2006年6月10日        労働者の力             第 19 5号

政治―新たな季節の徴候
飛ぶ鳥あとをにごす―小泉時代の終り

  
川端康夫

 
 小泉内閣の終了まで3ヶ月となった。諸々の現象は、小泉時代の終りが近いことを指し示している。こうした状況は単に日本における状況にとどまらない。イギリスのブレアの退陣が決り、アメリカのブッシュの支持率も極めて低い水準に落込んでいる。いわば9・11を契機としたアメリカの単独行動主義、対テロ戦争の流れを体現したブッシュ、ブレア、小泉の演出した世界が終りを告げているようである。
 この3人が象徴した世界は単独行動主義の横行であり、また新自由主義の経済政策の強行を示していた。
 ブレアやブッシュ、小泉の登場は、経済的にはまさに新自由主義の横行に向け鎖を解き放ち、それは他のとらえ方を寄せ付けないような雰囲気の下で強行された。新自由主義の経済グロ―バリゼ―ションが加速され、市場の世界的自由化と金融取引の世界的ゲ―ムといった現象は、同時に「金儲けの自由化」となって経済的価値観を独占したかのようであった。世界の資本主義は、グロ―バリゼーションの嵐のもとに低開発諸国を食い物にし、そして、それぞれの国内ではこれもまた労働力市場の欲しいままの自由化を推進することによって、労働者民衆の生活水準が軒並に切下げられてきた。日本においては、小泉の「改革」による「勝ち組、負け組」社会の推進が行われ、戦後史上空前の「格差社会」が資本の利益至上の社会として作り出されてきた。こうした格差社会の形成、拡大はブッシュ、ブレア、小泉の政策に共通するものであったのだ。
 しかし、ブレアの下のイギリスでは、政権の強行したイラク戦争支持と派兵、さらに国内的に強行された新自由主義の経済政策に対する民衆的な不満の蓄積はこの春の地方選挙における労働党の劇的な大敗を導いたし、アメリカではブッシュの次は、民主党のヒラリー・クリントンとの見方が広がっている。そして日本では、郵政民営化を強行した後の小泉の無気力ぶりが顕在化し、その後継者争いは、自民党内における小泉路線継承か、否かの争いに転化しつつもある。

小泉「改革」の本質
―戦後保守本流体制の解体―

 ここで集中的に小泉の政策体系に焦点を当ててみよう。小泉とブレアは共にアメリカとの軍事同盟関係を強固にする方向で歩みを共にしたが、とりわけ小泉は、明らかにアジア諸国との関係改善、深化という方向とは正反対の、日米同盟―辺倒であった。アジア諸国、とりわけ中国と韓国との関係は近来まれに見るまでに冷え込んだ。繰返し行われた小泉の靖国参拝が原因である。
 ここに象徴されるように、「自民党を壊す」と叫んで登場した小泉内閣は、その5年間にまさに自民党を良くも悪くも体現してきた自民党橋本派の路線をその存続もろともに否定し、非妥協的な権力闘争を敢て貫徹し、結局その解体にほぼ成功した。要するに基本的には、政治的経済的に「行き詰り」を見せてきた戦後保守の本流、旧吉田派の系統を解体することこそが、「自民党を壊す」ことの真の意味であった。
 しかし支配階級にとってこのことは、もう1つの重大な課題が一体のものとして突きつけられていることを意味している。それは即ち、戦後保守本流のものに代る新たな、社会統合の、民衆支配の枠組を用意しなければならない、ということである。しかし小泉はまさにそこに手を着けなかったのである。それはそっくり今後に残されている。憲法を巡る問題には、このような性格が明確に刻印されている。
 しかしそれは支配階級にとって、真に容易ならざる課題である。何よりも日本国家は、あらゆる側面で力関係がかつてとは激変した世界で生きてゆかなければならない。その激変は、アメリカの衰弱に端的に示されるように、戦前はむろんのこと、戦後長期に続いてきたものとも全く異なる変化である。その意味で、復古主義的路線に現実性は全くない。そして1方で、新自由主義「改革」の効能に対する幻想は、まさに世界的に日々はげ落ちつつある。利害を巡る社会各層の不和と対立は必然的に鋭さを増し、社会には解体的圧力が高まらざるを得ない。それは既に日本でも明らかに兆している。
 小泉は日本の支配階級に、このような旧に倍する巨大な困難の中で新たな支配の枠組を構築する、という難題を残そうとしているのである。この難題の重さを少し時間を遡る中で見てみたい。

