2007年2月10日        労働者の力             第 203号


―格差社会と「労働法制国会」―
労働法制解体攻撃に、労働組合の社会的規制力再建を基礎にした反撃を!

内包された憲法の実質解体攻撃を一体的に葬ろう!
 

坂本 次郎
 

 
 
 労働者の生活上の諸条件と社会的地位を大きく激変させる攻撃が、「労働ビッグバン」などと称されつつ、次々と繰り出されようとしている。今国会は、日本の支配階級からそのようなものの第一段階として位置付けられた。
 この間の闘いはいわゆるホワイトカラーエクゼンプションをめぐって、支配階級に一定の動揺を作り出した。しかし、労働者の今後を左右するこれらの攻撃をどのようにはね返すのか、一喜一憂することのない本格的な闘いの練り上げが求められている。この間の取り組みを踏まえて、この闘いの課題に則していくつか問題を提起してみたい。

現実の重みによる圧力

 今国会に関しメディア上には、「労働法制国会」などの言葉が登場している。前述した今国会の客観的性格を反映しているとも言えるが、そのような言葉が使われるのは、労働組合運動の現場に長年携わってきた者にとっては、少なくともここ2〜30年の中では、初めてと言ってもいい状況だ。「ホワイトカラーエクゼンプション」という耳慣れない用語も含め、この間確かに労働問題の記事は、週刊誌等の雑誌に加え夕刊紙やスポーツ紙まで巻き込んで、今までよりも数多く、また大きく取り上げられている。そしてこの報道状況もあいまって、そこでの1つの柱であった労働時間規制骨抜き策―日本型ホワイトカラーエクゼンプション―は、国会開会前に一事棚上げの動きが強まった。
 この状況は何なのか、今後の闘いを考える前提として先ずこの点を簡単に確認しておきたい。
 先ず何よりも格差社会の明らかな進行がある。経済の長期的な好調、企業収益の抜本的な改善の持続が喧伝される一方で、労働者の賃金だけは何年も下落している。例えば「全国一般なんぶ2007春闘方針」案では、財務省統計を基に1年と5年の対比で、株主配当が2・8倍、役員報酬が1・9倍であるのに対し、人件費は5・8%減少、と紹介されている。また「しんぶん赤旗」は同じ統計を基に、この10年間で資本金10億円以上の大企業役員報酬が約2倍であるのに対し労働者の平均賃金は9%以上低落、従って両者の格差は3・7から8・0へと拡大、と報道(1月27日付)。そしてこの賃金下落に加えて、税金、社会保険などのさまざまな諸経費増大が労働者にのしかかっている。一方で若者、女性を中心とした非正規雇用の一本調子の増大があることは言わずもがなだ。この非正規雇用問題は、正規雇用労働者の、また退職した元正規雇用労働者の家族の問題であり、ここにおける劣悪な処遇が引き起こす問題の深刻さは労働者全般に及んでいる。
 このはっきりした格差社会という現実の中では、切り捨てられる層に目を向けなければならない、という風潮が全体的に出ざるを得ない。例えば公明党の支持層はそんなに富裕な層ではない。その中の悲鳴というようなものが与党をも揺さぶる。
 そのような状況が進行する中で、労働規制の全面解体の動きは目立たない形で進められていた。例えば前述した労働時間規制除外法案に対して、「残業代ゼロ法案」などという見出しは最初はどこも付けていない。推進側が当初打ち出した「日本型ホワイトカラーエクゼンプション」などという言葉はそもそも、全く馴染みのないものだった。そういうわけの分からない形で、1昨年頃から厚労省設置の労働契約法研究会の報告が、そして昨年1月に労働時間研究会の報告が出され、それを厚労省労働政策審議会に一挙に議論させ、法改悪につなげてくる。このような動きに対して労働者運動の側は、特に直接関わる非正規の運動や中小の運動を中心に、厚労省前でいろいろ騒いできたが大きな盛り上がりとはならず、マスメディアも取り上げないという状況が続いていた。
 この状況を変える一つの契機は、昨年の12・5集会(本紙201号参照)の準備にも中心的に関わった、過労死問題を追及してきた運動だった。過労死遺族は弁護団を含めて直接厚労省に乗り込んで、こんなことをまた繰り返すのかと訴え、厚労省の中で記者会見を開いた。また連合の木会長に面会を申し入れ、当初は10分ぐらいということだったが結局1時間ぐらいの訴えを行うことができた。この中で木会長は、時間外切捨ては許さないという日本経済新聞に対する1面意見広告を示して、時間外切り捨ては絶対に阻止、という姿勢を改めて明確にした。この動きは、今の法律下でさえ過労死を生んでいるという実態を赤裸々に突き出し、時間規制を撤廃することの意味を、それを野放しにするのか、合法化するのかとして、説明など必要としない迫力を持って明らかにした。最近、労政審経営側委員である奥谷礼子なる人物は、過労死は自己管理の問題、などという許し難い発言を行っているが、そこには人々の怒りと軽蔑を呼ぶ以外の何物もない。
 この重い訴えにさまざまな訴えの流れが重なって、象徴的に「残業代ゼロ法案」などと報道され、これを無視したらどうなるのかと与党が動揺するような、現在の動きが生まれてきた。そこには、前述したような社会的階層分化、格差社会の進行がもはや無視を許さないものとなっていること、安倍政権ですら「再チャレンジ」など言わざるを得ないものとなっていることが、厳然と背景にある。その意味で現状は、労働法制の問題を訴えてきた運動がようやく現実と切り結び始めた段階と言える。

