2009年5月10日              労働者の力               第230号
    −機関紙共同発行に関する−
  国際主義労働者全国協議会運営委員会コミュニケ
                          
 
 4月末開催の国際主義労働者全国協議会(NCIW)運営委員会は、日本革命的共産主義者同盟(JRCL)第21回大会決定を受け、昨年11月の我が協議会第20回総会確認に基づき、今年夏以降の両組織による機関紙共同編集・発行体制への移行を了承した。発行要綱は既にJRCL機関紙、週刊「かけはし」に発表されているが、以下の通り。
(1)機関紙名「かけはし」、週刊八ページ発行体制を継続する。
(2)今夏の共同編集・発行体制への移行をめざし、支局体制、機関紙財政などの諸問題を今後両組織で討論していく。
(3)上記共同発行発足と同時に月間「労働者の力」は停刊とする。

 その上で今運営委員会は、今は両組織に属していないものの志を共にする人々を含めた両組織の統合を具体的目標に設定し、その早期の実現に向け、必要な討論と運動の共同を着実に進めてゆくことを再確認した。
この統合は、組織の多元的あり方という新しい挑戦をも課題とするものである。つまり今我々が踏み込もうとする統合は、両組織の間に政治的相違が基本的にないことを確認するが故の統合ではない。それは、一定の相違を時代に応える新しい創造のバネとするあり方を探求する統合である。そのような組織の具体的な姿は、今明確に見えている訳ではない。しかし、時代が求める左翼の再生は、いずれにしろそのような組織のあり方なしには不可能だ、と両組織は考えている。それ故我々はJRCLと共に、そのようなより広い意義とそこへの貢献を自覚しつつ、目標とする統合を確実に実現するための活動を建設的に進める。

 2007年のアメリカにおけるサブプライム問題の浮上がとば口をあけた世界的経済混乱・危機は、地球環境、エネルギー、食料の危機と結合した形で日を追って深化し、それは未だ進行過程にある。世界の支配階級は、各国毎あるいは国際「協調」の下に、その対処に右往左往している。が彼らは、対処方向をめぐる彼ら内部の意思統一もままならないまま、危機克服への確固とした道筋を探り出すことからははるかに遠い。危機のツケは、この危機の直接的原因である新自由主義の30年にさんざん痛めつけられた労働者民衆の肩に、一方的に背負わされようとしている。それ故人々は、現支配層への不信と怒りを露わにし、この30年絶えることなく重ねられてきた抵抗は、必然的になお一層裾野を広げ強まっている。
 こうしてこの危機は、現代世界を形作っている政治・経済・社会システム総体を深刻に揺るがし、その根底的問い直しを迫るものとして立ち現れている。支配階級がいかに拒否しようとも、資本主義そのものが脱却されるべき対象として俎上に載せられることは、今や抑えがたい。次々と出版され各書店に平積みされている幾種類のも「危機本」の中では、体制側の論者が、資本主義は危機ではないとの御宣託を繰り返す。しかしそうせざるを得ない状況こそ、実は彼ら自身に不安があることを、むしろ暗黙に告げている。危機は循環性の危機などではなくまさに構造的危機であり、そのことにもはや誰しも目をふさぐことはできない。
あるいは日本で支配階級は、派遣法抜本改正は企業を外国に追いやるなどと繰り返しているが、それは結局のところ、資本主義が社会を支える力を既に失っていると告白するに等しい哀れな主張にすぎない。社会を支える力のないシステムに存在意義などない以上、こうして彼らは、無自覚なまま、資本主義の歴史的生命力のいわば枯渇を自ら漏らしているのだ。
労働者民衆の生活と尊厳、そして地球環境を持続可能なものとすることが今待ったなしに求められている。資本主義がこの課題に応える力をもたないのであれば、あるいはそのような力の残存を現実に目に見えるものとして示すことができないのであれば、それは越えられるしかない。
 まさにそれ故、今年のベレン世界社会フォーラムにおける社会運動総会は、現代資本主義との断絶を、新たな基盤に立つ代替社会の創出を、とする宣言を世界に送り出した。同時にこの宣言は、そのような闘いを共同で推し進めようとする勢力の形成を世界の労働者民衆に呼びかけた。それは、単に必要だからと言うにとどまらず、今に至る歴史を通して労働者民衆が蓄えてきた力への自覚と自信の表現でもある、と言わなければならない。
 日本において我々もまたその認識を共にする。まさにその観点から我々は、この間、労働者民衆の現実の要求を土台に、またその実現をめざす共同した闘いの発展を追求する中で、反資本主義左翼としての左翼再生に貢献することを自身に課してきた。見てきたようにこの任務は今、一層切迫したものとして突き付けられている。
 しかし率直に言って、その任務はここ日本においては、今なお極めて困難な、先の見通しがたいものとしてある。そうであればなおのこと、例えささやかであろうとも、先の任務に資する可能性のある歩みは、一歩でも先に進めなければならない。今回の両組織による機関紙共同発行への移行並びに組織統合の目標設定は、この数年両組織の間で重ねられてきた定期協議、合同討論の結論であるが、何よりも先のような一歩にしようとしない限り、それが人々にとって価値あるものとなることはないだろう。それ故今回の両組織の決定は、それ自身で完結するものではあり得ない。
 両組織はそのことを明確に自覚している。それ故我々は、現在の危機の中で労働者民衆の要求がいわば必然的に切り開く新たな自立した民主的な空間をさらに押し広げ、その中でより幅広い諸運動と諸勢力の共同を追求しながら、今回の両組織の決断を、大衆的で国際的な反資本主義左翼に向かう胎動の一つの点火剤とすべく闘い抜く。)
 派遣法抜本改正
   5・14 再度大結集へ!
     「今やらずにいつやる!4/13集会」呼びかける
 4月13日午後6時30分より、標記集会が日本弁護士会館内クレオ講堂で開催された。労働者にとってはやや敷居が高い会場だったが、非正規労働者を含む多くの労働者と共に、弁護士、国会議員など、約260名が参加した。主催は、労働組合などがナショナルセンターを横断して結集した「派遣法抜本改正を求める共同行動」。
 改正現実化の鍵を握る政党は四野党から、民主党の管直人代表代行、共産党の小池晃参院議員、社民党の福島みずほ党首、国民新党の亀井亜紀子参院議員が代表として壇上に顔をそろえ、各々から意見表明があった。後述する背景の中、会場の注視は今回も民主党。今回管代表代行は、方向をそろえてやることを約束する、明言した。他の三党は、やることははっきりしている、今改正すべき、と足並みをそろえた。
 しかし問題は、抜本改正に向けた動きが現実には停滞していることだ。年越し派遣村がせっかく作り出した強烈な改正圧力は今十分生かされていない。確かに2月以降、敵の巻き返しが強められた。政権与党はもとより、体制側の論者、財界、そして電機や自動車の労組幹部から、派遣労働の規制は製造業の国内操業を困難にしむしろ失業を拡大する、などとの手前勝手なキャンペーンが一斉に展開された。メディア内にも明らかに動揺が見られた。さらに民主党内部では、年度末に懸念されていたもう一段の派遣切りを念頭に、それを抑えようというのではなく、派遣労働の規制推進で失業拡大の責任が民主党に向けられたのではたまらない、などという情けない意見が交わされたという。そこには、連合春闘の早期幕引きや、小沢の西松建設献金問題の浮上なども確実に影を落としていたと思われる。さらにもっと深いところで、労働者民衆の能動性に対する恐れ、より正確には敵対という、この党の本質的性格が顔をのぞかせている、とも指摘できる。
 いずれにしろそうであればなおのこと、労働者民衆の怒りの総結集が今こそ必要となる。それは不可能ではない。昨年12月4日の集会以降も、非正規労働者当事者の闘いは全国に飛び火し、さらに厚みを増した。派遣村の闘いはその状況にも力を貸しただけではなく、多くの人々の胸に問題の所在を刻みつけた。多方面から折り重なってさらに深まる生活破壊と増大する貧困の可視化という現実の中では、それは消えようがない。
 この客観状況を運動として確実に表現し力に変えるべく、当日の集会は準備された。集会表題はまさにその意気込みの表現。湯浅誠さんや棗一郎弁護士を始めとする各発言に、それは雄弁に込められた。そして当事者として発言に立ったトルコ航空ユニオンの代表、三菱ふそうの労働者、阪急トラベルの労働者は、さらに悪辣さを増す経営側の姿勢を具体的に告発、抜本改正の不可欠性を疑問の余地なく明らかにした。
 これらを受け、共同行動を代表し最後にまとめに立った井上久さん(全労連事務局次長)は、集会の結論として、5月14日日比谷野外音楽堂での大結集を呼びかけた。この呼びかけに全力で応えよう。派遣法抜本改正は、まさに今やらなければならない課題だ。(K)

