2009年1月10日        労働者の力             第 226号

生きさせろ!
変革の時代、どこから始めるか
寺中徹

 世界は変わらなければならない。派遣村とガザ。年頭人々の目に焼き付けられた日本と世界の光景は、多くの人々にその思いを改めて強めさせたに違いない。

変革の主役は労働者民衆だ

 昨秋の信用崩壊と経済全体の一挙的収縮を受けて、今や一般メディアでも、世界の何らかの大胆な変革という論が、ある種流行のようになっている。何よりも「変革」を迫る労働者民衆の動きが今や抑え難い。
 アメリカですら民衆は、「CHANGE」を旗印に草の根から自立的に運動を巻き起こし、当地支配階級の当初の意図を打ち砕き、史上初の黒人大統領を彼らに押しつけた。バラク・オバマ自身は、アメリカ支配階級に忠実であろう。しかし今回の選挙は、黒人、ヒスパニック、女性、若者など、排除され封じ込められてきた民衆の政治的エネルギーを解放してしまった。独立以来堅く保持されてきたエリート支配というアメリカの政治システムには今、爆発力を秘めた要素が新たに差し込まれている。金融危機に対する現下の動揺的対応が如実に示すように、今やアメリカのエリートも政策を思うに任せなくなっている。
 日本では、派遣村に人々の思いが殺到した(本面別掲記事参照)。そしてその現実が政治を激しく揺り動かしている。政治権力の、大資本の、動揺は隠せない。1年前の薬害C型肝炎患者の感動的な闘いに引き続いて、再び現場が、人々の具体的な要求と闘いが、政治と権力者を強制しようとしている。

生き延びるための反資本主義

 現実に人々の生活に襲いかかる危機はすさまじい。80年代初頭以来の新自由主義政策に向けた移行の中で、元々貧弱だった日本の社会的生活支持諸施策は、ズタズタに切り刻まれた。その概略を本号二面の記事が明らかにしている。加えて、同政策思想の下に、人々に密着していた地場産業も破壊された。要するに、「効率性」や「規制緩和」の掛け声の下にすさまじい資本集中が進められた結果、あらゆる分野で、市場は力ある者の圧倒的な買い手市場に、ごう慢な買いたたきが当たり前にまかり通る市場に、転化したのだ。今市場にはどのような公平さも基本的にない。そして今目の前に、大量の非正規切り、失業、倒産がある。
 巨大独占資本に依存させられ振り回されるしかない労働者民衆、これが新自由主義が、「規制緩和」が、作り出した社会の姿だ。そしてその下で、労働者民衆は生き延びることさえも、危機にさらされている。
 生き延びること、「変革」が応えるべきことは今何よりもここにある。
 しかしこの点に、大資本を中核とする支配的エリートは、資本主義の成長以外に回答をもっていない。国家挙げて厚遇され、保護され、助成され、育成されてきたこの巨大独占資本は、労働者に対しても、地域に対しても、社会に対しても、全く無責任だった。助成を受けながら図々しくも敢えて大量非正規切りの挙に出たキャノンにとどまらず、その一半は、本号の岩手の記事からも知ることができる。あるいは現下の信用崩壊にしても大元は、民衆にはリスクをとれなどと煽り立てなけなしの金を吐き出させようとしながら、自分の方は貯めこんだ膨大な資産をリスクを恐れてがっちりと手元に抱え込み出し惜しみしている大独占資本と大資産家にある。金融市場に対する資金の出し手は今、国家・中央銀行なのだ。しかも青天井で。
 彼らの関心はあくまで資本主義の救出に収斂するだろう。彼らの語る「改革」は、そこから一歩も踏み出さないだろう。しかし我々は、資本主義を生き延びさせるために死ぬわけにはいかないのだ。
 資本主義の救出か、労働者民衆の生存か、今後根底では分かれ道はこのように突き出されようとしている。それ故に新しい左翼は反資本主義とならざるを得ない。生きさせろ、が最優先だ。生きさせる道を資本主義が用意できない限り、人々はそれを踏み越える以外にないのだ。このようにして、まさに現場が、具体的な要求と闘いが、道を決めそれを求めるだろう。新しい左翼は、この労働者民衆の歩みと共になければならない。その歩みを信頼し、その求めるものに応えなければならない。今年の総選挙は、あくまでその歩みの通過点であり、それ故先ず自・公を完敗させなければならない。(1月8日)
日比谷「年越し派遣村」
霞ヶ関の固い岩盤に風穴
圧倒的な連帯と支援全国から


 12月31日開村、1月5日閉村した日比谷公園の「年越し派遣村」は、深刻な雇用情勢に対し基本的に無策なまま過ごしてきた政府・厚労省を激しく揺さぶることになった。12月31日、村と向かい合う厚労省ビルは真っ暗なまま夜の闇に沈んでいた。しかし1月2日、このビルの窓にはいくつもの明かりが現れ、以降それが消えることはなかった。
 派遣村は、入村した失業非正規労働者(以下入村者)に対する一定の具体的手立てを勝ち取ることを通じて、政府の労働行政、社会保障行政に風穴を開け、労働者民衆の今後の闘いに向けて重要な水路を切り開いた。雇用確保、労働者保護に焦点を当てた労働行政の見直しは、政治の中心に否応なく引き出された。
 この闘いはいくつもの教訓にも満ちている。
 尚この派遣村は、12・4集会(前号参照)を主催した「労働者派遣法の抜本改正をめざす共同行動」を母体とする実行委員会によって企画運営され、村長には、NPO法人「もやい」の湯浅誠さんが就任した。経過や活動内容や節々の集会・デモ等については、多くのメディアが広く報じているのでここでは割愛する。

