2006年10月10日        労働者の力             第 19 9号


破綻を内包した安倍政権に民衆の手で早々に引導を!

  
寺中徹

 
 小泉が退場し、大方の予想通り安倍政権が誕生した。早々と予告された政権交代という日本では異例の状況の中で、事実上1年以上もかけてお膳立てされた政権だ。「国民的人気」が枕詞のように語られたものの、その間の路線論議は、中韓関係を除き驚くほど低調だった。
 しかし誕生した安倍政権の陣容は、当の安倍本人を含め、極めて濃厚な復古的右翼の色彩を明瞭に示している。その点で、どのような事情があるにせよ、この政権の支持率が高いとなれば、そしてこの政権が続くとすれば、それは日本とアジアの今後に重大な問題を引き起こす。この政権に対する深い警戒は既に、アジア各国のみならず欧米の報道を含め広範に現れている。
 この政権について、それを生み出した日本の現状について、さらに必要となる闘いについて、我々は印象に流されない見極めと構えを要求されている。紙面の関係で論点を絞らざるを得ないが、この政権の本質的な脆弱さについて以下で若干検討したい。
 この政権に対する人気が意味するものには極めて重大な問題が孕まれている。それは明らかに、強いられた長期のしかも益々深まる苦難に対して、個人的打開という方向以外の道を労働者民衆多数が見出し得ないという、深刻な現実と密接につながっている。左翼の責任と一体となった、何としても打開しなければならないこの現実は、巷間語られるナショナリズムの問題を含め1つの重要な論点であり、別途検討しなければならない。
 結論を先に言えば、私は、この政権の危険性を過少評価すべきではないことを前提としつつも、この政権を生み出したものは日本支配階級総体の深刻な困難であること、そしてそれを先ず明確に認識しておく必要を強調したい。その限りでこの政権の足場は極めて危うい。この政権を労働者民衆の抵抗で行き詰まらせ倒す闘いは、可能性のある闘いである。我々はその可能性に食らいつき、そこに貪欲に挑戦することこそを追及しなければならない。

自民党の客観的現実

 衆議院における与党3分の2体制を背景にこの右翼偏重安倍政権が生まれた。自・公以外に、ほぼ無条件的に与党に同調するいわゆる郵政離党組などを加えれば、衆議院において安倍は万全の基盤に支えられることになる。この事実の表面だけを見れば、この右翼偏重政権は、支配階級が手にするに至った圧倒的な民衆支配力を背景とした、彼らの自信の現れであるかのように見える。
 しかし多くの人々は、事態がそれとは逆であることを直感的に見抜いていると思われる。現実にこの政権を取り巻く空気はある種の醒めた空気である。自民党の総裁選ですら投票率が前回を8%も下回った。当の支配階級はもちろんそれを自覚している。一時期福田の担ぎ出しに一定の支持が集まったことに、その一端を窺うことができる。
 顧みれば今から5年余り前、小泉登場の直前、自民党はまさに追い詰められていた。首相の森は退陣を余儀なくされ、強烈な民衆の不満と反感の中、自民党は政治の主導力を喪失しようとしていた。「自民党をぶっ壊す」と叫んだ自民党超異端の小泉と、これまた超異端、1匹狼の田中真紀子の組み合わせというまさにウルトラCが、自民党を辛うじて救った。現在安倍政権が手にしている衆議院の圧倒的優位は、もっぱら、それ以後も続いた党を敵とする小泉の、この特異な政治性がとりあえず作り出したものに過ぎない。
 しかし昨年総選挙の結果が余りに印象的だったため忘れられがちだが、5年余り前に自民党が置かれていた苦境は、決して克服されたわけではない。小泉の下では4回の国政選挙が行われた。衆議院が2回、3議院が2回だ。この内自民党が勝った選挙は、記憶に新しい昨年総選挙と、小泉登場直後に熱気のこもった小泉支持風潮の中で行われた2001年参議院選挙のみ。この2回はいずれもある種驚異的な大勝だが、あとの2回は完全な敗北であり、比例区得票は民主党を下回っている。なおこの敗北した総選挙(2003年11月)の指揮者は安倍だった。結局自民党の政治的支配力は基底において現在も確固たるものではなく、それは現在、小泉の下における2回の選挙を経てなお充分な主導力の回復に成功していない参議院に表現されている。しかも大勝と敗北の極端なブレが示すように、結果の不確実さの増幅が著しく、それはむしろ党の基盤の弱体化を暗示している。