「実現しよう今国会で!派遣法抜本改正を求める」5・14日比谷集会
日時 5月14日18:30〜
会場 日比谷野外音楽堂(集会後デモ)
主催 派遣法抜本改正を求める共同行動(事務局 全国ユニオン)
 5/3憲法集会
平和的生存改めて問う
 今回で九回目を数える諸勢力共同の憲法集会が、5月3日、東京日比谷公会堂で開催された。参加者は主催者(同実行委員会)発表で4200名。大型連休のど真ん中が影響したのか、例年よりやや少ない。自・公政権の破綻と改憲勢力の意気消沈が明瞭となる中、数年前の緊張感にも緩みがあるのかもしれない。
 しかし、情勢自体の危険性は基本的に変わっていない。ソマリア沖への自衛隊派遣強行、米軍再編、インド洋での自衛隊補給活動継続など、憲法を実質的に空洞化する政策は、むしろ一歩進められている。非正規労働と貧困の一体化に象徴されるように、生存権の切り崩しも顕著だ。
 今年のゲストスピーカーとして登壇した落合恵子さんと益川敏英さんは、いずれも、上の動きに改めて警鐘を鳴らし奮起を促した。
 特に落合さんの訴えは、権力が鳴り響かせた「自己責任」なるものを取り上げ、それが「棄民」へと結実している現実を、母親の介護経験も交え、鋭くかつ具体的に、それ故説得力をもってえぐり権力を糾弾する、実に迫力に満ちたものだった。彼女は最後に、オーストラリアのフェミニストの手になるという「母親たち、娘たち、妻たち」という曲に乗せて、自ら翻訳した同曲の詩の朗読で訴えを終えた。母親たちへの深い愛は変わらないが、彼女たちの生き方を私たちは引き継がない、という次の世代の女の、覚悟のこもったメッセージがそこにはあった。彼女は、聴衆に深い感銘を残し、会場内外からの万雷の拍手に送られて降壇した。なお「外」というのは、会場に入りきれなかった参加者は、今年も公会堂横のオーロラビジョンを通して集会を共にしたからだ。
 今憲法をめぐる闘いは、明らかに、国家の成り立ちにも貫かれるもう一歩深めた問いかけを必要としている。今年の憲法集会はそのことを改めて印象づけた。(K) 
 もう一つの春闘
もう一つのメーデー
つばぜり合いの中の胎動
闘って生活と社会を立て直す!
―支配的エリートはレッドカードだ―
  世界の支配層の、もちろん日本の支配的エリートの「不始末」が引き起こした世界的恐慌を前に、ことさらにメディアが注目を浴びせた連合春闘は、ある意味で予想通り、日本支配層の期待に100%沿う敵前逃亡的決着となった。これ以降メディアから春闘は消えた。支配層は安堵し、おそらく彼らは、息継ぎの時間を得た、と勘違いしている。
 しかしそれは、メディアが映し出す政治と社会の表層のことに過ぎない。労働者民衆にとっては、生き延びるために闘わざるを得ない状況に何の変化もない。そしてこの状況を、小手先の手直しや鎮痛剤的な対処方策で打開可能な質のものとは思えない、とする認識は相当程度広く浸透していると思われる。
 生活と日本社会に現にある危機はあまりに深くかつ多くのものが重なっている。その上、何しろ、戦後の長い間日本のあるいは日本支配層の盤石の後ろ盾と見なされてきた、そして彼らには何の疑いもなく「世界標準」と見えていた当のアメリカ自身が、深刻に揺らいでいる。アメリカを代表してきた自動車メーカーのクライスラーは、事実上国有形態で再建に乗り出さざるを得ない。朝日新聞(5月2日)によれば、再建会社取締役九人の内、アメリカ政府とカナダ政府が計五人を派遣するのだ。
 先述した状況に対する人々の認識は、言葉を換えれば、現在の状況を作り出した支配的エリートに対する深いところでの不信、要するに彼らの「権威」失墜を意味する。それは、状況を打開する力が彼らにないとの認識に直結する。とすれば、労働者民衆は自ら立ち上がり闘うしかない。
 こうして現実に、労働者民衆の闘い、いわばもう一つの春闘は日本各地でおびただしい数今も続いている。日本各地に広がった派遣村・総合相談運動ももちろんその一つだ。各地の、とりわけ個人加盟のユニオン系、合同・一般労組系の労働組合事務所では、労働相談の電話が、従来とは比較にならないほどに鳴り響いている。そして、とりわけ非正規労働者の数を増す争議。人々は確実に声を上げ、自ら動き始めている。
 姿を現しているものは、人々の心に兆した一つの転機だ。受動性からの脱却が顔をのぞかせている。今年の幕開けを飾った年越し派遣村と京浜ホテル自主営業排除に対する抵抗こそ、その転機をくっきりと映し出し象徴するものだった。そしてこの二つの闘いは同時に、その可視化された象徴作用よって、さらにそれが作り出した現実の状況変化によって、人々に光を示し先の転機を確実に一歩進めた。本面に伝えるもう一つの春闘ともう一つのメーデーも、そのような転機を映し出している。
 この変化をさらに進め、確固としたものへと強め、生活と社会の目に見える立て直しにつなぐことが求められている。先ず差し迫って、解雇や賃下げ攻撃を一つ一つ跳ね返すと共に、派遣法抜本改正に向け、改めて広く共同した闘いの態勢を整え支配層を追い詰めなければならない。「派遣法抜本改正を求める共同行動」は、別掲のように5月14日、日比谷野外音楽堂に再度結集するよう呼びかけを発した。この集会を何としても成功させよう―編集部
 全ての労働者に均等待遇を!
4/23 中小・非正規労働者、集中行動に続き銀座をデモ
 4月23日東京で、「中小・非正規労働者・移住労働者の生活と権利、雇用の確保を!全ての労働者に均等待遇を!中小春闘の勝利を!全ての争議の早期勝利を!」との要求の下、「4・23春の共同行動・銀座デモ」が、一連の終日行動として展開された。主催は、「09春の共同行動・けんり春闘全国実行委員会」。
 多くの中小職場では、春闘要求をめぐる厳しい対峙が今も続いている。特に大手製造業下請け先では、非道な非正規切りが続き、その矢面には外国人移住労働者が立たされている。しかし彼らは今、敢然と、不当だとの声を次々と上げ始め、労働組合を組織し闘い始めた。この日の行動は、これらの闘いをつなぎ互いに力を高め合うと共に、闘いを社会的に目に見えるものとしようとする行動だ。
 この日先ず日中、「2009、4・23春の外国人1日行動」と銘打って、本田技研工業を皮切りに、ベルリッツ、経団連、スタンレー電気、日野自動車に対する共同の抗議行動が続けられた。本田、スタンレー電気、日野自動車共、その下請け企業による長年続く外国人の差別的で劣悪な非正規雇用をそれと知りながら放置し、今始まった解雇の嵐にも頬被りして済まそうとしている。一方ベルリッツは、改善されない劣悪な処遇に対して労働者がストライキで反撃するや、何と損害賠償訴訟を仕掛けるという、とんでもない争議権破壊に出てきている。そしてこの裏には、親会社であるベネッセがいる。経団連については言わずもがなだ。ここでは、怒った労働者がホール手前まで突入した4月8日の行動(紙面の都合で本号では割愛)を口実に、大量の警官が配置されていた。
 次いで、これらの行動を集約し、さらに多くの他の外国人や中小職場の闘い、その他の争議の合流を深める集会が、午後6時30分から東京の交通会館を会場に開催された。昼の行動と共に、北関東の外国人労働者の闘い、中国人研修生の闘い、首都高速会社の下請け職場におけるハイウェイ共闘の闘い、などが報告された。全労協の藤崎議長からは、けんり春闘の全体経過の報告と共に、派遣法抜本改正、ゼロ回答への反撃、ベルリッツ、阪急トラベル、京浜ホテルに代表される闘争圧殺策動への反撃と、課題提起が行われた。社民党の保坂展人衆院議員からの連帯挨拶もあった。神奈川シティーユニオンの労働者はこの日も、「ベンセレーモス」を力を込めて歌い上げ、全体を鼓舞した。
 そして8時前、結集した300名以上の労働者は、この日の締めくくりとして銀座デモに移った。様々な組合旗を翻し高らかにシュプレヒコールを上げながら通りを進む行進は、まだ人混みの残る沿道から十分に視線を引きつけた。
 大労組が屈服しようとも、あるいは資本、政権が危機を口実に「自粛」を迫ろうとも、ひるむことなく要求を貫こうとする闘いは、なお数を増し、多様になり、そして合流を進めている。この日の行動もそれを確かに表現した。同様の意味を刻む闘いとして、同日同時刻会場を別にして、
京浜ホテルの解雇撤回を求める行動も行われていたことを付け加えておきたい。(Y)
 第80回日比谷メーデー
闘いの活力映し出す
 
