2008年1月10日        労働者の力             第 214号

動き出した変革胎動の不可避的継続を見据え
福田政権打倒!

生活と社会の立て直し実現をめざす一貫した闘いを

寺中徹

 
 2007年をもって日本にも、どのような形であれ政治の刷新が不可避に進行せざるを得ない一時期が訪れた、と私は考える。実際、参院選後の昨年後半政治は、従来とは明らかに異なった動きへと、これまでの言わば落し所があらかじめ設定されるような、支配的エリートの思い描くものをはね返すものへと、変化し始めた。この変化がどの方向に、どれだけ進むのかは、何よりも労働者民衆の闘いにかかっている。

政治と社会の刷新は不可避だ

 今動き始めている刷新は、以下に見るように、歴史を画する変革へと展開せざるを得ない力学を内に孕んだ刷新である。実際客観的には、社会の立て直しが一体的課題となっている。その場合、単純に旧に復する、とは決してなり得ない。
 何よりも、労働者民衆の相対的に自立した政治介入が明確に始まっている。昨年の参院選に見られた独自的意思の際立つ投票行動はその一例と言える。拡大する政治的・社会的動揺は、次に挙げる条件を前提としたとき、それを抑止するよりも促進する方向に働くだろう。そして先の自立化の深部には、この間一見政治とは距離を置く形で拡大してきた、実に多様な水平的で自律的な草の根における市民活動の蓄積や、新しい社会的意義申立ての始まりがある。
 第二に以上の条件と不可分の一体として、強い政策変更要求がある。その背景には、労働者民衆にとってはとうてい甘受できない、不条理そのものの現実があり、この現実が変わらない限り、この政策変更要求が弱まることは現時点では考え難い。
 さらに第三に、世界の大変動がいよいよ動かし難いものとなっている。その変動とどのような方向で自覚的に結びつこうとするのか、あるいはそこと切断しようとするのか、刷新はそれらの選択をも一つの対立軸として展開せざるを得ないだろう。何よりも改憲をめぐる対立は、この選択とも密接につながるはずだ。
 第一点に関して付け加えれば、政党の民衆組織化の弱体化を指摘したい。特に自民党の組織的空洞化は相当に激しい。経済的利権配分に加えて自民党が依拠してきた権威主義的民衆取りまとめは、経済的・社会的構造変化を前提とすれば、復活不可能だと思われる。一方における民主党の草の根基盤の弱さは明白であり、いずれにしろこの両政党を介した民衆の政治的統合は、当面かなり困難だろう。
 第二点の深刻さを詳しく確かめようとすればそれこそいくら紙面があっても足りない。7年にわたる賃金下落、全労働者の三分の一を超えさらになお増え続けている非正規雇用、1000万人を超える年収200万円以下の労働者、100万を超える生活保護世帯、蔓延する長時間労働と労働に起因する精神疾患、そしてその極限としての過労死と労災、歯止めのない米価下落に象徴される農家所得の危機的激減、必然的な零細事業者の苦境、金による事実上の排除が始まっている医療や介護や障害者福祉の切り刻みなど、数え上げればきりがないほどこの間の生活基盤破壊はすさまじかった。もちろんここには、利用からの排除を必然化する、あらかたの公共サービスの「民営化」が加わる。
 そして今も、例えば最低賃金は、僅かの上昇さえも経営側の抵抗を理由に実現の目処が立たない。そればかりか厚労省は、引き上げにつながると前宣伝した最低賃金法改正案成立後僅か数日も経たない内に、生活保護支給基準の切り下げに動いた。最賃法の改正眼目(生活保護支給基準との整合性確保)の効果を、事実上無力化するに等しい人をコケにした行為だ。この厚労省は、生残りがかかっていると言う以外ない派遣法の改正にも背を向け、今やハローワークさえ切り捨てようとしている。
 そしてその一方で、大独占資本の史上最高益更新が続き、勝ち組みと称される一部の人々の驚くほどの所得が伝えられる。彼らは自己責任、自助努力を率先して喚きたててきたが、様々な名目の助成金や約300にも上る租税特別処置、あるいは証券取引益特別減税など、その彼ら自身はしっかりと国家に手厚く手助けされ保護されているのだ。
 まさに不条理がこの日本を蓋っている。この現実の転換が些細な手直しで済むことはあり得ない。
 昨年参院選で人々は、押しつけられたこの現実が絶え難いものであることを、それが即刻抜本的に変えられなければならないことを、支配的エリートに極めてはっきりと突き付けた。上記の現実を見ればそこに意外を見る方がおかしい。その拒絶意思と政策変更要求の強さは、支配的エリートがこの間進めてきた政策遂行の行く手に実際に制度上のバリケードを築いたこと、さらにそのようになった結果への満足度の高さ(例えば選挙結果に対する世論調査結果)などによって明確に示されている。
 実際、支配的エリートがことある毎にあたかも一大事であるかのように口にする「政策停滞」は、労働者民衆からは何らの懸念とも見られていない、と言ってよい。自・公や福田政権への支持率揺り戻しが、それらの「停滞」故に起こるなどということはなかった。むしろ、政策の大胆な見直しに踏み出すことのできないこの政権の方が、支持率の急落に見まわれている。あるいは、「停滞」回避を名目に仕掛けられた大連立策動は、人々の猛反発を背景に一瞬の内に崩壊した。
 実際「停滞」は、消費税増税棚上げやインド洋からの海上自衛対引き戻しを始めとして、労働者民衆にとってむしろ望ましい。それ故、参院選後も引き続きさらに厚みを増した労働者民衆の抵抗が、そこに直接的にも間接的にも力を及ぼしている。
 第三点に関しては、パキスタンのブット元首相暗殺と収束の兆しも見えないサブプライムローンによる国際的金融危機として、政治と経済の両側面にわたる動揺の拡大が、年の変わり目に改めて象徴的に示された。特に後者は、これまでの数々の金融危機とは異なり、世界の中枢中の中枢が源となっている点で特筆に価する。かつての国際的金融危機は、アメリカの大金融資本にとっては格好の収奪源だった。しかしそのアメリカ金融資本は今回、産油国や中国の政府系ファンドに助けを請うしかなかったのだ。次の事実も象徴的だろう。即ち今、新自由主義政策の国際的司令塔の一つであったIMFは、利子収入の激減にあえぎ、15%にも上る人員リストラを迫られているのだ。
 新自由主義による世界の統合力は消耗しつつある。そして、新自由主義への反逆を着実に強めているラテンアメリカを挙げるまでもなく、そこには確実に、例え後退に終わったとしても尽きることなく続いてきた世界各地の労働者民衆による抵抗と、それらによる新自由主義の力の削ぎ落としがあった。世界の民衆はまさに世界を変える紛れもない主体となっている。この一文を書いている時点で、アメリカ大統領選の民主党予備選において、専門家筋から絶対的本命と見られていたヒラリーの大苦戦が伝えられている。アメリカにおいても、刷新は、エリート達の目にはとまらない地下深くで始まっているように見える。

