもし崩壊することがあるとするならば、それは左翼にとっては大きな損失となるだろう。そしてその損失を取り返すためには膨大な時間を必要とするだろう。我々は、レスペクトからの離脱を提案している全ての人に、レスペクトに留まり大会決定を基礎としてその建設に手を貸し、必要なところではその変革のために闘うよう説得する。
 レスペクト建設に関するいくつかの重要な決議案は否決された。さらにギャラウェイの閉会演説には、採択されたレスペクト建設に関わる決議案の優先性は低いと示唆するものがあった。しかしそうであっても、1定数の重要な決議は採択されたのだ。そしてそれらの決議は、もし適切に実行されるならば、レスペクトを前進させ、レスペクトがこの間成し遂げたことをさらに積み増すことを可能とするだろう。
 サウスワーク決議案は、その組織の生命力の発展において演じるべき役割があると全ての党員が実感できるような、大衆的な党としてレスペクトは建設されなければならない、と力説している。それが意味することは、政治と組織双方の側面における、レスペクトとしての全国的なより強固な姿の建設である。
 1連の実践的諸手段が採択された。これらの決議の実行は、レスペクトの運営と集団的運動展開の改善に大いに役立つことになるだろう。さらにそれは、その他の左翼部分と労働組合運動を引き入れる機会を広げるだろう。
注)SRは、イギリスの第4インターナショナル支持者によって、他のマルクス主義者との共同の下で発行されている社会主義的新聞。(「インターナショナル・ビューポイント」電子版12月号。1部省略、全文はHP上に)
 

 
 
 
 
 
 
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