2007年5月10日        労働者の力             第 206号

統一地方選と参院補選
排除に立ち向かう闘いへの願いが

寺中徹

 
 
 見せしめにされたかのような夕張市を筆頭に、地域社会の疲弊と生活の窮迫が深刻に問題となる中で展開された統一地方選は、4月22日幕を閉じた。しかし蓋を開けてみれば、幾つかの限られた地域を除いて、この間の政治に転換を迫るような明らかな変動は現れなかった。
 それ故安倍は、今回の一連の選挙に現れた現状追認的結論をもって、今後の政局運営に自信を深めた、と報道されている。それは既に、国民投票法案審議を始めとした、粗雑さの極まる強硬な与党の国会運営として形をとっている。労働者民衆には、引き続きさらに重荷がのしかかる。
 この現実を何としてもはね返さなければならない。その点で今回の選挙は我々にどのような課題を残したのだろうか。検討すべき問題は数多いと思われるが、紙面の関係上以下では論点を絞って考えてみたい。

低投票率の陰に

 今回の地方選、参院補選で我々がもう1方で注目すべきものは、図に明らかなような低投票率だ、と私は考える。80年代以降続く投票率低落は、今回にも変わることなく引き継がれ、多くの地方で投票率は過去最低を記録した。それは参院補選でも変わることなく、全政党がそれこそ力を振り絞った沖縄補選でさえも、過去最低だった前回をさらに6%強も下回った。
 政治に要求されるものが少ないが故の低投票率ではない。既に触れたように現実は逆であり、「格差」を取り上げるまでもなく、政治の機能はこれまでになく強く要請されていた。問題を直視する限り、多くの人々の現実は、政治の復権を切実に必要としている。しかしその必要性は、人々の投票意欲の高まりとして現れることはなかった。今回の結果はこの中で生まれたが、そこに孕まれた意味は軽いものではない。
 生活の中に山積し深刻さを増すばかりの諸問題を前にして、その解決を政治の場に要求として突き出し、またその方向に沿って行動することを、その中で最も敷居が低いと思われる投票という行動をすら、益々多くの人々から遠ざけるものは一体何だろうか。簡単に通り一遍の了解で済ましてよいことではない。ここにはいくつもの問題が隠されていると思われるが、少なくともそこに、現在の政治を直接に担っている者の責任が明確に問われる問題があることははっきりしている。政治が人々の期待に添うものを発信しないという問題だ。その点を確認した上で、しかしここでは、政治の責任とも密接に関わり、しかもあまり触れられることの少ない、「排除」という問題の存在を強調したい。
 社会的「格差」が重大な問題として既に多くの人々の心をとらえている。それは「差がある」というただそれだけの単純な事実への反感ではないはずだ。今問題にされている「格差」には、実際には切り捨て、即ち排除が、裏返せば、例えば「勝ち組み」と称されるような特定層への限定を強める、いわば社会の占有が隠されているのだ。「格差問題」とは、その事実を人々が鋭く感じ取っているからこその問題視である、と言わなければならない。そのような意味における排除が政治の場にも広がっているのだとすれば、我々が立ち向かわなければならないものは相当に根底的なものとなる。