戦後政治枠組の行き詰り

 戦後保守本流の流れは、軽武装、経済発展の流れの上に国民生活の総体的向上を旨とするものであった。社会経済全般の底上げの中で、現在的に言えば、国民の「セーフティ・ネット」を張りめぐらし、政治的な長期政権構造を作り上げてきた。自民党政権による各種利益の社会的配分を手厚くする手法は、政権交代可能な他の野党の生育を妨げる効果を果したのである。
 しかし、その手法に対する翳りは1980年代に全面化した。戦後経済成長を支えてきたアメリカ経済依存の国内産業保護の輸出効果がアメリカの経済劣化のすう勢の中で効用を失い始めたのである。80年代の半ば、いわゆるプラザ合意がアメリカの圧力の下に行われ、円の大幅切上げは、それまでの経済輸出力をそぎ落し、さらにその対策のためと称して実施された低金利政策は、国内資金のだぶつきを生み、いわゆるバブル経済が進行すると同時に、輸出産業の国外進出が全般化し始めた。いわゆる経済の空洞化の始りであり、同時に全般的規制緩和政策の拡大は自民党政治にぶら下がる社会各層の経済的利害に直撃となった。
 しかしこのような保守本流の行き詰りは同時に、彼らの政策的枠組を前提に改良の実現を追及してきた社会党を中心とする野党勢力にとっても、その存立の基盤を揺るがすものであった。重ねて、世界的なソ連・東欧圏崩壊の激流は、いわゆる社会主義的なものの建て方を根底からぐらつかせ、ここに、相対的に革新勢力的な野党が弱体化する結果が生れた。多くの知識人がすべてと言っていいほどに、市場原理主義の引力に吸引され、社会民主主義的なものを含んで、社会的野党勢力の勢いは衰えた。
 世に言う「55年体制」の行き詰りである。もちろん、一時の土井ブームによる社会党の衆院選での大勝利などの幕間劇はあった。社会党の勝利というよりは自民党の敗北というべきであったが、消費税導入への反発が社会党を押上げたのである。しかし、これはまさに再編劇の始りのエピソードであった。
 自民党は小沢が主導する政治再編に直撃されて分裂し、野党側は社会党の衰退の中で、保守と革新の混合物である民主党的なものへと流れ始めた。労働戦線統一が新たな受皿政党を要求し始めたのである。新党形成がブームとなり、さきがけが生れ、そして細川の日本新党が新たな政権党として誕生した。
 だが、この新たな政権党はまもなく瓦解する。今思えば、「55年体制」に代る思想的目的が未だ形成されずに政権交代だけが進んだのである。当時の民意は、明らかに旧来の自民党的なものに飽きを感じてはいた。だが、それは何か、混沌が支配していたと言うべきである。政権交代を押し進めたのは確かに民衆の意思ではあった。しかし、現実に進んだのは、政治の新自由主義への流れであり、その是非をいまだ民衆は判断する段階にはなかった。
 政党再編はとめどとなく進行した。その中で自民党サイドのウルトラ政治が現実化した。政治の総保守化の流れに翻弄されていた社会党は、細川・小沢的新政権党にいったんは参加し、自民党を野党に追いやる一翼に席を占めたが、実質はまったくの冷飯食いを余儀なくされていた。小沢と公明党勢力の連合が社会党をまさに「いじめ」ていた。社会党は、激動の政界再編劇への一貫性のある対応ができなかったのである。この内的矛盾の解決は、後に実現する党の分裂を待たなければならなかった。
 
55年体制の消滅
―自民党の変質と社会党の分裂―

 社会党―社民党の分裂が実現することによって旧来の「55年体制」の崩壊が結実した。
 自民党のウルトラCによる自社連立政権が、政界再編のどさくさの中で生れた。村山首班政権は、未だ不確定な新政権党の状況に対する政治的マヌーバーの産物であった。村山政権誕生は、社会党が戦後長らく維持してきた平和主義、護憲論の放棄を前提条件とした。新政党の不安定さにいらだちを隠せなかった民意の相当部分が社会党首班内閣の誕生にある程度の期待感を抱いたことは事実であった。しかし、それはほとんど一瞬で崩れることとなる。安保・自衛隊容認を全体としたこの内閣は、東アジアへの政策など、ある部分では前進的要素を発揮したが、そのほかの殆どで社会党的なものは発揮されなかった。象徴的には、長良川河口堰問題である。社会党所属の所管大臣は長良川河口堰に固執する旧来の自民党政治にのみ込まれたのである。
 総じて社会党は自民党が体現する保守勢力に振りまわされた。この党は、新しい時代に対応する政治的柱をほとんど持ってはいなかったのである。その極めは、選挙制度改革問題への対応にあった。小選挙区制度は、保守政治を社会的に定着させるために考案された制度である。制度の助けを借りなければ保守政治を安定させることができないと考えられたのである。東大教授の佐々木毅を先頭とするキャンペーンが、政権交代論の装いをもって展開された。マスメディアの大半を動員したキャンペーンは社会党を包囲した。社会党は内部分裂し、村山内閣の瓦解は結局社会党の大分裂の序章となった。後に民主党となる勢力もこうした考え方を支持していたのである。小選挙区制度は、民意を人為的にねじ曲げて表現するが、にもかかわらず彼らはそれを、政権交代を一気に実現する制度でもあると考えたのである。
 社会党の社民党への名称変更は、先の内部分裂を克服する力を殆ど持っていなかった。政権交代を旗印にした民主党結成の動きの中で、社民党は最終的に大分裂する。
 選挙制度の大改変は政治の流れを変えることにもつながった。中選挙区制度の下で派閥連合を形成してきた自民党内部の力学は、党執行部の強力な統制力の実現という方向へシフトし始めた。小泉政治への傾斜が準備されたのである。村山内閣を契機に再建された自民党は、新党勢力の混迷と離合集散の中で橋本内閣を成立させ、自民党内閣時代への復帰を行ったように見えた。しかし、財政再建を優先させようとした橋本内閣は参院選に勝利できず、小渕内閣へと移行した。ここまではあきらかに旧田中派、橋本派の復活であった。しかし、小渕の急逝は事態を変えた。森内閣が密室で誕生したが、民意の支持は集らなかった。森は失意の内に退陣に追込まれ、総理の自民党公選劇がはじまり、都市での不振に焦った自民党は、都市派の小泉を「自民党を壊す」というスローガンと共に圧倒的に支持した。民意もまた小泉の登場を大歓迎し、支持率が90%近い驚異的支持率の首相が誕生したのである。
 民衆の自民党政治への「飽き」を正面から受止めることとなった小泉は、まさに新時代の保守政治の確立者として期待を集めた。憲法改悪を頂点にする自民党反動派の長年の願いの実現を可能とする内閣、という位置づけがなされたのである。だが、民意は小泉の「自民党を壊す」ということに反応したのであって、自民党的なあり方を支持したのではなかった。ここにおおきな矛盾が存在するが、しかし、それが顕在化するには至らなかった。小泉への支持率は下がったものの依然高水準をキープしてきた。
 この小泉内閣のもとに、「55年体制」は最終的な終りを告げることとなった。それは旧田中派、大平派連合勢力の解体として現れたのである。

