1991年5月10日         労働者の力              第21号

自民党政府による自衛隊の海外派兵を糾弾する
ペルシャ湾機雷掃海部隊の派遣を政府判断で強行

 (1)

 四月二十六日朝、「海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊」が日本を出発した。掃海艇と補給艦などには、旧海軍と同じ軍艦旗(自衛艦旗)が揚げられ、また旧海軍と同じく軍艦マーチが流れる。まさに、日本海軍が旧時代となんらの切断もなく再現し、海外出動を行っているかのごとき異様な光景であった。
 この「異様な光景」こそ、日本の支配者層が期待し、自民党政府と財界主流が推進してきた「軍隊」の公然たる復活の狙いを象徴するものであった。
 旧大日本帝国軍隊と、その旗、音楽においても、なに一つ変わらない自衛隊艦船なのである。「日の丸」と「君が代」の「国旗・国歌化」を執ように狙い、その法制化までを意識する日本政府は、いままた海外出動する自衛艦船を海軍旗と軍艦マーチで飾りたてて送り出したのである。
 戦前の大日本帝国と戦後の日本国を区分けする唯一ともいえる現行憲法の戦力放棄条項を無視し続けてきた結果として、自衛艦船の海外派兵は、いままさに旧軍と装いにおいてなんら変わらないという象徴的事実を公然化させたのである。
  
    (2)

 掃海母艦「はやせ」(二千d)、掃海艇「あわしま」など四隻(四四〇〜四九〇d)、補給艦「ときわ」(八一五〇d)の六隻で編成される「新日本帝国軍隊」最初の派兵部隊はいま、着いてもおそらくは出番がないであろうペルシャ湾への航海の途にある。
 四月二十六日は、海上自衛隊の前身、海上警備隊の創設日であった。一九五二年に生まれた海上警備隊は二年後の一九五四年、海上自衛隊となる。それから四半世紀を経て「軍事能力を実務に用いる」ための海外派兵がはじめて実現された。
 「自衛隊の歴史に新しい一ページを開くもの」と防衛庁長官の池田はいう。
はじめての海外派兵部隊の目的であるペルシャ湾の機雷掃海は、自衛隊艦船が到着を予定している今月下旬までにはほぼ掃海を完了するであろうといわれている。
 イギリス海軍の司令官は四月末の記者会見の席上で、イラクが敷設した一千二百―一千五百個のうち、すでに七百三十個の機雷を処理し、残りは二、三週間で終わると言明した。アメリカ、イギリス、オランダ、ベルギー、イタリアにドイツが加わった「世界機雷掃海タイトルマッチ」(『朝日』五月三日朝刊)に、形式的に加わることのみになるであろう日本自衛隊艦船の初の出動である。

   (3)

 海部のASEAN訪問が終わった。海部の訪問はまさに自衛艦船=日本軍艦船の軍事目的による出動の「承認」をとりつけるためのものとしてなされた。援助のばらまきを期待される以上ではない海部訪問は、突如として日本海軍の海外派兵の承認強要という紐付き訪問となった。
 また、海部をあからさまに無視するかのように、竹下がアメリカから中国へ、中曽根が中国へ、そして渡辺がソ連へと飛んだ。とくに竹下と中曽根は執ように中国指導部に食い下がり、掃海艇派兵承認への言質をとりつけようとした。
一方ではアメリカ政府筋が掃海艇派兵によってアメリカの対日世論は好転するであろうと流し、他方では中国指導部はまた、執ような中曽根・竹下の食い下がりに対して「理解」を示すに至った。
 ASEANも中国も、日本の経済援助、経済協力という「紐付き」に対して正面からは立ち向かえないであろうとする自民党と日本国政府のごう慢そのものの態度に内心あきれかえっているであろう。
 シンガポールの前首相で独裁的実力者であるリー・クアン・ユーは五月四日付の新聞インタビューで次のように述べたと報じられている。
 「多くのアジア人は、日本が平和維持に軍事的に参加することを望んでいない」「なぜなら、アルコール中毒患者にウィスキー入りのチョコレートを与えるようなものだからだ」と。また彼は別の記者会見でも日本の性癖として「何をするにしても行くところまで行き」ナンバーワンを目指すことをあげて、平和維持活動に軍事的に加わることに強い懸念を表明し、掃海艇の湾岸派兵に対しても、東南アジアは黙認しているに過ぎないと述べた(『朝日』五月三日)。
 
   (4)

 統一地方選における自民党の勝利と社会党の惨敗というタイミングを見計らったかのように経団連の新会長平岩は四月八日、「会長見解」を発表し、ここで、@平和時に限定Aアジア諸国の理解B法制上問題がない、という条件を満たして、ペルシャ湾への掃海艇派兵を行えとの態度を表明した。
 海部はまた、「平時であり、武力行使や海外派兵にならない。自衛隊法にも触れない」と言明し、さらにマスコミも『毎日』がいち早く社説において掃海艇派遣要求を掲げるなど、一斉に派遣強行一色となった。
 惨敗した社会党執行部は党内外の「現実路線」の大合唱にふらつき、またドイツ社民党の「現実路線」に動揺し、派遣容認の一歩手前にまで追い込まれた。かろうじて自衛隊法改訂が必要という手続き論でとりあえずの歯止めをかけるのに精一杯であった。
 政・財・官・労の水面下の意思統一が進行していたといわざるをえないこうした状況は、世論操作という点においても、社会党という世界にまれな「戦闘的」社会民主主義政党をワナに陥れるという点においても、現在の日本政治の単線化を象徴するものといえる。
 対ソ外交における「北方領土返還」一点張り、「ポスト冷戦時代の国際協力」における自衛隊の公然軍隊化追求の一点張り――これらが意味するものは、旧大日本帝国の国家論理との距離をもちえない、あいかわらずの単線的国家主義としての国益主義の論理にほかならない。
 
    (5)

 海部は、シンガポールにおいて、日本政府としてはじめてアジア人民への公式謝罪を口にした。
 戦後四十五年にしてはじめてということ自体異常であるが、それが自衛隊艦船部隊の初の海外派兵にあたってのアリバイ的リップサービスであることも明白である。
 「ドイツと日本」ということがいわれる。ではドイツと日本を比較して見てどうか。
 現在のドイツ軍が旧軍と同じ旗と軍歌のもとに出動しているか、またドイツがいままで近隣諸国人民への謝罪をしないできたであろうか。
 こうした単純な現象一つとってみても日本国家の戦前帝国主義からの継続性は際だっている。まして統治の象徴である天皇家は変わらず厳然と持続しており、支配体制の構造には本質的な変化は見られないのである。
 「君が代」と軍艦マーチ、「日の丸」と海軍旗を共通シンボルとした海上自衛隊部隊の海外派兵は、いかに言葉をもてあそんでも帝国主義日本軍隊の公然たる復活のステップでしかない。それはアジアの民衆にとっても、日本に民衆にとっても同じである。

    (6)