刷新―継続的進行への力学

 上に見てきたような現実から考えれば、刷新は、政府首班の単なる首のすげ替えはもちろん、政党の組合せの変更に止まる形式的な政権交代や小手先の政策手直しでは、とうていすまないものとして、客観的には提起されている。それ故刷新は、当然一回の選挙でかたがつく過程とはなり得ない。途中での休止はあるとしても、それが短期の幕間となる可能性は相当に高いと想定可能だ。そうであれば我々は、この一時期全体を、刷新に働くこの継続的進展力学を促進する観点から、目的意識をもって闘いに取り組むことを求められる。
 それはまた、「我々は例えば10年後どのような社会に生きることを望むのか」との課題設定が、闘いの中で決定的に重要となることを意味している。確かに刷新を進展させる力はその刷新が実現させるはずの目的であり、先の問に対する回答はその目的として核心の位置を占める。
 しかし、先の問に対する回答は現実には、労働者民衆の中で今空白であり、それはこれから形作られなければならないものとして残されている。端的に、左翼諸政党の長く続いた深刻な後退は、先の問いのような社会構想の議論を可能とする、共有された基盤の極端な縮小を意味している。とりわけ若い世代との間には、大きな世代ギャップがあるものと考えなければならない。この現にある条件に見合った取り組みが今必要とされる。そうであればなおのこと、先の問いへの回答自身がまた、闘いと経験を背景とした民主的議論を通して拡張され発展させられるもの、と見なされるべきだろう。
 天下り的で固定的な回答の、あるいは固定的な進展図式の押し付けは許されない。それは刷新に向けた人々のエネルギーを絞め殺すだけだろう。現時点で可能なことは、刷新に向けた闘いに刺激を与えるものとしての、労働者民衆内部での議論の呼び水となる、さらに闘いの中でいつでも変更可能な、仮設的提案ということになるのではないだろうか。
 そのような想定を前提に、我々自身は新しい左翼政治潮流をめざす者の責任として、先のような提案に向け積極的に取り組むことに自覚的でありたい。
 その上で私は、現に与えられた条件において刷新を導く力をもつものが、具体的に差し出されていることを強調したい。出発点としての現時点ではそれこそが、労働者民衆が現に抱く強い政策変更要求に他ならない。ここから今まさに闘いは始まっている。
 そして見てきたようにこの政策変更要求には、社会そのものの作り変えへと進展する以外にない性格が、現在の条件の下では確実に潜んでいる。諸々の要求は、労働規制や環境規制をはじめとする市場規制の不可欠な再構築、社会保障再建を軸とした所得再配分、医療や介護をも含む公共サービスの、排除や差別を許さないものとしての本来的再建とその全民衆に開かれた管理運営制度の創出、などの社会的側面を今や否応なく押し出さざるを得ないだろう。そしてそれらは必然的に、地方自治体や政府の役割、国家財政構造、国家官僚機構のあり方、等などに波及して行く。政策変更として要求が特に政府に向けて意識されている今、この潜在しているものに光を当て力に変える道筋は、はるかに遠いわけではない。