もう1つの排除

 そのような観点から今あらわになっている投票率低落を見たときそれは、同じ性格の排除を、つまり政治の場にも現れている裏返しの占有を、果して意味していないだろうか。少なくとも、現に20年以上も続く地方政治の投票率低落は、投票者がある種の層に偏る傾向を推測させる。このような長期に亘る一方向の変化が、社会の多様な各層に平均的に等しく起きるなどということは、一般には考えにくいからだ。ともかくも現実には、投票所にとどまり続ける層と、そこから時を追ってこぼれ落ちて行く層、事実としてこのような集団間の分割が進行している。そしておそらく確実に、各々の集団の社会構成は同じではない。
 表1、表2は、各選挙における政党別の議席獲得率、得票率だが、そこには前回選挙から今回にかけた無所属の占める位置の低下が現れている。逆に言えば政党の比重の増大である。政党が囲い込む票の比重の、投票率低落の中で進むここに見られる増大は、投票者がある種の限定された層に固まって行く傾向の進行を意味している。つまりそれは、従来から相対的に強く政治に結びついてきた層のみに投票が限られる傾向の強まりだ。先の表は今回と前回の比較でしかない。従ってこのデータだけからそれをある程度長期的な確実性の高い趨勢と見ることは確かに速断に過ぎる。しかし、我々が身近で直接経験している幾つかの事実、例えばいわゆる浮動票の確実な縮小などを重ねてみれば、先の趨勢を確認することはそれほど無理なことではない。
 沖縄補選の出口調査結果として、今回の投票者に占めた無党派層の比率が、1般世論調査結果に比して大きく下がっていた、と報じられている。類似の現象は、この間の各種選挙でも総じて指摘されてきた。これも先の傾向を別の形で示すものと言えるだろう。
 この傾向は結局のところ、政治的既得権益者による政治の占有の強まりを意味する。どのような理由であれ、ともかく事実において、政治をめぐる政治の占有、そのような形の社会の分断、排除が現実のものとして姿を現している。
 現在の日本において投票するかしないかは、確かに各個人の自由である。それ故、上に見たような占有が現象として例え強まっているとしても、それは強権によって、あるいは人々の意にそむいて生まれたものではない。このように一応は言えるかもしれない。
 しかしその1方で我々は、例えば小選挙区制の強化や公職選挙法の改悪、あるいは強引な地方自治体合併(大幅な議員定数削減)などを通して、政治的既得権益者がこの政治的占有に自覚的に力を注いできたことも忘れるわけにはいかない。2世、3世議員の跋扈、すなわちある種の政治世襲化も、この脈絡の中に置けば、共通の線上に並ぶことは明らかだ。
 しかし、このような政治の占有は明らかに、政治的権益者の、とりわけ権力を実際に行使する者とそこに連なる者の権益擁護に確実に奉仕する。それ故にそれはまた、そのような政治の占有が政治の現状維持に大きく傾く力学を内包していることをも意味している。
 このように見てくれば、政治の場に現れる排除を有権者の自由意思から生まれたある種無作為的な現象と単純に見ることはもはやできない。そこには支配に連なる者の一定の作為が確かに働いている。
 その上に我々は、現在の日本においては、隠されたしかもかなりの規模の、事実上の選挙権の剥奪という問題があることに特に目を向けなければならない。今の日本には、まさに今日を生きるためにエネルギーを振り絞らざるを得ない膨大な数の非正規雇用の労働者、あるいは正規雇用であるとしても、過労死寸前の超長時間労働を強いられている労働者が厳然といる。これらの労働者は選挙権を、現実に行使できるものとして完全に保障されている、と果して言い切れるのだろうか。ここには、まさに現在の政治が作り出したものとしての、言葉の文字通りの意味で排除がある。
 政治の作為という点ではその上に、90年前後から猛威をふるっている新自由主義イデオロギーとその一連の政策展開も、この問題の進行に相当の威力を発揮している点について簡単に付け加えておきたい。自立・自助、自己責任、市場原理主義万能論は事実上の政治排除主張であり、問題を政治に託することを人々に禁じる。確かにこの間人々は、「政治に依存するな」という形で、政治に対する要求表明を社会の上層から徹底的に抑圧されてきた。その上で人々は、端的に「規制緩和」として、「政治を破壊する政治」への支持だけを要求され続けてきた。まさにその頂点こそ、小泉による5年総選挙だった。

転換の鍵は排除との闘いに

 既に触れたように上に見てきた政治における排除は、政治体制、政策路線の現状維持を強力に支える要素となるし、現になっている。自民党政治が今や、極度に排他的な勢力である公明党を死活的な支えとして不可欠に組み込まざるを得なくなっている現実こそ、その明白な証拠と言ってよい。
 しかしそのような「戦術的」局面対応が自民党を深部で蝕んでいることを、今回の選挙結果は示してもいる。端的に先の表が示すような地方議員の減少であり、得票力の減少だ。それは、民主党の著しい伸張と対比すれば、より鮮やかな対照となる。政治の占有とは、その背後に社会の現実からの政治の遊離を内包する。その限りで、政治の社会に対する対応力は傾向的に衰弱せざるを得ない。そしてその衰弱は、政策の結果責任を問われる政権党としての自民党に最大にはね返ることになる。その意味で投票率の低落自体がまた、社会の現実への対応力を裏付けとしてかつては誇示できた、より幅広い層に向けた自民党の統合能力・糾合力のやせ細りをも示すのだ。
 それ故にこそ逆に言えば、政治の転換を求める勢力は、そのような政治の占有を意識的に対象として、それを打破し政治に新しいエネルギーを大規模に引き入れる真剣な挑戦が、局面的な課題としても要求されている。そしてそのような意味においてもおそらく確実に、新自由主義が劇的に進行させた、社会的排除としての「格差」に対する偽りのない闘いが決定的な意味をもつ。この闘いを曖昧にする限り、おそらく明確な政治の転換は生まれない。
 そうであればこそこの課題は、紛れもなく全世界で現に今闘われ、今後も闘われ続ける中心的なテーマなのだ。そして新しい左翼は、そこに向けた根底的な挑戦の中からしか生まれないだろう。


表1.44道府県議員選
   党派別議席獲得率・得票率

│    │   議席獲得率 │   得票率     │
│      今回  │  前回 │ 今回 │ 前回 │
│自民 │ 47.6 │ 49.7│ 38.4│ 38.9│
│公明 │  7.1 │  6.8│  7.7│  8.1│
│民主 │ 14.7 │  7.8│ 16.4│  9.2│
│共産 │  3.9 │  4.1│  7.5│  8.6│
│社民 │  2.0 │  2.8│  1.9│  2.7│
│国民 │  0.04│ │  0.1│ │ │
│諸派 │  1.6 │  1.7│  1.8│  2.4│
│無所属 │ 22.9 │ 26.1│ 26.2│ 29.2│
│  計 │ 99.8 │ 99.0│100.0│ 99.1│
 *前回の数字には自由、保守新を含むため、総計は100%
  にならない。