思いは社会に満ちていた

 この意義深い6日間の行動の著しい特徴は、主催側の予想をも大きく超えた、派遣切りされた当事者と支援者双方のある種自然発生的なエネルギーの結集だった。この爆発的とも言えるエネルギーの出現こそが政府を慌てふためかせた。
 主催者公式発表では、受付入村者数499名、受付ボランティア延べ人数1674名。しかし見ていた限り、この村を実際に訪れ何らかの形で関わった人々の数はそれを遙かに上回る。本部テント受付では、カンパもひっきりなしと言っていいほどに寄せられていた。その総額の発表はなかったが、様々な話を聞く限りおそらく軽く1000万円は超えたと思われる。支援物資は大量、まさに全国から運び込まれた。
 この状況が6日間絶えることなく続いた、というよりは日を追ってエネルギーは高まった。初日の入村者数は100名をやや上回る程度、主催側が用意した21張りの六人用テントは辛うじて間に合った。しかし2日目以降、入村者はうなぎ登りに増え続けた。14張りの追加テントや大型テントの増設でも間に合わず、報道の通り、遂に厚労省講堂の開放という快挙に至った。
 ボランティアや協力者も似たように、何の手ずるも頼ることなく、都内や近県はもとより遠方からも続々と来村した。老若男女、外国人も含む労働者、自営業者、学生、年金生活者、そしておそらく主婦、訪れた人々は雑多だ。村はまさに賑わい、主催側の一部に最後まで残ったボランティア確保の懸念は消し飛んだ形だ。実際、最終日、閉村集会後にもボランティア希望者は駆けつけていた。
 このエネルギーの出現にメディアの力が預かったことは間違いない。メディアはまさに殺到し、6日間張り付きの形で取材が続いた。こうして派遣村は、各紙、各局の年頭ニュース報道の大きな部分を占め、社会に大きく波紋を広げた。連帯は事実上、派遣村とメディアの間にも作られたことになる。
 しかしそこには深いところでつながるものがあった。現場を駆け回っていた取材陣は、圧倒的に若者達だった。中でテレビカメラクルーに最も特徴的だが、彼らの多くは下請けの労働者なのだ。「僕たちも危機感を持っています、明日はわかりません」と語ったクルースタッフ、乏しい取材費が底をつき食事にも事欠いていた地方紙記者、入村者とかけ離れていたわけではない若者達の姿がそこにはあった。通り一遍の取材とはなり得なかった。
 支配的エリートが作り出した現下の非正規切りに対する憤りと何かしなければとの思いは、社会に着実に広がっていた。それは場を求めていた。諸分野の垣根を越えて共同で準備された派遣村は、その思いにまさに表現の場を提供し、社会に満ちていたものの存在を明るみに引き出した。

現場が政治を動かした

 上に見た自然発生的エネルギーの爆発的流入を前提としたとき、それを一つの方向にまとめ、政治の対応につなげた実行委員会の役割は高く評価されなければならない。
 おそらく実行委員会は、次々と予想を超えて動く事態への対応に忙殺されたと思われる。何しろ12・4集会成功の後に大急ぎで進められた取り組み、準備期間は短かった。
 その上時期は年末・年始、労働組合の足取りはどうしても重くなる。例えばある労組幹部は、機関決定もないまま何をやらせるつもりだと言われているなどと、組織との微妙な軋轢をこぼしていた。その意味で今回の派遣村は、実行委員会を含め丸ごと、言葉通りのボランティア、即ち志願者集団からできていたと言っていいだろう。逆に言えばその自発性こそが今回、実行委員会の身軽さと柔軟性、そして幅広い共同を実のあるものとすることに結びついたのかもしれない。いずれにしろ事態の展開は、現場判断で動くしかない状況を生み出していたと思われる。
 それは既に開村前から始まっていた。取り組みが全国に伝わるや否や、物資が集まり始めたのだ。連絡先となっていた全国ユニオンの事務所は、物資保管倉庫のようになってしまったという。そして開村後、前もって作成されていた6日間の予定表などは、ほとんど用をなさなくなっていた。
 中でハイライトは、1月2日から1月4日にかけた厚労省との断続的な交渉だ
ったと思われる。そこには、つめかけた入村者の寝所の確保、さらに1月5日以降の食と住の確保という、何としても解決しなければならない課題がかかっていた。1月4日20時30分、2時間にわたる最終交渉を終えて厚労省ビルから出てきた実行委員には、安堵の色が浮かんでいた。まさに引き下がれない交渉だった。
 同日21時直ちに緊急の村民集会が招集された。その場で湯浅村長から、500人分(村民全員をカバー)の食住確保という結果が報告され、喜びの声の中、村民の了承が確認された。
 この例のように実行委員会は、次々と必要な「現場処理」に当たり、それを随時開く村民集会で全体化し、全体の同意を得ながら進めた。それ故派遣村は民主主義の村でもあり、ある種混乱を宿したエネルギーのるつぼでありながらも、驚くほどに秩序の保たれた村だった。
 そして、湯浅村長を始めとして、実行委員会の政治に対する発信は現場にあくまで密着していた。上述の村の現実をも背景に、それらの発信の説得力と鋭さには有無を言わせぬものがあった。例えば湯浅さんは1月5日の院内集会で、警察に保護された自殺志願の青年が警官に付き添われて派遣村に入村したというエピソードを紹介し、その上で、生きようとしている人間を支えられる社会を作るべきだ、と強く訴えた。その迫力に比べれば、「本当に働こうとしている人なのか」との暴言を吐いた坂本総務相政務官には、怒りを通り越して哀れさすら感じざるを得ない。
 政治は動かざるを得なかった。先の院内集会には、与党議員も含め90名近い国会議員がつめかけていた。
 今回の派遣村の取り組みは、今後の社会運動に引き継がれるべき熟考に値するものを数多く残している。次号以降でも、異なった視点からこの取り組みを取り上げてみたい。(神谷)