不確実化する民衆支配の歴史的進行

 この自民党の基盤的政治支配力の弱体化は、安定した議会内過半数を得ることができなくなった70年代後半以降一貫したものであり、小手先で変え得るものではない。そこには、戦後資本主義の展開が生み出した社会構造の逆行不能な変化という、客観的な背景がある。
 従ってこの現実を自覚していた支配階級は、安定的な民衆支配の確保のために、この間に3方向から手を打とうとした。
 1つは小選挙区制への選挙制度改革であり、代表制の極度の歪曲化である。それは、これまた当初相当な人気を博した田中政権によって最初に手を着けられた。この時は国民的反撃に合い挫折の憂き目に遭ったが、その後最終的に小選挙区比例代表並立制という形で実現にこぎつけた。
 2つ目は、自民党自身のいわゆる「近代政党への脱皮」という党改革である。小選挙区制自身も、この改革を促すものとして持ち上げられた。そこには、今や人口の圧倒的多数を占める被雇用者層をも大きく取り込んだ支持基盤の確立という目標が、一体的に含められている。しかしこの側面に関しては、いくつもの構想が提案されつつも基本的に中途半端なままである。特に新たな支持基盤確立という目標は、いわゆる「風頼み」の域を出ていない。先に見た結果の極端なブレはそのことを端的に示している。
 3つ目は自民党に代わり得る予備的な政治勢力の育成であり、それは社会党の解体、民主党の登場として一応は結実した。しかしこの民主党は今なお、様々な政治傾向が未整理なまま、ただ政権獲得という1点で結びついたものに過ぎない。その上民衆に対する直接的な安定した掌握力は明らかに弱体であり、選挙における「風頼み」は自民党以上と言ってよい。支配階級はこの党を今なお、自民党に代わり得るものとは認めていないと思われる。
 結局のところ彼らがこの党に求めた意義は社会党の解体であり、労働者民衆の抵抗エネルギーが支配体制への総体的反抗という方向に政治表現を発展させることへの事前的抑止機能、というところに止まっていると思われる。支配階級にとっての民衆支配の政治的装置は今なおあくまでも自民党であり、その限りで彼らは現在まで、民主党を本気で育成する努力を払っていない。しかしそのいわば「怠慢」のつけは、自民党が危機に陥った場合、支配の極度の不安定化として彼らに跳ねかえることになる。それは、長野、沖縄、そして滋賀など、地方において既に顔を出している。
 こうして見てくると、これら3方向からのてこ入れを通して支配階級が30年以上追求したものが、結局のところ、自民党を通した民衆支配の安定性、確実性の死守、というものに尽きるということが分かる。しかし、社会党を解体し、民衆的抵抗に具体的結集の心棒を与える役割を果たしてきた労働組合運動を大きく後退させ、制度の面でも政治への民衆の代表性を大きく歪め政治から民衆を排除するこれらの努力をもってしても、自民党支配の確実性は基本的に達成されなかった。これが小泉登場直前の状況が示すことだった。小泉は表面上確かに自民党を救いはしたが、自民党が直面していた上記の現実を何も変えなかった。変えたという評価もないわけではないが、それは党というものの社会的側面を極度に軽視した議論であるように見える。
 実際、支配の不確実性はむしろ深まっている。自民党の選挙においては、特に国政選挙の場合はもはや公明党の協力が不可欠となっている事態が、それを端的に物語っている。そして小泉「構造改革」は、自民党を物心両面で支え、自民党の最も基底を形作る伝統的な秩序の中に地域を日常的に取りまとめ、その上集票の手足となってきた、地方と都市の自営層、中小企業主を文字通り直撃した。「刺客」選挙はそこにさらに分裂の追い討ちをかけた。こうして安倍には今、党員数が97年の336万人から107万人まで激減したという現実が残されている。その意味で小泉は確かに党を「ぶっ壊した」のだ。ある地方では、自民党有力支持組織であった「大樹」が今国民新党の党費を集めているという。
 安倍の浮上は、深部で進行した民衆支配―統合の不確実化の中で起きた。背景にある状況は本質的に、民衆支配のあり方について、支配階級内部で相当抜本的な見直しが必要になっていることを意味している。憲法問題が浮上する要因の重要な1つはこの点にある。しかし今回の安倍の浮上はいかにも粗雑である。先ずこのことが確認されなければならない。
 とは言えこのような状況の中での安倍の浮上は、客観的には、そこに民衆統合における右翼的再構築の可能性を推し測るという役割が与えられた、ということを意味する。そうであればこそ、粗雑に急ごしらえで押し出された安倍を民衆の手で早期に打倒する闘いが、極めて重要なものとなる。

参院選シフト

 今回の安倍の押し上げに、来年の参院選乗り切りという切実な、しかし全くの一時しのぎで即物的な理由があったことは疑いない。上述した自民党の客観的現実は、選挙に対する安易な構えを確かに許さない。
 しかも来年の参院選は自民党にとって確実に苦しい選挙である。
 第1に今回改選となる議席は、先に触れたように小泉に頼ることで勝ち取られた。それは自民党の実力からすれば相当に水ぶくれした議席数だ。その限りで、よほどの奇跡でもない限り議席の目減りは避けられない。
 第2に、民衆の過酷な現実という小泉「構造改革」の真実の露呈、またその止まることのない悪化、予想される経済減速、ブッシュ政権の明白な権威失墜(従って日本への過酷な要求)、さらに昨年総選挙の反動など、自民党への逆風が幾重にも重なることがほぼ確実だ。
 こうして、非改選議席を合わせた自・公与党の過半数割れもあり得ないことではない状況となっている。この苦境打開のための1つの手段が、「国民的人気」の高さが売り物の安倍の担ぎ出しなのだ。しかし安倍の「人気」なるものは実のところ確証されたものでは
ない。そのことに支配階級が気づいていないわけがない。従ってそこにはもう1つの理由、即ち、確証済みの人気を誇る小泉の選挙への動員が一体となっていることは確実だろう。その意味でどうしても小泉の支持する者を総裁にしなければならなかった。早くも自民党新執行部は10月の補選に対して、小泉から応援の承諾を得た。そしてもちろんこの参院選については、参議院を基盤に権力を得ている青木・片山と、ここを乗り切ることなしには確実な展望の開けない安部との間に、取り合えずではあれ明確な利害の一致がある。
 いずれにしろ来年の参院選に向けて、安倍と自民党は失敗の許されない背水の陣で臨まなければならない。おそらく、小泉政権以上の情報操作や「北朝鮮」カードの使用を含め、あらゆる手段が動員されるだろう。しかし同時にその深部では、安倍とその他の自民党勢力の間で、避けられないかもしれないこの選挙の敗北の責任を押し付け合う、緊張したにらみ合いが続くはずだ。
 この間に巻き起こる労働者民衆の抵抗の高まりはそれ故、確実に安倍を追い詰めるものとなる。