表2.全国市議選党派別合計得票率

│   │  今回 │  前回 │

│自民 │  8.9│  9.3 │

│公明 │ 13.0│ 13.0 │
│民主 │  6.0│  3.7 │
│共産 │  8.6│  8.5 │
│社民 │  1.8│  2.4 │
│国民 │  0.0│ │
│諸派 │  1.0│  1.1 │
│無所属 │ 60.5│ 61.7 │
│  計 │ 99.8│ 99.7 │
*前回の数字には自由、保守新を含むため、
 総計は100%にならない。

     (5月10日)

民衆のうねりで改憲策動をはね返せ!
2007年5.3憲法集会・デモに7000名以上

 今年で7回目を迎えた「5・3憲法集会」が、5月3日、東京の日比谷公会堂を主会場に開催された。
 憲法施行60周年に当たる今年、憲法を巡る状況は一挙に緊迫。権力を縛るという憲法の本質を全く理解も納得もできず、権力の手による改憲に何の躊躇も示さない安倍の下で、改憲意図を隠さない国民投票法案は、広範な人々の疑念に一切目を向けることなく今まさに強行採択のレールに乗せられている。
 しかし安倍自民党のこの暴挙は、人々の現憲法に対する評価からは完全に浮き上がっているのが現実。改憲の旗振り役を買って出た読売新聞の世論調査自体が、例えば9条改憲否定派が近年継続的に増大し、今年半数を超えたことを明らかにした。本集会を含め、この間全国で粘り強く多様に積み重ねられつなげられてきた憲法を論じる民衆的議論の輪は、人々の中に着実に反響を広げてきたと言える。それ故また改憲派の危機感は高く、中曽根などを先頭に草の根の改憲運動が主張され始めている。この主張が、官製運動への事実上の尻たたきであることは明らかだ。憲法を巡る問題は、まさに民衆を主舞台として闘われる局面に入ろうとしている。
 銀座大デモが呼びかけられた今年、本集会は、その局面開始にふさわしいものとなった。記者が会場に着いた開会1時間前、本会場への入場は既に打ち切りとなっていた。回りの人の話では、午前10時前から入場待ちの行列ができていたと言う。大多数の参加者は当然ながら会場に入れず、オーロラビジョンが据えられた公会堂横を中心とした一帯に次第に密集。オーロラビジョンが見えないから旗を倒せ、との指示があったらしいが、旗がなくては仲間とも出会えないというような混雑状態ではそれも無理。5月の晴天の下、色とりどりの旗と仲間を探して右往左往する人々の動きを交え、公会堂外は意欲をみなぎらせて銀座デモを待つ活気に満ちた集会となった。
 本集会での発言は、中央大学教授の植野妙実子氏、広島平和研究所所長の浅井基文氏、オオタスセリのユーモアあふれる歌とコントをはさんで、社会民主党の福島みずほ党首、日本共産党の志位和夫委員長の4氏。各々の観点から改憲に反対する訴えが説得力を持って語られた。特に浅井氏は、同席していた福島氏と志位氏に対し、現実に障害があることは否定できないとしてもそれを何としても克服し、反改憲の統一した闘いを実現するよう、率直な批判を交えつつ強く求め、公会堂内外から大きな拍手を受けた。
 最終的に集会参加数は6000人と発表された。しかし、デモを目指す人々の流れは集会終了後も途切れない。これらの人々を呑み込み、また沿道からの参加者も迎えつつ、銀座デモは長蛇の列となって行進。デモ解散地点の常磐橋公園にデモの先頭が到着しても、デモの最後尾はまだ出発していなかったらしい。けたたましい右翼の妨害は例年のことだったが、彼らには身内と思える安倍への「迷惑」でもおもんばかったのか、今年は思いの外おとなしく感じられた。
 安倍のいささか自己陶酔的とも見える改憲策動を民衆の手で葬り去る闘いへの手応えは、この日の一見雑然とした、それだけに自発性の際立つ人々の結集の中にはっきり印されている。デモ解散地点では、主催者が参加数を7000人以上と訂正して知らせていた。(K)
 
   
団結は力
第78回日比谷メーデー

 