〈岩手発〉際だつ大資本の無責任―労働者にも地域にも
共生ユニオンいわて、山下書記長へのインタビュー(12/27)


 岩手県は現在の派遣切りの中心的な一県である。他の中心県同様ここでも、バブル崩壊以降工業出荷額急増があり、地域経済の活力が喧伝された。しかしその陰には非正規雇用依存という社会的な問題点が隠れていた。現在何が起きているのか、実情を伝えてもらった―編集部

 ―北上地域は工業団地があって沢山の誘致企業がありますが、その現状は?

 12月に入って、北上市の経済圏ではトヨタ系列の関東自動車が3月までに350人、また岩手東芝が180名、派遣や期間工をやめさせる。北上市の調査によると、北上市内の大手企業10社で、11月で雇用止めした非正規社員は249名、12月は330人を予定している。
 共生ユニオンいわてでは、12月15日に北上市長に申し入れ行動を行い、住宅の確保、緊急の生活資金貸し付け制度を作ることなどを要請した。
 19日、市では緊急雇用対策本部を設置、また24日には行政・商工会議所・北上職業安定所などからなる北上地域緊急雇用・生活支援連携対策本部が設置され、住宅・臨時雇用を検討する。
 20日の報道によると、岩手県内では2000名を超える人がすでに解雇されていることが県の調べで分かった。うち半分は北上周辺と言われている。また、26日の報道では、TDK関連子会社の北上工場では、3月までに350人の派遣社員を解雇する予定とのこと。

 ―具体的なケースについて教えてください。

 ユニオンへの相談もあり、日産自動車のエンジンカバーを作る自動車関連工場に勤めていた36歳の男性労働者。小学3年から五歳の三人の子供がある。一DKのアパート暮らし。本採用を目指して一生懸命働いていたが、3月までの契約が、11月で解雇された。
 関東で仕事をしていたが、関連会社とのことで紹介され北上で働いていた。知人もいないし、どうしたらいいか分からないとのことでの相談。取りあえず北上市の相談窓口を紹介。社会福祉協議会の失業資金を紹介されたが、県内在住の連帯保証人がいないと借りられない。20万の収入、住居費など諸経費10万円なので、今まで10万で生活。しかしそれさえも出来なくなった。連れ合いの失業手当も12月で終了する。職安では全く仕事がない状況とのこと。市で1月には雇用を募集の予定なので早めに相談を、などの情報を伝えた。
 北上の市会議員からの情報で、岩手東芝で、契約途中での解雇のために人事担当が署名・捺印するまで部屋から出さないというようなことがあった。直接事情を聞こうと連絡したが、すでに東京に移っていたため残念ながら会って確認は出来なかった。
 関東自動車・岩手東芝・日産関連会社とも、「派遣会社が雇用しているのだから、止めさせることには責任がない」という。かといって派遣会社は紹介も出来ない現状がある。

 ―地域の派遣会社はどのような状況なのでしょうか

 知人の、北上のある派遣会社社長の話では、多いときで300人位派遣を出した。今は150人。1月には100人になると予測、自分が食えなくなるという。ちなみに北上には60以上の派遣会社があり、今まではそれでなりたっていたことを考えると、未曾有の経済危機だ。

 ―地域の経済への影響は

 北上は300店舗の飲食店が市内の繁華街に集まっているが10―11月で30店舗閉鎖。今後加速度的な増加が予想される。同じことがどんどん地域経済に波及していくと思われる。

 ―組合の役割は

 労働相談を受けて、組合でやるべきことは沢山あるだろうが、すでに解雇された場合は、現状では行政の対策を求めるしかない。根本的には、大企業に有利な経済政策を変えるしかない。(聞き手―岩見)