社会的分裂に身構える御手洗ビジョン

 しかし今後の展開には楽観を許さないものがあることも確認しておかなければならない。
 例えば今回公表された日本経団連の御手洗ビジョン、「希望の国」(1月1日発表)は、そのことを明瞭に示している。そこでの主張は、企業の利益があってこそ、企業の競争力があってこそ経済も持続でき賃金も雇用の保障も維持可能、競争の結果の格差は当然、企業利益のための法人税10%切り下げ、不足する国庫財源の消費税での穴埋め、というもの。そして「労働ビッグバン」の提唱がある。そのはなはだしいものは、御手洗を経営トップに戴くキャノン自身が手を染めている偽装請負、違法派遣を、現実に合わせる形の法改訂で合法化せよ、という主張。このような労働ビッグバンの考え方は、突き詰めれば、法制の中での労働者保護という観点はもう必要ない、というものだ。
 そこに基本として流れているものは、新自由主義的グローバリゼーションの全面的貫徹であり、国民経済的観点の放棄と言える。彼らは競争の結果の社会的分裂は必然と折り込んでいる。その意味で、御手洗の代で日本経団連の性格が基本的に変化を遂げた、と私は考える。
 従って先のビジョンのもう1つの側面は、愛国心であり、教育改革であり、憲法改悪だ。ビジョンの中では、民間企業の中で日の丸を掲げ、君が代を歌え、とまで言っている。社会の分裂をあらかじめ折り込んで、そこでの民衆統合を共謀罪などを典型とする治安対策と愛国心に依存する。その点でもアメリカのネオコンと重なる発想が窺える。労働法制の問題の背後にあるこの側面は、十分な警戒の必要な問題として、また労働法制をめぐる闘いに統合されるべきものとして、後で改めて触れたい。

最賃法とパート労働法に対
する讃美報道は嘘八百


 さて今「労働法制国会」には、労働時間法(労働基準法)、最低賃金法、パート労働法の改訂案と、労働契約法案の提出が予定されている。先に触れたように偽装請負、違法派遣問題については、派遣法改悪での合法化が狙われていた。派遣期間の延長、契約終了後の雇い入れ通知義務の撤廃がそれで、これが実現すれば、偽装請負が対象としていた労働は全て派遣で置き換えることが可能となる。即ち現状が丸々合法化される、というあくどい方策だ。しかしこれは来年に延ばされ、ともかくまず先の4法案をまとめて片付けよう、というのが今国会だ。
 この中で時間法の内の残業代ゼロ案部分については、見てきたようにかなりストップが掛かり始めている。そこには、長時間労働、未払い残業が次々と摘発されている、という現状において、先の案はその現状をさらに悪化させるだろうという払拭しがたい予感も作用している。
 しかし推進側があきらめているわけではない。それ故彼らは1月25日の労政審労働条件分科会に先の案を含む法案要綱を諮問している。そしておそらく公益委員は、労働側委員の反対はあったが概ね妥当、との答申を2月2日に出すだろう。「残業代ゼロ法案」反対の大合唱にも公益委員はさして動揺してない。「自律的労働」などという机上の美名を根拠に率先推進してきた彼らの意識は、理解が足りない、名前が悪い、という程度なのだ。
 現状は、準備はできた、後の政治判断は政府と与党に預ける、という段階にある。とはいえこの段階では、「残業代ゼロ法案」はやはりあきらめざるを得ない、という流れはかなり濃厚だ。特に公明党は、大田委員長が1月1日の年頭街頭演説で公にその断念を語っている。厚労省と御手洗、日本経団連はまだ断固推進と主張し続けているが、今政治にそれを後押しする動きは弱い。
 一方、パート労働法と最賃法の方は、時間法を叩いた埋め合わせのように、新聞が懸命に持ち上げている。ところが実際はこの2法も大問題法案なのだ。
 先ず最賃法を見ると、産別最賃の罰則撤廃がある。産別最賃は地域最賃よりも概ね10円高い。だから従来から財界は産別最賃を眼の敵にし、その廃止を要求してきた。今回の罰則撤廃提案は、産別最賃の無意味化であり、事実上の財界要求丸呑みだ。
 その埋め合わせとして、地域最賃に関し、いわゆる生活保護との整合性、及び違反罰金の引き上げがうたわれている。それ自身はプラス面と言えば言えるが、水準の真に意味のある引き上げにつながるかどうかは全く保障の限りではない。例えば罰則は、今までの罰金上限2万円という水準が殆ど意味がなかったのであり、それが25倍になったとしても実効性には依然として疑問が残る。全国平均で時給673円(6年度、平均賃金の約30%、先進工業諸国内の最低水準、例えばフランスは約50%)という地域最賃のあまりに低い現行水準がそもそもの問題なのだ。その水準算出の根拠とされてきた社会のさまざまな要素は今も変わることなくそのまま残っている。そうであれば地域最賃の抜本的引き上げが、「生活保護との整合性」という1項追加だけで実現するとは到底想定できない。しかもこの項目は、低い地域最賃に合わせた生活保護水準の切り下げという展開をも内包しているのであり、手放しで評価できるものではない。
 いずれにしろ今回の最賃法で確定されようとしているものは約100円水準が高い産別最賃の無意味化、即ち賃金切り下げであり、今回の改訂法案を最賃引き上げ法案などと称することは、全くの嘘八百なのだ。
 次にパート労働法だが、建前としてはパート労働者の「均衡」(均等ではない)待遇を図るとされ、安倍はパート労働者の再チャレンジ支援などと打ち出した。しかしこれも「常用パート」が対象。つまり、あくまでも対象となるのは、期間の定めのない雇用で、正社員と同じ働き方、どこにでも異動できる、配転に応じることのできる「パート」労働者。パート労働者の中にこのような特殊な分類を持ち込みながら、しかし厚労省は、その数の試算すらできていない。1応3%とか4%とかの話があるだけだ。
 結局今回の法案は、1200万人と言われるパート労働者の内僅か40万人いるかどうかという労働者だけを対象として、そうではない圧倒的多数のパート労働者の不当に劣悪な処遇はそのままで構わない、という提案だ。丸子警報器訴訟で問題となった労働者も「フルタイムパート」だったが、少なくともそこでは別に配転などあり得なかった。しかしこの訴訟では、地裁で正規の8割という賃金保障判決があり、高裁の和解で9割の保障をさせている。この現実の闘いの成果と比較すれば、今回の提案は数段の後退、と言うしかない。
 だから、均等法ネットなど、この間懸命に運動してきた人達は今回の提案を、むしろパートの分断だと、そしてその他多数のパート処遇の現状固定化・分断法案だ、と厳しく批判し反対している。

