2007年10月10日        労働者の力             第 211号

生活建直し・反改憲の闘いの課題
来る衆議院選をはっきり射程にとらえた闘いへ

寺中徹

   
 9月12日、安部は突如政権を投げ出した。自ら召集した臨時国会で所信を明らかにしながら、野党からの代表質問を前に、いわば「最高指揮官が敵前逃亡」したのだ。まさに前代未聞の、考えられないような醜態である。前月号で呼びかけた安部打倒という課題自体は意味を失ったが、そこで指摘した自・公政権の危機は、思いもよらない形で白日の下に引き出された。
 それだけではなくこの安部の醜態は、日本の支配階級にさらに困難を上乗せしている。参院選敗北の打撃の克服に向けて、例えば麻生の豪語のように「ぶっ壊された党を立て直す」として思い描いた彼らの当面の方策は、動き出すことさえなく文字通り水泡に帰した。彼らは改めて方策を練り直さなくてはならない。しかしここに孕まれた危機の性格は、そのような実務面の障害を越えて、後述のように実はもっと深刻だ。
 いずれにしろともかくもこの危機への対処として、新たに福田が担ぎ出され、9月26日福田内閣が発足した。ほぼ3週間無為のまま過ぎた臨時国会は、10月1日の福田の所信表明をもってやっと動き出した。
 あまりに予測を越えた展開を前に、全体的にいささか毒気を抜かれた気分が漂っている気配がないではない。確かに福田内閣はかなりの高支持率を背に船出した。政治を舞台にめまぐるしく展開するこの状況は、支配階級の基本政策の転換を切実に求める労働者民衆の闘いに、何を要求するのだろうか。

何よりも先ず自立した決起を

 ともかく先ず、「構造改革」と名付けられた新自由主義的社会経済改造路線に対して、さらに米軍の対テロ戦争1体化路線に対して、具体的な要求を押し立てて政策転換を実際に追求する闘いのさらなる大胆な展開がなお一層決定的に重要なものとなっている。日本の支配階級の政治的自滅とも言うべき上記した混乱の中、事実上まさに政治は空白となり、労働者民衆に押し付けられた生活破壊の進行は、何らの手を打たれることもなく放置されている。例えば、先の参院選を通じて大問題となった「年金問題への対処」は、どの程度進んでいるのだろうか。担当大臣の派手な言動は目立っている。しかし、消えた年金の第三者機関による回復は遅々として進まず、5千万件の名前の照合も進行がはかばかしくない、などと報道されているのだ。
 与党の基本政策総体の拒否という形で、人々の苦しみの根源にあるものを、労働者民衆は今参院選でかなりの程度的確に指し示した。しかし参院選に込められた人々の政策転換要求は応えられていない。参院選に流れ込んだ支配層に対する人々の怒りと不信は、政策転換を政府に迫る行動へと、運動と闘争へと引き継がれる以外にない。
 そしてまさしく、労働者民衆は現に闘いを推し進めている。集団自決に対する軍の命令を消した教科書検定に対して、沖縄の人々はまさに空前の怒りの集会を実現した。リストラや非正規問題を焦点とした労働者の闘いは粘り強く進められ、そこには新しい闘いも加わっている。薬害肝炎患者は厚生労働省を追い詰めつつある。改憲に反対する闘いは、さらに裾野を厚くし、戦争体験の新たな掘り起こしなども含め運動の多彩さもより豊かさを見せている。
 そしてこれらの闘いの前進を前に、参院選の惨敗とそれにきびすを接して突発した安部の無惨な逃亡を経た今、支配階級は明らかに動揺を隠せないでいる。ここ十年以上、人々の要求を物の数ではないかのように見下し、撥ね付けていた彼らの態度は、確かに一定程度揺らぎを見せ始めたように見える。ほんの2、3ヶ月前まで、教科書検定の撤回を要求する沖縄の民衆に対して、その要求を横柄にも、にべもなく突き返していた政府は今や、何らかの対処を臭わさざるを得なくなっている。労働ビッグバンを豪語していた経営者団体も今や、来年の派遣法見直しについては現状維持の線にまで後退、などと報道されている。薬害肝炎患者の要求に対して政府は一定の対処に踏み出すしかない。
 闘いには明らかに、人々を力付ける新たな環境が現れ始めている。その一部には、今回の選挙とその結果を通して一定程度表れ始めた、人々の意識の解放感も確実に含まれる。川田龍平選挙のスローガンであった「動けば変わる」は、現実に人々に届く可能性が確かに見え始めているのであり、その可能性は、運動総体の高まりによってさらに確かなものとなるだろう。今展開されている闘いをさらに高めると共に、先行する運動に引き続く形で、要求の貪欲な突き出しを、そして新たな決起を人々に呼びかけることが、今や極めて重要かつ大きな意味をもつものとなっている。

政治の場での決着は不可避

 しかし、人々が必要としている政策転換が現実のものとなるためには、上に強調したような闘いだけではほぼ確実に十分ではない。既に見たような運動にとっての局面的な環境変化を前提としたとき、いくつかの個別的な問題での小出しの部分的譲歩を得る可能性は、一定程度見通すことができると思われる。しかし、支配階級には現政策の基本線を譲るつもりは全くない。福田の所信表明はそれを如実に示した。彼が語ったことの基本は、あくまで「改革」の続行だ。その上で、政策の強行は控えるということと、「改革の陰の部分への配慮」が加えられたに過ぎない。「配慮」の具体的内容は要するに白紙だ。そのように見た時、労働者民衆にとってそれ自体は大切な成果となるとはいえ、あり得る小出しの譲歩は、支配階級が守りたい基本線を救い出し、次の局面まで延命させるための戦術として使われる、と見なければならないだろう。個別的譲歩の積み重ねの先に政策全体の転換を期待する、という観点はおそらく現実的ではない。
 こうして結論を先に言えば、人々が求める基本政策の転換は、政治の場で決着をつけなければならない、ということになる。社会を普遍的におおう枠組みの問題は政治の場でしか決着がつかないのであり、そして、今人々を苦しめ不安を与えている組となった基本政策の問題こそ、そのような普遍的枠組みの問題、と言ってよい。
 特に日本の現局面においては、上の結論は単なる一般論には終わらない。後述のような支配階級が今陥っている苦境は、政治の場での決着を通してしか抜け出すことが不可能な性格のものだからだ。彼らにとってもそのような決着がどうしても必要なのだ。民衆が意図しなくてもいずれは彼らの方から政治での決着は仕掛けられてくる。苦境に陥った政権によるそのような決着の仕掛けの最も近い例こそ、5年に小泉が仕掛けた「郵政選挙」に他ならない。その時労働者民衆はまさに虚を突かれ完敗した。労働者民衆は少なくとも、前回のように不意を打たれる訳には今回はいかない。我々は、今いる局面がそのような局面であることを、明確に確認しなければならない。
 そしてもちろん、その決着の場とは、先ず次の衆議院選挙に他ならない。

