2009年3月10日        労働者の力             第 228号

09春闘
「未曾有の危機」だからこそ要求は譲れない!
雇用も賃上げも! 資本から社会へ「富」を取り戻せ!
危機への労働者民衆の回答は、要求貫徹の中から
坂本二郎

 
 
 全世界が信用崩壊と生産の急縮小、失業の中にある。マスメディアでは、あるいは政治の世界では、当の彼らがどの程度深く心に刻んでいるかは別にして、第二次大戦後最悪、未曾有の危機などの言葉が踊る。しかし労働者民衆の日常においては、失業のみならず地場生業の逼迫や中小零細事業の倒産を含め、日々広がる生活丸ごとの破壊、あるいはその恐怖は現実である。
 その破壊の実相は、過去のどのような「不況」とも明らかに異質だ。大量の非正規労働者が、何の生活の支えもないことを承知の上で、苦もなく「適法的に」街頭に放り出されている。業況悪化の深まり、その連鎖的な広がりの急速さと全体化については、中小事業者の誰もが、過去に経験したことのないものがあると語る。社会の中にクッションはない、あるいはそれは壊された。
 この危機、文字通り恐慌との対決が労働者民衆に今求められている。先に概括したこの危機の深さと全体性を前提とすれば、それは、それを生み出したもの、この30年社会を支配してきた仕組みと力学、それらを推進した政策路線を覆す闘いでなければならず、その上で、闘いを通してこれまでとは違う社会を生み出す必要をも意味しているはずだ。闘いのそのような発展なしにはおそらく、この危機からの脱出もあり得ない。09春闘は自ずからそのような闘いの一部であり、また自覚的にそう位置付けられなければならない。派遣村が年明け凝縮して映し出した新たな運動の諸要素は、労働者運動にそのような挑戦を突きつけている。

出発点は新自由主義との根底的訣別

 闘いにあたっては先ず、今の状況をどうとらえるかについて曖昧にしてごまかす日本の支配層の姿勢を許してはならない。年率換算で12・7%ものGDP急降下が公表された。金融崩壊という点では発祥地であり、中心地であるアメリカ、ヨーロッパを何倍も上回るこの現実を作り出したものが何であるのかについて、口をつぐむことを許してはならない。要するにアメリカの金融操作による消費バブル、いわば虚構的に水ぶくれさせられた消費を追いかけ、その「恩恵」を一番活用して生き延びようとしてきた、あるいはそこに依拠しようとしてきたことのツケが、日本に今回ってきた。原因と結果のこの構造、そして、そこに働く力学がとうてい持続不可能であり再現も不可能なものであることが白日の下に引き出された。このことを、何よりも出発点にさせなければならない。しかし今日本のエリートの中ではそこが限りなく曖昧にぼかされている。要するに反省がない。アメリカやヨーロッパの状況と比較すればそれがより鮮明となる。
 例えばアメリカの場合、グリーンスパンなどは、全面的に資本の手に委ねるというか市場に委ねたことがどうであったのか、今後を考えるとすれば、次に開ける社会は今まで我々が考えてきたことと違う仕組みのものになるのではないか、という言い方をしている。つまり、自分達のやってきたことの破産を明白に認めた上でどうするか、という議論だ。だから、この間下院に金融のトップを集めて厳しい追求をやる。そしてその場で例えばシティーバンクのトップは、もし10年前に戻れるならば違うことをやるべき、などと言わざるを得ない。その意味で、道を誤ったとの認識が前提として先ず明白にされている。もちろんそれがどの程度の深さであり、論理構成の確かさがどのぐらいのものであるのか、という問題は残っている。しかし少なくとも、アメリカの虚構に基づいた消費、金融手法を使って強引にふくらました消費を通じて景気を引っ張ってきたというやり方、つまりその構造のエンジンとなっていた金融の新しいシステムが際限なく発展可能だという幻想の下に世界を牽引してきたことについて、それは破産したのだ、ということを認めている、あるいは認めざるを得ない。オバマの経済政策を支える基礎はその認識だ。
 ところが日本の場合、そこが根本的にデタラメであり、そのデタラメさがまかり通っている。相変わらず竹中が何の反省もなくメディアに重用され、アメリカの場合はない資産を架空の資産として証券化してきたが、日本の場合はまだまだ個人資産が1200から1500兆円、それを投資に使えばうんぬんなどと、かつてと変わらない主張が垂れ流されている。果ては、アメリカに次いで中国が円換算50兆円の景気刺激策を打ち出したことに期待をかけ、次は中国、などと吹聴する議論まである。
 しかし直面している危機が100年に一度と言うのであれば、その並ではないものをもたらしたものは何なのか、どのような政策の帰結なのかをはっきりさせなければならない。並でないものは、一寸した手違いや偶然などでは起きない。この間いわゆるグローバル経済で国際競争に勝たなければならないとして、そのために、国内の労働市場のあり方、競争規制のあり方(独禁政策や中小企業保護)、税制や金融のあり方全てがひっくるめて作りかえられてきた。しかしその国際競争に勝つということの実態は、結局のところ、アメリカ資本が主導した金融の幻想を支えとした虚構的消費に飛びついただけの話だった。その幻想が壊れた時、虚構はかき消えまさに打つ手がなくなった。国際競争に勝つ、それによって日本社会を「養う」と豪語してきた巨大独占資本は、我先に自分だけの防衛に走り、労働者民衆には荒廃だけが残されようとしている。そして、国際競争に勝つということの民衆多数にとっての実質的意味の驚くほどの空しさが目の前に暴き出されているにもかかわらず、その肝心の意味を改めて確かめることさえないまま、今もって、国際競争に勝たなければ、との議論が繰り返される。
 日本のエリートにはこのことの反省がない。それ故主張される内需拡大論においてすら、内需拡大には市場規制のあり過ぎが問題、大型店舗がもっと自由に流通に力を発揮できる環境を作れなどとの議論がするっと引き入れられる。これでは巨大独占資本への、さらに極度に限られた一部の大資産家への資源集中は、この危機を通してさらに進むだけだろう。しかしそれは同じことの繰り返しを生み出す最も根源的な要因なのだ。けじめが必要であり、それなしには人々の必要とする転換は何もない。
 労働者民衆はそのけじめのなさにまさにノーを突きつけなければならない。今闘いはそのようなものとして実現されなければならず、その点でも要求を決して譲るわけにはいかないのだ。