 
 5月1日、メーデー。全労協など「第78回日比谷メーデー実行委員会」が主催するメーデー集会が、今年も日比谷野外音楽堂を会場に開催された。もちろん参加者全員が会場に入れるわけがない。東水労や都労連の部隊などは最初から音楽堂を取り囲む通路を埋めている。当日はさすがにメーデー、会場を埋めた労働者の雰囲気もどことなく華やぎ、若さもかなり目立つ。
 午前10時、12000人の参加(主催者発表)の下、ぎっしり詰まったプログラムに沿って集会は始まった。のっけから、労働分野の規制緩和、労働法制改悪に対する怒りの発言が次々と続く。韓国の民主労総から届けられたメッセージは、非正規雇用で先行した韓国の実状を告発し、その痛苦の経験に立って日本の労組運動に警鐘を鳴らしつつ、新自由主義に対する国境を越えて連帯した闘いの必要を熱烈に呼びかけていた。
 非正規雇用問題、「格差」問題を含め、今年はとりわけ、企業を超えた社会的規制力としての労働組合の力が試される正念場。その意味で、「外国人労働者実行委員会」と「均等待遇実現を目指す女性たち」が決意表明3団体の内2つを占めたことは今年を物語る。
 中で「外国人労働者実行委員会」のキャサリン・キャンベルさんの発言は、自分でできることは何もないとの無力感を訴える相談者が労組に入ることで考え方が違ってくる、との体験を紹介しながら、団結は人に力を与えるという労働組合運動の原点に触れるもの。この発言は、参加者に自分達の運動の意義を改めて思い起こさせ、共感を呼び起こした。
 昨年後半以降、非正規雇用労働者の闘いが次々と伝えられ、それらはまた、労働法制改悪反対の闘いの場では現実に相まみえ、合流を作り出しても来た。そしてこれらの中で、文字通り言語道断のホワイトカラーエグゼンプションは、取り合えず押し返すことに成功した。闘いは緒戦で確かに勝利した。敵は引き下がるつもりなどないとしても、それに立ち向かう者がいるという現実を、労働者は少なくとも人々の目に明らかにできた。
 その気分も含めて今年の日比谷メーデーには、集会内容、アピールともども、これらの闘いが自覚的に引き継がれていたように見える。参加者は、集会閉幕間際に落ち始めた雨を吹き飛ばす力強い団結ガンバローを後に、2つのコースに分かれてデモへと向かった。(神)
 

 公正な社会を目指して
ATTAC・Japan 国際通貨取引税(トービン税)講演会

 4月30日、ATTAC・Japan主催による標記の講演会が東京の文京シビックセンターで開催された。
 テーマであるトービン税は、国際通貨取引への課税提案、元々の提案者であるノーベル経済学賞受賞者のジェームズ・トービンにちなんでこの名で呼ばれている。トービン自身は、国際金融の安定性確保を目的にこの税を提唱した。しかし、世界社会フォーラム(WSF)など社会運動の中では、「国際ロビンフッド税」として、つまり、南北格差問題に取り組む財源や国際金融の民主的空間確保の手段としてこの税は注目され、その具体的実現を目指す取り組みが真剣に議論されている。今回の講演会を主催したATTAC(市民を支援するために金融取引への課税を求めるアソシエーション)自身、そのものズバリの名前に見る通り、そのために設立された運動体だ。
 今回の講師は、ヘイキ・パトマキ氏とカタリナ・パトマキ氏の2人。ヘイキ氏は、ヘルシンキ大学の教授であるが、トービン税構想の専門家として、母国フィンランドはもとより、EUや国連、またヨーロッパ各国政府に助言を提供。さらにWSFでは、トービン税導入のための具体的条約案を起草している。1方カタリナ氏は、債務問題を専門とするエコノミストであり、民主化に関する国連事務総長レポートに際しては、フィンランド報告の代表責任者を務めた。
 今回の講演では、ヘイキ氏がトービン税を、カタリナ氏が債務問題を担当した。講演は英語で行われたが、数々の場で議論してきた専門家らしく、2人共が極めて整理された形で論を進め、参加者の集中を高める。加えて当日の通訳はこれまた極めて円滑かつ平易、参加者は大いに助けられた。
 当日の講演会は上に見る通り、なじみ薄いものの魅力を感じさせるこの構想に関し、政府機関や国際機関の中で実務的議論をも重ねてきた文字通りの専門家から抽象的ではない実際的問題点を聞くことができるだけではなく、直接的に意見を交わす得難い機会だった。40人ほどのこじんまりとした集まりだったが、若い人々に混じってかなりのインテリと思われる年配者も相当数参加。この人達の積極的な議論参加も問題理解に深みを加えた。
 質疑の中では、債務問題とも重なる形で、やはりこの構想の実現可能性、あるいはその具体的実現プロセスに関する議論が中心となった。この議論においては、問題の本質は経済論理ではなく政治の問題、新自由主義は本来の意味での自由を追求しているのではなくある方向での市場コントロールを追求しているのであり、問題はそれが社会的に正当化し得るものかどうかだ、ロシア通貨危機の際13のニューヨークの銀行とニューヨーク市には、破綻したLTCM(当時著名だったヘッジファンド)救済に何の躊躇もなかった、との講師の発言が印象に残った。
 日本では現在、とりわけ新自由主義のイデオロギー攻勢を背景に、経済に関わる問題がある種自然現象のような抗し難いもののように受け取られているきらいがある。その点で上記の講師の発言は、日本の我々には特に重要な問題を改めて気づかせてくれるものだった。環境危機は無論のこと、グローバリゼーションの問題を含め、問題の根底には政治があること、それ故に人間の手によるコントロール、要するに合理的かつ民主的な規制が不可欠であり、それがいよいよ切迫した要請となっていることを説得力を持って広げる努力が必要となっている。2人の講師は我々にこの課題を残したようだ。(神)