越えなければならない通過点―自・公政権打倒へ

 いずれにしろ古いものが力を失い新しいものが生まれ出なければならないこの一時期、さらに支配的エリートの相対的権威失墜を背景に、何をやっても変わるはずがないとのあきらめが薄れるこの一時期こそ、望むこと、求めることがとりわけ決定的な力をもつ。川田龍平参議院議員の12年前を引き継いで、文字通り身を削る必死の闘いをもって、政権を遂に言わばねじ伏せた薬害C型肝炎被害者の闘いは、まさに大多数の人々に感動を与え、共感を勝ち取った。それだけではなくその闘いは、求めることのもつ力を改めて示した点でも、多くの人々に模範と勇気を与えたに違いない。
 2008年の闘いは、このように示された範を土台に、それを引き継ぐものとして、労働者民衆が内に秘めた「求めるもの」の抑制なき噴出により大きく道を開く形で展開されなければならないだろう。
 2007年は、非正規雇用の若者達の立ち上がりに見られるような、新しい自律的な反抗が一定の力をもち始めた年だった。加えて、昨年の参院選以降生まれた新しい政治条件は、少なくとも、要求自制という形で労働者民衆を長く抑えつけてきた重しを軽減する効果を生み出している。それらは、昨年の重大な成果、と言うべきだろう。目に見えてとは言えないとしても、発言と行動の積極性や大胆さは、いくつかの場面で確かに顔をのぞかせている。直接の生活破壊や、人を見下した働かせ方や無言の侮蔑を隠さない社会的処遇などは、今明らかに、人を萎縮させるものから怒りの対象へと、要求の源へと転換している。「偽装」に代表される明々白々な資本の犯罪的傲慢不遜の横行や労災の頻発を含めて、見せ掛けの陰に隠れた支配的エリートのお粗末さの露出は、そこにさらに力を与えずにはおかない。
 この客観的な状況変化において、先行する諸々の運動は、各々の要求を携えた人々の登場に対して、呼び水としての位置を占めるだろう。その位置を自覚した闘いが一層求められる。そこにおいてはおそらく、新しく登場する運動の自律的成長を信頼する、対等な仲間としての言わば謙虚さがとりわけ求められるのではないだろうか。そしてその上で、対等性を前提とした統一の場の追及に対する率先した働きかけを、特別に意識された任務とすることが要請されるだろう。
 統一は、歴史上何度も実証されてきたように、闘争の可能性と要求実現に向け、労働者民衆に勇気と希望を与える最高の武器であることを改めて確認したい。その模索が、具体的実践として一定程度重ねられている現在、それは何としても先に進められなければならない課題となっている。そしてその追求の中でこそまた、さまざまな個別の要求がつながり合い共に生かされる土台として、社会的に普遍化されたものへの要求の発展が、より実践的に求められるに違いない。
 2008年、派遣法改正を要求する闘い、生活保護支給基準切り下げの阻止と結びつけた最低賃金の大幅引き上げを要求する闘い、CO2排出量の数値規制要求の闘い、そして、対テロ戦争からの離脱を求めることと結合した反改憲の継続的闘いなど、以上に見てきた全体構図に力を与える闘いに不足はない。そして、それらの要求実現を労働者民衆の側から仕掛ける争点として、来るべき総選挙を自立した闘いを堅持しつつ迎え撃ち、それらの要求の正面に立つ敵対者でありこの間の生活破壊の責任者である自・公与党を、疑問の余地なく敗退させよう。(1月7日) 
薬害肝炎被害者一律救済訴え
  12/19 緊急全日行動
        熱い共感の波を駄目押し
        川田参議院議員が呼びかけ

 薬害肝炎訴訟の大阪高裁和解案に対する政府回答締切りを翌日に控え、予断を許さない緊張が高まっていた昨年12月19日、川田龍平参議院議員が緊急の全日行動を呼びかけた。午前8時半厚生労働省前から始まり、正午からの首相官邸前行動、そして夕方6時から有楽町街頭での訴えと、全1日の行動だ。川田さん自身はそれまで4週間、被害者原告団を支え厚労省前の行動を続けてきていた。
 問題となっていたことは、薬害発生に対する政府責任と一律救済。福田政権と与党はこの問題であいまいな態度に終始していた。原告の満足のいくように、などと言いつつ、一律救済を否定した和解案を楯に、行政は司法に介入できないなどとまでこじつけ、政府責任を認めることと一律救済にあくまで抵抗。政府や自民党から漏れてくる話は、要するにバナナの叩き売りのような金銭解決の話だけだった。
 しかし全国から上京した原告団はこの一ヶ月決してあきらめず、先の要求を堅持し政府や製薬企業などを相手に必死の訴えを続けた。病身をおし関係先を駆け巡り街頭に立ち、首相決断による最終解決を求めたのだ。病が進行し、あるいは命が尽きる被害者も出る中、時間はなかった。
 原告の求めは至極正当だった。薬害発生責任を争っていたのはあくまで政府と製薬企業。司法と行政の関係うんぬん、等を持ち出すまでもなく、原告の主張の正当性と政府の過ちを自ら認める気さえあれば、彼らが主張を取り下げ裁判を止めればいいだけだった。それを彼らはやるつもりがなかった。
 当日の行動は、この切羽詰った中で止むに止まれぬものとして呼びかけられた。あまり準備時間はなく、ハガキ、ファックス、メールなどでの呼びかけだった。平日にもかかわらずそれでも、厚労省前には数十名が駆け付け、昼以降も参加者が増えていった。報道陣も負けないほど多数集まり、終日取材を続けた。
 川田議員は前日議員会館を回り各議員にも参加を訴えたという。厚労省前には民主党の家西悟、山野井和則の両議員が、首相官邸前には両議員を含め、糸数慶子議員を始め紹介し切れないほど多数の議員も駆け付け、原告団を励ました。
 厚労省前では原告の武田せい子さんと桑田智子さんが訴えに立ち、首相官邸前には山口美智子全国原告団長を先頭にこの間東京で行動してきた全原告が合流した。夕方は原告団が先頭に立ち川田さんたちが支えるという形。
 これらの行動は、夕方の行動を中心にTV全キー局で放映された。昼以降の行動には、午前のTVニュースを見て急いで駆け付けた、という人達も加わっていた。原告団の訴えと行動に対する人々の熱い共感は明らかであり、この日の行動は、政府与党を民衆の厚い輪が包囲しギリギリと締付けていたことを、歴然と示す駄目押しとなった。
 その後の展開はそれこそ全国民周知の通りだ。政府与党は遂に屈服した。(K)  
 
NTTの乱・続報
「土休日営業」提案に
労働者の怒りさらに爆発!