支配階級の戦略的手詰まり

 確かに安倍の浮上は、安倍当人の党に対する、さらに民衆に対する統合能力を確認した上で起きたものではない。それは全く確証されていない。先に触れた過去における彼の選挙上の芳しくない実績は、むしろその点で党内にも疑念を残していると言った方が正しいだろう。
 その上何よりも彼は政策的内容が未知数だ。分かっていることは、極度に復古的な右翼であると同時に、アメリカネオコン頼りの「有志連合」徹底依存という、根底に矛盾を孕んだ路線に立っているということだけと言ってよい。自民党総裁選においても彼は、自分の右翼的信条に関わる一部を除き、目指す政策方向に関し抽象的主張のまま曖昧さを貫いた。それは所信表明でも変わらず、その曖昧さはむしろ増している。
 このような政治的人物が、しかも政治的経験としては(おそらく人生経験においても)若葉マークのような人物が、小泉政権の残した難局に立ち向かう者として政治の中枢に押し出されたのだ。彼の前に立ちはだかるものは登場時の小泉の前にあったもの以上の難題である。主だった課題を上げれば、小泉「構造改革」の残した深刻な社会的解体の進行、多くの民衆の深まるばかりの生活不安、もっぱら外需頼りで、従って管理不能のリスクを孕んだ先の見通しが少しも晴れない経済、小泉を含む歴代政権が残した破局的な財政危機、そして世界の枠組みに生じている転換を孕んだ動揺、そこを背景とした周辺アジアとの深刻な軋轢などが、待ったなしに控えている。しかも、日本の支配階級がしがみついてきた「有志連合」はその破綻を益々明らかにする一方で、安倍が頼りとするアメリカネオコンも大勢としては落日に向かっている。そして日本には、アメリカの力を借りることなく何事かをなす力は全くない。
 このような局面において支配階級総体は、先に見たような政治的未知数の安倍以外に選択の道がなかったということになる。まさに尋常なことではないが、それは、彼らが陥っている戦略的な手詰まりを逆の側から照らし出している。つまり、将来の不安が明らかに兆しつつも、それに対応する戦略的方向について確信が彼らの中に未だない、ということだ。それは同時に、彼らが今後とも益々1時しのぎの政策的辻褄合わせと状況対応の綱渡りを続けざるを得ないということを、さらに安倍の選択それ自身がそのような性格のものであるということを示している。今回の自民党総裁選については、猟官的思惑を含め勝ち馬に載ろうとする雪崩現象が目に付いた、と報じられている。そして日本経団連は、小泉継承者として、即ち小泉「構造改革」の断固推進を趣旨として安倍を支持し、アジアとの関係改善1点だけを付け加えるべき注文とした。
 このような今回の支配階級の選択が改めて示したことは、安倍に内包された危険性を含め、結局は全ての犠牲が労働者民衆に背負わされる、ということだ。日本の支配階級はそれが可能だと判断している。先の彼らの選択はそのことをも示すのだ。
 それは思い上がりだということを我々は事実をもって突き付けなければならない。安倍との闘いはその可能性が充分ある闘いであり、むしろチャンスとしなければならない。
 明らかに、上に見たような支配階級の戦略手詰まりに対抗するものが民衆の中にないということが、彼らに力を与えている。労働者民衆の未来を切開くためには、何としてもこの現実を抜本的に克服しなければならない。新しい左翼を追及する営みはまさにそこに貢献しなければならない。そして安倍に挑みかかる労働者民衆の波状的抵抗の積み重ねは、安倍打倒を確実に引き寄せると同時に、労働者民衆の総体的抵抗の再生に向かう重大な足掛かりを作るだろう。(10月3日)
 
NTT11万人リストラ反対!
決意をあらたに10・17集会へ!

                     
(電通労組了解により同機関紙より転載)
          

配転は、人事権の濫用! 原告全面勝訴!
―NTT反リストラ裁判 9.29札幌地裁判決―

 全国で闘われているNTT11万人リストラ裁判で、9月29日その最初の判決が札幌地裁で示され、退職・再雇用を拒否した労働者にかけられた「広域・異職種配転」は、人事権の濫用であり、業務上必要はなく、逆に配転障害理由(親の介護など)が原告にあり違法であると原告全面勝訴を言い渡しました。
 NTTは、退職・再雇用を拒否した労働者に広域配転攻撃を加え、「見せしめ」にすることで多くの労働者に退職強要を押し付けてきました。今年4月に新に強行された退職・再雇用拒否者への千葉県や埼玉県から仙台へという不当配転を見ても明らかです。

「業務上必要性はない」!
首都圏「隔離職場」は必要性無し!


 配転の「業務上必要性はない」と判決は言い切っています。原告の1人は東京支店光IP販売プロジェクトに配転された労働者です。退職拒否者ばかりの職場である東京支店光IP販売プロジェクト(現本社コンシューマ各センター)や技術部システム体系化PTには業務上必要性がまったく無かったことが明らかになりました。
 退職・再雇用拒否者の「隔離職場」に他ならないこれらの職場をただちに解散し、労働者を地元に戻せ!

NTTは、地裁判決に従い控訴するな!

 業務上必要という被告会社の主張は、司法の場ですらデタラメであることを認めたのです。
 今年7月の奥村裁判札幌高裁勝利判決(リストラでの過労死)に続く、この勝利はNTTリストラの反社会性、企業責任を鋭く問うものです。今後、全国で闘われている裁判の判例となるのは明らかです。NTTはこの地裁判決を真摯に受け止め、判決に従い原告に謝罪し、控訴は断念すべきです。

退職・再雇用制度を中止せよ!
不当配転者全員を地元に戻せ!