課題は、次を開くための労働者運動

 しかしそのけじめをつけた上で、次に向けた進路をどう定めるかという問題が残されている。
 その点で言えば、アメリカオバマ政権のグリーンニューディールと言われているものが一定の新しいものを作り出すかどうかは、全く確証のある話ではない。この種の産業のこれまでの位置はいわば隙間産業だ。その限りにおいて、少ない参入をてこに総体的に高利潤率を残すことができた、あるいは産業として成立できた。しかし主流に押し出されようとする今後は、そうはいかないはずだ。一時的な活況あるいは投資ブームはあるとして、しかしそうなれば、競争の中で、一般産業並に利潤率は急速に低下するだろう。他の産業並に、この産業も全体としては低い利潤率に苦しむことになる。資本主義の下でその時何が起こるか、いずれにしても実物経済における低い利潤率、言葉を換えれば過剰蓄積が、資本主義の金融化と金融の暴走への根底的エネルギーとして、そのまま潜み続ける。
 ばら色の未来が約束されているわけではない。それ故保護主義への隠然とした圧力が現に働き続けている。保護主義の台頭と第二次世界大戦という過去が単純に再現することはないとしても、過去のルーズベルトのニューディ―ルが成功したわけではないという歴史的事実も下敷きに、世界では類似した展開を懸念している状況がある。しかし日本支配層の政策論議は、そのレベルにも届いていない。
 まさにこうして、世界経済フォーラム(ダボス会議)は全く先進性を示すことができなかった。何とプーチンが基調演説者に指名されるという混乱の極みであり、今の局面をそのまま移し変えただけに終わった。
 それに対してブラジルのベレンで開催された世界社会フォーラムでは、南米の5人の大統領が演説に立ち、新自由主義を厳しく断罪しそこからの訣別を訴えた。しかしそうであっても、「もう一つの世界」を打ち出して10年闘いつつ、その先を模索し切れていると断言できる状況ではない。 内需型というか内包型というか、それぞれのリージョナルなものに根ざし人々の生活の必要に応える新しい経済のあり方、転換が求められていると思うが、それは保護主義ではないはずだ。またそれは、南米の現実が、さらにヨーロッパの政治的動揺が示すように、社会民主主議として収斂し収まることもないだろう。
 そのような構想を生み出す議論がどこから生まれてくるか、残念ながら日本ではそこを突き詰めていこうとする作業は今できていない。おそらく多くの人々の中で吹っ切れていないものは、この問題に引っ掛かっている。春闘の問題というよりも、時代の転換をとらえてその先を見通すという問題であり、労働者民衆に、左翼全体に、そして我々に突きつけられている大きな課題の存在を、確認しておかなければならない。
 そしてその観点からしても、世界の支配層が今まで追いかけてきたものの破産を我々自身が明確に認識し、支配的エリートのデタラメな議論と施策を、その犯罪性を徹底的に批判し具体的な闘いを対置しなければならない。
 ヨーロッパでは、ドイツの鉄道労働者が賃上げを勝ち取り、フランスの労働者は何十年ぶりと言われる規模の大ゼネストに立ち上がるなど、資本と権力の責任による生活保障を迫る具体的な闘争が繰り広げられている。現在の生活破壊と失業を作り出した責任は彼らにあり、それ故その補償の責任も彼らにあるという明確な論理のゆるぎ無さが、そこには歴然と示されている。まさにそのようにして、この危機の中で労働者が自分達の要求を貫徹すること、具体的な闘争で勝ち取ることを通じて、未曾有の危機に対するこちら側の回答を求め引き出そうとしている、と言ってよいかもしれない。このような闘争の過程なしにはおそらく、先述の作業の突き詰めも確かな足場を見出せないだろう。
 例えばアメリカでは基本的に何も起こっていないと言ってよい。アメリカの労働組合運動では、バイアメリカン運動のような動きに誘導され、この危機の中で労働者に対して首を切るなとか医療保険をもっと充実させろとかいう直接の闘争行動を呼びかける運動は、マイケル・ムーアなどの主張はあるとしても極めて弱い。その限りでまた、民主党から自立した労働者民衆の政治運動や、次を切開く変革路線に関する議論も、大衆的に目に見えるという意味ではかなり狭く限定されているように見える。
 そのように対比してみた時、我々にとってはやはり、ヨーロッパのフランスやドイツの労働者運動の取組みとフランスで進んでいるNPAへと向かう動き(国際面参照)がどう関係しているか、重大な関心をもって検討すべきだろう。
 そしていずれにしろヨーロッパが示している教訓は、この未曾有の危機だからこそ労働者民衆は、資本や支配権力に対して、自らの具体的な要求を決して譲ってはならない、ということだ。彼らに責任を取らせることが出発点でなければならず、それは、彼らが手にしているものを社会に取り戻すことから始まる、ということに他ならない。そしてそれは、次を見通すという点でも出発点だ。何故ならば、次を内需型経済と考えようとも、あるいは福祉型経済社会と考えようとも、いずれにしろそのような転換は、「富」あるいは資源の大規模な社会的再配分を経由し支えられることなしにはあり得ない。問題はそれを強制する力であり、それ故、労働者運動のあり方が今本格的に問われることになる。