 自衛隊の公式軍隊化をねらう自民党国防族の代表の一人である山崎拓らは四月七日の都知事選終了まで沈黙を守ることを意思統一していたという。先述した平岩発言とも合致する状況である。
 こうした自衛隊の公然軍隊化への布石は、PKO(国連平和維持活動)への自衛隊参加という筋道が昨年の自公民三党合意を覆す内容でもあり、公明党の支持を取り付けられない可能性をもつ。社会党のぐらつきにもかかわらず、公明党が掃海艇派遣反対を声明した理由はここにあった。
 自民党は、あらためてPKOへの自衛隊の参加という「国際貢献策」のトリックを持ち出すための策動を強めるであろう。小沢が挫折した国連利用主義の論理はただひたすら日本軍隊の海外派兵を可能にするための術策にほかならなかった。自衛隊と切り離したPKO部隊創設という構想は、土井社会党の躍進による参議院の逆転状況によってもたらされた苦肉の策であった。土井ブームにくさびを入れることに成功したいま、自民党は自衛隊とは別のPKO部隊創設という構想をあっさりと投げ捨てつつある。
 社会党の右路線への「転換」が「見え」てきた現在、公明党への配慮も程度の問題ということであろう。

  (7)

 「国際貢献」という名目によって、過去のあらゆる憲法の制約などの政府答弁は一挙に破古にされていくに違いない。とりわけ集団自衛権の否定という過去の歴代自民党政府答弁は、すでに多国籍軍への財政的参加という方式で無視されはじめた。その次には、国連への軍事協力という論理が準備されている。
 多国籍軍、これはアメリカ軍のもとでの世界帝国主義秩序維持軍であり、ECにおいてもEC帝国主義権益防衛の軍事構想が発展しつつある。
 ポスト冷戦時代の最初の大規模な軍事侵攻が独裁者フセインによってなされたという事実がアメリカとヨーロッパの帝国主義の帝国主義的秩序維持の口実となった。これはまさに不幸な事態であった。
 だが、そのアメリカ帝国主義はイラク・バース党独裁の維持に利益を見出すということによって矛盾に陥っている。またアメリカにあれだけの巨額な資金拠出を行った日本政府はクルド難民への支援へなんの積極的姿勢を示さない。ただ掃海艇派兵だけに固執している。
 国際新秩序なる「概念」はアメリカ帝国主義にとっては、自らのための秩序形成だけであり、日本自民党政府にとっては、再軍備完了を追求する方便にすぎない。
 帝国主義の世界支配秩序維持の軍事力展開と闘おう。日本軍隊の海外派兵阻止はその重要な一環である。
 掃海艇部隊派兵を糾弾し、次にくるであろうPKOへの自衛隊参加阻止の闘いをいまから準備しなければならない。       五月七日
第六十二回メーデー
             全労協、一万八千人を結集
 
 五月一日、第六十二回中央メーデーは昨年同様、連合(代々木公園)、全労連(亀戸中央公園)、そして全労協系の日比谷野外音楽堂という三会場への分裂開催となった。参加者はそれぞれ十万(五万)、五万(三万)、一万八千(一万)と発表された(かっこ内は警察発表)。
 連合メーデーは八百万組織を豪語するにしては惨めな参加者数の少なさもさることながら、政府・自民党から共産党を除く野党代表を招待した、まったくの非政治性がきわだった。労働者の祭典というよりは、連合が体現しようとしている政・財・官・労の相互に結合した支配メカニズム形成にむけたセレモニーの印象をさらに強めるだけのものであった。
 全労連メーデーは、その反対に共産党来賓という政党色がもろに出た政治性の強い集会と報ぜられた。誰もいない昨年の晴海会場からまだしも人目のある場所を求めて亀戸中央公園に会場を移したといわれている。だが三万という動員力は、あえて単独で連合に立ち向かうとと意気込みに比べれば、十分なものというにはほど遠いのではなかろうか。
 日比谷メーデーはこれらに反し、組織の力量との比較においては十分以上の成功を収めた。一万人を越える参加者が野音を埋めつくし会場から溢れる状況は、そのスローガンの政治的な性格といい、連合メーデーとは好対象なものともいえなくはなかったのである。
 今年の野音メーデーは、都労連が都職分裂のあおりによって主催団体からはずれる中で、国労を中心とする実行委員会の形態をとった。だが、会場を埋め尽くした参加者では、とりわけ都労連傘下労働者の大量参加が目だった。集会のさなかに壇上から紹介された参加労組の数の多さにも示されるが、連合メーデーへの参加をいさぎよしとせず、また全労連とのせりあいをくぐりぬけてきている層が日比谷野音の熱気を支えていることを実感させた。
 全労協メーデーは、その組織的な骨格の不安定性を依然として持続しつつも、少なからぬ層が、自ら作り上げるメーデーを必要としているのだということをあらためて立証し、全労協の基盤の確かさを明確にした。
 東京での闘いは全労協推進の意思が明確な都労連労働者と国労東京という二大組織が牽引力となっているだけに、他の地方での全労協のための闘いとは落差があることは否めないが、総評センターに頭の上がらない東北国労、全労連志向の近畿国労を越えて仙台、大阪などでも全労協系は独自メーデーを貫徹した。数はいまだ少ないにしても、日比谷メーデーの熱気と基盤を全国に拡大しそれを一本の糸に結びあわせようとする意図は断固として貫徹されているのである。
社会主義の危機と経済学再建の課題(その5)