               
 5月1日、東京の日比谷野外音楽堂では12、000名の労働者が気勢を上げた。第80回日比谷メーデーだ。ステージには「働く者の団結で生活と権利、平和と民主主義を守ろう」とのメインスローガンの横断幕。しかし集会全体の気分は、もはや「守ろう」ではなく「立て直そう」にある、と見えた。
 会場内あちこちには、今の社会に対する深い怒りを表すデコレーションがある。そして壇上からも同様の、そして社会を変えようとの訴え。外国人労働者を含む、ユニオン系、一般系民間労組の結集が数を増し活力を見せていたことも、先の印象を強めていた。
 全体を代表して決意表明に立った四人も、内二人は非正規労働者の闘いを代表していた。一つは、全造船関東地協いすゞ自動車分会の非正規切りに対する闘い。もう一つは、埼京ユニオンに結集する外国人労働者の、これも非正規切りに対する闘い。特に埼京ユニオンの日系ブラジル人労働者は、他で闘い続けている
多くの外国人労働者と共に壇上に立ち、「危機の時だけ分かち合い、などと言われたくない」と、日本の経営の卑劣なあり方を直截にえぐり出した。
 我々は確かに今まさに、「好況」の時に奴らが貯めこんだ利益の「分かち合い」こそを迫まらなければならない。(神) 
 自由と生存のメーデー09
若者の「異議ありコール」響き始める   
                   
 ズン、ズン、ズン、腹に響く大音響のリズムが途切れることなく街頭に放たれ、若者達が体を揺らし踊りながら通りを進む。歩道にはあふれるほどに若者が集まる。5月3日夕刻の渋谷、「自由と生存のメーデー09」。3年前から、非正規で働く若者達が自主的に始めたメーデーだ。
 隊列のあちこちには、派手なデコレーションと手書きのプラカード。よく読めないものが多かったが、「文句があります」、「過労で人を殺すな」、「資本にもマナーを」などは分かった。労働組合の旗もあった。東部労組、首都圏青年ユニオン、東京ユニオン、初めて目にしたものでは、氷河期世代ユニオン、などというものもあった。先頭を進むサウンドカーには、正面にむろんフリーター全般労組の旗。ついでながら、今年は社民党の旗も登場した。
 デモの出発に際しては、かなりの時間警察との押し問答があった。警察が、サウンドカーと隊列の間に指揮官車を入れようとしたらしい。この規制を押し返して、デモは二つの梯団で始まった。最初は500名ほどと見えたが、途中明らかに膨れてゆく。何しろ、歩道を埋める若者との一体感は、通常のデモとは比較にならない。いわば歩道をひっくるめたデモ、といった情景だ。
 サウンドカーから放たれるDJの叫びも含めアナーキーなエネルギーが満ちる。通りに向けって配られたチラシには、これも手書き原版のわら半紙刷りだが、数多くの「解放」を求める要求と共に、「プレカリアートは…暴れるぞ…反撃するぞ…反乱するぞ…いうことをきかないぞ…連帯するぞ…増殖するぞ」とある。同時にまた、「万国の労働者よ、団結せよ、万国の労働者よ、リラックスせよ」などともある。通りからデモに飛び込む若者達が、これらの趣旨を理解したのかは疑わしい。おそらく気分だけの同調といった方が正解に近いかもしれない。しかしこのデモは、社会への鬱屈が若者達の中に広がっていることを、しかも場が与えられれば例え一時的にでもそれを爆発させたいというほどに広がっていることを、確かに映し出していた。
 この頭をもたげ始めた社会への新しい異議申し立ては、労働者運動、左翼への問いかけでもある。(神)
 医療制度を市場原理から切り離せ
               
谷野草路
  医療費を抑制しようとする試みは、何も小泉政府に始まったものではない。日本医師会の推薦する国会議員は、そのはるか以前から医師過剰に警告を鳴らしてきた。1984年以降、日本政府は医療費抑制を目的に医学部の定員を減らした。医療費を抑制するためには医師数を押さえた方がいいという政府の目論見と、生活の安定のためには医師は不足している方がいいと考える日本医師会の気持ちが一致したのである。小泉政府は「三方一両損」と言いながら、医療費の国庫負担を大幅に削減、この傾向に弾みをつけた(文献1、2)。
 進歩し続ける医療を享受するためには、益々多くのコスト(人手・設備・検査や薬代)が必要となり、医療費が抑制されれば、受けられる医療サービスもまた抑制されるのが自然であるが、一方では医療現場には益々高い医療の質を求めている。高い医療レベルの維持に必要な医師数を確保するため、病院では医師の集約化が進み、一方では医師確保が出来ずに閉鎖する病院が増えている。さらに、不足する病院の医師を何とかやりくりしていた大学病院の医局人事が、新たな研修医制度により崩壊し、潜在的な医師不足は一気に表面化した。