あくまで、雇用も賃上げも、から

 今年の民衆の闘いは、年越し派遣村というダイナミックな始まりを印した。短い期間のうちに色々なことが起きた。国を動かす、政治を動かすということを含め、運動の可能性として新しいものを垣間見せたが、その後の展開は必ずしも一筋縄ではない。ある意味では当然であり、派遣村自体は、村民の最後までのフォローという責任があり実務に追われるという状況がある。
 問題はそれを支える陣形の方に問われるだろう。全労連、全労協、連合の労働組合レベルでの支えはあった。しかしそれが、この春闘の中で具体的に要求を掲げて資本に迫って行くという形に進んでいるわけではない。例えばワークシェアリングなどと向こう側からしたり顔で仕掛けられ、電機連合は基金にカンパをしようではないか、というレベルの話に終わっている。そこでは例えば、この間連続的に積み上げられてきた内部留保、グローバリゼーションに勝つためとして作られてきた金持ち優遇税制、法人税引き下げ、それらに手を着けようという議論は見えない。キャノンでもソニーでも相変わらず株主配当を続け、配当を上げたところもある。それにもかかわらず、内部留保は全部設備投資に回っているなどという馬鹿げた言い逃れがまかり通る。結局、内部留保がなければ今度は株式市場でしっぺ返しを食らう、市場経済の原理で企業が締め上げられる、こんな弁解しかしていない。そういう企業のあり方、市場の働きのあり方、市場優先の経済のあり方が破産したはずなのに、今もってこんな弁解が許されている。労働者運動はそこに明確に対決しなければならない。
 例えば、派遣村が体現した食と職と屋根の要求はよこせの要求だ。本質的には富の社会的再配分を迫る要求だ。それは強制力を伴わなければあり得ない。それは世論が政治を動かし国家権力がやる。そうでなければ、先進的に言えば、労働組合なり労働者の運動が資本を規制してそこからもぎ取ってくる。そういうことでなければ、今年の春闘は非常に悲惨なことになってしまうだろう。
 その点から言えば、今年の連合が賃上げの要求を放棄していないことは重要だ。こんなところで、ワークシェアリングなどを口実に変に自粛路線に切り替えることには何の意味もない。例えば消費の落ち込みは0・5%ぐらいしかない。消費が経済に占める重みは非常に大きい。その意味を含め我々が我々の生活を守るために、取られたものを取り戻す旗を捨てるわけにはいかない。
 しかしそれだけでは明らかに不十分だ。例えば消費税引き上げ論に対抗してもっと直裁に、重加算の累進所得税、法人税の引き上げ、相続税などの資産課税を合わせて要求しなければならない(相続税もこの間大幅に軽減された)。派遣村は労働と貧困を結び付けたが、今年の春闘はその意味も含め、新しい課題に直接ぶつかっている。それ故例えば生活保護の学習とか、労働組合の現場で色々なところで取組みが始まっている。
 その上で繰り返すが、今年はとりわけ、資本に対して自分達の要求を譲ってはならない。賃上げ要求を譲ってはならない。それ故雇用も賃上げもであり、それが今年の春闘の基本だ。全国一般全国協では、「安定的雇用と生活できる賃金獲得、セーフティネットの確立を」としている。
 それではこのように打ち出した時、具体的にどうなるか。例えば雇用保険の問題がある。37・8%の非正規労働者に対して企業は事実上雇用保険を負担していない。もっと言えば労災保険も負担していない。明らかに不正義だ。その分を出せ、基金としてであれ先ず企業が出せ、国も出せと我々は要求できる。国が何を出すのかと言えば、雇用保険積み立てが余っている分、約5兆円がある。その貯まった分はまさに、現在の雇用保険の仕組みと雇用の調整弁として位置付けられてきた非正規雇用が作り出した帰結だ。雇用保険の支給対象者は基本的に正規雇用労働者、そして支給対象ではない非正規雇用の37・8%のところばかりが切り捨てられてきたのだから、当然貯まる。エリート官僚と政権はそれを彼らのための埋蔵金と見ていたのかもしれないが、労働者民衆はそのように勝手に使わせるわけにはいかない。それを非正規雇用労働者の生活保障に当てることこそが、まさに正当な使用と言わなければならない。
 この貯まっている資金と、企業が自分の負担分を免れている分、この二つを合わせてセーフティネットの一つとして、いくら短期であったとしても労働者であれば、失業した時にはきちっとした手当てを出す、労働者であれば働いている期間ではなく全員を保障する、そういうことをさせる具体的な手立てはあるのだ。例えばそういうところに電機連合の組合員がカンパを出すということであれば、それはそれでいいだろう。あるいは賃上げを取ってそこから出す。ともかく資本から企業から取ってきてから出す、これが筋だ。今ある賃金総原資の中で「分かち合う」のでは何の意味もない。
 そういう要求をきちっと立てる必要がある。雇用保険であれ、生活保障のあり方であれ、これまでの仕組みは正規雇用と企業内福祉が前提とされてきた。しかしそれは基本的にこの20年から30年をかけて向こうが全部壊してきた。壊すだけ壊してそれに変わるものが何も用意されてこなかった。そこにそのまま放り出すことの意味が、今あらわになった。その象徴が派遣村だった。今問われていることは、壊すことで向こうが労働者から取り上げたものを、新しい形で先ず取り戻す至極まっとうな闘いだ。