与党敗北の決め手は今の闘い

 従って支配階級の政治対応の全ては、彼らの考えるその決着の時を迎えるまで、来る衆議院選に勝つという1点に向け、もちろんあくまで彼らの主観的目算の範囲でのことだが、周到に計算されると思われる。小泉の場合よりも質的にはるかに深刻な苦境にある今彼らの対応の基本は、衆議員選挙を可能な限り先に延ばしながら、おそらく労働者民衆の益々高まることになる諸要求の圧力に耐え、それをかわす、というものとなるのではないだろうか。先に指摘した戦術的譲歩という対応もその1つとして位置がある、と考えることができる。おそらく彼らの願望としては、その期間に彼らの傷の回復を最大限に図り、そして彼らが主導できる形で選挙を設定したいということだろう。我々の前に差し出された福田政権とは、何よりもそのような役割りを託された政権であるに違いない。そして確かに麻生は、そのような役回りに適しているようには見えない。いずれにしても、現実に参議院という制度的バリケードがある以上、彼らに積極的政策展開の余地は限られている。
 しかし事態が支配階級が思い描く形で展開する保証は全くない。安部続投という彼らの目算は、まさに彼らに危機を、しかも倍化された形で残しただけで、あっという間に消え去った。ここに示されたものこそ現局面の特徴と言わなければならない。つまり、彼らが望むような形の衆議院選挙には何の保証もないのであり、それは、労働者民衆には自分たちが主導する選挙に持ち込む可能性がある、ということを意味する。そのような民衆主導の選挙を引き寄せる決め手こそ今の闘いの発展であり、それはまた民衆の望む結果を得るための重要な要素となる。
 労働者民衆が切に必要とする政策転換を引き寄せるためには何よりも先ず、間近に迫らざるを得ない衆議院選挙で、現与党を政権から確実に引き摺り下ろさなければならない。少なくとも現与党の政権が続くことになるとすれば、政策転換はほぼ絶対的にあり得ない。衆議院での彼らの勝利は、今不信任を突き付けられている彼らの基本政策に、形式だけであっても、あるいは十分とは言えないとしても、再び政治的大義を生き返らせることになるからだ。そしてまさにそのことによって、野党が握る参議院の政治的重みも自ずから相当程度削られるだろう。それはまた、支配階級による社会の全体的掌握を確実にするための、自民党主導による民主党を含めた大連立や、民主党分裂に向けた策動に格好の機会を提供するだろう。こうして、労働者民衆が求める政策転換は再度遠のくしかない。
 政権交代があるとして、確かに今見通せる限りでは、政府の中心には民主党が座るだろう。それ故、現与党を敗北させたとしても、それが自動的に人々の望む政策転換に結びつく保証はない。しかし、政権と民衆の力関係という側面においては、現与党との比較で民主党の非力さははっきりしている。今参院選が如実に示したように、来る衆院選での自・公の敗北も、民主党の独自的な力によってではなく、労働者民衆の総体的に自立した判断の結集の上でしか実現しない。そのような現実がある以上、政権につく民主党は、労働者民衆の大きな重圧の下に置かれるしかないのだ。その状況は政策転換を自動的に約束するわけではないが、そこに向けた労働者民衆の闘いに現在より確実に可能性を広げる。
 そうであればこそ労働者民衆には、この局面全体を貫いて、積極的な闘いを通じて行動の自立を独自に高めることが格段に重要な意味をもつことになる。
 ここに見てきた見通しに立った時、労働者民衆の独自の運動と闘いの、具体的要求を手に自立して立ち上がる動きの広がりの、本稿の最初で先ず強調した現局面での必要性と重要な意味は、必ず必要な政治の場での決着への攻め上りという側面でも決定的であることを、私は改めて強調したい。労働者民衆が独自の意思と意欲を下に今展開し発展させる闘いと運動が、単に個々の要求の当面の実現に止まらず、民衆の主導による次の衆院選の実現に、さらにそこでの現与党の敗北に、そして次の政権との政策をめぐる綱引きに、何よりも政治の不安定化が極度に高まっている現局面の性格の故に、決定的な力となり得るのだ。今現に展開している闘いを来る衆院選と切り離してはならない。