日本の社会福祉政策を考える
          
電通労組・高橋喜一

―社会保障があまりにひどい。この現実に電通労組は昨秋、各支部挙げて社会保障制度の学習会を行った。自力での学習だ。そこでの論議を紹介する―編集部

自民党の日本型福祉社会

 いま、社会保障が危機に瀕し社会問題として現れている中で、政府の社会福祉政策の基本的考えはどうなのだろうか。日本におけるセーフティネット(安全網)については、第一のネットとしての「雇用のネット」と第二のネットとしての「社会保険のネット」は労働者を対象とした厚生年金、健康保険、雇用保険、労災などの被用者保険と、自営業者、無業者などを対象とした国民健康保険、国民年金、介護保険に分かれ、さらに第三のネットと言われる「公的扶助のネット」と言われる生活保護などの三層構造によって成り立っていると言われている。
自民党は、「日本型福祉社会」(79年自民党出版物)で、以下の基本的考えを明らかにした。いわゆるそれ以後の福祉政策の根幹をなし「ガイドライン」と言われる。
 「『日本型の福祉社会は、個人に自由で安全な生活を保障する様々なシステムからなる。そのようなシステムの主なものは(1)個人が所属する家庭(或いは形成する)(2)個人が所属する企業(または所得の源泉となる職業)(3)市場を通じて利用できる各種のリスク対処システム(保険など)(4)最後に国が用意する社会保障制度である。すなわち、高度福祉社会は、個人の生活を支えるに足る安定した家庭と企業を前提として、それを(3)によって補完し、最終的な生活安全保障を国家が提供する、と言う形をとるものである。そこで重要なのは、まず家庭基盤の充実と企業の安定と成長、ひいては経済の安定と成長を維持することである。これに失敗して経済が活力を失い、企業や家庭がやせ細って存立が困難になっていく中で国が個人に手厚い保護を加えるという行き方は「福祉病」への道であるといわなければならない。今日、大多数の日本人は右の(1)―(4)の安全保障のシステムに支えられて「それほど悪くない人生」を送ることが出来る。(1)―(4)のシステムには基本的な欠陥はないと見てよい。今後は高齢化の進行に応じて、これらのシステムに必要な見直しを加えていけばよいであろう』・・・日本の安上がり社会保障のメカニズム・・・即ち、家族がまず責任を果たす、そして、どうしても責任を果たせない場合、或いは家族がない場合に限って国家が社会保障を行うという点である」(「雇用不安」野村正寛著)。
 一次産業従事者、零細企業従業員、無職、その他の人が加入する国民健康保険加入者の実に57.1%の人が無職(15年度)、07年健康保険料滞納所帯数475万所帯、一旦全額を支払う資格証明書発行が34万所帯。生活保護所帯も急増し107万所帯を超えている。保護所帯の40%は高齢者所帯、全体の9割が高齢者、傷病者・障害者所帯、母子家庭である。だが、生活保護基準以下で生活している人がどのぐらいいてその内どのぐらいの人が生活保護を受けているのかとの調査は一切行われていない。06年施行された「障害者自立支援法」はサービス料の原則1割を障害者が支払う「応益負担」を導入し利用障害者の90%の人に新たな負担がうまれた。また75歳以上の高齢者を対象にした「後期高齢者医療保険」は「(病院を利用する高齢者に)費用がいくらかかってるかを認識させる」ためと言う「見せしめ法案」の性格である。
 また、不安定雇用の拡大は高い失業リスクを抱えながらも多くの場合雇用保険制度から排除され、また、低賃金の中で社会保険料を支払えず将来に備えることの出来ない層を作り出している。「反貧困」すべり台社会からの脱出(湯浅 誠著)は、この社会が抱える様々な問題を詳細に検証している。

新自由主義のもとで

 新自由主義という市場原理、競争原理に基づいた小泉構造改革は、格差を拡大し社会的な問題として貧困を浮かび上がらせた。86年労働者派遣法の成立と時を同じくし税制(所得税率)を改悪してきた。86年には15段階、最高税率70%が、87年12段階60%、88年六段階60%、89年五段階50%、99年以降四段階37%。低所得者の所得税は86年10.5%、99年10%・・・即ち、高所得階層は86年から99年までの13年間で53%も税率が低下したにもかかわらず、低所得者層ではわずか9%しか低下していない。同様に「法人税」も国際競争力を高めるという意図をもって、数度にわたって引き下げを行ってきた。一方、消費税の拡大(低所得層ほど思い負担の逆累進税)、介護保険制度の導入、厚生年金保険料、国民年金保険料の段階的引き上げ、障害者自立支援法による負担など「受益者負担の原則」のもと国民負担は増加している。
 所得の大きい富裕層から高い税を徴収し、所得の少ない人から低い税を徴収する「累進課税制」が大きく後退したと言える。自民党の「日本型福祉社会」論でみるとセーフティネットは「最終的に家族的責任」であり「自助努力」「自己責任」を機軸としている。戦後の日本社会を支えてきた終身雇用・年功型賃金と右肩上がり経済の時代に「影」に隠れていた社会福祉問題が社会的問題として浮かび上がってきたのは、新自由主義が跋扈しいわゆる「安定雇用」が崩壊し、格差と貧困の問題が拡大し国民に「社会福祉の現実」がはっきりと見えたことによる。すなわち脆弱な社会福祉の現実だ。「自助努力」「自己責任」を基本原理とした社会福祉政策は「安上がりの社会福祉」として社会福祉費用を圧縮する役割を持っている。「高齢者所帯」「老々介護」「独り暮らし高齢者の増加」など高齢化社会の到来は早くから予測されていた。介護問題もしかり。介護と表裏一体の医療も危機に瀕している。政府の「対処療法」的社会福祉政策によって公的サービスとしての医療、介護、福祉の構築、インフラ整備は殆どなされなかった。

応分の負担で平等な福祉を

 育児、教育、医療、介護など避けて通ることの出来ない人間社会の未来に投資すること。そのための社会の在り方を含め様々な角度からの論議が必要だ。
 社会福祉は必要な時に誰もがアクセスできなければならない。均質なサービスを保証するためには「公共サービス」としての福祉でしかありえないし、誰もが均質なサービスを受けることが出来ること、つまりは「平等」の福祉と言うことになる。問題は「社会的合意の形成」である。高所得者には高い所得税率、低所得者には低い税率か或いは無税・・・累進課税化。法人税の引き上げ(社会貢献税として)などによる手厚い社会保障給付を行う事は可能だと考えられる。こうした公共サービスの拡大とそれに伴う支出の増大に関しては「経済成長を阻害する」という主張があるが、日米と北欧(福祉に関して対照的な国家)に光を当てた「経済効率と社会分配政策の強化は無関係」という社会学者の分析・検討は興味のあるところである。
 労働と賃金のあり方についても十分検討されなければならない。特に、労働の柔軟性の中での不安定雇用、低賃金構造にメスを入れる必要がある。この間、わずかばかり改善された最低賃金は生きていくための最低限の生活を営むことの出来ない「額」であり「国民の最低生活を保障する」ものとは決定的に乖離する。非正規雇用問題も同様で「労働力の再生産費用」を含まない無権利、低賃金構造は将来の社会保障費用のツケを拡大するものであり「稀代の悪法」派遣法を廃止すべきである。
 支え合い共に生きていける「共生社会」の実現は、現に起きている諸問題に力を合わせ闘うところから始まるのでは。
ガザ攻撃   イスラエル糾弾行動各地で
イギリス社会主義者のアピール
ガザでの虐殺をやめろ