      2「資本主義のレギュラシオン理論」(4)
  生産過程と階級関係

 マンデルの経済学とレギュラシオン学派との間に存在する対立は、全面的なものである。私は今回、原理論の問題領域をとりだしてマンデルの理論とくらべてみる作業をおこなうことができなかったが、理論構築の土台から大きな違いがあることは、これまでの紹介の範囲でも明らかだろう。対立は価値法則をどうとらえるかというところからも始まるであろうし、帝国主義論の領域へといたるであろう。
 理論的諸規定の内容上の対立をつらぬいているのは、社会的活動としての経済にアプローチする視座の違いである。レギュラシオン学派は、現実の生産活動を階級闘争関係と一体の構造において、いわば階級闘争の展開過程として把握する。レギュラシオン(調整)とは、諸階級がその利害をめぐって闘わせる力の競い合いの産物として、「制度化された妥協」にほかならない。生産は、このレギュラシオンの枠組みの中で展開する。レギュラシオンは、階級の対立を調整することによって、生産そのものを調整するのである。
 レギュラシオン学派は、労働力が単なる商品ではないこと、それが意志を持った商品であり、その意志は文化的・社会的・政治的に、すなわち歴史的に規定されていること、したがって、単なる商品関係一般から区別して、特殊な商品関係としての賃労働関係を規定すべきであると主張する。この賃労働関係こそ、まさに資本主義把握の核心である。こうして、レギュラシオン理論の枠組みのなかでは、階級関係が資本主義的生産過程そのものを規定しているのである。
 これに対して、マンデルの場合には、資本主義的生産において、生産過程それ自身が「妥協」として組織されることはありえない。プロレタリアートは、私的所有にもとづく資本の生産過程に、本質的な隷属関係として統合されているのであり、プロレタリアートの階級闘争は、本質的隷属に対する闘争として、この生産関係そのものの廃絶をめざさなければならないのである。この原則的立場からみれば、レギュラシオン派の主張は、階級闘争を通じて一種の混合経済を展望しようとする、修正主義の立場であるとみなされる。
 だが、たとえレギュラシオン理論が修正主義であると批判したとしても、「純粋経済学」的方法では現実をとらえられないことが、十分すぎるほど明白となっていることについては、目をつぶるわけにはいかないだろう。来るべき景気後退を予測し、「古典的」な結末を宣言し、階級闘争の激化を予言し、マルクス主義の正統性を論証する、こうしたやり方には、もはや説得力が乏しい。景気循環の予測ならば、「ブルジョア経済学者」がいつもはるかに精緻な仕事をしている。
 一九七〇年代後半から八〇年代の資本主義世界が、革命的危機を迎えるとのマンデルの予測は、現実にならなかった。マンデルはそれを、階級闘争の未成熟に起因するものと説明する。「その(革命的危機が成熟しない)理由ははっきりしている。労働者階級の客観的力量と組織性がかつてない高まりを見せているにもかかわらず、また古い官僚装置の支配に異議申し立てをする新しい労働者の前衛が、まさに資本主義ヨーロッパをおおう多くの工場や組合の内部に登場しつつあるにもかかわらず、伝統的官僚装置の抑圧的かつ盲目的な役割は依然として巨大であり、労働運動の内部にはそれに十分説得的に対抗し得るだけの政治的力量が欠けているからである」(『現代の世界恐慌』)。
 だが、労働運動の「政治的力量が欠けている」ことははじめから明らかではなかったかという点を問わないとしても、このような説明では、資本主義経済が六〇年代末以降の危機の後でも成長(この成長のシステムが、ソ連・東ヨーロッパの巨大な民衆を引きつける力を保有していることは最近証明された)を持続しているのはなぜかという問いにこたえることはできない。よくて同義反復にしかならないこの種の理論からもたらされるものは、マルクス主義の危機についての極端な無自覚以外にはない。
 レギュラシオン理論は、労働組合をレギュラシオン様式の中心的制度としてとらえている。フォーディズム的成長のシステムでは、団体交渉がレギュラシオンの要の位置を占めている。実際、現代の「先進資本主義」諸国の労働組合は、資本主義を打倒するための武器としてではなく、プロレタリアートを資本主義の成長システムに統合していく不可欠の構造として機能してきたし、今日も機能している。それは単に、「古い」官僚装置が大衆を裏切って機関を占拠しつづけているということとは、別のことである。
 第二次世界大戦後の資本主義の歴史が、資本主義的成長のシステムにプロレタリアートを統合するレギュラシオン様式の開発の歴史であったという理解が現実的であるとするなら、レギュラシオン学派とともに、次のような問題を考える必要があるだろう。「……(危機の諸形態の分析が明らかにするのは)資本制的社会関係の一定の弾力性であり、その精密な形態を変化させる能力を備えているということである。……有名な決まり文句をいいかえて、『根本はなにも変わらないようにと、すべてがつねに変わっている』と言ってはいけないだろうか。だからといって逆にまた、資本主義の乗り越え不可能性を結論しなければならないのだろうか」(ロベール・ボワイエ『レギュラシオン理論』)。

  「社会主義の敗北」と新しい課題

 レギュラシオン理論の方法的な独自性と新しい挑戦はきわめて魅力的であることについては、少なくない人々が同意するであろう。しかしそのことと、レギュラシオン理論が発展途上の理論であることとは別のことではない。この学派には、十分に踏み込んでいない領域が多く残されており、とくに「原理論」の分野ではそうである。彼らの魅力の少なくない源泉が、「可能性」から発していると言える。
 われわれは、レギュラシオン理論の問題提起から、とくに、マルクス主義の教条主義的な理解に対する次のような批判をうけとめることが重要であると思う。
 第一に、発展に関する「唯物史観」の図式的な定式化と一体となって理解されてきた、資本主義崩壊の「必然性」に関する理論である。世界史には、奴隷制社会から資本主義に向かう段階的継起の普遍的法則が内在しているという理論は、支配的体制となった資本主義の到達点から、人類史を一面的にとらえ直したものであると言えるだろう。資本主義の宿命的な没落をこの段階論にもとづいて予言する主観主義は、資本主義自身の内部では解決することのできない、社会的生産と私的所有との矛盾の爆発としての周期的な過剰生産恐慌に関する理論のなかに、経済学的な裏づけを得てきた。だが、第二次世界大戦以後の資本主義世界経済の繁栄が、一時的な政治的要因の組み合わせがもたらした例外的な事態にすぎないものではなく、資本主義経済自身の内部における新しい調整システムの創出にもとづく新しい蓄積体制の確立によるものであることを主張するレギュラシオン理論にとっては、いくたびもむなしく繰り返されてきた資本主義の自動的な退場の予告が、どんな現実性も失っているのは自明なことである。この点について、われわれはレギュラシオン理論に説得力があることを認めなければならない。
第二は、社会発展の段階的継起の理論に対応する純粋経済学的な「原理論」を克服する問題である。これは、新古典派の市場理論を相対化して展開された「ケインズ革命」に比較できるような作業を、マルクス主義経済学の領域で積極的におこなうものとも言える。だが、この分野では、レギュラシオン理論の功績はまだ限られたもので、体系的な成果として確立されてはいない。しかし、個別資本主義の分析の中で提出されてきたいくつものするどい問題提起は、この領域に関わる重要な基礎研究としての意義を持っている。
 これらの批判的活動は、次の二つの意味での最近起こった「社会主義の敗北」によって、いっそうの重要性を与えられた。そのひとつは、「先進資本主義」諸国において、社会主義をめざす運動してのプロレタリアートの階級闘争の敗北と解体がますます進んでいることであり、他のひとつは、ソ連・東欧の官僚的社会主義が、急激かつ連鎖的に崩壊しつつあることである。
 「社会主義の敗北」を解明し、来るべき新しい時代の新しい立脚点になり得る立場を積極的に模索すること以外には、革命に向かって前進しようとする理論の今日の課題はないといっても良い。批判的レギュラシオン理論の魅力は、現実に生起したことに新しい角度から光を当て、陳腐化した「正統的」説明に満足できない人々に、現実の深部に到達する希望を抱かせるところにある。
 だが、新しい課題はレギュラシオン理論自身に対してもつきつけられているのであり、彼らがそれにすでにこたえたということはできない。「正統的社会主義」が現実性を失っていることは確実であるにせよ、世界が危機に直面していることはまぎれもない現実であり、間に合わせでないオルターナティブが必要なのである。危機は何に向かって、何によって克服されるべきであろうか。彼らの真価は、その問いに関して示されなければならないであろう。