4法案まとめてはねかえせ

 最後に契約法に関しては、1つの問題点であった解雇の金銭解決方式は今回は外された。しかし第1の問題点は就業規則問題。経営者が一方的に制定できる就業規則を労働契約として読み替える、という就業規則の判例法理をそのまま法律化するという。その際、原則としては就業規則による不利益変更はできない、という1項は入れるとされている。だがその後に、「しかし」で続く文言が入る。そうなると実際はその部分が全部活用される。そのような形でこの間、「原則」は殆ど棚上げされているのが現状だ。その状況をいわば下敷きに労働契約法の骨格は、就業規則が周知されていて「合理的」であるか、さらに労使交渉の経過、それらいくつかの要素に照らして合理的であればそれが労働契約になる、というものだ。
 一方で、有期の入り口規制という契約法に関し当事者の運動が求めてきた要求は、今回の提案では全く触れられていない。あまりに細切れになる雇用の反復契約は、あまり細切れにならないよう「努めなければならない」、と書いてあるだけなのだ。つまり今回の契約法では有期規制はゼロ、と言ってよい。
 さらに、労働者の範囲が基準法よりもさらに狭められている、という問題もある。私達から見て契約法も非常な悪法だ。この間、二十数年かけて作った労働協約を全て破棄して就業規則も変えた上で新しい協約を提唱、という事例がまた出始めている。今回の契約法の考え方が先取りされているのだ。就業規則が労働条件変更の武器になる、というような契約法のやり方を許すわけには行かない。
 今国会に提出される4法案はあまりに問題がありすぎる。その中の1つが例え一時時期遅れになるとしても、問題のひどさに変わりはない。
 加えて「残業代ゼロ法案」にしても、選挙にマイナスになるというだけの先延ばしに過ぎない。この方策は元々、「規制改革民間開放推進会議」の要望に18年(平成)に実施する事項と書き込まれ閣議決定されたものだ。そして日本経団連は、年収要件400万での導入を主張し続けている。あまりに評判が悪いということで、今度は「自己管理型労働制」などという名前にまたまた変えられ、自律的に働く者の労働時間制、などと強調され出した。しかし日本経団連が狙っているものは一貫して、年収400万を越えるホワイトカラーに時間外ゼロの、時間管理しなくていい、即ち過労死に対しても経営者が責任を問われることのない労働者を作る、ということだ。これを彼らは今後もあきらめない。
 その意味でこの4つを1つのものとして、さらに派遣法の問題などもひっくるめて、向こう側の動きを本気になってはね返す闘いは、手を緩めるわけにいかない闘いだ。