ミンダナオの革命的マルクス主義政党
RPMM、その歴史と闘い

            
クララ・マリア・サンチェス

 「ミンダナオ革命的労働者党(RPMM)」の起源は、1992年に起きたフィリピン共産党(CPP)の分裂にある。CPPは1968年にホセ・マリア・シソンの指導のもとに結成され、急速に意味深い政治勢力となり、武装力―新人民軍(NPA)と大衆運動の2つを通じて、マルコス独裁政権(1972―86)に対する闘争において重要な役割を演じた。

CPPの性格と分裂への序曲

 CPPは非妥協的なマオ―スターリニストの性格で創立された。フィリピン社会は「半植民地および半封建」と見なされ、そして革命は「民族民主主義」と規定された。CPPの戦略路線は、地方から都市部を包囲する長期の人民戦争路線、戦略的防衛、戦略的均衡、戦略的攻勢、それらは補助的段階を伴ったが、それらの厳格に定められた段階を通過するものとされた。
 党活動の全ては、地方でのゲリラ軍形成という主要な目標に従うべきものだった。独裁体制に抗し、改革をめざす、大衆的な解放された大衆闘争は、単純に宣伝活動と考えられ、地下党のための勧誘の源泉と考えられた。党の組織的原理は、反対派のいかなる権利もない、スターリニストの官僚的中央集権主義だった。その最初の大会は1968年12月に持たれたと発表された。2度目の大会はない。
 これらすべてのCPPの状況は、全く異なったフィリピンの現実に対立して突き進むものだった。シソンの分析と反対に、フィリピン社会は半封建ではなく、従属的資本主義のそれだった。第2に、フィリピン社会の複雑な現実性と独裁体制に抗する闘争は、党を大衆闘争と武装闘争の複合を発展させるべく押しやったので、単純化した「長期人民戦争」計画は急速に身体に合わなくなった。これは戦略と戦術に関する討論を生みだし、しばしの間、CPPにある程度の複数主義を授けた。
 1992年分裂の背景になる運命を持っていた事柄についての論争は、1980年の第8回総会の時期に早くも始まった。しかし、その当時、フランシスコ・ネメンゾが1994年のインタビューで述べたように、「運動が大きく前進していたので、それらを解決するのに急がなければならないとは見えなかった」(注1)。討論の時間も空間もなかっただけではなく、そこには「長期人民戦争」という戦略と合致しないさまざまな形の闘いの試みがあった。これは特にミンダナオでの事柄であった。こうした試みは、相当の幅で、中米での革命運動の経験およびヴェトナムの経験に影響された。これは、シソン自身が逮捕され投獄されていた1977年から1986年の時期の間、形成し続けた。
 転換点は1986年に来た。この時、マルコスを放り出した「民衆の力」運動に続く「不意打ち的選挙」のボイコットを、CPPは決めたのである。選挙は、コリー・アキノの勝利とブルジョア民主主義形態の復帰へと導いた。決定は、党を大衆運動からの孤立のまま放置した。数ヶ月後、党指導部は自己批判を出し、明白に明らかに、ボイコットは誤りだったと述べるものだったが、しかし、この大きな誤りについての理由分析は怠った。続く討論は指導部が止めさせた。大衆運動が武装闘争、とりわけ農村地帯での武力闘争に従属するということにより生み出される矛盾がより鋭くなったのは、ブルジョア民主主義の回復に続くものだった。

ミンダナオの具体的展開

 70年代後半から80年代前半のCPPの成長期に、ミンダナオでの組織は、さらにより早いペースで発展した。多くの面で、ミンダナオの闘争は、武力闘争と大衆闘争の両分野で、フィリピンでの最も進んだものの1つであった。しかし、党がミンダナオに深く根付くにつれて、島の特殊性にぶつからざるを得なかった。スペイン植民地時代において、ミンダナオはいくつかの沿岸居留地以上は、占領されなかった。島には、モロとして知られるイスラム教徒が居住し、マギンダナオとジョロのサルタン制のもとにあり、さらに先住諸部族も居住していた。1898年のスペイン―アメリカ戦争の結果、フィリピンが200万ドルでアメリカに売り渡された時に、アメリカ人たちは、1896年にスペインに叛乱を起こした革命的民族主義者の勢力からの、力強い抵抗に対抗して国を征服しなければならなかった。
 アメリカのフィリピン「鎮圧」は、人口のほぼ6分の1の生命という犠牲を要したと見積もられている。ミンダナオの場合、この征服は、とりわけ困難であり、著しく血まみれで、しかも抵抗は1914年まで持続した。その後、マニラの政府はキリスト教徒の開拓移民でミンダナオを植民地化する意識的政策に従事し、その成功の結果、ムスリムおよび先住部族は少数派となった。にもかかわらず、開拓移民たちは特権的な層を形成せず、例としての南アフリカやイスラエルのごとく、彼らは労働者、農民であり、彼らもまた搾取されていた。しかし、バンガサ・モロ民衆という民族的問題が強固に存在し、そして自己決定のための武装闘争が1970年代始めに開始された。また、ムスリム及びキリスト教徒両者の支配地域には、先住民族の先祖伝来の土地への権利という問題もあるのだ。
CPPはミンダナオでこの現実に直面せざるをえず、そして同盟活動を、両者、すなわちモロ運動―モロ民族解放戦線(MNLF)とモロイスラム解放戦線(MILF)―および先住民衆との間で発展させ始めた。これは論争と不一致をミンダナオの党の内部、および中央CPP指導部との間に引き起こした。実際の所、CPPの民族民主革命の概念は、ミンダナオの特別の民族問題を計算に入れず、シモン指導部の考えでは、革命勝利後に解決されるものと格下げされていた。ミンダナオでの闘争のレベルには、また都市住民パルチザン分隊の使用と小規模の住民叛乱の如きものが含まれ、それは長期人民戦争概念に適合しないものだった。
 RPMMの起源は特にCPP―NPAの中央ミンダナオ地域(CMR)にあり、それは1987年に、北西地域とモロ地域の合併によって構築された。これはCPPとその組織が深刻な困難に入り込んだときだった。まず第1に、この困難は、独裁体制からブルジョア民主主義への移行に続く新状況に関する分析および党の応ずべき戦術の方向転換ができなかったことによって引き起こされた。これは戦術的諸問題を含むに留まらず、CPPのすべての戦略に関連したのだ。
 第2に、党は政府関係潜入者たちを根こそぎにするための1連の内的整風によって弱体化し、虚弱化していた。それにより数千人にの党員が、その多くは無実だったが、粛正された。これは党を相当に弱体化したが、整風は特にミンダナオで厳しかった。論争はより辛辣となった。シソンは、彼は1988年に自主的にオランダに亡命したのだが、1991年の終わりに、「わが根本原則の再主張と誤りの矯正」と題する文書を発行し、その狙いは、CPPを毛沢東主義の正統としての彼の解釈に復帰させ、それを問題とした人々の党からの整風にあった。全党組織は「再主張」を命じられた。シソンを支援し、そのようにした人々は「再主張者」あるいは「RA」として知られ、それを拒否した者達は「拒否者」あるいは「RJ」であった。