  資本主義の世界化と賃労働関係

 レギュラシオン理論のもっとも説得力のある議論は、生産様式としての資本主義の理解を階級関係を根底に置いて組み立てたことであり、資本蓄積の異なる構造を区別するキー概念として賃労働関係を提起したことである。
資本主義経済において、労働力は他の商品と同様に、一個の商品である。だが、この商品は、売り手である労働者自身から切り離すことができない。労働力を購買する者は、社会的実存たる労働者との契約関係を締結しなければならない。
 現実の労働者は、多様な歴史的背景の中で共同体的に形成されてきた人間集団・社会の一員である。それぞれの共同体・社会を成立させているものは、独自の価値意識・目的意識であり、それにもとづいてそれぞれの集団を規定する合理性が存在する。資本蓄積の量的大きさに帰結する資本主義的な経済合理性が、これらの人間集団の第一義的な合理性と合致するとは限らない。
 多様な社会には多様な合理性が存在することが普遍的なのであり、資本主義的合理性からは一見非合理な行動が、共同社会的合理性において適合的であることがしばしばある。人間はその属する集団・社会の共同の目的のために活動し、時には生命をさえ投げ出すことがあるが、その行為を資本主義的経済合理性だけを基準にして評価することはできない。
 資本主義的生産様式の世界化、レギュラシオン理論風に言えば「賃労働関係」の拡大は、さまざまの共同体的合理性の闘争と共存を資本主義内化し、その資本主義的経済合理性との接合のさまざまの形態を、市場的現実の中に取り込むこととなった。多様な価値意識に立脚する労動力の混在の中で、商品としての人間と人間としての人間の対立が経済的諸矛盾の奥深くを規定している。
 このようにして、資本主義の矛盾は、労働力自身の矛盾として現実に存在する。「調整」の必然性も、本質的にはここに根ざしている。
 資本主義の本質的矛盾は、生産の社会化と生産手段の私有との対立であると一般的に定式化されてきた。だが、この矛盾の爆発的な表出が社会的危機を深化させるとき、支配的規範として社会をおおっている資本主義的経済合理性の表層を突き破って、共同体的価値が浮上してくる。現実化した異なる合理性の対立は、資本主義的規範についての一見不動の社会的確認に動揺を持ち込み、体制が危機をはらむことになる。なぜなら、この規範の普遍的成立のみが法と国家に道徳的根拠を与えているのである。資本主義的生産様式の危機を、同一の合理性の内部において対立する利害であるブルジョアジーとプロレタリアートの階級闘争の発展としてのみ把握する「純粋経済学」的な方法は、資本主義の世界化の中で有効性を喪失してきていると思われる。
 このような問題に直面している理論は、古い上着を脱ぎ捨てるように要求される。現代の理論的課題に挑戦するためには、経済学と歴史学は共同で働かなければならない。歴史の諸契機として表れる政治的なもの・文化的なもの・社会的なものと経済的なものとが、互いに働きかけ、互いに規定し、互いに他を産出していく過程を、総体として叙述することを、理論の役割としなければならない。

  どのような解決か

 民主主義について議論する場合にも、同じ枠組みのなかで進めなければならない。「純粋経済学」的に対抗する諸階級が構成する民主主義は、真の危機に陥りにくい。したがって、民主主義の永続的な基盤は国民経済の成立であるということが言える。だが他方では、国民経済としての資本主義の現代的な発展は、異なる合理性の対抗をはらみながら達成された。現代民主主義は、純粋な市場原理の政治的アナロジーのレベルをこえて、本質的に相異なる諸社会・諸集団の統合のための「制度化された妥協」として、レギュラシオン・システムとして構築されてきたのである。
 本紙前々号ですでにふれたが、レギュラシオン学派が提起する危機解決策は、は、市場と生産システムの民主主義的再組織として方向づけられている。この提案は、未だデッサンのレベルをこえるものではないだろうが、それはそうとして、私は二つの点で問題を感じる。
 第一に、この提案は危機の当面の解決という性格を持っており、暫定的な印象を拭えない。「レギュラシオン」の危機を新たな「レギュラシオン」の創出によって克服していくのである限り、解決は常に「一時的」である。「現実的な有効性」を問題にすることを事実上拒否しているような「革命的」批判が武器として用いる「根本的解決」は、形而上学であるとのそしりを免れないが、人類のより公平で豊かな共生を可能にする新しい社会・新しい生産様式へのアプローチの視点がなければ、いかなる「解決」も真に積極的ではない。
 この点について、レギュラシオン学派の特徴的な方法についての懸念がある。レギュラシオン理論は個別分析を徹底するところから総体的な認識に達しようとする。だが、全体的な構造の把握から展望の創出へと進むためには、現実を凝視する努力以上のものが要求される。経済学は好むと好まざるとにかかわらず、体系的理論である。個別分析を通じて把握された構造の核を、原理として定立することなしには、「正統派」(マルクス主義であれ新古典派であれ)を根底から批判することができない。現在の危機が、支配的生産様式そのものの危機であるのかどうかを区別することも重要ではあるが、支配的生産様式そのものを克服する展望の中でどのような位置を与えられているのかが示されなければ、危機解決の提案は、何を解決するのかが明らかでない。
 彼らレギュラシオン学派は、自らの不十分さについて無自覚ではない。「批評家たちは当然にも、われわれのプロブレマティークにみられる多くの動揺、重大な粗雑さと欠陥を力説してきた。たとえそれから引き出されるべき帰結にかんしては意見が分かれることがあっても、われわれが提起した問題と挑戦はリアリティあるものであり、また、重要なものである。というわけで……『レギュラシオン理論では不都合なことがたくさんある。それは好都合だ、さあがんばろう!』と締めくくりたくなる。かくしてレギュラシオン理論は、幼年期の未熟性のうちに閉じ込もることはできない。それは青年期の危機に立ち向かわねばならない。当面は、もっとも手ごわくこれまで無視してきたいくつかの諸問題に真っ向から挑んで、自己革新をはからねばならないのである」(R・ボワイエ『レギュラシオン理論』)。
 彼らが提起した問題群について、いっそうの思考の努力と議論を進めることは、彼らだけの仕事であって良いはずがない。われわれは、「社会主義の敗北」のなかで、マルクス主義の理論的生命が危機にさらされているという自覚を持っている。マルクス主義の理論的再生の努力は、疑うべからざる「原則」とされてきたものの再検討を含み、レギュラシオン学派が提起した問題の広がりに正面から立ち向かえる質を持たなければならない。