深刻さ深まる支配階級の危機

 では、支配階級の今の危機とはどのようなものだろうか。
 支配階級は今確かに、労働者民衆の要求を前に受身にならざるを得ないような、政策遂行上の重大な困難を抱え込んでいる
 先ず参院選が生み出した困難がある。改めて確認すれば、それは、この間彼らが遂行してきた基本政策に対する広範な人々の拒絶意思が疑問の余地なく多数であることが明白となり、その実効的結論として、彼らの政策遂行に対する制度的バリケードまでをも出現させたことである。実際的効果という面では、政策遂行に不可欠な法制度的後ろ盾を失うことになる後者が確かに重荷となる。とはいえ、より本質的には前者の意味が決定的に重い。彼らの基本政策から政治的大義が奪われたからだ。法制度的に後者の抜け道はあるとしても、政治的大義を奪われている状態では、それにやみくもに頼ることは難しい。この政治的大義の喪失は例えば、かつてはそれに疑問を差し挟むこと自体が侮蔑の対象とされた「構造改革」路線について、その路線の当否という問題が抜き差しならない形で提起されていることを彼らも今ではもはや否定できない、という形でも表れている。
 しかしことはそれだけでは済まなかった。彼らが担ぎ上げた首相からまさに最大級の打撃が加えられたのだ。後先を何も考えずに突如政権を投げ出すという安部がさらけ出した醜態は、国家の統治責任という権力の正統性の基礎を崩壊させる決定的に重大な背信行為であり、まさに国家権力を担う資格そのものを根底的に揺さぶる大失態というしかない。
 問題のこの性格からしても、ことは安部個人の問題に止まるわけがない。それが彼を担ぎ出した者総体の問題として問われることは、誰が見ても当然のことである。実際、支配階級総体が安部を最高権力者に担ぎ出し、なおかつ彼ら総体が、参院選惨敗後の続投という、人々の明示された意思を足蹴にする安部の判断をも、結局は容認したのだ。安部の醜態は、自・公両党とそれを支持する勢力総体の醜態であり、それ故それは、この勢力全体の権力を担う資格そのものに対する重い意味のある疑念を、人々の心の奥底に刻み付けずにはおかない。
 特に参院選後の安部の判断の容認には、そのような判断であっても人々の怒りと不信をかわすことが可能であり、現実に対する主導性を確保できるとする、彼らの決定的な、余りに安易な判断ミスが加わっている。それは、現実の冷徹な掌握と認識に対する彼らの現能力をも疑念にさらさずにはおかない。この事実も含めて、支配的エリート全体の政治的、道義的「権威」に安部の逃亡が残した深い傷は、そう簡単に癒える性格のものではないと私は考える。
 この政治的打撃の意味を支配階級もまた自覚していないわけはなく、程度は別として必ず自覚しているはずである。しかしその打撃の深さと広がりは、容易に推し測ることのできる性格のものではなく、またそこに即効性ある対策があるわけでもない。それだけにこの自覚は、民衆からの支持に対する漠とした不安に形を変えて残り続ける以外にない。
 なお今回の安部の醜態は、(復古主義的)国家主義のスターが国家を放り出したというものであり、国家主義勢力にとっても厳しい打撃とならざるを得ない。踏込みは省くが、それもまた自民党にとっては、無視できない波及力をもつのだ。
 この苦境からの脱出の道が政治の場にしかないことは明確である。問題の根源が彼らの政策に対する政治的大義の喪失にあるからであり、しかもそこには、政治権力の担当資格というより深い政治的道義に関わる信用失墜まで加わっている。そのような意味での総体的な政治的大義を回復することが彼らには切実に必要となっている。そしてその最低限の出発点が次の選挙での勝利にあることは、誰の目にも明らかだと思われる。
 しかし彼らには、その総選挙自体が現在難しい。不可避的に強いられる政策的停滞に彼らはどこまで耐えられるだろうか。彼らが守ろうとするものに迫る闘いをもって、彼らを望まぬ選挙に追立てる鍵は、まさに労働者民衆が握っている。その鍵で局面をこじ開ける機会は、先ず、目前のテロ特措法(あるいは新法)をめぐって差出されている
10月19日判決
NTT企業年金減額反対闘争   
訴訟参加団、勝利を確信!

      
電通労組・高橋喜一

 NTTが厚生労働省の「年金減額不承認」決定に対し国を訴えた「NTT企業年金不利益変更不承認処分取り消し訴訟」に対する判決が、いよいよ10月19日に言い渡される。
 この裁判は、4年4月からNTTが企業年金資産の悪化を理由に、現役世代の加入者1万人を対象に国債の流通利回りに連動して受取額が決まる「市場金利連動型」に「不利益変更」し、更に7年9月に既に年金を受給している14万5千人についても「年金減額」という不利益変更の申請に及んだことについて、国(厚生労働省)が「不承認」決定した事を「不服」とし、NTTグループ69社が国を相手取り「不承認取り消し」を要求し行政訴訟を起こした裁判である。
 当時,NTTは利益の最大化に向け「NTTの構造改革」11万人リストラ攻撃を推し進めてきた。それは、50歳以上の中高年労働者に「50歳退職再雇用」(NTT解雇攻撃)を強制しそれによって膨大な年金受給者を生み出すと共に、更にNTTを退職した「OB」の年金受給者・受給権者まで含めて減額対象にするという許しがたいものである。
 NTTの企業年金制度は、退職金の1部(最大28%)を年金原資として拠出し利子を付与し、「企業年金」として受給する仕組みである。「運用利子」については既に退職時の年金原資拠出段階(契約段階)で決まっている。それを「市場金利連動型」にすることによって切り下げようとしたのだ。

企業に国は手を出すな?

裁判におけるNTTの主張は、

@「当初約定した運用利率」を長期国債表面利回りに連動する「キャッシュバランス制度」にし、ほぼ物価上昇率にスライドして上昇・下降し実質的な給付価値を保全できるので法の予定する「減額申請」に該当しない。
A仮に「減額申請」になったとしても、「手続き要件」である受給権者の「3分の2」を上回る86.7%もの同意を得ている。
Bだから法が「減額申請承認」のための「理由要件」とした、「事業所の経営状況の悪化」「給付減額しなければ事業主が掛け金拠出が困難と見込まれるため給付減額がやむをえない」ことという「理由要件は緩やかに解されるべき」であり、厚生労働大臣による「不承認は取り消し」されるべき、

というもの。
 この裁判においてNTTは「企業の自主的判断・(多数組合NTT労組との)労使合意の尊重」を繰り返し主張している。即ち「労働者と受給権者の多数の合意」があり企業の経営方針に従って「年金を切り下げる」のだから、国は「承認・不承認」などの規制権限を行使するな、と言っているのだ。

横暴の極み!