         
高橋喜一(電通労組)11/30

 
 12月18日、NTT東日本本社前に東京三拠点(多摩、成増、千住)、神奈川、千葉、埼玉の各センターから「土休日営業の白紙撤回!」を要求し70名を超える「外販営業」労働者が結集した。

どこまで人をコケに

 NTT東日本コンシューマ事業本部は、「土休日営業」施策をNTT労使の合意の下に11月末の神奈川センター強行導入を皮切りに千葉、埼玉での実施、そして1月6日(日)からの東京センターの導入を意図している。11月上旬の「職場説明」によって始めて「土休日営業」施策を知った労働者は余りにも酷い内容に怒りを露に反撃を開始した。会社の施策内容は「・・・将来を見据えた更なるBフレッツ普及拡大に向けて販売活動の強化に取り組むと共にお客様とのコンタクトポイントこそが事業全ての原点」とし「・・・訪問スタイルの構築、コンタクト機会の拡大を図る観点から、キーマンの在宅率が高い土休日における営業活動の実施」するとし、具体的には「12週で12回の土日勤務、年末年始の正月期間・ゴールデンウイーク期間を除く祝日は全員出社し営業活動を実施する。また毎週月曜日は全員出社の日とする」というものである。
 NTTは週休2日制を取っており土休日営業によって連続休暇が削減される。それは、例えば「就学児童や幼稚園児」を抱える労働者にとって参観日、相談日、運動会等の学校行事に参加を困難にさせ、また要介護者を抱えている人にとっても土日の介護の問題が大きくのしかかってくる。月曜日全員出勤は「ハッピーマンデー」による三連休が無くなる事を意味し遠隔地から広域配転された単身赴任労働者にとって見れば唯一の楽しみである三連休を利用した帰省が奪われる。
 それでは「外販営業職場」とは何なんだろうか?
NTTが進めている「NTT構造改革」(11万人リストラ攻撃)のなかで強行された「50歳退職・再雇用」攻撃は、「NTTを51歳で退職し、賃金を最大30%カットし子会社に再雇用され年金受給まで契約社員として働く」(再雇用型と位置づけ)という道と、「より高い業績を得るため全国流動しながら60歳定年までNTTで働く」(満了型と会社は位置づけ)という許しがたい選択を強要するものである。こうした攻撃は「100%退職再雇用に追い込む」という方針のもと、応じない労働者一人一人に恫喝やパワハラが繰返されてきた。しかし「満了型選択者」は「約800名」にのぼり、これらの労働者に対し在りもしない「業務上の必要性」を創り出し、労働者から隔離するために設けられたのが「首都圏六センターの外販営業職場」である。北海道、東北を始め東日本エリアから300名を越える労働者がかき集められ、雨の日も風の日も猛暑の夏も寒い冬の日も「訪問営業」を強制され、揚句の果て「成果主義の徹底化」のなかで「販売実績が低い」と、「ボーナスの四分の一カット(D評価)」や「総合評価によって「成果手当てが削減」される。家族と引き裂かれて50歳を超えての単身赴任労働者。職場の平均年齢も当然50歳台。様々な仕打ちのなかでも歯を食いしばって頑張ってきた労働者が今回の提案に「もう許せない!」と怒り心頭するのは当たり前である。

まさに山猫的反乱

 各職場での反撃は目を見張るものがある。各センターに大衆的な「有志の会」が組織され、各職場で「白紙撤回」要求署名が開始された。有志の会は独自の活動として呼びかけチラシの配布、職場労働者の交流など創意工夫をもって一人でも多くの署名を!と活動を展開した。署名に応じた労働者は全体の70%から85%に及んだ。
 何よりも特筆すべきはNTT労組組合員の奮闘である。NTT労組はこの問題について10月段階に「決了」し、会社に対し会社責任で「職場説明」することを了解していた。職場組合員に何の事前説明もなしに「土休日営業」を容認した事に対し、各センターではNTT労組幹部に対し職場集会が開催され大衆的な突き上げが行われた。午後9時過ぎまで展開された職場集会は、労働者の怒りが噴出し糾弾の場と化した。NTT労組幹部は労組員を説得する事も出来ず「会社との再対応」を約束させられる。彼らの会社との再対応は、組合員からの質問要求項目に対し「会社見解」を張り出すというものであり、更にNTT労組に対する不信を増幅させるものであった。NTT労組員は、これまで繰返されてきたNTT労使関係の本質を鮮やかに見抜き「NTT労組からの脱退」が相次いでいる。
 また、労働組合の違いを超えて「有志の会」が創られ大衆的な統一戦線として取り組まれてきた事は重要な意味を持っている。それぞれの労働組合(電通労組、通信労組、NTT関連労組)は、会社との団体交渉を始め労働基準監督署、労働局に対する取組をしつつ情報共有を行い、職場にフィードバックし有志の会の闘いをより豊富化している。
 職場ミーテングは通常の時30分が2時間にも及ぶこととなり、急遽会社が在りもしない「会議」をでっち上げ「管理者救出」に当たる事態だ。現場管理者が応えられないのも当然である。そもそも「就業規則」をたてに「四週間の変形労働時間制」導入による土休日営業の展開だったはずだが、より具体的な問題が突き出されてきたからだ。「国民の祝日法案は祝日は国民の休日とあるが、なぜ我々は休日にならないんだ?」とか「変形労働時間制なら四週で時間調整すべきなのに、何で12週になるのか?」「みんなが休んでる土休日に営業活動するのは苦情を拡大し会社にとってもデメリットでは?」と、「応対ワースト一位のNTT」の週刊誌記事が紹介される。それぞれの経験からも訪問営業の「負」の部分が指摘され答えられない始末だ。この間の闘いを経て労働者は様々な問題疑問点について討論しその結果を確実に会社にぶつけていくが故により具体的に、より論理的に追求し続けている。こうした状況は「労働者が闘いのなかで成長」している証左でもあり自信ともなっている。