  国民国家と資本主義

 第二の問題は、現代の資本主義経済において国家が果たす役割をどのようにとらえ、国家の位置と性格をどのようなものとして理解するかという、いわば国家論の領域にかかわる。アグリエッタも言うように、国家を「コンフリクト」の外側から経済活動に効果的に介入する超越的万能者として描くことは誤りであるし、「一階級の意のままになる道具」であるととらえることも一面的である。
 「国家はいわば、社会的調整がこのように未完成であることを政治的に表現したものである。国家の論理は制度化の論理である。国家は国内の不完全な制度化の直接の当事者であるが、これに対して、国家はより根本的な外在性を有している。つまり、他の国家主権によってのみ制限される普遍的な主権を有している。したがって国家は、既存の構造諸形態が作り出す社会的差異化構造の管理者になる。国家は社会の諸ノルムを要約する。こういうわけで社会諸関係は、国家においては、法の理念的な姿態として完全に抽象的な形態をとって現れるのである。同様に、調整の両義性もまた国家において全面化する。国家は構造諸形態を貫く社会的な緊張を総括するものである」(M・アグリエッタ『資本主義のレギュラシオン理論』)。
 アグリエッタの規定は、国家の法的機能の側面を強調している。だが、問題は、根本的に外在的なものとされる国家が、果たしてこの「総括」を持続的に制度化するための基盤をどこに求め、その強制力をどの源泉から汲んでくるのか、ということである。国家を単に経済政策の当事者としてとらえるだけでは決定的に不十分である。私は、「レギュラシオン」のシステム全体が、諸階級の国家への統合という基盤の上にはじめて成立している、と考える。いわば、「国民国家共同体」という一つの「土俵」に上がることによって、「コンフリクト」が規格化され、「総括」されうるものとなるのである。国民国家の成立は、諸階級の「国民化」の成果である。国民国家のもっとも重要な機能のひとつが、階級自体を「国民化」し、共同体内紛争の限界内に抑制することなのである。
 私の考えでは、戦後資本主義の復興から繁栄に向かう過程は、この「国民国家共同体」に諸階級が統合されていく過程であった。国家は、諸階級の外側にそびえる外在物ではなく、国民自身のものであるという建て前を築くことに成功した。そのようなものとして、現代民主主義が成立した。
 私はかつて、第二次世界大戦前までの民主主義と現代民主主義を区別して、次のような議論を提起した。「現代民主主義自体が、危機に対応するシステムではないのだろうか。……現代民主主義は、ボナパルチズム・ファシズムの没落と破産の歴史的経験を教訓化した新たな階級統合システムとして開発された。社会経済的な階級統合の危機として表出する資本主義経済の危機を、支配のシステムの根底的な危機へと連動せしめずに、吸収し克服する、いわば『回復機能』を内在させた政府形態として現代民主主義は構築されてきた。それは諸階級から『自立』した国家の、日常的なまた危機に対応する調整・管理・統合機能をもっとも促進する政府形態として自覚的に運用されている。このことは、七〇年代初頭に到来した『石油危機』に対する帝国主義諸国家の危機管理の共通した成功によって、劇的に証明されたと思われる」(『ボナパルチズム論再考』)。
 レギュラシオン学派の個別分析の中には、国家を理解するするための優れた、興味深い研究がある。M・アグリエッタは、アメリカ国民の政治的な起源からもたらされた進歩主義的イデオロギーとしての「フロンティアの原理」が、資本主義の発展と国家の建設を、人民大衆の意識において同一化したとし、アメリカ資本主義の蓄積体制の一般的前提条件の分析をそこから始めている。
 またユグ・ベルトランは、フランスの戦後について、次のように言う。「レジスタンスの戦列はきわめて広範にわたっており、コミュニストからドゴール派や進歩的クリスチャンにまで広がり、また組織された労働者階級から近代主義的ブルジョアジーにまで及んでいた。そこに新しい指導的階級が形成されたのだ。この階級が望んでいたのは、戦争以前の状態への復帰などではなかった。彼らが望んでいたものとは、力強い新たなフランスの復興であり、近代的先進工業国フランスを構築し、連合国アメリカが持っていた強力な武器を、今度は自ら使いこなせるフランスを建設することであった。彼らはもとより、アメリカに対して深い猜疑心を抱くナショナリストではあったものの、その彼らがフランスに、フランス流の『アメリカ』を建設することになるのだ」(『世紀末資本主義』)。
 これらの研究は興味深いものであり、そこで使われている方法は、大いに発展させられるべきものであると思う。

  おわりに

 以上により、レギュラシオン理論についての解説めいた検討を終わりにしたい。この理論が提供している新しい視点と方法を学び、われわれ自身が現代の理論的課題に挑戦するための手がかりにしなければならないと考えている。もちろん、われわれがこの理論に対しても決して無批判的ではないことを改めて強調する必要はないだろう。だが、結論的な検討にはいる前に、取り組まなければならない課題が幾つもある。
 今後についてであるが、三つの問題を設定するつもりである。
 帝国主義と低開発。
 市場の諸問題。
 ソ連経済の総括と展望(展望までいけるかどうかはわからないが)。
 意のある人には、少し長めのおつきあいをお願いしたい。
                     (第二章終わり)
「地域振興連絡協議会」の「公開シンポジューム」に対する     反対同盟(熱田派)の条件

 さる四月九日、三里塚芝山連合空港反対同盟(熱田派)は、「公開シンポジューム」への五項目の参加条件(別掲参照)を発表した。マスコミは反対同盟(熱田派)の条件つき参加方針という視点から大々的に取り上げ、全国の活動家にも少なくない衝撃を一時的には与えた。
 しかし、こうした意図的な報道とは裏腹に、同盟決定の実質は、「参加を決めたものではなく、強制収用放棄の確約の要求」であることが明らかになった。つまり、事業認定失効を頑として認めず伝家の宝刀としての強制収用策を常にちらつかせ、うむをいわさず警察力導入による代執行の脅しを背景とする政府・公団の「話合い路線」の茶番と子供だましに対する反対同盟の側の明確な態度表明の要求なのである。
 報道(千葉日報など)によれば、反対同盟の五条件のうち四つまでは振興連絡会でクリアできるという。だが最後の「強制収用の放棄の確約」が難問であり、政府・公団はなんとかあいまいなままに乗り切り策を検討中と伝えられる。事業認定から二〇年を経過し、法的にその失効が当然にも念頭にあがらねばならない現実に対して、政府・公団は過去の数々の発言を覆して「失効していない」と繰り返すだけであり、また千葉地裁はあらゆる政府の違法行為に対する判断を事実上回避し続け、まさに「無法の成田」すなわち警察支配の成田をつくることに全面的に手を貸してきた。こうした、民衆の民主主義にもとづく抵抗権の発動に対する権力の圧制という図式が三里塚闘争の当初からの明確な基調である。
 反対同盟(熱田派)のこの間の一貫した要求である「事業認定の失効」こそ、民主主義としての立場から、現行法体系の根本を撃つものである。「強制収用放棄の確約」は、事実上「事業認定の失効」を認めることになるのであるから、政府・公団にとっては「伝家の宝刀」の放棄、それもたんに三里塚の場に限定されない一般的法解釈としての意味をもつものとなる。他方、反対同盟(熱田派)にとっては、民主主義的「怒り」の一つの勝利になることは間違いない。
 熱田前代表が語るように、反対同盟(熱田派)は参加を決めたわけではない。参加のための条件闘争の一つとして「強制収用放棄の確約」を掲げたのでもないことを確認しておこう。(K)

資料
 この文書は、反対同盟が「公開シンポジューム」への参加を検討する前提として「少なくともこれだけの条件が満たされなければならない」とする「前提項目」である。
 「地域振興連絡協議会」(以下協議会と略す)から、我々反対同盟に対して、公開シンポジウムへの参加の要請がありました。我々は、その真意を測りかね、対応に苦慮してきましたが、その理由は次のとおりです。
 1、空港一期工事が住民の意向を無視して強行された。
 2、現在、二期工事も同様の手法で進められている。
 3、政府は、事業認定処分の失効を認めていない。
 4、警察の過剰警備による空港予定地内住民への日常的な人権侵害が行われている。
 このような状況下で、我々が、公開シンポジウムに参加するためには、少なくとも、左記に示す条件が満たされることが、必要であると考えます。