 業務上必要のない不当な配転であることが明らかになった以上、NTTは速やかに、首都圏をはじめ全国に「見せしめ」として配転させた全ての労働者を地元に戻さなければなりません。首都圏の退職・拒否者を集めた「隔離職場」も行き詰まり、瓦解しています。
同時に、この不当配転の引き金であるNTT11万人リストラ=退職・再雇用制度を直ちに中止することです。

退職・再雇用を拒否しよう!

 すべての労働者の皆さん!NTTと多数労組一体となったNTTリストラは、社会的にも不当性、不必要性が明らかになりました。この判決でNTTは、退職・再雇用拒否者に「不当配転」を強行することは出来なくなりました。この制度を解体する源は私たち労働者が声を上げることから始まります。
 勇気を出して、退職・再雇用を拒否しよう!
 雇用破壊、生活破壊、権利破壊を許さず闘おう!

NTTリストラと新自由主義に対決する闘いを!
決意をあらたに!10・17集会に結集を!

 2003年10月の不当配転取り消しを求めた東京地裁への提訴からまる3年を迎えようとしています。
3年4月、あらたに首都圏に設置された金町(技術部システム体系化推進PT)千住、成増(東京支店光IP販売PT)の隔離職場に東日本各地から退職再雇用を拒否した約200名の労働者が集められました。その多くは家族と引き離されて単身赴任を強いられ、50歳を過ぎて独身寮生活を余儀なくされました。それは会社を辞めないということに対する報復としての不当配転であることは誰の目にも明らかでした。
 その中で私たち電通労組組合員9名が不当配転の取り消しを求めてNTT反リストラ裁判を闘ってきました。3年に亘る裁判の中で口頭弁論、争点整理、そして昨年6月から原告、会社側双方の証人尋問が8回行われました。私たちはこの裁判の中で、NTT「構造改革」が小泉「構造改革」の一環として行われており、今後進められる郵政民営化や行政改革攻撃と不離一体のものであると確認してきました。
 私たちは提訴から3年目にあたる10月17日に集会を行います。札幌地裁勝利判決に続いての勝利をめざす裁判の決意と合わせて、NTTリストラと新自由主義グローバリゼーションに対決する闘いの構築にむけてあらたな第1歩としての集会として考えています。
 多くのみなさんの集会へのご3加を訴えます。

【集会要綱】
雇用破壊、権利破壊、生活破壊のNTT11万人リストラ反対!
決意を新たに!NTT反リストラ闘争勝利!
提訴3周年!10・17NTT反リストラ裁判闘争報告集会  

日時 10月17日(火)18‥30〜20‥0
会場 文京シビックセンター3階 第1会議室


 
 
   
 
NTT、成果主義賃金制度全面化策動
   

            電通労組・高橋喜一
 


 NTTは1年4月に成果主義賃金制度を導入し、同時期に「NTT構造改革」11万人リストラ提案を行い翌年から全面的な労働者攻撃を展開してきた。昨年、更に「NTTの処遇体系の見直し」提案があり、成果主義の全面化が図られようとしている。

NTTの賃金制度の概略

 NTTにおいて成果主義賃金制度導入前は「職務・職能賃金制度」であり、労働者個々人の職務遂行能力に基づき格付けされ、それが賃金と連動してきた。採用時は「1般職5級」に格付けし、3年在級すると自動的に「1般職4級」に移行、以後「5年在級で3級」、「7年在級で2級」、「7年在級で1級」というように「最長在級年数」が決まっており、誰もが最長21年で「1般職1級」に到達する仕組みであった。能力が認められれば短期間で上位級に進み、「役付け」になると「エキスパート3級」から更に上位に進み管理職への登用の道が開けるというものである。年功的要素が維持され採用から同じ処遇を受ければ同じ賃金である。
 またNTTの賃金体系では、「基準内賃金」と「基準外賃金」に大別されている。基準内賃金は「基本給」として勤続年数に基づく「年齢賃金」と、年度毎の成果・業績評価によって積み上がっていく「成果加算」(職能資格と評価によって積みあがっていき、それぞれの等級で上限額が決まっており達すれば上位等級に格付けされていく)と、資格等級によって決定される「資格賃金」の3つで、これが賃金の骨格になる。その他に、東京・大阪の都市圏で働く労働者には「地域加算(都市手当)」が、また該当者には「扶養手当」が支払われる。基準内賃金は、特別手当(ボーナス)の算出基礎額になり特別手当が支給される。
 「基準外賃金」は、1般職2級以上に支給されている「職責手当」、成果・業績評価によって年度毎に各資格毎に決定される「成果手当」である。成果手当は年間評価で決まり「年度毎ゼロクリア」される。

処遇体系の見直しとは

 今回の提案では「収益構造の改革・業務効率化の推進」を図るために「成果業績重視の処遇体系の1層の推進」と「社員の上げた成果・業績をよりダイナミックに処遇に反映することが可能な仕組みへの見直し」と主張している。
 具体的には「最長在級年数の廃止」が提案され成果・業績を上げたと「評価」されなければ上位等級に進めない構造を打ち出している。同時に賃金体系の組み換えが提案された。
 会社提案は、「年齢賃金」を廃止し、その原資の「8分3」を「資格賃金」に、「8分の2」を「成果加算」の「基準内賃金」に組み込み、残り「8分の3」を「成果手当」の「基準外」賃金化するというもの。同時に年1回の総合評価を半期毎の年2回の評価に変え、これによって「成果手当額」を決定するというものである。またマイナス評価を導入するとしている。最長在級年数を廃止し、昇級の基準を「A評価(期待し要求する程度を著しく上回る)2年」、「C評価(期待し要求する程度であった)5年」各々続けた場合、と見直した。つまり、その間に評価が下がるとその分昇級が遅れる仕掛けだ。労働者の圧倒的多数がB、C評価であり、「期待し要求する程度を下まわる」という「D評価は最大で10%」となっている。
 これを見れば、マイナス評価の導入と共により成果評価の効果を徹底させ、「総額人件費」の削減を加速させていく意図がありあり。
 「扶養手当」も同時に基準外化されることによって特別手当算出から除外される。会社は基準内から基準外への組み換えであり移行時賃金は変わらないと主張する。だが将来にわたって安定的部分が削られ会社裁量による不安定部分が拡大されるということであり、成果主義賃金が持つ「恣意性」のもと、労働者間競争を激化させ生み出した成果の殆どを懐に入れるという代物がこの制度である。
 まさに成果主義の徹底化に他ならず、我々へのNTT11万人リストラ、広域・異職種配転、退職強要攻撃と一直線につながっている。