回答は、ワークシェアリングではない

 その問われている課題に対して、今議論として浮上しているワークシェアリングは回答にならない。自らの負担など全く頭にない経営側の主張が問題外であることは当然として、例え善意から発しているとしても、そこに流れている論理には重大な欠陥むしろ不正議が、無自覚なまま隠れているからだ。
 失業を作り出しているのは資本であり労働者ではない。その解決責任は何よりも先ず資本にある。解雇はするな、仕事を作れとの要求は先ず資本に向けられなければならない。労働者は歴史的にそして今も、一貫してそのように行動してきた。それが労働者にとっては実現されるべき正義なのだ。ワークシェアリングはこの正義感覚と微妙にずれてしまう。
 ワークシェアリングという論は本来の性格として、あくまである種の社会的な意義の説明だ。労働者が闘いの要求として具体化するとき、それは解雇反対であり、仕事をよこせであり、厳格な労働時間管理と時短要求だった。もちろん賃金を維持した上での話だ。大体労働者の圧倒的多数は、賃金切り下げを容認できるような生活実態にはない。 朝日新聞記者の竹信三恵子氏は、ワークシェアリングをプロフィンテルン起源と解説している。意義の解説としては確かにそうだ。それでも、その時の要求自身はあくまで、第四インターナショナルの過渡的綱領が引き継いだ形、即ち、賃金と時間のスライディングスケール、要するに賃金はインフレ率にスライドさせ、労働時間は失業率にスライドさせろ、ということだった。それはあくまで国家と資本に、労働者総体の生活を保障させようとした要求だった。同じ竹信氏はある講演の中で、日本の労働者の中でワークシェアリングが否定的に受け取られていると確認し、その理由として、時の労働省や経営側が一貫して賃金切り下げを伴う時短として流布させた結果としてもっぱら賃下げという印象が作り出された、と解説している。事実としてそのような要因はあるだろう。まして今経営側のワークシェアリング論は、正真正銘の賃下げ論だ。
 しかし私はそれが本質ではないと考えている。要するにワークシェアリングと言ったとたん、失業の責任が資本にあるという肝心の問題がすっと消えるのだ。そしてその提言は、労働者のやるべきこととして、労働者が解決すべき責任の問題として、もっぱら労働者に向けられる。現実の議論はまさにそのように展開している。例えば派遣村に関して、ジャーナリストの江川紹子氏と井上全労連事務局次長が電話対談するラジオ番組があった。この場で井上氏は、全労連は春闘方針で賃上げを断固として要求しますと語ったのだが、それに対して江川氏は、あなた達はまだ賃上げなど要求しているわけですか、何故ワークシェアリングを考えないのかと、いわば反論している。全労連はもちろん解雇に反対しそのように現に闘っているが、江川氏の理解では、それはワークシェアリングを実体化する一つではないらしい。失業の責任があたかも労働者の責任であるかのように変えられるこのような論理に、その理不尽さに、労働者は例え漠然としてであれいわば本能的に、釈然としないものを、受け容れ難いものを感じるのだ。その感じ方を私は正当だと考える。
 そして実際的にも、このように曖昧で、むしろ正反対の意味が混在するワークシェアリングでは、そもそも要求にはならない。そのようなものでは運動も闘いも成立しようがない。
死ぬほどの残業がある中で非正規の労働者がはじき出される構造は明らかに理不尽であり、犯罪的だ。その犯罪性に目を背け人を押しのけても残業代を稼ぎたいという労働者も確かにいるだろう。しかしまた、本当は残業などしたくないというのも、紛れもなく労働者の要求なのだ。それはもはや個々人の生死に関わる要求とすらなっている。この現実の要求を闘争化すべきなのであり、そこには十分な根拠がある。そして日本では、サービス残業の根絶、残業ゼロ、年休100%消化これだけで、数百万人分の雇用が不足するという統計が何年も前からいくつも発表されている。これも留意されてよい。
 我々のやるべきことはあくまで具体的に、例えば労働時間管理を労働者ペースで厳格にやらせ、サービス残業はもちろん過労死寸前のような残業を闘争として規制し、そうして雇用を維持し作り出す闘争の追求だ。さらに、残業なしで生活が成り立つ賃金を要求することだ。そして正規雇用の労働者に、そのように闘うよう働きかけることだ。労働者の心の奥底に、社会のどのような他の階層よりも確かなものとしてしまい込まれている平等と連帯への希求は、そのような闘いの方向でこそ解放され、自信と確信に満ちた表現となるだろう。

女性と外国人労働者、非正規問題の中軸を見落としてはならない

 そして派遣法に対する闘いが、新自由主義を覆すことの意義をより多面的に浮き上がらせる形で重要性を増している。
 この点では派遣村で見えていなかった問題が二つあったことを特に強調しておきたい。一つは女性、もう一つは外国人労働者だ。例えば外国人について言えば、G8の取材で知り合った香港のメディアが派遣村を訪れ、中国人・韓国人の入村者を一生懸命探したが、一人も見つけられなかったということがあった。
 この二つの問題は、非正規労働問題の元々の中軸だ。しかしそれが派遣村では顕在化しなかった。これはきちっと意識しておかなければならない。状況的には、製造業派遣がクローズアップされることで派遣問題が一挙に表に出てきたということは確かにある。派遣村にもそれが反映した。 しかし、非正規労働者の差別的低処遇構造自身は、女性と外国人に対する差別的構造が基礎を形作っている。その上で例えば、統計の取り方で数字は動くが、派遣労働者は全体で380万、その内製造業派遣は46万人、七分の一だ。それで、極度の不安定さがクローズアップされたこの製造業派遣労働者以外は安定的なのかと言えば、そんなことは全くない。最近は外国人の失業もメディアが取り上げるようになってきたが、それ以外の例えば事務の派遣労働者もばたばたと切られている。日本社会のあり方を鋭くえぐる意味をはらんだこの中心部分を、表に出す必要がある。
 その意味で、派遣村では女性と外国人が落ちていたということをはっきり自覚し、非正規のど真ん中には女性と外国人がいるということ、それと新しく生まれた製造業派遣が食と職と屋根を失ったということがドッキングして問題化しているということ、その視点をもってやれるかどうかが今後にとって、派遣法の改正、非正規労働者の雇用保障を要求する場合非常に重要になる。
 全労協の春闘の中では、マーチインマーチを全国へ、と立てて、外国人の問題をこの間の雇用切り捨てのど真ん中に据えて運動を進めようとしている。名古屋では、外国人の多く住む団地で派遣村をやろうという提案が出ている。マーチインマーチは福岡でも計画されている。東北キャラバンでは、当局への要請として、実態調査も含めてこの問題を意識的に突き出すことになるだろう。色々なところから様々な形で始まっているが、これをこちら側が意識的に位置付けて取り組むことが必要だ。