         
レスペクト


 ガザへのイスラエルの攻撃は人間性に対する冒涜だ。空と海と陸から封鎖された、地球上で最も密集した居住地区の一つが、アパッチ戦闘ヘリコプターとF16攻撃機の空からの攻撃に苦しんでいる。爆弾とミサイルは、有刺鉄線で囲まれ安全に逃げることのできない人々の上に、雨のように降り注いでいる。
 イスラエルのこの殺戮で、最初の3日間だけで300人を超えるパレスチナ人が殺された。そして全ての戦争がそうであるように、爆弾と死と共に、嘘がやってきた。イスラエル政府は躍起になって、主張する。それはガザから発射されるミサイルの攻撃に対する、「単なる反撃」にすぎないと。しかし、「単なる反撃」というこの弁解は、我が国のメディアも熱心に繰り返しているが、真実のねつ造画でしかない―というのも、それは原因と結果を逆立ちさせているからだ―。それは、抑圧と占領の60年という歴史を、さらにパレスチナ民族を歴史から消し去ろうという変わることのない企みを、無視しているのだ。
 パレスチナ民衆の絶えることのない抵抗を煽ってきたものこそ、その抑圧の歴史なのだ。それは、1948年の何十万人というパレスチナ人の強制排除と1967年のガザと西岸の占領から、パレスチナの民主的な選挙の結果を認めることの拒絶と今も続くガザ封鎖まで、一貫している。
 この抵抗は完全に理解可能であり、完全に正当だ。レスペクトはパレスチナ解放運動を全面的かつ無条件に支持する。我々は、爆撃の下で今苦しんでいるガザのパレスチナの人々に対する連帯を高めるために、できることは何でもやるだろう。さらに、平和で安全な中東を生み出すための唯一の道は「パレスチナ解放」のスローガンを生きた現実に変えることだ、と理解している全ての人達と共に活動し続けるだろう。(2008年12月29日)(『インターナショナル・ビューポイント』電子版1月号)

フランス
新たな反資本主義政党の創出に向けて

          
ピエール・ルッセ
 
 2007年8月、フランス共産主義者同盟(LCR)は新たな反資本主義政党(NPA)の設立を呼びかけた。2008年8月、1000人の代表活動家がパリに集まり、底辺から始まった動きに国家的視野を与える役目を担った。2008年11月の始め、400の自治体から再度参加した代表者たちは、三つの文書を討論した。綱領・構想、政治的方向、NPAの規約と機能、に関してだ。1万人の活動家が現在、NPAの方向性を求める動きに参与している。LCR全体の三倍の活動家たちである。が、われわれはこうしたおおよその数にあまりの信頼をかけることもすべきではないだろう。疑いなく、NPAに興味を示している多くの人々がいることは事実だが、彼らのいかほどが持続的に組織に加わるのか、あるいはいかほどの居住地組織が彼らを組織することになるのか、さほど経たないうちに知ることになる。また、結成大会以降にさらに多数が加わることもありうるのだ。
 NPA結成の政治的影響はきわめて大きい。多くの場所で、建設中のこの新たな政党は、事実においてLCRに代わり活動力を強めている。2008年11月6日、パリにおいて初めての公的会合を2000人を越える参加者で開いた。11月15日にはフランス南部のモンペリエールでの集会には1500人が参加した。これらは大きな参加者数で、時には2007年の大統領選挙においてLCRの選挙集会よりも大きいこともあるのである。もちろん前進の速度がどの地域でも同じようにあるわけではない。いくつかの地域では速度は他の地域よりは低いことがある。
 手続きは次のようになっている。2009年1月29日、LCR大会は解散を決める。NPAの発足の大会は、その翌日と翌々日、2009年1月30日と2月1日に開かれる。
 今までの所、すばらしい。これらのすべてがいかに早く経過してきたか、驚きである。それは政治的要求に対する回答である。この要求、こうした機会というものはすでに何回か感じられてきたが、過去10年、フランスではより質的に高い、広範な反資本主義政党形成への試みは失敗してきた。こうした失敗を克服するために、LCRはいくつかの新たな、以前には考えもつかなかった新たなことを決定した。では何が、新たな反資本主義政党の建設過程における「新しさ」であるのだろうか。

他のすべての想定計画の失敗の後に

 NPA出発におけるLCRの基軸的役割のために、社会的に幅広い革命党建設を過去において建設することをいかに展望したかを見返すことは有意義かもしれない。私はここで「68年5月」という「消えゆく世代」の経験からここで、話をしたい。消えゆく世代はすでにLCRやNPAの指導部にはいない。だが、その歴史的経験は、「新しさ」の分析を正確にするために採用されるべきだ。
 私は、われわれの過去の「観点」を、きわめて短く単純化し、図式化して述べるつもりだ。私の世代は1960年代に新たな、力強い、急進的諸組織を作り出した。だがフランスではわれわれは少数に留まった。数百人で始まり、新たな諸組織はそのピーク時期で5000人から最大1万人ほどであった。60年代後半から70年代の前期、われわれは他の選択余地はないと考えていた。すなわち階級的衝突がすぐに到来するし、危機の中での緊張した活動を通じて、新たな革命党が急速に作られると考えた。70年代半ば、歴史の歩みが期待していたほど早くはないことを認めざるを得なくなった。それゆえわれわれは大衆的基盤を持つ革命党建設構想をより長期の課題として考え直す(われわれの世代としては心理的革命であった)必要に直面した。
 LCRはこの政党がその質的発展の結果であろうとは考えなかった。それはより広い範囲での左翼と労働者運動の「再組織」、再構築の結果であるべきである。われわれは三つの主要なシナリオを考えた。