CPPの分裂と新党への挑戦

 シソンの立場は、1992年の第10回CC総会によって支持され、党の執行部は、違いを解決するための大会要求―再主張者たちと共に拒絶者たちにも支援された―を拒絶し、分裂を不可避とした。後に、彼の立場を拒否した人々は除名され、そして1993年より、党の実体のある部門、地域的および部門的な双方は、党中央からの彼らの自律性を宣言し始めた(注2)。この時点で、違いは広く及んでいた。それはフィリピン経済と社会の分析、政治的、軍事的戦略、少数民族の民族性問題、党体制及びソ連邦の崩壊と中国における資本主義復活の過程に関する評価をカバーしていたのだ。後者の点について党指導部は「新修正主義」という儀式的弾劾にとどめ、他方反対派部分は何が起きたのかを理解するために、スターリニズムと官僚主義の概念を使用し始めていた。
 分裂は反対派たちに別のものを組織する仕事に立ち向かわせた。1994年の終わりに向けてCMRは、党の協議会を呼びかけ、そしてフィリピンの他の地域から、拒否者たちの他の主な部門たちを招待した。この会合の結果は、ミンダナオにおける前―党形態、人民共産党(PCP)と呼ばれるものの発足であった。PCPは他の拒否者勢力と接触と関係を維持し、そして1995年9月に、それはマニラ―リザル(国家首都)とヴィサヤ地域の指導部と共に、国家レベルの新党を形成する展望を持って、サミットを招集した。この期間、PCPは、その思想と政治を徹底的に再評価することに乗りだし、ミンダナオにおける10年の党活動について総括し、選挙と議会活動、大衆活動と大衆運動、国際活動、開発と平和構築活動、について会合を持った。
 1998年に、3年の討論、論争の後、全フィリピンレベルでの新党形成への真摯な試みがあった。それにはPCP、ヴィサヤ党委員会、そしてマニラ―リザル地域の指導部の1部が含まれた。ミンダナオの山中で持たれた会議にて、フィリピン革命的労働者党(RPMP)が形成され、その武装的翼として革命的労働者軍/アレックス・ボンカヨ旅団が共にされた。不幸にも、1つの全フィリピン党への、この有望な手始めは、成功しなかった。新たな党の果たす機能に関して深刻な対立が起こった。ミンダナオの同志たちの見解においては、ヴィサヤ指導部はとりわけCPPのある種の慣例から離れようとはしなかったのだ。1999年に、政府とRPMP―RPA/ABBの平和交渉が始まり、そして2000年に平和合意が調印された。ミンダナオの同志たちは、これが成された非民主的方法および同意の内容の両者に異議を唱えた。彼らはそれをあからさまで単なる降服と考えたのだ。