 イスラエル
力の限界、しかし

  
ミッシェル・ワルショウスキー

 イスラエル各紙の今朝(9月13日―原注)の1面見出しは、レバノンにおけるイスラエルの戦争の政治軍事両面の全側面を評価するために、元判事を首席とする事実調査委員会の構成に関し、エフド・オルメルト首相が同意したことを知らせた。この委員会は今、議員と軍人によって以前に設立された、様々な独立性を欠いた調査委員会に代わろうとしている。
 それはまだ、イスラエル国民の多数と益々数を増す元政治家が要求しているもの―19年の戦争の後のような、あるいは1982年のサブラとシャティーラにおける虐殺の後のような、司法権をもった国家的独立調査委員会―ではない。先週、レバノンで戦闘に従事してきた将校と予備役兵士が率いる6万人の市民がその要求を大声でかつ明確に明らかにし、そのような委員会がまだできるかもしれないと人に期待させる可能性がある。

誰の目にも明らかな敗北

 レバノンにおけるイスラエルの軍事攻撃の哀れを催す失敗に関しいくつもの疑念があるとしても、首相の決定は物事をそのまま示している。即ち、33日間にも亘る軍事力の途方もない使用によっても、大量の破壊と恐るべき虐殺を除けば、価値のある結果は何1つもたらされなかった、ということだ。ハーレッツ紙論説は、イスラエルの攻撃が失敗であったことに曖昧ではない。「失敗に疑いの余地はない。軍が達成したものを数え上げようとの首相とイスラエル軍の試みを除けば、来るべき終結に向けて、この地域と世界において、さらにまたイスラエル市民の目に、この戦争は、その否定的影響がはるか先にまで残る、苦痛に満ちた敗北であると受け取られている」(注1)と。
 軍事と同様政治の決断は、通常彼らの最初の目的に照らして評価を受ける。我々の前にある第1の問題は、明確に確定された目的の不在、あるいはもっと正確に言えば、戦争の公表された目的が何回も変えられたという事実だ。最初明らかにされた戦争の目的は、ヒズボラが拉致したイスラエルの戦争捕虜を解放することだった。次いで、イスラエルの攻撃開始後2、3日してオルメルトは何と、目標はそれと並んでヒズボラの根絶と発表した。イスラエル最高司令部が推奨した戦法は、軍部の高官達の狭量さと歴史から何事かを学ぶ上での彼らの無能さ、という特徴を示していた。それは、レバノン人に対する大規模なテロ作戦であり、レバノン領土からのヒズボラの行動を放置することがいかに高くつくかについて、「レバノンの民衆と政府に教訓を与える」ことを目的とする、というものだった。しかし、レバノンにおける犯罪的な破壊と殺人(ベイルート空港、何百以上もの橋梁、発電所、などを含む)の結果は、キリスト教徒住民の大きな層を含むレバノン民衆の、巨大な親ヒズボラ感情を湧き上がらせることだった。
 ヒズボラに対する共鳴の成長と、何百というロケット弾によるイスラエル心臓部に対する彼らの打撃能力に直面して、声明された目的は、「イスラエル領土にロケット砲弾を到達させるヒズボラの能力を破壊すること」にまで切り下げられた。2週間に亘るヒズボラに対する途方もない空爆の後になっても、イスラエルに達し国の北部全てに深刻な被害を引き起こすロケット砲弾の数は、何と以前の時期よりもさらに数を増しているのだ。こうして、もう1つの失敗が追加された。最後に―今日のところだが―目標は再び拡張された。即ち、イスラエルの抑止能力と地域における軍事的超大国というイメージを修復すること、と。
 それらとは反対に、この目的の不達成は余りにひどいものだった。アラブ世界に関するハーレッツ紙の専門家であるツウィ・バレルが説明するように、「家が破壊され、近所の子供や彼らの両親が何百人と殺されるところを目にし、間に合って学期を始める可能性が殆ど全くないという状況に人が置かれている時に、レバノンでは誰かが屈服するはず、などと何故考えるのだろうか。その人は今、戦争はもはやヒズボラだけを相手にしているものではなく、キリスト教徒だろうがドゥルーズだろうが、またシーア派だろうが、レバノン人や彼自身をも相手にしている、と確信している」(注2)。この論文においてバレルは、イスラエルの指導者にパレスチナの経験から何かを学ぼうとしてみることを促している―「上に述べたことを分からない人でも自問してみることはできる…先週だけで150人以上も殺されても彼らがまだもう1つのロケット砲であるカッサム砲を使おうとするのは何故か、自由に使える鋼鉄の量で強さを計算するイスラエル軍の論理が彼らに通用しないのは何故か、と」―。