イギリスとキューバ

 ここでは、最初に、小泉政権の遥か以前、サッチャー政権(1979〜1990)の下で医療費抑制政策を取り、今反省期を迎えてて医療の再建に苦闘しているイギリスの例を見てみる。イギリスの医療(文献5)は、60年来、国民医療サービス(NHS)という、保険制度ではなく国家財政を主な財源にして、無償で医療を受けられるのを基本としてきた。しかしイギリスは、医療費の増大・財政圧迫に対して、サッチャー政権の時に、医療機関に対する公的支出削減、競争の導入、民間企業の経営する病院・医療保険の参入推進などによる、大幅な医療費抑制政策を取った。その結果、不採算病院の閉鎖、地域のベッド数の不足、資金不足による新規病院建設の減少、医療職員の減少などが生まれ、住む地域や収入などによる健康格差(死亡率の違い)が広がり、「公平性」を謳うイギリスの制度は大きく揺らいでしまった。ブレア政権は政策転換をし、その後NHSは一定の充実を取り戻しつつある。この結果、対GDP比での医療費の割合は、G七の中で最低を競ってきた日本とイギリスの間では2006年にはイギリス(8・4%)が日本(8・1%)を上回った。しかし一度傷つけられた医療従事者の心はそう簡単には回復せず、士気は上がっていないという。
 次に、マイケル・ムーアが映画「シッコ」でキューバの医療をアメリカの医療と比較するよう求めたように、ここでも日本の医療制度を考えるにあたってキューバの例を見てみよう。キューバの憲法は第50条において、「すべての国民が無料で医療を受け、健康が保護される権利」を謳っている(文献3、214P)。事実、国家予算の約2割を医療費に当てており、保険料も不要だし、医療を利用する際の自己負担も無い。この憲法を前提とし、実行するために、キューバは数多くの医者を育て、抱えており、しかも自国のみならず周辺諸国のためにも、積極的に医師を育て提供することで、いわば国際主義的な医師育成策を取っている。キューバは2005年現在、人口比で見るなら日本の三倍以上の医師を抱えている。
 別の特徴として、一方では国際的に見て遜色のない医療を提供しながらも、予防やプライマリケアに大きな力を注いでいることが上げられる。一定の地域に必ずそのための医師が配置され、働いている。「今年は風邪がはやって、一息ついた」とか、「今年は花粉が少なくて、収入に響いて…」というような日本の病院経営者や薬屋さんの発想はキューバではありえない。予防できる病気は予防し、早期発見により簡単に治せるものは早く治すことで損する人間はいないのが、キューバである。
 満ち足りて余りあるほどの医師を生み出し続けるキューバは、日本など資本主義国で働く医師にとっては脅威を感じる部分があるであろう。職能集団である医師は、自分たちの生活保障の根拠が「希少価値」にあることを経験的に分かっている。医師の増員に見合う社会保障経費の増加が保障されないとき、医師の増員は収入の低下として個々の医師に返ってくる。かつて日本医師会が医師の削減を支持した背景である。しかし、キューバでは、医師の生活水準はかなり低いものであるに関わらず、医師を目指す人々は多い。生まれながらにして地域の医師が定期的に巡回し、病気の予防、早期治療に力を注ぐキューバでは、医師は貧しくても尊敬される存在となっており、それは多くのキューバ人が医師を目指す大きなエネルギー源になっているのではないかと思われる。国境のない医師団の中でもキューバ出身の医師は大きな位置を占めている(文献3、142―155P)。医師は世界中で不足しており、育てるには教育制度がしっかりしていれば良い。キューバは、このようにアピールしているように思われる。
 キューバは米国の経済的支配下にいない分だけ、他の中南米諸国に比して自律的に経済活動を行ってきたといえよう。しかしソ連崩壊により経済的バックボーンを失い、米国の経済封鎖が強化される中で、キューバは、米ドルの合法化(現在はユーロ)も含め、一定の経済市場化政策を取って来た(文献3)。その結果、異常な経済格差が広がったという。「労働者たちの給料では、ドル・ショップでモノを買えません。社会に貢献している労働者が四苦八苦している一方で、働かずにすむ者もいます。それがもたらす結果は倫理の腐敗です」(バルデス国立銀行総裁)、「資本主義への幻想を持つ者すら出てきました。米国に支配されれば、ハイチやドミニカ共和国のような貧しい国になるだけなのに、ヨーロッパのようになれると勘違いしているのです」(ロケ外相)という状況が生まれた。以下のカストロの言葉は興味深い。「格差という問題は新しいものではない。だが、経済危機がそれを悪化させた。不平等が高まったのだ。ある者はグアテマラやアフリカの僻地で、あるいは標高数千メートルのヒマラヤの山中で、命を救う活動に従事している医師よりも、たった1日で40倍も50倍も稼いでいる。米国は決して、われわれを滅ぼすことはできやしない。だが、われわれは自滅できる」(文献3、223P)。

日本の場合

 日本の医療はイギリスやキューバとは異なり、保険制度を基本にして行われてきた。この制度は、保険機関に対してどの程度税金などで負担するかによって、社会保障としての意味が大きく変わってくるのが特徴である。仮に保険費用への国庫負担を増やせば、キューバに近くなり、減らせばアメリカに近づく。ちなみにアメリカは、1965年まで高齢者の医療保険もすべて民間企業が運営していたが、ジョンソン大統領(当時)が、高齢者のために「メディケア」、低所得者のために「メディケイド」という公的医療保険をつくった。この二つの保険には、国家総予算の16%という巨額の税金が投入されているが、それでも救い切れずに、無保険者が4千万人以上いる(文献4)。
 日本の現実は、徐々に国庫負担を減らし、国保の保険料を徐々に平均化し(貧富の差による負担の差を減らし)、窓口負担を増やし、混合診療導入をもくろむなど、アメリカに近づく政策を取ってきた。その結果、経済的理由で受診できない人々を広げてきた。日本は2005年現在、医療費の約45%もが自己負担である。しかも日本の総医療費の対GDP比は7・9%で、これは先進国の中では最も低い(文献1)。
 常に進歩する医学に対して反抗するように、政府は医師の削減政策を進め、また医療費の削減を行ってきたのである。その結果、医療制度を支える経済が麻痺し、特に病院において顕著である。病院の多くは、慢性的な赤字を抱えているが、その大きな理由は、安すぎる診療報酬にある(文献1)。支出は何といっても人件費が大きいため、人件費削減のため小さい病院では入院をやめる、無床化が進んでいる。また、医師がいないと収入が得られないため、医師の獲得、集約化が進んでいる。
 進歩する医学は、それにふさわしい陣形を必要とするが、医療への要求の高さに比して、人材を揃えることが出来ないため一部に集中した結果、多くの病院の医師がいなくなった。要求の高さに応えようとする余り、東京でさえ医師不足(引き受ける医療機関が見つからない)が顕在化している(文献2)。