RPMMへの踏みだし

 結果として2001年5月1日、ミンダナオの同志たちは、武力勢力としての革命的人民軍(RPA)を保持しつつRPMMを形成した―ミンダナオにおける3つの人々という認識への関与を示す複数形態―。党は全フィリピンの展望を持つが、しかし、その勢力はミンダナオおよび他にいるミンダナオ人の中にある。CPP分裂に続き、CMRは国際的に他の諸勢力、とりわけ第4インターナショナルとの関係を固めた。そして1995年のその世界大会に代表者を送った。こうした関係はRPMPの時期にも維持され、そして2003年RPMMはFIのフィリピン支部となった。
 ミンダナオの状況は安定からはほど遠い。まず最初に、モロ民族問題は解決されていない。フィリピン政府とMNLFの間で1996年に結ばれた合意は、自治権のあるムスリム・ミンダナオ(ARMM)の形成へと導いたが、それはその協定中に込められた希望を満たさず、依然としてマニラの支配下にあり、堕落と依存主義によって悩まされている。交渉は今はMILFとなされているが、彼らの問題は不確かであり、軍との軍事的衝突はまれというわけではない。
 アブ・サヤフ集団、アル・カイダと結ぶ真のテロリスト集団の存在は、ミンダナオを軍事下に維持し、またアメリカ軍の存在を正当化するための練習課題として利用され、ミンダナオは「テロリズムに対する戦争」における前線と定義されてきている。付け加えれば、ミンダナオ、および特にARMMはフィリピンでの最貧地帯を含んでいる。多国籍企業は、島の自然資源を略奪的に荒らし、特に採掘と伐採があり、環境および先住部族の人々の先祖伝来の土地を侵して、破壊的効果を持ち込んでいる。軍事的衝突は、ミンダナオの人々が苦しんでいる唯1の暴力形態というわけではないのだ。

RPMMの現在の闘い

 それ自身非合法であり地下組織であるにもかかわらず、RPMMは、多数の社会的運動や人々の諸組織の努力を援助している。それらの組織は、労働者階級、都市貧民、農民と漁民仲間の諸問題―健康、居住、教育、失業、農業改革―に向きあっている。特に、3人民概念に基礎をおいた強力な平和運動がある。それは、自己決定権の承認と国民投票の承認による民族問題解決を追い求め、そしてそれはこの基盤の上に3つの民衆の結合を求めている。2006年12月、バシラン島にて、第4回ミンダナオ民衆平和サミットが開催され、それは500人をミンダナオ全島から集めたが、MNLFとMILFおよび先住部族の代表たちも含んでいた。選挙レベルでは、同じ考え方が、アナク・ミンダナオ(Amin)党によって防衛され、その党リストはフィリピン議会に現在、1人の議員を持っている。
 ミンダナオは高度に軍事化された社会である。フィリピン軍(その力量の3分の2がミンダナオに展開されている)と警察に加えて、MNLF、MILFそして先住部族の人々の防衛部隊がいる。CPP―NPAは、彼らはミンダナオの1定の地域で活動を続けているが、分裂以降、前メンバーたちの肉体的粛正の政策を維持している。これらの殺害の中にRPMM―RPAの2人のメンバーがいた。それ以上に、2001年のグロリア・マカパガル・アロヨ大統領の権力就任以来、国家安全保障部隊が、社会運動や民衆組織の活動家たち何百人もの、死の部隊風の暗殺に責任があることが明らかなのだ。ミンダナオでもだ。
 この状況で、RPMMは武装力、RPAを維持している。それは、しかしながら、現在時点において、攻撃的武力闘争が適切であるとは考えてはいない。その結果、2005年に政府と停戦の合意を調印し、そして2006年12月、この停戦の適用の合意に達した。だが、RPMMは武装解除はしてないし、ミンダナオにおける暴力の根である、社会的、民主的諸課題の解決という点で最終的な和平合意の問題を提起している。政府との交渉は、単なる軍事的性質のみならず、政府がRPMMの影響下にある諸地域に、地域住民たちによって確定された問題という形を取った開発計画のための資金供与を約束すること関わっていた。当初の交渉は、100バランガイ(地域)をカバーしたが、しかし続けて、なお100バランガイが、RPMMの影響地域の部分をなすと見なされるべきだと求めてきた。

(注1)インタビュー、リンクス2号、1994年9月
(注2)これらは、マニラ―リザル、ミンダナオ、そしてヴィサヤ、同様に農民書記局、統一戦線書記局および国際局、における党組織の多数か重要な部門を含んだ。(IV電子版4月号)
フランス大統領選挙
右翼の勝利
迎え撃つ左翼の闘いが課題に
フランス大統領にニコル・サルコジ
 
 5月6日、フランス第5共和制の第6代大統領の第2回投票が行われ、右派のサルコジが当選した。「福祉社会」を主張したと報道されたロワイヤルは結局、民衆多数を引きつけることができなかった。しかし今回の選挙結果は、フランス社会が真っ2つに引裂かれている現実も明らかにした。第1回と第2回の投票結果は別表の通り。サルコジはその分裂をより急速に進めることになるはずだ。
 シラクの下で浮上してきたサルコジだが、基本的には強硬な主義、主張という印象を与えてきた。が、その実質的な国際路線、とりわけトルコ問題やイラク問題を含めて、EU関係、対米関係などの基本線は不明と言うしかない。内政的には、貪欲な個人的「のし上がり」への煽動が象徴するように、格差化推進の方向は明白、フランス政治は左右の新しい激しい対立の予感を示した。開票当日の反サルコジの若者の「暴動」的反応が、それを示したように思われる。(川)