悪あがき、そして「停戦」

 イスラエル軍がたった1つの目的すら達成できなかったという事実、さらに、1ヶ月後もヒズボラがなおイスラエルに何百ものロケット弾を打ち込むことができているという事実は、イスラエルでは国民的惨事と思われている。「誰か我々が勝利したと思うのだろうか」、「ヒズボラを根絶し、イスラエルに対するロケット砲の脅威を終わらせるという戦争開始時点のオルメルトの約束は満たされた、などと誰が信じているだろうか」(注3)、とヨエル・マーカスは問いかけている。
 しかし、軍の最高司令部、イスラエル指導部の殆ど、またイスラエルの多くの評論家が引き出した結論は、依然として攻撃の拡大、予備役部隊の動員、レバノンの1部に対する侵略と占領というものだった。先に引用したハーレッツ紙の論説員閣下たるヨエル・マーカスは、イスラエルの攻撃の全面的失敗についての先の論文を、以下の訴えで締めくくった。「戦闘はレバノン上にはないということが今や明らかだ。我々が対決しているものは、地域的政権ではなく、イランとシリア…アルカイダ、さらにツィンタワーで始まった道の追随者と結び付きその代理として活動している武装組織である。イスラエルが防衛しようとしているものは今や、キリヤット、シモネー、ヘレダだけではなくおそらくテルアビブまで含まれる。イスラエルはその意思に反して、『悪の枢軸』とブッシュが名付けたイスラム原理主義に対する戦争の、世界のこの地におけるパートナーとなった。…結論は、充分なある種の休息を取ることであり、我々が自由にできる力全てを使って、空でも地上でも、ヒズボラを中立化することができるまで、我々の国境上で1人の市民兵士として、戦闘を開始することである。小悪魔であっても歯があるということを見せるため、我々は、勝者側にある場合に停戦に入らなければならない…」(注4)と。
 最終的に、さらに多くの破壊と殺害―国際的な諸組織によれば、爆弾の80%以上は戦闘最終週に投じられた―そしてイスラエル軍部隊内における多くの死傷者積み上げの後でオルメルトは、停戦を呼びかけてはいないが「敵対行為の停止」を求める、国連安保理決議受け容れを強制された。イスラエル軍は今もレバノンで活動している。しかしその軍は、決定的に敗北を喫した軍である。

次の戦争が準備されている

 パレスチナの占領地域におけるデモにおいて、また市民に対するイスラエル兵士の力の行使と野蛮さを目にしたとき我々は、以下のように語りかけることが常だ。「何と大した英雄だ。君達の戦争は非武装の女性や子供に向けられている。君達はそれを敢えて『衝突』、あるいは『戦闘』とさえ呼ぶのだ。そこで君達が強力である戦争は、せいぜい無力な市民を相手とした戦争だ。しかし君が本物の戦士と向き合った時、君は戦い方が分からない。だから君は死ぬかウサギのように逃げるかどちらかしかない」と。そして実際にイスラエルの兵士は、十分な訓練を受け戦う意味を十分理解している戦士との戦争を経験しつつあり、完全な非効率さを露呈させつつある。死傷者数は、ヒズボラ戦士の相対的に小さな数と比較して巨大である。人は問うべきである。決定的に圧倒的な優勢を誇っている空からだけではなく、イスラエルがシリア攻撃にものともせず踏み込むことがあれば、先の状況はどうなるだろうかと。
 イスラエルの経験は明らかに、イラクにおけるアメリカの経験を思い起こさせつつある。それは、効率的に闘うには余りに役に立たず、余りに傲慢で、自信過剰、そして巨大過ぎる強力無比の軍隊のことだ。自由にできる巨大な諸手段はそれ自体で、効率を期待するように導いていたのかもしれない。
 イスラエルの政治エリートは軍事エリートと同様、右翼であるが今分裂している。1方には、世界に対して、またアメリカのネオコン指導部に、イスラエルが世界的な終わりのない先制戦争においてイスラエル軍に割り当てられた役割を果たすことができ、戦争抑止能力をまだ保持しているということを示すため、即時の復讐を望む者達がいる。他方に、勝利を得ることを目的に先ずその軍事力を再組織する必要がある、と信じている者達がいる。男が「本当はできること」は何であり、どれほどであるのかを示す新たな機会とその広々とした舞台に対する要求は極めて強い。イスラエルの混乱に秩序を持ち込もうという要求は強過ぎる。
 これからの数ヶ月でこれらの潮流のどちらが勝つことになるのかを知るだろう。それらは他でもなく、様々な事実調査委員会の結論に依存する。しかしどちらが勝者であれ、理由が1つだけであるとしても、戦争の第2ラウンドが出てくるだろう。その理由とは、その戦争が、世界の再植民地化とアメリカの完全な覇権の下の「大中東」創出を目的とした、世界的な終わりのない先制戦争というネオコン戦略の1部である、ということだ。
 そしてこの第2ラウンドに向けて、我々もまた準備する。(「インターナショナル・ビューポイント」電子版9月号)
注)筆者はジャーナリストかつ著述家であり、イスラエルのオルタナティブ情報センター(AIC)創設者。
注1) ハーレッツ紙論説、8月8日付
注2) ハーレッツ紙8月6日付
注3) ハーレッツ紙論説、8月8日付
注4) 同上

アメリカ
選挙と政冶体制の危機

                      「流れに抗して」
 

 民主党は議会の支配を取り戻すのだろうか。ジョゼフ・リーバーマンは党を変えるのだろうか。ヒラリー・クリントンは2008年、民主党の先頭に立つのだろうか。しかし、これらの事柄のどれであれ、果してどれだけの価値があるのだろうか。
 11月の選挙(アメリカ議会中間選挙―訳者)はいつも通り二組の問題群が焦点となるだろう。一組は騒音と怒りのこもった諸問題であり、それらが運動の言説とメディアの憶測の殆どを掻き立てる。他方に重要な諸課題があるが、それらは1つを除いて全般的に無視されるだろう。その1つとは、脇に置くことが単純に不可能となった問題であり、戦争とイラクにおけるアメリカの敗北だ。1方、新たな中東の戦争―レバノンに対するイスラエルの侵略―は、民主党が何であるのかを暴くことになった。即ち、冷笑的かつ思慮を欠いた(特に他の国民の生命に対する)凶暴な戦争の党として。それはあらゆる点で共和党が示すことになるものと何ら変わらない。