 NTTは「国際大競争時代」を背景に利益の最大化を求めて、労働者がこれまでの闘いによって勝ちとった権利そのものを大幅に縮減し、「雇用確保」をキーワードに11万人にも及ぶ大リストラを強行してきた。企業と多数組合の合意があれば「何でも出来る」というこの論理は、労働者の権利や労働条件などは「企業の利益に従属されるもの」と言うに等しく、そこにあるものは、「労使対等」などの概念すら入り込む余地のないものに作り変えようとする労働法制の改悪攻撃と全く変らない。年金受給権者が取り交わした「契約」を多数の形式で押しつぶそうとすることは、まさにその傲慢さを示して余りある。
 更に、年金財政の悪化は本当に存在しているのかと言うところにメスをあててみると、NTTグループの連結決算は1度も赤字になっていないばかりか黒字を拡大してきている。平成13年度の当期純損益では確かに8000億円の損失になっているが、それはあくまで、海外投資失敗によってどぶに消えた1兆4000億円と、リストラ費用「NTT東西事業構造改革関連費用」としての6700億円を合わせて「特別損失」として計上したためだ。全てが経営者責任に直結するものなのだ(投資失敗の責任は誰もとっていない!)。
 その上、年金財政の「責任準備金」赤字は、11万人リストラによって多数の労働者を退職に追い込んだために、まさに彼らが受給権者を1挙的に増大させることによって創り出したものなのだ。本来「準備金の不足」が発生した場合には、企業が「積み立て補填」を行わなければならないものである。ところがNTTは、構造改革11万人リストラによって年金財政の赤字を創り出し、それを現役世代には年金制度の改悪、受給権者には約束した「利率」を切り下げ「受給額を減額」し、企業負担を免れようというのだ。まさにボッタクリであり、「金満企業NTT」のこのような横暴は絶対に許せるものではない。

さあ勝つぞ!

 怒れる年金受給者は、NTTグループの国を相手取った行政訴訟に対し、「訴訟の結果により権利を害される恐れがある第3者として訴訟に参加できる」という第3者の訴訟参加申し立てを行い、「当事者としての訴訟参加」を全体で600名を越す規模で実現してきた。国の反論は、「掛け金額の大幅上昇かつ拠出困難」、「経営状況悪化」というNTTグループ主張に対して、NTT東西の掛け金額、経営状況などから「受給者減額が企業年金存続のためにやむを得ないとは認められない」とした「減額不承認」に基づいて、「本当にNTTに減額しなければならない状況があったのかどうか」という減額の理由要件不存在を明らかにしている。
 この裁判は、NTT11万人リストラを推し進めている論理である「新自由主義」に対する闘いとして、極めて重要な位置にある。NTTは国を相手に、「企業利益を拡大する事がひいては国益につながるものだ。だから企業経営方針に国は関与するな!」と主張し、「労働者福祉などという企業に負担を求めるものは企業活動に取って有害なもの」とまで企業論理を振りかざしている。
 NTTの提訴に対し企業はこぞってNTT支持表明を行った。それは、「NTT企業年金減額承認」を突破口に、各企業においても労使合意を取り付け企業年金制度の改悪・廃止に突き進むことを、さらに「労使合意」が国の(下限)規制に優越するものという本来は労働者保護を図る観点を悪用し、それを軸に、資本の勝手がまかり通る「国の関与を受けない労使自治」の企業世界を作り出すことを狙っているからである。
 状況は、NTTの減額申請が承認され得ない流れにあると思われるが、なによりも、「NTTの敗北」をも梃子に、新自由主義と対決する働く者の論理をもって、新自由主義のもとで繰り広げられている攻撃に対峙する運動形成が重要である。NTT反リストラ裁判の帰趨も含め、NTT構造改革との思想的・運動的闘いは、様々な形で既に進んでいる。それらの闘いに力を与えるものとして、NTT構造改革のアキレス腱として浮上した年金裁判の勝利を、何としても勝ち取る!
 
 
イタリアの議論
反資本主義左翼のフェミニズム

               
リディア・キリロ

 
―今年の初め、イタリアにおけるシニスタ・クリティカ(批判左翼)連合は、フェミニストの宣言書に関しての立案書の討議を行った。イタリアでの特有の諸要素があるものの、リディア・キリロによる討論についての以下の記録は、マルクス主義者のフェミニストの諸分析のための多くの重要な問題を提起している―(IV編集部)