派遣法抜本改正をより強固な流れに

 その上で、派遣法の抜本改正という要求は中間的要求であることを確認したい。本当に求めなければならないことは派遣法の廃止だ。こういう風に工夫すればいい派遣、ここが悪いから悪い派遣、基本はそういう話ではない。
 「世界」3月号に掲載された派遣村を総括するインタビューで湯浅誠氏は、労働契約法の17条を引いて非正規雇用労働者の中途解約を違法と訴えている。それ自体は全く正当だ。ただ、そこで労働契約法17条だけを根拠にすると誤解を生むかもしれない。17条には有期雇用労働者と書いてあるのだ。ここで加えて問題にすべきことがどこにあるかと言えば、派遣契約の中途解約というのはどこを指すのかに関わる。
 先ず、派遣先と派遣元の契約は雇用契約ではないという問題がある。それは元々商契約、商品取引なのだ。したがってそこでは、派遣先が一方的に解約する権利はある。それに対して派遣元には損害賠償請求の権利がある、こういう関係だ。それは、労働契約法も含めた雇用関係ではない。その上で、派遣元と派遣労働者の関係になる。そしてその関係も厚労省の指導では、常用雇用でない限りは、中途解約に際しては特別配慮として一ヶ月の予告手当てを支払いなさい、となっている。NHKスペシャルが放映した派遣切りの番組では、中途解約に向け派遣元が札束を積み上げて準備する場面が放映されたが、それは全部一ヶ月の予告手当てだ。これが厚労省の指導で、これで合格とされる。
 しかしこれはとんでもない話だ。派遣元と派遣労働者の関係は本来雇用契約であり、一方的な解約、即ち解雇など簡単にはできない関係のはずだ。整理解雇四要件はどこに行ったのか、有期契約と何が違うのか、という話だ。ところが、派遣労働は一般の雇用関係とは違う制度として作られたというのが向こうの主張で、それが現在の多数説だ。
 だから労働契約法17条との関係だけで問題を見ると、派遣労働に込められた悪さ、もっとあくどいあこぎさ、雇用関係を破壊して生身の労働者を商品にした、という点が見えなくなるきらいがある。そこの問題に意識的に焦点を当てたい。そうすれば、ちょっと手直しして、という話にはとてもならない。
 要するに、本来職安法44条違反、労働者供給事業を口入れ稼業としてやることは間違い、ということにもっていかなければならない。つまり派遣法については廃止が本筋であり、そこにもっていく入り口として、全体の運動を結合して行くための水路として、抜本改正という現在の要求の位置を確認しておく必要がある。
 そもそも間接雇用などという形態は、労働者には何の必要性も必然性もない。労働に関わる深刻な問題は、全て労働力を直接使用する者との間に発生する。にもかかわらず間接雇用という形で労働者の前から直接使用者が消えるのでは、解決責任を負いかつそれを果たす力を持つ者がいなくなる。労働者にはその深刻な問題が解決不能な形で残されるだけだ。それは労働の現場における労働者の人権が、本質的に剥奪されている関係と言ってよい。派遣労働を前提としてその改善を提言する主張ではほぼ全て、この肝心の点がすっぽりと落ちている。
 「世界」の同じ号で、浜口圭一郎という実務に精通した労働経済研究者が派遣労働問題の本丸は均等待遇と主張しているが、そこでも、労働者から見た派遣労働の先の中心問題は全く視野の外にある。確かに均等待遇は大事であり、日弁連提言でも重視されている項目だ。しかしそれは、派遣労働者に限らず労働者全体にとって大事な問題であり、派遣に関わってということではない。均等待遇は本来、労働者全体に及ぶものとして、前提として確立されていなければならない。そのような前提が(同じ質において、労働者による職場における人権保障規制が)基本的に確立している上でのヨーロッパの派遣労働の例を引き合いに、そのような前提のない日本での導入を先ず正当化し、その上であれこれ「改善」を論じるという議論は、問題のすり替えであり逆立ちした議論と言うしかない。基本的に雇用関係を間接雇用を通じて商取引関係に落とし込めたという問題、そのことに使用側は何の痛みも感じる必要がない、ボルとやナットの調達と同じ、だから扱う部署は物販部、こういう構造に手を着けない議論なのだ。
 派遣労働をめぐっては今、製造業派遣の規制と発言した舛添の動きも含め、上記のように色々なところから議論をごちゃ混ぜにする流れがある。政権の漂流状況も相俟って、政局がらみの動きも特に民主党では色濃い。派遣村が抜本改正を盛り上げ、派遣法の正体見たりという状況に来かかったにもかかわらず、それを生かし切れない状況が今ある。
 運動の立て直しが必要であり、その意味でも派遣労働問題の本筋を改めて確認しておくことは重要だ。