労働組合の実体的規制力が第1の基礎

 上に見てきた支配側の動きをはね返す上で改めて確認すべき中心的眼目は、労働組合を労働の実体的規制力として組織する重要性だ。例えば8時間労働制を守れという運動を労働の現場で集団的力を持って展開し、それをそこで強制できるのは労働組合しかない。この力を高めることなしには、上の動きを本当に葬り去ることはできない。
 今度の労働ビッグバンの提言は、「経済財政諮問会議」の中の、御手洗と八代を含む4人の民間委員の提言だ。色々書かれているが、その推進の道筋は、同会議の中に専門調査会を置き、そこで調査研究させた上でそれを報告させ同会議で決定、さらに閣議決定させ上から落とす、というものだ。つまり労政審のバイパスだ。
 労政審は厚労省の設置法に基づいて設置されている。厚労省は委員から意見を聞く必要があり、法案策定の前に審議会に諮問しそこの検討を経なければならない。そして審議会には当然労働組合側委員がいる。
 労働ビッグバンの考え方、やり方はこの筋道を否定する。そこにおいては、労働組合の力の弱まりが、例えばその1つの象徴として20%に満たない組織率ということが、平然と根拠に使われている。労働組合は力がない、もはや労働者の代表でもない、という言い方がそこでは何の躊躇もなくなされている。労政審の合意という形で、そのような、まして連合という1部の労働組合が推薦する委員の意見を法案作成に反映させる必要はない、との主張が平然と行われている。労働者委員が誰1人いない彼らの専門調査会がそれでは何故労働者を代弁できるのか、という批判はすぐできるが、いずれにしろそれが労働ビッグバン推進の姿だ。
 そして、例え今回「残業代ゼロ法案」が延期されたにしても、それで過労死が、未払い残業が、サービス残業がなくなるわけではない。問題は、8時間労働制の規制や、残業の規制、残業割増率引き上げ、年休の完全取得、年間総労働時間短縮などを職場、労働の現場でどれだけやれるか、というところに返ってくる。労働組合の規制力を通じて労働のあり方を規制できること、そしてその実態を社会的に全般化するものとして法律化がある、という原点にもう1度立ち戻る必要がある。
 例えば労働時間規制も考え方として、業務の量などとは関係なく、例えば就業と就業の間の休息と生活のための十分な時間確保というEU指令のように、労働者個々の生活時間をきっちり普遍的に社会的に保障させるものとして、普遍的権利要求として労働現場に強制する運動と力が必要だ。
 ところが日本の現実では、全労働者の年間総労働時間が平均で1800時間に近づいたという単なる統計数字を理由に、時限立法だった時短促進法が延長されなかった。ところがその統計数字は、パートが増えている、非正規雇用の短時間労働者が増えている故に過ぎない。現実には正社員の労働者の労働時間は未だに2000時間を超え、サービス残業も増えたままだ。つまり時短は実質的に全く実現されていない。
 その意味で、労働組合が社会的普遍的要求を労働現場に実体化する最大のそして直接的な規制力だ、という原点を改めて確認したい。その力の源泉をどう強化するか、その点を含めて労働組合は本当に組織化に取り組まなければならない。未組織の、非正規の仲間の問題解決に、個として、個別労働相談と個別労使紛争で奮闘する段階を何としても越えなければならない。そこにおいてこそ、社会的要求を本物の背骨とする労働組合運動の展開が要求される。さまざまな工夫への挑戦は必要だとしてもおそらく、過酷な社会状況の中で個別化され苦しめられ、個人的脱出にしか希望はないと思い込まされている若者達に届く道は、そこにしかない。企業別に企業毎の状況に合わせて行動する労働組合には、ある意味で現実的な若者達は、現状打開の現実性を見出すことはないだろう。
 この1年労働法制の問題を追いかけてさまざまな活動に取り組んできた結論として、私は上述した必要性を痛切に実感している。