1、フェミニズムと民主主義、進歩的および革命的諸潮流

 フェミニズムは、女性たちが様々な階級や文化および異なった政治的関係点を持つが故に、複数の、諸フェミニズムというものの中におちいらざるにちがいない。例えば、イタリアでは右翼的議員やキャリア・ウーマンたちの間に、フェミニズムのひとつの形態があり、彼女らは、伝統的なフェミニストの論議を手助けとして権力の分与を主張し、排除や周辺化の力学に反対し、さまざまな差別への反対を求める。
 そして、しかもなお、フェミニズムは左翼において、革命的、民主的、あるいは進歩主義的諸潮流とともに、生まれ、再生する。1789年革命の余波として、19世紀の初めの半分の時期における国民の諸革命において、アメリカにおける奴隷制度廃止運動の内部において、1960年代、70年代の急進化の労働者運動と共に、そして国際的公正運動とともに…。
 右翼フェミニズムは、常に、そしてただ、左翼に生れた諸アイデアを拾い集めた結果である。それらはある種の文化的副産物であり、それは早いか遅いかではあれ、全体の社会を通じて影響を持ったものである。この現象は明らかな理由で説明されるが、すなわち、女性たちにとっては、左翼の男どもに対して、解放の名で、彼らの矛盾や思考パターン、用語の使い方を暴露することがより簡単である(あるいは難しさが少ない)からだ。平等、自己決定、解放、差違、革命などの概念は、政治諸潮流が苦心した諸概念のフェミニズム版であり、したがって、これらの組織に並ぶように、さまざまな形のフェミニズムが生まれ、再生してきたのである。
 こうした観察は、われわれにとって、フェミニズムと男性的な革命的、民主主義的、進歩主義諸傾向との関係の、理想的ないかなるビジョンを持つことも許さない。男たちのフェミニズムへの抵抗は根強いものであり、時には明白で暴力的であり、あるいは穏便であり、自覚なしの時もある。
 初期の社会主義運動は、サン・シモンやフーリエのような女性解放論者やプルードンやラサールのような表現しようのない女性嫌悪症の者も含んでいた。エンゲルスは、反資本主義フェミニズムの概念的基礎を作ったが、女性たちをプロレタリアートに類似し、男性たちをブルジョアジーに類似させ、種としての人類の社会的な組織化の基礎の生産、再生産の位置を明らかにしたが、後にはこうした洞察力は理論的、実践的に失われた。労働者運動における女性嫌悪や反フェミニズムに関しては最高に発展した歴史を書くことはできるが、このテキストでは今日の反資本主義左翼における、最も広がりつつある2つの対応に言及できるだけである。
 1般には、フェミニズムに敬意を表することやプロレタリア的、フェミニスト的および革命的未来を展望することを拒否する荒技は、ほとんどの人は使わない。しかしながら、こうした概念は、ほとんど興味を伴っていない。曲折し、異なり、複雑なフェミニストの苦心はほとんど広くは知られないままである。すなわち、性別とは、人間諸関係の論理の理解のために入れ替えることの出来ない枠組みであることが見過ごされているのである。
 もう1つの態度、真実を言えばより数は少ないが、家父長主義の男たちである。彼らは女性たちにフェミニズムを教えることを求め、その仕事と論議の目録作りを設定し、リードしようとする。当然だが、われわれはある男性がある女性よりも女性たちの政治やフェミニズムを知り、理解する可能性を排除は出来ない。にもかかわらず、フェミニズムは、知的、心理的な自立に接近する女性たちそれ自身が生みだし、強化し、更新してきたのである。それはゆっくりし、曲がりくねった過程かもしれないが、しかし代行物はないのだ。
 自立性なしには、反資本主義左翼の女性たちですら、性分離主義者の陣営に理論的、実践的に落ち込むという後退をさせられる。このフェミニズムはそれ自身、独立的な思考と性別社会の力学を、より適切に読みとる能力を示してきた。同時に、それは学者社会での求めや外観を表現したり、階級的対立への関心の薄い女性たちのいかなる集合において、常に自らの特別な要求を女性たち一般の要求として表現する傾向を示してきた。
 