方向は政策の逆転

 それでは、日本は、キューバの医療制度に近づくことができるであろうか?
 医療費について言うなら、受益者負担を減らすことは可能である。保険制度の中でも、今の政策を逆転させる―保険料に対する国庫負担を増やす、保険料の個人負担を支払い能力に比例させる、窓口負担を減らす―ことによりキューバに近づくことは出来る。
 では、支出の方で無駄はないであろうか?収入を上げるための過剰診療(過剰検査や過剰治療)は確かに存在する。過剰診療を止める一番良い方法は、「医療は儲からない」という制度にすることである。診療報酬の大幅な値上げなどによる経済的保障をした上で、全ての医療機関に強力な累進課税をかけることにより、悪質(確信犯的)な過剰診療は消滅するであろう。また、医業で儲けようと考えて医師を目指す者はいなくなるであろう。このようにしながら、キューバのように医師をはじめとした医療従事者を多数育てていけば良い。
 押し並べて、今まで行ってきた医療政策を逆転することにより、少しずつキューバに近づくことは出来る。問題は、どこから財源を持ってくるか(消費税か金満家から?それとも他から?)ということと、政策の逆転を強制する力はどのようにして実現できるか?ということであろう。
 社会主義的な未来への絶望から資本主義社会に未来を託そうとする人々がいる。あなたには「本当はキューバを参考にするなどはあまりにも目標が低すぎる」と言いたい。キューバは日本に比較して遥かに少ないGDP(一人当たりのGDPは日本の一/10以下)の、「遅れた」国である(文献3)。生産力という観点から見るなら、日本にはキューバより10倍優れた医療制度があって当然であろう。少なくとも、全ての医療を無償で提供する程度のことが出来ないで、計画経済に対する資本主義の優位性など恥ずかしくて口に出来ないはずである。
文献1)外保連hp、日本の医療費についてhttp://www.gaihoren.jp/gaihoren/index.html
文献2)自治体病院民営化と公立病院改革ガイドライン―矢野 薫、週刊かけはし2009年1月1日号
文献3)世界がキューバ医療を手本にするわけ―吉田太郎、築地書館
文献4)日医ニュース、第1049、1050号
http://www.med.or.jp/nichinews/index.html
文献5)英国の医療改革に学ぶ―富塚太郎、日経メディカル2009年1月号
 フランス
新反資本主義党、前途有望な誕生


ギローム・リエガル
  2月5日、革命的共産主義者同盟(LCR)は政治的に自己解体し、そして新反資本主義党(NPA)の結成大会が即座にその後の3日の間、開催された。結成時において、新党は9123人のメンバーを持ち、フランス本国の至る所での467支部へと拡大した。およそ5900人のメンバーが全国大会を準備するさまざまな地方大会に参加した。それは新党の行動的性格の印である。映像を完璧にするために、フランス本国の外部、特にレユニオン島やフランス西インドで、NPAは本国と同等の存在であることが述べられなければならない。
 新党結成は、フランスおよび全世界の数多くの反資本主義活動家たちの双方にとっての重要な出来事であった。NPAの大会は、LCRが名前を変えただけに過ぎないのではないかと懸念した多くの人々が誤っていたことを証明するものだった。われわれは実際に性格と広がりの変化を見てはいるが、しかしNPAは、人類解放のための同じ闘いの違った形での継承者なのである。

長く準備されたプロジェクトの成果

 ここで新党の形成の過程を導き、そして、蓄積された政治的資本、党員数、政治的・社会的・選挙的な支持部隊という点においては今日的なすばらしい姿を持つことはなかったけれども、40年間存在した組織、LCRの解散という、あまり普通でないやり方を結果づけた理由について再検討を行うことがやり過ぎではない。
 基本的に、政治的状況における不均衡というものがあった。一方は、選挙での現れを含むフランスにおける階級闘争の規模であり、他方は、反資本主義的、革命的左翼の組織的弱体であり、それがわれわれにこうしたことを発議させたのだった。不均衡の再調整への着手およびそれと同時に社会的大変動を引き起こすような明確な方向性を持った政治展望を提起することが問題であった。
 あまり前までは戻らないようにするが、2002年以来、まさに毎年、われわれは資本主義的政策への根本的拒絶の強固な態度表明を行い、そして、まとまりには欠けてはいたが、政治的な別コースを検索する政策表明を行ってきた。

▼2002年。大統領選挙は、ルット・ウーブリエールのアルレット・ラギュレルとLCRのオリヴィエル・ブザンスノーに、およそ300万票、10%を与えた。
▼2003年。年金制度改悪に抗する公務員の長期のストライキ(一部では三ヶ月に至った)。基本的には改悪を支持した社会党(PS)の沈黙にもかかわらず、そして労働組合指導部の多数の振る舞いにもかかわらず、このストライキは実際には、ほとんどゼネストのようなものへと転化した。実際、展開されている闘争が全体化することを防ぐために、フランス労働組合の中心部分(CGT)は、輸送部門での全面ストライキをその始まりで打ち壊なければならなかったのだった。
▼2005年。55%の投票でヨーロッパ憲法条約の否定。中央集権的、軍事的キャンペーンの後、左翼の「反対」が決定的役割を果たした、という流れがあった。
▼2006年。若者への低賃金労働契約の押しつけ(CPE、初期労働契約)に抗する勝利的ストライキ。動員は主要には若者によってなされたのだが、決定的ポイントでは労働者全体の運動、1日ストと動員を通じた支援がなされた。

 これらすべてに加えて、社会党内部の変化が加えられるべきだ。社会党は社会―自由主義への転換をますます仕上げつつあり、その組織全体がブルジョアジーの制度に組み込まれている。国際的、国内的にであろうとも、である。(その典型が世界貿易機構・WTOや国際通貨基金・IMFであり、それぞれがフランス人社会主義者であるパスカル・ラミーとドミニク・ストラウス―カーンが議長役を務めている)
 LCRにとって、2002年から2007年までの期間は補給の時であった。原始蓄積とひとは言うかもしれない。2002年以降の観衆たちの拡大に直面し、われわれは組織のドアを最大に開けることを選んだ。それは常に容易なことではない。物事をなす、前からのなじんだやり方は、あるときには動揺を来した。だが現実には結局のところ、大きな課題へと取り組むことが、現在のわれわれが行っていることへの準備となった。というのも、われわれにとって、この期間での1500人から3000人へのメンバー増加がまさしく大成功であったと仮定しても、われわれが現在占めている政治的空間と比べれば、それはきわめて弱いものであるにすぎないからだ。
 大統領選でわれわれが獲得した2002年の120万票とそれに続く2007年の150万票を考えれば、社会運動で表現された可能性に直面したとき、まさに現実として、われわれのありようとわれわれが代表したものとの間には、巨大な違いがあったのだった。この矛盾は、単なる一時的なものとなることができたし、われわれの側にイニシアティブがなかったとしたら、われわれの「聴衆」がわれわれの現実に対して意気消沈したであろう、逆ではない。
 触媒となったのは、2007年大統領選挙の結果だった。ニコラス・サルコジの選出は政治状況の転換点を印した。彼はほぼ53%の得票で選ばれたが、結局の所、はるかに右に寄った政治キャンペーンで公然と、極右の国民戦線の支持者をかき集めたことによった。社民党に関する限り、この党は2002年の大統領選挙の二回目での立候補を放棄したのだが、「有効投票」という反射反応の利用に全力を上げ、そして候補者、セゴリーヌ・ロワイヤルは選挙の核心問題、すなわち購買力の問題を取り上げないという失敗を犯した。われわれは相対的成功である150万票(4・1%)を獲得した。結局、社会党の左に位置した候補者たちは痛い目にあった。共産党候補者は1・9%、ルット・ウーブリエールは1・4%だった。
 こうした状況の下、社会的・政治的文脈を重視し、そしてわれわれが絶好の結果を得たがゆえに、われわれ、LCR指導部は特異な責務を負ったのだ。