可能性と課題に挑戦の年へ

 労働運動の前には、未曾有の危機、新しい問題との遭遇、そして例え大挙でとは言えないとしても非正規労働者や外国人労働者の立ち上がりの広がりがある。当事者の立ち上がりこそ迫力の源であり、新しい問題との遭遇もまさにそこから具体的で迫真的な突きつけとなった。
 反貧困の運動の中で、シングルマザーの問題、多重債務の問題、生活保護の問題、屋根の確保の問題、それらが全部横につながり始めた。それと労働運動の問題がつながり始めた。昨年の一揆集会では、つながろう、がスローガンに掲げられた。運動の発展の中で生まれた動きであり、これは非常に大事だ。この動きを確かなものにする上で、非正規労働者の生活保障の問題が重要な位置を占めることは言わずもがなだろう。派遣村は、それを示した。
 3月年度末に向けてさらに大量の解雇が出る危険性はかなり高い。そこに向けて改めて問題を社会に喚起しなければならない。その意味でもつながることの重要性は一層増す。今春闘の中でもそのつながりを意識した闘いが求められる。
 労働者運動は大きな挑戦を課されている。正規雇用の労働者が自らの要求と闘争をもって登場しなければならない。そこには、明らかに限界をあらわにしている企業別組合を具体的に超えるという問題も含まれるだろう。おそらく、先のつながる動きをも土台とした、企業別組合を地域から蝕む力の成長が重要な鍵を握ると思われる。企業の労働者支配の構造にも明らかな綻びが見え始めている。蝕む糸口は具体的にあちこちに出てくるはずだ。それらも見据えて、派遣村で年を開き民衆に真に意味のある変革が抽象ではなく具体的課題として突きつけられている今年は、労働者運動にとっても重要な年となる。実現されるべきことは、資本と政府の責任による労働者民衆全体の生活保障だ。それに必要な要求を徹底的に具体化し、それを譲ることなく資本と政府・当局に突きつけ、闘争の中で新しいなにものかを形作る可能性に貪欲に挑戦しよう。(2月16日)
フランス・反資本主義新党の創立
      
反資本主義者の希望
        
ピエール・フランソワ・グロンド

 ヌーベル・パルティ・アンティカピタリステ(NPA―新反資本主義新党)は、2009年2月6日に創立され、綱領、暫定規約、党名、政策指針を採択し、新執行体制を選出した。
 これは、18ヶ月前に始まった反資本主義と革命的諸勢力の結集への力学過程の結論である。現在、NPAは新らしい政治的現実であり、それはわれわれが鍛え上げてきたものだが、しかし、われわれの討論を支配したものは、そのことへの満足感という以上に、より重大な責任感と状況の重大性の認識及び状況対応の重大性への認識だった。
 実際、NPAの創成は、政治的現実に密着した出来事だ。NPAの創立は、全般的危機という流れの中において起こり、また説明されるものだ。資本主義は大々的な歴史的危機に陥っており、それを地球の指導者たちの大半が否定しない。その危機は、金融危機や資本主義システムの新自由主義的調整ということに切り縮められてはならず、より大きく、支配者たちの利益への渇望を癒すための市場原理主義そのものの失敗を表現するのだ。
 全体の大衆と労働世界は、システムの支配者たち(銀行、金融の諸力、資本主義諸機構)が本質的に責任を持つ危機に投げ込まれるであろう。大量の解雇、生活費の高騰、公共サービスの組織的破壊が最初に実行され、それに対する最初の行動を呼び起こしてきた。同時に、環境的で食糧的な危機は、人々の生活条件の骨髄を左右する。こうした資本主義文明社会の危機と結合して、われわれは社会の革命的変革を擁護し、私有財産制度に疑義を呼び起こす、根の深い民主的社会主義の展望を再構築する勢力の形成を望むのである。
 最初の動きは発火した。グアデループとマルティニークは、生活費の高騰、不公平と差別に抗して立ち上がった。1月29日には、数百万人がストライキに入り、フランシュの首都でデモ行進を行った。新たな行動日が3月19日に計画されている。12月の高校生たちに続いて、学者や学生たちの、社会的な破壊計画にしがみつく政府に対して、その放棄を求めるストライキ行動が起こった。政府の行動が引き起こす自由侵害に抗するアピールが殺到している。
 われわれは、政府およびその政策に抗する全般的闘いへと向かうであろうすべての動きと闘いの集中を推し進めるものすべてを支援する。サルコジ打倒の新たな68年5月だ。
 こうしたことが、NPAが行動、ストライキ、デモ行進の中軸である闘いを支援するための、社会的・政治的左翼の単一の結合を提案するであろうことの理由である。われわれは解雇が頻発する局面にある。3月19日のストとデモ行動を提案している。あるいは自動車産業労働者の闘いを支援している。そのような時である。
 持続する社会的・政治的緊張の中で、われわれは緊急計画の擁護、すなわち労働者・大衆のための危機脱出策への支援を求める。計画はがっちりしたものであり、それは政府や社会党が行っている、危機の責任者、資本家たちへの金融支援を拒絶する。
 われわれは、すべての人々が月額で手取り300ユーロの賃金上昇を求める。無収入者には、上限手取り1500ユーロの、賃金や他の手段による援助。基礎的必要産品を手始めとしたVAT(付加価値税)の撤廃。家賃の凍結、切り下げ。購買者の背後で利潤のために暗躍し、同時に納入する小生産者たちを窒息させている大型スーパーマーケットとの闘い。われわれは、小企業でも大企業でも、私的分野でも公的分野でも、解雇禁止を求めるだろう。職への圧迫はかつてなく重大となっているのである。
 われわれは、昨日も今日も、右翼および左翼の、私有化を拒否する。銀行や金融会社の接収、民衆が管理する公的銀行施設の設置のために闘う。
 反資本主義綱領を中軸とし、現行システムのやりくりという枠組みに組み込まれている社会党の指導性からの自立を展望軸とした、最大幅の集合をわれわれは追求している。それは選挙と同じ闘いである。また、もはや、政府や雇用者たちの傲慢さに耐えきれなくなった危機の犠牲者たちに、違った展望を与える、永続性のあるある運動である。首尾一貫した労働組合は、闘争と選挙で、政策は同じである。そうしてフランスでもヨーロッパでも。
※筆者は、革命的共産主義者同盟(LCR、第四インターナショナル・フランス支部)の政治局員。(インターナショナル・ビューポイント電子版2月号)
※VAT(付加価値税)―日本でいえば消費税(訳注)