2、家父長主義の構造

 フェミニズムを理解することは、すべて以前に、女性と男性の間の力関係を理解することを意味する。今日、ポストフェミニズムが存在し、それはいまだ抑圧があることを否認し、少なくとも世界の1部では公的な平等性が達成されてきたと主張する。「特殊差別」定式(フォーミュラ)がその流れに基盤を与えているが、それ以上に、新しいものが発見されるであろう唯一の理由ではない。次のように言うべきである。いかなる人間社会も、例外なく、潜在的な家父長主義構造を抱いており、それは女性たちに対する異なった方式での差別であり、排除、抑圧、暴力行為である。家父長主義は、文字通りの意味で、財産と社会的位置が父親から男性の子供、ほとんどは最初に生まれた男の子供に継承される関係システムである。北西社会(他にもあるが)において、この社会関係の再生産の形が存在しないか、あるいは現実性が薄められ、複雑化していることは明白である。
 しかしながら、権力の男性型継承の論理は、法的、公的外観を明らかに越えて存在しているが、人類学的な次元を持ち、そして2世紀にわたる解放のための闘いはその排除に成功してはいない。第4回国連の女性会議は、抑圧に関してもっとも楽観主義の理論家たちですら驚くような報告を提出した。例を上げれば、世界で土地と不動産を保有している女性たちは、3―4%を越えていないということである。それ以上に、アムネスティ・インターナショナルの女性への暴力に関する報告はよりきつい驚きと裏付けをもたらした。しかし、もっとも簡単な家父長主義の理解の道は、ヨーロッパの女性たちの出生から死に至る生存の危機を追うことである。
 他の多くの社会において、われわれは選択的堕胎や、少年たちよりも多くの少女たちが栄養失調で亡くなることを発見している。われわれの社会でも、家父長主義の構造は後者を選択し始めている。彼女らの人生の始まりの年々において、女性へと向かう困難な道において、フロイトが「気力喪失」と名付けたある現象と出会う。すなわち、彼女らはペニスを持っていないことに気づき、苦痛の劣等意識と知的能力の条件付け、そしていかに彼女たちが自分自身を観察し、他の者達が自分らを観察するかということに導かれる。当初、フェミニズムは、フロイトが男性の見てくれを女性のそれに重ねたという議論を手がかりに「気力喪失」理論に対応しようとしたが、しかし、後には、問題ははるかに複雑であることを明らかにした。
 もしフロイトが、誰かが疑ったように、ただ少女たちと少年の見方を取り違えたというならば、彼はとんでもない誤りを行ったということになる。とすれば、われわれは彼の西欧型思考への巨大な影響の理由を説明できないだろう。そして、それは西欧だけではないのである。「気力喪失」理論は、女性たちが自らが気力喪失されていると見、何かが欠如しており奪われているという結果を試す、臨床的な試みに結びついている。それ故、「気力喪失」は1つの思想的役割を演じる。それは、権力関係の「上部」にいる人々の視点である。劣等化理論は男性の偏見からは出てこない。それは女性たちの無意識の中にある現実なのである。実際、女性たちはペニスではなく男根をうらやむ。それはその多様性と複合性に力を持ち、その中で、ペニスは単なる男根崇拝の物神にすぎない。
 他の例。女性たちへの暴力は、アムネスティ・インターナショナルのデータが遂に明らかにした活動余地と広がりを持っている。しかしながら、1人の個別な女性は、人生で暴力に会う機会を持たないかもしれない。自然が、われわれに死をもたらす疾病以外では。そしてそれでも、彼女の生命は暴力によって深く条件付けられることはある。なぜなら、暴力の危険性は予防策、人生計画、心理的対応を課すからである。世界が男性の道具として作られてきたことの広がりは、犠牲者が牢獄に入るという矛盾によって証明されている。社会を貫いている家父長主義構造は、女性たち、とりわけ若い女性たちにとって、差別が暴力の危険性の主要な理由になるということにしているのだ。
 多くの諸例が提供されることができる。例とすれば、女性たちの二重の労働の日々がある。彼女たちは、かつては男性の独占であった仕事を取り、同時にいかなる相互扶助も欠いている。あるいは、公的な場での男性たちの圧迫がある。それらは、リズムと方式を持ち、女性たち自身のものと対抗し、あるいは再び男性単独の支配の何千年で築かれ、具現化した女性主義者たちの規範化されたイメージを打ち出すのだ。
 イタリアでは若い世代で何かが変化しているように見えるが、こうした変化はゆっくりした物で、不確定的である。
 これら最近の構造の他の効果はより複雑であり、指摘し定義することは更に難しい。われわれはわが性とともに考えているが、それはおそらく精神分析学者たちが行っているよりは少ないだろうが、しかし、われわれはわが性とともにしっかりと思考している。もしも、男性たちが数千年も文化的単独体制をとってきたのが真実であるならば、そうした場合、妨げ仮説には可能性がある。この仮説は、女性が特殊に構築され、形作られた知識の場を貫こうとするいずれの時も、彼女は、男性たちのサインやシンボルで石化させられた森林を横切らねばならず、そこにおいて彼女は道を見いだすのにはるかな困難性を持つであろう、とする。
 女性たちの政治における存在を感じさせる道は、家父長構造存在との諸関係である。彼らの沈黙、限定された存在、そして彼らの不確実性とともに、女性たちはすべての政治的場での批判を実践する。提供された政治的母体において男性の存在と支配がより強ければ、その母体はさらにますます、力の論理に対応する必要があるのだ。
 人は論理的命題を前に出し、提案や等式を形作るかもしれない。政治機構、軍隊、聖職者などは、もっとも男性主義的であり、その理由は、彼らもまた権力に深く巻き込まれているからである。様々な理由で、これらの機構は女性たちとの共同行為ができる。批判や女性たちの不在が目立つことを回避すること、信頼性の回復やあるいは彼らが社会的母体との関係を必要としているからだ。
 もっとも意味深い男性と女性の分類例は、正確にはカソリック教会である。巨大な大衆的分野と関係を築き、時には飢えた人に食料を供給し、渇望者の渇望を癒しつつ、それは女性たちのエネルギーや彼ら自身の救済者としての視点なしにはやっていけないのだ。教会は女性たちに脇腹を開き、そこから深く社会に浸透し、女性たちには固く閉じられた権力装置のドームを建て、宗教に特有の旧態依然とした人間関係を保持する能力を印象づける。
 
3、イタリアにおける反資本主義フェミニズムための3つの鍵

 家父長主義構造は、女性たちの生活や、女性位置を築くために、異なった時期や地域での、どちらかといえば異なった方法という条件付けをする。すごい数の諸要求―例としては2000年の世界女性行進の場でまとめられた―は世界的規模での未解決の諸問題の広がりを示した。アフガニスタンの女性たちはフランスやドイツの女性たちが経験してきたこととは異なった諸問題を抱えているし、同じ時代のイタリアでの中心課題は、フェミニストが出会った最初の波である、その19世紀や20世紀の数十年に前線隊列にあったものではない。異なった社会環境、異なった世代と異なった女性たちの切望にあって、女性たちが克服しなければならない障害物が同じ物でないことは明らかだ。
 しかしながら、われわれは、年代主義的幻想を否定しなければならないし、われわれ自身がほとんど解放を確実にしてきたということを信じてはならないのだ。もしも以下のことが真実であるとすれば、公式的同等性が達成されたときには、より複雑な業務がフェミニズムを待ち受けている。闘争がすでに勝利し、諸問題が表面的にはすでに解決されて、そして古風な諸関係が、われわれと向き合うために再び登場するのだ。女性たちに対する暴力は鮮明な例であり、そのより大きな可視性は変化と補足的説明を携えている。今日、女性たちはよりしきりに、以前の時期には我慢をせざるをえなかった状況に対抗して叫ばなければならない。公的見解はどんどんと、笑い飛ばされる諸問題によってスキャンダル化され、男たちは逆抗し、権力関係ではよく起こるが、逆向きの態度と報復的暴力が結びつく。
 反資本主義左翼フェミニストは、プロレタリア女性たちの要求と意欲にのみ呼びかけるのではいけない。総体の女性たちの求めに責任を負わなければならないのだ。自然的に、わが関与はある種の層を対象としているから、労働婦人たち、移民労働者失業の女性、解放主義の女性学生、左翼政党の女性たち、諸運動と労働組合の諸要求が前線隊列にあることは明らかなことだ。
 ここに、われわれが最近従事し、そして近き将来において重要であろう諸論点の例がある。