経営こそハリボテ事業計画の責任を取れ

 今回の「土休日営業」の背景には、2010年のNTT再々編問題が絡んでいる。NTT東は「料金」「116センター」等のコールセンターの外注化(OS化)を進めようとしている。首都圏のコールセンタ54拠点(4000人分)を、北海道、東北、北関東、信越などに分散させ、それによって、各地方で退職・再雇用者の仕事としてあった各県の直営コールセンタを、NTTグループの「NTTソルコ」や「テレウェル東日本」等の四社にアウトソーシングするという計画で、完了時には固定電話系のコールセンタは全て子会社の運営となる。165拠点7300人体制で維持してきた体制は、33の子会社運営拠点6600人体制になる。この子会社運営拠点の労働者は非正規雇用労働者(契約社員)を地元採用し、「30%のコスト削減効果」に結び付けようとしている。
 問題は「地元で今の仕事に従事しながら年金受給まで働く」といわれた退職・再雇用者の処遇はどうなるのかという点。全国のコールセンタの集約再編は「運営コストの割安な地方圏で業務を維持し2500人を首都圏でのBフレッツ営業にシフトする」ということが計画の流れである。NTTにとって見れば「成熟部門の固定電話系」に従事する労働者を出来る限り縮小し、アウトソーシングできるところは全て外注化するということになる。
 またこの間、NTT東西は「法人営業部門」の殆どを「NTTコミュニケーション(長距離会社)」に顧客と法人営業部隊共々業務移行した。これはNTT四社体制になったときに収益の大きい長距離通信を始めIT関連業務を含め「収益の上がる会社」としてコミュニケーションが創られ、海外(特に東アジア圏)での投資(利益の収奪のために)を積極的に推し進めてきたが、その実行会社こそ他ならぬこの会社である。その上でNTTは再々編を睨み業務の集中を図り始め、NTT東西は固定電話系の維持(ユニバーサルサービス)を更なるOS化で切り抜けながら来年には113(故障受付部門)の集約計画を明らかにし、「固定電話系」と「IT系」に全ての業務を切り分けていこうとしている。ユニバーサルサービス(固定電話系)業務のコスト削減計画は、NTT労働者の賃金を始めとする労働条件が、より安価な労働力に取って代わっていくことであり、安価な労働力を求めてNTTは国内各地に拠点分散を図るという事でしかない。これによって各県の総合会社(退職・再雇用の受け皿会社)に採用された「50歳退職・再雇用」労働者もまたNTTから「約束を反故にされかねない」状況が生み出されていく。
 2500人の首都圏営業部隊の創出は「中小規模事業者、マンション、戸建などへの訪問販売力」を強化する事にあり、そのために今回のコンシューマ事業部における「土休日勤務」は「新たな営業活動の構築」として導き出されたものである。「ひかり3000万件」を目標とした中期事業計画はものの見事に頓挫し、「ひかり2000万件」に下方修正した。先の計画自体何の根拠かも示されない。単に「固定電話6000万加入の半分で3000万ひかり電話加入目標」としただけ、という会社発言は到底経営者としての資質に欠け許されるべき問題ではない。こうした根拠も不明な無理な計画によって労働者の尻をたたき続けてきた経営者こそ、「責任」の所在を明らかにし経営責任を取るべきだ。

ヴェネズエラ国民投票
   
チャベスのつまづき
          
フランソワ・サバド/セバスチャン・ヴィレ
 
 右翼や報道機構の一部による中傷は事実において打破されてきた。チャベスのヴェネズエラは独裁体制ではない。支持、不支持の両陣営の闘志たち数百万人が、選挙活動を行い街頭で意気を挙げることは、まったく自由である。この「不服従の陸軍中佐」は、右翼やその新聞社の従僕たちが主張してきたような独裁者ではない。結果がほどんど明らかにならない内に、チャベスは敗北がわかった。

民衆的支持の後退

 1999年の勝利以降、民主主義の諸権利は生き生きと機能し、政治論争は熱気を帯びている。しかし、問題が即座に発生する。なぜチャベスは破れたのか?
 彼は国民投票に約20票万の差で破れた。いづれの陣営もおよそ450万票をかかえる中で、動かなかったのはチャベスの陣営であった。前の選挙で300万あったチャベスの票は今回は投じられなかった。「ボリバリアン」(チャベス)陣営の中で起きた右への造反(ポデモ、陣営の社会民主主義の翼、バドエル将軍、彼らは公然と、チャベスの「マルクス主義」改革と闘争している)に伴って、反対派は30万票を増加させた。
 すべてを説明するには早すぎる。しかし、チャベスが数百万の庶民票を失ったことには疑いの余地はない。この体制でもって、彼はベネズエラ民衆の相当の部分の期待に応えることができなかったのだ。チャベスは内的に弱くなった。彼の対抗者にとっては始めての選挙勝利である。この投票は、陣営の保守的傾向を強める。彼らは、とりわけPSUVの建設過程における穏健さを今後ともに主張するであろう。
 チャベスは外的にも弱くなっている。たとえ、彼の2006年選挙勝利が挑戦されるのは、任期の中間にあたる2009年にのみ行われる新たな信任国民投票においてのみだという事実にもかかわらず。ラテンアメリカの急進左翼にとって、ベネズエラが近年ラテンアメリカにおいて生まれ出てきた変革勢力すべてへの支援拠点を体現しているために、その敗北の代償を支払わなければならないだろうことは不幸なことだ。