 地域振興連絡協議会(村山元英会長)への申し入れ
 1、協議会は、政府・運輸省に対して、二期工事の土地問題を解決するために、いかなる情況のもとにおいても強制的手段をとらないことを確約させること。
 2、学識経験者は、強制的手段を排して空港問題を解決することを、シンポジウムに参加する本旨とすること。
 3、協議会は、同盟と運輸省が対等の立場であることを保証する。
 4、我々は、シンポジウムを、相互の意見発表と議論の場と位置づける。
 5、我々は、シンポジウムにおいて、適正な議論が行われない場合は、シンポジウムのどの時点においても参加を拒否する権利を有する。

 なお、反対同盟事務局は、石井新二、相川勝重の両氏が、中立である協議会の役員としての任務をおびるため、同盟事務局員であることは公平を欠くので、役職を解くことにした。

 我々が、公開シンポジウムにおいて、主張すべき内容は以下の通りです。
 @二五年間の空港反対運動の意義
 A二期計画不要論及び航空行政批判
 B事業認定処分失効論
 C二期予定地及び周辺の地域再建計画

一九九一年四月九日
 三里塚芝山連合空港反対同盟(熱田派)

世界大会初参加の印象記(3)

第四インターを実感

                                       高山 徹

 第13回世界大会の議論は、間違いなくきわめて活発であったが、その内容はどうであったのか。印象的にしかならないが、この点を見てみよう。
 大会前に議案書を読んだ時点での感じは、何かはっきりしないというものだった。不勉強もあって、そのときにはまだ少数派の主張はわからないでいた。国際執行委員会(IEC)の多数派がそのまま多数派になっているのであるが、かつての国際多数派と少数派との関係のようなそれぞれがくっきりした政治主張をもっているのではなかった。現実の情勢と運動の中で苦闘している状況から導かれた多数派の主張はまだ一つの政治結論に達していないのではないか――これが大会に参加する前にもっていた印象であった。
 なお少数派といっても、その存在は一つではなく、いくつかの傾向が存在した。以下、少数派という場合、主として第四インターナショナル建設派(FIT)を意識している。この傾向が多数派との関係で対極的な位置にあった。
 最初の回に述べたように私の理解力の問題があるから、疑問符が残るが、大会前にもっていた印象は変わらなかったといえる。一九八五年の第12回世界大会からの情勢変化は、一九八九年のソ連・東欧情勢の激動に象徴されていたように、単なる情勢の変化というにとどまらず、歴史の転換であり、それは革命組織にとってはそれ自身のあり方の枠組みを検討することを余儀なくさせられる、そうした性格をもつものであった。
 したがって、問題はどれだけくっきりした政治結論をもっているかではなく、政治討論がどの方向に向かっているのか、この点をはっきりさせることが重要であろう。
 大会の議案は、「世界情勢、ソ連情勢、ラテンアメリカと資本主義ヨーロッパの情勢、ラテンアメリカと帝国主義諸国における女性解放に関する諸問題、帝国主義諸国における女性解放運動の状況、大衆組織および第四インターナショナル指導機関のフェミニナイゼーション(女性化)、第四インターナショナルの指導機関建設について」(インターナショナル・ビューポイント誌の世界大会報告から)であった。
 これらの議案を通じて多数派と少数派との大きな違いは、情勢の評価と第四インターナショナル建設の考え方にあった。

☆情勢評価の違い
 
 一つの少数派は、多数派の世界情勢の分析から次の部分を引用して激しく批判した。
 「この力関係の後退は、ドイツの帝国主義主導による統一、ニカラグアのサンディニスタ民族解放戦線の選挙での敗北と中米の情勢展開、南アフリカでの(ANCと政府との)交渉開始、キューバへの脅威、東欧の最初の選挙における独立系社会主義勢力の後退、日本とアメリカの労働者運動の不活発、西ヨーロッパ労働者運動の守勢的局面などの事実によって示されている。この間、国際階級闘争のいくつかの戦線で革命運動は防衛局面にあった」
 少数派は、これを第12回世界大会の情勢評価からの転換だと指摘する。前の世界大会は「資本主義の現在の危機の局面は、資本主義の歴史にかつてない最も深刻な危機をもたらした諸要因の結合と規定される」「確かにアメリカ帝国主義のヘゲモニーは、第二次世界大戦後のシステムを相対的に安定させてきた要因であるが、ワシントンの方針は今日、資本主義秩序を国際的に不安定化させる要因になりつつある」といっていたと引用する。
 そして多数派は「もはや帝国主義の危機が加速化される時代ではなく、階級間の力関係が不安定な均衡状態にあるのでさえなく、労働者階級の側が後退、衰退、防衛の局面にある」と情勢を評価していると結論する。国際情勢をめぐってこれほどはっきりした違いが存在したことはないともいう。
 こうした観点から、この少数派は、多数派を悲観主義、客観主義と批判することになる。
 別の少数派は、帝国主義の側が一定の程度攻勢にあることを認めながら、しかし帝国主義が矛盾を解決する力をもたないので労働者、人民との対立の深まりを予測し、そこでの闘争の発展の可能性を強調する。
 これに対して多数派の同志たちは、情勢を現実的にみることの重要性を強調する。労働者階級の現状をリアルにとらえることの重要性を強調する。
 例えばスウェーデンの同志は、次のようにいう。少数派がいうように帝国主義が矛盾を解決できないのはそのとおりであるが、しかし労働組合が組織率の点からみても明らかなように全般的に弱体化していることを、われわれの党建設に有利な情勢ととらえることは間違いである。労組の全般的な後退は明らかに階級の後退であり、社会党や共産党の状況は、階級の中で真空に近い。リアルに階級間の力関係を認識すれば、明らかに不利であり、現実の階級闘争に具体的に参加していくことが必要である。綱領の宣伝、扇動では、この力関係を少しも変えられない。
 同じくスウェーデンの同志は、多数派の主張を支持することを前提にして、労働者階級の側の困難さの一つの側面を次のように述べた。多国籍企業は先端産業の育成に成功し、それが急速に拡大してきた。これが労働者運動に大きな変化をおよぼした。それは、先端産業の中で行われた労働力の変化の問題である。つまり女性や移民労働者が積極的に採用されていく傾向の出現であり、この傾向が先端産業から他の産業部門にも拡大していった。その結果、熟練労働者を中心にした労働組合が後退し、労働者の数が増えながらも労働組合が弱体化していくという逆説的な事態が生まれた。しかし、ここに新しい可能性が示されている。
 IECの報告者は、湾岸戦争を今日の世界情勢を最も劇的に表現するものとしてとらえ、帝国主義の攻勢と認識した上で、そのイニシアティブが可能になった三つの要因を次のように説明した。
 @イギリスの炭鉱労働組合の敗北や日本の労働組合運動に典型的に示される世界的な労働者運動の後退。Aニカラグア革命の政治的敗北、これはとりわけ「社会主義陣営」の不十分な支援、帝国主義諸国の中米革命連帯闘争の不足、弱さの結果としてのサンディニスタ民族解放戦線の孤立の結果である。B最も重要な要因は、東欧の事態、つまり官僚独裁の敗北である。これは、労働者国家の破産であり、指令的計画経済を基礎にした一つの力学が終わったことを、つまり資本主義に対する生産力上の敗北を意味している。そして労働者運動が一定の復活を見たにもかかわらず、その高揚の力学も一時的に停止した。この停止の大きな要因は帝国主義の生産力にある。
 情勢を主体的にとらえたときに最も重要な問題は、社会主義が疑問視されていること、社会主義への信頼性が大きく後退したことである、と。
 議論を聞いていて、少数派の主張にひかれる点は少しもなかった。確かに湾岸戦争に反対する運動が相当に高揚している中で、労働者運動が後退しているという主張に反発する気分は理解しないわけではないが、ベトナム反戦闘争との比較はあっても、労働者運動を歴史的に考える視点がないと感じざるをえなかった。
 多数派のキーワードのは、現状をリアルにそれ自身として認識すること、問題を歴史的にとらえる――ではなかったかと思う。さきに引用したスウェーデンの同志たちは、労働者階級の状況全体をできるだけ現実に即してとらえ、そこでの問題点、課題を把握しようとしている。少数派は、われわれにとっての可能性がどこにあるのか、われわれが労働者階級と結合できる場はどこにあるのか――問題をただこの一点から立てているようであった。
 ソ連情勢に関する討論の中で、IEC多数派の報告者は少数派の主張をとらえて、少数派は一九八〇年代以降の状況しか見ていないが、スターリニズムの危機を一九三〇年代からの流れの中で認識する必要があると批判していた。
 私は、自分がトロツキストになった理由の一つがトロツキーが革命を歴史の流れとして洞察することにあると思っているから、これまでの第四インターナショナルがこの点でどうかなという疑問があった。ある多数派の同志は、第二次世界大戦にも匹敵する画期的な歴史的転換期にあるといっていたが、こうした転換期が必然的に問題を歴史的にとらえることを要求したのであろうし、また、考え方の点でも変化があるのかもしれない。
 なおラテンアメリカの同志たちは、ほぼ一様にペレストロイカのラテンアメリカや第三世界の階級闘争におよぼす否定的な影響にふれていた。また、帝国主義の側の攻勢がIMFや世界銀行といった諸機関の各国経済に対する指令として現れている現実を指摘する同志が多かった。