小泉内閣―橋本派の敗北

 小泉の壊すべき自民党とは明確に旧田中派勢力、保守本流勢力であった。それは日を追って明らかとなる。道路公団問題を始めとして、旧田中派の利権基盤の解体が目指された。その基本的スローガンは、民営化であった。最終的には、郵貯、簡保資金を財政投融資として確保し、その資金で国の様々な利権構造を維持してきた構造こそ、旧田中派の基盤であった。とりわけ、道路特定財源を背景とする高速道路建設に象徴される利権構造は、前述したように、ある側面では国の財政で地方を支える公共事業としての性格を持ってきたが、それは関係議員の利権の基盤でもあった。公共事業に対する風あたりは国の財政が悪化するにつれて強くなってきた。小泉は国債発行額を30兆円を限度とする姿勢を明らかにし、旧田中派勢力との正面からの衝突を宣言したのであった。旧田中派、すなわち竹下派勢力に怨みを持つ田中真紀子を応援団長とした小泉の人気が旧田中派と対抗し得る基盤となった。
 だが、小泉支持勢力は結局は寄せ集めであった。外務大臣に就任した田中真紀子は、自身の身の振舞い方の問題もあったが、基本的に小泉が目指した日米同盟論とは異質であった。就任直後に日本を訪れたアメリカ国務省のアーミテージとの会見を袖にしようとした時に、真喜子の小泉内閣での政治生命は終った。真喜子は父の意思を継いだ日中友好論者であったからである。
 小泉の政治的立場はある種複雑である。その第1に旧田中派解体がある。次いで金融大資本と多国籍大資本のまったくの代弁者である。第3に地方の切捨てがあり、第4に日米同盟論である。その反面、伝統的な自民党右派の綱領、改憲や国内体制の反動化の完成にはさほどの意欲を示さない。つまり、中曽根などの伝統右派とちがって、日本国家の将来を何らかの形で固めようとする意欲はさほど持たないのである。
 極端を言えば、最大の問題と化した「靖国参拝」問題にしてもその動機は、日本遺族会を牛耳る旧田中派勢力からの遺族会の奪還を目指したものとも言えるのである。
 遺族会は依然旧橋本派の流れにあり、それを旧池田派系列の古賀が握っている。この点では、小泉の執念はまだ実っていない。
 結局小泉の場合、民衆支配、社会統合という、支配階級にとってゆるがせにできない重大問題、更にそこにおける国家の特別な機能という問題について、極めて関心が薄かった。
 しかし今、それらの問題こそ重大な問題となっているのである。そしてこれはほとんど手つかずのまま、次に引継がれる。
 
旧田中派の解体―小泉の意欲の終焉

 小泉は、日本社会の基本的不安定性の拡大になんらかの不安感を持ってはいないようである。そういう意味で、まさに新自由主義の代弁者としての資格を有している。こうした性格は、旧保守本流の流れと完全に異なっている。もともと自民党のいわゆるリベラル派は、日本社会の「赤化」を防ぐ目的を持って政策展開を果してきた。経済政策のケインズ主義の展開が1つのあり方であり、軽武装、改憲論の軽視、などなどである。こうした点は、現在的には旧池田派の宮沢元首相を代表とする傾向である。ケインズ主義の行き詰り、政治的東西冷戦の終焉は、こうした旧保守本流的傾向の弱体化を招いてきたが、にもかかわらず、野中は小泉支配に正面から挑戦しようとし、敗北した。野中は橋本派を中心に多数を取れると踏んだのだが、当の橋本派が結束できなかったのである。
 「郵政改革」が最後の踏台となった。自民党の旧来派は、小泉の手法、衆院解散の断行の前に敗れた。民意は小泉の「改革」を支持し、特に若年層と女性票の支持を集めた小泉の前に敗退した。これは小選挙区制度を最大限に利用した小泉の勝利であった。ほんの僅かな差が、議席数の極度の開きをもたらしたのである。
 時代は、ポスト野中の時代となった。野中の敵とした小泉と小沢が競う時代に入ったのである。その意味でこれは本質的には、同質なもの同士の競い合いに過ぎない。
 この事態を変えるためには、自民党リベラル派に変化が求められる。それは、福田という自民党右派の流れの台頭という形で表現され始めた。新自由主義と日米同盟論の横行という小泉時代に対する対案の浮上が「靖国」問題を契機にあらわれた。中曽根や読売新聞の渡辺などがその先頭を切ってきたのである。そして最近、経済同友会が戦列に加わった。いわゆる「東アジア共同体」指向の流れが小泉へのアンチテーゼとなり始めた。保守論調は、明らかに分裂した。
 最近、著名なケンイズ主義者の伊東光晴氏の著作が岩波新書で出た。その基調は、「道徳科学」というもので、経済学は社会の安定的ありかたを保障するためにこそある、というものである。新自由主義は経済的にだけでなく、政治的にネオコン的なものを生みだした。この自由至上主義のハイエク起源の新自由主義と正面から対決するためのケインズ主義の復権を力説するのである。
 しかしそれは、日本の支配階級にもう1つの道を指し示すことになるのだろうか。国家主義を頼りに支配の再建を追及する安部に連なる1派に対抗する力を、それは作り出すだろうか。
 小泉時代は終りつつある。竹中が何を言おうと、世は反応しない。安部と福田の対決と言われるポスト小泉の争いは、基本的に小泉時代の終焉を意味している。
 そしてそれは見てきたように、この社会の抜本的な建直しが待ったなしに課題となる時代を意味する。この課題に民衆が直接乗出さなければならない。世界は、ラテンアメリカで、ヨーロッパで、そしてアメリカでも、それを告げ知らせている。左翼に問われているものは、この闘いへの挑戦なのである。新しい左翼は、その挑戦を基盤に成立する。(6月5日)
 