LCR、責任ある位置に

 以下の宣言は、4月22日日曜日の夕方、最初の結果が報じられた直後に為されたものである。最終的に発表された結果一覧表からでは、当初の見積もりは、ブサンスノーの票をやや大きく推定した。しかしながら、LCR候補者への4・1%は、第1ラウンドにおいて、SP候補のセゴレーヌ・ロワイヤルの第2ラウンドへの通過を確実にするという、「有効な」票を投じるべきという、反自由主義者たちにかけられた重い圧力という文脈においては、印象的な達成である―特に、2002年にシラクが第2ラウンドで唯一極右派のル・ペンの挑戦を受けることとなった経験を前提にした時―。共産党(PCF)、リュット・ウーブリエールの得票は減退した。特に、後者の場合、最も最近の2002年大統領選で達成された得票に較べれば、鋭いものだ。
 
 オリヴィエ・ブザンスノーの声明

 ほぼ180万票が私の立候補にはせ参じた。それは2002年に較べれば60万多い。「有効な投票」、それは最後の数週、セゴレーヌ・ロワイヤルのキャンペーンの唯一の計画として役立ったが、4・5%以上の投票者が私の名前に投じたのだ。それは、明日の闘いにとって計り知れないほどの貴重なものだ。私に投じてくれた人々に感謝する。私たちは、私たちの成績を越えて、住民の社会的期待感に応える、というキャンペーンで共に成功したのだ。雇用の権利、購買力の増大、あるいは居住の権利‥‥最低賃金[SMIC]1500ユーロ、すべて正味300ユーロの増加、空き家の接収、解雇の禁止、差別に対する闘いのために―今や社会と労働の世界に起きている多くの問題として、私たちの選択と力量を勘定に入れさせるための動員として―。
 ニコラ・サルコジは今、先頭にあり、そして第2ラウンドに資格を持ち、セゴレーヌ・ロワイヤルに対面している。右翼は最近の5年間を通じて、私たちの社会的獲得の破壊という体系的政策を追求すべく進んできている。そしてサルコジは、MEDEF(フランス最大の経営者団体)のショック療法をフランス社会に適用したがっているのだ。言うなれば、より不平等、より不公正、そして、自由性の減少。ル・ペンは競争からふるい落とされた。それはすぐれた知らせである。しかし、サルコジはとてつもない反動的キャンペーンを指揮してきた。FN(国民戦線)の土壌で狩猟しつつ、この人間と彼の綱領は、直接的で大きな危険である。
 候補者は誰もその票を所持していないし、そして、5月6日、各々の彼、彼女の投票は、明白に自由である。しかし、5年間、LCR(革命的共産主義者同盟)はシラクとその首相と、街頭および投票所で闘ってきたのだ。私があなた方に、5月1日フランス全土の町々で、私がこの選挙運動で防衛してきた社会的緊急手段のための、そしてサルコジの反社会的計画に抗するためのデモンストレーションを呼びかけているのは、こうした意味である。この尊大な「右翼」に抗して、第2ラウンドは不可避に、サルコジの政策に抵抗する気のあるすべての人々のための、反サルコジ国民投票の形態を取る。5月6日、サルコジの共和国大統領職の獲得阻止を望む人々の側に私たちはいるだろう。それはセゴレーヌ・ロワイヤル支援という問題ではなく、ニコラ・サルコジに反対する投票行動である。
 この強硬な右翼を前に、社会党(PS)およびその候補者は、真には任務に耐えられない。選挙運動中を通じて、私は富の再配分を提起した。しかしその綱領は、自由主義を受け入れ、大企業の富を歓迎する右翼と同じ土俵に登っている社会党の計画ではないのだ。この点に私は留意している。愛国主義と国家主義の土俵においてさえも、社会党は右翼と競争することを追求している。愛国主義と国家主義の土俵においてだ。それが、LCRの立場がセゴレーヌ・ロワイヤル支持でないという理由だ。
 私は、私たちの再編という提案の中に自身を認識した人々に、共に私たちは社会的動員において、それらを防衛可能な力量を作り出すことができるのだ、と呼びかける。いかなる大統領が5月6日の投票箱から出てくるとしても、自由主義政策に反対し続けることが必要だし、そしてLCRは、来るべき闘いにおいて最大の可能な統一に向けた努力を続けるだろう。そして例え、不幸にもサルコジが5月6日に大統領職を帯びることになるとしても、しかしあるいは、セゴレーヌ・ロワイヤルが選ばれたとしても、彼女は彼女の左に反対があり、右だけではないことを知ることになろう。
 私たちは、この5年間闘争と抵抗の中にあった時と同じく、有用な新たな反資本主義勢力が必要だ。パリ郊外や会社の内部で、CPE(初期雇用契約)と対決した動員の後に登場した新しい政治的世代を基盤として、有用な新たな反資本主義の勢力を必要としている。LCRはあなた方に、資本主義と闘うことができ、そして別の世界がありうるのだという希望を届けることが可能なこの勢力を、共に作り上げることを提案する。
 (パリ、4月22日、20時30分、IV電子版4月号)
 
 
 
 
 
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