泥仕合的論争―歴史的危機を反映

 以下ような話題が、皮相かつ泥仕合的論争の特色となるだろう。即ち、民主党は「テロに対して弱腰」なのかどうか、それとも、共和党はビン・ラーディンを見つけることができないほど、あるいは北朝鮮の核開発を止められないほど「無能」なのかどうか。社会的計画や減税に「無責任に支出する」党はどちらなのか。「国境の安全を保障する」上で最も有能な者は誰か。どちらの政治家が「伝統的価値」を後押しするのか。そして、最悪の腐敗者は誰であり(現職の間では疑いなく、強く意識的な相関関係がある)、その他様々なガラクタのような問題。
 論争されるべき問題で殆どあるいは全く触れられない問題には、以下のものが含まれている。即ち、爆発的危機にある医療サービス問題、そしてイランとの破局的でより大きな戦争という差し迫った予測、アメリカ経済におけるまともな賃金が支払われる職の大量喪失、石油をがぶ飲みする帝国のために我々の支配者達が果てしない戦争を行っていることと歩調を合わせた破局的な気候変動、見せかけの選挙と投票券の剥奪、議会と裁判所の同意を得た大統領令を手段とした民主的諸権利の少しづつの剥奪、などだ。それらは、民衆の実際の生活を形作る問題の殆どだ。
 アメリカにおける主流的な政治が偏り、ひどく分断され、信じられないほどひどいことになっていることに疑いはない。同時に、それは殆ど実質を欠いている。その例外は、妊娠中絶権に関わる全くずたずたに引き裂かれた構造の防衛、のような僅かの問題だけだ。ここに例に挙げた問題に関して、民主党は今なお女性運動の圧力下にある。
 公式的論争のくだらなさの強調には、二重の意味で実質がある。それは、ブッシュ政権に対する公衆的信頼の崩壊であり、さらにそこには、意味のある野党、即ち、極右に向かう政治的流れに対して真剣に立ち向かうことのできる勢力としての民主党のすさまじい衰退が伴っている(既に彼ら自身がその流れに合流したいと思っているほどに)。
 敗北した戦争と犯罪的な陰謀それに世界経済の不確実性によって、共和党の大統領が今と同じほど信用を失った前回の事例は、ウォーターゲイトスキャンダルを頂点とする、1―4年のニクソン政権の危機だった。その時と今の違いは何よりも、現在の水準と比較した時、当時の社会運動―反戦運動、市民権運動、さらに何よりも労働者運動―の相対的な強さにある。現在当時と比べるべきものは、何よりもアメリカ労働者運動の崩壊の始まりである。それは、企業と政府によるアメリカ労働者階級大衆に対する30年にわたる攻撃の後で生じている。
 民主党は今も巨大な選挙機構を保持している。しかしその社会的基盤はひどく分断化されている。言葉通りの組織された労働者は、今も多数は民主党の公衆として留まっている。とはいえその支持は幾分錆びついている。アフリカ系アメリカ人の有権者は圧倒的に民主党だ。これこそ、右翼の有権者騙しや脅迫が主要に彼らを対象とする理由だ。ラティーノに対する共和党の食い込みは、右翼の反移民十字軍が示した文字通りの底意地悪さによって、鈍らされそうな状況にある。しかし民主党基盤の多くは今、郊外の白人居住区の「社会的にはリベラル、財政問題では保守」という部分にある。そして彼らの忠誠心は薄く移り気だ。
 確かに1968年以前、議会における民主党の支配力は依然として、最も腐敗した基礎、人種主義的な南軍支持派の南部に依拠していた。しかしニクソンの失脚時点までにその部分は共和党の列の中に移動しつつあった。そして現在その部分は、共和党にしっかりと根付くに至った。それにもかかわらず戦争におけるニクソンの失策、国内の諸危機、そして経済危機の始まりは、支配力のある全国政党という構造に向けて民主党を進ませつつあるように見えた―1974年の中間選挙と共に訪れ、ジミー・カーター政権の挫折と共に19年の後たちまちに過ぎ去った好機―。それよりも何よりも民主党はアメリカ資本主義に忠実な党として、「リストラクチャリング」に全面的に加わった。これこそ、労働者階級に襲いかかり、党の主要な基盤であった運動に対する破壊を始動させたものだった。