六ヶ所村再処理工場
試運転中止の声、三陸一帯に拡大
          

あまりに危険な施設

 六ヶ所村の再処理工場は原子力発電所の廃棄物からプルトニウムを抽出することを目的とした施設だ。日本原燃の資料から計算すると、再処理工場から年間に排出される予定の放射性廃棄物の量は、47700人分の経口致死量に相当する。ちなみにこれは、原発が1年間で環境に放出する放射性物質を1日で排出する量にあたるという(注1)。つまり、普通に事故無く稼働したとしても、原発が3ー400基も稼働しているのと同じ影響を周囲に与えることになる。しかも処理の後は、有害廃棄物の体積は減らないどころか、事業申請書からの試算でさえ約7倍の放射性廃棄物の発生が見込まれている(注2)。
 英国セラフィールドのソープ核廃棄物再処理施設は、放出した放射性物質により近海のみか北海まで広範な地域を汚染し、隣接する国々から操業停止を迫られている。六ヶ所村の再処理工場の廃液は、越前クラゲと同様に海流に乗って南下し、三陸沿岸を汚染することが危惧されている(注1)。
 日常的な汚染以外に、事故による汚染も危惧される。昨年、英国セラフィールドのソープ核廃棄物再処理施設で大きな放射性廃棄物漏出事故が発生した。200sのプルトニュウムを含んでおり、この量は20個の核兵器を製造出来る量に匹敵する。非常に放射性レベルの汚染度が高く、漏出液の回収後も中には入ることが出来ない状態が続いている。

高まる抗議を無視

 昨年5月8日に岩手県の盛岡市で「再処理工場と三陸の海」と題する東京海洋大学名誉教授、水口憲哉氏の講演会があった。これを主催した「三陸の海を放射能から守る岩手の会」の働きかけをきっかけにして「三陸の海を放射能から守ろう!三陸リレー講演会」が宮古市(9月1日)約300人、気仙沼市(2日)約90人を集めて開催され水口教授が講演した。会場には、各漁協、地域生協をはじめ、市町村議員、自然保護団体、教員組合、一般市民などが参加した。
 この時期を境にして、マスコミでも三陸の海洋汚染を危惧する記事が載り始めるようになった。また、市民グループや漁協などの働きかけを受けて、議会や行政の動きも出てきた。10月の岩手県議会では、試運転には慎重を期することなどが決議された。11月には宮古周辺市民、漁民が「豊かな三陸の海を守る会」を結成した。12月には山田町、田野畑村議会から全会一致で試運転中止の意見書が提出され、本年2月には宮古市議会が、青森県や原燃へ同様の意見書を出した。2月には山田町、釜石市、気仙沼市で水口教授が講演した。増田岩手県知事は2月県議会で「水産業を守るため海は絶対汚してはいけない、日本原燃(株)から速やかに説明を求める。スケジュール優先はしてはいけない。」と発言し、県は原燃に対して説明会の開催を求める要請をした。3月には岩手県漁連が六ヶ所村再処理工場の試運転に対して、沿岸部の漁業保全などを求める要望書を増田知事に出した。3月8日、岩手県沿岸部の15市町村長が原燃に対して、青森県・六ヶ所村と安全協定を結ぶ前に岩手県沿岸の複数の会場で説明会の開催を求める要請文を送った。
 しかし原燃は3月28日に久慈市と宮古市でたった2時間の1方的な説明会を開いただけで、翌29日には青森県・六ヶ所村と安全協定を結び、31日には試運転を開始した。そして4月28日には、放射能の廃液約600トンを海洋に放出したことを発表した。今後約1年かけてレベルを上げ、本格稼働に移行する予定である。

早々の事故に深まる懸念

 そして、いくつかの事故が発生した。4月11日にはプルトニウム1gを含む、毒性の強い放射性廃液の漏えいがあった。5月22日にはついに作業員がプルトニウムを含む放射性物質を体内に取り込む事故があったことが確認された。 原燃は「微量」と強調しているが、被曝の経路も不明であり、体内に入った放射性物質の量の評価方法も曖昧であり信頼性に欠ける。また、レントゲンという外部被曝と今回の内部被曝を意図的に単純比較して微量・安全であると思わせようとする情報操作を行っている(注3)。このような不誠実な原燃の態度は、更なる事故の呼び水になるであろう。
 5月には三陸の海を放射能から守る岩手の会や美浜の会など16市民代表が原燃と青森県に対して「再処理アクティブ試験に関するモニタリング改善9項目要求書」を提出した(注4)。また岩手県漁連など岩手県内水産関係6団体の代表が5月18日岩手県に対して三陸沿岸の海洋調査などを求める要望書を提出した(注1)。青森・6ヶ所村にとって大きな収入源になっている再処理工場は、岩手県にとってプラスになることは何1つなく、三陸の漁民の生活を奪う危険があるため、海洋汚染に対しては今後とも厳しい監視の目が向けられる基盤があり、またその必要がある。