☆組織建設論の違い

 第二の大きな対立点は、組織建設、第四インターナショナル建設であった。
 第12回世界大会では、新しい労働者インターナショナルの考えが提出された。今回の大会では、議案ではこの考えが不明確になっていたが、対立の図式はむしろ労働者インターナショナル対第四インターナショナル建設ではなく、第四インターナショナル建設専念派対そうでない派という印象を与えた。IEC多数派の組織路線は少なくとも言葉上ははっきりしないものであった。
 この議論は、情勢認識の対立から直接にもたらされる面と、そうではない側面とがあった。
 少数派の情勢認識は労働者運動の高揚が基調であるから、階級対決の場所で直接に第四インターナショナルを建設せよ、ということになる。例えば、ソ連・東欧圏での資本主義復活の問題に関係して、次のようにいう。資本主義の復活に真に抵抗できるのは労働者階級だけであり、現実にそうした運動はすでに起きている。問題は、そうした対決の場所にわれわれの組織をつくることだ、われわれは最良の機会に直面しているのだ、と。
 多数派は、これに対して労働者階級の長期的な再編過程がはじまっているのだから、この過程全体にどう対応していくのか、ここに組織建設の中心問題があると主張する。そして実践的には、前衛的傾向の再編に注目し、他潮流との結合を推進していこうとする。かつてドイツで行ったような第四インターナショナル支部の解散、他潮流との融合も辞さないという戦術である。
 少数派が多数派を悲観主義と批判したのに対して、多数派は少数派を宣伝主義と批判する。マンデル同志は次のようにいう。帝国主義やブルジョアジーの側が危機にあるのは事実であるが、現実の労働者階級の運動は防衛的である。この事実を認めることは、悲観主義でもなく敗北主義でもない。例えばドイツで高々数百人の組織で何ができるのか、数百人の組織でできるのは宣伝だけである。問題は階級の組織をつくることだ、と。
 この発言に対して、異色の少数派のある同志は、次のように主張した。労働者階級の多数が社会主義とスターリニズムとを同一視しているのは事実だが、問題はここにあるのではない。社会主義への新しい信頼性を与えるための活動が重要であり、それは単なる宣伝・扇動ではない。今日かつてなく客観情勢と主体とのギャップが拡大している。宣伝・扇動の任務は、綱領的分岐をつくり出していくための任務の一つである。スターリニズムが崩壊した中でわれわれにとっての可能性は大きい。確かにわれわれの力は弱いが、現在の湾岸戦争反対の運動にみられるような大衆運動の統一に成功すれば、小さな力でも大きな運動を形成できるし、綱領的分岐をつくり出せる、と。
 多数派の同志たちがほぼ共通に少数派批判として発言していた内容の一つは、労働者の運動の高揚や様々な政治的な分化は革命党(第四インターナショナル)建設に直結しないということであった。
 少数派の第四インターナショナル建設の主張は、確かに運動の展望を戦略的な任務に短絡させているという印象を与えた。だが多数派の主張もまた、労働者階級の再編過程に対応するという戦略的な任務と実際的な組織建設の戦術を短絡させているという印象をもたざるをえなかった。
 
 今回の世界大会には、様々な組織、個人から第四インターナショナルへのあいさつ、期待が表明された。「第四インターナショナルは、人類が直面している新たな、苦痛にみちた諸問題について明確で完全な回答をもっているとは主張しない。第四インターナショナルは、こうした問題に関して討論を行おうとするすべての人々と議論する。だが現在、全世界の様々な諸潮流に参照点を提出しうる一貫した回答を提起しようと努力している唯一の国際組織は第四インターナショナルだけである」(インターナショナル・ビューポイント誌の世界大会報告)。この報告に現在の第四インターナショナルの位置が集約されていると思う。
 第四インターナショナルは明らかに「明確で完全な回答をもって」いない。現在の世界で、そのような回答を誰ももちえていない。今日の歴史の大きな転換期の中で第四インターナショナルは、転換の過程から生まれてくるに違いない新しい流れにかけようとしているように思えた。第12回世界大会では、それは労働者インターナショナルと呼ばれたが、今回の大会では名前もはっきりしなかった。
 新しい流れは、社会主義の再検討、マルクス主義の再検討をへてくっきりした姿を表すに違いない。第四インターナショナルが合流していくためにどのような苦闘が必要なのか――これが次の世界大会までの最も重要な課題に違いない。
 なお、今回を含めて三回の報告が私の個人的なものであることを改めてお断りしておく。  (おわり)
新刊紹介(大村書店)
「ブラックジャコバン」
ハイチ革命――フランス革命と同時進行した周辺革命