市民的権利解体の論理への反撃―もう1つの反改憲闘争

 そしてもう1つ、労働ビッグバンが憲法を空洞化する論理を隠している、という問題を強調したい。
 既に触れたが、今回の動きの中心にいるいわゆる新自由主義グループ、競争至上主義者の観点には、ありとあらゆる労働者保護は目障り、いらない、という考え方が基本にある。だから例えば前述した、現状の違法状態を単に合法化するような派遣法改悪提唱に何の後ろめたさもない。
 派遣法は職安法の中間搾取の禁止、いわゆる人入れ稼業、ピンハネの禁止を下敷きにしている。そしてその基礎には、憲法18条にうたわれた強制労働の禁止がある。そうであるが故に派遣法は本来、特別な条件を要件として職安法の規制を免れる、という関係にある。ところが派遣は今や製造業に至るまで、全業種を網羅し全般化してしまっている。つまり現実には、職安法もそして一体的に憲法18条も骨抜きにされているのだ。
 今回問題になったホワイトカラーエクゼンプションについて言えば、事実上は労働基準法の骨抜きだが、その基準法の基礎は、憲法27条―勤労条件の基準は法律でこれを定める―にある。つまり、基準法を免れる労働者がどんどん出てくるということは、憲法27条の骨抜きを意味するのだ。
 さらに、憲法28条を骨抜きにする団結権問題がある。去年の12月にこれも「規制改革民間開放推進会議」で、少数派労働組合の団交権を剥奪せよ、との主張が出てきた。
 憲法28条の団結権、団交権、争議権の保障を国家公務員は外されている。最初の労組法の後、いわゆる戦後最大の改悪と言われる公務員のスト権剥奪だが、公共の秩序の維持を要件として、それを憲法上の解釈として、GHQの指令で強行された。
 ところが小島とかいう同会議の学者は、10%以下の組織率の労働組合には団交権を与えない、という案はどうだろうか、などと言い出した。そこに憲法上の権利を剥奪する何の根拠があるのか、何の根拠もない。単なる勝手な数字の語路合せだけだ。さすがに厚労省の中からも、それは憲法違反、との声が出て、一応その話は引っ込んだことになっている。ただ少数組合の団交権否認という要求は、昔の関経協の労組法改悪提言の時代から基本的に底流にある。従って、前述のような議論は1度消えても何度でも浮上する。
 要するに、労働法制にかけられた攻撃は、憲法の基礎を構成する近代市民法における特例法としての特に労働者に対する保護、という観点全体の破壊に他ならない。対等性が保障されていない労使関係、という厳然たる社会の現実においては法的な保護を必要とするという考え方を、彼ら新自由主義者は基本的に、原理的に破壊しようとしている。いわゆる近代市民社会の生々しい現実の中で苦闘を通して積み重ねられてきた歴史的成果が、そしてそれを表現している憲法のいくつかの条項とその上に作られている各労働分野の法理が、全部壊されようとしていると言っていい。
 その意味で、この労働法制攻撃との闘いは、憲法9条を変えさせない闘いと並ぶ憲法改悪反対の闘いとして、極めて重要な実質を持っている。この観点を、1方で改憲が焦点化されようとしている現実と切り結ぶ形でしっかり位置付け、そして現実にそのように闘う必要があると私は考えている。
 労働組合が果たす役割は今改めて深刻に問われている。労働組合は、新自由主義者が引き寄せる破局をはね返す闘いの基軸に立つことを、少なくともその不可欠の構成要素でなければならないことを要求されている。世界の広範な民衆の闘いは現にその必要性を余すところなく示している。(1月27日)
故新美隆先生の想いで
        いつも人々を思い続けて

               
電通労組 高橋 喜一

仙台駅の階段を新美先生が降りてくる。「寒いとこご苦労さまです」「おう!みんな元気か?」・・・毎年1月恒例の電通労組弁護団会議。いつもの笑顔が私たちを包んでくれた。
電通労組を結成してから顧問弁護団との討論と慰労をかね30数年間続けてきたこの会議。近況報告を交えながら旨い地酒を飲みその時々の情勢の話や運動の話、組合が抱えている問題など、ざっくばらんな「交流会」。忙しい中、年に1度しか来れない新美先生は、必ずと言ってよいほど会議に参加できない組合員について「あいつは、元気なのか?」と心遣いした。それは、それぞれの組合員と織り成した記憶のなかで、いつも気にかけていたと言うことでしょう。
東北の温泉に浸かりながら、しばらくぶりで会う先生方との語らいの中で電通労組は、少しずつ少しずつ成長してきたのかもしれない。コップ酒を飲み、囲碁に興じたりしながら夜の更けるまで様々な思いを語り合った。
 この会議に途中から「反日の会」の故荒井幹夫さんも参加するようになった。穏やかな笑顔を絶やさない本当に素敵な人でした。新美さんが荒井さんに「娘さんの事」、その時の心境を尋ねたとき「娘たちが日本とアジアの事をこんなにも深く考えていた事・・・」などを話され、夫婦が反日の会の運動に携わっている今を語ったとき、深くうなずきながら花岡事件の話や、日本が問われている戦争責任の問題など話しは続いた。

NTTリストラと新美先生の怒り!

そして、2001年からNTT11万人リストラ攻撃。電通労組も真正面からこの闘いを展開した。「退職・再雇用」という名の中高年労働者切捨て!否応なしに電通労組組合員もその真っ只中に置かれた。弁護団会議は今後の闘いの方向について討論が続いた。「NTT構造改革」についてその中身についてひとしきり説明を終えたとき「この構造改革リファインのリファインの意味は精錬すると言うことだ」。新美先生の顔に怒りの表情が浮かび参加組合員の目をじっと見ながら「このような言葉を平然と使うとは!!」。その意味の成すところを私たちも悔しさと怒りの中で受け止めた。「純化・・不純物を取り除く」・・・労働者は人間として尊重しないという企業の本音が「リファイン」の中に込められている。更に新美先生は「会社分割法制定の時に何故付帯決議として労働契約承継法がつくられたのか!NTTがやらんとしている事は労働者保護の原則を壊す事なんだ」、EU指令の話しやILO156条・165条・育児介護休業法など世界的趨勢や国内法に照らしてNTTリストラの違法・不当性の存在を浮き彫りにしながら「この裁判は、東亜ペイント判決を凌駕する判決を目指す」と労働法制改悪を予見しつつ、事の重要を語った。新美先生は日本の労働者が置かれている現状がいかにひどいものであるのかを世界的流れから説き起こした。新美先生を団長とする弁護団が創られた。何度も何度も打ち合わせを持ち、忙しいさなか弁護団の先生方には本当に迷惑をかけてきた。
この裁判も2月14日に結審となる。今、電通労組・原告団は、勝利判決の報告を裁判の中途でお亡くなりになった新美先生の墓前で報告したいと強く思っている。「おおー!良かった、良かった。」とあの笑顔で迎えてくれるでしょう。