続報:6月5日、原子力資料情報室に1通のメールがあった(注2)。内部からと思われるそのメールには、4月11日の漏えい事故が公表された漏えい量の10倍もあったことなどが告発されている。JR西日本の大事故で示されているように、大きなエネルギーを扱う事業ほど大惨事と隣り合わせである。大事故を予防するためには、幾重にも積み重ねられた安全対策が必須であり、その出発点として発生した事故の客観的な把握と反省が必要になる。しかし、今回の報告が事実とすれば、原燃は安全対策の最初の所で偽っているため、しっかりとした安全対策を取りようがない。JR西日本ではいくつもの労組があるにも関わらず大事故が起きた。しかし人類が生み出した地上最悪の危険物である「プルトニウム」を扱う原燃で働く労働者には、労働組合さえも存在しないのか?(記者:H.M)

注1.3陸の海を放射能から守る岩手の会http://homepage3.nifty.com/gatayann/env.htm、「止めよう!再処理ミニコミ通信」より
注2.原子力資料情報室 http://cnic.jp/ 、「ストップ!6ヶ所再処理工場アクティブ試験!」より
注3.原燃 http://www.jnfl.co.jp/
注4.美浜の会 http://www.jca.apc.org/mihama/
 
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    沸騰するラテンアメリカ
新自由主義との断絶か、それとも社会自由主義か

ボリビア
モラレスが迫られる挑戦

  
ヘルブ・ドアルト



 社会運動から立ち現れ権力に到達した1つの党の、この新しい経験がどこに行き着くのかについて、我々は明らかに未だ分かっていない。そうではあるとしてもモラレスは、その内閣の指名時点から、ルーラ・ダ・シルバ(ブラジル大統領、労働者党政権―訳者)やタバレ・バスケス(ウルグァイ大統領、拡張戦線政権―訳者)と自分自身との違いを明確にした。彼は1つのチームを提案したがそれは、専門家官僚であるテクノラートに割当てられる経済省庁と、党の活動家が指揮する政治・社会省庁との間の分割、という伝統的図式を否定するものだった(注1)。この政府は、長期に亘って社会運動に関わってきた真正のマシスタ(MAS)活動家だけではなく、そこに連なる中産階級出身の知識人からも歓迎を受ける形で、とにもかくにもMAS(社会主義運動、モラレスの党―訳者)が今日ある姿をまさに表している。それは、しばしばコーポラティズム(共同体主義)と特徴付けされる要求を掲げた社会運動をつなぎ合わせることを目的とした1つの試みであり、その運動への貢献に自ら赴く用意がある「専門家と技術者」の組織だ(注2)。

MASに内在する状況追随の危険

 この政府の首尾1貫性を脅かしている内部的な諸困難は、MASが以前経験し、今も経験中の諸困難に、事実としてまさに対応している。これらの諸困難は、何よりも首尾1貫した政治構想をもつ指導性の欠如を理由として1つの特徴となっている、と見られるかもしれない。その政治性の欠如は、マシスタの独自性を特徴付けるイデオロギーを明確にしてみようとしたあらゆる試みが、結局1貫して失敗したことにも表されている。
 モラレスは今あらゆる陣営から厳しく監視されている。これは、その場限りの基礎に基づく「公共問題」解決手法に政府を引きずり込み、その結果その弱体性をさらけ出し、「首領」の役割をそれだけ高めるという、ある種確度の高い危険をもたらしている。
 社会の様々な部分から出されている各団体に限定された諸要求をつなぎ合わせるという任務は、長期的には不可能だということが判明する可能性は高い。その点で興味深い事例は、合衆国との自由貿易協定(TLC)に関するこの政府の立場だ。モラレスはこの協定に対し、労働相のサンチャゴ・ガルベスに沈黙を強いつつ、2006年3月16日、公式に反対を明らかにした。しかしながらガルベスは選挙運動期間中、この協定を支持する立場を採っていたのだった―工場労働者の労組指導者としての立場において―。
 1方でガルベスの指名は、改良主義を理由にMASに反対している指導者から祝賀で迎えられた。こうしてこの事例は、「急進的」と思われている1定の社会運動が、革命的主張と経済的「実利主義」の組み合わせ方をどれほど深くわきまえているのか、についてはっきり示している(注3)。
 政府内部においてすら政治的基幹活動家の欠如が実感されているというこの状況を背景に、MASと政府の政治的方向に「招待された」知識人達が再度相当な影響力を行使する、ということは極めてありそうなことだ。他の全てに優先する目標としての「民主主義の防衛」は、アルバロ・ガルシア・リネラ(副大統領)が提案した「諸協定を通した危機からの出口」によって置換えられつつあるように見える。そして、既に「アンデス―アマゾン資本主義」―慢性的な貧困解決のために、ボリビアにおける「生産的な衝撃」を生み出すことを目的とする―の理論家となっているガルシア・リネラは、先住民解放ゲリラとしてのその急進的な過去にもかかわらず、「新たなボリビア」建設に関する基準について、ボリビア社会の右翼諸層との永続的な交渉に取り掛かっているように見える。ここにある危険は、社会運動の指導者の何人かが政府に入り、またその運動にコーポラティズムの潮流があるとはいえ、きのうまでこの国を支配していたエリートとの「協定」を優先する形で、社会運動が次第に周辺化される、という危険だ―しかしながらその名の下に指揮されるという進展の枠内で―。