 この書は、自ら西インド諸島に生まれた黒人である著者が、第二次世界大戦前夜の緊張の時代に、アフリカ解放、そして黒人の負わされてきた歴史の重荷に対する告発の情熱をかけて書き上げた作品で、ハイチ革命についての今では古典的となったといえるすぐれた作品であるばかりでなく、第二次大戦後の黒人運動、反植民地主義運動にもつらなる重要な意味をもった歴史的といえる書物である。
 ある意味では、日本語になるのが遅すぎたくらいといえるが、そのことはハイチ革命について、あるいは黒人の歴史、植民地支配の底辺の歴史についての日本の側での視点の在り方の欠落を示すものともいえる。それだけに本書刊行の意義を大きい。
 ハイチでは一七九一年八月に黒人奴隷たちが反乱を起こし、そのなかからトゥサン・ルヴェルチュール、デサリーヌ、クリストフら元奴隷の指導者たちが頭角をあらわし、そして一八〇四年にはフランスからの独立を宣言する。
 このハイチ革命は、まず第一に奴隷革命としては世界史上で唯一の成功例である。第二に、その結果誕生したハイチ共和国は、世界史上はじめての黒人共和国となった。第三に、西半球では米国につぐ二番目の独立国となり、その後のラテンアメリカ諸国の独立の口火をきった。そして最後に、反乱に参加した黒人奴隷の三分の二がハイチ生まれでなくアフリカ生まれだったことからすれば、彼ら自身の故郷から離れた地においてであれ、西欧諸国による侵略・植民地化からの「先住民」自身による解放の最初の成功例であったといえなくもないだろう。
 このような評価は、今日ではほとんど異論なく受け入れられるとみてよい。だが、ハイチ革命を今日の時点で特に取り上げて論ずる理由がある。ハイチで奴隷解放革命が進行していた頃、植民地本国フランスでも最も徹底した市民革命と評価されるフランス革命が進行していたからである。そして一九八九年はフランス革命の端緒となったあのバスティーユ牢獄襲撃の一七八九年七月十四日から数えて二〇〇年にあたり、当のフランスをはじめ、世界各地でさまざまな記念行事やシンポジウムが開催された。
 日本でも、フランス史の研究者に加えて、日本史やソ連史の研究者をまじえて活発な議論がかわされた。残念だったことは、フランス革命とはけっして無縁ではなかったはずのハイチ革命にはほとんど触れられなかったことである。議論には、「周辺からみたフランス革命」という視点が欠けていた。近代世界史の見直しのために検討すべき重要な一つの史実がハイチ革命なのである。
 次のトロツキストであった著者についての紹介を、本書解題から要約しておく。
 C・L・R・ジェームズは、一九〇一年にカリブ海のトリニダード島で黒人中間階級の教師の息子として生まれた。奨学金を得て、当時島の最高の中等教育機関であったクィーンズ・ロイヤル・カレッジを卒業した。同校に教師として残った彼は、クリケット選手として活躍する一方で、小説や評論にも手を染めて植民地抑圧や人種差別を鋭く告発した。『コンロンブスからカストロまで――カリブ海史、一四九二―一九六九』の著者であるE・ウィリアムズ(一九一一―八三年)は、このカレッジでジェームズの授業を受けた。この二人のカリブの巨星は、後に政治的見解の相違によって激しく対立するが、お互いの学問上の業績における植民地主義からの解放への信念に対する尊敬の念についてはけっして変わることがなかった。
 一九三二年クリケットが縁となってジェームズは、イギリス・ランカシャーのネルソンに移住し、本格的な著作活動に入った。クリケットの通信記者として『マンチェスター・ガーディアン』紙や『グラスゴー・ヘラルド』紙などに寄稿しながら、独立労働党(ILP),さらに革命的社会主義者同盟(RSL)のメンバーとして、マルクス主義理論研究と政治活動に参加した。同時にまた国際アフリカ人サービス・ビューローの機関誌『インターナショナル・アフリカン・オピニオン』の編集にも携わった。
 この時期の彼の著作には、『世界革命、一九一七―一九三六』(一九三七年、邦訳、対馬忠行・塚本圭訳、風媒社、一九七一年)と本書『ブラック・ジャコバン――トゥサン・ルヴェルチュールとハイチ革命』(一九三八年)がある。
 ジェームズは、本書を世に問うことによって、アフリカ人とその子孫であるアメリカおよびカリブの黒人たちには自立した政府などもてるはずがないという植民地主義的プロパガンダにたいして、史実によって反論しようとした。しかし本書が、たんなる被抑圧人民側の熱望の表出ではなく、マルクス主義者としての分析眼をもった冷静な被抑圧者が語る歴史書であることは、革命指導者トゥサンの栄光のみならず悲劇を論じた部分からも明らかであろう。
 一九三八年米国に渡ったジェームズは、産業労働者や小作農の闘争、南部における黒人運動に参加するなかで、国家資本主義の本質と発展に関する研究を深め、黒人運動が社会主義革命に果たす役割を理論化し、国際プロレタリア主義を主張した。その結果ジェームズは、スターリン主義的党官僚制は民衆の意思を疎外し革命の遂行を阻むものであるとして、伝統的前衛党の普遍的な有効性を否定し、独立マルクス主義者としての政治的立場を明確に表明するにいたった。
 一九五三年マッカーシズムの嵐が吹き荒れる米国から追放されたジェームズは、イギリスに居を定め、デトロイトの『コレスポンダンス』紙を通じて政治評論活動を継続した。そして一九六〇年代にはいって、彼が長年にわたってかかわりを保ってきたパンアフリカニズム運動は、アフリカ植民地解放運動の波の高まりのなかで高揚期を迎えた。そしてカリブ地域においては、英領の島々が独立を達成しようとしていた。このころトリニダード島に帰ったジェームズは、連邦労働党(FLP)の書記長となり、人民国家運動党(PNM)を率いるE・ウィリアムズとともに、西インド諸島連合樹立のために精力的に活動をつづけた。
 しかし一九五八年いったん成立した西インド諸島連合国家は、自島の利益の分散を恐れる大規模諸島が、一九六二年以降つぎつぎに分離独立を図ったことによって解体してしまった。ウィリアムズとの共闘も、このような分離独立、および対米政策やチャグアラマス海軍基地問題をめぐる意見対立によって終わりをつげることになった。その結果ジェームズは、トリニダード独立の日(一九六二年八月三十一日)を目前にしながら、イギリスに去ってしまったのである。
 一九六五年にジェームズは、クリケット通信記者の肩書でふたたびトリニダード島に戻るが、ただちに島政府は自宅拘禁措置をとった。しかし島民の批判の声は大きく、その年のうちに活動の自由をとりもどして、『われら人民』紙を創刊し、労農党(WPP)の基盤づくりを終えたうえでイギリスに向かうことができた。それ以降イギリスに居住するジェームズの活動は、イギリスや米国やアフリカの進歩的ジャーナリズムの諸組織との連携、全米各地の大学における講義、カリブ地域での活動、さらにはクリケット評論への健筆など、広範囲にわたっている。
 一九八九年六月、ロンドンにて永眠した。(K)