革命抑制の故の敗北

 「階級闘争」勢力はしたがって弱くなっている。この敗北はさらに加えて、民衆分野での重大な変節が示したように、政府と、長年の間ベネズエラの反帝国主義の成果のために闘ってきたボリバリアン革命のもっとも戦闘的部分との関係の弱体化を反映している。最近の数か月、チャベスは、急進化や過程の自己組織化の支持者たちよりも官僚主義や頽廃に結びつく傾向を示してきた。チャベスのボナパルティスト的傾向は、力の源泉を大衆運動に依存するというよりは国家機構に依存するということだけに彼を導いてきた。チャベスはやりすぎの故に敗北したのではない。彼は本物の民衆の権力の生成のために充分にはなさなかったが故に敗北したのである。
 われわれについて言えば、われわれはボリバリアン革命過程への支援を継続する。われわれは、ためらうことなく、あらゆる分野で、右翼や帝国主義に抗するチャベスの側にある。そしてわれわれは、帝国主義とヴェネズエラ資本主義との訣別の提起を防衛し、過程の急進化のためにヴェネズエラの闘士たちの側で闘い続けるであろう。
*フランソワ・サバドは革命的共産主義者同盟(LCR。第四インターフランス支部)の政治局員であり、第四インターナショナル国際書記局員である。セバスチャン・ヴィレは、しばしばヴェネズエラを訪れているLCRメンバーである。(IV編集部)(「インターナショナル・ビューポイント」電子版07年12月号)
ロシア

フォード・ヴセヴォロイスクでのストライキ
独特で例示的な闘い

              
キャリーン・クレメント
 2007年の11月20日、真夜中に流れ作業が止まった。フォード・ヴセヴォロイスク(セント・ペテルスブルグ地区)の2000人の労働者の内、1500人がストライキに入ったのである。

注目と共感の中

 労働者は35%の賃上げを要求し、ルノー労働者がフォードのストを支援した。管理者側は早朝勤務の労働者の工場への立ち入りを禁止することで反応を示した。管理者は、OMONs(ロシア警察機動隊)すらをも呼び入れて入り口を封鎖した。それ以降、毎日、数百人の労働者たちが工場前で集会を続け、スト破りの工場への立ち入りを許さないようにした。
 熱気に溢れて、彼らは踊り歌った。食堂の従業員たちが同じくストに入り、紅茶とサンドイッチを配った。権利のために闘いに再度集合した時には幸福感と熱気の雰囲気が溢れた。支社長はストの労働者たちに賃上げに関して尋ね、労働者たちは30%の上昇を求めていた。当時の工場における平均的賃金は1万9千ルーブル(550ユーロ)程度であった。ストライキは多くの注目を集め、フランスや他のヨーロッパ諸国における大衆的ストに結びつけられている。人は労働者たちが話しているのを聞くことが出来る:「フランスが進むべき道を示している、ハラー!」、そしてまた、12月2日に行われる次の総選挙にも関連してくる。
 特に、世論および企業内での公然とした衝突に原則として敵対するFNPR連合の歴史的労働組合ですら、変化を見せ始めている。いくつかの新聞社が、ストライキ権に関する労働法の自由化を求める20人の労働に関する社会学者の公開状を出版した。国中の労働組合や労働団体、さらには国外からも、支援のメッセージが送られてきている。セント・ペテルスブルグやモスクワで、ストに連帯するピケがいくつか行われてきている。選挙で「統合ロシア」(プーチンの党)と同盟しているFNPR会長のミハイル・シャマコフは、公的に労働法改正の必要性を表明することをあえて行った。その労働法は、しかしながら、彼と政権党の力によって2001年に制定されたものなのである。
 一方、フォード・ロシアの経営側は、今のところ、ストの中止なしにはいかなる合意もありえないという態度にある。スト参加者たちは、賃金支払いの停止を警告されている。スト不参加宣言に署名した労働者たちには、経営側は「強制された失業」のために、賃金の三分の二を支払うとしている。
 ストの長期化を感じて、ストの労働者たちは、11月22日全体集会を開き、そこで二つの集団に別れることを決めた。一つは最低保障を受けるために労働を再開し、もう一つはストを継続し、工場前集会を続ける。「いかなる場合であっても」と工場の労組委員長であるアレクセイ・エトマノフは説明する。「生産を再開するには不十分で、ストのための損失をただ悪化するだけである」。

新しいストライキの風

 「フォード人たち」のケースはロシアでは、どちらかといえば独特で例となるものである。伝統的な労組連合FNPRを2年前に脱退したあたらしい労組の指導者たちは、労働組合は経営との共同機構ではなく、労組連合の戦略に積極的に向かう、労働者自身のものであるということを労働者に理解させるために活動を続けている。フォード労組会議のイニシアでこの夏に、全国自動車労組が作られ、それにはいくつかの大企業の独立労働組合、特にあげれば、8月始めにストライキを暴力的に押さえ込まれたトグリアチにあるラダ工場やモスクワのルノー自動車工場を含んだ。そのように、これは多数労働者に支持された闘う労働組合である。
 さる2月に、集団合意の署名によって実行されたフォード労働者の最初のストライキの後に、国内でストライキ運動が拡大し始めた。以降、何ダースものストライキが行われた。ほとんどの場合、劣悪な労働法と経営者の圧迫によって、解雇、懲罰行為、不正ストの宣告に終わった。
 最新の例:2007年11月4―7日のツワプス港のドック労働者、続く11月13―17日のセント・セントペテルスブルグドック労働者、そして10月26日のセント・ペテルスブルグ郵便局のストライキ。最初の二つは法廷命令で止められた。三番目は、事実上は順法闘争だが、郵便局自動車運転労組の三人の指導者の解雇で終わった。しかし抑圧にも関わらず、流れは拡大している。11月28日に向けて独立労組RPLBJに属する鉄道労働者によってストライキが宣言されている。そのストライキは、まだ始まっていないのだが、すでに経営側による法的訴追の対象とされている。にもかかわらず鉄道労働者たちは行動開始を宣言している。要求は、賃金改正と少数組合の団交権に関している。