原告団会議に携わった故加藤ちゃん、故荒井さん、故新美先生・・・みんな素敵な笑顔の人だった。今頃、地酒を酌み交わし大好きだった蕎麦をほおばりながら私達、否、アジアの人々、世界の人々の明日をあれやこれや語り合いながら宴会を開いているのかも知れない。 合掌
 
   
ヴェネズエラ

選挙の後:ヴェネズエラ革命のための新たな党

            
スチュアート・ピペール

   ウーゴ・チャベズはすでに、彼の意図を明確にしてきた。12月3日夜が明らかにした大統領選での彼の大きな勝利に応じて、彼はミラフロ宮殿のバルコニーから支持者たちに加わったのだ。どしゃ降りの中で、彼は支持者たちと共に国歌を歌い、そして「社会主義よいつまでも!」と叫んだ。彼は述べた。「今の仕事はヴェネズエラでの社会主義革命を深化させることだ。誰も社会主義を怖れてはならない。社会主義は人道に適ったもの、社会主義は愛、ヴェネズエラは赤であり、赤はまったく正しい」、と。

新党への呼びかけ

 2週間後、彼はこうした方向での大きな最初のステップをはっきりと説明した、団結した政党で、これまで支援してきた政党機構の機能不全に置換える、と。そして彼は言った。ヴェネズエラ社会主義党あるいはPSUV、と。
 彼は、草の根運動母体から代議士たちに話しかけた。草の根運動母体は国中の至るところで彼の選挙運動を組織したもので、彼の計算によれば、11,000の“大隊”、32,800の“小隊”そして385万の戦闘部隊である。
 彼は人々に語った。自らを解体してはならない。代りに再び集合し、メンバーたちの名簿を整え、ヴェネズエラの社会主義革命の統一党の基盤とならなければならない、と。
 これは巨大な重みのある動きである。原則として、それは、ヴェネズエラの国内外が支援すべき一体の革命家たちなのだ。最も多くの最善のボリバリアン活動家たちにとっては、長い間、彼らの運動のど真ん中に大穴があることを明瞭に気づいてきた。チャベズ自身の首尾一貫した意気を上げるリーダーシップと地方での爆発する活動、そしてヴェネズエラ人民大衆の間にある自ら組織した機構との間には、有効な国家的組織の欠如という危うさが在るのだ。
 強く、よく組織された社会運動というものの欠如は、UNTあるいはフレンティ・カンペシーノ・エゼクイエル・ザモラのような貧農組織によって、唯一、改善されはじめてきているのである。(ヴェネズエラは、ブラジルの土地を持たない人々の運動や、エクアドルの先住民たちの運動、あるいはボリビアのような社会的・労働組合的運動に匹敵するようないかなる物も持っては来ていなかったのだ。)
 他方、過程を支えたいわゆる諸政党―最大に重くはチャベズのMVRだが、しかしまた、最大部分のためにPPT、ポデモス、ヴェネズエラ共産党およびいくつかのより小さな諸組織―は、民主主義的で集合した政治討論組織、決定し行動するものとして行動することにまったく失敗した。その代りに、彼らは官僚的(ときには堕落した)機構として大きく機能したのだ。選挙事務所、役職、そしてなれ合いを組織したのだ(前チャベズのヴェネズエラ第4共和国の伝統的諸政党のようなものが最もそうだ。)
 革命家たちにとっては、真に効率的で、複数主義と民主主義の大衆的政治組織は、それゆえに痛切に必要なのだ。幾人ものチャベズの身近な助言者たちは、このことを最近の2年間語り続けてきた。より小さなヴェネズエラ革命的社会主義者たちによるいくつかの試みがなされてきた。彼ら自身の力を統合し、大衆的革命党への道を切開くために。200年7月のPRSの発足、それはモレノ・トラディションからの大部分のトロツキストの流れを含んでいたが、それが1つである。フレンテ・デ・フエルザス・ソシャリスタスはユートピアと社会主義連合を含んでいるが、もう1つのものである。しかし、チャベズ自身の直接の後押しなしに、これらは少数的イニシアティブに留まる運命にあった。
 チャベズ自身の、このイニシアティブ発揮に関するコメントは、また勇気づけられるものだ。彼は主張する、それはヴェネズエラが見てきた最も民主的政党であり、底辺から作られ、ヴェネズエラ左翼の全ての潮流を参加するよう招く、と。さらに彼は主張する、それは選挙的関心や、現存する政党の、現存する指導者たちによって支配されてはならない、と。そしてロシアにおけるボルシェビキ党がたどった道への彼の批判―それは、社会主義に向う様々な考えの論争を促進するよりもむしろそれを絞殺した―。彼は、いかにして「全権力をソヴィエトへ」というすばらしいスローガンが、「全権力を党へ」という悲しむべき現実へと落し込められたかを思い出させた。すべてのこれらの点は、必要な大衆的、民主的、革命的、政治的組織の本質に正確に向うものだ。