 ルット・ウーブリエールの経験はまた言語多彩である。二度、1995年と2002年、彼らの候補者は投票の5%という敷居を越え……そして何ものにもならなかった。ある段階を過ぎれば、かつてあった期待感は、それへの回答を見つけ出さなければならず、それは高価な代金の支払いということになるのであろう。にもかかわらず困難にめげず最後まで頑張るというならば、他の道、すなわちそれを率いる集中的な力、要するに党を必要とするのである。
 そして、この党はLCRではあり得ない。その歴史的な身分証明、トロツキズムの故に、1970年代に始まる、極左翼組織はこうあるべきだというある種のコンセプションの産物であるが故に、LCRは度重なる変化にもかかわらず、変化の大きさに対応する十分な回答とはならなかった。2007年6月、わが全国執行委員会において、われわれは新反資本主義党の組織への呼びかけを行うことによって責務に応えた。

反資本主義新党への訴え

 新たな政党を作ろうという意志は別に新しくはない。1992年以降、「新たな時期、新たな計画、新たな党」の形で統合化されながら、われわれはこの計画を維持してきた。だが、見通しはどちらかと言えば、抽象的なものに留まっていた。とりわけ、いかなる形であれ前進する前の予備段階で、闘い抜く友を求めることは、もっとも控えめに言っても、実りははかった。
 この声明を発することによって、われわれはおそらく、ほとんど先駆者がいないであろう大胆な選択を行った。
 計画の中身がもっとも大事である、なぜなら訴えは明確に反資本主義の方向性の中にあったからである。それ以降、われわれの計画は実際には、一つの党の内部で、システムを転覆する意志を捨てていない人々を一体のものにするための状況を築きあげることとなった。搾取、支配、地球資源の破壊のシステムを終わらせること、これがわれわれの宣言した枠組みだった。社会党の左にある部隊には、他の諸問題も確実にあるが、だが綱領的側面に加えて、社会・自由主義者たちとともにブルジョア機構を機能させることに共同するのかしないのかが政治的結合問題の核心である。
 実際、社会党への対応という点で、人は実践的変化だと言うかもしれないが、この反資本主義の体系は厳格に独立的である。それは特に、ブルジョアジーの枠組み機構で社会党と共同統治をするようないかなる合意も拒絶するということを示唆している。政府機構では当然だが、省庁のような中間機構や地方レベルでも同じである。
 状況は、われわれが知るかぎり、反資本主義的位置を確認している多くの諸組織にとっての戦闘宣言である。これはとくにフランス共産党(PCF)の場合である。自ら認めているように、2009年、ヨーロッパ選挙のために、この党はジャーン―リュック・メレンフォンの左翼党(注1)と共同のリストを候補に担ぐ。非常に不十分な軸心の上に、である、付け加えれば。だが1年前、この党は地方議会勢力を維持するために社会党との組織的合意を取り付けようとした。それが多くの都市でのモデム(注2)との合意となったとしても。そしてこの党は2010年の地方選挙のために、同じ社会党との合意を求めていることがすでに宣言されている。この党が、22の地域のうち17地域で、地方政治の執行副次的位置を占めることを指摘されるべきであろう。
 国際的経験、ブラジルやイタリアのような、に照らせば、あるいはまったく単純にフランスでのきわめて破局的な政府形成の同盟のバランスシート(1981―1984の左翼連合、1997―2002の複数左翼…)を見れば、こうした社会党に対する独立性が絶対的に傑出した防衛策なのだ。しかし、この前提条件は論理的帰結を持っていることが真実なのだ。つまり、フランスの、社会党より左翼にとっての政治分野では、LCRとともに抗した計画を行おうとする国家的パートナーが存在していない。PCFのように社会党に従属的である故から、あるいはルット・ウーブルエールのようにセクト主義から、そうなのだ。社会党の位置取りは最近まったく途方もないものとなってきた。議員獲得を唯一の狙いとし、2008年地方選挙での奔放なご都合主義を発揮したり、時にはフランス社会民主主義の最悪の部分との合意(たとえば、最初のラウンドは、マルセーユでのゲリニ名簿に関する合意)を行ったりである。こうした後でのヨーロッパに向けて敷かれる方向性は、革命的左翼の流れを肯定することで満たされる。しかしながら、一つの定まったテーマがある、すなわち昨日のLCRや今日のNPAいは関係がないのだ。
 協同者の不在はわれわれが望むことではなく、方針をわれわれのためにより簡約化することを準備する他の諸組織がさまざまに存在することを望むのだ。われわれが、単に新たな形のLCRを望んでいるだけだという、時には善意ではない非難があったことを特に言っておく。もしそうであれば、資産が増えることにはなっただろうが。前へ進むことの緊要さと可能性とを確信して、われわれは、あれこれの組織との合意の存在を条件とするプロセスを条件とはせず、底辺から築き上げる過程を開始することで、出発することを決定したのだ。
 このアプローチは、労働者階級の運動を危機から脱出する道を探ることを狙ったLCRの以前の方針からの疑いない変化である。しかし、それはまたわれわれの側での相対的位置関係、つまり古きものと新しきものの間、労働者運動の再組み立てと再建との間、それらの相対的位置関係の進化的発展に結びついている。過去を白紙状態へと精算するという問題ではないし、そして多くの政治的、労働組合およびその諸機関は反資本主義政党建設の支援拠点になり得るのである。もちろん、組織的慣性力がわれわれの前への動きを妨害せず、さらにオールドの部分が新人たちを窒息させないという当然の条件の下での話だが。そして新たなことを起こすためには、新たな力が必要である…。それが、われわれが訴えを出した理由である。
 最近7年間の大衆動員は、自ら参加する準備をした勢力が存在し、過激派の活動家たちの新たな層、労働者階級の新たな層があることを示した。訴えをもって、われわれは最初の政治的代替案の建設に向け、強固に踏み出すことを可能にした。