USAの影

 ここに見てきた内部的な諸困難の上には、もちろんさらに多くの外部的な足かせが付け加えられなければならない。
 その最先頭には明らかに、ボリビア新政権にはいかなる息継ぎの余地も与えない、と決定済みのように見えるブッシュ政権の圧力がくる。現在合衆国は様々な小さな外交的紛争を引き起こしている。しかしその効果は本質的に象徴的なものだ(例えばコカ栽培農民指導者のレオニルダ・スリタに与えられたビザの撤回がある。彼は、テロ組織と結び付きがあるとして、いかなる証拠もなしに告発された)。しかしそれらの紛争をはるかに超えて、2006年2月に署名されたコロンビアと合衆国の間の自由貿易協定を理由とした、コロンビア大豆市場のボリビアに関わる部分の損失(おそらく来年には、1万人以上の職の喪失に帰着することになる)は、この強力な隣人の手中にあるモラレス政権への圧力手段が巨大なものであることを、今更ながらに思い起こさせる。そしてこれはさらに、ボリビアには「決裂という手段」(帝国主義並びにボリビアエリートとの)があり得るのか否かと、疑問をさしはさむ動きを力付け、それは、MAS自身の議論によってさえ示されているのだ―例えば、急進性と穏健化の間で1貫して揺れ動いている炭化水素資源国有化問題を巡って―。

2つの流れの同時進行

 モラレス政権が決裂に向かって前進するのか否かを知ることは、その最初の歩みを注視していても、今尚極めて難しい。
 この新政権は確かに、合衆国との自由貿易協定交渉を拒否し、その内容が未だ確定していないとしてもTCP(「人民通商協定」ーキューバ、ベネズエラ、ボリビア間で合意ー訳者)を支持するというような、勇気ある決定を行った。また、私有企業にはるかに有利となっている鉱業規則を改定するための、ムトゥン鉄鉱鉱床に関する入札手続の停止や、ボリビアにおける最低賃金の100%引き上げ(440ボリビアノから880ボリビアノへ、即ち55ドルから110ドルへ)もある。
 しかしこれらに平行して、ガルシア・リネラの「諸協定を通した危機からの出口」という路線に従って交渉された「憲法制定会議」の選挙を公示する法案は、1瞥する限り、社会運動の要求には不十分にしか対応していないように見える。例えばこの案は、先住民組織に対しても労働組合組織にも代表割り当てを与えず、現議会をそのままに維持し、現憲法を機能の基盤として使っていることによって、「憲法制定会議」の権能を制限している。
 この法律の性格はなるほど事実として議会における3分の2の多数を要する「特別法」であり、MASがその多数をもっていない以上この法律は、右翼との合意を要求していた。しかしそうだとしても、それを想定できた上でなお、議会右翼に圧力を加えるために大衆動員に訴えることをMAS指導部が拒否したことは、留意するに値する印象的なことだ。右翼の政治勢力が2005年12月18日の完敗に今尚苦しめられ、政治的には殆ど声をなくし、「親サンタクルス市民委員会」を通して政府の行動に対抗する潜在的可能性を保持しているに過ぎないように見える状況においては、これは尚のこと気に掛かる。従ってこの憲法制定会議―現在まで15年以上もの間社会運動が掲げ続けてきた要求―は既に、MASの外にある1定の社会運動から、特に労組ナショナルセンターのCOBの内部で、強い非難を浴びている。

攻めぎ合う2つの圧力

 政権与党としてのMASという存在があるとしても、「社会的左翼」にとっては今尚1定の空間が残されている。ジャイメ・ソラレス、フィリッペ・キスペ、エドガー・パタナ、さらに特にオスカー・オリベラ(2000年のコカバンバにおける「水戦争」から現れた「水・ガス防衛調整委員会」の広報代表者であり、MASの同調者であるものの、独立性を保持したいと思っている人物)などが代表しているこの左翼は、政府から独立した動員を実現する潜在的能力を保持し続けている。そしてその能力は、過去にそうであったように、天然ガス国有化問題に関する論争を巡って発展する可能性がある社会的決起に、MASの下部大衆を巻き込むことを左翼に可能としている。この左翼は、政府の行動に社会運動を従わせようとするMAS内部に現にある傾向に対して、平衡を実現するある種の錘として活動できる可能性をもっている。そして前者の傾向に関しては、アルゼンチンの新聞である「パギナ(頁―訳者)12」へのインタビューの中で、ガルシアが示唆していた。即ち、MASそれ自身の内部からさえ1部組織によって起こされている「憲法制定会議」召集法に関する論争についての質問に答えて彼は、「これらの運動は、権力の座を今や彼らが占めることになって以降も、彼らが今生きている歴史的な現局面の可能性を未だ見極めることができていないのだ。しかし、我々が通過しつつあるこの段階においては、これは疑いなく正常だ」と語っている(注4)。
 ここに見てきた諸関係は、同時に我々が次のように考えることを可能としている。即ち、マシスタ政権は現在、経験の積み重ねの果てに幻滅へというような、近隣諸国で起きている成り行きを繰り返すよう運命付けられているわけではない、ということであり、諸闘争から出現し、社会運動との「有機的な」つながりを保持し、その運動の発展に依存しているそのような政府は、社会的変革に向けた1つの力であり得る、ということを今も信じてよい、ということだ。