1、第一の概要。既成政党(SPとCP)すべての戦線や翼での急進主義化。この概要はイタリアではPCI(イタリア共産党)の右傾化―それは強力な社会民主主義にもならなかったが―に抗して作られた共産主義再建党の姿を取ったが、フランスの場合ではそうはならなかった。SPからの主要な分裂は、「左翼愛国主義」となり、堕落し、整合性のないものとなった。共産党の長く続く危機は、イタリアで発生したようなものを一切生み出さなかった。
 われわれ「古い左翼」は若返りの印を一部的にも示さなかった。ジャン・ルク・メレンションのSPからの最新の逃亡はそれを確信させた。われわれは新たな大衆的労働者党の形成と左翼への急進的動きを思い描いていた。メレンションは「共和国左翼」のプログラムをもってLCRよりも少ない数でSPを出たのである。彼は「ゴウシュ党」(左翼党)を見いだしたが、この党は、はじめから入閣することを狙っているのだが、それはSPとの全面的な協力なしには実現しない野望である。

2、第二の概要。存在する革命的諸グループの参加を伴う労働組合による新たな労働者階級政党の発足。それは「ブラジル人の計画」―PTの当初の組織である―あるいは、より最新では韓国の過程である。KCTU労組(民主労総)は民主労働党(DLP)の形成を支援した―今年(2008年)に新たな進歩主義労組形成をめぐって分裂したが―。いずれの場合でも、労働組合運動は依然として「若く」、軍事独裁体制の後に組織を形成した。フランスでは主たる組合(CGT、CFDT、FO)はそのような動力を示さなかった。
 この最初の二つのシナリオについて少し考えてみよう。ここでは労働者運動における幅広い分解が「願われ」、含意されたが、それは小さな左翼にとって、進めることすら難しいことであった。いくつかの諸国が示したごとく、きわめて不確実な仮説ということではなかった。PTが社会・自由主義となったとしても、それが巨大な階級闘争の党であったこと、1980年代のその形成の重要性を忘れ去ることは出来ない。同じく、プロディ政権での共産主義再建党の失敗にもかかわらず、一時期は極左翼への参加を展望させる左翼再建への可能性を指し示したことを忘れるわけにはいかない。しかし、こうした例はきわめてまれな場合である。これらは例外的であり、定まったあり方ではない(私は東ヨーロッパの古い体制から出てきた政党がどうであり、かつどうなろうとしているかについては触れない。私はあまり知らないのである)。

3、3つ目の概要。二つあるいは三つの意味のある政治的グループが共に新政党の創出を呼びかける。これは、ポルトガル(左翼ブロック)あるいはデンマーク(赤・緑同盟)の場合に当たる。それはすべての計画の中ではもっとも単純でもっとも「信じられる」、落ち着いた構想である。しかしフランスでは一度も試みられなかった。1995年のLO大統領候補のアルレット・ラギュエの選挙得票や2002年の選挙におけるアルレット・ラギュエとオリヴィエ・ブザンスノーの合計得票率が10%という大変な数に達したという政治的入り口は長く開かれてきたにもかかわらず。
 フランスでのこの失策には主たる理由がある。LCRは60年代の急進主義の中で直接に生まれ、70年代もそうした光景が持続することを願った唯一の組織である。他の二つの時代的生き残り(リュット・ウーブリエール―LO―とランベール派)はこうした見通しに何らの興味も示さなかった(「階級闘争左派の」他の流れはより小さい)。

一つの重要な入り口と障害

 一つの政治的に重要な入り口が、にもかかわらず、(新自由主義、反民主主義、軍国主義的)ヨーロッパ憲章草案への否定への国民投票の2005年以降存在してきた。「左翼の中の左翼」での統合への力強い政治的熱意が表明された。しかし、CPからLCRへと広がる諸グループや地方的諸委員会の間の2年にわたる真剣な話し合いは失敗に終わった。2年の過程において破綻の責任はどこにあるのかをめぐるきつい討論、論戦も引き起こした。しかし、犯人を捜すよりは、なぜフランスでは上記した三つの可能性が成功せず全て失敗したか、の理由を探る方がベターである。再び、私はきわめて図式的に以下の要因にアンダーラインをつけたいと思う。
 「古い」政治的、労働組合的運動は、もはや急進左翼を復活は出来ない。政党に関する限り、SPの社会的根拠は変化し、その「社会自由主義」の方向性はブルジョア社会への深き統合を明らかにしている。CPに関して言えば、スターリニストの過去と一度も正面から向き合ったことがなく、今やそれ自身、選挙的、制度的にSPの人質となっている。何年もの危機にあるのだが、その危機には不幸にも発展への動力が含まれていない…三つの主要な労働組合機構(CGT、CFDT、FO)はまた、官僚主義機構に過ぎる。
 このことは、「古い」労働運動個々人(多い)や地方組織活動家チームがNPAや他の急進主義左翼政党に加わらないということを意味しているわけではない。実際、きわめて多くが参加しているし、今後参加するだろう。しかし、1970年代、80年代にわれわれが期待したような、伝統的労働運動を再建する、再構築するには十分ではない。もっと広範な道筋で再生されなければならず、その過程はもっと複雑化したものだろう。
 「新たな」労働組合運動、社会運動は、成立以来15年から20年を経過し、SUD、連帯労組、教師たちのFSU労働組合同盟、失業者、家なき人々、資格なき移住労働者や他の人々の結合を作り、世界的公正運動のさまざまな構成部分となっている。さまざまなレベルではあれ、急進的能力への期待をのぞかせている。今日、これら多くの活動家がNPAの呼びかけに賛同を示し、事実において参加している。2005年から2007年の間、彼らの中心的部分の間では、「左翼の内部の左翼」の結合を進める動きがあり、それは主要にはLCRに対抗する動きであった。これは社会運動の明白なる前進とフランス政治の動きのなさとの間のギャップを埋めるという積極的な動機に基づくものだったが、沈滞と話し合いの不調によってこうした動きは終わったのだ。
 より大きくは、フランスにおける社会運動と政治運動の関係は不安定だ。労組連合と大衆運動との間の距離は、今日きわめて痛々しい課題だ。それにはいくつかの悪い理由もあるが、より多いよりましな理由は、過去の機関主義や操作が生み出したものだということである。
 この障害を克服するためには、将来における相互のダイナミックな関係を保障するためには、NPAのような急進主義政党が実践的にその有用性、持続的道筋において、社会運動の独立性、内的民主主義を尊重する準備とを示す責任がある。