民主党の現在―民衆騙しのあの手この手

 民主党のエリートは現在イラク戦争に関して分裂している―片方に、曲がりなりにも最終的に戦争に反対する機会を手にできたジョン・ケリー(「私はそれに賛成投票する以前は戦争に反対だった。それ以前私は戦争反対の投票を行った」)、その1方で、上院議員のヒラリー・クリントンとジョゼフ・リーバーマンは、この失敗の明らかな帝国主義的冒険に今も関わりつづけ、そのため戦争を憎んでいる党の下部から抗議を受け続けている―リーバーマンの場合は党の予備選挙によって実際に放り出された―。いずれにしろこの党を支持する有権者とは異なり、民主党はイラク戦争を停止させたいとは思っていない。実に冷笑的に彼らは、この戦争をしくじった責任と進行中の大虐殺の責任を、ブッシュ政権が一手に引き受けてくれることを期待している。さらに、レバノンが破壊を受けている最中の議会民主党の口角泡を飛ばす演技が示したことは、イランとシリアに対する戦争を共に支持する点での「信用」を共有したい、との願いだった。
 民主党が戦争に今も反対していないのであれば、彼らが主張しているものは何だろうか。ロビン・トナーが書いたニューヨークタイムス紙の重要な評論は、幾つかの答えを与えている。そこには、党の「リベラル、穏健派双方の理論家達は、民主党が歴史的な好機を前にしている、と確信している。…しかしこれらの理論家達の何人かは、党は政治的諸提案という混合物以上の何かを必要としている、と強調する。彼らが語るには、党は権力に戻り効果のある統治をするための物語、より幅の広い構想を必要としている。それは何人かが、『共通の利益』、手ごろな医療補填の拡張のような大きな目標、さらに全体としての国民のための一時的な犠牲的行為などへの、弁解がましくない訴えと描く何物かだ」とある。
 様々な考えがそこに現れ出ている。タイムス紙が指名するグローバリゼーションの使徒、トーマス・フリードマンは、ガソリンへの課税を1ガロン当たり4ドルにまで引き上げることで、経済刷新に対する資金援助を行い、国民的目的を再興させることを提案する。他の人々は、「新共和国」派が代表した筋骨たくましい冷戦時代のリベラリズムへの回帰を示唆する。そこでは民主党は、強靭な外交軍事政策(しかし多国間主義の)を促進すると共に、国内では社会計画を再興すると想定される。右の側では、第3の道とその思想的従兄弟である「民主党指導部評議会」が、労働者や有色人種大衆のような「特定の利益」のための闘いに代えて、中道主義的な「中間階級」の見方を後押ししている。意見の分布におけるリベラルの翼には「アメリカの前途」派のミッシェル・トマスキーが立っている。彼の観点はロビン・トナーによって概括されている。
 トマスキー氏の主張は以下のようなものだ。つまり、民主党は多様性と諸権利というものを越えたもののために立つべきである。党はニューディール、フロンティア、偉大な社会というその根に立ち帰るべきであり、共通の利益―それは彼の言によれば、国民的社会保障、マーシャルプラン、平和部隊、公民権立法をもたらした哲学である―の党として活動すべきである。そして、ブッシュ氏の下における「強欲な社会ダーウィニズム」と彼が呼ぶものが支配した年月の後になって、「我々は全てここ―ポスト工業化のアメリカ、1体化した世界、自由な民衆が新たな脅威に対して団結すべき特に9・11後の世界―に共にある」という考えに国は準備ができている、と彼は主張するのだ。
 トマスキーの熱気のあるリベラルは、少なくとも2つの基本的な問題を逃げている。第1の問題は、「自由な民衆」が「共に」闘わなければならない「新たな脅威」が意味するものとは何か、という問題だ。それはイランの「脅威」のことか、それとも移民のことか、あるいは外から来る何か別のことか。あるいは、主な脅威とは内側から来るものなのか。即ちそれが指しているものは、ブッシュ政権、右翼、さらに企業のアメリカが開始した、民主主義、市民の諸権利、労働者の諸権利に対する強襲、アメリカ愛国者法や国内諜報や秘密の情報操作といった、殆どの民主党員が何も語ろうとしないものなのか。
 第2の問題は、戦争についてはどうなのか、という問題だ。都合のよいことに、この戦争はブッシュ政権に死に至るまで血を流させるかもしれない。しかしまさにそれ故に、問題が民主党にとって消え去る、ということを意味するわけではない。アメリカの有権者は、民主党がこれらの問題について実際に何を考えているのかを、2006年の時だけではなく2008年にも知りたいと思うだろう、と言うだけでは正しくない。民主党が戦争停止を要求しないだろうという事実は、壊された社会を直すとして彼らが行う約束全ては維持が不可能な嘘である、ということを意味する。現在の、さらに次の戦争に反対しない党は、反戦運動を代表するという―あるいは国を指導するという―主張をできない。自身の帝国主義的な傲慢さや無能力は別として、民主党がブッシュ政権の失脚を当てにして権力を引き継ぎたいと思っている事実だけでも、ブッシュ政権が後に残す混乱を彼らがきれいにできないし、きれいにするつもりもないことを意味するのだ。

二党制の打破に向けて

 ここでの我々の目的はいずれにしろ、基本的に改良を放棄し、思想的な主導性を共和党右翼に譲り渡し、全てを罰せられることなくやり通すことをブッシュ徒党に殆ど可能とした、そのようなまがい物の野党を救助したり、そこに助言したりすることではない。我々に関しては、腐敗した二党システムという流砂からの脱出を追及している。組織された労働者が1920年代以降で最も弱い状態にあるこの時に、我々は、新たな爆発的な移民労働者権利運動が代表する展望を注視している。移民の権利を求めた今春の決起のみごとな自己組織化は、双方の党にとって状況が危険であることを示している。
 希望に満ちた未来を代表するものは、何よりもこのような社会運動だ―そして第2に、それらに組織された政治表現を与えることのできる働きかけ―。この第2のものは潜在的に、緑の党のカリフォルニアやワシントンやその他の州における選挙運動が代表している。我々はこれらの運動が志向している種類の党―世界の支配者としてのアメリカに何の関わりも持たず、企業権力から完全に独立し、エリートや軍事機構の代わりに真の民衆の具体的な要求に忠実な党―を必要としている。
 もはやより小さな悪という考えは問題にならない。問題は、人類の生き残りに必要な政策に関わっている。(「インターナショナル・ビューポイント」電子版9月号)
注)「流れに抗して」は、急進的社会主義者が再結集したグループである「ソリダリティー」の機関誌。
 
 

 
 
 
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