フランス
左翼の別の選択肢

          
ジョセフ・マリア・アンテンタス

 フランス左翼の概観図は、革命的共産主義者同盟(LCR)が推進した新反資本主義党(NPA)の誕生によって揺れ動いている。2007年大統領選挙でLCRの候補者、オリヴィエ・ブザンスノーは社会党(PS)の左にとって主要な選択肢として登場し、4・1%を得票した。ブザンスノーはフランスにおけるもっとも名の売れた人物となっており、サルコジに対抗する、現実に見える主たる顔となった。
 社会党が、純粋に見せかけの左翼転換を行っているにもかかわらず、政府の政策に対する真の対抗物となっていないという流れにおいて、ブザンスノーの人気は一時的なものではない。それは三度の経過を経て強化されてきた。2005年、ヨーロッパ憲法に抗するキャンペーン。2006年、初労働契約法(CPE)に抗する大衆動員、そして2007年の大統領選挙。
 NPAの創成―それはすでに9000人を越えている―と共に、ブザンスノーへの社会的・選挙的支援を行動的力へと転換する試みがなされたのである。新党の結成は現在という歴史的時期に対応した新たな闘争方式の構築に向けて進むLCRの長年の努力の頂点である。
 NPAの衝撃が示したことは、長い間ではじめてフランスにおいて、伝統的な政治構造の外部に急進左翼への大衆的共感の流れがあり、それは通常的な意味での戦闘的社会的部門ということを越えた、ということである。矛盾した言い方だが、不安定で限界づけられているのだが、しかし新たな反資本主義の他の選択肢への余地が開かれたのである。
 それは二つの要素を含んでいる。
 第一に、1995年11月―12月の社会的保障への「ジュペ計画」に抗するストライキ闘争の、新自由主義的グローバリゼーションに抗する大衆的闘いのルネッサンスが、サルコジに対抗する最近の大衆動員へと復活した姿としてある。
 第二に、左翼大政党の衰退と右への移行。社会党は長い時間をかけて大資本の利害に適応し、産業界との強い結びつきを形成してきた。共産党と緑の党は補完的勢力となり、社会的闘争から縁遠い、全くの事業体化し、自らの社会的基盤と対立する諸政策を支えている。ジョスパンの多元的左翼という整理は遠いものとなり、すでに一つの記憶である。
 新党の計画はブザンスノーが言ったように、「政府機構がとらえられず、社会党もつかめないが、すでに社会的レベルには存在している政治的事項を引き起こす」ことである。
 NPAは新自由主義との闘争を資本主義との絶縁の展望の中に位置づけ、そして環境主義、フェミニズム、国際主義をその計画の骨格的要素として保持している。
 その「反資本主義」は、現実否定の単なる映像ではない。それは新たな社会形成への別個な提案の形成を含んでおり、危機克服のための「社会緊急プラン」は、銀行国有化、タックスヘブンの禁止、収入全般の300ユーロの上昇、公的サービスの防衛などを伴っている。
 新党の挑戦は巨大である。それは実践のテストを通過し、自己が有効な機構であることを証明しなければならない。ブザンスノーは言う。「抵抗だけでは不十分だ。そこには政治的な構造がないのだ。そして今日、NPAはわれわれが保持しているすべて以上に最高である」、と。
 現在、NPAはサルコジの反社会的計画に対抗する決定的な数週間、数ヶ月間の闘いに直面している。勝利を得るためには、大衆的分野で、闘争に有利な形で諸勢力を蓄積するという新たな局面に着手しなければならないのである。
 NPAの創立は、それぞれの道を歩んできた国際的な反資本主義左翼の期待感と好奇心を飛躍的に拡大した。
 三つの要素がこの事情を説明する。1990年代半ばからの反グローバリゼーションの高まりにおけるフランスが果たしてきた重要な役割。長期的にヨーロッパでの急進構造の象徴形態であったLCRの信頼性。および世界的なシステム危機の衝撃を特徴とする政治的時期の絡み合い、である。
 資本の論理、危機費用を大衆に背負わせる試み、サルコジと企業連合の「資本主義再生」の、他よりも厳格な論理、これらに反対し、さまざまに関与している反資本主義者たちの国際的協力を形成すること、ヨーロッパ同盟規模においては、挑戦は闘争と抵抗の「ヨーロッパ化」、真に大陸的な戦略の形成、および社会民主主義の補完物ではない、反資本主義の軸心を明示することが必要である。NPAがこの課題に重要な衝動を与えるであろうことは疑いないことである。
 NPAはコピーしたり機械的に輸出したりできるモデルではない。しかし、それぞれの国々において反資本主義の新たなコースを立ち上げるという道を見いだすためには参考素材であり、強力な刺激である。NPAの計画の背後にはきわめて単純な考え方がある。一人のキーマンであるダニエル・ベンセードによれば、「新党形成は、被支配の、非所有の者たちの利益に忠実であることであり、それは、右翼が、支配し所有している者たちに対してもつ関係、に対応する。世界を変えることを欲する反資本主義者であることを、くどくど言い訳することはない」、のである。
※筆者は雑誌ビエント・スールの編集部メンバーであり、バルセロナ自治大学の社会学教授。(インターナショナル・ビューポイント電子版3月号)