鍵は社会党との関係

 フランスにおける「左翼の左翼」がいかに形成されているかを述べることは難しい。というのも、その構成要素のほとんどはいまだデッサン化されていないからである。CPはこれまでは最大の組織であったが深い危機にある。LCRは統一化に関与する「極左翼」の中では今までは最大の構成要素である。それからより小さな政治組織、非公式のネットワーク、地方勢力、個々的活動家たちや個人たちがいる…すべてを構成物とする境遇があり、これは政党同士の関係よりも広大なのである。
 なぜ、2005年―2006年に共通の候補者統一関係を作ろうとする試みが失敗したのか。なぜ、結合への熱き思いが破綻したのか。多くの理由がある。だが、何が起きたのかを理解することに気をつけておくための、一つの大きな政治課題がある。社会党との関係、すなわち選挙協力と政府参加問題である。
 いくつかの国々の急進主義左翼にとって、政府参加問題が重要となったか、あるいは重要な選択となりつつあるところでは、「社会―自由主義」や「中央派左翼」との同盟問題は鍵的な問題を残している。ブラジル、西ベンガル、イタリア、ドイツ、ポルトガル、ネーデルランド…フランスでは選挙制度はきわめて非民主的であり、議会へと選出されるための機会とは社会党(左派)の支持を得る必要があるのだが、それは自由に与えられる訳ではない。弱体化したCPは、その議会的位置を維持するために、今以上の合意提携を必要としている。CPと同盟したい勢力はこうした位置関係を受け入れなければならないのである。彼らはSPとの選挙協力の展望を、時には拒否したとしても、事実上こうして受け入れざるを得ないのである。
 LCRは、極左翼の他の構成要素と同じく、こうした展望を拒否している。LCRは現在の力関係においては、政権参加は、社会自由主義と約束を結び、資本の指令をやりくりすることで終わるだろうと考えている(イタリアにおけるPRCのプロディ政権への参加の悲惨な決算書を見よ)。LCRの展望は、サルコジ大統領体制への社会的抵抗のもっとも広範な統一を生み出すことにある。しかし、より厳密な政党レベルでは、優先は、社会自由主義や右翼に対抗する左翼の選択を具体化する急進的柱を強化することへ向けられ、それはSPからの完全な独立を含意するのである。
 2006年後半、LCRは「左翼の左翼」の間で格別に孤立しているように見えた。2007年早くには大統領選挙に向けて、共産党はマリー・ジョルジュ・ビュッヘを、緑はドミニク・ボイネを、そしてLCRはオリヴィエ・ブザンスノーを、そしてジョゼ・ボが「左翼の左翼」の他の部分のために立候補した。ブザンスノーの選挙運動はきわめて政治的に精力的に行われ、4%を得票した。ビュッヘの運動は勢いに欠け、共産党にとっては最悪の結果となる2%以下の得票に終わった。ボイネの運動は失敗に終わり、1・5%であり、ジョゼ・ボベの運動は彼の知名度の高さにもかかわらず、1%を越えるもので終わり、最下位となった。方向性をめぐる2年間の緊迫した討論の後、大統領選挙は「左翼の左翼」にとって実に政治的なテストとなった。それはLCRに新たな責務を与えたのだ。

LCRの新たな責務

 その政治的イニシアティブと選挙キャンペーンの成功は、LCRを「左翼の左翼」の中央に導いた。問題はこうだった。この成功で何をなすべきか。もしも過去において幾度かあったように、現状の動力が失われない限り、LCRは早急なイニシアティブへの責務を果たさなければならなかった。2007年半ば、選挙の政治的テストの後でも、新たな政党に向かう他の重要な組織との合意は出来そうにもなかった。「上意下達」の統一運動の可能性はないところで、LCRは「底辺から上へ」の過程をたどる決定を行った。こうした党の創出に加わる可能性ある人はすべてNPAのための地方委員会に加わるように招待された。地方組織のネットワークが新党形成の基礎となった。
 LCRよりも基礎の広い政党の政治的領域が生まれ出ようとしていることは明らかだった。これは部分的には、オリヴィエ・ブザンスノーの抜群の知名度によって示された。オリヴィエはきわめて良い候補者であり、演説家である。これはメディア現象だけではなく、政治現象である。郵便労働者として賃金を支払われ、ストライキを行った彼は、専門的政治家とは見えず、「共同労働者」、「われわれの一人」として見えた。彼は若く、若い世代はまた彼と同一化できた。彼は政治的にはきわめて一貫性が高い。27歳で彼は大統領選挙に初の挑戦を行った(2002年)。彼は全くのところ無名であったが、しかしすでにLCRの政治局メンバーであった。TVの討論で、彼は常に専門政治家たちや政府メンバーたちを攻めた。人々はそれを好んだのだ。
 LCRがNPA発足のイニシアティブを取れたことの一つの理由を見逃しがちである。それは、新たにされた主導力を要因として、ということである。今日、LCRのすべての歴史的「人物たち」は政治局を外れている(活動はしている)し、全国的な主導力は今は主要に30代と40代に委ねられている。これはほとんどの他の組織には見られない特色である。1990年代以降起こった急進主義的変化による重要な出来事である。
 他方、LCRはそのメンバーシップを新たにすると同時に、活動家のネットワークをも変えた。他方では組織はその出発、1960年代、70年代の経験で形作られた組織の姿に留まっている。そのように、組織は二つながら、新たな政党を推進できるし、しなければならないのであり、現在の世代の政治経験を表現しているのである。