新しい労働者達の登場

 こうしてストライキの風がロシアを吹いている。フランスが経験しているよりは程度は低いとはいえ、変化を求める急進性がロシアの状況に投げ込まれなければならない。というのも、ウラディミール・プーチンが政権についた2000年代の始まり以降、ロシアではストライキは実際に姿を消してきたからである。思考方法、労組とは何かの概念、実現しつつある連帯の実践に関する考え方の変化がある。世代の変化もある。労働を安く売るつもりはなく、能力の正当な評価を正しくも求め、そして経営者と労組に対する伝統的な家父長的態度をさほど注ぎ込まれていない若い労働者たちの到来である。
 これらの変化はまた、社会経済的改革と関係する。安定した経済成長、利潤と管理者の給与の増大、加速するインフレーション―これらの要因は集合されて不満の高まりを作り出す。これに加えて、ロシアにおけるグローバリゼーションの登場を加えるべきであろう。工場争議はとりわけ多国籍企業に影響する。そこの労働者は、他の国で如何に労組が機能し、自分たちの給与と他の国の労働者の賃金の違いを量るのである。そして、独立労組建設の第二波(1990年代に始まったものに続く)は、並以上の認識を持った核となる労働者たちから始まるが、基本的には平社員たちの組織であることを鍵としているのである。
 要するに、フランスで燃えていることには比べものにはならないけれども、変化に向かう動きの初期段階は疑いない。そして、選挙も抑圧もそれには関係を持たない。変化は、特に質的に深化するのである。

*この文書は最初にスイスサイトwww.alencontore.orgに掲載された。キャリーン・クレメントは社会学者であり、モスクワで集団行動学会を運営している。(IV編集部)(「インターナショナル・ビューポイント」電子版07年12月号)
特集  パキスタン
       ブットー元首相暗殺
ブットー王朝は続く
PPP(パキスタン人民党)は封建的伝統を放棄せず


             ファルーク・タリク

 19才のビラワル・ブットー・ザルダリを党首に任命したPPPは、南アジアの政治での封建的伝統を維持することを試みた。
 ビラワル・ザルダリ、彼の父、アシフ・アリ・ザルダリ。PPPの中央執行委員会はヌエデロ・シンドでの12月30日の会合において、満場一致でビラワル・アシフ・ザルダリの任命を承認した。
 会合で読まれたベナジル・ブットーの遺言に従って、ベナジル・ブットーの夫君であるアシフ・ザルダリは本来はベナジルが亡き場合に党首に指名されるのであった。にもかかわらず、アシフはその時、彼の息子、ビラワルを新たな党首に任命することを示唆したのである。オックスフォード大学の学生であるビラワル・ブットーは、ベナジル・ブットーの三人の子供たちの最年長であり、唯一の息子である。パキスタンで生まれたが、学校に出て以降、パキスタンには住んでいない。
 アシフ・ザルダリはPPPの共同党首となるであろう。こうした手続きで、PPPは再び完璧に事実上、ブットー一族の支配の下に置かれたのである。PPPの指導権は存在してきた40年の間、同様の伝統を守ってきた。ザルフィカル・アリ・ブットーが1979年7月に絞首されて後、彼の妻、ベガン・ナスラル・ブットーが引き継いだ。ベガン・ブットーが1996年に息子ムルタザ・ブットーに人民党を引き渡すと決めたとき、彼女はベナジル・ブットーに追い落とされた。その後に彼女はPPPの終身党首となった。ムルタザ・ブットーは1996年の警察との衝突で殺害された。その時にはベナジルは依然として首相であった。1月後に彼女は政権を失った。
 執行委員会はまた、2008年1月8日の総選挙にに参加すると同時に、政府の暗殺に関する声明を拒絶した。これは、しかしながら、ムシャラフ将軍の軍事独裁に抗する大衆運動に逆うものだった。パキスタン全土で体制に対する数百万の旗がひらめき、旗やのろしがムスリム同盟の支配が終わったことを示した。ムスリム同盟は、ムシャラフ将軍が法的にすべてを隠蔽することを手助けしてきたのだ。
 この時、PPPが総選挙ボイコットを表明し、軍事独裁政権の打倒を宣言したならば、体制は倒れたかも知れない。その代わりに、PPP指導部は、あらゆる選挙を通じて、ムシャラフ政権への多大の支援を表明したのだ。民衆によって政治に対する軍事政権の干渉を排除する貴重な瞬間が、この選挙への参加という決断で失われた。
 ビルワル・ブットーの任命によって、PPPは南アジアの政治的伝統を破ることを拒否した。それは数少ない家族が政治を統御するという非民主的伝統を維持することである。政治における封建制は、このPPPの決断によって全般的にさらに強まるだろう。

*ファルーク・タリクはパキスタン労働党の総書記である。(IV編集部)
(「インターナショナル・ビューポイント」電子版1月号)

ブットー暗殺―軍事独裁と無政府状態の産物
                 タリク・アリ

 ベナジル・ブットーの対応と政策―政権にある時もその後も―への鋭い批判者であるわれわれの多くでさえも、彼女の死に茫然とし怒りを覚えた。怒りと怖れが再び国土をのし歩いている。