世界社会フォーラム
われわれは危機に対して支払わない。支払うべきは金満家だ!
世界社会フォーラム2009、ブラジル、ベレンにおける社会運動会議宣言

 われわれ社会諸運動は、全世界からアマゾン地区のベレンでの第八回世界社会フォーラムに際して集まった。そこでは人々は、自然や彼らの土地、彼らの文化を略奪しようとする試みへの抵抗を続けてきた。われわれは今ラテンアメリカのそこにいる。そこでは今までの10年間社会運動と土着の運動が力を合わせてきた。過去数年の間、ラテンアメリカの高度な急進的社会闘争は新自由主義的政府を放り出し、政府に権限を与え、経済の核心部門の国有化や民主的憲法改正などの多くの積極的改革を成し遂げてきた。
 こうした文脈において、ラテンアメリカの社会運動は適切に対応し、批判的視野を保ちつつもこれらの政府が採用した積極方策の支援を決定した。こうした経験は、将来において、政府、商社、銀行が被抑圧者たちに重荷を振り替えようとする政策への、頑固な抵抗を強める手助けとなろう。われわれ世界の社会運動は、今日的に歴史的な挑戦に直面している。国際的資本主義の危機は、人類へのさまざまな形での害を伴う。それは、食糧、金融、経済、気候、エネルギー、人口移動…そして文明それ自体に影響し、そして同時に国際秩序や政治諸構造の危機もまたある。
 われわれは世界的危機に直面している。それは資本主義システムの直接の結果であり、それ故にシステム内部には解決は見いだせない。今まで危機を克服するために採られた方策は、戦略的経済分野、公的サービス、自然資源とエネルギー資源の私有化に基礎をおいたシステムの延命を確保するという、損失の社会化を狙うだけであり、生命の商品化と労働と自然の収奪、そして同じく、資産の周辺から中央へ、労働者から資本家階級への移動である。
 現在のシステムは、搾取、競争、集団的利益の害悪となる個的私有資産の拡大、および一握りの資産家による圧倒的資産蓄積に基盤をおいている。それは血まみれの戦争や激情的排外主義や差別主義や宗教的原理主義に結果として陥る。それは女性たちへの搾取と社会運動を犯罪行為化することを強める。今日の危機の文脈において、人民の権利は組織的に否定される。パレスチナ民衆へのイスラエル政府の凶暴な攻撃は、国際法の冒涜であり、結果的に戦争犯罪、人道に対する犯罪であり、そして世界の他の地域で体験できる民衆の権利の否定のシンボルである。この恥ずべき免罪は停止されなければならない。社会運動は、世界の人々によって行われているすべての反抑圧の行動と同様、パレスチナ民衆のへの行動的支援を再度断言する。
 危機を克服するために、われわれは問題の根に取り組み、そして出来るだけ早く資本主義システムと家父長主義的支配を廃止する根本的対応策の構築へと進まなければならない。われわれが向かわなければならない社会は、まったく自由な政治的自由の文脈における民主的参加を擁護し、社会要求に対応し、自然の権利を尊重するものである。われわれは、以下のことに配慮しなければならない。すなわち、われわれの個々的な市民的、政治的、経済的、社会的・文化的権利に関するすべての国際条約は、個々人に対しても集団に対しても履行されることを。
 こうした展望において、われわれは次のような緊急の方策に力を与える最大の可能性をもつ大衆行動に貢献しなければならない。

▼補償なき銀行部門国有化と完全な社会的監視。
▼賃金カットなき労働時間短縮
▼食料と燃料に対する独立主権への方策採用
▼戦争をやめよ、占領軍撤退、外国軍事基地解体
▼自己決定権を支える人々の主権性と自治制の認定
▼すべてへの土地、領域、労働、教育、健康の保障
▼情報や知識を獲得する手段の民主的入手

 21世紀におけるフェミニスト、環境主義者、社会主義者によって推進される社会解放過程は、生産、伝達、サービス手段の資本主義的統治から社会を解放することを目指す。それは、社会的利益のための所有権形態の支持、例えば小家族家産の世襲権、公的、協同的、共同社会的で集散的な所有によって達成される。
 こうした選択すべき新たな別の方策は、不可避的にフェミニストであることとなるだろう。というのも、社会的公正さと平等の権利に基礎をおく社会の建設は、人類の半数が抑圧され、収奪されている時には不可能であるからだ。

 最後にわれわれは、諸々の先住民の行動的な関与と寄与とを自覚的に認めることに基づいて、自分自身、他の人々そして取り囲む世界との調和の中で生きる社会の建設を豊かにするために行動する。

 われわれ社会諸運動は、世界的規模で、解放に向けた主導権を発展させる歴史的機会に遭遇している。大衆的社会的闘争のみが、人々の危機克服を可能にする。この闘いを推し進めるためには、草の根からの意識的高まり、動員が不可欠である。社会運動への挑戦は、世界的動員への集中を達成することことだ。また、抑圧と収奪に抗して努力しているすべての運動を集約することを支えることが、われわれの行動への能力を強化するのである。

 われわれはこうして以下のように闘う。

▼資本主義と戦争に抗する世界行動週間を、3月28日から4月4日までに設定する。3月28日は反「G20」の動員であり、戦争と危機に抗する3月30日の行動は、パレスチナ民衆が30日に行うイスラエルに抗するボイコット、投資引き上げ、制裁を拡大することとの「連帯デー」であり、4月4日はNATO60周年への動員などである。
▼年を通じた動員の機会を増やす。3月8日、国際女性デー。4月17日、食料自主権への国際デー。5月1日、国際労働者デー。10月12日、植民地主義と生命の商品化に抗する「母なる地球のために闘う国際動員」。

 サルディニアでのG8サミット、コペンハーゲンでの気候サミット、トリニダード・トバコでのアメリカ・サミットなどへの抗議の行動予定がある。
 こうした要求と主導力を持って、われわれは根本的で解放的な解決でもって危機に応える。(インターナショナル・ビューポイント電子版2月号)
 

 

 
 
 
 
 

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