新たな政党としてのNPA

 LCRにとって狙いはより大きな強い政党を作るだけにあるのではない。真に新たなものをつくることを援助することにある。世代的な急激な変化が起きてきた。ソ連邦の崩壊と資本主義の世界化である。世代的にも変化は大きい。現在の活動家たちは、「1968世代」とは感覚が違うし、集団的経験、歴史的経験も違う。世代と年代における急進的変化の結合は、政治と活動の現在のあり方と深く結びついている。
 もちろん、過去の世代の政治的経験や過去の世紀の多くの教訓(帝国主義、スターリニズム…)を生かし続けることは重要である。われわれの過去を失わずに新たな党をいかに作るのか。LCRの伝統を新しい党に移すのだ。この新たな党に、過去の世紀の他の革命的伝統の最良のものを、マルクス主義のさまざまな流れ、自由主義の伝統、フェミニスト、環境・社会主義者、世界的公正運動などから、運び込むのだ。新たな党に大衆活動家の訓練された活動家群を与えつつ、その社会的広がりを新たな分野や領域に押し広げ、そのことによって全体としての民衆社会を代表し、資本主義的世界化への反抗の急進性を同一化させ、郊外の大衆居住区や移住労働者たちの間で、差別との闘いを広げ、そして新たな党に現在的世代の政治的言葉で話すことを容認するのだ。
 他者と共により裾の広い政党建設を目指すことはLCRにとっては新しいことではない。こうしたゴールを数十年も追求してきたのだ。新しいことは、底辺から頂点への過程を決めたこと、および、二つの世代と年代を完全に変化させることを新たな党の展望において実現することであった(この二つ目がおそらくはもっとも大切なことであったかもしれない)。
 不幸にも、LCRはNPA形成に関わる、現在的には唯一の「大」(すべては相対的である)「左翼の左翼」の構成体である。関与する他のグループはより小さい。そうした時の危険性は、LCRがNPA結成以降も「党の中の党」に留まる場合である。それを避けるために、刺激的決定がなされた。LCRメンバーはNPAでの決定席では通例として少数派に留まるということである。そしてLCRはNPAの結成総会以前に解散するべきという決定である。NPAが政治的・社会的融合ポットとなり、自身の同一性を形作ってきた。NPA内部での政治的合意に達するのは現在的には容易である。SPとの関係が問題とされた以降は、1970年代におけるソ連の性格(一例を取れば)に関するような仲違いの種が「左翼の左翼」にあったことと比べれば、今はない。しかし、以前と比べれば、理論的訓練はやや低く、戦略問題に関する答えが多く出されているわけではない(いかにブルジョアジーを武装解除するか)。NPAはその綱領的基盤を自身の経験と結びつけなければならないだろう。それには時間がかかる。その道筋は分からない。
 NPAが突き当たってきた主たる困難さはその名称問題であった。これは小さな問題ではない。1960年代、70年代、「左翼の左翼」の同一化と同じレベルで、一種の「共通の政治的資本」を具現化した言葉があった。フランスでは共産主義者、ベルギーでは社会主義者の用語が使われた。それは「プロレタリアート」と「労働者」と同じ用語の使われ方であった。これは今では違っている。これらの用語は冒涜されてしまった。多く(あるいはほとんど)によって分かち合える「共有される」経験がないのである。これが名称不決定過程に跳ね返っているのである。
 LCR解体の決定はまたもちろん、危険性を含む決定である。しかし、危険を冒さないという決定を行うのならば、より危険性は高いだろう。われわれは現在の機会をつかむようにしなければならない。それに失敗するのであれば、「左翼の左翼」全体にとってはるかにコストの高いことになるであろう。NPAは決して拡大したLCRと見られてはならず、同時にそうであってはならないし、質的に新たな党であらねばならないのである。
 経過は良く過ごさせられている。数千人の人々、彼らは今まではいかなる党の党員であったことはなかった、が関与している。CPや他の組織からの人々の多くが、また参加しつつある。草の根活動家たちも同様である。もし、2009年1月の終わりのNPAの立ち上げが成功であれば、いくつかの「左翼の左翼」の潮流は、それはいまだLCRの企てに賛同していないが、決意を変えるかもしれない。
 しかし2009年1月の終わりとNPA創立大会が、待ち構える長い道のりを認識するのを待った方がいいかもしれない。長い道のりが今後も続くであろう。
※筆者はヨーロッパ連帯労組戦線(ESSF)のメンバーである。彼は長い間アジア連帯運動に関与してきたが、来日経験も多数。(『インターナショナル・ビューポイント』電子版11月号)
 
 
 
 

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