*筆者は、LCR(第4インターナショナルフランス支部)の週刊機関紙、「ルージュ」ボリビア通信員。
注1)モラレス政権の構成に関しては、「インターナショナル・ビューポイント」2006年2月号の「モラレス政権」3照。
注2)「政党」としてのMASの特異性は、党組織構造の建設、それ故都市地域におけるものを含みMAS地方支部の創出、これらに向けられた考え全てに対する理論的な拒絶にあり、それ故この党がある種の「社会諸運動総会」であることにある。ラテンアメリカにおける社会運動刷新並びに国家権力との関係についてそこから発している諸論争、というこの時期において、党に3加する社会運動を根源的に党の中心に位しさせる、そのような1つの構造―ある種の構造の不在とすら語ることもできる―を採用した党は、MAS―IPSPが唯1のものであるということは、注目するに値する興味深いことだ。この選択がこの党を、ブラジルの労働者党(PT)、メキシコの民主革命党(PRD)、エクアドルの「愛国統1パチャクティク運動―新たな国」(MUPP―NP)から隔てている。
注3)この点に関しては、エル・アルトの町が選挙に関する社会学を理由として極めて興味深い事例だ。この地は2003年10月と2005年5―6月に起きた2つの「ガス戦争」の震央だったとはいえ、その住民は1999年と2004年の2回連続して、ホセ・ルイス・パレデスを市長に選出した。この人物は、ラパスにおいてただ1つの知事選を勝ち取ったMIR(民衆の敵意の的となった主要な旧支配勢力―訳者)の元党員であり、中心的な右翼候補のホルゲ「テュート・キロゲ」が率いた連合を支持して立候補していた。パレデスは2年の選挙期間中「パギナ21」紙に対して、彼が「合衆国との自由貿易協定への署名に運動の中心を置く、という選択をした」と説明した。エル・アルトの住民は社会闘争の先駆者となったとはいうものの、そうであっても彼らは、基本的に小商人等々、のままだった。
注4)このインタビューは、2006年3月13日に発表された。
(「インターナショナル・ビューポイント」電子版4月号)
 

 ペルー
オランタ・ウマラ、ペルーの新たな希望か?

  
ヘルブ・ドアルト


 4月9日のペルー大統領選挙第1ラウンドにおいて、民族主義者のオランタ・ウマラが、得票率30%以上を得て1位に進出した。この結果は、彼に対する極めて攻撃的な選挙運動を跳ね返して実現されたものだ。
 しかしウマラは、第2ラウンドでの彼の敵が誰となるのかを知るために待たなければならないだろう。というのも現在の集計では、双方とも約24%を得ている、社会―自由主義の候補者、アラン・ガルシアと、右翼の代表、ルアデス・フローレスの、どちらが相手となるのか知ることができないからだ(訳出時点ではガルシアが相手となることが確定。その後6月4日、最終的にガルシアが大統領に選出された―訳者)。

進路を今後に託す反新自由主義の高揚

 ウマラに対して高い数字で信認を示していた世論調査があったとはいえ、今回の結果はウマラにとって真の意味で成功といえる。と言うのも彼は、合衆国からは第2のチャベスとみなされ、ペルーのブルジョアジーは彼の大統領職への到達可能性を恐れているからだ。こうして選挙前夜、現職大統領のアレジャンドロ・トレドは、ペルー民衆に向けて「国民へのメッセージ」を演説し、これはテレビ放映された。そしてこの中で彼は、人々は「よく考える」べきであり、「不安定と権威主義を代表している候補者」に投票すべきではない、と公然と語った。つまりそれは、ウマラに対する直接的攻撃だった。
 投票日それ自身が予想外の出来事で際立つものとなった。ウマラは、リマのブルジョア地区に位置する私立大学内で投票しようとした時、「虐殺者」と叫ぶ500人の右翼活動家と顔を合わせなければならなかった。さらに投票所に入れば入ったで彼は、1時間以上もの間文字通り阻止されるという経験を味わった。それは少なくとも超現実的と言ってよい光景であり、共謀が疑われた警察権力の消極性が理由でなければ起こり得ない光景だった。
 この出来事は、単るな逸話どころか、民衆層多数派の精神を今日反映しているこの人物のまさに両義性を照らし出す。ウマラは、人権を侵害したというキャンペーンを通して告発され、1992年に起きた拷問に軍の将校として参加したことがあるとの疑いをかけられている。それは、元大統領のアルベルト・フジモリが「輝く道」―アビマエル・グスマン指導の、その数年前から始められた毛沢東主義ゲリラ運動、特にペルーの貧農の中で活動的だった―に対して、彼が発動した「破壊との戦争」を指揮していた時代のことだった。
 これらの告発は、逆説的だが、国家の手では立証不可能なものだ。何故ならば、もしそうしようとすれば、軍全体の信用をも、もろともに失墜させることになるからだ。さらにまた彼は、フジモリの下で元軍最高首脳であったウラジミール・モンテシノスの「軍隊マフィア」とのつながりを1旦は築き上げた、とも疑われている。そしてこのつながりは、2000年に彼の兄と共にペルー南部のタクナで起こした反フジモリ反乱の後に解消された、と思われているに過ぎない。
 極度に分極化された選挙を背景とすれば、ウマラの成功は左翼の混乱状態によって1部説明可能だ。左翼陣営は「フジモリ主義」の中に絡みとられてしまい、今日政治光景からは全面的に消えている。
 ウマラは、正規の軍事教育を経た高級将校だが、初期には、彼の父親であるイサークによって発展させられた人種主義的なインカ讃美主義、「エスノキャセリズム」、を信奉していた。そしてこの思想を、2005年1月の新たな武装反乱の後現在獄中にいる彼の兄は、今も尚信奉している(注1)。
 ウマラ(着帽の軍中枢)は、彼の兄であるアンタウロ(無帽の制服組)と共に、200年10月にはフジモリに敵対した軍事反逆者だった。しかし彼は、昨年の政治活動開始以来、彼の主張により明確に民族主義的性格を与え、主張をかなりの程度穏健化した。そこでは今や、国の天然資源の取り戻しに中心が置かれている。彼は、自身を「右でも左でもない」と宣言し、ラテンアメリカ人の統領としての最も純粋なスタイルの姿に自身の像を磨き上げた。そしてそのようにしつつも彼は、最もひどく貧困の中に突き落とされたペルーの社会階層に1つの声を届け、トレドの経済政策を終わらせるという希望を高めることに成功した。そして問題のトレドは、4月12日という土壇場に合衆国との自由貿易協定(TLC)に署名し、彼の経済政策を任期終了間際まで遂行しようとしているのだ(注2)。従ってこの問題こそ、次の1ヶ月の内に行われる予定の第2回投票で賭けられているものだ。