a、戦争、軍国主義および暴力の批判

 女性たちの政治は、永続的な戦争によって作られる軍事的男性主義の流れに特別の批判の方法を持っている。それは、女性たちの平和的性格や非暴力性という考え方に陥らずに、である。非暴力は、暴力の別の現れである。両者共に、当然とされている力関係の性質を代えはしない。暴力は、それらに挑戦する者達への永久的な抑止力である。他方、非暴力は2つの側面のただ1つを武装解除するのであり、その側面は「下部」、すなわち、抑圧、搾取、略奪への従属である。イタリアにおけるもっとも明白な証明は、非暴力のスポークスパーソンたちであるが、彼らは抑圧されている人々の暴力に非妥協であり、結局は議会においてアフガニスタンにおけるイタリアの軍事任務への新たな信任に投票したのだ。
 より俊敏なフェミニズムは、すでに想定される女たちの平和的性質はかなりの程度で、男たちとの権力関係がその展開を許さないために起きる、積極性の内部化と結合していると説明してきた。軍事主義と暴力(すべての上に女性たちへの暴力がある)の批判は、奴隷的状態や抑圧の理想化以外の多くの物事に依存している。女性たちは何よりも先に、そのことを実践できる。というのも、男性主義の構造が基礎づいている固定観念に順応する必要はないからだ。彼女らは、きびしさや強さを求めない。そうしたものは男性主義に結びついた亡霊である。男性たちというより、彼女らは暴力に支配される社会関係の荒廃に左右されているのだ。権力関係が根ざしている暴力(性関係、階級関係、国家関係など)に抗してわがフェミニズムは、そもそもすべて、諸関係が廃止されている社会を対置する。それゆえ、それは抵抗、闘争、そして根本的変革の計画を支持するのである。
 それは、戦争、軍国主義、軍隊、そして彼らの階層性組織に抗する。それは、暴力が、暴力に対する正当な必要な反応だとは考えない。それは、いかなる人の人生も貴重な物であり、そしてこうした考えが、けっして、死刑のみならず残酷さや法的自己防衛の過剰にも対抗する。しかしながら、それは非暴力を原理とはしない、というのも、それは自己の道を防衛するための解放のための権利を承認するからである。
 わがフェミニズムはまた、女性たちに対する暴力に対して、なによりも自己防衛の論理において反応する。当然ながら、われわれは女性たちの男性たちに対する武装した自己防衛を言うつもりはない。というのも、性的関係はきわめて違った方法で調整されるからである。それは、問題がペニスの調節によって解かれるとは信じない。仮に、それが、国家的防御が必要であり、現在的には他に方法がないと考えているとしても。自己防衛により、それは女性たちの反暴力センターの建設、創立のイニシアティブを主張する。そう公言することは、犠牲者たちに対立するものではないし、都市での生活が女性たちの要求から始まるように組織されるためであり、そうして女性たちは、非合理性、顕在的あるいは潜在的暴力のコストに耐える必要がなくなるのである。
 最後に、それは女性たちの政治が、しばしば、解放のダイナミズムが民主主義的、進歩主義的あるいは革命運動の中の武装された人々によって支援された時においては、表面的だけだが、非武装化されることを思い起こす。ナチズム/ファシズム(例えば)への抵抗は、フェミニズムと女性たちに対して重要なインパクトを持った。

b、カソリック原理主義に対する非宗教性と自己決定権

 われわれはカソリック教会がいまだに国家的存在であるとみなし、その中で時折りの力を実行する、そういう国に住んでいる。それはけっして自己を世俗的な位置には置かなかったし、気ままなままに、その確保をあらゆる手段において闘い続けている。近年、右翼権力の台頭と政治システムがカソリックの政治的力の能力のために重なり合い、階層的で単一的な影響を持つ聖職者の押し出しを増大させる脅迫を行っている。
 法に認められた、自由な堕胎の利用はさまざまな方法での挑戦にさらされてきた。薬学的堕胎の実験的用法は阻止されてきた。1つの恐るべき法が是認されてきた。それは、胎児を妊娠の瞬間から法的対象であると規定しているのである。さらに、われわれはゲイやレスビアン・カップルの是認のいかなる形にもきわめて厳しく、しばしば攻撃的で人種差別的な反対を見てきた。少し以前、筋ジストロフィの末期患者、ピエルジオルジオ・ウエルビイの苦しい体験は、医師の市民的不服従行為によって終わった。何ヶ月もの間、ウエルビイは機械からはずしてくれと嘆願してきた。その機械は、彼を苦痛の中に生かし、そして短い時期により苦しい死さえもたらすであろうものであった。彼の要求は騒々しい政治的事件となった。そこにおいて、ヴァチカン官僚主義は判事たちと医師たちに対して、その力で、圧力と脅しを加えたのだ。
 カソリック原理主義(原理主義のあらゆる他の形のように)は、女性たちやホモセクシュアルの人々だけに脅しを加えるのではなく、すべての解放過程、すなわち教会階層の政治行動を越える状況や博愛主義者、平和主義者の影響に対しても脅しを向ける。彼らは戦争反対の立場をとったが、その後イタリア軍の「平和行動」の考えを支持した。彼らは移民たちに対する歓迎の立場を宣伝するが、しかしその後は差別的反移民法を実行する右翼政府を支えた。それ以上に、われわれが忘れてならないのは、カソリック教会はファシズムの台頭に好意を持った諸組織の1つであり、そして20年以上もその体制を支えたということである。
 明らかに、平和、親切および民主主義は、カソリック聖職者にとっては正統右翼との権益的関係に結びつける諸問題、すなわち、時の権力をを実現しようとする右翼のために、教会に忠誠なる人々のみならず、全国の日常生活を統制しようとすることなどに較べれば小さな問題である。近年、フェミニストや同性愛運動が、カソリック原理主義に抗する唯一の力となってきたのだ。
 フェミニズムのためにとっては、ある種の方向性不定が、こうした抵抗が長い間、弱体であったことを意味してきている。もっとも扱いにくい時にだが、生殖技術に関する法が準備され、それから右翼政府によって認可された時、フェミニスト組織やグループは討論に明け暮れた。そこでは明らかなことだが、カソリックの勢力のより洗練された議論がより関心を引いた。つまり、科学研究の注意すべき影響に関する心配事に関して、である。
 フランケンシュタインを作り出した科学者たちの亡霊、女性たちの生殖能力の喪失に関する古風な恐れ、科学研究の限界に関する深く根付いた関心、卵子の密売買における多国籍企業の役割がすべて結びついてイニシアティブのブレーキとなった。結果として、フェミニストはこの問題に関する討論を越えてより進むことには成功しなかった。これは、この法に関する国民投票が敗北したもう1つの理由である。事実、それは2つの理由で敗北した。第1は、選挙の極めて低い投票数で、とても定数に達するほど充分ではなかった。討論下にある問題は複雑であり、また極めて限られた人しか直接的経験を持っていない妊娠中絶に対しては背を向けていた。2番目は、1方では妊娠の最初の3ヶ月における堕胎の無罪化に関する法の国民投票の場合には、実際上は何年ものの不服従や、また自己決定に関する女性たちの権利に属する論議に続くものであったが、今回の技術生殖に関する国民投票は、投票の前のほんの数ヶ月で実践化され、そしてこの文脈においては、メディアが決定的な役割を演じた。
 その後、女嫌いで反動的な性格は明白であったが、法的に正当な妊娠中絶の利用に関する直接の攻撃が女性運動を行動において押し戻し、そして2006年1月、ミラノでの数十万の女性たちによるデモがきつい返答を提供した。まさに同じ日、GLBTQ運動の主な組織たち、レスビアン、ゲイの男たち、性転換の人々を含んで、PACS(市民同盟の認可)のためにデモを行った。そして2006年総体が、非宗教主義、自己決定の諸課題についてのデモ、率先行動、闘争を特徴としたのだ。
 