最初の経験、LCRにおける同意

 2007年6月に出発し、2008年1月のLCR17回大会に至る期間は、LCR内部での広範な合意の形成と新党のための最初の経験という特徴を持っていた。
 訴え(アピール)の後の全国委員会の最初の挑戦は、このアピールに対するLCRメンバーのもっとも広がりのある強力な支持を勝ち得ることにあった。DNにおいてはきわめて広い合意がなされていた。2006年1月での前回の大会に出席した五つの潮流のうちの四つが含まれた。組織化は、結成過程に入る中で十分に納得されるということの確認は維持されていた。こうした計画、おそらくは野心ですらあるが、これを遂行するに当たっては、快適な過半数以上の多数では十分ではない。メンバーとなることに対しての熱狂性といった、出来る限り最大的な後押しの獲得が必要なのだ。それはもちろんいつも可能だとは言えないし、そのためには討論と説得のための時間がかかるが、2008年1月、ほぼ83%の同盟メンバーがこの方向性を支持した。
 これと平行して、運動の現実における最初の経験の発展と成功は、われわれが誤った選択をしなかったことを示した。必要としていた新党結成への支援は断固としており、時にはわれわれの希望を越えることもあった。
 細目を語ることはここでは出来ないが、しかし課題に関するフランソワ・クースタルの本(3)を読むことは有益である。しかし、こうした最初の経験は、新党に向かう諸委員会を成功させるであろうすべての要素を、すでに集約した。最初の要素は社会的注入の広がりであり、それはLCRが何をなすかについて使い慣れてきた共通的尺度とは関係がないものだった。はじめから労働組合の活動家たちは、ある人は一定部門の責任者レベルにあったが、進行過程に加わった。これは、とりわけてマルセーユでの経過であるが、そこではLCRが主導権を発揮したが、しかしまた、オート・ライン県のミュルーズ地域では、そのように言われなければならないのだが、新党過程は完全にわれわれから独立したものだった。これら二つの場合において、NPAの計画は、地方グループの潮流やさまざまな軌跡をたどってきた流れの関心という反響を引き起こしたのだが、そのアピールはLCRが発したものだった。
 二番目の要素は、どこでも確認されたのだが、環境社会主義と言われるだろう部分の関心の登場である。LCRには環境部会があり、この数年、活動を重ね、極めて真剣な人材を生み出してきた。だが、環境社会主義の側面が占める場は、後知恵としてではなく、あらゆる分野に存在する何ものかとして、はじめから明確だった。第三の要素、現在それはいまだ 萌芽状態ではあるが、しかしながら現実的なものであるが、一般大衆の居住地域への社会的植え込みの発展である。こうした観点から見るとき、仕事はなされたが、まだ弱々しいものであり、同盟は、そこでの難問に気づいてはいるけれども、LCRにとっての社会学的な現実においてのチャンス、好機の到来なのである。

後戻りできない選択

 83%の広範な多数勢力の結集や最初の経験の成功を土台に、われわれは2008年1月のLCR大会で総力を闘いに投入することを決定した。結局、2008年末か2009年での新党の結成の日付を決定することは、すなわち、同盟(LCR)解散の日付を決定することであり、われわれは引き返すことの出来ない選択を行っていたのであり、それをわれわれは知っていたのだ。
 2008年は計画が現実的に進む年であるが、同時にLCRからNPAへの漸進的転換の時でもあった。LCRにとって勝利的現実となった地方選挙が終わるや否や、数多くの委員会がフランス全土で沸き返った。しかし、そうしたことがあまりにも急速だったために、300から350の間にあったローカル委員会が存在したが、進行過程を監督する全国委員会はLCRの指導下にあった。これが理由でわれわれは2008年6月末に全国会合を提案したのである。
 それぞれの委員会同士の接触を図ることが狙いであったが、二重の課題を持っていた。一方では、アピールがもはやLCRの正当な所有物ではなく、建設過程にある党、NPAを目指す全国運営委員会会合の所有であること、そして他方では、結成総会までの間、すべての委員会を指導する全国機構を出発させることにあった。賭けは大きな成功を収めた。そして真実を伝えるならば、われわれの見通しを超えた。およそ330から350の間にあった委員会からの代議員800人は、新たなアピールを採択し、そして全国組織集団(CAN)を出発させた。それの役割はそれ以降、結成大会までの、委員会の全国行動を組織し、調整することだった。ついでに言えば、われわれはLCRがCANの中で少数派になる決定を行ったことに注目しよう。この全国組織集団は、その皿に沢山のものを盛っていた。その最初の会合は7月はじめであり、その次は8月のLCR夏学校の間であり、さらには最初の草案文書を作り、メンバーや委員会の間の民主的討論を組織するための条件を作り出さなければならなかった。
 そこで、実際的な構成調整問題の局面、すなわち、CANと委員会との間の継続的対話の局面となる。何百もの修正案が提出された。11月に組織されたので、全国委員会会合では、三つに統合化された草案が提出されるところまで至ることができたのだが、再び委員会に配布され…そしてさらなる何百もの修正案を導いた。こうした状況は、討論に参加するすべての人が文書草案を実際に評価するようにすると共に、共通事業の周囲の、ことなった歴史、軌跡、そして経験をセメント固めするするためであった。
 これは草案をめぐった問題であったが、共通の実践的行動をめぐっても行われた。活動家集団の党としてNPAは発展するにつれて、次第に異なった関与を築き上げた。次第にLCRの戦闘的活動は、新党に向かうさまざまの委員会の活動に取って代わられた。実際、秋の間、LCRの多くの部門や細胞は政治的討論の場であることを止め、その会合は解散大会準備以外の何も討論することがなくなった。これは急速な発展であった。

結成大会―直接民主主義の執行演習

 87%という大差の投票で組織解散を決めた2月5日のLCR大会の後、NPA大会が開催された―長い構成要素のための過程の頂点。集まりには真剣で注意深い人々が1000人以上が参加し、代議員が650人を越えたということは広く注目された。三つの草案(結成理念、規約、方向性)のそれぞれに関する数百に達する修正案を厳密に扱うやり方は、ほとんど対抗するものがいない直接民主主義の執行演習の経験であった。
 ここでNPAの結成大会で決定されたさまざまな決定を思い起こすことは出来ないが、採択された草案のすべてや、同様に撮影された3日間の大会模様のヴィデオは、NPAのサイトで見つけ出せる(注4)。しかしわれわれは伝統的であることに留まろう。というのも、党そのものがあらゆる構想の第一に位置するし、われわれが「結成理念」と呼ぶ、いくつかの要素を簡約に扱っているからだ。
 NPAは自身を革命党とは定義しないが、「社会に革命をもたらす」ことを欲する政党として定義する。ある人々は、意味論的トリックに過ぎないと見たく思っているが、現実はまったく違う。
 革命党規定の背後には、それを理解するいくつかの方法が隠されている。ある人々には、そしておそらくは、人々にとってもっとも共有される意味であろうが、革命という背後にはフランス革命やパリコンミューン、1936年6月、1968年の5月すらもある。LCRが所属する革命的潮流にとって、定義はより狭義である。つまり、革命党は革命を引き起こすための綱領と戦略を持った政党である。こうした条件下で、わが計画を考慮しつつ、社会を革命化するということは、一つの陣営を定義することを可能にする。すなわち、革命という目的を達成する戦略的仮説をさらに進んで考えることまでには至っていないが、このシステムを打ち倒すという考えを放棄していない、そういう人たちの陣営である。他方では、結成原則は明らかに、マルクス主義のひらめきに他ならず、それは国の状況のあり方に関する重大な質問と関連することを含む。わが綱領は、国家とその機構はブルジョアジーの道具であり、それらは政治的・社会的変容に奉仕することはなく、それ故にそれらは廃止されなければならない、ということを示している。
 NPAは同時に社会主義のために闘う組織である。わが結成原理は、「資本主義の世界的な危機に対する唯一の回答、人類の将来が依存する闘い、21世紀の社会主義、民主主義、環境主義、女性解放主義の闘いである」と示す。「社会主義」、「環境社会主義」および「21世紀の社会主義」との関係で少々ためらった後の後半に、選挙によってと銘記されている。だが、環境主義的側面が強く存在し、正しいアプローチをもって、もし惑星が存在し続けるとすれば、あり得るのは社会主義のための闘いが唯一であると…。