国を破壊した軍事独裁

 軍事独裁と無政府状態の奇妙な共存が、昨日のラワルピンジでの彼女の暗殺へとつながる状況を生みだしたのだ。過去において、軍部支配は秩序維持に向けられ、そして数年の間、そのようにしてきた。それはもはや終わった。今日、それは無秩序を作りだし、無法事態を拡大している。これ以外に、政府情報部や警察を法廷に忠実であるようにさせようとした国家最高裁の長官と八人の判事たちの解職を説明できるだろうか。
 彼らの放逐は何かをするための支えを無しにしたし、当然、著名な政治指導者の注意深く組織された殺害の背後の真実をえぐり出すため、政府機関の悪行への適正な査問を行うための支えもない。
 パキスタンは今日、絶望の大火以外の何かでありうるであろうか。殺害者たちはイスラム聖戦派であるとされている。これは正しいかも知れない。だが、彼らは自分たちだけで行動したのであろうか。
 ベナジルは、彼女の側近によれば、いんちき総選挙のボイコットに傾いていた。だが彼女はワシントンを無視する政治的勇気を欠いていた。彼女は肉体的勇気を多分に持ち、そして偏狭な対立者たちの恫喝に屈することを拒否してきた。彼女はリアクワット・バーでの選挙集会で演説してきた。この地は、初代首相であり、1953年に暗殺されたリアクワット・アリ・カーンにちなんで名付けられた有名な土地だ。殺害者、サイド・アクバールは即座に謀議に加わっていた警察幹部の命令で射殺された。そこからさほど離れていないところに、かつては植民地統治の建物があった。愛国者たちが監禁されたその建物は、ラワルピンジ監獄であった。そこで、ベナジルの父、ザルフィカル・アリ・ブットーが1979年春に絞首されたのだ。彼の司法死に責任ある軍事独裁者はその悲劇の場所を取り壊すことも行ったのだ。
 ザルフィカル・アリ・ブットーの死は、彼のPPPと軍との間にいた関係者たちに害を与えた。党活動家たちは、とりわけシンド州において、野蛮に拷問され、軽侮され、そして時には行方不明になり、殺されたりした。
 持続的軍部支配と不人気な国際的同盟との結果としてのパキスタンの大荒れの歴史は、今、支配的エリートたちを深刻な選択に直面させている。彼らはなんの積極的目的も持っていないように見える。国の圧倒的多数は、外交政策に不満を持っている。彼らは、政府の国内政策が、肥大化し、寄生化している軍を含む冷酷でどん欲なエリートたちを富ます他にはなんらのまじめさを持っていないことに怒っている。今や彼らは、政治家たちが目の前で撃たれ死にするのをどうすることもできずに見守っている。
 ベナジルは昨日、爆弾の破裂には生き延びた。だが、車への銃撃に倒された。暗殺者たちは、1月前のカラチでの失敗を頭において、今回は二重の保険をかけたのだ。彼らは彼女の死を求めたのだ。でたらめな選挙でさえも今や不可能だ。それは延期されざるをえないだろうし、軍幹部は、たやすく起こるであろう、さらなる事態悪化への軍の対応を考えていることは疑いない。

悲劇の重なり

 起こったことは何重もに層を成す悲劇である。国にとって、さらなる大惨事への道での悲劇である。激流と泡立つ大滝が前方にある。そして、個人的悲劇である。ブットー家は、新たにもう一人のメンバーを失ったのだ。父、二人の息子、そして今一人の娘がすべて自然でない死をとげた。
 私がベナジルと最初に会ったのは、カラチにあった彼女の父の家であり、彼女は面白好きのティーンエイジャーだった。そしてその後にはオックスフォードにおいてであった。彼女は天性の政治家ではなかった。いつも外交官になることを望んでいた。しかし歴史と個人的悲劇が違う方向へ押しやった。父の死が彼女を変えた。彼女は新たな人物となり、その当時の軍事独裁者を敵手とする決意を固めた。彼女はロンドンの小さなフラットに移り、そこでわれわれは、終えることなく国の将来について討論したものだった。彼女は、もしも国が制服を着たり着なかったりのハゲタカどもから安全となったならば、土地改革、大衆教育計画、健康管理、そして独立的外交方針が、積極的で建設的な狙いであり、決定的なものだということに同意したのだった。彼女の対象は貧民であり、彼女はその事実を誇りとした。
 彼女は首相になってからまた変わった。初期の時期には彼女は論議し、そして私の数限りない不平への答えとして、彼女が述べることとなった全ては、世界が変わったということだった。彼女は、歴史の「適切でない側」にいることは出来ないのだった。そして多くの人々がそうであるように、彼女はワシントンとの関係を平和にした。このことが、ムシャラフとの取り引き、10年を越える亡命生活からの帰宅を導いたのである。何度も彼女は私に対して、死を怖れないと語った。死はパキスタンで政治をやる時の危険さの一つなのである。

民衆のための党を

 この悲劇からなにか好いことが出てくるということを想像するのは難しいが、しかし一つの可能性がある。パキスタンはどうあろうとも切実に、民衆のために社会的要求を語ることが出来る政党を求めている。ザルフィカル・アリ・ブットーが建設した人民党は、この国が唯一知っている大衆運動の活動家たちよって築かれた。学生、農民、そして労働者は、1968―69年、国の最初の軍事独裁者をひっくり返すために三ヶ月闘い抜いた。彼らは人民党を自分自身の党と見たし、その感覚は、あらゆることにもかかわらず、今日までも、国の相当の部分で持続されている。
 ベナジルのおそるべき死は、彼女の同僚たちに熟考する余地を与えないかもしれない。一人の個人や家族に依存することが、ある時には必要なことかも知れない。しかし、それは政治組織にとっては構造的弱点であって、強さではない。人民党は再構築され、近代的で民主的組織となり、真っ正直な討論、論議に開かれ、社会的人間的権利を防衛し、きっちりしたオアルタナティブを心から求めている多くの個々のグループや個人を結合し、そして占拠され戦争で切り裂かれているアフガニスタンの安定化のための堅固な方策を提起する、そうした組織になることを必要としている。これは出来るし、なされなければならない。ブットー一族はもうこれ以上の犠牲者を求められてはならない。

*この文書は、最初に07年12月28日の『ガーディアン』に掲載された。タリク・アリは、社会主義的な著作家でテレビ出演者であり、特にヴェトナムからイラクに至る地域での反帝国主義キャンペーンで活動してきた。パキスタンで生まれ育った。今はロンドンにいる。(IV編集部)
*70年代に数回来日した。(編集部)(「インターナショナル・ビューポイント」電子版07年12月号)
 
 
 
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