c、女性労働者の権利の防衛
 
 矛盾的だが、賃金労働者の敗北とグローバリゼーションは女性たちに新たな労働機会を提供してきた。これは新たな矛盾ではない。階級関係の歴史においていくらかの方式で見られてきたものである。
 女性たちは、彼女らが最初に世界市場に現れたとき、経済組織で好まれてきた。なぜなら、これらの経済組織は高労働力の現実による生産と、こうした低賃金、労働組合組織の制限そして権利の厳しい限界に依存しているからである。ヨーロッパにおいてもまた、労働者運動が弱体化を続けている時に、それは女性たちの、男性労働力への競争という問題を受け入れざるを得なかった。それは、少なくとも、労働運動の初期の時期の女性嫌いの視点の部分的な説明である。女性労働者の権利の防衛はこうしてまた、女性を雇うことを好むことで生れる雇用者たちの利益を減退させるという動機をはらんでいたのである。
 女性たちは、もっとも発展した諸国の経済組織で好まれてきた。そこではサービス部門が成長し、賃金労働者たちの権利への激しい攻撃があり、すべては広範な、分子化した臨時雇い化の過程を通ってきた。
 コインの裏側は、すべての賃金労働者に影響を与える臨時労働が女性たちへの選好性を持つが、その彼女たちにとって、常用労働はほとんど不可能になってきた。母性保護法はこの文脈では恒久職雇用への強い回避心として作用する。のみならず、より以上の競争的で専門的な原動力において、女性たちは背後に留まるか、あるいは専門職と子供育成の間の選択を迫られるかの運命から逃れられない。真実を言えば、多くの場合、女性の個人的な人生計画があろうとも、職業の選択は不可能である。というのも、子供育成の何年間を持つ女性であるということは、企業や固定的職におけるパートナーシップのための可能性を限界づけるからである。
 それ以上に、教育のような職業の場においての危機がある。そこではまあまあな給料ではあるが、しかしそこでの労働の時間と権利は、多くの女性たちの人生選択との競合的関係にある。
 こうした問題に直面して、フェミニズムは過去においてそれ自身、女性たちの特有の権利の要求を新たにする交渉を行う際に、職業を得るにあたっての困難さの増大という危険性と、そうした権利を放棄することで、早いか遅いかは別にして、解決不可能な矛盾に落ち込んでしまったことを見いだした。
 問題は、性的見解からだけでは解決しない。防衛は女性たちにとって仕事を見いだすことをより困難にするのである。社会関係が、階級関係を従属化することには好意的ではない時代である。ファシズムが妊娠の強い防衛者であったことは偶然ではない。そうした理由のために、法は女性たちに、男性たちとは異なる存在として労働することを認めているが、充分ではない。差別を不可能にする雇用形態を課すことがまた必要なのだ。イタリアにおいて、1970年代に、短時間労働の配置の改革で雇用者たちに、工場に彼らが望むより以上の女性たちを入れることを押しつけた。しかし、多くの他の方法も可能である。
 権利という点で、展望や考え方はまた、変わらなければならない。これは、女性たちのための可能性の少ない特別の権利を要求することであり、男性のではなく、女性の見地から出発する平等性を今までと変わって要求することである。この観点から、われわれはヨーロッパ基準である女性たちの夜間労働禁止の排除を拒否し、そのことが男性にも同じく適用されるべきであること、それはまったく代替行為が出来ない夜間労働の特別のケースを除いて、である。
 こうした基準は、それが人間の肉体的な除去できない違いの問題となると、明らかにもはや適用できない。このことは、妊娠や子供の出生などでの、完全な収入保障での休暇などの特別の権利があること、費用なしの法的中絶の権利、年を加えた女性たちのための出産方法の援助の権利を意味する。この場合、違いは優先しなければならない。なぜなら関係し、破壊されるのは女性の身体と生活であり、男たちには決めるための平等の権利の基礎などはもはやないからである。
 
※リディア・キリロは1966年以来の第4インターイタリア支部のメンバーである。フェミニスト活動家であり、イタリアでの世界女性行進の指導部でありつつ、彼女はまた、クオンデルニ・ヴィオラ(紫手帳、フェミニスト・レビユー)を発行してきた。彼女は、いくつかのフェミニスト労働に関する著者である。
(『インターナショナル・ビューポイント』電子版7・8月号)

 
 
 
 
 

 
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