NPA、国際主義、第四インターナショナル

 新反資本主義党は結成趣旨に忠誠に、将来的にはそれ自身の政策と国際関係を持つことになろう。しかし、政党であるが故に真に国際主義者であり、そしてフランスにおける反資本主義勢力の発展は、ヨーロッパ、全世界での同様な発展無しには実現できないことを知っているが故に、NPAは反資本主義勢力の再結合事業を推進しているのである。その上で、わが結成主題の結論は、主題について明白であり、「わが党は全世界の資本主義と闘う勢力と結びつく。これが、NPAが世界の他の反資本主義や革命勢力と、新たなインターナショナル組織の視点を持っていかに対話し、協力するのか、の理由である」。
 明らかに、その実践的凝集、選択、建設方法には、フランスの社会的・政治的現実へ、フランスの政治的風景が形成される方式へのきわめて深い連関がある。それ故に、NPAはいかなる種類のモデルにもならず、またなることが出来ない。
 前LCRや第四インターナショナルの残りの部分両方との関連が懸念されてきたことは、真実である。国際的地位の重要性を考えれば、LCRの解散の選択は影響無しとはならない。NPAは、第四インターナショナルのフランス支部でもなければ、そうなることも出来ない。しかしながら、同盟の解散を決定した後でさえ、第四インターナショナルへのさらなる余地、影響のさらなる拡大がある。
 結成大会での外国人代表団の大きな数がこうしたことを示威するに充分である。百人以上が、70組織、五つの大陸の45カ国から到来した。こうした関心を引きつける力は、NPAの計画遂行が生き生きした力学を持っており、それが世界的な多くの組織や潮流の興味を引きつけたのだ。しかし、第四インターナショナルとそのネットワークがなかったならば、それらのすべてがあり得なかったであろう。
 今後の展望はいかなるものだろうか。結成大会は大きな成功だった。9000人を越えるメンバーたちとともに、NPAはすでにフランスの政治風景に登場することを求められる勢力である。しかし、大会が重要な、進化過程での重要な段階であるとしても、それは計画の建設と発展における現実の一段階に過ぎない。活動力学は持続しており、NPA形成以降の三週間、われわれは3000を越える接触を持ち、参加申し込みがあった。新党の現実性、その力学と資本主義的危機の深化は、フランス労働運動の相当な部門で、新たな結晶化と識別化の新たな過程へと導かなければならない。
 なによりも、国際金融、経済、食糧、そして環境的危機の重大性、世界不況が一般化している破局的な社会的影響に直面して、社会的憤激は拡大せざるを得ない。すでに重要な大衆動員が発展している。1月29日には250万の人々が街頭にあり、高等教育を受けた職員たちのストライキやさらに当然、グアドループやマルティニクでのゼネストが進行途上であった。この時点、すなわち2009年の始めにおいて、新たに生まれたNPAは極めて積極的な統一戦線方針を発展させている。1月29日の動員成功に続く動員やさらにグアドループの闘いの支援を求める11左翼組織の共同声明はNPAの働きかけの結果である。NPAにとってのもっとも緊急の任務の一つは、広範な統合を支える機構的効用であるが、だが平行してNPAは、自身の位置を守り、とりわけ300ユーロの全面的賃上げの要求があり、それへの反響は高まっている。
 グアドループでLKPによって領導されている模範的ストライキは、こうした要求が必要であり、かつ大衆的な大きな反響を生み出すだけでなく、部分的な勝利が可能だということを示している。2009年6月の次期ヨーロッパ選挙もまた重要な日程である。それは、このような選挙は、資本主義危機の社会的影響をもろに受けるからである。
 失業の急激な上昇や準備中の首切り攻撃に直面して、1957年のローマ条約以降のヨーロッパ組織、の解体、資本主義システムの明確で恒常的な解体を目指す計画の防衛が必要である。ここでは、過去におけるような一選挙に長い労力を注ぐことが出来ない。あるのは、危機の深さに対応した罵声をあげることに留まらず、絶望からの反射反応を防衛し、現実的な社会的・政治的対抗軸の出現を防衛しなければならない。他方では、こうした選挙を通じて、ヨーロッパでの統一的な反資本主義の協同力をつくることは疑いもなく可能だ。協同関係はこの局面では疑いもなく部分的、一時的なものとはならず、最初の段階を前進させる力を発揮しているはずだ。
 反資本主義の感情や途方もないシステムへの政治的代替案への検討はこの国で発展している。しかしながら、われわれは、新たな組織の不安定性に満ちた状態でもって、この時期に対応しつつある。組織はその綱領と位置関係において、システムの急進的な解体に向けた熱意を部分的に引き連れることは出来る。そうすることによって、われわれはNPAと共に、今日の政治的な問題全てに回答することができるのだろうか。回答は明らかに「否」である。展望は、大衆的な反資本主義の党が社会的・政治的諸勢力との新たな関係を作り上げる能力はいかがなものか、ということにかかっている。仮に、状況によって与えられる加速の要素が押さえ込まれないとしても、それには間違いなく時間がかかる。
 だが、問題を変えよう。もしわれわれがNPA組織という組織と共に、重要な敷石を踏み越え、新たなステージに入ったとしたらどうか。疑いなく、それは事実である。NPAを取り巻く生き生きした力学を増大させ、フランス労働者運動から来る新たな伝統と協同することができるようにし、その上で、われわれの実践の活動と要求で、来るべき大衆動員を激励する。これは挑戦である。任務は疑いなく簡単ではない。だが熱意はわれわれを満たすだろうし、われわれは準備が出来ている。
※筆者はLCRの前政治局員であり、NPAの政治委員会に結成大会で選出された。彼は第四インターナショナルの国際委員会のメンバーである。
注1)左翼党(PG)は2008年11月に発足した。上院議員のジャン―ルク・メレンフォンと下院議員のマルク・ドレツによる。彼らは社会党を離脱し、二人とも、上院と下院で、PCFが作った議会勢力に参加した。11月18日、PGはPCFとともに「リスボン条約と現行のEU条約の批准に反対し、民主主義的で社会的な別のヨーロッパのための左翼戦線」を、2009年のヨーロッパ選挙に向けて組織した。ほかの二人の議会的独立派、ジャック・デサラグレ(下院議員、テルニエール市長)とフランソワ・オーテイン(上院議員)はPGに加わり、それはそのランチパーティーを11月29日にオスカー・ラフォンティーヌ(ドイツ)の出席のもとで開催した。そして2009年の1月30日から2月1日にかけて、ランチ大会を開催し(600人代議員)、憲法採択や経済危機への緊急対策、ヨーロッパ選挙への戦略を決定した。PGの綱領検討の大会は2009年の秋と表明された。
注2)民主運動(モデム)は2007年にフランソワ・バイロウ(彼はそれ以前はフランス民主主義同盟・UDFの代表を務めた)によって、サルコジに対抗してバイロウが立った大統領選挙の後に結成された。モデムは自己を中道主義、社会―自由主義、ヨーロッパ主義と規定し、サルコジの党、UMPへの参加を拒絶する自由主義的右派部分を構成している。
注3)フランソワ・クースタル。「新反資本主義党の歴史」。2009年、パリ。
注4)http://www.npa2009.org
(「インターナショナル・ビューポイント」電子版4月号。)

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