足下に潜む危険

 しかし、大きな危険がまたある。ボリヴァリアン革命において最初ではないが、厳粛で不可欠な質問がなされている。つまり、この新たな政党は、いったいどこまでもろもろの期待を現実化できるのか、と。これらの質問は2種類である。第1には、仮に最も多くの現存する政党が直ちに解散して中に入るとすれば―すでにその過程にあるように見えるが―誰が正確にこの党にいるのだろうか?そしてそれは実際に、官僚主義、家父長主義、堕落そのものの組織と文化と絶縁することが本当に可能なのだろうか?こうした堕落的ものは、あまりにもしばしば、革命の最も急進的なイニシアティブ(たとえば、労働者の徹底した地方的な参加民主主義を含む)を解体するために行動したのだ。
 チャベズの基本方針演説の前においてさえも、スターリン・ペレズのようなPRSとUNTのリーダーたちは、新政党が覚悟すべき道についての彼らの関心を鮮明にしていた。彼は、幾人かの「節度のある」チャベズ政府要人やMVR高官たちの「すべてはすでに決定された」という趣旨のコメント、および閉ざされたドアの陰での、新政党をいかに分ち合うか、ということに関する主要な政治機構の間での談判を指摘した。スターリン・ペレズは言った。労働組合および他の社会運動活動家たち、政治的風潮、知識人たちは、民主的討論の統合フォーラムを求めることになり、そこではじめて革命の深化を支持するすべての草の根部隊が、いかなる種類の政党を作ろうとするのか、そしてどのようにして、を現実に討論できることになる、と。
 第2の質問は最初のものと重なるが、ボリバリアン過程の心臓部の矛盾を指摘する。チャベズ自身の新政党に対するビジョンは、最も良い状態のものであり、最も急進的で民主的な鋳型の可能性を持っている。しかし、その方向に動くという決定は彼によって、明らかに彼1人によって、宣言されたのだ。これは今、MVRや他の政党の指導者たちによって据えられている不活発、行き詰りを突破する唯1の方法なのかもしれない。しかしそれは、それが促進を目的とする根源的
民主主義という型をまさに危険にさらさないだろうか。
 実際、ヴェネズエラの著名な左翼知識人であるエドガルド・ランデール―2006年のカラカス世界社会フォーラムを組織した1人―は、以下のように語った。「この限界のある公の論争に関してかくも極端にまで採用された形式は、特に、『21世紀の社会主義』に関する論争に際して採用される形式をこれが先取している、と我が考える場合は、極度に気に懸るものだ。。…このような形で布告によって誕生が公表されるような党にとっては、多元主義と民主主義という分野において、どのような未来が期待されるのだろうか。もしも基本的な選択のあるものが、議論が始る以前に既になされた決定として公表されるとすれば、この国の未来に関し、民主的で多元的、かつ論争を呼ぶ議論は可能だろうか」と。
*筆者は、ヴェネズエラと他のラテンアメリカ地域を担当するIV通信員。(「インターナショナル・ビューポイント」7年1月号)

 【速報】
第7回世界社会フォーラムINナイロビ


ナイロビ以降の世界社会フォーラムの将来
CADTM(第3世界債務取消し委員会)
 