「新自由主義によってラテンアメリカは荒廃させられた」
  ―オランタ・ウマラに対するインタビュー―

 1月に行われたエボ・モラレスのボリビア大統領就任式の際、我々の通信員、ヘルブ・ドアルトは、この機会にボリビアを訪問したオランタ・ウマラと会見し、彼にインタビューした。新自由主義と手を切ることへの支持を力説したこのインタビューの中で彼は、民族主義と先住民主義の岐路に立つ者として自身を示した。

―エボ・モラレスは、初の先住民出身ボリビア大統領だ。これはあなたにどのような思いを抱かせたか―

 私は非常な喜びを感じている。これは、ラテンアメリカに新たな方向性と新たな顔を与える政治的進展を表現するものだ。社会的で民衆的、かつ多彩な諸層から、新たな指導者達が出現しつつある。これらの人々が権力に手をかけるなどということは、ほんの2、3年前でも、とても考えの及ばないことだったはずだ。私が考えるにエボ・モラレスは、世界的つながりの中でラテンアメリカに新鮮な衝撃を与えようとしているこの新しい指導者世代の1部だ。

―この新しい指導者世代の1部にあなたも入ると考えるか。

 もちろんだ。私は政治の世界に入ってほんの8ヶ月しか経っていない。その時点まで私はフランスに転出させられた1人の兵士に過ぎず、我々は僅か8ヶ月で世論調査の1位に何とかたどり着いたのだ。これこそアメリカ(注3)におけるある種の進歩的流れを示すものだ。アメリカは今新自由主義によって荒廃させられている。新自由主義は、その擁護者達が約束した幾つもの恵みの内のただ1つももたらさなかった。我々は我々の経済モデルを再建したいと願っている。我々は、法による保護を1度として受けたことのないこの国の大衆に、新たな市民権を与えたいと願っている。我々は、人々が平等な教育や信頼に値する保健システム、その他のものを享受できるように取り計ろうとしている。

―エボ・モラレスの勝利は、あなたの選挙運動にどのような影響を与えるだろうか―

 私が考えるに、モラレスがボリビアにおける彼の立場の打ち固めに成功することが重要だ。私はボリビアの人々の表情に多くの喜びを見い出している。私がもし権力を手にすることがあるとすれば、例えば天然ガスやコカ栽培、あるいは対外債務その他の問題に関して、ボリビアとペルーにとっての共通の課題協議予定をエボ・モラレスと共に練り上げる点で、この進展が我々に力を貸すだろう。これら全ては、我々の2国間国境をまたぐ問題だ。私に関して言えば、私は、ボリビアとペルー間の統合という構想に実現への道をつけたいという、長期的大望をもっている。

―コカの葉、と問題を正確に限定した場合、この問題についてのあなたの正確な立場はどういうものか。これは守られるべき伝統的なアンデス文化の問題だと、あなたは考えるか―

 もちろんそれは明白だ。コカの葉は現在、コカインと完全に混同された問題になっている。コカの葉は、合衆国がそれについてどう考えたいと思おうが、先祖伝来の文化を意味しているのだ。それ故この意味で我々は、犯罪視からその栽培を解放する闘士であり、ペルーのコカ栽培農民を守ることが我々の義務だと考える。

―あなたの軍人としての過去と、元大統領のフジモリに対する2000年のクーデターへの3加が、危険な権威主義的ポピュリスト、あるいはもっと悪いことにファシストという像をあなたに貼り付けることに力を与えている。これらの告発にあなたはどのように対応するのか―

 彼らは現実に今、これらの断定を通して、私の信用を落とそうと試みている最中だ。確かに私はクーデターに参加した。しかし今私は、この国を変革するために、民族主義と進歩的な基盤に基づき、我々に類似した考え方に取り組んでいる全てのラテンアメリカ人との連帯の下で、新自由主義と手を切るために、選挙という道を手掛かりにしようとしている。もう1つ言えば、ファシズムは常に大資本を擁護してきた。しかし1方私に関する限り私は、小生産者と最も貧しいペルー人を守る。

注1)「エスノキャセリズム」という用語は、ペルーの「愛国主義的な」寡頭政治支配者であったアンドレス・アベリーノ・カセレス将軍(1836―1923年)に関わっている。彼は、1879―1884年のチリとの戦争の期間、先住民農民ゲリラ部隊の指導者だった。彼はその後裏切り、先住民農民ゲリラ部隊がペルーの大地主を相手に戦い始めたとき、彼らを殺戮した。後に彼は大統領となった。そのようなものとしての「エスノキャセリズム」が正確に人種主義とみなされ得るものか否かは、高度に論争を呼ぶ問題だ。ウマラ自身は、「『エスノキャセリズム』とは、ペルー民族主義の単なる軍事的翻訳に過ぎない」と語っている。
注2)トレドの対合衆国TLC署名は、ペルー内で広範な抗議を巻き起こした。ウマラは議会にこの談合を阻止するよう要求し、この問題に関する国民投票を設定すべきだと提案した。
注3)この地名を唯1合衆国に関係させて使用する殆どのヨーロッパ人や北アメリカ人とは異なり、ウマラは、殆どのラテンアメリカ人と同様に、「アメリカ」という地名を、特にもちろん南半分を含んで、大陸全体を意味するものとして使っている。
(「インターナショナル・ビューポイント」電子版4月号) 
 
 
 

 
 
 
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