 第7回WSFは1月25日、ケニヤの首都で終了した。それは国際委員会(IC)の2日間の会合に継続された。国際委員会はすべての国々からの約100の組織を含む決定構成の集合である(注1)。フォーラムの評価に関するはじめの否定的評価ののちに、ICは2008年1月の終りに向け、国際行動日を発足させる決定を確認した。
 この行動の形と期間は、多分、ダボスでの世界経済フォーラム開催と同じ1月26日あたりで、諸国や地域次第で変化は可能である。国際的スケールで遂行される数々の行動は、狙いをネオリベラリズムとの闘いとするし、WSFの原則的憲章で鼓舞されている。
 国際委員会(IC)の次の会合は、ロストック(ドイツ)で、例年のG8会合とそれと同時になされる抗議行動の直後に開催されることになっている。想定日時は2007年6月9日、10日。ICはまた2009年の第8回WSFをどこで開催するかについての更なる討議の議題を持つとしている。
 いくつかの提案がすでにある。ブラジル、たとえば、サルバドーデ、バイアあるいはクルチイバなど、ブラジルに戻ること。またはアメリカ国境に近いメキシコの都市。巨大な数のメキシコ人たち、北アメリカと中央アメリカ人を結集するために。他の提案も確実に現われる。例えばボリビア、ここでは現地の人々が公共の水、ガスのような素材、そして他の自然の資源のコントロールのために闘っている。あるいはタイや韓国。それは東アジアでの過程を定着させるかも知れない。アフリカでの別のWSFが提案される可能性もある。
 実際、アフリカ大陸を覆っている厳しい現実がもたらしている明らかな物質的理由のために、第7回WSFは、ポルト・アレグレの2003年、2005年あるいは2004年のムンバイにおける多数の参加者たちほどを集めることはできなかった。ICの多くのメンバーたちは、アフリカにおける更なる強化された闘争の必要性に同意している。彼らはアフリカ人の列席の増大を望んでいる。そのことが、唯1、WSFの過程をより豊かにし、さらにより意味深いものとできるのである。
 また、将来の世界社会フォーラムの組織のために、導きの政策を明らかにすることも決められた。例えば、商業主義の罠を避けるということ。さらに将来においてWSFは、もう1つの可能な世界という目標と、なお一層一体となるべきだろう。
このことは、資本主義者と家父長主義システムの結果から最も犠牲を受けている人々の増大する参加を必要とするのだ。
 他方では、違った世界に関する討論は、人々の方向を変える社会的政治的諸闘争への援助として促進されなければならないのである。
 CADTMはアフリカにおける第7回WSF成功を喜び、そして近い将来、われわれはアフリカに戻るべきである、と確信している。
*CADTMウェブサイトより
注1)CADTMは2001年6月のサンパウロでの結成以来、国際評議会の1部である。国際的CADTMのネットワークは(12?)のアフリカ諸国(アンゴラ、ベニン、コンゴDR、コンゴ・ブラザビル、コートジボアール、マリ、モロッコ、ニジェール、セネガル、トーゴ、チュニジア、そしてまもなくマダガスカル)、カリブ海地域とラテンアメリカ(コロンビア、エクアドル、ハイチ、ヴェネズエラ)、南アジア(インド、パキスタン)、中東(シリア)、そしてヨーロッパ(ベルギー、フランス、スイス)、に存在。(「インターナショナル・ビューポイント」電子版7年1月号)
アフリカの諸闘争、世界の諸闘争

ナイロビ社会運動集会

―2000人を越える活動家たちが、ナイロビでの社会運動集会で、以下の声明を大々的、精力的に支持した―

 われわれ―アフリカを貫き、そして世界を貫く―は、ここに2007年世界社会フォーラム(WSF)に共に集り、アフリカとその社会運動に明るい光を当て、アフリカとその外国人支配、植民地主義、新植民地主義に抗する破壊されることのない闘いの歴史、人類に対する諸々の貢献、別の世界を求めるアフリカとその行動の役割を祝福した。
 われわれはここで、WSFの精神を祝し、再確認する。つまり、闘争と連帯の場であり、すべての人々と社会運動に、支払能力を勘定に入れずに公開されたスペースである。われわれは、WSFのスペースに現れた、商業主義と私営化主義および軍事主義に向う諸傾向について非難した。何百人もの、ナイロビでわれわれを歓迎してくれた男と女の兄弟たちは、参加費の高さのために閉出されてきていたのだ。
 われわれはまた、WSFの中心的憲章に反する形で女性たちの権利と周辺に追いやられた人々に反対し、そして性的権利と多様性に反対して行動する諸組織の参加に、深刻な懸念をいだいている。

 社会運動の集りは、ケニヤや他のアフリカの人たちのための舞台を作った。すなわち、異なった背景、共同体性から、現在の彼らの闘争、選択、文化、適性そして技能に至るまでの。それはまた、かれらを引きつける論点や諸問題に互いに影響し合い、分ち合うために、礼儀正しき市民組織や社会運動のためのスペースであった。
 2001年の最初の集り以降、われわれは、市民運動や社会運動の多くの成果を生んだ国際的ネットワークの建設、強化に貢献してきたし、すべての圧力的、支配主義的なすべての形に対抗する連帯と運動の精神を補強してきた。
 われわれは、ネオリベラリズム、資本主義の世界ヘゲモニー、および帝国のいくつもの戦争に抗する様々な運動や民衆の主導性が世界の抵抗の現れであると認識する。
 われわれは今、代りとなるものの効率的な局面へ向けて動かなければならない。すでに地域的な主導力はすでに多く存在しているし、発展させられるべきなのである。すなわち、ラテンアメリカや世界の他の部分で起っていること―社会運動の共同行動に依拠した―は、世界資本主義支配への実質のある代替方向を作り出す道を示しているのである。ナイロビにおいての5つの大陸からのすべての社会運動として、われわれはラテンアメリカでの社会運動との連帯を表明する。この地においての粘り強い持続的な闘争はいくつかの国々での左翼の選挙での勝利を導いてきているのだ。

諸行動
 われわれは、ドイツのロストックとヘリゲンダムでの2007年6月2〜8日のG8に対抗する広大な国際的行動を呼びかけている。
 われわれは2008年にわれわれの社会的共通性において、インターナショナルな「行動デー」のための運動に結集するだろう。

 「フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウス」からの再録(「インターナショナル・ビューポイント」電子版7年1月号)
 

 
 
 
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